Comments
Description
Transcript
第10号 - 滋賀県
平成23年 3月19日 【編 集 発 行】 『滋賀の教師塾』事務局 第四期【第10号】 「本県の図書館と子ども読書活動」 【100年前の3月】 倉橋惣三、日本児童研究会総会にて東京市 内小学生の読書調査を報告。単行本の1位 はお伽話、以下伝記物、歴史物の順。 【第11回教師塾開催について】 ー教育実践講座Ⅰー 平成22年度、本県には「図書館法」に基づく公 時:平成23年4月23日(土) 立図書館は、県立図書館も含めて48館、財団法人 ◎日 受付 午後12:20 開始13:00 の運営によるものが1館あります。平成の大合併に より自治体の数よりも多くなっています。「学校図 ◎場 所:滋賀県総合教育センター 書館法」並びに「学校教育法施行規則」「設置基 4階研修室A他 準」に基づく図書館、あるいは図書室は、一部に併 野洲市北桜:希望ヶ丘公園西ゲート横 設もあり小学校236校と中学校107校で341 ◎交通手段:JR・野洲駅下車 近江鉄道バス乗車 館、高校60校、特別支援学校15校に設置されて 花緑公園行き 臨時12:00 予定 います。「大学設置基準」「短期大学設置基準」に 定時12:06 基づく図書館は、県内10大学と4短期大学に設置 されています。 総合教育センター前下車 徒歩3分 どの図書館も活発な活動を行っていますが、その 復路はセンター前発 臨時17:15 予定 歴史や書庫の大きさ等により蔵書数が大きく異なっ 定時17:32 ていました。そのために検索システムの充実による ◎内 容 地域差の解消が図られてきました。 Ⅰ講 義:「授業づくりの実践」 「子どもの読書活動の推進に関する法律」に基づ く「子ども読書活動推進計画」が、国や地方公共団 講 師:滋賀県総合センター研修指導担当 体により策定されています。本県は、平成21年度 Ⅱ演 習:「指導案づくりの基本と実際」 から第2次計画に入りました。子どもの読書活動の 講 師:滋賀県総合センター研修指導担当等 推進に関する施策の方向や取り組みを示し、市町の 小学校6班 中学校4班にて実施 同計画策定の基本ともなるものです。家庭、地域、 学校の子どもの読書活動推進における役割について も、方向付けがなされています。 「読み聞かせ会」や「朝の読書」等による読書活動の推進は、「児童生徒が言葉を学び、感性を磨き、表 現力を高め、想像力を豊かにし、人生をより深く生きる力を身につける上で欠くことが出来ない」ものと言 えます。 第9回教師塾の感想と評価 」 講義・演習Ⅰ・4.72 ▼ 「いじめ」の対応について深く考えることができた講義でした。いじめ から子ども達を守るために教師は、児童一人ひとりとの日常の関わりを大 講義・演習Ⅱ・4.67 切にしていかなくてはいけないということを、肝に銘じておこうと思いま (5段階評価) す。また今回の事例のように教師も子どもに苦痛を与えてしまうことがあ るということを知りました。(小S男) ▼ いじめに対する自分の考え方や感じ方を見直す良いきっかけになったように思う。現状を知り、教師の 危機意識・気づき・・見守りの重要性に改めて気づかされた。子ども達との日々の関わりを大切にすると ともに、子ども達のために何をすべきかということを考えて行動できるようにしたい。(小S女) ▼ 事例をもとに、いじめ対応・防止に関する内容を個人やグループで考えることができたので、今後その 内容を活用していくつもりです。しかし、十分に注意していても失敗してしまうのが人間です。それは子 どもも教師も同じだと思いました。教師自身の失敗を認めることも大切な事だと実感しました。(中A女) ▼ アセスメントとプランニングは簡単なようで実はものすごく奥深いものだと感じた。演習①で、私は保 護者としっかり話をする機会を設けることを一つだと考えていたが、実際それはすごく難しいことが分か り、こういったことは経験を積まないとできないことだと、改めて感じた。自分の思うようにいかないか もしれない時も多いと思うが、めげずに努力することを怠らないようにしたい。(小S女) ▼ 滋賀県は、全国と比べても多くの不登校児童生徒がいることを、初めて知った。私の研修先の中学校に も多くの不登校生徒がいたのであるが 、その対応に先生方はおわれていた。このような実体験からも不 登校の生徒に対してどのように接したらいいのか、どう解決していけばよいのかを深く考えていかなくて はいけないと思ったので、この講義は有意義なものとなった。(中S男) ▼ まず滋賀と全国を比較した時、滋賀の不登校の人数の多さに驚いた。アセスメントによって不登校の原 因を探り、子どもを理解するが、要因は非常に多く、難しい作業になると思う。さらにプランニングも子 どもの理解の上に成り立つものであるため、日々子どもを理解し、その気持ちになれるよう努めたい。 (中S男) [事務局長の独り言 13] 感染症と学校保健安全法 ーその1ー はじめに 平成20年(2008年)6月に「学校保健法」が改正され、題名を「学校保健安全法」と改称、翌年4月1 日より施行されました。その「第二章 学校保健」の「第四節 感染症の予防」は、以前は「第三章 伝 染病の予防」と記されていました。したがって施行令が「学校保健安全法施行令」に、施行規則も「学校 保健安全法施行規則」と変更される中で、各条文中の「伝染病」が「感染症」へと変更されました。平成 9年に国立予防衛生研究所(北里柴三郎の明治25年1892年創設伝染病研究所が明治32年に内務省国立 伝染病研究所に、さらに大正3年文部省に移管され大正5年1916年東京帝国大学附属伝染病研究所、その 建物内に昭和22年設立)が国立感染症研究所と変更されたのが平成9年(1997年)、明治30年(1897年) 制定の「伝染病予防法」と「性病予防法」「エイズ予防法」が統合される形で「感染症の予防及び感染症 の患者に関する法律」が制定されたのが平成10年のことですから、その後も、10年間、学校では伝染 病という言葉が使われ続けていたことになります。伝染病という言葉は、現在では「家畜伝染病予防法」 関連で用いられているだけになっています。人間が感染する病気が、伝染病から感染症へと変更されたこ とについては、疫病という言葉も含めて言葉の意味そのものには違いはないとのことですが(岡田晴恵 『人類vs感染症』岩波ジュニア新書2004年)、様々な差別を生んでしまった過去の政策への反省と、新し い感染症への迅速な対応あるいは医学の進歩に対応するための決意表明と言えるかもしれません。ここに 至るまでの経過を、少したどってみます。 海により隔離されていた地域に伝わった感染症 1 中南米 ギリシア語起源の、風土あるいは局所的な感染症endemic、地域に拡散した感染症epidemic、世界中に 拡散した感染症pandemicという言葉があります。風土病的な感染症が地域全体、さらにそれ以上に大規模 に広まっていくことは、シルクロード等でつながれ人や動物が往来していたユーラシア大陸では、何度も 繰り返されてきました。ペストの大流行が、よくその例としてあげられます。 外部世界との交流がほとんどなく海により隔離されていた地域に、人や動物が船に乗って感染症を伴っ てやって来ると、免疫がないために大流行することがよくあります。15世紀以降、スペインやポルトガ ルのコンキスタドーレスが中南米にもたらした、天然痘や麻疹、インフルエンザ、マラリアが、その例で す。ヨーロッパ人とは違って、こうした感染症に対する免疫が誰にもなく、いわば無菌状態のような隔離 地域にあっては破壊的な結果をもたらしました。奴隷労働による栄養不良を下地に周期的に大流行が繰り 返され、絶望感による反乱や自殺も伴って、インディオと呼ばれた原住民人口が激減しました。アフリカ 系黒人奴隷制度の導入は、このことが契機になったとも言われています(E.Wolf “Europe and the People Without History.” University of California Press 1982. N.ボーダン「神と黄金と栄光と」『図説探検の世 界史3』集英社1975年、E.ウィリアムズ『資本主義と奴隷制』理論社1968年)。 海により隔離されていた地域に伝わった感染症 2 日本 徳川幕府は、日本人の海外渡航を禁止する「海禁政策」をとっていたため、外国人の渡来はごく少数に 限られていました。インドの東部で局地的(風土病的)流行エンデミーを繰り返していたコレラは、19 世紀に入ると、突然、地域的流行エピデミー化し、ついには世界的流行パンデミー化しました。我が国に 初めてもたらされたのは、文政5年1822年と記録されています。次は開国後の安政5年(1858年)にアメリ カの軍艦ミシシッピー号が中国から持ち込んだとされています。文久2年(1862年)、明治10年(1877年) の流行は、中国からアメリカとイギリスの軍艦が持ち込み、以後は明治15年、19年、23年、28年 と国内初発、あるいは中国からと、流行を繰り返しました。 それ以前から我が国で流行を繰り返していた痘瘡(天然痘)については、6世紀中頃に初めて大陸から九 州に伝わったとされ(岡田晴恵前掲書)、奈良時代における藤原4兄弟の感染死は、歴史的な事件とされ ています。麻疹についても、同じ経路をたどってやって来たと思われます。幕末、大坂適塾の主宰者であ る緒方洪庵らが、イギリスのジェンナーに始まる種痘を行って予防に努めますが、明治に入ってからも、 7・8年、19・20年、25・26年と大流行を繰り返しました(立川昭二『病気の社会史』NHKブ ックス昭和46年、現在は岩波現代文庫所収)。 「日本近代の朝はコレラの洗礼とともに明けた。コレラだけではない。痘瘡・赤痢・腸チフス・ペスト などの急性伝染病が、文明開化の潮にのり、大波となって日本を呑みつくした。」と、立川昭二氏は、述 べています。赤痢は明治16年(1883年)にもたらされ、明治26・27年には全国で猛威を振るい、やが て風土病のようになっていきます。腸チフス・ヂフテリア・インフルエンザが加わり、明治32年には、 突然ペストが侵入、以後小流行を繰り返します。また、以前は労咳と呼ばれていた結核が、社会の変動に 伴って大流行するようになります(立川昭二前掲書)。 明治初期の教育法令中に見られる感染症対策 欧米諸国に倣って教育制度の近代化が急がれる中で、学校という集団教育の場での感染症対策は、喫緊 の重要事になりました。明治5年に制定された「学制」には、「第二百十一章、小学ニ入ルノ男女ハ種痘 アルイハ天然痘ヲ為シタルモノニ非レハ之ヲ許サス」と規定されています。明治12年に制定された「教 育令」には、「第四十四条 凡児童ハ種痘或イハ天然痘ヲ歴タルモノニ非サレハ入学スルコトヲ得ス」 「第四十五条 伝染病ニ罹ルモノハ学校ニ出入リスルコトヲ得ス」と規定され、「小学校入学児童に種痘 を行い、伝染病の児童の登校を禁ずるなどの措置をとっていた。」ことがうかがわれます(文部省『学制 百年史』帝国地方行政学会昭和56年、〃『学制百年史 資料編』昭和57年)