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片山剛「中国華南における“漢族”社会の成立」
IAE 演習(2006 年 7 月 1 日) 片山剛「中国華南における“漢族”社会の成立」 今回の発表では、 「中国華南における“漢族”社会の成立」というテーマで、大阪大学大 学院教授の片山剛氏に発表していただいた。その中で、最も大きな問題として提示された のは、元々「中国」という文化・文明の範囲外であった地域がどのようにして「中国」と なったのかという問題である。 この問題を考えるにあたって、漢族と越人の関係が取り上げられた。越人は百越とも呼 ばれ、浙江省からヴェトナム北部にかけて分布していた非漢族を指す。単一部族ではなく、 種々の部族に分かれていた。猺(ヤオ)族・壮(チワン)族・ヴェト族・タイ語系諸族な どが挙げられる。また、漢族という語が「黄帝の子孫」を指して観念として誕生するのは 20 世紀の最初である。そのため、漢族という語を特定の時代や空間を超えて一般化して定 義するのは困難である。しかし、漢族概念成立以前についても、 「プロト漢族」とも言いえ るような概念を設定し分析することは有効だとして、今回の発表では「プロト漢族」とし て漢族という語が使用された。 このような前提の下で、殷代に「黄河中流域の文明」とは無縁なものとして南方に存在 した「越人世界」が、秦漢帝国による征服活動によって越人は漢族になったのか、という 問題が検討された。そして、10 世紀を境に「中国」の版図に入った越人世界と、独立した 越人世界(ヴェトナム北部)に分かれたこと、ヴェトナムが 1000 年にもおよぶ中国歴代王 朝の支配を受けながら、ヴェト族は漢族化されていなかったことが指摘された。すなわち、 10 世紀の時点でもまだ越人世界は漢族化されていなかったということである。 では、10 世紀以降「中国」の版図に入った越人世界はその後どのような歴史的経過を経 て漢族化され、現在にいたるのだろうか。この問題が現在の広東省珠江デルタ地域を題材 に検討された。現在の広東省珠江デルタ地域の主要な住民は「広府人」(日本では広東人と 呼ばれる)である。広府人は漢族のサブグループで、漢語の方言である「広州話」(日本で は広東語)を話す。この広州話にはタイ語の痕跡が見られ、越人のひとつであるタイ語系 諸族の影響をうかがわせる。広府人は祖先が中原から移住してきたという伝説を持ってお り、強い漢族アイデンティティを持っている。珠江デルタの歴史において、このような強 力な漢族アイデンティティを持った集団は、広府人が初めてである。 上記の問題を検討するには、元来越人世界であった珠江デルタ地域に、漢族である広府 人とその社会がいつ、どのように成立したかを検討する必要がある。この検討に際し、斉 民・中間的存在・化外の民という3つの概念が分析装置として用いられた。 斉民とは中国王朝の戸籍に登録され、職業に応じた徭役・税糧を正規に負担する人々の ことを指す。このなかには、非漢族の斉民も存在している。中間的存在とは中国王朝と関 係を持つが、中国王朝から特別待遇を受けており、徭役・税糧を正規に負担しない人々を 指す。そして化外の民は中国王朝と全く関係を持たない人々を指す。 珠江デルタ地域が初めて征服された秦漢時代には、征服後官僚や軍隊が城郭都市に駐留 したほか、流刑者が北部から移住させたれた。その結果、越人(特に漢族と同じ農業民と して共通項が多いタイ語系諸族)と、北から移住してきた漢族との間で相互同化・融合が 始まった。 唐代の 836 年頃には、 「土人」と呼ばれる斉民と、 「蛮獠」と呼ばれる中間的存在が見ら れる。当時はまだ土人と蛮獠の結びつきが強く、官憲が両者の関係を弱めようとすれば、 かえって両者一緒に反乱を起こす有様であった。つまり、土人は蛮獠化する傾向を持ち、 未だ恒常的な斉民は存在していなかった。 10 世紀、五代十国期に珠江デルタ地域にあった南漢国では、国王劉氏が自らの祖先を中 原出身と自称(すなわち漢族であると自称)していたが、彼らは実は非漢族であった。ま た、統治民は「南蛮」「百越」と呼ばれており、被統治民の大部分が非漢族(唐代の蛮獠) であったことがわかる。つまり、南漢国は非漢族国家であった。 その後南漢国は北宋によって統一された。北宋期には斉民化政策が採られたが、斉民化 された蛮獠は依然として斉民から離脱する志向を持っていた。 明代に至ってようやく土人の一部が漢族たる広府人へと転換したと推測される。以後、 珠江デルタでは土人だけでなく蛮獠からも広府人へと転換するものが増加する。 広府人には中原出身であるという伝説があり、その中では移住の際に里甲制に帰属して 徭役・税糧を正規に負担することを地方官に誓約したとある。そしてこの伝説は文字に記 して公示された。このことは、広府人として永続的に漢族であり斉民であることを宣言し たことを示す。 土人や蛮獠が、非漢族として特別待遇を受ける中間的存在への志向を放棄し、主体的に 広府人を志向するようになった背景には、何らかの理由が存在するはずである。この点に ついては不明であるが、珠江デルタ開発を可能にした新技術を広府人が担っていたのに対 し、土人・蛮獠が旧技術に依拠していたことが背景の一つとして指摘された。 発表終了後、様々な問題を巡り活発な議論が交わされた。とりわけ、明代になって土人・ 蛮獠が積極的に広府人へと転換する動機について多くの議論がなされた。そのなかで、広 府人となることで斉民としての税負担義務を負うことに注目し、年貢が単なる搾取から、 農民の生業の維持といった見返り的要素を含むものへと変化した可能性が指摘され、年貢 の意味の問い直しの必要性が確認された。また、唐の軍事力は斉民を中間的存在・化外の 民から保護するに十分なものでなかったのに対し、明の軍事力では斉民を保護できたこと から、軍事的保護の重要性も指摘された。 (文責:塩崎智康(M1) )