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歴史的環境残存地区の評価と再生計画プロジェクト
紀伊半島みどりの文化・歴史環境の再生・活用事業 歴史的環境残存地区の評価と再生計画プロジェクト 自治体:かつらぎ町天野、花園村久木、太地町太地 代表者:神吉紀世子(システム工学部 助教授) ○概要・内容 和歌山県内にあって、歴史的な地域でありながら、その景観の 実態調査がまだ未実施である事例の中から、今年度は、高野山周 辺の集落として、かつらぎ町天野地区、花園村久木地区、の2事 例、紀南沿岸の集落として太地町太地地区、計3地区を抽出し、 物的環境ならびに、その環境を形成してきた建設技術者の圏域 性、、さらに地域史・生活史の側面から、地区の特色を明らかに することとした。天野(写真1)・久木(写真2)両地区の場合 は、高野山周辺集落であることと、今も(トタン覆いのある)茅 葺民家が比較的多く残っている点で、和歌山県内でも一見して特 徴的である。太地(写真3)は、ペンキ塗り民家が密集する大規 模な沿岸集落で、一見して特徴的である。 図1 調査の対象地域 今年度調査の結果、天野は高野山と紀ノ川筋とのつながりの中 に位置しつつも非常に自立性が高い地区である一方、久木は高野山経由しつつ紀ノ川筋の文化の圏内に 含まれると思われること、民家についても、茅葺のスタイルは同一ではなく、また、天野では昭和戦後 以降にも一種の確立されたスタイルの瓦葺木造民家が広まっていることが見出された。太地では、その 外観の印象以上に古い町並みが残っており、木造民家の確立されたスタイルが見出され、同時に、明治 から大正にかけての海外への出稼ぎという地域史と集落景観の移り変わりに関係があるというストー リーが見出された。 これらの地区では、地区住民から信頼されている、腕のたつ建設技術者(大工・屋根や等)が現在(ま たは近年)まで地区内に継承されていたこと、自前もしくは地元の建築資材を用いていることが共通し ている。そのことが自ずと、物的環境の特色をも維持してきたとも推察され、しかしながら、その技術 者の系譜が徐々に先細って来ている様子もみられる。 写真1 天野の民家と集落景観 写真2 久木の民家と集落景観 写真3 太地の民家と集落景観 ○背景・目的 和歌山県は、歴史的に重要な寺社や町並み、伝統の生業・文化に恵まれた地域であることはよく知ら れているが、そうした地区の歴史的環境に関する実地調査はまだ未実施である場合が多いのも事実であ る。歴史的環境に関する実地調査とは、伝統的家屋の様式のみを調べるのではなく、家屋や集落の景観 が、地域史や個々の世帯の生活史とどのように関って発達してきたかについての、筋の通ったストーリ ーを構築することを目標にするものである。こうしたストーリーの再発見・認識は、今後の、集落での 家屋の新改築や土地利用の展開が、地区の魅力を引き継ぎ発展させる方向にあるのか判断する指針にな り得る。凍結的保存ではなく持続的成長としての歴史的環境の継承のためには是非とも必要な作業であ り、今回のプロジェクトは、そうしたストーリーの再発見・認識に寄与することを目的としている。 具体的には、調査は、①外観調査による家屋、土地利用現況の把握、②旧版地図および航空写真によ る土地利用・景観要素の変遷の把握 ③典型的家屋内部の間取り調査 系譜・土地利用についての住民ヒアリング調査 ④家屋の使い方・建設技術者の の4種の作業を通じて行った。③、④のような詳細調 査にあたっては、各地区の町内会あるいは教育委員会への調査依頼を行い、調査協力が可能な世帯の紹 介を得ることによって行った。 ○主催・共催 今年度の研究・調査は、和歌山大学システム工学部環境システム学科神吉研究室が主催者となって進 め、とりわけ同4年生梅本尚平、熊代康壱、刀祢世至子は、調査実施にあたって重要な役割を果たした。 また、大学院システム工学研究科修士2年生の山本新平は、太地地区の調査において重要な役割を果た した。天野地区における調査の実施にあたっては、天野地区町内会長の古谷敏晴氏に多大な協力と助言 をいただき、地区内9世帯の方々に詳細調査にご協力いただいた。久木地区では、町内会長の朝本校央 氏ならびに2世帯の方に詳細調査にご協力いただいた。太地地区では、太地町教育長の世古一郎氏、町 助役の近江武士氏に多大な協力をいただき、地区内11世帯の方に詳細調査にご協力いただいた。 ○成果・評価 本報では、各地区の調査から、①土地利用・景観の履歴、②生業・生活史からみる圏域性、③家屋の 建築的特徴、④家屋の資材ならびに建設技術者の圏域性、の4点についてまとめ、これらを通して、地 区の歴史的環境の特徴の概説を試みることとする。 【天野】 ①高野山の周辺の明治末期から昭和初期の旧版地形図をみると、まとまった草地が紀ノ川に面した北斜 面、連なる山々の尾根や山頂部にみられる。しかし、天野では、天野地区外のこうした草地との関連は なかったようである。天野盆地をとりまく山林は、主に私有地で、江戸期に高野山寺領だった山地が区 有林(呼称は「野山」)となった山林が山の頂上近くなどにあり、区住民の共用採草地であったようで ある。多くの住民は、茅や草は、共有地ではなく個々の土地で調達していた。戦前には冬季にの炭焼き が盛んで、順に雑木を切っていった跡地にでる草や茅を使ったと聞かれた。農業は米が主であった。現 在も天野米は人気があり、近年トマトやピーマンなど寒冷地の気候をいかした野菜栽培も多くなってい る。盆地内では大きな水源がなく、谷水や小規模なため池が農業用水であったため渇水もしばしばであ ったが、湿度が高く夜露のおりることも多い気候で、水田の多くも湿田であったと聞かれた。 ②米は戦時中の配給制が始まるまで高野山に出荷されていた。高野山との間の荷のやりとりは牛や馬を 使って荷運び業を行うものも多く、現在のゴルフ場へ続く道を上り、途中から町石道を通って高野山に 登った。それ以外には、高野山との生業上の強力な結びつきは聞かれていない。戦前には、各家で作ら れていた味噌や醤油のための麹の購入先や、炭の出荷先は紀ノ川筋と聞かれた。戦後は、産品は農協へ の出荷が基本になる。野菜作りが盛んになったのはオート三輪が普及した後とのことである。天野は山 上盆地という地形条件からくる輸送の困難さが圏域性に関係していたように見られる。 ③明治期には茅葺、藁葺きの民家がほとんどであった。上記のように、茅場が多くはなかったこともあ り、藁葺きも多かったようである。図2のような田の字型が典型的な平面とみられ、牛屋が土間に併設 されているのが普通であったようである。瓦は凍結に弱いことと、紀ノ川筋から輸送する負担の大きさ から茅・藁葺がほとんどであった。昭和 30 年代(早いものは 10 年代末)以降、新築された家屋が現在 みられる民家の多くを占めるが、図3・写真5のように下座敷に玄関がつけられたり、土間の一部が洋 間様式の応接空間にされている場合が多くみられる。下座敷の玄関は、天野では盛んである垣内単位で 執り行われる講などの行事に客用に使われるようで、天野の戦後民家の特徴ともいえる。外観で印象的 なのは正面にみられる美しい縁桁(写真4)である。縁桁は紀ノ川筋、和泉山系等でも広く分布する。 ④民家に関して、屋根や、大工、石積みなどの技術者は、天野地区内におり、左官だけが紀ノ川筋から 頼んでいたと聞かれた。こうした技術 竈 者のうちには、戦時中に途絶えてしま 台所 土 床 の 間 った場合もある。木材はほとんど天野 床 の 間 間 牛 応 周辺の持ち山で調達され、瓦は 30 年 接 代には紀ノ川筋の瓦屋から購入され た。最近は凍害に強い石州瓦が多く 図2 天野の茅(藁)葺民家の平面例 図3 写真4 天野の民家にみられる縁桁 写真5 天野の戦後木造民家の平面例 天野の戦後民家にみられる玄関 写真6 昔は周辺斜面地は雑木林 なっている。建設に関連する技術のほとんどは天野の地区内に人材がそろっており、天野でまかなわれ ない部分は紀ノ川筋の人材・材料があてられている。 【久木】 久木での調査は、まだ事例数が少ないため、以下の記述は、今後さらに確認作業が必要である。 ①久木は、急坂の斜面上部に20軒弱の民家がテラス状にならび、水田やまとまった畑地は、集落から 少し離れた緩斜面や平地にある。集落内の家屋の間や、周辺の山地には、現在では槙等の樹木畑がみら れる場所がある。茅葺民家の屋根材である茅は、集落から徒歩で登っていった尾根上、高野龍神スカイ ライン付近に集落の共有地としてあった。昭和 30 年ごろまでは毎年初冬頃に、集落総出での刈り取り があり、狭い斜面沿いの道を茅の束をかついで降りてくるのは大変な作業だったと聞かれた。 ②産物を出荷する場合やまた買い物の用事は、高野山で行われ、山内の 市には山道で通った。また、紀ノ川筋から毎年通ってくる行商等もみら 土 れた。久木は有田川水系の最上流にあたる集落であるが、有田川の中下 間 仏間 床 の 間 玄関 流との関係はほとんど聞かれず、文化圏としては高野山のさらに向こう 側である紀ノ川筋に属する。紀ノ川筋−久木間は高野山山内を必ず通り高 板 の 間 図4 久木の茅葺民家の平面例 野山との結びつきは強い。 ③茅葺民家は明治期建築のものが多いのではないかと聞かれた。基本は田 の字型であるが、地形上の制約もあってか奥行きは若干浅い。玄関は正面 に向かって左側に位置するとのことであり、天野が左右どちらの玄関も見 られるのと異なる。図4は明治期新築された家屋だが、玄関の奥は土間で はなく、畳の座敷から一段低い板の間である。 写真7 久木の民家 ④茅葺民家が今でも多い久木だが、戦前には、全国をまわっている屋根や(岐阜県等から来ていたとの ことである)が毎年のようにやってきて仕事をしたと聞かれた。現在 70 歳代にあたる世代の人々が若 い頃にそうした屋根やから技術を学び、それ以降は彼らが葺いた。なお、茅場の茅が手に入らなくなっ て、屋根葺きの仕事は途絶しているとのことである。大工は高野山の大工であり、有田川の中下流の大 工はほとんど縁がなかった(ごく近年頼むこともあるとのこである) 。 【太地】 ①②太地地区の旧集落は、丘陵地と太地湾のあいだの狭い土地に木造家屋が密集する(図5) 。農地は、 半島の台地上等に分布し、世帯によっては、那智勝浦町等隣接する地域の山地に山林を所有する場合も ある。昭和 20∼30 年代に水産共同組合が上下水道(暗渠排水等)等の基盤整備を進めた経緯があり、 狭い路地網ながらすっきりとした空間となっている。港内の海も美しい。集落と港の間には防波堤の壁 がみられる。台風や大雨、前回の南海地震等の自然災害についても聞き取りを行ったが、集落内の場所 によって、影響の出方が違うようである。戦前に開渠排水が出来てから浸水被害は激減したようである。 ③太地の民家は非常に特徴的である。現在みられる木造二階家(つし二階と本二階どちらも)は古いも のは明治期、主に、大正から昭和 30 年代頃までの建築のようであり、ほとんどが図6のような平面構 成になっている。すなわち、玄関横に格子つきの座敷がありその奥に仏壇のある部屋と居間があり、こ のうち座敷の天井高が一段と高くされている(仏壇のある部屋も高い場合がある)ため、二階は、天井 の低い玄関や居間の上部のみに居室や押入が確保され、この構成がファサードに現れるため、玄関上部 に窓があり格子の上部は壁という形式(写真8)がみられることになる。多くの家屋は明るい色のペン キ塗装であり、地元ではこの形式は「和洋折衷」と見ているようである。明治 20 年代からアメリカ大 陸に渡る人が多くなった太地では、その影響から、帰郷して「洋風」の家を建てる人が現れ、その形式 は、下見板張りに上げ下げ窓という様式だったという。写真8のような空間形式は和風でペンキ塗りと いうことから「折衷」という認識があるように聞かれた。洋風家屋は現在では数少なくなったが折衷家 屋が多く建築され、残ってきたということになる。 ④太地でも大工等の建設技術者は太地の人材である。そのほかには、新宮(三輪崎)や下里との人材交 流があったようである。船大工との関連はなく、ペンキ塗装も船の塗装との関係はないようである。 図5 太地地区の家屋構造分布 写真8 太地地区の典型的二階家 図9 太地地区の典型的二階家平面構成 ○今後の課題 天野と久木の調査から、高野山周辺の圏域性が紀ノ川筋と高野山の2地点との地理的関係に影響される ことが推察される。天野、久木、太地、それぞれ民家の特色が見えるようになったが、天野・太地に共 通するのは、地区内の大工等の人材が活躍することで、ごく自然に地域性が昭和戦後以降にも形成・維 持されてきたと見られることである。こうした人材の圏域性は次第に曖昧になってきているのも事実で ある。今後、天野・久木以外の高野山周辺集落も視野にいれた調査により、その圏域性を明らかにする とともに、太地、その他地区も含めて、地区のストーリーをより明快にさせていきたい。