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ジョン・クレア―農民詩人と公共圏
41
ジョン・クレア―農民詩人と公共圏 *
金 津 和 美
ジョン・クレア批評において,クレアの農民詩人という特異な地位ゆえの
複雑な政治的立場を特定することに主な関心が払われてきたといっても過言
ではない。そして,従来,多くの論考はクレアの詩の非政治性を指摘するこ
1
とで一致を見ていた。
しかし,主に 1990 年代以降,クレアの詩的言説が生
産された社会的・文化的文脈を問うことで,その言説が新しい社会的権力の
形成過程とどのように関わっていたかを,いわば,非政治性がもつ社会的・
文化的意義を明るみに出そうという研究が行われている。
このようなクレアの詩的政治性再考の傾向はユルゲン ・ ハーバーマスに
よって開かれた,所謂,
「公共性の構造転換」
についての議論の一環をなすも
のとして興味深い。ハーバーマスは「政治的機能を持つ公共性は,17・8世
紀の交にイギリスで始めて成立する」(Habermas 86)と述べ,それがコーヒー
ハウスや新聞を媒体とした中産階級という論議する公衆を誕生させ,やがて
19世紀半ば頃には自由な討論による公共的意見の形成という近代ブルジョワ
的法治国家の組織原理を,また,民主主義理念の根幹をなす原理を提供する
ことになったのだと主張する。イギリス・ロマン派研究においてハーバーマ
スの指摘は,ロマン派詩人たちが直面したフランス革命を契機とした出版物
の膨大な流通によって誕生した大衆読者層,それに伴う知の無秩序化の過程
といった,むしろ公共圏の多元的諸相を詳らかにするといった形で関心を払
2
われてきた。
しかし,特に注目すべきなのは,ここ最近,このような新歴史
主義批評の一端として行われた大衆出版文化の解明に基づき,イギリス・ロ
マン派という文芸運動の統一原理を再定義しようとする試みが行われている
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金 津 和 美
ことである。例えば,アン ・ジャノウィッツ(Anne Janowitz)やサラ・ M ・
ツィンマーマン(Sarah. M. Zimmerman)は,ロマン主義の詩的基調をなす「抒
情性」を考察し,それをジョン・スチュアート・ミル以降強調されることと
なった私的内省に向かう非政治的側面と,それとは対照的に,共感によって
人心をつなぐ公衆の形成原理として機能する政治的側面を持つ言説として再
評価している。そして,両者ともロマン派の伝統において周縁的な位置を占
めるクレアに注目し,そのロマン主義的「抒情性」再考をめぐる議論を締め
くくっていることは,昨今のイギリス・ロマン派研究におけるクレアの重要
性を示すものとして興味深い。
本論もまた同様に,農民詩人という特異な存在を可能にした当時の出版文
化を検証することで,クレアの政治的立場を問い直すことを目的とする。考
察の焦点として,クレアと彼の詩が主に出版された『ロンドン誌』( T h e
パ ト ロ ン
London Magazine)との関係,また,クレアと編集者及び庇護者との関係ゆえ
に問題となった詩「ヘルプストン」(“Helpstone”)に注目する。まず,『ロンド
ン誌』との関係の考察を通して,クレアの詩が生産され,流通されることを
許した経済的・社会的・文化的諸力の複雑な結びつきを解明し,さらに,そ
こにおいて経験された詩人とその詩を購買する,あるいは購買すると想定さ
れた読者との葛藤を「ヘルプストン」という詩の読解において検証する。そ
うすることで農民詩人クレアを生み出し,クレア自身が構築に関わった公共
圏の政治的機能を問い,そこにロマン主義という大きな企ての一軌跡を追う
ことを試みたい。
1
『ロンドン誌』は 1820 年1月にジョン・スコット(John Scott)によって創
刊された文芸月刊誌であるが,スコットが『ブラックウッズ誌』のジョナサ
ン ・クリスティー(Jonathan Christie)との決闘の際に致命傷を負い,突然の
死を遂げたため,1821 年7月号からジョン・ テイラー(John Taylor)によっ
ジョン・クレア―農民詩人と公共圏
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て編集長が引き継がれた。クレアがテイラーと知り合ったのは,彼が最初に
手がけた詩人ジョン・キーツが,その長編詩『エンディミオン』ゆえに文壇
の痛烈な批判を浴び,心身ともに打撃を受け,まさに死に瀕していた頃であ
る。クレアは故郷ヘルプストンの名もない出版者を頼り,独力で自らの詩を
世に送り出そうと奮闘していたところをテイラーに見出され,翌年の処女詩
集『田園風物詩』(Poems Descriptive of Rural Life and Scenery: 1828)を始めと
して,その後数年にわたりさらに二つの詩集を出版することとなる。それと
同時に,クレアはテイラーによって『ロンドン誌』の看板詩人の一人として
華々しく世に送り出されていったのである。
『ロンドン誌』の特徴はその趣意書に付せられた題名から明らかであり,
“A work intended to combine the Principles of sound Philosophy in Questions of
Taste, Morals, and Politics, with the Entertainment and miscellaneous Information
expected from a Public Journal”(London Magazine I, iv)と述べるように,娯楽
とともに「趣味・道徳・政治の問題」に関わる統合原理を提供し,社会秩序
の構築の一翼を担おうとする姿勢は,主要文芸誌『ブラックウッズ誌』や『エ
ディンバラ・レヴュー』に肩を並べようとするものである。さらに趣意書は
当時における出版物の増大による人々の趣味の劣悪化に警鐘を鳴らし,完全
であるだけでなく最も意欲的な文学報告者の一つ(“one of the most active, as
well as complete, Reporters of Literature”)(London Magazine I, v)となることを
主張する。当時の詩の大流行において,文学作品を正しく評価する基準を提
供する必要性を述べ,その義務を果たすことで「公衆の風俗」( “ P u b l i c
Manners”) (London Magazine I, vi)の洗練を促し,それに伴って「政治」
(“Politics”) (London Magazine I, vi)の健全で公正な運営に導くことを目指そう
というのである。
興味深いのは『ロンドン誌』が自らを“a Public Journal”と呼ぶときの
“Public”「公衆」の意味である。『ブラックウッズ誌』や『エディンバラ・レ
ヴュー』は,それぞれ二大政党の機関誌としてその政党の支持者を読者とし,
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金 津 和 美
また,当時大量に流通していた急進主義運動の機関誌も,改革の必要を訴え
る都市・農村労働者たちを読者としていた。しかしながら,『ロンドン誌』は
そのような特定の読者層というものを念頭に置いてはいなかったのだ。創刊
の目的の一つとして“one of the principal objects of the LONDON MAGAZINE
will be to convey the very ‘image, form, and pressure’ of that ‘mighty heart’ whose
vast pulsations circulate life, strength, and spirits, throughout this great
Empire”(London Magazine I, iv)と述べるように,
『ロンドン誌』の企図とは,
政治的・社会的利害にとらわれることなく良質な文学作品を正しく評価し,
そのような趣味の中立性・正当性に基づいて,国に
「イメージ,形,力」
(“image,
form, and pressure”)を与える「力強い精神」(“mighty heart”)となる新しい読
者・公衆を形成することであったのだ。しかし,それは同時に『ロンドン誌』
が対象とする「公衆」というものが,実体性を持つ集団ではなく,“image,
form, and pressure”と言われるように一つの像,流動的な力としての想像上
の存在に過ぎないということでもある。
テイラーにとって『ロンドン誌』は,クレアを売り出す手段として有効で
あっただけではない。ライバル誌『ブラックウッズ誌』が農民詩人ジェーム
ズ・ホッグ(James Hogg)を抱えていたのに対抗して,都市中心的な偏狭性の
誹りを避けるためにも雑誌を代表する農民詩人が必要であったとも指摘され
ているが(Sales 34),それと同時に,農民詩人クレアは『ロンドン誌』が提供
する読者 ・公衆像を伝える媒体として必要であったとも考えられるであろ
う。創刊号におけるオクタヴィウス・ ギルクライスト(Octavius Gilchrist)に
よる「ジョン・クレア伝:農業労働者と詩人」(“Some Account of John Clare:
an Agricultural Labourer and Poet”)に始まり,1825 年に雑誌が売却されるま
で,
『ロンドン誌』
にはほぼ毎号クレアの詩が掲載されている。しかも,テイ
ラーは『ロンドン誌』を通して示される農民詩人クレア像を創り上げること
に用意周到であった。掲載された詩は,ほとんど全て恋愛や風景を詠ったソ
ネットや歌謡であり,後に代表作とされるような政治的含意を持つ作品は注
ジョン・クレア―農民詩人と公共圏
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意深く避けられている。さらに,その内容や題材の素朴さを除いては,農民
階級らしい卑俗さが感じられないように,テイラーの手によって韻律が整え
られ,句読点や綴りが直されているのである。すなわち,テイラーがクレア
に付与した農民詩人像とは,『ロンドン誌』によって提供される文学を読み,
受容することで趣味を養い,国に秩序と安寧をもたらす「力強い精神」を代
表する読者像のひとつであったと考えられるのである。
創造的な詩人であり,かつ受容的な読者であるというクレアに課せられた
逆説的な農民詩人像は,1820 年3月号に掲載された処女詩集評からも伺え
る。クレアの詩の特徴について,
An intense feeling for the scenery of the country, a heart susceptible to the
quietest and least glaring beauties of nature, a fine discrimination and close
observation of the distinguishing features of particular rural seasons and
situations, and, a melancholy sense of the poet’s own heavy, ––and as he has
had too much reason to consider it,––hopeless lot; ––such are the qualities of
character most prominent in these poems, and which shed over them a sweet
and touching charm, in spite of some inaccuracies and incoherencies in their
language and arrangement. The sentiment is every where true, and often
deep: there is no affectation visible: no bad taste, at least not in the serious
pieces: the discontent expressed is not querulous: the dependency is not weak:
––the author feels acutely the calamity of his fortune, but he preserves, in the
midst of his distress, a quick eye and an open heart for the works of Providence,
and an unchangeable faith in its goodness. (London Magazine I, 325)
と述べるように,ここに描かれているのは貧困に喘ぐ厳しい境遇にありなが
ら,それを恨み,憤ることもなくただ運命として甘受する,従順で善良な農
民の姿である。それはまた,ささやかな自然の美にも「感じやすい心」( “a
heart susceptible”)を持ち,「細やかな識別や緻密な観察」(“a fine discrimination
and close observation”)を行い,そこに「神の摂理」(“the works of Providence”)
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をも見出す「鋭い眼識と開かれた心」(“a quick eye and an open heart”)を備え
た,純真で誠実な受容性に満ちた読者の姿でもある。このようにして,書評
は模範的読者としてのクレア像を,自然そのものとされる農民詩人像の中に
追認し,強調するのである。すなわち,
『ロンドン誌』
の読者はクレアが描く
自然の風景とともに,そこに自然そのものとしてのクレア像を読み取ること
で,自らの読みの行為がクレアのそれと同じく,文化的・社会的に有益であ
り,また,そのような文化的・社会的秩序と安寧を育む大きな自然の一部と
なることを確認するよう導かれるのである。
2
クレアに課せられた読む主体であり,かつ読まれる客体であるという矛盾
した役割にこそ,農民詩人という存在のそもそもの危うさが孕まれているの
ではないだろうか?それを示す一つの例として,ここでは「ヘルプストン」
に注目する。処女詩集に掲載される十年近く以前に執筆され,推敲され続け
た「ヘルプストン」を取り上げる理由としては,それが社会的に抑圧された
階層にある農民が,詩人という文化的に自立した主体として声を発しようと
することによって生じる葛藤を主題としているからであり,また,それゆえ
パ ト ロ ン
に出版後も編集者や庇護者にとって問題となった詩だからである。
Hail humble Helpstone where thy valies spread
& thy mean Village lifts its lowly head
Unknown to grandeur & unknown to fame
No minstrel boasting to advance thy name
Unletterd spot unheard in poets song
Where bustling labour drives the hours along
Where dawning genius never met the day
Where usless ign’rance slumbers life away
Unknown nor heeded where low genius trys
ジョン・クレア―農民詩人と公共圏
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Above the vulgar & the vain to rise (Clare ll.1-10)
詩は最初に,故郷ヘルプストンの風景の慎ましさと謙虚さを賞賛することで
始められるが,「威厳」(“grandeur”)や「名声」(“fame”)とは無縁なその風景
は,名も知れず人に顧みられることのない「控え目な才人」(“low genius”),
すなわち詩人自身の粗野さ,空しさと重ね合わされている。さらに続く詩行
で,このような名もない故郷の風景と名もない詩人との同一化は,その自然
の中に棲む小鳥と詩人との境遇の類似によって繰り返し強調されている。
「冬
の霜や雪の中,小鳥たちは/餌や‘ より良い生活’ を無駄に求めて/(我と
同じく)貧困というより厳しい霜を知るよう運命付けられている」(“So little
birds in winters frost & snow / Doom’d (like to me) wants keener frost to know /
Searching for food & ‘better life’ in vain”)(Clare ll.23-25)と,厳しい冬の日,餌
を求めて高く飛び上がろうとするものの,強い風に煽られて再び地上に舞い
戻ってくる小鳥のように,詩人もまた,名声や「より良い生活」を求めて飛
翔しようとするが,その野心は決して叶うことのない運命にあるのだ。そし
て,小鳥とともに,詩人も「よろこんで自分が飛び立った場所を求め/困窮
にじっと耐え,満足するのだ」(“Are glad to seek the place from whence they
went / & put up with distress & be content”)(Clare ll.45-46)と,名もなく空しい
存在としての現状に満足するよう強いられるのである。
さらにこの詩の難しさは,「やぁ,我に近しく愛しい日陰の風景よ」(“Hail
scenes obscure so near & dear to me”)(Clare l.47)といわれる「日陰の」
(“obscure”)という語の意味の二重性にあるといえるだろう。3 一方では,こ
の語は字義どおり,名声を得るという野心を抱きながらも,世の中から顧み
られることなく,貧困に喘ぐ運命に甘んぜざるをえない苦悩と無念を示して
いる。しかし,他方では,それは世の中の変化に晒されることなく身を守る,
大切な隠れ家としての意味を持つのだ。
The church the brook the cottage & the tree
Still shall obscurity reherse the song
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金 津 和 美
& hum your beauties as I stroll along
Dear native spot which length of time endears
The sweet retreat of twenty lingering years (Clare ll.48-52)
と述べるように,「日のあたらない / 日陰」(“obscurity”)にあるのは詩人が子
供時代に遊び戯れた,追想の中の故郷の風景である。そして,そこでは「全
ての楽しみ,全ての娯楽は一声で見つかり/求めれば皆すぐ手に入る」
(“Each sport each pastime ready at their call / As soon as wanted they posses’d em
all”)(Clare ll.65-66)と,全ての動植物が自然の豊かな恵みに養われて共存する
「自然の自由」(“nature’s freedom”)(Clare l.96)と呼ばれる情景が描かれる。し
かしながら,「あぁ,しかし,今やあの風景はもはやない」
(“But now alas those
scenes exist no more”)(Clare l.115),また,「運命は日のあたらない暗き隅に/
その美しさを捨てることを望む」(“fates pleas’d to lay their beauties bye / In a
dark corner of obscurity”)(Clare ll.119-20)というように,この風景はすでにな
く,過去の記憶という忘却の淵にのみ存在する風景なのである。このように,
「日のあたらない / 日陰」(“obscurity”)という語には,立身出世の夢に敗れた
悲痛と,喪失された風景への哀悼が奇妙な形で重ねあわされているのである。
この「日陰」という語にこめられた二重の意味は,故郷の風景,または詩
人自身と,それらが被った変化の主体との複雑な関係とに呼応しているかの
ようである。「加えられた変化にどれほど嘆息したことか」(“How oft I’ve
sighd at alterations made”)(Clare l.86)と嘆くように,詩人が生まれ育った風景
への直接の変化は,1809年に通過した「ヘルプストン囲い込み法」(Helpstone
Enclosure Act)にともなって,あるいはそれ以前から,徐々に共有地が失われ
ていったことにある。それゆえに,
「ヘルプストン」
にも囲い込みに対する非
難を述べた一節がもともとは含まれていた。
Oh who could see my dear green willows fall
What feeling heart but dropt a tear for all
Accursed wealth oer bounding human laws
ジョン・クレア―農民詩人と公共圏
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Of every evil thou remains the cause
Victims of what those wretches such as me
Too truly lay their wretchedness to thee
Thou art the bar that keeps from being fed
& thine our loss of labour & of bread
Thou art the cause that levels every tree
& woods bow down to clear a way for thee (Clare ll.125-34)
ここでは囲い込みによる変化の主体を「呪われた富」(“Accursed wealth”)と
抽象化することで,農地の資本化を推し進め,農村労働者をさらなる貧困へ
と追いやる土地所有者層に対して,直接に非難を加えることが注意深く回避
されている。しかしながら,このような配慮にもかかわらず,農民詩人クレ
アには自らの境遇について不満を述べることは許されなかったのだ。処女詩
パ ト ロ ン
集第三版の出版に先立って,クレアの有力な庇護者の一人ラドストック卿
(Lord Radstock)は,この一節を不遜であるとして削除するよう厳しく迫った
のであり,その理由として,クレアが農民詩人として果たすべき本分は,
「正
直で真っ当な人物,すなわち与えられた加護に深い感謝を感じる人物」(“an
honest and upright man––as a man feeling the strong sense of gratitude for the
encouragement he has received”) (Bate 198)であるべきであると,テイラーに
宛てた手紙の中で述べている。これに対してテイラーは,クレアの表現の自
由を守るために,ラドストック卿の要求を不当な検閲行為であるとして一度
は退けた。しかし,結局は第四版において,問題の一節を削除することにな
る。しかも,「ヘルプストン」の改訂にはすぐには応じなかったものの,第
三版から無断で「ドリ−の過ち」(“Dolly’s Mistake”),「我がメアリ」(“My
Mary”)という二つの詩を割愛して出版し,クレアを愕然とさせたのである。
女性の性的な徳を扱ったこれらの詩は猥褻であるとして批判が根強く,特に
女性読者が増えつつある文学市場にとって致命的であると判断されたのだ。
つまり,テイラーはラドストック卿のような支配階級による直接的な抑圧に
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対して抵抗することはあっても,ラドストック卿に代表される市場の要求に
逆らうことは出来なかったのである。そして,それは囲い込みによって変化
を被るヘルプストンの失われた風景と同様に,農民詩人という存在も,市場
というもう一つの「呪われた富」の要求に従って変化に晒される存在,すな
わち「与えられた励ましに深い感謝を覚える正直で真っ当な人物」としての
み語り,そのようにして読者を喜ばせるため自らの声を奪われた「日陰」の
存在としてしかありえないということなのである。
最終的に詩は,詩人が苦悩に満ちた人生の果てに,故郷での死を願うこと
で締めくくられる。
Oh happy Eden of those golden years
Which memory cherishes & use endears
Thou dear beloved spot may it be thine
To add a comfort to my life[s] decline
When this vain world & I have nearly done
& times drain’d glass has little left to run
When all the hopes that charm’d me once are oer
To warm my soul in extacys no more
By disappointments prov’d a foolish cheat
Each ending bitter & beginning sweet
When weary age the grave a r[e]scue seeks
& prints its image on my wrinkl’d cheeks
Those charms of youth that I again may see
May it be mine to meet my end in thee
& as reward for all my troubles past
Find one hope true to die at home at last (Clare ll.163-78)
故郷における死は,すでに失われた追想の中の風景に回帰していくことであ
り,そうすることで資本化に伴う可変性に対して,風景と詩人との同一性を
ジョン・クレア―農民詩人と公共圏
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回復しようとすることである。しかし,すでにない追想の風景と一体となる
ことは,自らを実体のない一つのイメージと化すことでもある。詩人が死を
求めるのは,風景と同じ一つのイメージとして自らを記号化することで,読
者に読まれ,市場に流通し,名もなく顧みられることのない「日陰」の境遇
から身を購うことを欲するからであろう。風景を詠む主体であり,かつ,そ
の風景の一部として読まれる客体であるという農民詩人に課せられた矛盾は,
「ヘルプストン」の中で「日陰」という語の意味の二重性として表されるが,
この「日陰」さを二重に克服するために,詩人は自らの死を差し出そうとす
4
るのだ。
そして,それこそが
「見つめる者の心無い一瞥を無為に求める / つ
ましく密かに咲く淡いライラックの花」(“the pale lilac mean & lowly grew /
Courting in vain each gazer[s] heedless view”)(Clare ll.101-2)のような農民詩人
に残された,見る者(あるいは読者)の一瞥を勝ちうる唯一の手段なのであ
る。
3
政治的には無党派であり,健全で公正な趣味を持つ新しい読者層を形成し
ようという『ロンドン誌』の企ては,ともすれば市場の好みに流され,文芸
誌として独自性のある特徴を欠くことになってしまった。『ニュー・ヨーロ
ピアン誌』(New European Magazine)に掲載された評によれば『ロンドン誌』
はその政治的に中途半端な姿勢ゆえに『ブラックウッズ誌』に劣るとされて
いる。
I have myself always considered the London Magazine as inferior to
Blackwood’s, and infinitely superior to the New Monthly; which is calculated
to please nobody beyond a delicate dandy, or a nervous lady of fashion. There
is a manly strength and vigour in Blackwood’s, which, with one or two
exceptions, is never displayed in the London, whose forte is lightness and
ease, with much benevolent pleasantry. (Qtd. in Chilcott 157)
52
金 津 和 美
『ロンドン誌』
は洒落者紳士や流行に敏感な女性たちといった一部の文学愛好
家のみを楽しませる娯楽的読み物としての地位しか認められず,それは本誌
が志した国家の自由と繁栄に貢献する「力強い精神」という新しい公衆像と
はかけ離れたものであった。事実,『ブラックウッズ誌』や『エディンバラ・
レヴュー』が年間およそ13,000部ほどの売り上げを見せていたのに対し,
『ロ
ンドン誌』は 1600 部ほどしか流通せず,両主要文芸誌に匹敵するような読
者を獲得するには程遠かったのである。結局,テイラーは 1825 年に『ロン
ドン誌』を売却することになり,それ以降,文学市場には文化の消費のみを
5
目的とした大衆読者層がますます急速に成長するのである。
ハーバーマスに
よれば,それは市民的公共性が市場の原理の侵入によって生産と消費の循環
にひきこまれ文化消費へと変貌し,政治的機能を持つ公共性として解体され
始める時期なのであり,このような公共圏の解体の過程にあって『ロンドン
誌』が求める「力強い精神」を持つ公衆とは,やはり想像上の存在でしかあ
りえなかったということであろう。
「文学」
を媒体として民主主義的な公論の母体となる想像上の公共圏を形成
すること。それが『ロンドン誌』が見たロマン派の夢である。そして,それ
は農民詩人クレアが追い求めた夢でもあり,クレアが志した公共圏も,
「ヘル
プストン」において回帰し一体となることを欲した「日陰」の風景と同じく,
実体性を持つものではなかったと言えるであろう。また,自ら夢見た新しい
公共圏の中で自立した主体としての声を獲得しようと,詩人は身を賭して努
めるのであるが,結局はそれも生産と消費の循環の中に自らを解体すること
に帰結せざるをえない。
『ロンドン誌』
売却の後,新たな時代の新たな読者を
求めて,テイラーはロンドン大学の出版局に勤め,科学論文を中心とした実
用書の出版に携わるようになる。一方,ロマン派の夢に捉えられ,その中で
のみ存在することが許された農民詩人クレアは,1837年に狂人収容所に収容
され,その後の人生を狂人として送る。一つの時代の夢は,次の時代の狂気
とされるのだ。農民詩人クレアの悲劇,それは想像によって現実を超克する
ジョン・クレア―農民詩人と公共圏
53
ことを求めたロマン派の夢に仕組まれた悲劇なのである。
注
*本稿はイギリス・ロマン派学会第30回全国大会での研究発表を加筆・修正したもの
である。
01 ジョアンナ・クレアはトマス・ペインを軽視する詩人の発言や,一揆や焼き討ち
といった抗議行動への批判的な態度などをあげ,クレアと政治的急進主義との関わ
りを否定している(Johanne Clare 14-20)。ジョン・ルーカスもまた,詩人の政治的急
進主義との関わりを否定する一方で,当時の民衆文化に深く根ざした民衆急進主義
との密接な関係を指摘している(Lucus 148-77)。
02 ハーバーマスの市民的公共圏論が過度に理想化されたものであるとする批判は,特
に彼自身「歴史の経過の中で抑圧された市民的公共圏の一変種として重視しないで
もかまわないと思っていた」(Habermas iv)と述べる,フランス革命のジャコバン主
義段階やチャーチスト運動における「
『人民的』公共圏の萌芽」(Habermas iv)に注目
し,それとともに成長した大衆出版文化の解明という研究として実践されている。
イギリス・ロマン派研究の領域では,このような研究の嚆矢としてジョン・P・クラ
ンチャー(John P. Klancher)を挙げることができ,ポール・キーン(Paul Keen), イア
ン・ヘイウッド(Ian Haywood)もハーバーマスによる単一な公衆像に批判を向けて
いる。その一方で,ケヴィン・ギルマーティン(Kevin Gilmartin)は急進主義運動の
戦略そのものに設定されている歴史的限界を指摘し,市民的公共圏の理念が持つ政
治的機能の持続性,有効性を強調している。
03 クレアを始めとして,この時代に多数輩出された
「農民詩人」
に求められたイメー
ジは中世やルネサンス以降の牧歌・農耕詩の伝統に由来するものである。同様に,
クレアが用いた “obscure”という語も,Thomas GrayのElegyにおける農民の描写や,
Thomas Hardyの小説Jude Obscureというタイトルにもみられるように,農民をとり
まく長い文学的伝統に根差すものであるということは,
「農民詩人」
という文化的産
物のあり方を示すものとして興味深い。
04 ジョン・バレルは「ヘルプストン」の結末における数行が,ゴールドスミスの『寂
れた村』
(The Deserted Village)の一節に習ったものであると述べ,自らが被る変化
の全体像を把握し,表現する視座を持つことができないという,農民詩人クレアの
限界を示す一例として論じている(Barrell 113-14)。 また,ジャン・ボードリヤール
は象徴交換としての「死」の交換が,近代以降に「社会形成の原理」としての機能
を失い,現代の生産中心社会の終焉において「反乱の原理」として新たに登場する
金 津 和 美
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過程を考察している。それに従えば,「ヘルプストン」におけるクレアの「死」は,
生産と労働の原理に基づき自らを記号化して,生産中心主義社会のシステムを受け
入れることであり,かつ,供儀としての死と引き換えにシステムの破壊を求める反
乱の行為であるという,両義性を持つものとしても解釈され,近代社会における象
徴交換が持つ機能の転換を例示するものとして興味深い。
05 クランチャーは,1820年代以降,文化の消費のみを目的とし,集団として言及さ
れたとしても個としての実体性を持たない読者層が成長したと述べ,それを「発生
期の大衆読者」(“a nascent mass audience”)として考察している(Klancher 76-97)。19
世紀前半における文学市場の変遷についてはリー・エリクソン(Lee Erickson)を参
照。
引用文献
Barrell, John. The Idea of Landscape and the Sense of Place 1730-1840: An Approach to the
Poetry of John Clare. Cambridge: Cambridge UP, 1972.
Bate, Jonathan. John Clare: A Biography. New York: Farrar, Straus and Giroux, 2003.
Baudrillard, Jean.『象徴交換と死』
今村仁司・塚原史訳,東京:筑摩書房,1992
Chilcot, Tim. A Publisher and his Circle: The Life and Works of John Taylor, Keats’s Publisher.
London and Boston: Routeledgge & Kegan Paul, 1972.
Clare, Johanne. John Clare and the Bounds of Circumstance. Kingston: McGill-Queen’s UP,
1987.
Clare, John. The Early Poems of John Clare 1804-1822. Vol. I. Eds. Eric Robinson, David
Powell and Margaret Grainger. Oxford: Clarendon P, 1989.
Erickson, Lee. “The Poets’ Corner: The Impact of Technological Changes in Printing on English
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金 津 和 美
56
Synopsis
John Clare: a Peasant Poet and the Public Sphere
Kazumi Kanatsu
Jurgen Habermas’s idea of the public sphere, which functioned to organize
the middle class as an agent of public opinion and provided the basis for
democracy in the bourgeois constitutional state, has been criticized and revised
by many critics of British Romanticism. These literary historians mainly
emphasize the complex and diverse aspects of the public sphere, by bringing
to light the mass-circulation of the radical press and the emergence of popular
audiences during and after the upheavals of the French Revolution.
Furthermore, alongside the illumination of print culture in the Romantic period,
some attempts are made to redefine the literary and artistic theory of
Romanticism. Anne Janowitz and Sarah M. Zimmerman, for instance,
reexamine the Romantic idea of lyricism and suggest two possibilities of the
aesthetic: on the one hand, the lyricism as the politics of social disengagement,
which situates poetry in a transcendental artistic milieu and engenders a modern
sense of subjectivity––an introspective, disinterested and independent ego––
and, on the other hand, the lyricism as a means of social engagement, which
works to create a cultural community and to unify the people’s mind. What is
intriguing to see is that both critics, Janowitz and Zimmerman, conclude their
argument with an examination of John Clare, indicating the importance of the
long-neglected poet in their revisionist history of Romanticism.
This paper is also an attempt to examine the socially and politically equivocal
ジョン・クレア―農民詩人と公共圏
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being of the peasant poet in his relation to contemporary print culture.
Moreover, this paper aims to illustrate Clare’s involvement in the process
which Habermas argues: the development and disintegration of the bourgeois
public sphere.
The first part of the paper focuses on The London Magazine, the journal
which was the most active to promote Clare. It argues that John Taylor, the
editor of the journal, deliberately and discreetly invented Clare as a peasant
poet in order to be widely accepted by the reading public. In so doing, The
London Magazine imposed on Clare two different images: a leading poet
who represented the journal as well as the model of a reader whom the journal
intended to create. In other words, the peasant poet was an existence destined
to be in a dilemma between an independent subject to speak and a submissive
object to be appreciated.
The second part of the paper analyzes the dilemma which Clare experienced
in one of his early poems, “Helpstone.” The examination of the poem shows
that the divided self of the poet is expressed by the double meanings of the
word, “obscurity.” The literal meaning of the word is the poet’s mean and
helpless existence which is distanced from the world’s rich and fame. At the
same time, the word also means natural beauty which has been secluded and
lost in the past memory. “Helpstone” is a poem about the poet’s attempt to
redeem his lost identity and the lost memory of his native landscape, which is
concluded with his death.
In conclusion, this paper argues that Clare as a peasant poet devoted himself
to The London Magazine’s enterprise, that is, creating an ideal readership
whose refined and impartial taste of literature would help to build sound public
opinion. Yet, Clare’s endearvour to acquire an independent voice in the public
sphere only ended up with his self-alienation to be circulated and consumed
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in the literary market of the rising bourgeois society.
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