...

(翻訳)民主的なガバナンスにおける市民社会の役割

by user

on
Category: Documents
5

views

Report

Comments

Transcript

(翻訳)民主的なガバナンスにおける市民社会の役割
翻 訳
民主的なガバナンスにおける市民社会の役割
講演者
ジョン・フリードマン氏
訳 者
重 森 臣 広 はじめに
Ⅰ.市民社会とデモクラシーの伝統
Ⅱ. 市民社会論の再興
Ⅲ.市民社会論の四つの潮流
Ⅳ.市民社会の行方
Ⅴ.むすびにかえて:日本における市民社会の可能性
はじめに
本日の講演でお話ししたいことは、民主的なガバナンスにおける市民社会の役割についてです。
市民社会の概念は、日本の方々にとってはやや馴染の薄いものではないでしょうか。また、私がこれからお話ししよ
うとすることをうまく伝えるためには、巧妙な翻訳作業のようなものが必要かもしれません。もっとも、異文化間でコ
ミュニケーションを行なおうとするとき、たとえば西洋文化から東洋文化へのコミュニケーションや、逆に東洋文化か
ら西洋文化へのコミュニケーションを行なおうとするときがそうですが、しばしば私たちはこの種の翻訳作業を余儀な
くされます。歴史や言語や伝統のちがいがコミュニケーションを難しくするわけです。私たちが自国で当り前のものと
みなしている伝統にしても、ひとたび異なった歴史的記憶をもつ人々にこれを理解してもらおうとすると、丹念に表現
を選択したり、入念に説明することが求められます。たとえば、私にとって都市が自治的な協働団体であることはごく
当り前のことです。つまり、都市とは、広範囲にわたる公共的な争点、たとえば基本的な社会資本をどうするか、社会
サービスはどのように供給するのか、住宅政策をどうするかといった実に広範な争点に関して自己決定をなす能力をも
つ地域団体のことに他なりません。ところで、私が「都市」というものについて考えるさいに、まず頭に浮かんでくる
のは、いまから 2500 年程前の古典期ギリシアのアテネのことです。アテネは地中海沿岸に位置する自治的な都市国家
でした。それはまたデモクラシー発祥の地でもあります。次に私の頭の中をよぎるのは、それから 1200 年の時間をま
たいだ北ヨーロッパのハンザ同盟として知られる諸都市の富裕な自治団体です。ロンドンやリューベックをはじめとす
る同盟諸都市は、環境そのものはまったく異なっていましたが、まさにギリシア的な自治理念を再来させた自治団体で
あったのです。ハンザ同盟の諸都市は、数世紀にわたって独立した自治団体として繁栄しました。その後、長い期間に
わたりヨーロッパでは君主制が優勢になります。17 世紀には国民国家が誕生します。しかし、これらの自治団体はそ
うした時代にも生き残りました。さらに、もう一度、時代を大きくトリップしてみましょう。すると私の頭の中には、
ちょうど私が生まれた頃ですから、今から 80 年近く前の私の出生地であるウィーンの様子が浮かんできます。ウィー
ンは小さな共和国の首都であり、ベルサイユ条約後も大ハプスブルク帝国を彷彿とさせてくれる、自治の誇り高き伝統
をもつ都市です。
−123−
民主的なガバナンスにおける市民社会の役割(講演記録)
領域に留まることになります。
二つめの市民社会理論のモデルを打ち出したのは、ドイツの政治哲学者、ユルゲン・ハーバマスです。ハーバマスは、
この理論モデルを、博士学位論文の議論を展開する中で提起しました。この論文は、フランス革命後の西欧社会におけ
る公共圏の盛衰を主題とした研究です。ハーバマスによると、公共圏は、民主的な政体の共通の関心事として生まれて
くるすべての事柄を包含することになります。その原型とみなしうるのは、アテネのアゴラ(広場)であり、そこは民
衆(といっても男性である市民に限られていましたが)が時の争点について語り、論争する場でした。18 世紀末のフ
ランスおよびイギリスでは、台頭しつつあったブルジョアジーが次第に政治的にも発言権をもつようになり、新聞の普
及、コーヒーハウス、文芸サロン、「自由に浮遊する」知識人に発言の機会や場を見出していったのです。このような
歴史的なプロセスを基本に据えながら、ハーバマスは市民社会を、あれこれ方法は異なるものの、そうした会話に参加
する人々のことであると理解しました。ただし、ここで想起しておいて欲しいのは、民衆による会話がすでに様々な自
由の中でもとりわけ言論の自由、結社の自由を前提としていること、つまり、ある特定の政治生活の形態を前提として
いることです。これらの条件が整っていないところでは、ハーバマスの市民社会モデルは適用できないのです。
学位論文の中でハーバマスは西欧社会における公共圏の生成だけでなく、その衰退についても論じています。とくに
彼が嘆いているのは、ハーバマスが生きているその時代に、公共圏に代わって政治的支配階級と国家による公論の操作
といった事態が進行していったことです。ハーバマスの市民社会概念には他にもたくさんの問題があります。これらの
問題はすべて、何らかの意味で、社会的な影響をもつ権力の配分が著しく不均衡であることの結果だといえます。です
から、ハーバマスの公共圏は、あまりにも理想的な対話型の市民社会モデルだといえるかもしれません。もっとも、お
そらくはそれが理想的であるがゆえに、現実の社会的実践を評価するさいのテンプレートもしくは規範として有用だと
もいえます。別の解釈もありえます。これはもっとラディカルな解釈で、ハーバマスの市民社会モデルは、開かれた対
話に基盤をおくモデルであるよりも、政治化された人民が構造改革を求めて政治的支配階級に圧力の集中砲火をあびせ
る対抗的もしくは闘争型の市民社会モデルだとする解釈です。この場合、構造改革というのは、少数者の側に蓄積され
た権力を制限し、政治的討論への広範で効果的な参加をごく普通の市民に可能にするような改革のことをさしています。
第三の市民社会モデル、すなわちグラムシのモデルは、ヘゲモニー(覇権)の概念に基礎をおいています。イタリア
の共産党の理論家であり、長期にわたってファシストによる投獄を余儀なくされ、そしてついに 1935 年に獄死したグ
ラムシは、彼の有名な遺作である『獄中ノート』の中で、つぎのような分析的な問題を提起しています。いったい、西
欧におけるブルジョアの政治体制は、明示的な強制や暴力に訴えることを最小限におさえながら、どのようにして、自
らの権力を維持することができているのだろうか、この問題です。グラムシの回答はこうでした。ブルジョアジーは、
既存の権力的諸関係の体系が正統であることについて広範にわたる社会的合意を構築することによって、ブルジョア・
イデオロギーのヘゲモニーを社会に賦課することができているのだと。ブルジョアがこんな芸当をやってのけることが
できるのは、公共的なメディアがあるからです。たとえば、教育のための装置、娯楽産業、広告などがそれにあたりま
す。これらはみな、多かれ少なかれ、支配的な社会システムを支持するように配列されているのです。もちろん、支配
的なシステムに反対する意見もあるわけです。しかしながら、そうした意見の表明が抑圧されることなく許容されてい
るときでも、[メディアの配列を通じて]この種の意見は周辺化されたり、体制内にうまく吸収されてしまったりする
わけです。
さて、このグラムシの定義を前提とするならば、グラムシの戦略的な問題もまた明確になります。すなわち、堅固な
支配的ヘゲモニー・システムの只中にあって、いかにすれば既存の社会的合意を粉砕し、対抗的なヘゲモニーを打ち立
てることができるのか、この問題です。イタリア共産党は、うまくこの戦略的な課題にとりくみました。そして、文化
的な戦略とでも呼べるような戦略を採用したのです。この戦略は、大社会の内部に、同じような信条をもった人々から
構成される「完成された」社会を大社会の部分として創設し、やがてこの部分としての完成された社会が大社会を飲み
込んでいくといった戦略です。この闘争を指導するために、グラムシは、有名な「陣地戦」
(「陣地戦」は塹壕戦のこと
で、第一次世界大戦の経験がこのイメージの原型になっているようです)と「機動戦」についての教理を展開しました。
この文脈において、市民社会は労働者階級および下層のブルジョア階級のメンバーのことを指しています。グラムシに
−127−
政策科学 12 − 2,Jan. 2005
Ⅰ.市民社会とデモクラシーの伝統
よくご存じのように、独立した自律的なローカルな国家、自治団体としての都市の理念は普遍的な理念ではありませ
ん。それは大まかにいって、西欧および米国の伝統だといってよいでしょう。これらの地域においては、国民国家の形
成に先だってローカルなレベルでデモクラシーが開花したという現実があります。アジア諸国においては、これとは異
なった伝統、すなわちより中央集権的で、より権威主義的な伝統があります。ですから、西洋におけるデモクラシーの
実践を採り入れることが難しいわけです。本日の講演では市民社会についてお話しするつもりですが、一つ念頭におい
ていただきたいのは、私がお話しすることの背景となっているものが、これまでに述べてきたような、ローカルな統治
におけるデモクラシーの伝統だということです。
概念的に市民社会には長い伝統があります。この伝統をずっと遡っていくと、啓蒙主義の時代と呼ばれている歴史的
な時期にたどりつきます。この時代は、大まかにいって、17 世紀および 18 世紀にあたっており、ちょうどその終期を
画すると言われているのが、第一にアメリカ独立革命、第二にフランス革命です。この二つの歴史的な出来事は、西欧
社会のほとんどを支配していた封建制の命脈を断ち(ただし、封建制はハプスブルクおよびロシア帝国ではさらに 130
年間残存することになりましたが)、世襲貴族制にかわってブルジョアジーを新たな支配階級にすえました。これらの
出来事を通じた歴史的な転換の帰結はきわめて大きなものがありました。この転換によって、近代という時代の幕があ
けたといえばよいでしょうか。19 世紀はじめはユートピア思想の時代でした。ユートピア思想は、善い社会について
の「合理的な」思想を基礎にして、まったく新しい世界を想像力によって構想しました。イギリスでは、ロバート・オ
ーウェンが鍵となる人物です。フランスではシャルル・フーリェ、オーギュスト・コントが有名です。ドイツでは若き
マルクスが、無情な産業労働の束縛やブルジョア国家の抑圧から人民を解放する共同体を夢見ていました。
それは、新しい社会の建設をめぐって批判的な思考が次々と生み出された時代だったといえるでしょう。新たに建設
される社会では、一人一人の個人はもはや主権者の忠実な「下僕」ではなく、共和国を構成する自由で能動的な市民で
す。一人一人の個人はトマス・ジェファーソンが『アメリカ独立宣言』の緒言に書いたような、「生命、自由、幸福の
追求」という不可譲の権利を自ら保有することを強く求める市民となったのです。それは、人類の、(新たに形成され
た社会階級であった)労働階級の、奴隷・農奴の、そして女性の全般的な解放の約束にのりだした時代であったといえ
るでしょう。
もちろん、こうした解放の熱意は、アフリカ、中東、アジア地域を中心に急速に拡張しつつあったヨーロッパ諸国の
海外における植民地(日本ものちにこうした植民地の拡張を行なうことになりました)にまでは到達しませんでした。
これらの地域で解放の事業が開始されたのは、20 世紀半ばのことです。つまり、これらの地域が植民地支配から自ら
を解放し、自分たちの将来を自己決定できるような国民国家となって以降のことです。もっとも、これらの地域で新た
に誕生した諸国は必ずしもつねにリベラル・デモクラシーの体制を選択したわけではありません。
市民社会の概念は近代期に入ってからの社会的混乱の中から生まれてきたものです。ここではその市民社会の概念史
をたどることはしません。市民社会はもともと、政治経済学の概念ですが、もっとも広い意味では、(完全にではあり
ませんが)概ね国家の介入が及ばない社会形態のことを指す概念です。言い換えれば、市民社会は、社会活動と社会実
践の相対的に自律した領域のことで、それは二つの支配的な権力領域、すなわち国家とグローバルな企業体との関係で
定義づけられるものといってよいでしょう。今日では、市民社会には多くの「モデル」があります。ここではこれらの
モデルについて、少し詳しくお話しておきます。ただし、私が皆さんに明らかにしたいことは、あくまでも今日におい
て市民社会という用語が使われるようになった歴史状況だということを念頭においておいてください。
Ⅱ.市民社会論の再興
多くの研究者たちによると、[現代において]市民社会が再び語られはじめたのは 1980 年代の初頭、すなわち、ポー
ランドで連帯の運動が共産主義体制への異議申し立てを成功裡に広げていった頃のことだとされます。この運動は、
「市民社会」の内部から生まれた組織が、平和的な変革の方法で、それまでの抑圧的で独裁的な体制を掘り崩し市民社
会が十全に開花する新しい体制をつくりあげた典型的なケースだったとされます。この説明に従えば、もう一つ大事な
−124−
民主的なガバナンスにおける市民社会の役割(講演記録)
出来事があることになります。それは、ポーランドと同じように抑圧的な共産主義体制から脱却してリベラル・デモク
ラシーの体制を構築する緒についたばかりだったチェコスロバキアにおける市民たちの権力の台頭です。ポーランドや
チェコスロバキアでの出来事よりも前から、市民社会という用語は、1960 年代、1970 年代と権威主義的な軍事政権下
にあったブラジルで使われるようになっていました。この当時、ブラジル国民のほとんどは貧困な暮らしを強いられ、
政治的にも無力で、自己決定の機会をまったくもたない状態でした。左派的な傾向の強い知識人たちは貧困問題を熱心
に語り、どうすれば貧困を一掃することができるかが盛んに議論されました。そうした最中、ちょうど 1970 年代半ば
のことです、貧困についての言説がにわかに急進化していったのです。政治活動家たちは、突然、
「市民」(ポルトガル
語では ciudadanos/as といいます)、「市民権」、市民社会について語りはじめました。このような新しい言説が生まれて
くるさいに、重要な役割を果たしたのは、マルクス主義と解放の神学の二つの思想の影響力です。これらはいずれもそ
の当時、人々に影響を与えつつあったイデオロギーです。しかし、どこからインスピレーションを得たのであろうと、
その言わんとするところは明白です。「貧困」層の人々は市民であり、市民であるがゆえに権利の主体だということ、
そして、政府は彼らの諸権利を尊重する責務があるということ、これに尽きます。
バシスモと呼ばれる社会運動、これは社会階層の底辺部分の、人口でいうと下から3分の1ほどにあたる人々の生活
条件に関心を寄せる社会運動のことですが、市民社会への言及は、この運動が広がるにつれて頻繁になっていきました。
ところで、バシスモという社会運動ですが、この名称は、コムニダデス・デ・バセ(生活の基盤となる共同体の意味で
す)の思想に由来します。もっと正確に言えば、それはキリスト教会の(宗教生活の基礎となる)共同体の単位のこと
です。急進的なカトリックの聖職者や神学者たちの著作は、この基礎共同体の重要性を神学の面から明らかにしていま
した。それによると、基礎共同体のモデルになっているのは、帝政ローマ時代における初期キリスト教徒たちの会衆で
す。
「貧民」の牧者である地域の司祭は彼らを呼び集め、表向きは聖書を読み聞かせ、聖書を解釈しました。しかし、そ
れを通じて司祭たちが伝えたのは一種の社会的福音でした。ローマ教皇庁は多分に微妙な言い方で、こうした信徒たち
の共同体のことを「民衆の教会」と呼びました。その唱道者たちによると、その意図は、人民のみじめな生活状態の
「客観的」理由を人民に自覚させ、人民の間に市民としての政治的権利の感覚を浸透させることにありました。たまたま、
軍事政権の時代にあったことから、基礎共同体は同時にデモクラシーを求める運動の基盤にもなっていったのです。
時を同じくして、バシスモの世俗的なバージョンが、いわゆる「オールターナティブな開発」を唱導するネオマルク
ス主義者をはじめとする知識人たちの間に広がりました。この知識人たちの運動は、低開発に関する従属理論の中から
生まれてきたものです。運動をリードした知識人としては、A.G.フランク、I.サックス、O.スンケルといった経済学者
たちがいます。彼らはみな、チリやブラジルでの長い生活経験をもっています。一方、この運動の国際本部はジュネー
ブ湖畔の小さな町にあり、これを主宰するのはスイスの理想主義者マルク・ネルフィンでした。実は、私自身もかなり
この運動に影響されており、『エンパワーメント−オールターナティブな開発政治』[斉藤千宏・雨森孝悦監訳『市
民・政府・ NGO』新評論、1995 年として邦訳・刊行されている]という本を出版しています。しかし、この本が出版
されるころには、スイスのオフィスはすでに閉鎖され、オールターナティブな開発をめぐる議論の多く、たとえば貧困
問題への着目、自然環境、女性の役割をめぐる議論などがありますが、これらは世界銀行の政策の中に取り込まれよう
としていました。
一般にオールターナティブな開発を主張する人たちは、コミュニティに根ざしたアクションに視点をすえたバシスモ
特有の信念に従っていました。そうであるがゆえに、彼らは[コミュニティを重視するあまり]より大きな経済的な諸
関係には手をつけずにおく傾向がないわけではなかったのです。コミュニティに根ざしたアプローチが実は、あれこれ
の日常的な貧困の諸問題を改善するアプローチでありながら、これらの諸問題をとりまくシステムそのものに手をつけ
なければ、結局は大きな貧困を生産し続けることになる、このことが広く理解されるようになりました。ここ 15 年以
上の間、オールターナティブな開発のスローガンは、非政府組織(NGO)によって盛んにとりあげられてきました。
これらの非政府組織は、オールターナティブな開発を推進する主要な行為主体であると自己規定するようにさえなって
います。NGO やコミュニティを基盤とする諸組織は、今日では一般に「第三セクター」すなわち「市民社会」のこと
だと考えられるようになっており、これらの諸団体は時の政権と連携しながら活動しています。こうした団体の活動の
−125−
政策科学 12 − 2,Jan. 2005
特徴は、人民の参加を重視し、貧困層からなる地域コミュニティの自助努力に注目することにあります。ところが、莫
大な開発援助の方はどうかといえば、それらの援助はグローバルな資本の要請を満たすために、ほとんどが社会資本の
整備に費されているのが現状です。おおざっぱに言って、開発援助の焦点は社会開発のプロジェクトにすえられており、
貧困撲滅の戦略はそこからは出てきていません。ですから、一般に地域コミュニティの内部で貧困撲滅のための NGO
によるコーディネイトの努力は成功していません。NGO によって支援されたプロジェクトがもっともっと地域コミュ
ニティの内部で展開されれば、住民たちの関心を惹きつけることも可能でしょう。しかし、現実はそうはなっていませ
ん。NGO の多くはどんどん営利企業と同じような仕方で活動するようになっています。つまり、NGO は互いを相補的
な関係にあるとみなすのではなく、お互いに競合関係にあるかのように行動しているということです。それだけではあ
りません。ほとんどの NGO は、政治的な立場を明確にすることを回避し、結果的に現存する権力との共働関係に入っ
てしまいがちです。
ラテンアメリカでは、かつて市民社会は市民権を回復するための政治闘争の動力因のようなものでした。市民社会は
貧困とその諸条件にまつわる対抗的なレトリックでもありました。しかし、その後、市民社会という用語にたいして、
様々なアクターが、様々な時期に、様々な意味を付与してきました。左派の活動家たちにとって、市民社会は民主化を
唱道し、貧困層の市民権を要求するための闘争の言葉でした。オールターナティブな開発のメインストリームが輪郭を
あらわし、貧困緩和のマクロ戦略のツールとして非政府組織が登場するようになると、市民社会は「第三セクター」と
呼ばれるようになり、支配勢力のヘゲモニーのために活用されるようになっていきました。市民社会の概念そのものは、
きちんと「理論化」されることはありませんでした。では、これまでにどのような市民社会の理論家たちがいたのか。
話題をこの点に変えてみようと思います。
Ⅲ.市民社会論の四つの潮流
根源的なところをみてみると、市民社会については、現在4つの理論モデルが利用されているといってよいでしょう。
その4つをここでは、(1)トクヴィルの連帯デモクラシーのモデル、(2)ハーバマスの公共圏のモデル、(3)グラ
ムシのヘゲモニーのモデル、(4)カステルの社会運動モデルと呼んでおきましょう。4つのそれぞれについて簡単に
要約しておこうと思います。
アレクシ・ド・トクヴィルが『アメリカの民主政治』として自らの政治分析を書いたのは 1835 年のことです。新し
い民主政治の国を訪問したさいに、貴族的な精神に充ちたこのフランス人が強く印象づけられたことがらの一つに、ア
メリカの小さな町や都市でくまなく能動的な役割を果たし、濃密な連帯にねざした生活のパターンを形成していたコミ
ュニティを基盤とする諸団体の存在がありました。連帯デモクラシーの考え方は、こうした生活パターンの中から生ま
れてきたものであり、それは国家と個人のあいだに媒介的な諸団体を措定するデモクラシーの考え方です。こうしたデ
モクラシーのモデルの構成に注意してください。このモデルが前提にしているのは、他の何かに還元することのできな
い社会を構成するアトム(原子)としての個人であって、家族とか部族とか、あるいはその他の社会団体(たとえば
「コミュニティ」や国民もそうです)といった実体とみなしうる集合体のようなものではありません。
今日では、このモデルは北米地域の新保守主義者や共同体主義者によってとくに好意的に受け止められているようで
す。彼らはともに、国民国家が掌握する様々な権力にたいして強い猜疑心を抱いています。こうしたトクヴィル主義的
な立場をとることから、彼らはロバート・パットナムによるイタリアにおけるコミュニティ組織の研究がもたらした
様々な発見を高く評価しています。この研究は、「信頼」の諸関係に焦点をすえたパットナムの社会資本の概念を有名
にしたものとしてよく知られています。新保守主義者の見方によると、最善の国家とは、もっとも少なく統治し、コミ
ュニティーに決定権を分与する(エンパワーする)国家です。地域コミュニティーで発生する様々な争点を処理すべき
なのは、[国家ではなく]地域の教会や地域の慈善団体、スポーツクラブや町内会など、ボランタリな参加を基本にす
えた諸団体であるべきだというのです。このような状況の下では、ときにこれらの団体は、とくに強い関心事となるよ
うな争点をめぐって政治的な性格をおびるようになるかもしれません。しかし、ほとんどの場合、これらの団体は、あ
くまでもトクヴィルが唱えたような媒介団体であって、その活動の場は公共的な領域であるよりは、それぞれの固有の
−126−
政策科学 12 − 2,Jan. 2005
よれば、これらの階級の人々は、なお現在の生活のあり方を事物の「自然な秩序」の一部をなすと信じこんでいます。
そして、その生活はどんな社会実践によっても変えることなどできないと思い込んでいます。これらの人々に現在の生
活のあり方よりもずっと素晴しい生活の可能性(そして、この新しい生活を支えているイデオロギー)があることを示
すことで、彼らのあいだに根付いている暗黙の合意を打ち砕く必要がある、グラムシはこう考えたのです。さらにグラ
ムシはこう考えました。イタリア共産党がうまくこの課題を遂行できれば、権力体制の正統性が瓦解し、やがては陣地
戦が機動戦へと転ずることになるだろう。そして、陣地戦が機動戦へと転ずるプロセスの下で、古い体制はイデオロギ
ー的な支柱を剥奪され、倒壊を余儀なくされるだろう。こうして党は、社会主義社会にふさわしい新しいヘゲモニーを
確立することになる。大事なことは、グラムシの市民社会モデルは革命の潜在力をみすえた闘争モデルだということで
す。グラムシの著作は、南アフリカでアパルトヘイトと戦ったアフリカ国民会議(ANC)の多くの支持者に多大な影
響を与えました。しかし、今日、ヘゲモニーの概念はなお有用であるとはいえ、反体制的で、革命を指向する市民社会
の考え方はほとんど死文化しており、歴史的な関心を惹くだけのものになってしまっています。
四つ目の市民社会モデルはマニュエル・カステルの業績から生まれたものといってよいでしょう。これは、社会的動
員の役割に焦点を据えたものです。この考え方によると、社会運動は政治的な目標の実現へと市民社会を動員するもの
です。カステル自身はスペインに生まれ、フランスで教育を受けました。しかしながら、カステルの研究者としてのキ
ャリアの大部分は、米国でのもので、最近、カリフォルニア州立大学バークレイ校を定年退職しました。
西欧世界では、「新しい」社会運動について語ることが、ごく普通になっています。この「新しい」社会運動は、第
二次世界大戦後の数十年の間に活発になったもので、たとえば、反核運動、反戦運動、反グローバリズムの運動、環境
運動や女性運動がありますし、米国の公民権運動もそうです。また、カステルが「都市」運動とみなしているもの、た
とえば住宅運動、ゲイの権利運動、公共交通機関などにまつわる運動なども、「新しい」社会運動に含まれます。これ
らの社会運動の中には、レジスタンスを本質とするもの(反戦、反核、反グローバリズムの運動)もあれば、社会革新
を希求し、進歩的な政策転換をもたらそうとするもの(先住民の権利、公民権、女性の権利の要求や環境保護の運動)
もあります。社会運動は一般に自発的な組織化によって支えられ、自前の財政基盤をもつのが普通です。市民の運動で
すから、この運動は非暴力的な行動によって目標を達成しようとします(テロリズムは市民社会の動員には馴染まない
ということです)。また、ほとんどの場合、強い道徳的な信念を信奉しています。社会運動の組織は小規模な対面的な
集団を基礎としており、これら基礎集団が必要に応じてネットワークのように連結され、より大きな構造ができあがっ
ていることも特徴でしょう。ただし、たとえば世界野生生物基金のように、ときにはフォーマルな組織が運動を進める
上で必要なルーチンワークを遂行するようになっている場合もあります。とはいえ、一般に運動のリーダーシップはど
ちらかというと拡散的であり、運動はしばしばグローバルな規模で展開される力量をもち、グローバルな企業体に匹敵
する力量をもつこともあります。
Ⅳ.市民社会の行方
このように、市民社会は単純な概念ではありません。市民社会は、右派の政治的言説にも左派の政治的言説にも登場
します。連帯型デモクラシーは、新保守主義者やコミュニタリアンが好んで使うモデルですし、公共圏のモデルは、多
元主義の哲学を信奉する伝統的な自由民主主義者によってしばしば言及されます。一方、グラムシ的なヘゲモニーのモ
デルは古典的な革命指向の左翼に好まれていますし、社会的動員を指向するモデルは、営利的な動機によって盲目的に
引きまわされることのない世界を夢想する新しい急進派の最後の、そして最善の拠り所だといえるでしょう。市民社会
にまつわるこれらの考え方には、それぞれに疑問が浮かんできます。連帯型デモクラシーは、国家の社会福祉機能をう
まく代替できるでしょうか。民主的な討論に支えられた公共圏モデルは、数十億ドルもの広告費がつかわれ、世論操作
が行なわれている現状にどう応答できるのでしょうか。政治的支配階級のヘゲモニーは、新しい模範的な社会実践の中
に体現されるオールターナティブなイデオロギー(すなわち対抗ヘゲモニー)によって倒壊させられ、とって代わられ
ることが可能なのでしょうか。また、社会運動はローカルなガバナンスに責任あるスタンスをもって参加すべきなので
しょうか。あるいは、社会運動の役割は、まずもって、国家のオフィシャルな領域の外部から、批判を行ない政策アド
−128−
民主的なガバナンスにおける市民社会の役割(講演記録)
ヴォカシを展開することにとどまるべきなのでしょうか。
それぞれの視野にはこうした根本的な差異がありますが、それにもかかわらず、西洋諸国において市民社会が最近に
なって重要なプレイヤーとして登場していることは事実です。動員された市民社会が発言権を求める闘争は、フォーマ
ルな[制度化された]代議制デモクラシーの中に、直接的でラディカルで参加型のデモクラシーの要素を導入して、と
もすれば無力なままとどめおかれがちな一般市民、政治的支配階級の注目を惹くことのほとんどない利害関心をもった
一般市民が、政治的決定にたいして影響を及ぼせるようにする一つの試みです。
その典型的な事例が、ブラジルの参加型予算編成のプロセスです。ブラジルには、政治的に代表されることがほとん
どない労働階級が都市郊外に、しばしば違法で不健全な居住区を形成して暮らしています。その彼らに、地方政府予算
の配分のさいに発言権を認めました。その結果、インフォーマルに存在していた彼らの居住区が、ゆっくりと旧市街に
統合されるようになりました。道路が舗装され、上下水道が整備され、居住区の外観は大いに改善されました。このよ
うな参加型ガバナンスのプロセスは重要な副次的効果をもたらしました。たとえば、政府はアカウンタビリティを意識
するようになりましたし、透明性を重視するようになりました。また、新しいタイプの集団的リーダーシップが育ち、
それまで民主的な決定作成の経験などまったくもたなかった人々が、会議運営の方法や政府との効果的な交渉の方法を
学ぶことになったのです。このブラジルの事例が明らかにしていることは、たとえば地方政府の予算編成のような制度
化されたプロセスをつかって、基礎組織のリーダーシップが政府に取り込まれる事態を避けながら、政府を民主的な基
盤にしっかりとむすびつけることができるということです。多くの社会運動の活動家たちの主要な関心事は、組織リー
ダーが政府に取り込まれるような事態の回避にあります。政治的な装置に飲み込まれてしまうと、組織の基盤となって
いる人々との接点が失われてしまいかねません。ですから、活動家たちは、この点に配慮しているのです。
この点はドイツの緑の党の場合も同じです。緑の党は社会運動組織でもあれば政党でもあります。社会運動組織とし
ての緑の党は、とりわけ環境問題にかんして、急進的な政策を唱導しました。一方、独立した政党として、緑の党は、
より一般的な仕方で有権者に投票を訴える努力を続けています。このことは、彼らの過激な要求のいくつかを、いわば
「稀釈」することを意味しています。また、政党としての緑の党は、他の諸政党との共存を余儀なくされています。そ
のためには、他の政党との妥協が必要になりますし、政治的なレトリックをソフトなものにする必要があります。原理
的な面でいうと、社会運動組織であることと政党であることのこうした区別は、「緑の」政策を実行するために役立っ
ているといえるでしょう。一方、実践面ではどうかといえば、こうした区別が運動を分断する面もあります。つまり、
一方に国家領域の外側から反政府的な政治を継続しようという部分(いわゆる原理派)がおり、他方に(いわゆる現実
派ですが)社会民主党のような進歩的なリベラル政党へと脱皮していこうとしている部分へと分断されるということで
す。原理派と現実派は相互にかなりの緊張関係にあります。原理派に言わせると、かつての同志であった現実派は妥協
によって道徳的な原則を放棄し、すでに取り返しのつかないところにまで転落してしまったということになります。こ
の分断がドイツにおける緑の党そのもののポジションを強化することになるのかどうか、これは簡単には言い当てるこ
とができません。
社会的動員を推進する努力を行なうさいに、現状への批判とオールターナティブな政策の提案とが同時に存在しながらも、
批判と提案のいずれかが優勢になるのが普通です。たとえば反グローバリズムの運動のような抵抗運動の場合がそうですが、
批判が強力になれば、政府権力に取り込まれる危険はほとんどないでしょう。しかし、環境政策の場合のように、政策提案
の方に関心が向いているところでは、社会運動の活動家たちは政府の側に歩みより、既存の統治構造の内部で活動しようと
いう誘惑にかられることがあります。ドイツの緑の党が直面させられた問題はまさにこれです。ほとんどの社会運動は単一
争点に関心を集中させます。この点で社会運動は根本的に複数の目標をもつ政府とは異なっているのです。政府の領域では、
多種多様な利害関心が相互に均衡を保つ必要があり、そこでは誰も完全に満足することはできません。ドイツの政権党の一
角をしめる現実派は、もはや環境政策の争点だけに関心をもてばよい状態ではなくなっています(環境政策の争点に関心を
よせる場合でも、少数政党として実行可能な争点に関心を限定せざるを得なくなっています)
。現実派は、右から左までの
あらゆる政党といっしょに仕事をしなければならず、緑の党本来の利害関心がごく周辺的な扱いしかうけないような政策で
も、これを立案するために協力しなければならなくなっています。言い換えれば、政策立案のさいに、彼らは―きわめて
−129−
政策科学 12 − 2,Jan. 2005
曖昧な言葉かもしれませんが―公共の利益に配慮しなければならないということです。このような事態から、多くの人々
は次のように考えるようになっています。すなわち、社会的動員がもっとも効果的なのは、動員のための運動が国家領域の
外部で展開される場合だと。
しかしながら、国家は公衆の参加にある程度、熱心であるかのように振る舞うことを余儀なくされています。企業は
政治的支配階級の内部において公私間のパートナーシップを求めたり、人事交流を求めたりして、政策形成の場面で厚
かましい役割を果たしていますが、こうした企業の行動とのバランスをとるためにも、公衆の参加が必要なのです。少
しだけ例をあげると、国土計画、交通、住宅、グリーンスペースの開発などに関わる政府部局が、一般に「公衆」の意
見を知りたがり、その示唆を求めようとするのは、そのためです。ここでは組織された市民社会が必要とされている場
合であっても、市民社会そのものが問題となっているわけではありません。公聴会が開かれるでしょう。意識調査が実
施されます。フォーカスグループにたいして質問への回答が求められます。市民のワークショップが組織化されるでし
ょう。これらはすべて国家予算を投じて実施されます。残念ながら、このようなイニシアティブは、しばしば変化を嫌
う官僚機構の抵抗に遭遇します。そして、このような非政治的な諮問の方法が現実の政策に及ぼす影響力は、一般にご
く小さなものにとどまります。官僚機構は、人民の声のロジックに容易には屈することはありません。
他にも「複数利害関係者による政策過程」などと呼ばれる方法がありますし、実際にこの方法が試みられたことがあ
ります。しかし、この政策過程への現実の参加者は、一般に、拘束力をもった決定を行なう権限が与えられていません
し、そこで何らかの合意が得られたとしても、いざ決定がなされる局面にいたったとき、その合意は一つもしくは複数
の参加組織の拒否権によって斥けられるかもしれませんし、じっさい斥けられます。
Ⅴ.むすびにかえて:日本における市民社会の可能性
本題からかなり脱線してしまったようです。そろそろ講演のまとめに移りましょう。私は日本の市民社会とガバナン
スについてはほとんど何も知りません。ですから、ここでは皆さんに、西欧における市民社会論がどの程度、日本に適
用できそうなのかについて、いくつかの問いを提起することで講演のむすびとしたいと思います。
1.私は本日の講演で市民社会論の四つのモデルを示しましたが、これらのいずれかに照らして、日本には市民社会
が存在すると言えるでしょうか。
2.もしも日本にも市民社会があるという場合、どのモデルがもっともうまく日本の市民社会に当てはまっているで
しょうか。あるいは、日本独自の政治的伝統を基盤とした、別の市民社会モデルがあるのでしょうか。
3.日本の市民社会は、どの領域レベルの政府の決定作成において、もっとも活発でしょうか。国なのか都道府県な
のか市町村なのか。
4.日本の市民社会は、これら諸レベルのいずれかの現実の政策にどの程度の影響を及ぼしてきているのか。
5.日本のガバナンス、とりわけローカルなガバナンスの手順や手続において、どのような形態の公衆の参加がもっ
とも一般的なのか。
これらの問いへの解答が得られれば、おそらく私たちは、今日の社会における最善のガバナンスの形式について、お
互いに実りある対話に入ることができるのではないでしょうか。
ご静聴ありがとうございます。
付記:本稿は 2004 年6月 18 日に、立命館大学末川記念会館にて行われた第 10 回立命館・ UBC セミナーとして開催され
たジョン・フリードマン教授の講演の邦訳である(主催:立命館・ UBC セミナー運営委員会、立命館大学経済学部、
−130−
民主的なガバナンスにおける市民社会の役割(講演記録)
同国際関係学部、同政策科学会)。フリードマン教授は、ラテンアメリカおよびアジア諸国における豊富な開発協力の
経験をもつ都市計画・地域開発の専門家であり、現在はカリフォルニア大学ロサンゼルス校の名誉教授である。主な著
書には、Regional Development and Planning: A Reader [with W.Alonso] (1964), Retracking America: A Theory of
Transactive Planning (1973), Empowerment: The Politics of Alternative Development (1992), Cities for Citizens:
Planning and the Rise of Civil Society in a Global Age [with M.Douglass]がある。訳出にあたっては、講演会当日に通
訳をつとめた岸道雄助教授(本学政策科学部)より多大な助言をいただいた。記して感謝の意を表したい。ただし、訳
文に誤解・不備等があった場合、その責はすべて訳者が負うものである。
(重森臣広)
−131−
Fly UP