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体的イギリス経済・社会論 (ー)
海学論集 第59巻第藁号 欝蟹年3月 【論文藷 体験的イギリス経済・社会論(1) 橿 口 徹 野体験的イギ婆ス経済・鮭会誌」とは蓑たたいそうな表題である。しかし,僕がこれから書こう としているのは実はそれ縁ど大綬なことではない。欝85年藁月から翌86年9月までのイキ婆ス留学 の聞紅僕が体験し見難きしたことと,それらからイギ夢スの経済と縫会について考えたことを書こ うというのにすぎない。僕は学生時代からイギ婆ス経済史を難強してぎたから撃イギ婆スは未知の, 見当もつかぬ蜜というわけでは淡してなく,むしろ一番擬しみを感じている蟹であった渉,それに もかかわらず,イギ婆スでの体験は僕にとって非常紅新鮮で,驚くことが多かった。本や絵や写真 などではよく知っていたつも穆のことでさえフしばしばそうであった。たとえば草の丘と草の漂ば かりで,出もなければ木も縁取鱗濠どしかない,それどころか人影さえもないあの霞獲繊景である。 そして背の懸い生垣や石ころの選がえんえんと連なり,そのところどころの区薩の中にそれ罐ど多 いとも思えぬ羊や牛がいる。なぜこういう風景がでぎたのか。黙込みのことは知ってはいたが,こ こまで畠ぶなくなっているとは思っていなかった。しかし,たとえ頭では知っていても,実際にそ の風暴を見れば,霞本の風景とのあまりの違いにやは触心は驚ぎを感じるであろう。事実,こうい う勝景ばかりか,イギ婆ス人がみんな大ぎくて僕には耳なれぬ音の英語を議すのにさえ,はじめの うちはある驚きのようなものを感じたといってよいほどであった。勿議1,そのうち慣れてぎて,そ ういつもいつもは驚かなくなる。イギ夢ス人の中にも小さい人が結構いるということも見えてくる ようになるし,英語も少しは弱きとれるよう紅なる。蓑た,イギ夢スにも毒や秣や畠がないわけで は決してないことを知るようにもなる麟。イギ夢スの鮭会についての僕の経験も,ちょうどその ようであった。最劔は縁とんどあらゆることが新鮮で驚きを感じるが,次第に経験が壊すにつれて あ蓑吟驚かなくなり,講鋳紅驚の嚢にも気付ぎはじめる。そして,最初は矛篶と漉擁と見えたもの の中に,ある脈綾潜感じられるようになり,なぜこのようになっているのかと考えはじめるのであ る。それは,あたりまえのことではあるが,本で勉強するのとは全く違った髄強であった。その違 i) しかし,森秣解イギ蓼ス紅は少ないという点は, や轄:り変わらないのである。P赫蕪夢ご Mo{艶r且Sc鼓oo董 A重囲で見ると,多分ig83年の統誕であると思う藻,葺一臓ッパ諸灘の串で毎restの箆率が最も繕いのはア イルランドの履.8驚で, こ蕊に1次も・でネーデノレランド,すなわちオランダの8蔭%,イギ婆ス(弩.薮3の8.7 %,デンマークの聾.7駕である。この4羅以外はギ婆シャ,イタ夢アでも2倉鬼縁ど,その餓はすべて2尋∼齢 鷺ないしそれ以上である。いう重でもなレことであろう赫,インダラソドもアイルランドもかつて弦森の多 い縁の島であった。しかむ,たとえばアイルラソ騰ま,イギ婆ス人が大蔑撲な牧羊をもち込んでから,みる みるうちに森事補綴くなったのである.イングランドも,牧羊,綾地拡大,本毅による大規穫な製鉄などに よって縁を失った。羊隷,隼とちがって,草でも本の芽でも,根元から食べてしまうので,森林地の再生力 ぶ奪われてしまうようである。タスマニアなど,イギ婆ス人が構畏したところでも,瞬じようなことぶおこ 今,イングランド醜景観を示している。 一欝5一 臨 学 論 集 第59巻第尋号 いは写真で覧るのと実働で見るのとの違いに鍛ている。実物は「具体的董であるから,多様な嚢, 多様な関連をもち,生ぎて動いている。だからいろいろなことを考えさせ,多様な分損と多様な表 現を許す。そして僕もその多蝶さに引っぱられてイギ蓼スについて多隷な興殊関心をもつようになっ た。今では簿を見ても面窪いといってよいぐらいである。わかった,と思ったこともいくつかあっ た。もっとも声わからないことも多いし,わかったと思ったことでもこれから確かめてみなければ ならないのであるがσ しかしそれにしても,わずかi年半のイギ蓼ス生活で,しかも会誌が不震霊なのに,どれほどの ことがわかろうか。 「群議象を評す」という苦い中蟹の譬えや「いろはぶるた」にある「よしの髄 から天井のぞく輩のとお鯵ではなかろうか。イギ》スは小さいとはいえ覆土懸積で舞本の3分の2., 人籟で2分の玉もあ弩,しかも野薮も澄史も多様な諸地域をかかえた麟なのである。僕が鋳をいう にしてもこういう髭舞から免れることはでぎない。しかし,反薄にこうも思うのである。僕が経験 したこと箆鬻ぎしたことは,それはそれとしてまぎれもなく事実である。僕よ吟もはるか紅イギ夢 スをよく知っている人でも,たとえイギ夢ス人でも,僕の解毅を否定することはできても,そうい う事実そのものを否定することはでぎない。僕にとってそれらの事実はとても大勢なものであるか ら,僕は趨分の経験紅.こだわ参たいと患う。露分の経験がごくわずかで,イギ睦スのほんの一認, 縁んの一露にしかふれていなも・ことを心得た上で,露分のイギ婆ス像,自分のイギ婆ス解毅をその 上につくろうと患う。そして,誰の繰であれ,誰の解毅であれ,撲の経験を容れる余地のないもの は,その繰りで一癒的であるか蓑ちがっているかだ,と思う権麟を保留したいと思う。 86年9月末に嚢本に帰ってぎてから,僕は変ずできるだけ時間を割いて饒と麟じようにイギ夢ス で生活した経験をもつ臓本人その飽のイギ貸ス体験談を読み,露分の経験がどの程度の一般性をも つものか確かめるとともに,麗の場勝,溺の時難紅躍彗の人たち解した経験で目分の経験を;縫鰐化し ようと努めた。これは楽しい作業であった。ついでそれらの経験を慶史的・経済的に諒解するため の勉強紅入った。今も察分のもとからの奮闘領域の勉強に簾えてそれを続鐘ているし,今後いつま で続くかわからない。ところがそうしているうちに,もともとイギ婆スで考えていたことと,その 後の勉強の中で考えるようになったこととが,だんだん甕聡しにくくなってぎているのに気付いた。 今後侮年かするうちに,憲すます藪饑しにくくなるであろう。今のうちにもともとどう考えたかを はつぎりした形で残しておいて,いわばr後智慧」と漉濁しないようにしたい。な巷なら,あのi 年半に経験したこと考えたことが,イギ婆スに行く以羨に懸強していたことと重んで,今後み僕の イギ婆スについての,しかもその歴史と饗状の両方についての,鯵強の鐵発、燕だと慰っているから である。豪た,どこ蚕で嚢分が正しく見ていたかそうでなかったかを後で確認でぎるようにしてお きたいからでもある。これ渉この論文でもなければ藩究ノートでもない,es懸yというしかないも のの意麟である。 本題に入る鋳に,僕のイギ瞬ス体験の時簸と場辮について籐単に説塾しておこう。購じイギ婆ス でも,時難や場醗寮違えば全然違った経験をし,全然違ったふうに考えるようになるのは当然だか らである。 僕が滞在していた聾85−86年という時難は,つい先頃辞任したサッチャー保守党政権の中筋,失 一驚§一 錘 韓:体験醜イギ》ス経済・鮭会談(蓋) 業率が最高点に達して,全羅平均で欝.5驚にもなった鋳難である。羨年の欝84年には大規摸かつ長 潮の炭坑ストがあむ,炭坑労欝者と霞本の機動隊のようなr董醜ge継という装講をつけた警官隊と の衝突もあって,85−86年にもその余波がいろいろな形でみられた。そして,労欝継合法の酸変, 企業罠営髭,歓会繰靉靆獲の見直しと切篭詰め,教官麟度の大串な手聾し,大学を燧々に業績審査 して,もし申分な業績を上げていないとされれば予算を大南に離減し,ばあいによっては董つの学 科全謡をつぶす,などといった厳しい政策が強力に,強引に推進され,大量失業,貧富の差の拡大 とあわさって,イギ夢スの縫会のあら傘る薬悪に薄立と緊張が高まっていた時簸であった。新灘に ほ,鰺3善年代に匪敵する,いやそれよ今も悪い。政癒は7年闘に絡羅も襲業率の誕算方法を変え, そのたび紅低く鑽るよう紅した。水難の失業率華灘7驚以上にもの藪るだろう,という援護さえ載っ た。 その状濁隷と鯵わけ都毒認,特に工業都市で最も鋭く繊ていたが,僕が暮らしたのはそういう工 業裁毒のひとつ, レスターの,南東の薙外にあるオウドど一〇換盤写というところであった。 レス ターはイングランドの橡とんど中心,重心にあたるような綾羅にあって,買一マのプ夢ソテソ島支 翫以蕪からあった古い都市である。鋲説では,シェイクスピアの戯麟にも鐵る婆ア王の建てた趨霧 だということになっている。今でもβ一マ人のトルコ風鍵のような方式の集鐡浴場の壁の一部が残っ ているし,多数の鐵±晶藩博勃館にある。中選1には,このあた鯵一帯の商工業の中心であり,重た 州都として政治的中心でもあって,特に輩毛嚢業解重要であったが,それ鍛どの大都毒ではなく, 地方的中心部甫にすぎなかった。それは今でも残っている絡縫紀の木造のギルド・ホールを見ても わかる。しかし,i7穫1紀以後うすぐ載のノッティソガムシャーナダービーシャーと謹んで量罎ew{)r藪 k擁t雛琶という一種の機械織物業が農村薬で発展し,特に産業革命難以後大発展する。この発展に よってレスター一は工業都南に変わって行ぎ,機械覇物業が本当の意殊での機械麟工業,工場麟工業 紅変化する欝盤紀後睾に大発展した。馨暮暮年に賀,○倉9人,嬢灘年にも6万人に発たなかったレスター の入籍は,鰺齢年紅は鎗万人,i鱒書年毒こは22万人にもふくれあ解っている。機械編物業の発展はそ れに麗連する機械製造業も引ぎ寄せ,これに換えて第一次雛込み運動以後周辺農糧で穀作紅かわっ て発撰してきた牧畜業を基礎にもつ皮革工業,特に製靴業とそれに闘達する諸工業も発展した。こ うしてレスターは近代的工業都講となった。勿論,騰業的中心でもあるし,州の政治と文化の中心 でもある。現在レスターの人簾は約28万人,福島毒と大体瞬むくらいである。婚総年墳はこれよ穆 i万人隷ど多かった。しかし,福島毒が日本で6§弼番醤かの大饗燭摸でしかないのに鰐し,レスター 毒は靴アイルランドも蕾めたU謳t綴K短麟。盤。蛋Gre盆 瀬捻無脇δ翼。魏魏e凱簸登ei袋綴全捧の 中で露盤,イングランドとウェールズだけなら爵位(欝経年〉という大都毒である。重た,事実上 レスターと融合してしまった,行政的には磯の毯治体をも含めたco簸蟹盤鍍。貧としてのレスター の入舞は灘万人縁どもあるという。住んでみての感鰻では,しかし,レスターはもう工業都南とい うよりは商業都市の零露気で,市の中心藻のショッピング・センターの賑わいだけが嚢堂っていた。 今のイギ婆スの工業都市のすぐ目につく特籔は,失業率の高いことと禽竜人種の多いことであるα 有色人種は歩登璽インド諸酷やアフ婆力の1馨槌1民地からの黒人と,インド大陸系の褪色の人たち藻主 である。インド系は,ベンガル,パキスタン,インドを含み,その上露6§年代紅アフ琴力からアミ ン大統額に追い鐵されたり逃げて来たりしたインド系の人たちも含んでいて,一振してAs量錨sす 一欝7一 商 学 論 集 第5§警策畦号 なわちアジア人と呼ばれているが,以下では単純紅イγド人と呼ぶことにしたい。僕にはその串で の露の区懸嫁つかないし,隅じくアジア人である嚢奉人がアジア人と呼ぶのもおかしな議だからで ある。お蜜けに,中撰入や賢本人はC短BeseとかJaβaRεseと呼ばれるのであって,As重鍛sには入っ ていない。黒人もインド人も,第二次大戦後,抵賃金労轡力として大量に導入されて以後,急速に 増撫し,ロソドソやバーミンガム, 箏ヴァプール,ブ婆ストルなどの大都霧では穏当の人環雛を占 めている2)。 高失業率と有色人種が多いという2つの点では,レスターも瞬らかに工業都衛の蒋籔を示してい る。特に薦の詫都から東藻にか診て有色人種の集中している地域があって,地区によっては欝6馨年 代の進むうちにほとんど鎗§驚紅なったところもある。そして,そういう有色人種の多い地域は特 に失業率が高いのである。しかも,イギ婆スでは欝本と逆に,若年履の失業率が中高年贋よ鯵もずっ と高いσそこで,有色人種の若年贋の失業率は最高最悪で,この贋紅聾に不溝が欝積するのも蚤然 である。また,縄じく移民でも,中園人は中華料理渥や中馨食品・物産店を経営したりそういうと ころで欝いていたりしているのが普通で,イギ婆ス人の震に覆われていたりバスの運転手をしてい たりするのは見た覚えがない。これに対してインド人と黒人はそういうところに雇われている。し かし,インド人は縁かに癖を鐸営しているのも多いが,黒人の震は少なくともシスターや揮ソドソ で韓見たこと損ない。この傾向は統計でも確認できるようである。とすれば,黒人著年暦の中で最 も失業率嚇高くても不思議はない。ただし,レスターのばあいは,有色人種緯インド人が蓬縫的に 多く,黒人は鏡鞍的少ない。中国人もあまり多くない。その点,ロンドンなどとはかなり違ってい るし,購じく工業都市でもバーミンガムなどともまた違うσ 最後に,これから書くことの材料についてお噺移しておく。誘料は,僕の謡憶とイギ婆スでの登 記,それに新麗がほとんど全藻である。峯は専ら農分の専稗や大学で聴いていた講義紅絶するもの ばか箏讀んでいて,イギ瞬スの現状についての本は,欝本に帰ってから読もうと思っていくらか買っ て畢よおいたが,イギ夢スに.いる閲華ま読憲なかったからである。新濁は,特孝こ駈らな実・限りはG建ε瞳{重量&数 である。地方紙としてはしe重cesもer赫erc雛yを時々羨んだが,あま移頻繁には買わなかったし, 買ったものもほとんどは捨ててしまって,ごく謹かしか霞本にもって懸らなかった。これらの薦飯 の新鹿と購に野毎選金曜蔭に無料で翫奮されてきたOa蕊y a登δ轡1薯S沁鍛翼¢WSという一種の薮 告紙藩あって,これは糞店の広告や売家の菰告以外は,専らオウドビーとウィグストソの纏粋に露一 カルなニュースを,誰と誰とが結婚したとか,どことかの教会の較麟さんが今度新しい人にかわっ たとかというようなことまで書いていたσこれも罐とんどは接ててし重った。そのため,L磁cester Merc軽ryとOa{費)y&盤{墨W蔓琶sto盤麺ewsの言薮事のばあも確ま, 難イ寸垂ナを瞬示でぎないばあ恕・がある。 [H 鯵85年嬢層2霧早朝に震yドソに到着してから数舞闘は獄ンドソ見物をしていたが,その数欝欝 2〉盤蕃緩1次難球現代イギ夢スの移鐸…労欝者一イギ婆ス資本主義とノ、種差男軽一盞 よ。 一驚8一 (鱗石書落,ig88年〉を昆 麺 霞:体験麹イギ婆ス経済・鮭余論(亙〉 の経験は,いわば白紙に色鱗かな線を簿本か引いたようなものである。色鮮かではあっても,まだ 輪郭をなさない。しかし,その中には以後く鯵返し経験することがいくつか入っていて,後紐なっ てからあれはこういうことであったかと悪、いあたるのである。 繁華街では窟ず建物の立灘さ豪華さに鰻を奪われた。それ縁ど高い建勃はない潜,謄本の大都市 と違って石造りの建働蕃多く,いろいろと装簾をこらしている。豪華ではあるが,僕の好みからい えば少し装鱗過多でうるさく感じる。木造,あるいは木造と見える建物もある。ともかく建物の様 式が多様で,海量紀もの闘に建てられた建物潜髭在して一種独特の雑然とした雰醗気をつく参出し ている。考えてみれば,イギ蓼スは関ヶ原の戦いの半世紀後に霞艮革命を行ない,瞬治維新の欝今 年も前に産業藁命を麗蛤しているのである。セント・ポール大寺院のところが好饒である。蓑鰹の ところは中雛:のままとも見える整い衡鶏が懸りくねむ,セント・ポールの写真をとるのに十分なス ペースもない。横手にまわってみると,ごくありふれたガラス張移のコソク婆一ト造鯵の近代釣ビ ル,それもかなり安っぽい感じのビル解,これまたセント・ポールの銚めを一藻さえぎって,薦近 かに立っている。セント・ポール霞体は,後に箆馨れるようになるイギ琴スの中量の教会とずいぶ ん違って,異鑛風で,かなりモダンにも見えるが,賀鍵紀末から露量紀溺にかけての建築である。 獄ソドソは,京擁に懇て,建鞠の中にその歴史の厚みを見せているわけである。少なくとも,イギ 婆スの全盛難をふくむ総繊麗から臆量紀までの歴史は,少しも探さなくてもすぐ目につく。 建物が豪華壮麗であるのと対黙約紅,街露はごみで汚れていた。婆一ジェソト・スト蓼一トでは, 袋が破れてこ振れてしまったのか,クラッカーのようなものが沢鐵綴に舞っていたし,涙手な身な りをして霧爽と歩いている2人連れの娘さんが,歩ぎながら粥か食べていて,そのごみを緩いと無 造作に.遵に捨てた。衡を行く人びとの顔つき醗の色がさ蓑ざまであることに,も驚かされたσ農人露 身,髪の魚がさ豪ざ豪であるが,その霞人の中に黒人,インド人,それに銭本人と瞬じような顔の 東洋人が訳出憲じっている。僕には,はっき参とそう意識していたわけではないが,イギ婆ス人の イギ夢スを見ることを難待していたところ解あった。ここは舞本ではない,大英帝撰の首趨だ,と は思ったが,それにしても僕0)黙こは異様な感じを与え,どうしてこんなに訳出の外羅人がいるの かと不思議であった○僕が経済史や文学で知っているイギ婆スはそうではなかったのである。 霞ソドソの第1霞馨に忘れられないことがあった。蓼一ジェソト・スト琴一トという繁華街を歩 いていたら,G鍍e4轡e鎗wooδという立潔な殉難癒があった。ウェッジウッドというのは産業革 命史の中で誰でも知っているあのジ誰サイア・ウェッジウッドであろうと、懇って,中に入って見る ことにした。嚢の趣味からすれば覆してけばけばしすぎるが,しかし豪華な侮蓉ポンドもする陶器 のセットがいくつも練列されている。客はその時ごく少なく,それも身なりの買い人ばか移なので, 自分が霞立ってしかたがない感じがする。幸い誰にも議しかけられることなくひとわたり見終わっ て,早々軽愚て行こうとしたら,畿轟のドアのところで2,3人のハイティーンの娘さんたちと出 くわした。僕ぐらいの年醗の霞本人ならたいていそうすると思うが,僕は立ちどまって嬢さんたち に先をゆずった。す’ると,娘さんたちは,“↑墾鍛髭yoバといって先にドアのところに行ぎ,何と ドアを内灘に饑いて押さえたまま,僕を待っているのである。それも美しい笑顔をして。僕は一瞬 何のことかわからずどぎまぎしたが,すぐ意殊がわかって露じように餌丁麺櫨Yoずといって韓本 式の会報をして外に農た。しかし笑顔はできなかった。痘ソドソについたばかりの僕には,濠だ英 一王(}9一 晦 学 譲 集 第§9巻第遵暑 藷がよく灘こえてこず,醗の様子,さ窪ざまな人種,そしてほとんどが晃■上げるような大ぎな人聡 ばかむであるというようなことも手伝って,侮か落着かない不安な感じがあむ,イギ薯タス人が何か えたいの知れない人潤のように見えるところがあった。それだけにこの嬢さんたちのしぐさと笑顔 には,奉盛に心藤むものを感じた。今でもその美しい笑顔が§に浮かぶ心地謬するくらいである。 こういうイギ蓼ス麟マナーをま,その後彎度も,縁とんど毎響のように経験することになる。この舞 じ疑にももうi度経験している。地下鉄の入霞のところで中年の男性がsw塗響δoorを醗けて入っ ていって,後をふり返警,僕が数メートル後からぎているのを見るとそのま蚕じっとドアを灘けて 押さえたまま待っていてくれた。“丁難a蕪yoずというとにっこ弔する。時にはあわてて走って行 かなければならない絵どの疑難解あってもぞうして待っていてくれる人もいたむそして微笑である。 ロンドン第2段欝に簸2ws聡g溢すなわち新驚を売っている繕で郵優罵をたずねた時にも,緩手の 2轡才少々かと思われる女性が,撲の物始蕪yoずに美しい笑顔を返してくれた。晃ず知らずの人 間溝志がた蓑た蓑ドアのところやバス停で行ぎ合わせ,§が合えばまずたいていはにっこりするの である。勿論そうしない人にもその後彎綾も鶴度も鐵会っている。特に若い人の申に無愛想な人が §立ったα中にはあからさ窪に敵意のある馨を瞬けてくるばあいもあった。恐らくあとでふれるよ うな人種問題がからんでいる。しかし,反鰐に,モヒカソ落磐の若者が舞じようなイギ}ス的マナー を示したこともなくはないのである。 露本人のマナーはこれとは全く違う。難っている人嚢こは金穀したりにっこ参した冷するが,難ら ない人なら嚢が会えばそらすの潜普通である。美しい媛さんににっこりでもされれば,それこそど ういうことかと当惑してし奮うだろう。僕はこの点江ついてその後錘震い経験をしている。9月半 ぱに僕の以蔚の教え子が友達といっしょに舜ソドソに観光練行に来,その案内をした時だと患う。 買ソドソ大学のそばを歩いていると,講こうから次から孜と何人もの馨本人がやってくる。こちら で嚢本綴の会毅をするのだが,たいていは黙って霞をそらしたり急にうつむいたηするだけで,会 毅を返してきたグ〉はi人しかいなかった.おそらく,イギ婆スにいる欝本人は,イギ夢ス人に耀し てはイギ鯵ス流のマナーで接するのであろうが,薩摩人講士になると欝本流軽震をそらすのである。 舞本人は仲闘と仲縫でない者,身内と身内でない者の区溺,内と外の区磯毒茎はっき塾していて,内 のつぎあいは親密であるが,舛とのつきあい方は下手である。特に上下関係のはつぎりしない躰の ばあいはやりにくく感じるむイギ婆ス人は,内のつぎあいは籟本人のばあいよりは5舛」的である が,外のつぎあい方が嚢本人よ鯵も上手で,そこのところのマナーぶよく発達している,というの が僕の感想、である。 イギ》ス釣鐘笑みが,僕のような外霞んそれこそ{鍵e圭欝鍍の心をどれだけ瀦蜜せるものであっ たかは,もう書いたことである解,露分の表現力の乏しさが旛藻ゆいとしかいいようがない。ここ に僕渉レスターのSa蓋麟Dayという藤で見つけた鍛笑みについての文章を原文のまま揚げておこ う。この繕はレスター大学に近いLo登δo簸貧。&δという大ぎな逓むにあって,年金生猛者らしいお じいさんやおばあさんや,見なりのあま鯵よくない人の多い小さな安いスナック風の店であった燈 イタ縫ア人の経営らしく見えたが,なぜかスパゲティはイギ婆ス風にぐにゃぐにゃでぶつぶつに穿 れていて変ずかった。 一難(}一 麟 翼:体験釣イギ婆ス経済・藍会論({〉 S蕪豊ecosts餓臨墓,醸蜘es嚥C薮.髭e癌綴es童熱ose蝋orece童ve畷盛磯搬露鍛暮 β00釜ert嚢慨嘘0琶ive.至重t盆εsb膿&灘O盤藤,醸撫e醗e懸0轡0鐘SG鶴乞漉esi籏重蟹 ev鍵.翼O簸e量S SO薮C熱Oで躯麟ty塩磁飯e c麟暮e重譲G鍛琶W重患0滋重竈磁{董簸0豊εSOβOGでむ雛 t鼓a撒ec繊漉騰邊e姦雄むy詫.As鍼茎ec若e鶴s鼓鐙撫ess短慮e鼓。懸e,{os麓rs琶oo感w選 睡瞬s重縫essa綴董s甑eco膿te盤ゆ。ぞ毎e賊s蜘.工鋤蕪響srεsttot薮eweaでy,磁eer乞o t短感量sco蟹a墓綴,s雛s臨etot暴es羅δa露玉竃呈s醸簸res短s盤癒醸e董Gτt魏碁鎗・Y8猛 C錘醸beもβ騒鹸t,艶麗磁,も膿oweδ,ors鉛室e簸,{or圭t玉SS幡紬塗琶t醸董SO無OVぬ2 to膿yo箆e醸垂臓童s癖ve賢農way.S憾e脚幾重s奮oot醜戯G幽eyo殻3織艶・G壷ve撫鰹 。盤e o重 yo罎でs野歌s 登。資e 鷺㏄δs a s鐙藍e so 盤鞍C簸 as 簸e w蕪。 鼓欝 農G 盤《獲e 董0 9墨ve・ A琶嶺{)r琶盤髭縫ow簸. こういう一面がイギ婆刈こはたしかにある。そしてこの文章霧捧,いかにもイギ夢スらしいと 思う。琶。登esty童s撫奪もest愛媛重cyという諺に通じるもの摂ある。書いた人がわからないから 時代もわからないが,やや古風で,i誰紀ではなかろうかと思う。もしそうなら,その贋から翫羅誌薮 s驚1艶がひとつの縫会的な横わしになってぎていたということだろう。 謄ソドソの3貫§,僕は大英博物館に行った。その藻難物の形容を継した費富さ,それもこま ごました無常の生活矯具のようなものから,どのようにして殺ぎ取って持ち帰ったのだろうと驚 くような巨大な石の彫灘まであって,これこそ豪さしくかつての大英帝羅の窟と権力を霞のあた りに示すものである。入場料も不要であるG嚢本とは大変な違いだ.大英博麹館紅,1簸らず,いろ んな町の薄物館も無料のところが多かった。レスターでもそうであった。ただ,今はどこでも財 政難なので,入舞のところに寄付籍を置いてあるの渉普通である。そして,維持に鵜芳してほし いというようなこと潜書いてある。教会でも観光名勝になっているところはそうだった。レスター のある博物館は中が透けて見えるプラスチックの寄付籍を置いていたので,普通はどれくらいの 金を入れているのだろうと6)ぞいて見たが,たいていは緯ペンスか灘ペンス,すなわち灘円橡ど からi蟹葺弓少々に糧嚢するコインで, iポンド(i攣85年中は3蟹響彗から3(){)錦ぐらい)のコインは ほとんど見た覚え溝ない。ただしこれは公的な博物館のばあいで,私的な博物館やそれに類する ものは磯である。 その大英博勃館の絵葉書などを売っているところで,i人のイギ婆ス人の男渉売り場の女性と 誰をしな潜ら紙幣を濃した。その後の経験でいえば多分2(}ポンド札である。欝本霧にして6,5叡) 円程度である。その蔑を,女性はにこにこと議しながら空紅かざして透かして見た。贋醜かどう かを見ているのである。しかし,にこにこi議しながらであるし,男の方も磯に.{羅とも思っている よう紅なかった。その後,僕密身が飼度も講じことをされたが,もしこの光景を見ていなかった としたら夕嚢本人あるいは舛蟹人だから疑われているのかと思ったであろう。イギ夢スで垂よ欝 ポンド畜雛浜下だとそういうことはない渉,2倉ポンド札だと時々これをやられる。総ポンド札だと ほとんど流通していないからでもあろうが,弱ったような真鰯な顔をされる。よ捻ど綾札が多い のか,あるいは警嫉心ぶ強いのか,どちらにしても繕か変である。それに,鉱水でなら,か弩に 疑ったとしても,お客の§の蕊であからさ重に透かしてみるようなことはまずしないだろう。 一i聾一 商 学 論 集 第59巻第4号 大英博物館でくたびれはてて,すぐそばのR鵬s緩S脚継8という広場でベンチに坐って煙箪を 騒っていると,地陳で平凡な身なりをした中年の女性が来て,坐今たそうに見えたので脇に寄って 場霧をあけた。“丁数繊髭¥(}ずとにっこりして話しかけてきて,欝本人だとわかると,嚢本には行っ たことがあるといって,金沢,横浜,東京その縁か,いくつもの名をランダムにあげる。美しい羅 だというから“丁盤駐盤kyo雛.Yo穫k鋒ow騰建資y擁aces.挿などといっいるうちに侮か妙なぐあいに なってぎた。詳纏は省1略しなければならない藻,§分はスコットランド人で(漉。しかしなまりは 少しもなく,僕にもよくわかる英語であったむ〉カナダ人の恋人がいた漢,奥さんのところに帰っ てしまった。私と恋をしませんか,というのである⇔勿論,僕は簸わって,早々にさよならをいっ て立ち表つたが,これは売春媛かなと思った。しかし,この鋳はそれ以上は侮も思わなかった。か な吟後になって新羅でわかったところでは,今のイギ夢スの大越毒では,主婦売春がかな鯵多いの である。 蓬無目と5β欝は,しばらく誌から鱒ソドソ大学に来ていた友人2人に案内してもらって,難ン ドソのあちこちを見物してまわった。その欝気擦ついたが,意外な縁ど沢山の濤舗とか家とかが, r売る」とか薪貸す」とかの醜をぶらさげている。貸ソドソ毒薄物館のそばには,薫れはてたビル の廃蟻がそのままになっていた。ロソドソ薦博物館は,中量の斎壁の龍藩鶴のすぐ外灘垂こあるので あるから,いわゆるヂシティ」のすぐ外,ロンドンの中心額といってもよいところのはずである。 その後ここへは侮人もの欝本人を連れて行って見せた解,講じような光景は,縁とんどいたるとこ ろの都薦で見られた。レスターでもそうであった。農村認でも売家や倦家をよく見たが,これは少 し意味が違っていて,馨本でいうベッド・タウンに少し鯵たところのあるδo鋤量to響tOWRとかv熱鎗e になっているためのようである。翻発業表もあちこちに入っていた。 連月5欝の金罐騒,夜になって急に沢寅の人が町に患ている。後でわかったところでは,その欝 はGooδ嘗r遍ayという,復活祭の2露前の祭霞であった。パブはどこも満員である。その人波み の中で,みす罐らしい身なりの犬潜僕らを見て擁かいっている。聞ぎとれないので群So登yブとい うと,蛮た何かよくわからないことをいっている。 「パンツ涯というような言葉が露こえる。友人 ぶ, r乞食だよ。やらない方薬良い。」という。 rパンツ」と灘こえたのはペンスであった。また しばらくして購じような人蔘寄ってぎて,今度は紅ね¥o蟹”という言葉が聞こえた。多分,この講 じ醸の欝中,雨がしょ蔭しょ醸降っている中で,3,達人の浮浪者風の男が,醗まっているビルの 入βの少しくぼんだところにたむろして,坐ったりねそべった令しながら灌をのんでいるのも見て いる。檬ソドソのあの富とこの貧器,それも「揺籠から墓場窟で」の福量蟹家で,である。 夜おそくなって郊外の磁欝蟹eの慮まで帰る時,地下鉄の中で黒人の3人緩の若者渉傷若無人 の振舞いをしていた。結欝こんでいたのに,車両の講かって麿灘の入韓から石は披ら3人だけで, 白人拡誰も来ない。みんな左灘の方に貨ってしまう。僕も薄気殊悪かったが,露人と差し向かいに なるのも顧だったので,その黒人のほうに坐った。どこまでいっしょかと思っていたら,Ca盤感8R To碑登という駅で鋒りてくれて縁つとした。その後は白人たちもこっちの餐彗に来るよう紅なった。 イギ瞬スでイギ婆ス人たち解達磨していなければならないというのは,どう見ても変な話だ,とい うの蕃その時の率薩な感じであった。それでもまだ,窪ソドンはニュー葺一クやパ婆などよりは地 下鉄の中での事件が少ないということであった。 一難2一 灘 灘:体験的イギ夢ス経済・歓会論(亙〉 嘆月7欝,復活祭の韓に灘ソドyから留学羅的地のレスターに移った。レスターに着いて荷物を 引きずりながら蜜の鐡緯のところ重で鎧てぎた鋳,若い2倉才くらいの男が締か雛ただしい感じで近 寄ってぎて,よくわからない聲を饑しながら身ぶり手ぶりをしている。鰐ごとかと愚っていろいろ やってわかったことには,その青年は唖で,これからPソドソに行くとか帰るとかするのだ藩,葎 ソドソまでの汽車賃を貸せといっているのであった。少しむっとして,僕は馨本人で,舞本から来 たばかりだ。あなたはなぜ警察にいかないのか,というと,簿もいわないでさっさとどこかに行っ てし蒙った。勿譲,“丁鼓a曲yoずも徽笑みもなかった。これは本当の唖ではないな,§本人はカ モだと,馨ってたかろうとしたな,韓も根擁はなかったが,そう思った。 繍本人と見ればたかろうとする者がいる,というのは,その後まんざら擾擁のない推灘ではない と患うようになった。第iに,イギ夢スに行くまで躾はそんなことは少しも知らなかったが,暮本 人は金持だと法く信じられているらしいのである。僕はそのことぶ議題に濃るたびに,暴本の会鮭 は金持だが,普通の欝本人は金持ではない,むしろ貧しい,と擁護も説隣した。帰国後は少し意見 を変えなければならなかった潜,基本的には宣しい説覇であったと今も思っている。第2に,馨本 人は普通英藷で会議することが苦手で,また少しの金ですむことなら面縫なことにかかりあわない ほうぶいいと思うだろう.英語で纏嘩をするなど思いもよらないことであるし,お裏けにたかって くる男ぶたいていこちらよりもずっと身体が大ぎいのである。特に,遵痩目に金をせびられた時に このように懇、つたが,それはこんなぐあいであった。 レスターに来て3ヶ月橡どたった7月のある朝,大学に行く途率のことである。大学のすぐそば にS壷鐙。登δe凝。獲秘鍵Ra猛3〉という音楽会をやったり大きな集会を麗いたりすることのできる !宣濠な建麹の花の美しい庭のベンチに3,塗木の労務者綴の男たち解坐って何か議していた。庭の 手入れにでも来ているのかと思っていたら,晦こうも僕の方を見ていて,なかの1人潜立ち上がっ てこちら紅来,聲をかけてぎて鉄纒ごしに握手を求める。簿かよくわからない藩こちらも手を鐵し て握手をし,議しかけてくることに掘手をしていると,金をくれというのである。すぐそばを膳人 もの学生や教職員渉通って行く。なぜあの同じイギ婆ス人たちにいわないのかとたずねると,綾ら はだめだ,いうだけ無駄だ,というようなことを笑いながらいう。この時,ああ,と売程のような ことを思った。そこで,では僕もだめだ,さよなら,といいすて,まだ何かいっているのは無視し て立ち去った。この男垂こはもうi度ねだられている。もう寒くなった簸月末の霧の濃い朝,今獲は 大学購内の露購建てのひよろ長い塔のような建物のそばで,2人連れの男が僕を呼びとめた。i人 はこの男で,もうi人は見たことのないやや小梅でずんぐ参した男であった。そのずんぐりした方 ぷ,亙&艶。羅とか,We麗e Scotc鼓盤e鷺とか侮とかいう。韓だというのに2人とも酒気を欝びて いる。パッと葎ソドソの藩婦らしい女のことを思い離した。ああ,これはSc碗。盤ではなくてE簸幽幽 だ,恥ずかしいことをするのでSc航磁と魯しているんだと思ったσそうでなければ誰がわざわざ Sc碗。薮だなどというものか。ちょうど麟書館に行くところであったのでゼ灘so靭,至’盤挑s罫暫 といって行こうとすると,“Exc簸se盤e.”といって登二め,難e短とか侮とかいってやはり金をくれ 3〉こ鶴まいう重でもなく,ノ畑ソの反鼠の詣導妻で,ケニルワース載からこのあたり一帯を支麗したレスター 簸シモン・齢モソフォールにちなむ名である。ただし,イギ琴ス人は,サイモン・ド・モソトフォートと いう。 一級3一 嚢 学 識 集 第59巻筆墨号 といっているのであるαこの鋳は以繭とちがって,わけのわかっていない小構な嚢本人を見下すよ うな態度ではなかった解,金をやる気に.は少しもならなかったので,礁No,で醗so騨y.辞とあっさ り1懸ったG茎年半のイギ瞬ス滞在の閤に.,あと2醸,趨合71璽金をせびられ,6睡§と7睡欝のと ぎには,むくつけき大男にしばらくつきまとわれて欝易したが,結局,金はi痩もやらなかった。 金をや鯵たくなかったのは,灌を韓中からのんでいることが多かったせいもあるが,なぜ外霞人と 見るとせびむに来るのかという気持ちもあったからである。鋒本では,昭灘鋳年代の勧めぐらいで 乞食やアコーデ孝ソを弾いて喜捨を求めるき衣の傷疾軍人の姿が街から潰え,その後鐙年縁どの間 に街で金をせびられたのは,東京では墨度もなくて福島で玉度あっただけである。もっとも,「門 付けですが雄と懐しいようなことをいって数璽家に来た男はいた毒㌔いずれ紅せよ,この頻度の差 は雄弁であろう。 レスターについた嚢は狂3s艶r S猿雛43yであった。町に鐵てみると店はみんな闇蚕っているし, 人も縁とんど姿が見えない。地緩は手に入らず,食事もでぎない。しかし,ホテルのしゃっちょこ ばったレストランで蔓食はしたくなかったので,すきっ腹を掩えて人のいない町を歩いていたら, 立濠な中華料建癒がひとつ竸いていて,ようやくおそい星食にありつけた。しかし,ここはここで, 蓑だ蒔懸が皐すぎて飲みたくもないワインとかビールとかを食事の蔚に頼まねぱならなかった。イ ギ婆スには,特溺の事嬉があるばあいを除き,宗教的な運震で舞曜欝の営業を禁止する法律がある こと,中蟹人やインド人のよう範アソグ婆カソでない人たちだけがその法律の趨稽外にいることは, しばらくしてようやくわかった。この法律を廃塗せよという要求はかなり強くて,何嚢か廃艦法案 が擬態されたが,そのたびに反薄も強くてつぶされたということである。僕のいた購にも,欝罐欝 の営業を許せば海千とか繕万とかの佳事翼が生蚕れると,廃壷法案が提崖された潜,葵馨々教会の 強硬な反鰐でやは今つぶれた。その中華料遷籍ではチップのことも気になっていたが,こういう繕 ではs擁すなわち認r薩cec盤紅鶴として懸定書の中にはじめから入ついることもしばらくしてやっ とわかった。なに.しろ,講定書を見ても韓が書いてあるのかさっぱりわからないのであるσいちい ち確認するのは聡ずかしいという気持ちもあった。 次の月経饗は大丈夫かと懇っていたら,これもE&鎌継MG磁鋸という抹鷲で動きがっかなかっ た。後にこの詩の語をすると,知む合いのイギ甥ス大鷺,それは襲ったろうと,購情された鯵笑わ れたりしたものである。やっと火耀舞紅なって窮も大学も銚きだし,留学先のレスタ…大学4〉舞撃a護灘e鏡 GぞE簸繭磁Loc展H減磁y(イギ婆ス地域愛学科と訳しておく〉に受け入れてもらうための手続 やら,欝甕室や緩書館の件やら,いろんなことが進行しはじめたα饒まいのことも藪縫を見てもら えた。高いホテルから,しばらくのあいだ半分以下の安い懸擁鞍蝕畿e董と看籔に書いた実質的な ホテルに移るようにし,その後S嬢驚ね羅蕪a難という立灘な寮に入れてもらえた。重た家族を呼 んでいっしょ紅暮らすための貸家もいくつか箆につれて行ってもらえた。S線癬。露量{謹という寮 は,レスター大学がもっている寮のひとつで,大学から3キ瞬まど嫁外の方に行ったところにあ今, もとは金持ちの大きな邸宅があったとかで,ふたかかえもある大ぎな木が縛本もあ吟,ぎれいな1花 壇と芝生のある籔い籏い莚をもつ次ぎく立濠な寮であった。庭には栗鼠がよく鍵てきていた。ここ は学生だけでなく教員や職員も何人か入っていて,大学院生鉱主の身分の者(職員も入る〉はse滋破 一i麺一 縫 羨:体験的イギ夢ス経済・縫会講(i〉 醗曾搬わerとして学蕊学生とは違った掻いを受けていた。勿論寮費も違うのであろう渉,藻屋1も違う し,朝と夜の食事も,学生はセルフ・サーヴィスなのに,se撮破灘e磁berは一段高い壇の上の短鹸 捻媛¢につぎ,料理がそこまで運ばれてくるのである。土耀の夜にはワインも懲たし,夕食後は翼 罐以外はいつもse懸鍵co搬撮。登roo欝という磯の大きな談議室でコーヒーやティーをのみな潜ら しばらく雑談すること紅なっていた。食堂に入るときにも,まずこのse滋。ぎco盤醗。盤roo総に集 まり,時鷺になったら列をなしておごそかに食堂に入む,厩熱ta緩eにつくのである。員茎麟t論至e の重ん中には,ギルド・ホールでも見るような,そこだけ特に大きくて背もたれの高い椿子があっ て,w蟹昌e賑すなわち寮監が坐る。寮監は教員ではなくて専糧の職で,炊婦,園丁丁,掃除婦などの 寮の痩馬人を統轄する。学生鎌あらかた農分の纒をもって霧鈍つくと,この寮監が立ちあがってスー プをつぎ分ける金の粉子か鶴かでテーブルの上をガツソと瞬ぎ,あまりよくわからなかったが繕か をいう。時にはお祷鯵のようなことをするむそうして蓄籍するとがや潜やと食事が鎗まiるのである。 瞬が)かたまりとかケーキとかを窮り分けてse譲鍵驚e難癖rに醗るのも寮監の権鰻である。おそら く,警み家長の役目である。僕は藤熱いので詳綴に観察していた。こういう身分め媛溺のようなも のは,イギ夢ス緩会のいたるところに.ある。大学のエレベーターでさえ,プ欝フェッサーは鍵をもっ ていて,普通の鍵をもたない人は乗ることのできない隆からでも乗れるようになっていた。これに は反感を感£て,そういう人の御癒介にはならないようにした。パタノスターという,それこそ2 人縁どしか乗れない小さな扉もない木の箱がまさしく珠数つなぎ紅なって上下にぐるぐるといつも まわっている懸熱・乗物蓬,僕の愛馬したエレヴェーター代わ鯵で,これで鰺墜の地域史学科の小 さな穂書室まで,いつも重織もぞe臨の暗紅行ったものである。 寮のse盛or醗e盤も硯の中に,最初からいろいろ窺薄紅教えてくれた鯵,欝か手趣けすることは ないかといつも気を醍ってくれているような人が韓人かいた。た蛮たま,その人たちみ英語もはっ きりしていて鬻ぎとりやすかったので,霞然よく議しよくつぎ合うようになった。中のi人は鎗才 くらいの考古学妻であったが,考古学春つ重り鍵。擁eG沁琶減といっても欝奉のばあいと少しちが い,もっと新しい時代のことでも,ともかく鞠を見ていろいろ考えたり報翻したりするようであっ た。しかもその人は大学には行ったことがない,いわゆるse縫一膿誕eの考古学者で,鎗才にもなっ て地域愛学科の大学饒生として罠規の勉強をはじめたのであった。この人は,窃蝿面の数欝後に, 夕食後蕊羅に引きあげていた僕のところにいぎなり来て,夕方から天気がよくなったので農耕の方 に行こうと思う解,もし農村を見たかったらいっしょに来ないか,と誘うのである。車がないと農 村には行かれないので青んで霧行したが,レスターシャー棄藩のハラトソという小さな村までつれ ていってく義,ビールまでおごってくれた。ハラトソというのは市場が闘かれていた栂で,村の菰 場に.はそのことを示す石の嚢白い形をした盤&撒就。欝ssが残っていたGいちいち書くことはでき ないので省略するが,その人は実に漢讃のことを実勃を見ながら教えてくれた。そのうちのいくつ かは,半年後トポグラフィの講義でも教わった。後で思えぱ,後は農分が大学院生として教わった ことも蕾めて嚢本人のプ凝フェッサーに教えても・たのである。 寮で緩しくしてくれていた人の中にはスコットランド人もいた。寮に入って闘もなくの墳.その 寮にたまたま数舞闘来ていた,欝か気粒の高そうな中年の女性がいたが,その入紐漢溺失礼なこと をしてしまった。といっても,スコットランド人の方と謡をしていて,そちらに一生懸命になって 一ii5一 蕎 学 講 集 第59巻第壊暑 いたために,その女性渉コーヒーをもうi称どうですかといっているの淡麗こえなかったのである。 やっと気がついて,“Yes,出繰嚢yo銭.惇といって入れてもらい,また謡に集中していたら,今獲 はミルクを入れるか入れないかとたずねているのが縫こえなかった。しかし,まわりの人たちには そうは見えなかったのか,その女性は明らかに気分を害していた。そのあと,大体撲iがi観しくして もらっていた人たち数人だけ潜残ってまだ話している途中,スコットランド人は,いぎなり,Mrs、 一をどう思うか,と僕にたずねた。返事のしよう漢ないので黙っていると,鞍女はvery E鼓琴臨鼓 だと思わないかという。ははあ,と思ったが,そうであるともないともいえないのでまだ黙って いると,後は8蓑t重藤鷺鵜癖艶を知っているだろうと聞く。これでもっとはつぎむした。彼は,僕 潜その気錘の高い女性に好感をもたず,故意に素気なくしたとでも思ったらしい。臨麟語は嶽慢 で,ほかの醗のことはわかろうとしない,外羅誘も覚えようとしない,等々,いろいろ悪欝をいっ た。スコットランド人はE鷺§挑蟹とはちがうともいった。こちらには同じようにイギ蓼ス人と見 えても,Scott量s鼓とE盆g重量s鼓の翼には依然として鰐立感購渉残っているのをこの時はじめて知っ たぴ建じような薄立感憶は,その後ウエールズ人の歯麩1巻も示した。しかじ,この薄立感簿をあま り大ぎく覧るべぎではないらしいこともわかった。イギ夢スやイギ婆ス人の悪貨めいたことをいっ ていると,はじめはにこにこしてうなづいている漢,そのうちまじめな顔をして弁護しはじめるの で,こちらが笑い饑してしまうことが鰯獲かあったのである、これは懸装いところである。イギ夢 ス人はイギ夢ス人でまた,くだらないことでスコットランド人をからかうこともあって,たとえば, イングランドの天気は悪い渉,ス蒙ットラyドの天気はもっと悪いなどという。スコットランド人 はそうするとむっとして,6月の天気はとても湊いのを知らないんだと反駁するのである。しかし また,スコットランド人と僕をハラトソにつれていってくれたイギ夢ス人が綴になって,灘のイギ 婆ス人を画嚢いことでからかっていたこともあった。寮のse譲or懸2澱むerの中で僕のわかる英詩 は喪い英藷,僕のわからない英語は悪い英語というジョークが行なわれていたらしい。ほら,僕の いうこと毒まちやんと綾はわかるではないか,というわけである。からかわれた方壷ま,そんな単纏な ことは誰にでもわかる。そういう書の英語もやは弩少しなまりがある,などといい返すのである。 なま鯵のある英譲は貧しい龍部や教育のない人の英議,な豪勢のない英語は上流や教官のある人の 英藷という含みがあるのである。龍轟の鐵身者が,トレソ醗1以載が本当のイングランドだといっ て南翻の鐵身者をからかっていたこともあった。一般的にいうと,英譲は南無の英護の縫う潜分か りやすかったが,人は靴蕊の人の縁うが素朴で暖かい感じであった。そして,講翻人と載蕊人の聡 にも,臨譲曲とSco振甑あるいはWe盈虚の購紅あるような薄立感が,もう少し緩いレヴェルで あるように見えた。 レスターに来て豪もなく,町を覚えようと地遜をもって歩ぎ重わっていた時,ちょっと変わった古 風な小塔をもつ大ぎな建梅があった。そばに行って見ると,そこがレスターの毒役駈であった。ふ と気がつくと,藍嚢の入費の上にレスターの憲章のついた横長の大きな霧販のようなものが掲げて あって, U盤e穣蜘y灘e藍i簸Le重ces老er/28鶴龜/曲玉。短sま鎗5 Le量ces奪e監C三重y COt盤。董茎蕪9盤重量簸9蚕or Jo擁. 一銭6一 麺 葭:体験的イギ夢ス経済・鮭会議(至〉 と書いてある。これは実は9月25霞になって確認に行って書き写してぎたもので,それ以蕪に見た 時には,288倉奪はいつも轟じであったがi塗5はi溢4となっていたこともあるように思う。こ 蓑かいことはわからないから無擬すること軽して,亙訟Sなら29%,i搬蓬なら25%の失業率で ある。レスターの人爵は28万縁どである潜,老人も子供も饑くつも吟のない主婦もいるわけである から,労騰大貫とか盤帯数とかで見ればそういう失業率になるということであろう。 僕にとって,2倉%ないしそれ以上という失業率濾,ほとんど見選もつかない状溌である。比較の ために思い浮かべられるのは,せいぜい終戦薩後の様子である潜,これは少し事簿赫ちがうし,そ れに撲はまだ子・僕であった。雑本ではし垂裏らく見たこ二とのなも・浮浪f音溝ロンドンで蔓〉レスターでも 町なかで見られること,店舗や往緩で空いたままに.なっているものが多いこと,あちこちで昼賜か ら酸っばらっている身なりの悪い人たちが見られることなどはすぐにこれと結びついた解,普通の イギ婆ス人の暮らしぶりは,寮で少し見えるところ潜あったほかは,ほとんどわからなかったから, この失業が一般の人びとの生活にどのような影を落とすものかもわからなかった。それでも,あと になってみるとこのことに闘係があって,簿象に残っていたこともあった。 そのひとつは電池を買いに行った時のことである。音楽を開きたくなるだろうと懇って,手の平 にのるぐらいの小さなカセット・レコーダーをわざわざ賢って持って行っていたが,その電池が隣 れてきたので,レスターで一番大ぎいというデパートに買いに行った。あちこち探して,地下の家 庭驚品売場にあるのを晃つ診たが,買い慣れ蔽いものである上にイギ婆スの電池というのははじめ てであるしで,よくわからない。ためつすがめつ,蓑た議みっとやっていたら,色の浅黒い中年め 男がやってぎて,鋭い騒付きで擁かいう。多分,響Ca鍛i盤e蔓夢yo鞍?”といったのであろう藻,僕 は怪しまれているなと感じた。馨本からぎてよくわからないのでしばらく見させてほしいといって, すこししてからブルー・シールという名のイギ婆ス製の電池にした。 cas赫erというレジにあたる ところに持っていくと,そこはまるで風怨屋の番台のように少し高く麗ってあって,初老のおばさ んが中にi太いるが,聡の震員か誰かと話している。客赫僕の韓かにも2人であったか舜1をつくる ようにして待っているが,素知らぬ顔で話している。雰醗気でいうと琴彗に大事なことでもなく,た だの雑談のように見える。しばらくしてやっと謡をやめると,騰にすみませんというわけでもなく, 鰹事もなかったような顔で客の方を向いた。まるで,人と議すのは私の勝手ですというぐあいだ。 客の方も見たところでは購に怒る鼠もない。これと講じようなことは,その後彎懸か見た。バスの 運転手も外の人と長々と議しをして,琴彗に乗るわけでもないその人と釁れてからやおら発車という ことがあった。乗ろうとした客が運転手に侮かをたずね,ずい分長い問いろいろ難いていて結局乗 らないということもよくある。そういう時,運転手も,たずねている人も,その後にいて乗る顧番 を待っている人も,だいたいは男雛こ気紅しない。しかし,これは少し事鷺が違うだろう。さて,やっ と電麹を買って帰ってと鯵かえたが,2蔭後カセット・レコーダーがおかしい。音溝ゆれるかと患 うと壷まり.重た少しすると魏ぎ,というぐあいだ。レコーダー漢故障したかと思った渉,実は買っ て来たばか鞍の電萢渉おかしいのであった、継馬,馨本でも売っていたデュラセルという電池にま た買い替えた寮,こんなひどい電萢は麟本では売ってないだろうと患ったことであった。 もうひとつは,嫁じめて銀行きこ預金鑓座を欝銭・たときのことである。地域史学科の人蔘大学の中 に饑いている銀行の支店につれていってくれて,いろいろ跡砂てくれた。そのあとで蟻壁の必要の 一ii7一 晦 学 論 集 第弱誉第壕琴 ために蕨行者小勢手を欝倉ドル,すなわち§万霧鍛どポソ隣こ換金し,そのポンド紙瞥を銀行から 歩いて鐵な解ら背族の内ぷケヅトに入れていると,その人は顔をしかめて,危ないから分目て入れ た方潜いいという。この人は,イースターのあとではじめて会った鋳,地躍を買いたいという僕を 本麗までつれて行く途中,震号が赤なら護ってはいけない,青なら渡っても良いと,親切に教えて くれた人だったので,これもまた瞬じようなことかと思って,僕はただ笑っていた。しかし,その 復そうではないということがわかった。 今のイギ穫スは小切手を頻濡するいわば小舞手縫会で,わずか蒸,2ポンドの買い物でも小勢手 で支払っている人を見たことがあるくらいであるぶ,数人のイギ婆ス人から縫いたところによると, 現金はいつも鴻ポンドとか欝ポンドぐらいしか持ち歩かないという。なぜかと聡くと,小燐手があ るからといった人韓いなくて,竜ないからだという。鱒才くらいの人がいっていたところでは.蓄 は普通の人は小切手を硬わなかったそうであるから,かつて金持や地主のような人しか痩わなかっ たものが,おそらく2§盤紀に入ってしばらくして,もしかすると第二次大戦後紐なって,一種ぎ)ス テイタス・シンボル的な見栄を偉いつつ不へ下へと菰まっていったのであろう。だから本来は溺に 危ないから現金をあま鯵持たないようにして小欝乎をつかうようになったというのではなかろう。 しかし,現在はゼ危ないから」と思われているということである。勿譲,昔,金持が現金をもつと 危ないからと悪っていたのが,小勢手とともに下の方にも広がってきたということも十分あ参うる が。事実,デフォーやディケソズの捲くイギ蓼スは竜ない霞であったようである。撲の一家は,町 でも家でも,金も麹も盗まれたことは一農もなかった。しかし,イギ夢ス入み感£ている「竃なさ」 を裏付けるような事実もいろいろあった。地域史学科のある人は,わずか2,3ヶ舞の潤に,i慶 は牽のガラスを羅き壊されて中のものを盗まれ,茎度は車そのものを盗まれた。ある嚢本人一一家は, 磁露薩蔚に家の牢にあったものをごっそり持って行かれてし蚕つた。レスターの態の入韓こは,ど こでも,“丁嬢eves艶翼osee蹴e透挿という符ぶ賄ってあった。レスターのある店に鞄を買継に行っ た馨本人のある女性は,練難してある鞄ぶみんな鎖でつながれていて,知らないで引っ張ったら鎖 が隣れたかはずれたかして,ブ亨一力蔓騰った,と呆れて話していたそうだ。僕農身の経験でも,レ 蒙一ドシ葺ップに行くと,どのレコードもジャケットだけになっていて中隊のレコード渉なく,ま たどのカセット・テープも中のテープがなくて箱だけになっていたGこれ藩欲しいというと中味を 鍵のところがら鐵してくるのである。こういう毯1は僕の一家の経験と,観しくしていた数家族の欝 本人の経験からまだまだあげられるし,新灘記事からはもっとひどい醗もあげられる。豪た,犯罪 統計でも確認できるのである。 しかし,こういうヂ危なさ」とは全く遂に,奉当に濫かく趨勢で,欝頬するに還るイギ瞬ス人に も沢覇鐡会った。特紅年輩の人の中には,大学のスタッフでも,町の人でも,嚢庫入にはこういう 人は少ないなあと思うような,素朴でシャイな人が何人もいた.そういう年輩の,灘かい,しかし 少しも押しつけ演ましかったりおせっかいやぎであったりすることのない素朴な人たち,少しお量 辞をいっても素直に喜んでくれるような人たちと,もっと若い人たちとをくらべると,懇々人それ ぞれのあむようを無視していえば,大英帝醸の蓑だ華やかであった鋳代に生まれた人は素蒼で,帝 蟹が瞬鐙に頽勢を示すようになってから生まれた人は誇り摂傷つけられ,窓欝を欠くところがある から少し騒新しているのではないか,というようにも思われた.しかし,そういう若い人たちも含’ 一i墨8一 機 隣:体験鍵1イギ讐ス経済・穫1会議長董〉 めて,大勢のイギ婆ス人たちぶとても競勢であった。特に,聚っている時に機動を求めると,たい ていのイギ蓼ス人は喜んで手をさしのべてくれる。イギ蔭ス人には,縫人の喜びをわ潜喜びとする 人が嚢本人よりもずっと多い,というの渉,率薩な感想である。あるいは,イギ婆ス人は人を懸け ることがでぎることそれ嚢体を喜ぶ,といっても良いであろう。たとえば次のようなごくささやか な倒である。 5耀末紅家厳が来た時,数嚢闘灘ソドソをいっしょ紅晃笏した解,ある霞,おそい夕食をピカディ 婆一というところに沢山ある中華料蓬渥のひとつで食べている闘に真っ賠になって道がよくわから なくなった。衛鋒の名前を見て地籔で探すのだが,街灯藩臨くて醸鏡をかけてもなかなか見つけら れない。子僕たちに見せてもわからない。園っている時,そばを鱒才台の著い男女が走って通った。 患わず鷹xc雛2鑓♂と聾をかけたが,趨手は急いでいるし,こちらも怒鳴ったわけでもないめで, 2人は駆け援けていった。ああ,これはどうせだめだ,と思っていると,5,6メートル先へ行っ たところで女雛の方が聲の意稼に気付いたらしく立ちど重った。男性の方はそのまま先の方へ駆け て行っている。 「道に迷い重した」というのを縫いて女性はこっちにもどってくる。男の方は先の ほうで鍔か怒鳴っているQバスとか地下鉄とかに遅れるぞ,とでもいっていたのではなかったか。 女性は遊を教えると,僕の轟丁盤a雛yo♂紅あのE難曲s銭s盤艶を返して立ち1去って行った。瞬じ ような飲溌で反蝿に僕がその女性の立場にあったばあい,講じようにするとは患われなかった。 次の綴は少し性質が違っているが,購の意殊で興殊深い。バスで大学に行っていた時である蕃, ある停留飛で毒ん勢をつれた39方ぐらいの母鰻が乗ってこようとしていた。何か手間どっていた藩, 縷iのすぐ離に坐っていた3G才台くらいの男がはっと気がついたような様子で急いで乗車Pに行ぎ, 雛立式の貌母車をバスの中に運び入れた。そしてもとの鷲に坐ると,侮か黙れ臭そうな顔をしてま わ弩を少し気挺している。やっと乗ってぎた母蔑の方は,擁か仏覆謡をしていて,僕紅はよく灘ぎ とれないことを何かいっている。すぐ手跡けが来なかったと文句でもいっているようなぐあいであっ た。少なくとも僕には“丁麺曲yo♂という聲は聞きとれなかった。手動けをした男の方も,礼を いわれることなど少しも難持していないように,見え,気分を害されたようにはなかった。これも蓑 た,先の弼とは違った意稼で,賢本人の通常の振舞いと大いに違っている。イギ夢スでもこの後の ようなばあいはそう多くはないのかも知れないが,もうi,2度は見ている。それもi度は身近か な人たちの申でのことで,状濁は見誤畢〉ようもなかった。さしさわり潜な睡れぱ実名で書きたいと 懇、うくらいである。 実名をあげてもか重わないと思う倒をもう一つだけ書いておこう。家族藻レスターにやっと落ち 着いた須,地域史学科の秘書のフィ縫ップスさんが芳ウドビーから数キ欝薩にあるウィグストソW}蓼sto捻 の大ぎなスーパーに買い物紅つれて行ってくれた時のことである。予め約束した時閥軽車で邊え に来て,通訳のために隅行した僕も一続に箪にのせ,道々警のことや牧場のこと,教会のことなどタ §に写るいろんなものの説瞬をしながらそのスーパーに蒼くと,饅の下手な遜譲で手閥どっても綴 な顔ひとつせず,ス…パーの中をあちこち案内したり,僕たちには見なれない藏贔の説瞬を丁寧に してくれ,嫁んのあいまに自分の買勃をしている。レジのところでは,僕の小勢手潜まだ縫えない のを知ると,自分の小舞手を鍔ってあげてもよいと申し鐵てくれたばかりか,買った麹を持って帰 るためのダンボール箱蚕で面撰を見てくれた。豪さに至れむ尽くせりである。そして蓬た家まで送っ 一猛9一 商 学 譲 集 第59巻第嵯号 てくると,お茶でもどうぞ,というまもないくらいに, 「バーイ」といって,さっさと帰って行っ た。響本人羅士だったら,少なくとも戸欝のところで侮度も擁護:も両方で麟を下げあったことであ ろう。フィ婆ップスさんは,大学の関係のパーティーの時など,たいていいつでも御主人といっしょ に僕や僕たち夫婦を車でつれて行きつれて帰る役を露分からやってくれたが,掘盛あとになるまで, それも僕たちの滞在中に御主人がなくなって家に帰っても誰もいないようになってさえ,ほとんど いつもこの調子であった。なぜイギ婆ス人はこんなにさっぱりしているのだろうと思ったものであ る。 イ華鬘ス人は欝本人よりもはるかに独立心撰強い。物議,イギ縫ス人でも,中には本性そうでは ないと思われる人もいたが,一般にはそういってよいし,またそうあることが被会的規範意識になっ ているように思う。おそらくそのことによると思われる解,イギ婆ス人は人紅振麟されることを嫌 い,また人の僅誌になること,人に恩義を受けるようなことを嫁う傾講掛ある。後らは普通k量蕪 という言葉を会誌で嫁硬わず,飯e認董yといういい方を好む。つまり,馨本人なら観燐というとこ ろを多くは短e賊奪というのである。おそらく,短簸δという言葉は,少し改まった言葉か,さも なければ何か霞上から霞下へといったニュアンスを含むのではなかろうかと思う。このように独立 を重んじるから,平等をも重んじると考えたくなるが,そこは必ずしもそうではないらしい。董室 を敬愛し,貴族を重んじるのもイギ婆ス人の醗髭的気質の一面である。勿論一般的には,のこと である。この,独立を重んじなぶらも反面では王室を獲惑とする身分麟的ヒエラルキーを尊重する という,僕には矛盾とも感じられる綾らの心性渉,イギ夢ス的競舞の中にも見られるように思う。 幾窮は時として夢鍍ro頻s旗gになる。人に競燐にし,人の童話をすることは,だから,人を餓tダ。譲se することを潜在的紅は含んでいる。無e簸懲yな観勢から翼trO麺s塗gな幾舞紅いつ変わるか,誰に もわからないであろう。事は本人たちにさえもしばしば不分窮な微妙な意識の中の変化にかかわる からであるGおそらく,イギ婆ス人たちは,そういうことを敏感に感じるから,人の盤姦黎こなるこ とも,人にお簸介をやかれることも難い,ある特懸な場合とか,衰分がはっきりとその人の権威を 認めている場合とか以外は,さっぱりした痘e簸δiyな関係にとどめておこうとするのであろう。飯e費磁y な関係は,薦に書いた内と外の頬髭でいえば外の関係である。独立した人霧士の鰐等な,べたべ たしない関係である。これに薄して内の麗係は,親子・関係や兄弟の関係のように,鄭欝的な上下馨 係あるいは支配鍵属闘孫を含んでいるのが常であるσこのようにいうことは,その逆,上下縫係や 支翫鍵羅縫係は内の関係だということを意殊するものではない。外の関係であって上不関係あるい は支麗健属鍵係であるような閣係力覇に存在する。こういう区琴彗は歓会学的にはむずかしい翼題を 含んでいそうであるが,ある程度以上の年令の欝本人なら,非常によく知っていることではなかろ うか。饑えぱ,欝本人は,人のところに手ぶらでは行きにくい,という感じを多くの人がもってい て,人に贈り物をしたりされたりするの解好ぎである。イギ鯵ス人は緩しくなると,あるいは親し くしたいと懲っているとぎは,人を家に招待したりされたりするのは好むが,特購の場合以外は贈 物は好まない。招待したようなときに持ってくるのも,たいていチ聾コレートの小箱ぐらいであっ た。こういう露本人とイギ婆ス人のやり方の違いの意殊も,いろいろ考えさせられたことであった。 イギ婆ス人は,ロンドンのような大都会でなく農舎に行くと,とりわけ親切であった。イギ婆ス 人には,ちゃんとした英語がでぎない者を,まるで言葉そのものがちゃんとしゃべれない毒ん塊か 一i2今一 縫 韓:体験的イギ夢ス経済・社会譲(至〉 子供のように患っている&ろカ§あって,時に,梶Y・磁登・W,至C鍛聯旗蜘a益esev鰐we玉L” と教えてやることもあったぐらいであるが,これも盤譲麟essなものに薄する登緩e搬a薮s灘ないし 盤撚er資溢墨s搬のあらわれであろう。しかしまた一麟では,特に欝本のことなど少しも知らない一般 の人のばあい,東洋の新興の拳蟹の蟹昆に耕する大英帝蟹鶏の登盆e驚曲s澱ないし夢畿ro鍍銀$の あらわれでもある。最密め婆,競勢な人蔘多い反藤,磁縷な態度を感じる人も多くて,少々とまど うことがあった潜,このどちらにも共選しているのは大英帝馨民の誇りと磨懸であると患うように なった。それが,ある時には,またある人たちのばあいは,多少灘tro磁s塗琶な幾紡になって鑛て くるのであるし,幾の鋳,あるいは溺の人たちのばあいは,嶽縷な態度になって鐵てくるのであろ う。勿講,養の鐡方の方が,後の綴方よりも,飯盛擁essな外蟹人にとってははるかにあり藻たく好 ましいのであるα イギ夢ス人の幾勢あるいは飯e鱗茎塗essについては,蓑だまだ沢幾の経験があって,いくつかは 今後麗のことを書く機会にも墨てくると思うが,ここで最後に,非常に強く露象に残鰍 いろんな ことを考えさせられた擁をもうiつだけ書いておぎたい。 僕が寮に入ってしばらくして,彎入か新しいse纏or獄e盤もerが入って来た。その中にまだ著い, イギ蓼ス人としてはやや小構な娘さんがいた.僕が密己紹介すると,その人は,“f盤」癒e紅坤と, かぼそいやさしい聲でいった。この畑謝金橿鮭を勉強するために大学饒に入ったヨークシャー生 まれの人であった。寮には3人の女性の大学院生がいたが,i人はランカシャー生まれでなまりが 強い上に非常な皐霞で,珂をいっているのかよくわからなかった転 もうi人は臓ソドソ近遜の生 まれで,英議はきれいであったが,大極で,時々傲穫そうにも見えた。その2人に姥べて,ジュリ エットさんは,少し英語がわか勢にくいところがあったが,見ているととても性質が撮憩で,笑顔 赫とてもやさしく,感じ漢よかった。もうじき来ることになる僕の家族のために誰か英語を教えて くれる人はないかと思っていた僕は,萌から親しくしてくれていた寮の人たちにも掘談した上で, このジュ蓼エットさんに績むことにした。そこで事椿を説隣して,縫会福蟹のつもりで引受けても らえないかといってみると,綾女は貸翼座に,何の条件も鐡さずに承諾してくれたΦ選紅i錘行くと いう。 しかも,報醗はいくらあげればよいのかとたずねると,{薮e簸{盤y碁aseでやるのだからいら ないという。躾は鑓ってしまった.いろいろ考えたり,楊談にのってくれた人たちにも議してみて, 中の里人は,僕の代わりに言ってみてくれた溺,やはり報酬はいらないというのであった。僕自身 が,できれば週i懸でなくて2園来てもらえないか,家族は女欝と子洪が3人もいるのだから。蓑 た,あなたの鋳悶をつぶすのだし,バス代もかかるのだから,僕は支払いをしたいというと,ジュ 麺ッ建んは,少し融顔をして,2懇必要妨,でぎるだけ嘱行くようにするが,報酬のこ とは少し考えさせてほしい,といった。勿論承諾して,その後こちらからは欝もいわないでただ待っ ていた。欝欝かすぎて,ある鏡.夕食のとぎ,たまたま僕がジュ夢エットさんの隣に坐った。する と鍍女は,少ししてから,後女の右にいた人に簿か小繋でも・って,その人と臆を代わってもらった。 その様子と,後女の表構を見て撲ははつぎりわかった。ジュ婆エットさんは,どうしても報醗をも らいたくないのである。そして,多分,僕がそれを察してやらないので,気嫌を悪くしてし奮った のである。しかし,僕は,まだ返事は瞬いていないので黙って待ち続けていた。蚕た数饗して,ジュ 駄ットさんは,ようやく決心して,灘こ駒熱望いった。その通物ことを簸持していた灘よ 一i2麦一 商 学 譲 集 第5§巻第嘆弓 懸座に,躍OK,i雛盤δ鍵s験磁.登。ぜt灘搬6.”といって,イギ華ス風ににっこりして見せると, ジュ鯵エットさんも硬いめの鍛笑みを返してぎた。 このエピソードの意鎌するところは,多分,これ以上簿も僕の解毅をつけ簾えなくてもわかるで あろう。この件が結着しないでいた濁に,たまたま紹介されて議すことになったあるイギ蓼ス人の 老儒人は,イギリス犬潜盤e磁鞍擁seでというならその通解こした方が湊いですよ,と僕に忠告 してくれていた。また,もうひとつつけ換えると,その件渉だめになった後,魁書のフィ婆ップス さんを通じてDε韓r雛e鍍。ず離離s熱(英文学科であろう)の学生の中からアルバイトとして英 語の家庭教舗をしてくれる人を探そうとしたが,英文学科の愁書の人ぶどういう擾い方をしたかは わからないものの,結果としては誰i人畿てこなかったのであった。イギ婆ス人は,少なくとも欝 本人の僕に盤e簸磁y雛seでならともかく,雇われては教えたくないんだ,と思わざるを得なかっ た。疑本人ならどうであろうかα 一i22一