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第14回いたばし国際絵本翻訳大賞 イタリア語部門講評 課題図書

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第14回いたばし国際絵本翻訳大賞 イタリア語部門講評 課題図書
第14回いたばし国際絵本翻訳大賞
課題図書
イタリア語部門講評
“
Beeelinda fuori dal gregge”
今回の課題は、仲間の羊たちとはどうしても馴染めないメーリンダが、ひとり群れ
を飛び出し、小鳥たちと仲良くなり、長年の夢を叶えるという、心温まるお話でした。
物語の展開は比較的シンプルなものですが、文法的にみていくと、複雑な構造の文章
や慣用表現が多く、けっして平易なイタリア語ではなかったかと思います。それにも
かかわらず、全体的に「誤訳」は少なく、イタリア語の読解力という観点からするな
らば、ハイレベルの作品が多かったという印象を受けました。
それでも、間違いが目立っていたのは、冒頭の Nascere pecore non e’
di per se’
una
gran fortuna. (p.1) の訳。di per se’
で、「それ自体は」という意味があります。つま
り、「羊に生まれること自体が、とりたてて幸運というわけではない」という意味です。
もう一箇所、fece sistemare gli uccellini nella sua lana folta.(p.21)。sistemare に
は、たしかに「片付ける」、「整える」という意味もありますが、sua lana folta に前置
詞の in がついていることを見落としてはいけません。この場合、前置詞のない gli
uccellini のほうが直接目的語です。このような文章の構造をしっかりと見極めたうえ
で、sistemare の意味を吟味するのです。すると、「宿泊させる」「収容する」といっ
た意味もあることに気づくことができるでしょう。要するに、「自分のふかふかの毛に
小鳥たちを入れてやりました」(最優秀賞作品)という意味になります。
全般にわたって、補語代名詞が頻繁に使用されていました。これは、先ほどの前置
詞同様、“小さい”ながらもあなどってはいけません。ひとつひとつ丁寧に何を受けて
いるのか押さえていかないと、思わぬ誤訳につながります。たとえば、Cosa l’
aspettava
tra i rami di quell’
albero ? (p.8) 。l’ は直接目的語の代名詞 la の母音が省略された
形で、Beelinda を受けていますから、「あの木のうえでは、いったいどんなことが(メ
ーリンダを)待ち受けているのでしょうか」という意味です。同じ l’ が、24 ページ
では、E loro l’
accontentarono trillando. という形で出ています。「小鳥たちは彼女を
満足させてあげた」つまり、「彼女の願いを叶えてあげた」ということですね。l€31
を見
落とし、「小鳥たちは喜んで」と解釈した人が見受けられました。
また、15 ページの
si azzardo’
a darle confidenza という表現、前半は、azzardarsi
という再帰動詞で、「あえて∼する」という意味。後半の dare confidenza は、a +人
で、「∼と打ち解ける」という意味があります。間接目的語の代名詞 le (女性単数)
でメーリンダを受け、「だれもメーリンダとなかよくなろうとはしなかった」となりま
す。
時に、そんなはずが!
と自分でも驚いてしまうような間違いを招いてしまうのが
思い込み。木の上の場面だったからか、18 ページの un foglio bianco(白い紙)を、「白
い葉っぱ(foglia)」と訳した人がけっこういたようです。
イタリア語の解釈と並んで大切なのが、場面ごとに翻訳を完成させてしまうのでは
なく、物語の流れを捉えながら、訳語を選んでいく配慮です。いつも草を食べること
にしか興味がない群れの羊たち、ベーリンダの爆弾宣言で、はじめて草を食べるのを
やめましたね。つまり、8 ページの per una volta の per には、限定のはたらきがあ
り、「このときばかりは」という意味です。そんな群れの羊たち、最後の場面でも、メ
ーリンダの型破りな行動に、草を食べるのをやめて、頭をあげることになります。
furono costrette di nuovo ad alzare la testa.
「むれのひつじたちは、また
うえを
みあげることになりました」。このふたつの場面が関連していることを見落としてしま
うと、物語の勢いがなくなってしまいます。
同じようなことが、18 ページに出てくる、chioma candida
の訳語についてもいえ
るでしょう。chioma は、りんごの木の描写で既に使われている単語ですが、そのとき
には、「葉のしげった枝」といった意味でした。この場面では、枝のおなじ部分を指し
てはいるものの、すでに「葉」は落ちてしまっています。だからといって、小鳥たち
が、「あれはなんだろう?」と議論しているのですから、いくら地の文章とはいえ、
「毛」といきなり答えを言ってしまっては興ざめです。「まっ白なかたまり」などと、
chioma の正体をぼかして訳してあげるのが親切でしょう。
また、イタリア語の解釈は正しいのだけれど、日本語、とくに子ども向けの読み物
として考えた場合、不自然になってしまう場合もあります。たとえば最後の文章、
L’
incredibile spettacolo【中略】le fece stare a bocca aperta e a naso in su. のように、
抽象名詞が文法上の主語となっているとき、「信じられない光景は……呆然とさせた
のでした」というように、文章の構造を変えずにそのまま日本語におきかえてしまう
と、翻訳であることを読み手に意識させてしまう堅苦しい表現になってしまいます。
主語と目的語を臨機応変に入れ替え「そのようすに、みんな
け、はなを
ぐいっと
ぽかんと
くちを
あ
あげたままだった」(優秀賞作品)と訳してあげると、物語の
締めくくりとしてぴったりな訳文が生まれます。
また、イタリア特有の習慣や発想などを日本語に訳すときも、工夫が必要でしょう。
たとえば、bella serata (p.21) という表現。「すてきな夜の会」や「楽しい夕べの催し」
という訳語をあててしまうと、無理をして日本語にしたことが読み手に伝わってしま
います。ここは、思い切って意訳し、「夜ごと楽しく」くらいの訳でさりげなくまとめ
ておきましょう。
それと、同じ訳語を続けて使うのも、単調な印象を与えてしまうので、できたら避
けたいですね。先ほどの bella serata も、in allegria (p.21)も、両方「楽しい」にな
ってしまったのでは、せっかく作者が別の表現を使って書いた文が台無しです。
辞書に書かれている訳語をひっぱってきてつなげるだけが翻訳ではありません。豊
かな日本語に訳すためには、ふだんから自分の日本語の語彙を増やす努力が欠かせな
いのです。
最後に、漢字仮名遣いですが、児童書だからといって、漢字を使ってはいけないわ
けでもなければ、使う漢字が制限されているわけでもありません。ただし、漢字を多
く使いすぎると、使用する語彙が難しくなる傾向がありますので、気をつけてくださ
い。漢字を減らそうと思ったら、熟語をひらいてあげなければならない。でも、熟語
を平仮名で書くとどうも読みにくい。どうしたら読みやすくなるんだろう、と別の表
現を考える。そんな試行錯誤の繰り返しによって、バランス感覚や表現力が培われて
いくはずです。
イタリア語部門審査員
関 口
英 子
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