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9枚をPDFにて
【Ⅰ】―〔01〕「己を可愛そうだとは思ったことなし」
(お世話に成った人、感謝する人の項は次回にまとめる・・・)
2016 年(平成 28 年)10 月 7 日
―
<1>「中 1 秋はヒョットすると 1 番?」-
P‐1~2
―
<2>「中卒新聞へ「工業デザイナー」に成りたいと-
P‐2
―
<3>「理科部での試薬検査」-
P‐2
―
<4>「成人式に出ず」-
P‐2~3
―
<5>「子には“頑張れ”を」-
P‐3
―
<6>「父の凄かったところ」-
P‐3~4
―
<7>「始めての家族キャンプで」-
P‐4
―
<8>「3 人の息子には同じチャンスを与えたかった」-
P‐4~5
―
<9>「母の突然死」-
P‐5
―
<10>「カント道徳哲学」-
P‐5~6
―
<11>「看護師も医師へ絶対」-
P‐6
―
<12>「尊厳死」-
P‐6~7
―
<13>「両足無くて片腕だけでは一般トイレ否」-
P‐7~8
―
<14>「敦盛/忍び草と詩篇」-
P‐8
―
<15>「女房への感謝」-
P‐8~9
―
<16>「まとめ」-
P‐9
―
<・>「・・・」-
P‐・・
・・・・・
・‐・・
―
<1>「中 1 秋はヒョットすると 1 番?」-
自分は、持って生まれた性向(業)であろうが、物事に執着しないで断念できるのである。
相対的に他者と比べての差は分からないが、諦め(悟り?)が早いのである。同様の根に
発するのだろうが、己が「可愛そう!-惨め!-不幸!」などと思ったことや感じた事は
殆んど無い。反面自分が他より優れているとか、恵まれているとか?を真剣に考えた覚え
が無い。(様は可也、全ての面で鈍かったのだろ。・?)
もっとも、母に小さい頃からお前は士族の血を引いている。と言われてたので、自分は
士の魂たる“事に至り潔い:往生際が良い”のだと思って納得していた?。
―この性格での最悪な弊害点は、上への勉学的向上心が湧かなかった事である。中学生
の時は・学期中間・期末試験が計 15 回あったが、中学一年生秋の「理科中間テスト」1 問
違えて 96 点でクラス 53 名中 1 番で全 350 人(7 クラス)中では 10 番以内。
1
特別に勉強しなかったが、小学生は鉄腕アトム少年だったので、中学に入り独立した科
目の理科が一番面白かった。ヒョットスルト 1 番???⇒(以後皆無)だった。家に帰り
大学進学の相談をすると、父から即答で、問答無用で“お金が無いから上へは行かせられ
ない!”
団塊の世代は半分くらいは似たような家庭で、自分の母校中学(同級三百五十名)から
普・工・商・専・私高校(他は金の卵と成り、家業を継ぐなどして就職)へ進学したのは
70%に届かなかった。
吾ら団塊の世代の花形産業は、工場に煙突が林立し、煙がモコ々の重化学産業であった
が、その仕事の設計の一翼を担ったのが、手足無しの障害者に成っても誇りだった。
(しか
し、それを東電建屋の水素爆発事故が吹き飛ばした。)
―
<2>「中卒新聞へ「工業デザイナー」に成りたいと-
義務教育期間で一番の恩師は中学三年の担任の先生(英語担当)であった。我が親から
高校へは行かしてやるとの言葉がでたのは中 3 の秋。急激に落ちた成績を取り戻すべく 11
/12 月と英・数塾へ通ったが、英語は時すでに遅かった。その担任の田村先生の進路指導
で、工業高校の機械科だったら、君なら英語が出来なくても卒業できるだろう?(冗談だ
ったかも知れない?)
。との言葉で公立の機械科を受ける気に成ったし、3 月の中学校卒業
新聞へ将来の希望職欄に「工業デザイナー」と書いた。 当時は機械関係にはデザイナーた
る職種は無かった。東京オリンピックを翌年にして建築はデザイナーが華だった。書き残
したこの一文が、自分の一生を決定した。
(中学生の級友生への我が人生の証しは此の方向
へ進むしか無かった。
「意地・プライド・誇り等総てとなった」⇒設計とは意識外)
―
<3>「理科部での試薬検査」-
此れを整理していると 10 月 3 日にノーベル償が決ったと報道があったので思い出した。
小学五~六年は父が内臓疾患で入退院をして貧困のドン底だった。が中学へ入ったら自分
の半分は武士だから剣道部に入りたいと考えていた。入学して部室へ行くとゴツイ先輩が
恐くなり断念。しかし、秋の中間テストに理科の先生に認められて、勧誘を受けて理科部
へ入った。が他に部員は居ないし「試薬検査」を主にレポート作りが嫌に成り断念。通部
は 11 月から年末までだったと思うが期間は忘れた。3 学期は帰宅クラブ。
昨日 3 日のノーベル生医償に「大隅良典栄誉教授」が選ばれたが、詳細をネットでチラ
と見るに、何とはなし理科部での自分を思い出した。しかし々実に粘り強い人だなと関心
するのと、奥さんのサポートが甚大だったのでは―???-
―
<4>「成人式に出ず」-
昭和 36 年(中 1)の時、女子バレーボールの日紡貝塚がヨーロッパ遠征で大松監督が「回
転レシーブ」を武器に 24 連勝する。影響を受けて翌年(中 2)小学 3 年生からの友人に誘
2
われて、バレーボール部に入る。9 人制で屋外コートでの練習。授業を終わると先ずバレ
ーコートを何周か兎跳び(今では成長に害するので厳禁では?)真夏でも練習中は水摂取
禁止⇒練習が終わるとみんなで水道の蛇口に競争で走って行き、横に咥えて暫くゴクゴク
飲んだのが懐かしい。
懸命に練習した中二の 1 年間は、
級友との共に試合に強く成ろうと頑張った年だったが、
秋の県総体の郡予選で、初戦に隣町の廿日市中学に負けたが、同じアタカーのジャンプ力
の高さに驚いたし、彼のスパイクに負けた。その彼が同じ工校の同じクラス、そして同じ
バレー部へ。当然として同時並行の競争になったが、敵うわけがなく自分は即玉拾い。1
ヶ月で辞めて帰宅クラブに入った。が、国語/古典の先生の授業の内容に牽かれ三年は「文
芸部」へ入った。⇒(読書から始まり、こうした文や詩に関心を持つ切掛けとなった.)
が、就職工高ゆえに、学校上げての就職合戦と各企業の争奪戦が始まる。1 人当たりの求
人企業は十数社になった。最初に受けた会社に受かったのである。マツダのエンジンを作
っている子会社で、当時コスモエンジン開発のピークだった。<此処から先は自分が社会
的認知能力の低さが出てしうが、本心は社会的には出たくなかった(故に成人式は出ず!)
中学時の我が家を振り返ってみると、貧困状態のうえに弟(小五)妹(小 3)がいたから
無理もなかった。がしかし、
「頑張ってみろ、出来るだけ応援してやるとの言葉の端も無か
った!」 ⇒自分には絶妙にドンピシャリのタイミングで、向学心は霧散してしまった。な
んとか目差した工校(中の上だった)に入って家計に少し余裕が生まれて母から、勉強し
ろと盛んに励まされたが、業たる諦めの善さが完全に作用して、全く耳に入らず海へ渓谷
(アマゴ・鮎)への“釣りっペ学生”で過した。(各テスト前の 1 週間のみの勉強)
こうして中一~工三を振り返ると、此の 5 年間(13~18 才)が、全くなんの義務も背負っ
ていなく「一般的にいう幸・不幸・惨め・可哀そう」感覚を当て嵌めれば最高に幸福な時
期であった。とシミジミ思う。
―
<5>「子には“頑張れ”を」-
今は(平成 28 年)我が二息子に子供(孫)が5人いる。上が中学 1 年に成ったが経験上
断言出来るのは、小学時代は大いに遊ばしても、中学・高校に成ったら親から進学の方向
を示す言葉や方向性の押し付けは厳禁である。あくまで本人の前向きの気持ちを引き出す
ことである。各種の事情で無理だと思っても「頑張れ!」の言葉を掛けてやって欲しい!
―
<6>「父の凄かったところ」-
その工高からの就職(S42)に失敗したと気が付いたのは、アルミニュームの溶解精錬現
場に配属された時だった。1 ヶ月でその会社を辞めて本を乱読し始める。すると、54 才の
父は【社会に出て役に立たない物は読んでも意味が無い】と、昼夜の責めで、堪らず取り
合えず製図会社へ就職して、県外(S42 年 7 月に松山)へ赴任話しに飛び付く。これが化
3
学プラント設備設計のスタートとなった。父は大正 2 年生まれで農家の次男だったし、
日本も大恐慌に巻き込まれた時期に社会人に成り仕事につけずボストンバック一つで、満
州へ渡って現地で満鉄社員に採用され、終戦まで一家を成す。戦後も凄まじい馬力で自分
ら家族を養って、社会人としては自信の塊だった。ゆえに、経済的には自分には足元にも
及ばない現実的な人だった。この点は凄い人だったと尊敬している。
―
<7>「始めての家族キャンプで」-
がしかし、中学+工高の 5 年間の空白を埋めるべく、社会でに生きる為の自分探しには
27 才まで掛かった。『この十年間にお世話に成った人のおかげで今が有るが、その事は別
の機会に書く』⇒結局カントの「道徳形而上学原論」:Grundlegung zur Metaphysik der
Sitten(1785 年)との出会いで『自己尊厳の義務(Pflicht』を掴めた。ここで両親から必
死懸命に懇願されていた所帯を持つ決心が付いて、5 年後お見合いで女房と結婚した。
此処での決心は<己を没して家庭を維持する>である。
「相手と支え合う」との考えはま
ったくなかった。⇒特に3男が生まれる 3 ヶ月前に一家(女房+息子 2 人)で八幡浜の穴
井海岸へ 1 泊 2 日でキャンプへ行ったが、女房が荷物を車から降ろし、テントを張る所へ
の坂道で滑って尻餅を着く。事なきを得たが此の時の写真を後日見ながら、3人の息子は
命がけで育てねば成らない!と、常にそれを傍に置いて己を励ましていた。⇒普通の男で
も同様の心構えをしているでは有ろうが、自分は尋常ではなかった気がする?
⇒16年後(2000 年 1 月)のホボ 1 ヶ月の意識不明状態期間中に女の大声(意味は分から
なかった?)が聞えたので、目を開けると天井の蛍光灯の中に女房の顔を見たとき,一気に
責任の重さが襲い掛かり義務に潰され息が出来なくなった。⇒「意識が無くなる」⇒如何
やら 3 度目の危篤だったらしい⇒可哀そうなのは其の時は次男と三男が傍に居た様だが、
男の低い声は瀕死状態の耳には届かなかった!
―
<8>「3 人の息子には同じチャンスを与えたかった」-
此処で、3 人に次のことを念をおすが、父おやかぜを吹かせて、偉そうに書くのは自分の中
一の秋季時のオヤジの一言が生涯を決定したからである。
矢張り、其の子の生まれ持った能力もさることながら十才前後から十五六歳の頃が一番
感受性が強いし、生涯に影響する。
「故に君ら三息子へは、中・高では独断的な言わなかっ
4
た積りである」-「もしも、同様の言葉をつかったなら、おれが障害者になってからで
あろう?許してくれ、中の一人だけでなく、3人へ同じチャンスを与える事を何よりも大
切にしたのである。(二男へは大卒義後に言ったが、3 男が卒業出来るか否かだったので仕
方なかったのである。結局駄目だったが如何やら別で何とかなりそうだ。)
自分が救急車で搬送された 2000 年 1 月 2 日、長男は高三で専門学校(俺が入院しなかっ
たら、思い直し一浪して進学をめざしたかも?)へ決まっていた。次男は翌年に信州大学
へ進み卒業出来た。三男が一浪して大阪の私立大学(建築科)へ入ったが、五年通っても
卒業できなかった。<自分が建築科を積極的に勧めたので、親の責任となった>今は、全
く別の仕事しだして六年目に成りホッとしている。
―
<9>「母の突然死」-
今日は 10 月 7 日で、伊予国は西方面から秋祭りが始まった。間も無く新居浜も太鼓祭りを
向えるが、1999 年その最中の 10 月 17 日(3 日間の中日)夕刻に母(77 歳)が突然死し
た。埋葬等総てを我が家(18 日広島から連れて帰る)ですましたが、母への親孝行のつも
りで所帯を持ったのに何も出来なかった。最後の言葉を交わす事無く、1日の患いをもし
ないでの、完全な突然死だった。あつ湯が好きだったのが災いした様で、お風呂に浮いて
いたとの事だった(父が自分に危篤の電話をしたのは警察に連絡してからで、もう駄目だ
ったらしい。
)
おおきな心の支えを失って呆然とし、長男の進学問題もうまく運ばず、巳午ミンマ(仏
さんの正月)が出来なかった苛立たしさに加え、新居浜市(第三古里)での仕事上の大恩
師(京大出)が定年の挨拶で、完全にパニックに成っていた。
(いま考えれば精神的に普通
では無かったと思う)
その母の死後 71 日後(吾 51 才)だったが平成 12 年 1 月 2 日“手足が無くなっても生
きろ”との父(87 才)の檄は、自分も三人の息子 17・16・14 才を育てて居たので、殆ん
ど時を空けず納得できた。
(此処でも即刻、完璧に“事に至り潔い”が即作用した。)・・暫
くして少し落ち着いてきた様子に、看護婦長が「大石さん、自分の身体がどんな状態に成
っているか説明しますが、手足切断しての救命だった。と!」―(自分は再度強力な麻酔
を掛けられていて、指先一つ動かせない状態)―そして間を置かず何か欲しい物が有りま
すか?と、尋ねるので“我が机の上の基督教の聖書を”と頼むと院内で相談したのであろ
う。改めて女房を通して、
「この病院は宗教団体や関連の病院ではないので渡せない!」と
明言された。
―
<10>「カント道徳哲学」-
父の大石家は残っている江戸初期の過去帳から以後は、日本教(神道+仏教+儒教)の
農家である。母方は大洲藩の下士で租祖叔父(1974 死去)が「内村鑑三」の無教会派に所
5
属していた。最後を看取った医師でもある。東大医を出て一橋と東理大の教授していた
が、その影響大で、18~28 才の青春の苦悩の果てに書物を通して、基督教会へ通い始めて
明治の多くの文人と同様に受洗までした。そこで出会った女性に恋をした。がしかし、余
りに純粋だったので重荷に感じ諦(業)めた。⇒自分は本当に基督教信者に成れるのは、
己が死と対峙した時であると諦めたのである。
「其の峙が当に 2000 年の 1 月末だった」―
次に総ての拠り処としたのがカントの「道徳哲学」である。
―
<11>「看護師も医師へ絶対」-
救急病院で緊急処置に拠る救命である。十六年前の医療体制では致し方ないのだろうが、
手足を切断(3 義肢+壱抹枝焼失)してまでの救命であるのに!『以後の本人の人生は自己
責任』⇒現代の最高医療は処しても、以後生き続ける当人の人生は自己責任なのである!
即ち支えあうヒトリノ人ではなく、手足の無い人間として生きねばならない。自分は、
カントの書で何とか己を人間と認めただけの人格だったので、人(歩行出来る人間)で無
くなった事実は意外と早く受け入れられた。⇒普通は駄目では?
其の各科医師の処置に対して絶対的に従わねばならないのが看護体制。⇒今、客観的に
考えるに<生死の瀬戸際で運ばれてくる患者の、個人的な考えや思想を斟酌する間など無
く、ベストを尽くして救命するだけ>との方針も理解できる。
自分の例にしても(女房の後日談)最初の1週間は全身火傷の処置。左⇒右と両足の切
断⇒更に如何しても左腕も駄目なので1週間後に切除⇒此処で救命出来たらしい
<婦長の“聖書は渡せない”との言葉には、現代医療の全てを尽くして命を救い、私ら
看護婦が寝る間を惜しんで、介護しての結果であるのに、神仏の加護に一蹴されては立場
が無くなる。との意味合いも含まれていた様に聴こえた⇒意識不明で緊急搬送された場合、
患者が搬送先を選べるのだろうかと?(最近は当人と会話が出来たら尋ねる?)
しかも、学校を出て間もない看護婦さんを自分の様な人間の担当者に任ずるのは暴挙だっ
た。『彼女も明に正真正銘なる完璧な被害者の一人である』
―
<12>「尊厳死」-
此処までの本音を書(特に 2015 年以後の)き込みは「彼女への裏切りと成ること」と「精
神面で未完の三息子に父は生を自ら放棄した」と受け取られるのを避けたかったのである。
さらに三男が 33 才に成って自立出来たし、自分も 68 才の高齢者に成り、遠からず一般
的な老齢弊害を併発して、この様な文をまとめるのは不可能になるだろう。一切を黙して
総てを忘却の川へ流して、三途の川を渡るのが、ベストだったかもしれない。
「自分は出来
なかった」
6
リハリビ病院へ1年半入院して、2001 年 9 月末に貿易センタービル崩壊「即、自分は原
因はオスマン帝国処理の不都合だと思う」その溢れる画・映像とともに家へ退院。それよ
り 個 人 的 に は 同 年 4 月 10 日 に 決 ま っ た オ ラ ン ダ で の 「 ハ ー グ 条 約 」
-[http://www9.plala.or.jp/rakuaki/item2015_0901/item_2015_09_002.html] = 親 web= プ
ララ楽明「Onearmed Daruma」が重要な事に思えた。以後世界に拡がりつつある。日本
では僧医「対本宗訓」医師/臨在宗家であったが、我が家の継承宗派は「真言宗豊山派」
で、父母ともその墓に埋葬しているので如何ともし難かった。いずれにしても「日本尊厳
死協会」へ入会をしている。
自分は、此の世を生きるのに、本音と建前の使分けが全く出来ない、余裕の無い吾が悲
しむべき持って生まれた性格である。―この web もそれを立証している。
己の第二の生はダルマに右手が付いた「片腕ダルマ」である。多くの人には、外見が恥
ずかしくて(可哀相で・惨めで)殆んど家から出(女性なら特に)られないだろう。処が、
自分は直に諦められたので世に言う「身体障害者」との意識は殆んど無い。したがって、
公共施設での大便が不可能と体験する出来までは可能な限り外出してきた。
―
<13>「両足無くて片腕だけでは一般トイレ否」-
6 年前に三男が就職浪人に成って家計が苦しくなり、仕事をしたが東電原発事故を見て、
酒が増えアルコール性肝硬変が悪化し、建屋水素爆発 1 ヶ月後「急性膵臓炎」で 1 週間入
院する。仕事は辞めざるを得なくなりハローワークへ 1 年通う。そしてどんなに捜しても
自分が使えるトイレを設置している職場(会社)は無かった。
此処で、本当に不可能かどうかを試みた。便器の中へ落ち込むか、外へ脱落するかの覚
悟をして、松山ハローワーク建屋内の障害者用トイレを無理矢理試す。
「中では全裸に(着
衣が汚れた状態で助けを呼ぶのはさすがに恥ずかしかったので)」
車椅子から便器の便座に乗り移れたが、反対に車椅子へ下半身を返す時に便座で肛門を
捻り切り出血した。⇒此処事で、完全に外出しての大便の用足しは断念した。
<しかし、この諦めの良い自分が、一般の障害者トイレを使う夢を、ホボ十年間も持ち続
けられたのが不思議に思う。が、此れで完全に諦められた。62 才だった>
「両足を切断しその上に片方の腕が無くなると、自力では一般障害者用トイレでの大便は
不可能である」⇒豊富な費用を有して、昇降機能付きの電動車椅子を購入。それに加え特
別に作ったトイレ箱を牽引したなら、何日でも外泊旅行出来る。⇒『こうすれば、まさに
四国 88 ヶ所を生きている限り巡る事も可能である』-「資金力次第である」
其れからまもなく平均的に血圧が高くなり、遂に降圧剤を処方してくれる様になる。
(最も
右手しか無いのに脳梗塞等で右半身不随に成ったら?と恐くなったので自ら望んだ)こん
7
な身体でも老化してきた(高齢者に成るまでに自然に此の世から消えてしまうと思ってい
た?)ので驚く。散歩等全く下半身を使っての適度な運動をしなくても普通に老後を迎え
たのである。
―
<14>「敦盛/忍び草と詩篇」-
又、織田信長:が「戦国時代の小唄の忍び草」を唄い続けた様に、其の人なりに 50 年間
いきれば生の「喜怒哀楽」を味わい尽くしているはずである。
・・・医科学が進歩して今で
は 60 年を基準と出来ようが?
『敦盛』
<人生 50 年化転のうちにくらぶれば夢まぼろしのごとくなり1度生をうけ滅せぬ者のあ
るべきや>
『忍び草』
<死のうは一定偲び草には何をしょうぞ一定、語り起すよの>
2千年前の旧約聖書に書かれている様に「人生は 70~80 年」とあるが如く、地球上に人間
との種に存在したら、寿命は人種を問わず逃れえぬ宿命である。
―
<15>「女房への感謝」-
そんな時に、女房の指骨折による、1 ヶ月の入院騒動である・・・・
9 月 12 日から数日仕事して休むを繰返し、26 日から通常の通勤を始める。そして 10 月に
入ってからは家庭内も平常にもどった。もっともリハリビは継続である。矢張り、人の身
体の何処であれ、折れると全治 3 ヶ月かかる様だ。
16 年前に家庭へ退院してから独りで、自分の事は自分で出来る事を証明出来たが、改めて
手足の無い、車椅子が足の障害者である事をシミジミ噛み締めた。
8
特に食材の買い物には困った。3 日以上冷蔵庫に入れて置くのは、30 度以上の暑い日々
が続いたので控える。野菜は一切買わず漬物類で過した。病院の担当医師から長くても 1
ヶ月であろう?と直接聞いていたので、炭水化物生活で何とか成るだろうと思ったし、生
ゴミが出るのを可能な限り避けたのである。
(自分が収集場まで持って行くのが大変故に)
・矢張り、野菜や魚肉類等、日々の少しずつの買い物は、女房に頼まないと、健康維持は
独りでは不可能だと・・・味わい噛み締めた。
・ 「10 月 4 日でマル 2 ヶ月になった。
」
―
<16>「まとめ」-
女房が通常勤務に戻って一ヶ月が過ぎたが、指先が少し曲がらないのと、若干イタミが残っているのでリハリビリを
継続している。自分はこの正味 8 月一ヶ月の間で、食べ物の少しずつ買入の大変さが身に沁みた。
家から車椅子で出るのはセイゼイ週一しか出来ない。従って、家庭内で炊事・洗濯・清潔・清掃は出来ても、食べ物
の栄養バランスを取るのは不可能と悟る。
さらに、7 月 26 日(ミイコの死)と相模原事件に絶句して、しばし書く事を躊躇し身動き出来なかったが、如何やら
社 会 ( 先 に 政 府 が 中 間 報 告 す ) も あ る 程 度 客 観 的 な 見 解 が 通 り 始 め て 、 自 分 も 落 ち 着 い て 来 て 、 吾 が Web
「http://www.rakuaki.com/:http://www9.plala.or.jp/rakuaki/の更新を再開し始める。
2 年くらい前から、視力が落ちドライアイと成ったのと、歯が弱くなり硬いものを自然に敬遠してきて完璧に老いを
自覚してきた。そこで上の二ツの HP を止めるべく先んず、2 件のブログ「伊予の”とある”街かど」と「快適生活と、
科学の進歩と、自然との調和」を消した。しかし総てを消去すると、今の自分では、又、同様の事を書き込み始めるで
あろうし、余りに厖大であるので取り合えず現状を維持する事にした。
いずれにしても此のまま展開をするのは不可能なので、順次縮小していくが、その前に総括としてある程度それぞれ
内容ごとに縮めて「PDF」にする。
その第一に 2000 年 1 月 2 日に救急車で搬送されてからを「自分自身を可愛そうだと思ったことなし」をマトメタ。
次は第二に「お世話に成り感謝せねばならない人」を短冊子にする。そして順次すべてを短く要約して行く事にする。
自分は世間の注目を浴びたいとか、社会に問題提示したりする気は毛頭ない。こうしてキーボードに打ち込みながら、
半生を振り返りマトメル事が、唯一最大の憂さ払いに成っている。また書くことが好きだし、他に出来る事が無いので、
此れからはボケ予防なるだろう。
2016 年(平成 28 年)10 月 7 日
楽明 (大石正明)
9
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