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2012/07/03 第 9 回マクロゼミ 新渡戸稲造『武士道』 担当班:椿原、有川

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2012/07/03 第 9 回マクロゼミ 新渡戸稲造『武士道』 担当班:椿原、有川
2012/07/03 第 9 回マクロゼミ
新渡戸稲造『武士道』
担当班:椿原、有川、木村、金友、神谷
新渡戸 稲造 Inazo Nitobe 1862[文久 2]-1933[昭和 8]
明治から昭和初期のキリスト教思想家・教育家。幕末、青森県の
開拓者として有名な新渡戸傳の孫として生まれる。札幌農学校(現
北海道大学)の二期生として入学後、後に宗教家として著名になる
同期の内村鑑三とともにキリスト教の洗礼を受ける。1884 年、
「太
平洋の架け橋になりたい」という願いのもと、私費でアメリカ、ド
イツの大学へ留学し、農業経済学博士号を得る。1899 年に英文で
『武士道』を著す。この著書『武士道』で国際的な教育者として認
められたため、1920 年に国際連盟設立時の事務次長に任命された。キリスト教(クェーカー)
の影響の下、キリスト教と東洋思想を調和させることで、神の存在が直接個人の経験の内
に現れるとし、正統な聖書主義や贖罪信仰に固執しない立場を取った。新渡戸の女性や青
少年への教育、東西の対立融和のための活動は、上記の立場からなされたものである。新
渡戸は人格主義・内面主義の立場から、修養、教養に基づく自己および人々の教化、偏見
解消ならびに相互理解を訴えた。晩年は軍国主義思想を批判し、日本の軍部や左翼から非
難をあびた。その後、反日感情を緩和するためにアメリカに渡るも相手にされず、失意の
日々を送った。1933 年、太平洋調査会議に日本代表として参加するが、会議終了後に西岸
ヴィクトリアで倒れ、永眠する。主な著書に、本著『武士道』(1899)、
『修養』(1911)、
『東
西相触れて』(1928)がある。
(参考:岩波哲学・思想辞典、Wikipedia)
問 1 武士道の要素とはなにか、説明せよ。(参照範囲: 一章~十一章)
[引用]
ノーブレッス・オブリージュ
p.27: 一言にすれば「武士の掟」
、すなわち武人階級の身分に伴う義務である。
p.28: むしろそれは語られず書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法たることが多い。不
言不文であるだけ、実行によって一層力強き効力を認められているのである
p.37: 武士道はかかる種類の知識を軽んじ、知識はそれ自体を目的として求むべきではなく、
叡智獲得の手段として求むべきであるとなした。
p.41: 義は武士の掟の中最も厳格なる教訓である。武士にとりて卑劣なる行動、曲りたる振
る舞いほど忌むべきものはない。
p.43: その本来の純粋なる意味においては、義理は単純明快なる義務を意味した—したがっ
て我々は両親、目上の者、目下の者、一般社会、等々に負う義理ということを言うのであ
る。
同上: それ(愛)の欠けたる場合、孝を命ずるためには何か他の権威がなければならぬ。そこ
で人々はこの権威を義理において構成したのである。
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担当班:椿原、有川、木村、金友、神谷
p.51: 愛、寛容、愛情、同情、憐憫は古来最高の徳として、すなわち人の霊魂の属性中最も
高きものとして認められた。
p.60: 優雅の感情を養うは、他人の苦労に対する思いやりを生む。しかして他人の感情を尊
敬することから生ずる謙譲、慇懃の心は礼の根本をなす。
p.66: 礼の吾人に要求するところは、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶことである。
」
p.77: 名誉の感覚は人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む。
p.89: 武士道はアリストテレスおよび近世二、三の社会学者と同じく、国家は個人に先んじ
て存在し、個人は国家の部分および分子としてその中に生まれきたるものと考えたが故に、
個人は国家のため、もしくはその正当なる権威の掌握者のために生きまた死ぬべきものと
なした。
p.93: 武士の教育において守るべき第一の点は品性を建つるにあり、思慮、知識、弁論等知
的才能は重んぜられなかった。
[解答]
武士道とは、武士階級における義務である。それは不言不文であり、実行によって効力
を現した。武士道を形作る道徳は義、勇、仁、礼、誠である。義とは、人が守るべき義務
を指す。この義務は各個人の状況において、もっとも適切とされる行動指針のことを指す
が、それらは他の道徳から導きだされるものである。勇とは、行為に恐れをなすことなく、
自ら正しいと思ったことをする為に養う、いわば肝を据えるためのものである。義を見い
だした時、それを守るにあたって重要なのが勇である。義の内容は、時おり個人の感情や
立場にとっては望ましくないものになる。例えば、国の栄華の為に、自らを犠牲にしなけ
ればならないような状況に陥った時などがあげられる。このような、自己に対する不利益、
出来事への恐怖をはねのけ、事を行動に移す際に必要とされるのが勇である。仁とは、広
くは愛のことを指す。武士としては特に、弱者、劣者、敗者に対する仁が重視された。礼
とは、他人の感情や立場を思いやる心遣いのことである。誠とは、嘘の無い誠実な態度の
ことを指す。これらの道徳の多くは、神道や論語の影響が強いとされる。
武士道において重視されたのは、これらの道徳をなすこと自体であった。従って、その
報酬も、上記のような徳を得ることに他ならなかったのであるし、また、このような名誉
こそが、武士道における道徳観を価値あるものとしたのである。他方、武士道においては、
仁が弱者への愛を、礼が他人への思いやりを現す道徳であったので、政治的な関係も、そ
れを基礎としてなされることとなった。つまり、武士道においては、上は下への思いやり
を、下は上への服従をもって、同一の目的を果たそうとするものであった。これが武士特
有の忠誠心を生んだのである。
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問 2 封建制と専制政治について、武士道との関係を明らかにしつつ説明せよ。
(参照範囲: 第一版序~第五章)
[引用]
p.20: 日本の封建制度はその最も能力ある説明者にして最も確信的なる弁護者の「視界の外
に消え去った」
。彼にとっては、それは漂える香りである。
同上: かくして、私は武士道の母体たる封建制度のもとに生活し、…
p.29: 封建制が公式に始まった時、専門的なる武士の階級が自然に勢力を得てきた。
p.52: 封建制の政治は武断主義に堕落しやすい。その下において最悪の種類の専制から吾人
を救いしものは仁であった。被治者が「生命と肢体」を全く捧げる時、残るものは治者の
自己意志のみとなり、その自然的結果は絶対主義の発達となる。
同上: しかしながら封建制を専制政治と同一視するのは誤謬である。
同上: 封建君主は臣下に対して相互的義務を負うとは考えなかったが、自己の祖先ならびに
天に対して高き責任感を有した。
p.53: かくして民衆の世論と君主の意志、もしくは民主主義と絶対主義とは融合した。
同上: すなわち前者にありては人民はいやいやながら服従するに反し、後者にありては「か
の誇りをもってせる帰順、かの品位を保てる従順、かの隷従の中にありながら高き自由の
精神の生くる心の服従」である。
同上: アングロ・サクソン人の心には、徳と絶対権力とは調和不可能なる語のように響くか
も知れない。
p.54: この故に我が国民にありては、君主の権力の自由なる行使はヨーロッパにおけるがご
とくに重圧と感ぜられざるのみでなく、人民の感情に対する親父的考慮をもって一般に緩
和せられているのである。
同上: 仁は柔和なる徳であって、母のごとくである。真直なる道義と厳格なる正義とが特に
男性的であるとすれば、慈愛は女性的なる柔和さと説得性とをもつ。
p.56: 弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士に適わしき徳として賞讃せられた。
[解答]
封建制度は武士道の母体である。武士道が上流階級の日常生活における普遍的な信条お
よび実践をなしているのは、封建制度が専門的なる武士の階級に勢力を与えていたためで
ある。武士道は封建制度を通して日本の社会を形成していった。
しかし封建制の政治は武断主義に堕落しやすい。この武断主義に陥った政治の体制を専
制政治と呼ぶのである。専制政治では、臣下は君主に対して相互的義務を負い、服従を強
いられる。このような状態から臣下を救うのが「仁」であった。武士道に大きな影響を与
えた孔子と孟子も、為政者の不可欠要件を「仁」としている。そしてこの「仁」を持ち合
わせた政治体制を封建制度と呼ぶのである。臣下にとって、封建君主は自己の祖先や天の
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ように高き責任を有しており、またそのような君主に従えることは誇り高きことであり、
隷従関係にありながら、自己の品位を保てるという点で自由を約束してくれるものであっ
た。
このような徳と絶対権力の調和、言い換えれば民主主義と絶対主義の融合は、共同利害
のもとに組織を築き上げるヨーロッパ大陸諸国の人々にとっては不可能なことに思えるか
もしれない。なぜならヨーロッパの人々にとって君主の自由な権力の行使は重圧としか感
じられないからである。こういう環境のもとで専制政治という言葉が生まれたのである。
しかしこのような東洋の道徳観念の中にも、ヨーロッパの人々が理解し得る精神がある。
例えば、戦闘の恐怖の真唯中において哀憐の情を喚起するという場面がヨーロッパの文学
作品の中にも描かれる。この哀憐の情とは弱者、劣者、敗者に対する「仁」であり、これ
はまさに武士にふさわしい徳とされている。このように、一見民主主義と絶対主義の調和
は難しいように思えるが、これらは武士道の男性的な真直なる道義と厳格なる正義に、女
性的なる柔和さで説得力を持たせる「仁」が加わることで調和されているのである。
このように、封建制度とは武士道の根底を支えるものである。そして今ではその武士道
とともに目に見えない制度となっているが、その制度に宿っていた武士道の精神は光や香
りの様に我々の生活の内にまだ生きているのである。
問 3 武士道における刀の使い方、自殺、敵討ちの意味について述べよ。
(参照範囲: 十二、十三章)
[引用]
p.106: まず自殺について述べるが、私は私の考察をば切腹、俗にはらきりとして知られて
いるものに限定することを断って置く。これは腹部を切ることによる自殺の意である。
p.107: 我が国民の心には、この死に方は最も高貴なる行為ならびに最も切々たる哀情の実
例の連想がある。したがって我らの切腹観には何らの嫌悪も、いわんや何らかの嘲笑も伴
わないのである。
同上: 特に身体のこの部分を選んで切るは、これを以て霊魂と愛情との宿るところとなす古
き解剖学的信念に基づくのである。
p.108f: 「我はわが霊魂の座を開いて君にその状態を見せよう。汚れているか清いか、君自
らこれを見よ」
。私は自殺の宗教的もしくは道徳的是認を主張するものと解せられたくない。
しかしながら名誉を高く重んずる念は、多くの者に対し自己の生命を経絶つに十分なる理
由を供した。名誉の失われし時は死こそ救いなれ、死は恥辱よりの確実なる避け所。
p.110: 切腹が単なる自殺の方法でなかったことを領解せられたであろう。それは法律上な
らびに礼法上の制度であった。中世の発見として、それは武士が罪を償い、過ちを謝し、
恥を免れ、友を贖い、もしくは自己の誠実を証明する方法であった。
p.117: かくして吾人は、武士道における自殺の制度は、その濫用が一見吾人が驚かすごと
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くには不合理でもなく野蛮でもなきことを見た。吾人はこれからその姉妹たる報復―もしく
は復仇と言ってもよい―の制度の中にも、果して何らかの美点を有するや否やを見よう。
同上 復仇には人の正義感を満足せしむるものがある。
p.119: 切腹および敵討の両制度は、刑法法典の発布と共にいずれも存在理由を失った。
p.120: 切腹については、これまた制度上にもはや存在しないけれども、なお時々その行わ
れるを聞く。かつ過去が記憶せられる限り、おそらく今後もこれを耳にするであろう。
同上: 血腥き制度を見るよりも、また武士道の一般的傾向より見ても、刀剣が社会の規律お
よび生活上重要なる役割を占めたことを推知するは容易である。刀を武士の魂と呼ぶのは
一の格言となった。
[解答]
武士道において刀は、その者がもつ力と勇気のあらわれであった。武士は、刀を所持し
常に携帯することによって、自尊ならびに責任の感情と態度を自覚することができた。そ
の意味においてまさに刀は、忠義と名誉の象徴だったのである。そして、大小二本の刀は、
家にある時でさえももっとも目につきやすい場所を占めており、不断の伴侶として愛され
た。この刀に対する尊敬や崇拝は、持主に対するものと同等と考えられていたため、たと
え短い刀であっても、ある程度の尊敬は払わなければならなかった。すなわち、刀に対す
る侮辱は持ち主に対する侮辱と同じものなのである。これほどまでに刀を愛し、自分の身
代わりのように扱うことから、武士には刀は神聖なるものという観念があったのである。
このような刀への崇拝が、自殺と敵討ちという行為自体を高貴なものにしている。自殺
は、切腹あるいははらきりのことである。つまり、腹部を切り、自殺するのである。しか
し、日本人にはこの切腹という行為に対する嫌悪感がまるでない。嫌悪感がないどころか、
切腹による自殺で一生を終えることに対して明確な考えがみてとれる。それは自らが犯し
てしまった過ちに対する反省の念や、決して後戻りはできない事実を抱えながら平然と生
きていくことへの恥ずかしさからくるものである。このような考えから、武士は切腹によ
る自殺を行うことによって、自分の誠実さを証明しようとしたのである。
また敵討ちは、それが行われていた時代において、家族や隣人との関係が常軌を逸しな
い程度に構築されており、周囲との精神的な結びつきが強かったといえる。そのため、自
分がお世話になった人たちの身に何か理不尽なことがあれば、その敵討ちは自分の手で行
いたいと切望する。そのような心情もあったため、やりきれない気持ちを誰かに任せて、
政府や役人たちによる裁きを待つということよりも、自分の手で敵を討つことの方がより
早い解決になると考えられたのである。
自殺と敵討ちは、刑法法典が発布されるまでどちらも社会において重要な役割を果たし
ており、刀剣が当時の社会の規律を形作っていたことがわかる。
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問 4 「武士道の全教訓は自己犠牲の精神によって完全に浸潤せられており、それは女子に
ついてのみでなく男子についても要求せられた」(p134)とあるが、自己犠牲や自己否定の
精神は武士道を通して、男女の教育にどのような影響を与えたか、説明せよ。
(参照範囲: 十章、十四章)
[引用]
p.77: 廉恥心は少年の教育において養成せられるべき最初の徳の一つであった。
p.79: 武士道の掟において何らの是認を見出し得ざる行為が、名誉の名において遂行された。
極めて些細なる、非想像上の侮辱によっても、短気なる慢心者は立腹し、たちまち刀に訴
えて多くの無用なる争闘を惹き起し、多くの無辜の生命を絶った。
p.82: 富にあらず、知識にあらず、名誉こそ青年の追い求めし目標であった。…中略…恥を
免れもしくは名を得るためには、武士の少年はいかなる欠乏をも辞せず、身体的もしくは
精神的苦痛の最も厳酷なる試煉にも耐えた。
p.93: 武士の教育において守るべき第一の点は品性を建つるにあり、思慮、知識、弁論等知
的才能は重んぜられなかった。
p.95: この故に児童はまったく経済を無視するように養育せられた。経済のことを口にする
は悪趣味であると考えられ、各種貨幣の価値を知らざるは善き教育の記号であった。
同上 武士道において倹約が教えられたことは事実であるが、それは経済的の理由というよ
りも、克己の訓練の目的にいでたのである。
p.96: かくのごとく金銭と金銭慾ともつとめて無視したるにより、武士道は金銭に基づく凡
百の弊害から久しく自由であることをえた。
p.128: 女子はおのれの主君を有せざるにより、己れ自身の身を守った。女子がその武器を
もって己が身の神聖を護りしことは、夫が主君の身を護りしがごとき熱心をもってした。
彼女の武術の家庭的用途は、後に述ぶるがごとく子供の教育においてであった。
p.129: 女児が成年に達すれば短剣(懐剣)を与えられ、もっておのれを襲うものの胸を刺すべ
く、或いは場合によりてはおのれの胸を刺すをえた。
p.131: 彼らは家の名誉と体面とを維持せんがために、辛苦労役し、生命を棄てた。日夜、
強くまたやさしく、勇ましくまた哀しき調べをもって、彼らはおのが小さき巣に歌いかけ
た。娘としては父のために、妻としては夫のために、母としては子のために、女子は己れ
を犠牲にした。かくして幼少の時から彼女は自己否定を教えられた。彼女の一生は独立の
生涯ではなく、従属的奉仕の生涯であった。
p.133: 女子がその夫、家庭ならびに家族のために身を棄つるは、男子が主君と国とのため
に身を棄つると同様に、喜んでかつ立派になされた。自己否定―これなくしては何ら人生の
謎は解決せられない―は男子の忠義におけると同様、女子の家庭性の基調であった。
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[解答]
武士の教育においてもっとも重要視されることは品性を保つことである。この品性を保
つために、子供が初めに教えられたことは、廉恥心であった。幼い頃から植えつけられた
恥辱への恐怖は、武士による多くの無用なる闘争を引き起こした。この闘争は他人との闘
争と、自己との闘争両方を含むものであった。恥辱から免れるために、自分をも傷つける
ことを、自己犠牲という。武士やその家族は、品性を守るために体面を保ち、生き恥をさ
らすものなら、死を選んだ。そして、主への忠誠を守ることに人生を捧げた武士は、その
ために自らを犠牲にすることを名誉ある行動と見なした。自己犠牲の精神は男子には男性
の、女子には女性の役割を踏まえて教えられた。
女子は家族に従事するという役割を教育として与えられた。女子は幼少の頃から、喜び
をもって自らの夫や家族のために身を捧げる自己否定を教えられ、自己を犠牲にして、夫
や家族を支えていったのだ。例として、武芸や音楽などの芸事が挙げられる。女子が武芸
を学ぶことは、武士の妻としての自分の品位を保つためである。女子は成年に達すると短
刀を与えられる。この短刀によって女子たちは、武士道に基づいて、時に己を襲う者から
自らを守り、時に名誉を守るために自らを殺す。女子にとって身を守ること、貞操を守る
ことは生命以上に重んじられ、武士の妻として、最大の謹慎を守るために、これを学ぶの
である。
女子が音楽などの芸事を学ぶことは決して出世のためなどではなく、父親や夫を癒すこ
とや、家族の一員として、他者をもてなすためであった。女子は娘として、妻として、母
として、一家の名誉や品位を保つために教育され、常に己を犠牲にしていたのだ。
男子への教育は、主や国に忠義をもって仕えるために与えられた。女子の場合と同じよ
うに、その根本には、自己犠牲と自己否定があった。男子は将来武士となって主や国を守
るために武芸を学んだ。武士は、その特徴とも言える品性を保つために、武術を極め、自
己が血を流すことになろうとも主を守り、主への忠誠を守るのであった。
さらに武士の教育の中で、児童は、金銀に対する欲は智を害するものであり、経済に関
する知識を持たないことが良い教育だと教えられた。武士道において、倹約を教えること
は、自らの弱さを克服し、鍛えることに目的がある。武士にとって、金銭に固執すること
は卑しいことであり、名誉を汚すとされていた。この教育により、武士は金銭に基づく問
題から自由であったのだ。
問 5 「武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上
より滅びないであろう。」(p.166)とあるが、武士道の精神が現在の日本の生活にどのよう
にして残っているか、例を出しつつ説明せよ。
[引用]
p.143: 民衆娯楽および民衆教育の無数の道―芝居、寄席、講釈、浄瑠璃、小説―はその主題
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を武士の物語から取った。
同上: 武士は全民族の善き理想となった。「花は桜木、人は武士」と、俚謡に歌われる。武
士階級は商業に従事することを禁ぜられたから、直接には商業を助けなかった。しかしな
がらいかなる人間活動の路も、いかなる思想の道も、或る程度において武士道より刺激を
受けざるはなかった。知的ならびに道徳的日本は直接間接に武士道の所産であった。
エリート
p.144f: 武士道は最初は選良の光栄として始まったが、時をふるにしたがい国民全般の渇仰
および霊感となった。しかして平民は武士の道徳的高さにまでは達しえなかったけれども、
フォルクスガイスト
「大和魂」は遂に島帝国の民族精神を表現するに至った。
p.152: ヨーロッパ人が日本を教えたのではなく、日本は自己の発意をもってヨーロッパか
ら文武の組織の方法を学び、それが今日までの成功をきたしたのである。
p.153: 劣等国と見下されることを忍びえずとする名誉の感覚、―これが最も強き動機であ
った。殖産興業の考慮は、改革の過程において後より目覚めてきたのである。
同上: 到るところ人民の礼儀を重んずるは武士道の遺産であって、こと新しく繰り返すにお
よばざる周知の事実である。
p.159: ヨーロッパの経験と日本の経験との間における一つの顕著なる差異は、ヨーロッパ
にありては騎士道は封建制度から乳離れしたる時、キリスト教会の養うところとなりて新
たに寿命を延ばしたるに反し、日本においてはこれを養育するに足るほどの大宗教がなか
ったことである。
p.160: 時代の好戦的排他的傾向に阿諛し、その故に今日の要求に善く適合すると考えられ
たる快楽的傾向の倫理説が発明せられ提供せられた。
同上
デ モクラ シー
勝ち誇れる平民主義の抵抗し難き潮流だけでも、武士道の遺残を呑むに足る力があ
った。
p.162: 拡大せられたる人生観、平民主義の発達、他国民他国家に関する知識の増進と共に、
孔子の仁の思想―仏教の慈悲思想もまたこれに付加すべきか―はキリスト教の愛の観念へ
と拡大せられるであろう。
p.163: 最も進んだ思想の日本人にてもその皮に掻痕を付けて見れば、一人の武士が下から
現われる。
p.165: 功利主義および唯物主義に拮抗するに足る強力なる倫理体系はキリスト教あるのみ
であり、これに比すれば武士道は「煙れる亜麻」のごとくであることを告白せざるをえな
い。
[解答]
武士道の精神は、一部の上層階級の武士から、彼らを題材にした小説や芝居によってひ
ろく一般庶民の間に浸透した。武士道の精神は、もはや武士階級だけのものではなく、日
本人の民族精神として定着した。武士道は商業と相容れぬものではあったが、それゆえに
一つの理想として、国民に受け入れられたのである。ひろく国民に浸透した武士道精神の
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おかげで、技術的にも大きく進んでいたヨーロッパに忍従することを良いものとせず、ま
た他国に追従せずに、日本は殖産興業の大きな発展をとげることができた。武士道精神は、
世界と日本の邂逅において、大きな作用を及ぼしたが、社会が技術的に発達する中で、封
建制度が崩壊し、武士の社会的階級が変化した。商業が社会において力を持ち始め、資本
主義の色が濃くなるにつれて、武士道の精神はヨーロッパの騎士道のようにその養育をま
かせる後見人を失った。ヨーロッパの騎士道が、時代の変化においてキリスト教の保護を
獲得し、一定の地位を維持した一方で、日本の武士道はもはや時代に取り残された遺物と
して扱われるようになった。資本主義化の進行のもと、人びとは他者を排し、自己の利益
追求を第一に求めることが推奨されるようになり、そのような時代に適合した新たな倫理
が打ち立てられることとなった。それは、ヨーロッパに端を発する倫理におもねるもので
あった。庶民の理想として、非生産的階級に所属していた武士たちの精神は、平民主義の
流れの中で無用の長物となり下がってしまった。もはや武士が刀において顕示した道徳や
倫理は、その顕現する場所を失ったのである。
しかし、現代においても、新渡戸は、武士道の倫理に及ぼす力が失われても、武士道が
持つ力は失われずに日本国民の中に生き続けると述べている。現代では、武士道は過去の
精神論の遺物として、また刀や侍といった表面的な受取り方によって、大衆に迎合されて
いる。しかし、本著で新渡戸が示した武士道とは、日本という風土によって培われてきた
歴史の遺産としての倫理体系であり、それは日本の共同体の在り方に根ざした独立の体系
であった。しかし近現代において、西欧文化が世界を席巻し、日本もその潮流の中で資本
主義化が進み、功利主義的な考え方が定着しつつある。新渡戸は西欧のキリスト教の愛の
観念のうちに、孔子の仁の思想が含まれると述べている。しかし、このことは武士道がキ
リスト教の中に解消されるということを示しているのではない。武士道は、依然として日
本人の言葉、風土に基づいた道徳の中において解されるものなのであり、日本人とは切っ
ても切り離すことのできない歴史的遺産の一部なのである。
では、現代に武士道精神はどのようにして残っているのか。武士道精神は、形式的には
残っていると考えられる。卑近な例を持ち出せば、公共交通機関などに設けられている優
先座席があげられる。これは一見、武士道のもつ忠誠や尊厳の精神があらわれたもののよ
うに見える。しかし、武士道において明言化された掟などはない。「ここは優先座席です。
お年寄りや身体の不自由な方にお譲りください」といった文面から、人びとは何を受取る
のか。武士道精神が存在していれば、まずこのような文面は不必要なものであるし、人び
とはすべての座席で、その場面に応じて座席を譲るだろう。一方的におしつけるのではな
く、すべて相手との関係を見て、臨機応変に考え、対応しようと試みるはずである。しか
し、現実には、優先座席に座りながら、そのような場面が来ても譲らない人がいる一方、
最初から優先座席には座らないでおこうと考えて、立ったままの人もいる。もちろん、そ
の場面に対応して座席を譲ることのできる人の方が多い。しかし、先述の極端な人びとは
周囲との関係を見失っているのである。武士道は、日本という社会において、共同体と個
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新渡戸稲造『武士道』
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人との調和をはかりながら、自己の尊厳を出来る限り貫こうとした。主人には服従を誓う
も、その執政に異論があれば、自身の死をもって抗議した。それは、出来る限り共同体の
調和を乱さないようにしながら、個人の意志を貫こうとする究極の策であった。現代では、
西欧の個人主義がひろまり、このような武士道の精神は一種奇異の目で眺められる。周囲
との関係の中で、自分がどのように立ちまわるのかといった道徳精神が失われたことで、
定式化され、形骸化したルールやマナーが蔓延している。上記の優先座席の事例において
も、もはや新渡戸が世界に発信した武士道の精神は、日本人においても奇異と好奇の目を
向けられる客体となってしまっているのである。
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