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「遊び」はどう変わったのか?

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「遊び」はどう変わったのか?
2013 年度後期社会学 IV 学期末小論文
「遊び」はどう変わったのか?
関係する回:6.映像化社会、7.音楽化社会
1.
はじめに
現代日本では生活水準が上昇し、様々な「遊び」が登場している。カイヨワ(1958)[1]が
遊びを定義してから 50 年以上が経ち、新たな遊びについての定義を確立しなければならな
い。本稿では従来の遊びに関する議論との相違点を明らかにした上で、現代社会の特徴を
踏まえた新しい遊びの定義を打ち立てることを目標とする。
2.
従来の遊びの定義
カイヨワ(1958)によれば、遊びの定義は次の 6 つとされる。①自由な活動・②隔離された
活動・③未確定の活動・④非生産的活動・⑤規則を持った活動・⑥虚構の活動。一つ一つ
について、現代でもこれらの定義が当てはまるかどうかについて考察する。
①自由な活動とは、
「遊戯者が強制されないこと」を意味し、あくまでも自分の意志で行
動していることが条件である。
②隔離された活動とは、時間と空間が日常生活と区切られていることである。
③未確定の活動は「ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分っていたりしてはな
らない。創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていな
くてはならない」ということだが、これは遊びの本質とは無関係である。労働が全てルー
ティンワークであるはずはなく、新商品を開発したときにそれがどれぐらい売れるかは未
知数である。未確定であることは遊びの条件とは関係がなく、その活動の面白さに関係し
ているととらえるべきである。
④非生産的活動とは「財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと」とされ
ている。しかし個人用 PC が普及した現代ではこの定義は必ずしも成り立たない。映画を観
た感想をブログに投稿したり、作曲してみたりすることが遊びではないというのは現代に
は当てはまらない。
⑤規則を持った活動については①自由な活動と矛盾するように思えるが、これはその遊
びをしている人の中でひとつの言語ゲーム(ウィトゲンシュタイン)が成立すると考える
と理解できる。
⑥虚構の活動とは「日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であ
るという特殊な意義を持っていること」であるが、これは映画が映画館でしか観れなかっ
た時代のことである。現代では映像が日常化しており液晶ディスプレイが家庭内・職場・
街中などあらゆる場所に設置され、さらには携帯して持ち歩くこともできる。さらには現
実世界を反映した作品もあり、この定義は必ずしも当てはまらないと言える。
3.
60~80 年代の遊び
60 年代から遊びの理論が急に勢いづいてくるが、その原因は井上[2,p160]によると、資
本主義によって金儲けの為にレジャーをブームにしようとする動きに反発するために、そ
れを批判するために自由な活動である遊びを重視するようになったと考えられている。私
は、この遊びにお金を掛けたくないという部分は形を変えて現代でも有効であり、のちに
言及するが「効率化」に近いものだと考えている。
さらに井上[2,p161]によれば、八十年代に入ると大量消費社会になり、仕事と遊びの境界
があいまいになり、人間にとって快適な状態は仕事と遊びで共通であるという M・チクセ
ントミハイの「フロー理論」が注目されるようになったという。私は仕事と遊びの境界が
曖昧である言説は現代まで続いていると考えている。
4.
現代の特徴
現代の特徴は情報化社会である。ここでは情報化社会の特徴の中でも、効率化と技術の
発展を問題とする。
効率化とは、仕事において単位時間当たりの生産量を重視するということだが、これが
遊びでも表れていると考える。後藤[3,p471]は「単位エネルギー当たりの幸せ」という概念
を提唱している。製作者は同じ作るのであれば低コストで生産でき、音楽など繰り返し視
聴してもらえるコンテンツを製作するようになる。消費者側も、作品が供給過多の状態に
なり選べる状況になるため、消費者は楽に手に入りコストのかからない中で質の高い作品
を求めるようになる。音楽の情報化による「一億総クリエータ時代」がもたらすものは、
職業としての音楽をするには非常に高いレベルのものが要求されるということである。
そしてもう1つの技術の発展とは、ボーカロイド・Auto-Tune などの便利なソフトが個
人でも手に入れられるようになり、今までは専門家しかできなかったものがアマチュアで
もそれなりの品質のものであれば製作できるようになった。これは遊びの範囲が生産的な
活動にも及ぶきっかけとなった。
5.
考察
私は現代においては、生産者のうち成績上位者が仕事、成績中位以下と消費者が遊びで
あると定義する(図 2 参照)。従来は生産者=労働者、消費者=余暇とはっきり分かれていた
(図 1 参照)が、技術の発展により遊びで生産することが可能になったこと。そして効率化が
遊びにも適用されたことによって、生産されたもののうちお金を払う価値のあるものが限
られてしまい、仕事として成立するのは優秀な一部の作品になった。
人々が「余暇」として楽しむものを仕事として供給しようとするとき、非常に高品質な
ものが求められるようになる。この傾向は、それが文化として成熟する代わりに、中途半
端で素人と変わらないものは淘汰される厳しい時代がやってくるだろう。現在のところテ
レビゲーム・音楽・映画・小説などの娯楽はまだまだ商売として成立しているが、そのう
ち消滅する職業も出てくるかもしれない。(個々の事例については付録を参照されたい)
図 1:従来の仕事と遊びの区別
カイヨワの遊び論の前提であった、生産=労働/消費=遊びという二項対立が現代社会にお
いては崩れつつあることを指摘し、「生産的遊び」という新しい「遊び」概念を提唱してい
る点が興味深い。
「成績」という比喩は「作品の品質・価値」を意味しているのだろうが、必ずしも「プロ」
の作品の方が高品質とはいえなくなった現状をうまく説明している。
図 2:現代における仕事と遊びの区別
文 献
[1]ロジェ・カイヨワ, (翻訳)多田 道太郎, 塚崎 幹夫,「遊びと人間」, 講談社学術文庫
[2]井上 俊,余暇学の可能性,余暇学を学ぶ人のために,世界思想社,p158-171
[3]後藤真孝 他, 特集「CGM の現在と未来:初音ミク,ニコニコ動画,ピアプロの切り拓い
た世界」
(解説 5 件),情報処理(情報処理学会誌),Vol.53,pp.464-494 (May 2012)
付録
事例集
生産的な遊びが台頭したことによって仕事とするには高水準のものが要求されるようにな
ったもの
1. テレビゲーム:昔はファミコンにある簡単な 2D アクションゲームが売れていたが、今
ではスマホ・パソコンで無料でそれと同程度のものが遊べてしまう。現在の家庭用ゲー
ムは高密度なポリゴンを駆使した 3D ゲームが主体となっている。
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