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『ピグマリオン』
戯曲 『ピグマリオン』 G・B・ショー 言葉遣いや発音の違いで人の価値を決める 英国上流社会の嫌らしさを揶揄する戯曲 『ピグマリオン』 車場(parking)という語なら、rの音が落ちて“cah”、“pahk- オードリー・ヘプバーン主演の名画 に『マイ・フェア・レデ 米・英人、カナダ人、オーストラリア人、また旧植民地のフィ ィ』がある。ロンドンの貧しい花売り娘の「生きる資格がない」 リピン人、バルバドス人、インド人などが、それこそ十人十色 と思われるほど汚い話し方に興味を持った言語学者が、彼 ing”となる。 むろん聞き比べれば違いは分かるとはいえ、誰 もが異なる英語を話すアメリカの都会で、そんな微妙な訛りを 聞き定めるのは至難の技だ。実際、私の周りだけを考えても、 のアクセントで語り合う姿は、奇妙でもあり楽しくもある。ま 女に発音矯正と礼儀作法の特訓を施し、完璧なレディに仕 た生粋のアメリカ人でも、両親の母語が他言語である人は、 立て上げるという話だ。映画版はハリウッドらしい結末を 少し発音が 迎えるが(教授が美しく変身した娘と恋に落ちて結ばれ 違うように る) 、G・B・ショーの原作『ピグマリオン』は、も っと皮肉な話である。主人公のヒギンズは、英 思う。私の友人で中 国系アメリカ人のティナがそう ステレオタイプ 国上流階級に属する独身男性の固定観念そ で、いわゆる「ネイティブの英語」から白人訛 のものだ。身勝手で子供っぽく、世間知ら りを外したような感じとでも言おうか。ちなみにティナ ずの変人の癖に、女性を完全に見下してい の夫はアイルランド出身で、私がお喋りで早口な彼 る。だから労働者の娘イライザのことなど、は なから人間扱いしていない。彼女はそのことに気づき、 彼のもとを去る。作者は、女王の英語(Queen ’ s English) のトークに四苦八苦していたら、彼女に「大丈夫、 私も時々何を言ってるか分かんないから」と励ま された。これにセミ・ネイティブやノン・ネイティブが と称する上流階級の言葉遣いと発音を特権化 加わると、まさに会話は多彩な英語のショーケースとなる。 し、それができない人間を差別す 『ピグマリオン』の世界では、人は口を開けば直ちに る英国社会の嫌らしさを、揶揄し 「お里が知れ」て、それだけを根拠に人間の品定めをされる。 ているのだ。 それはアメリカでも起こりうることで、 「完璧な英語」を身に それでもこの作品の面白さは、イラ つけて有利な就職をめざす移民たちの訛りを消すことで生計 イザの発音練習の場面につきる。『マ を立てる、まさに米国版ヒギンズのようなプロもいる。それ イ・フェア・レディ』でも同様で、バーナ でも一歩街に出れば、やはり様々な英語が聞こえてくるのだ ーの炎を使ってHの発音を特訓されるところな が、そんな「時々お互いが何を言っているか分からない国」 ど、何度見てもおかしい。 彼女の絶望的な訛りが、かえって可 アメリカの、少しばかり雑で荒っぽい人と人との出会い方、 愛いのだ。また、 「スペインでは平原に雨が降る」 “The rain in つきあい方が私は嫌いではない。主に中心的メンバーの共犯 Spain stays mainly in the plain”を歌う場面では、ロンドン下 性によって支えられていた古い型の共同体が、世界中で否応 町訛りの「アイ」でなく、きれいに「エイ」の音が発音できる なく崩れつつある今、アメリカ社会はそれらの共同体が行き ようになったイライザの伸びやかな歌声が心に残る。 着くところを、多少極端な形ではあれ、示していると思うか 「隣は何を言う人ぞ」? ――アメリカの都会は 多彩な英語のショーケース 私は最近まで2年間ボストンに住んでいたが、地元の人は 「ボストン弁」なるものがあると言う。たとえば車(car)や駐 らだ。英語であれ日本語であれ、辛うじて共通の言語を話し てはいても、他人同士が隣り合って暮らしていくからには、 すべてがそうスマートに行くはずがなく、恥ずかしいくらい のズレや誤解が生じて当然だということを、私たちは受け入 れるべきだ。お互いに分かったふりをするより、その方が相 互理解への近道だろうと思う。 Love of Culture 戯 曲 川本玲子 商学研究科専任講師 47