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Passing における黒人アイデンティティ

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Passing における黒人アイデンティティ
 Passing における黒人アイデンティティ 1
Passing における黒人アイデンティティ
蟹江 弘子
Ⅰ
Nella Larsen の Passing は,1929 年,奴隷制廃止後,初めての黒人文化の開
花期と言われるハーレム・ルネッサンスの渦中に出版された。この黒人文化の
隆盛については,それを支えた白人文化の存在が指摘され,白人の想像力の産
1
物である究極的な失敗であったと評価されることも多い。 しかし,その強力な
擁護者である Alain Locke は,この文化隆盛と北部への黒人大移動との関連を
指摘し,
「より民主的な機会に向けて邁進する巨大な大衆運動,社会的経済的自
由への意図的な移動」(6)の担い手として「ニュー・ニグロ」の出現を主張し
た。彼の言葉にあるロマンティシズムを留保しても,ハーレム・ルネッサンス
の背後には,黒人の北部都市への集中や大戦参加,また,社会,経済,政治と
いった彼らを取り巻く環境の変化とによって相乗的に齎された黒人の人種意識
の高揚と,それが生み出す人種差別社会とのさらなる葛藤があったのも否定し
難いことである。
Passing は,このような時代を背景として,裕福な黒人家庭の女性 Irene
Redfield と,経済的・社会的利益のために黒人でありながら白人として通すと
いう「パッシング」をした旧友 Clare Kendry との関わりが,Clare との出会い,
交流,彼女の死という三部構成を成す流れに従い,Irene の視点から語られる作
品である。前年,1928 年に出版された Quicksand とともに,混血の主人公を持
つ Passing は,長く人種的アイデンティティに苦悩する「悲劇のムラート」の
物語として読まれ,人種問題に焦点を当てて論じられてきた。その後,1980 年
に Claudia Tate が語り手 Irene の心理を探求する心理小説としての側面に焦点
を当て,さらに,1986 年に Deborah McDowell が Irene と Clare とのレズビア
ニズムを指摘するに及び,この作品が単に人種間の越境をテーマにしているの
ではなく,個人の心理上に交錯する種々の境界について展開されていることが
示唆された。Passing の再評価は,この作品が描く人種,セクシュアリティ,階
級といった境界とその横断という個についての問題性が,現代を生きる個人が
抱える問題と重なりを見せることと無縁ではない。多元文化社会で文化共同体
2 蟹江 弘子
の意思を受け入れるにせよ,また,浮遊する個として存在することを求めるに
せよ,アイデンティティを巡る混沌とした状況を生きる現代人にとって,
Passing は示唆的な作品なのである。本論では作品に描かれた黒人の心理を,
Irene を焦点として分析し,黒人が抱えるアイデンティティの問題をハーレム・
ルネッサンスという時代を背景として論じていきたい。
Ⅱ
物語の発端となる 12 年ぶりの Irene と Clare の遭遇は,ニューヨークに住む
Irene が,実家のあるシカゴを訪れ,おりからの凄まじい猛暑に涼を求めて入っ
たドレイトンホテルの屋上レストランで起こる。人種隔離法がなかった北部の
大都市とはいえ,乗り合わせたタクシーの運転手が,黒人であれば入ることの
できない一流ホテルに Irene を案内するのは,彼女を有産階級の白人と判断す
るからである。Irene も Clare も共に白人として通しているという事実を背景
としながら,二人の偶然の出会いは,完全にパッシングした Clare とは異なる
Irene を明示することになる。自分に絡み付く見知らぬ白人女性の視線に戸惑
う Irene の心中は,黒人であることを見破られたのかという不安と,白人が見
破るはずがないという確信を経て,次のように描写される。
Nevertheless, Irene felt, in turn, anger, scorn, and fear slide over her.
It wasn’ t that she was ashamed of being a Negro, or even of having
it declared. It was the idea of being ejected from any place, even in
the polite and tactful way in which the Drayton would probably do it,
that disturbed her. (179)
黒人であることが知れれば,この心地よい風が吹き抜ける見晴らしのよいレス
トランから追い出されるという人種差別社会の現実に対し,Irene は「怒り,
侮辱,恐れ」を強く感じる。そして,黒人であることは恥辱ではないし,公言
できることでもあると述べる Irene は,自身のパッシングが一時の便宜上のも
のに過ぎないことを明らかにしている。
さらに,互いに旧友であると認知して始まる二人のパッシングを巡る会話は,
Irene が持つ黒人との連帯感を示している。白人の夫を持ち,白人社会の一員
として暮らす Clare と異なり,Irene にとって,パッシングは「異なる社会環境
Passing における黒人アイデンティティ 3
のもとで機会をつかむために,慣れ親しんだ人々や物事とすっかり手を切って
「忌まわしいこと」
(190)と思う。彼女
離れてしまう」
(186-87)ことであり,
のこの黒人同胞との仲間意識は,その後,Clare のハーレム訪問をその夫
Bellew に密告できないことに,より明確に示される。Clare の訪問が頻繁にな
るにつれ,夫 Brian との仲を疑るようになる Irene は,Clare の行動を Bellew
に知らせようとするが,それは彼女が黒人であると告げるに等しく,Irene は苦
悩する。
She was caught between two allegiances, different, yet the same.
Herself. Her race. Race ! The thing that bound and suffocated her.
Whatever steps she took, or if she took none at all, something would
be crushed. A person or the race. Clare, herself, or the race. Or, it
might be, all three.
Nothing, she imagined, was ever more
completely sardonic.(258)
Clare を裏切ることは,同じ黒人である自分自身を,そして,白人の支配下で同
じ仲間としてパスした人の秘密を守ってきた黒人集団を裏切ることであると,
Irene は考える。パッシングは,自己の利益のために黒人社会を離脱するとい
う同胞への背信行為であるが,同時に白人を出し抜く行為であるため,黒人は
集団としてパスした人の秘密を守ろうとするのである(Drake and Cayton
167)。Clare との断ち切ることのできない「人種の絆」
(213)を感じ,
「人種へ
の本能的な忠誠」
(260)のために,彼女を裏切る個人的行動を採ることができ
ない Irene は,黒人としての強い自意識を持っているのである。
しかし,Irene の持つ人種意識は,また,彼女が人種と言う境界を明確にする
ことによって自己を認識していることを示している。人種差別社会で白人は肌
の色などの身体的特徴や,さらに,一滴でも黒人の血が混じれば黒人と定義す
る「ワン・ドロップ・ルール」によって黒人と自らを区別しようとし,黒人を
(201)と断言するの
敵視する Bellew は,黒人と白人との間に「一線を引く」
2
Irene はこの白人が外見で黒人を識別できると主張することを,愚か
である。 であると嘲るが,外見では無理だが言葉では言い表せない「何か」
(237)によっ
て両者の区別は可能であると述べる。白人と同様に Irene も表現できない「何
か」によって両者の間に区切りを引き,その境界によって黒人種として自己定
4 蟹江 弘子
位しているのである。
さらに,大学出の父親,医師の夫を持つ Irene は,黒人中産階級としての階
級意識に捕われている。黒人福祉協会でのボランティア,頻繁なパーティー,
茶会等に明け暮れる Irene は,明確な黒人種への帰属意識を持ちながらも,無
意識に裕福な階級の自分と他の黒人とを区別する。白人有名作家と名前を呼び
交わす親しい交際をする一方で,「小柄なマホガニー色の女」(215)と描写さ
れる自宅の黒人メイドとの会話は,主従の域を出ることは一度もなく,Clare
が下働きの者と親しくすることに,「子どものような理解力の欠如」(238)を
感じ,苛立つ。久方ぶりに会った旧友の Gertrude を「いかにも肉屋のかみさん
風情だわ」
(196)と観察し,少女時代の貧しい Clare を「厳密には自分のグ
ループではなかった」(183)と回想するのである。Cheryl Wall が Irene は下
層のものとの関係によって自己を定義すると指摘するように(“Passing”108),
彼女の自己認識は労働者階級の黒人との差別化によって成り立っているのであ
る。
有閑階級の専業主婦として Irene がもっとも関心を注ぐのは家族,家庭であ
り,彼女はそれを至上のものとする。彼女は,息子が性に目覚めるのを阻止す
ることをもくろみ,夫 Brian が黒人の被る人種差別の話題を食卓へ持ち出すこ
とを厳禁し,自分の「役割」
(263)を果たすよう要求する。人種差別社会であ
るアメリカを離れてブラジルへ移住したいという彼の希望にも,彼女は強く反
対し,彼にそれを断念させる。彼女の語りは,常に「安全」という言葉に付き
まとわれており,それは,彼女が,例えば家庭という「場」や「実体」(221)
をその意識に想定していることを示している。Irene は自己の持つ家庭像に合
わないものを排除することで逆説的に彼女のイメージを確かなものとし,家庭
を「安全」にしているのである。そして,彼女が固執する家庭や妻/母という
女性性規範は,それと相関関係にある異性愛という,Irene の持つもう一つの境
界を提示する。パスしないことを選択した Irene の自己は,人種,階級,セク
シュアリティなどの境界によって成り立っており,彼女はその境界によって他
を排除することによって自己を堅固なものとしているのである。
Ⅲ
領域を固定し,「安全」と「不変性」(267)を求める Irene とは対照的に,
Clare は境界を自由に横断する流動的な存在として描かれる。Clare は黒人か
Passing における黒人アイデンティティ 5
ら白人へと完全にパスし,国際銀行家の夫とともにヨーロッパとアメリカを往
来して生活する。そして,黒人との接触を希求してハーレムを訪れる彼女は,
白人として暮らしながら,黒人の中にも入り込み,二重の社会生活をする。華
やかな衣装,豪華な装身具という明らかな上流階級の装いで,酒に溺れた玄関
番の父親について話す時,彼女の階級は曖昧性を帯びる。Clare は人種,階級
といった境界を往還し,区切られていた領域を乱していくのである。
なかでも,Clare のセクシュアリティは,Passing のテーマと関連付けられて
論議を呼んできた。作品が結婚の不安定さについて描かれていると評されるよ
うに(Larson 82-86),Clare の出現は Brian との家庭を固守しようとする Irene
に脅威を与え,謎に包まれた Clare の死は Irene によって齎されたとする作品の
一つの読みを生む。Clare のセクシュアリティは,二人が最初に会うドレイト
ンホテルの場面ですでに示唆されており,彼女がレストランに表れるのは夫以
外の男性との二人連れである。「刺激的すぎる」(180)と Irene の反感を招く
Clare の微笑みは,夫を懐柔し,パーティーの男客を陥落させる力を持ってい
る。
さらに,作品の隠されたテーマとして指摘されたレズビアニズムは,セク
シュアリティについて,Irene と Clare をより対照させる視点を提供する。
Irene に対する Clare の愛情に満ちた振る舞い,Irene の Clare への賛美という
二人の親密な関係が描かれる一方で,Irene は,何の確証もない Clare と Brian
の不倫を疑り,嫉妬する。Irene と Clare の間に同性愛的欲望を読み込むことに
より,この Brian を頂点とした三角関係の妄想は,Irene が自己の Clare に対す
る欲望を Brian の Clare への欲望へと摩り替え,Clare の自分に対する欲望を
Brian への欲望へと摩り替えていることが明らかになる。このような関係にお
けるフロイトの症例分析をさらに発展させた Diana Fuss が指摘するように,
Irene は深層で Clare との同一化を望んでおり,彼女の嫉妬は抑圧された同性愛
的衝動とその衝動への防衛とが同時に表われたものなのである(31)。自らの
同性愛の欲望を抑圧することで異性愛構造に留まろうとする Irene と,Clare の
境界を越えたセクシュアリティが対照されるのである。
また,Clare は,異性愛制度を支える家族,家庭を捨て,一つの個としてあ
ろうともする。Clare のハーレム来訪を止めさせようとする Irene に,Clare は,
一方で黒人であることを隠してよき妻,母を演じながら,子どもや家庭がすべ
てではないと言い放つ。言葉と態度に「微かな気取り」
(240)があるのを自覚
6 蟹江 弘子
しながら,妻であること,母であることの幸福と重要性を説く Irene に Clare
は告げる。
It’ s just that I haven’ t any proper morals or sense of duty, as you
have, that makes me act as I do. ...it’ s true,‘Rene. Can’ t you realize
that I’ m not like you a bit ? Why, to get the things I want badly
enough, I’d do anything, hurt anybody, throw anything away. Really,’
Rean, I’ m not safe. (240)
倫理を否定し,欲しいもののためなら何でもするし,全てを捨てると宣言する
Clare は,欲望そのものと化している。彼女が示すのは,Irene が「安全」のた
めに,体裁のいい黒人中産階級の女性としてあるために,「道徳」,「自己犠牲」,
「義務感」などの美徳のもとに否定してきたものなのである。
Irene の意識の流れを中心とする語りの中において,Clare は色彩,光彩,音
声などが強調され,その実体性は希薄である。彼女は見る,聴く,感じると
いった感覚を通して Irene がその心理の上で構成するイメージなのである。
Irene の 視 点 か ら 描 か れ る Clare は,Irene の 心 理 を 映 す ス ク リ ー ン で あ り
,彼女は次のように回想される。
(Davis 323)
The soft white face, the bright hair, the disturbing scarlet mouth, the
dreaming eyes, the caressing smile, the whole torturing loveliness that
had been Clare Kendry. That beauty that had torn at Irene’ s placid
life....The mocking daring, the gallantry of her pose, the ringing bells
of her laughter.(272)
Irene の心中の Clare は,人格を持つ個体として統一されておらず,セクシュア
リティを喚起する断片的イメージに,Irene の相反する感情が重なっている。
Irene は彼女に反感を持ちながらも魅惑されるのである。作品全体に遍在する
この嫌悪と憧憬の交錯は,Clare が Irene の「自己が投射された心理的ダブル」
3
(Little 177)であることに起因する。「望ましい自己」を作り上げるために,
絶えず境界によって排除することを繰り返す Irene にとって,自己の否定的欲
望を体現する Clare は,無意識のうちに抑圧してきた自己の一部である。レズ
Passing における黒人アイデンティティ 7
ビアニズムとして読まれた Irene の Clare への欲望は,また,Clare がこの「望
ましい自己」のために自己から切り離したものであるから生じたとも言え,
Irene は排除したものへの欲望から彼女に強く惹かれるのである。しかし,同
時に,Clare が自己の鏡像であると,否定すべき欲望を自己の中に認めてしま
うことは,排除によって成立している Irene のアイデンティティの自己崩壊を
招くこととなる。Clare に対する Irene の忌避や批判は,自身の内なる否定すべ
き欲望が回帰することへの恐怖とその防衛が表われたものであり,Irene の心
理における葛藤がメイン・プロットとして浮上するのである。
Ⅳ
作品は,Clare のパッシング発覚,そして,墜落死と,
「悲劇のムラート」の
物語として終末を迎える。Clare の死は,表面的には Irene が固守していた「安
全」の回復を保証するものである。Irene は夫を取り戻すことができ,彼女の心
理と生活に Clare が与えていた脅威から解放される。場面は Clare の夫である
白人男性の闖入で始まり,Clare の曖昧性を裁定し,黒人としての Clare はその
場から死へと追放される。そして,Irene は,良妻らしくコートを着ずに外へ出
ていった夫の体を気遣って墜落現場へ行き,ショックで失神する。薄れていく
彼女の意識に,
「当局筋らしい人物」
(274)が,Clare の死は偶発事故と語る声
が残る。場面は Irene 個人だけでなく,白人支配社会の秩序を追認する場とも
なっている。
しかし,また,Clare の死は安定した外見に潜む Irene の主体の構築性を裏付
けるものともなっている。Irene が示す自己の中にある望ましくないものを外
部に投影することによって,「望ましい自己」を作り上げるという主体構築は,
近代の啓蒙主義的主体の成立にその由来を持つ。異性愛の白人ブルジョワ男性
は,近代的主体を構築するために,自己の中に在りながら否定的なものとされ
る行為や欲望を,
「黒人」,
「下層階級」,
「女性」,
「同性愛」といったカテゴリー
にある「他者」に投影した。そして,「自己」と「他者」という差別化するこ
と自体が孕む不安定さを,その根拠が,人種,性,セクシュアリティといった,
言語や文化の外にあると想定した「自然」にある差異であるかのようにするこ
とで隠蔽し,
「他者」を固定化することで,逆説的に,自律的で普遍的な主体
を浮かび上がらせてきたのである。Irene も,また,種々の境界で「他者」を差
別化することによって「望ましい自己」という主体を作り上げているのである。
8 蟹江 弘子
Irene が安定したアイデンティティを得るために,自己の否定的欲望を投射
した Clare を,自己とは異なるものとして排除する行為は,作品の中で繰り返
されている。Irene は Clare からの手紙を二度にわたりばらばらの断片に破り
捨て,自分の茶会では Clare を暗示する白磁の茶碗を割ってしまう。絨毯に黒
いしみをつける白い破片を前に,
「割ってさえしまえば,永久にこの茶碗を捨て
去ることができるんだわ」(255)と述べる Irene の言葉は,後の Clare 消滅へ
の Irene の 関 与 を 予 示 し て い る の で あ る(Sullivan 381)。主 体 の 形 成 が パ
フォーマティヴになされるものであると論じる Judith Butler は,心理には,意
識的な主体の領域を超えるもの,主体に納まらない過剰があり,主体はその過
剰が噴出するという絶え間ない失敗のゆえに,絶えずその有るべき姿を反復,
強化すると述べる(
“Imitation”24-25)。自己のアイデンティティ構築のため
に,Irene は繰り返しその過剰を抑圧しなければならない。そして,Irene に対
して一つの本質的なアイデンティティを否定するのは,「シニフィアンとシニ
フィエの間のギャップを作り出す」(Cutter 95)Clare なのである。Irene は
Clare を抹消することで黒人中産階級の有徳の女性と言うアイデンティティを
獲得したのである。
一方,この最終場面では,Irene の場合とは対照的に,彼女の夫 Brian のアイ
デンティティの危機的状況が示されている。Brian は,家族と結婚生活の安泰
(221)を
を希求する Irene によって,Brazil へ移住したいという「心の欲望」
禁止すべきものとされた。「彼のことを彼と同じくらい,いや,彼よりももっと
知っている」
(218)と自負し,自分の決断は正しいことであるとする Irene の
命令に従い,それを内面化することで,Brian はアメリカで黒人中産階級の家
庭を守る夫としての自己を得ていたのである。形骸のみの結婚生活にも関わら
ず,Irene は「二人の間の心身共に強い絆」(218)の存在を主張し,その言葉
は皮肉に現実化する。Irene が Clare によって撹乱されるのと平行して彼も変
化を遂げていくことが作品に辿られるのである。Irene に彼の欲望を抑圧させ
られ,正しい方向へと,指示され,案内され続けている Brian は,次第に混乱
の様相を呈していた。
Brian again. Unhappy, restless, withdrawn....He was restless and he
was not restless. He was discontented, yet there were times when she
[Irene] felt he was possessed of some secret satisfaction, like a cat
Passing における黒人アイデンティティ 9
who had stolen the cream. (246)
Brian が見せる相反する態度,露にする不安定な自己は,Irene のものと照応し
ており,Irene が悩む Brian の変化による結婚の危機は,メイン・プロットとの
連動を構成している彼の心理を舞台とした排除すべき欲望との葛藤の結果であ
る。Irene と同様に,Brian はブラジルに投影される自己の欲望を無意識のうち
に抑圧して,黒人,中産階級,男性,異性愛者である主体を構築しているので
4
ある。 皮肉屋で,何かにつけ茶化すような態度を取り,何かを「待ち,待ち続
けている男」
(247)と Irene に描写される Brian は,人生に対する彼の冷笑的
で諦観した姿勢が示すように,絶えず自己をその欲望から疎外し続けていた。
その彼が,Clare の死に際して,「Irene が一度も聞いたことのない凶暴な嗄れ
声」
(274)で衆人に向って叫ぶのである。
Butler の論に大きな影響を与えた Foucault は,その権力論において,啓蒙主
義以来の自律的主体という概念に反する「主体化=隷属化」を理論化し,主体
とは,言説権力を内面化し,それに服従することによって構築されると論じた。
そして,さらに,彼は,主体化を促す不可視的で遍在する権力に対して,無数
の抵抗点が,個人を切り裂き,還元不可能な領域を画していくことを指摘した。
。主体化に抗うこの無数の抵抗点は,個人の統一を横断し,その心身
(95-96)
の亀裂を成すのであり,Irene を驚愕させた日ごろの冷静な態度に反する Brian
の咆哮は,この統一した個人の亀裂の表われと考えられるのである。そして,
それは,彼の絶え間ない主体構築の振る舞いの間隙に噴出した,抑圧されたも
のの不意の回帰を示すとともに,彼のアイデンティティ構築が失敗した瞬間を
印しているのである。
Ⅴ
Passing で明らかになったのは,奴隷制度,人種差別などで白人の「他者」
として周縁化されていた黒人も,また,彼らと同様に主体を構築しようとして
いるという,黒人アイデンティティの構築性である。しかし,黒人であること
は,白人主流社会で近代の主体となることを不可能にし,黒人にとって人種と
しての自意識と近代の主体構築は相容れない。DuBois が「二重の自意識」と
してその問題性を提起したように,黒人は絶えず自己を白人の価値観で判断す
ることを強いられるのである。黒人を疎外する社会で近代的主体としての普遍
10 蟹江 弘子
的権利を得ようとすれば,白人の価値観に従い,彼らに同一化するしかないと
いう,黒人が捕えられる苦境が,Irene の上に具現化されたのである。
さらに,作品は,アイデンティティが持つ構築性自体に疑問を投げかけた。
主体が構築されるものであるということは,翻って,所与で自然とされていた
人種,セクシュアリティ,性といったものも,また,社会的,文化的に構築さ
れたものであるということを意味している。そこでは Irene が固執する黒人性
も断定的な意味を持ち得ず,階級,セクシュアリティ,性といった他の座標軸
とともに縦横に分断された複雑な表象としての黒人像が導き出される。本質的
で固定的なものではなく,流動的で異種混交的な黒人の可能性が示唆されるの
である。境界を自由に横断することで曖昧性,二重性を喚起し,断片的身体で
イメージされる Clare は,この可能性としての黒人像なのである。作品は,統
一した主体を求める Irene と主体を脱構築する Clare との,アイデンティティを
巡る相反する流れの上に構成されている。Passing は,アメリカ社会でディレ
ンマを抱えながらアイデンティティを構築しようとする黒人を描く一方で,そ
の概念を超えた黒人像を示したのである。
白人中産階級の価値観を受け入れる Irene が黒人から白人にパスしたことを
描いていると作品が評されるように(Youman 236),視点となる Irene の心理
と振る舞いに当時の黒人中産階級への批判を読み取ることは容易である。拡大
するアメリカ経済や,公教育の発展,そして時には混血の結果である自身の肌
色の薄さの恩恵を得て,黒人中産階級は勃興してきた。しかし,Franklin
Frazier は,彼らが黒人としての文化的遺産から切り離された結果,自らを黒人
大衆と同一視することを拒み,また,他方で白人社会からも拒まれ,白人社会
を模倣した自分たちだけの孤立した世界を作り上げていたことを指摘している。
時代は,度重なるリンチ事件,暴動,KKK の全盛,黒人大衆を席巻するガー
ヴェイ運動といった人種を巡る騒乱の中にあったにも関わらず,自身と家庭の
「安全」に執着して,白人に追随した社交と,黒人同胞への偽りの慈善に明け
暮れる Irene の生活は,黒人中産階級がその責を果たさない証左となっている
のである。
しかし,他方,Clare に象徴される黒人像も,また,時代を考慮すれば,そ
の賛美は黒人にとって危険性を孕んでいる。Ann Douglas が検証しているよ
うに,作品の背景となった 1920 年代は,白人文化,黒人文化の混合がその活
力を生み出した時代であったが,この異種混合的な文化状況は,概況的には両
Passing における黒人アイデンティティ 11
者の対等な文化の摺り合わせの結果ではなく,黒人の自意識の向上に白人の黒
人への関心が加担して齎したものであった。黒人が培ってきた芸術や文化のこ
の時期における突発的な隆盛は,資本や物資といった面で多くを白人に依存し
ており,黒人物の珍重という現象に見られる白人の黒人への興味はその必要条
件だったのである。そして,この興味の裏面にあるのは,
「崇高な野蛮人」,
「汚
れ無き自然人」(Bone 59)といった言葉でその原始性を賛美される,エキゾ
チックな「他者」としての黒人への欲望であった。前作 Quicksand で,Larsen
は,白人画家の視線がアメリカからヨーロッパへと放浪する主人公 Helga を
「肉感的な生き物」
(119)として肖像画へと固定しようとすることを描いてい
る。黒人を差別し,非人間として「他者化」することで主体を構築した白人は,
再び黒人を鑑賞して楽しむ物とし,文明化された自己を映す鏡として利用しよ
うとしたのである。Irene と対照される Clare も,また,黒人を再度「他者化」
しようとする白人の欲望に資する新たな黒人像を提供しかねないのである。
黒人中産階級の有徳の女性という Irene のアイデンティティを確保し,それ
を脱構築する黒人像を示す Clare を唐突に消去するという,批評家の賛否を呼
5
んだ結末には, このような作品を取り巻く時代の影響が考えられる。ニグロ・
ルネッサンスの渦中で,ハーレムを中心とした白人も含む知識人との交流は,
Larsen が黒人の枠に捕えられることなく一個の作家として存在することを可
能にした。しかし,Charles Scruggus がハーレム・ルネッサンス期の黒人作家
について論じたように,彼らの作品は主に白人によって消費され,彼らは,読
者としての黒人大衆の不在という問題を抱えていた。その芸術性で白人に迫る
能力を持つと目される黒人作家は,いわば,彼ら自身が人種の境界上の存在で
あり,Passing で問われた黒人アイデンティティの問題は彼らが直面していた
ものであった。Larsen は,Clare を幻影としてのみ存在させる一方で,明らか
にしてきた主体の構築性を,その死の真相について語りの空白を設けることに
より,最終場面で曖昧にし,白人に追随した近代的主体としての黒人をも肯定
しようとしたのである。白人主流社会で黒人が差別され,白人の主体構築にお
いて黒人が常に他者化されようとする状況において,アイデンティティの構築
性を強調することは,黒人間の内部告発にはなり得ても,現実の黒人種全体が
抱える経済的・社会的問題の解決にはならず,さらに巧妙な形で現存の白人優
越社会の構造を温存しかねない。アメリカ社会で中産階級の知識人として,そ
の構築性を認識しながらも,Larsen もまた,黒人として「アイデンティティの
12 蟹江 弘子
政治」に捕われたのである。
黒人中産階級の女性の心理を焦点として展開する Passing は,個を横断する
境界との関連性の中で黒人を描くことにより,長くアメリカ社会で客体として
してしか存在し得なかった彼らを視覚化し,ハーレム・ルネッサンスという時
代に位置づけた。そして,アイデンティティが,経済的,文化的,社会的関係
の中で構築されるものであることを明らかにする一方で,差別されてきたマイ
ノリティとしてある黒人共同体と白人主流社会との間で,個がいかにその亀裂
を縫合し自己表象をしようとしたのかを示しているのである。Passing は,個
に対する複雑な境界がより一層認識される現代において,アイデンティティの
排除性とその不可避性との間で逡巡する現代人を捕えている問題系を逆照射し
ており,我々にアイデンティティの一層の理論化を促していると言えよう。
Notes
1 この批評的立場の代表的な例としては,Huggins や Lewis が挙げられる。
2 Butler は,黒人との接触を断固として拒否しようとする Bellew の振る舞いに,彼
の脆弱な白人性を指摘し,Nig という愛称をつけられた Clare の存在は,それを支え
るフェティッシュであると論じている。(Bodies 171-72)
3 Irene と Clare の 照 応 的 関 係 を 指 摘 す る 批 評 家 は 多 い。Davis,Little の ほ か,
Cutter 94-95, Sullivan 378 などを参照されたい。
4 David L. Blackmore は,Brazil への欲望に,Brian の同性愛的衝動を読み取り,
本論とは異なる観点から示唆的な論を展開している。
5 Clare の死因はテクストでは言明されておらず,自殺,事故,Bellew もしくは
Irene による他殺のいずれともとれる展開となっている。彼女の死で終わるエン
ディングについて,例えば,Little は,“While Clare’ s physical presence has been
eliminated, the underlying impulses and desires that she represents for Irene are
in no way purged or contained by Irene’ s final act repression / murder”と 述 べ
(180),対 し て McDowell は ,“Although she[Clare] is the center of vitality and
passion, these qualities, which the narrative seems to affirm, are significantly and
conveniently contained by the narrative’s ending”と批判する。また,Davis は,伝
記的事実を取り入れながら否定的見解を述べている(319-23)。
Passing における黒人アイデンティティ 13
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