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日中文学文化研究学会通信 11 月号 崇貞学園での日々 中山時子

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日中文学文化研究学会通信 11 月号 崇貞学園での日々 中山時子
日中文学文化研究学会通信 11 月号
〒178-0063 東京都練馬区東大泉 6-34-21 大泉公館
2014 年 11 月 1 日
日中文学文化研究学会
電話&fax 03-5387-9081 Mail [email protected]
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
崇貞学園での日々
中山時子
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
崇貞学園には 1 年半お世話になりました。昭和 16 年 2 月から翌年 9 月の北京大学入学ま
でです。中国語が分からず「ろうあ者」扱いされた暗黒時代から一冊の作文教科書に出会
い中国語がしゃべれるようになって生まれ変わったんです。言葉が出来ることで人生が 180
度変わりました。貴重な体験でした。私の一生を変えた作文教科書は帰国してからいろい
ろ手を尽くして探しましたが見つかりませんでした。六角恒廣先生にも伺いましたがだめ
でした。崇貞学園から遠くない城内にあった大阪屋号書店という本屋で購入したのだと思
います。薄い冊子だったと記憶しています。
学園には棗寮に住んでいました。中国人や朝鮮人の女の子に混じって教室で中国語の授
業を聞いていました。寮では、崇貞学園の理念に賛同して日本や朝鮮から教えに来ていた
人たちと過ごしました。
今年の年賀状に現在ソウルに住んでいらっしゃる玄次俊さんから当時寮ではやっていた
替え歌の歌詞が届きました。懐かしかったですね。不思議なことに口をついて出てくるの
です。語学と同じですね。世田谷にお住まいの門田昌子さんにも複写を送ると、すぐに返
事をくだすって、歌詞の訂正や注釈がありました。「清水忠子先生・佐藤昌子先生 作詞」
とありますが、この手のものはみんなでワイワイやって作ったのです。佐藤昌子さんとは
先ほどの門田昌子さんです。北京大学文学院史学科に学び、私の一学年上でした。帰国後
東京都世田谷区議を長らくなさっていた方です。
内容は、安三先生の法螺話をちゃかしたり、衣食への不満を自嘲気味に唄っています。
お風呂は毎日入れたわけではありません。週に二三回でした。日本の銭湯のような場所が
ありましたが、お湯でしぼった手ぬぐいで身体を拭くだけで十分でした。
食堂は朝昼晩、利用していました。美味しかった料理は覚えていません。麺とマントウ
がご飯替わりで、おかずはやはりモヤシ料理(豆芽菜トウヤーツァイ)が多かったです。
冬の料理では“飛機湯”がありました。北京の冬には野菜がないので、冬になる前に白菜
を大量に買い込んでおきました。冬になると、崇貞学園の食堂では、大なべに湯を沸かし、
塩を一掴み入れて、油をたらし、その中に白菜を丸のまま入れます。すると葉の詰まった
根元が下になり白菜が沸騰した湯のなかで立った状態になり、煮込むと外側の葉っぱが、
つぼみが開くように広がり、そのようすが飛行機の主翼のようだったので、この手軽で安
上がりのスープを“飛機湯”(フェイジータン)と呼んでいました。そんなに美味しいもの
1
ではありませんでしたし栄養豊富と思えませんでしたが、熱々のスープは冬の名物でした。
学園の外に行って買い食いもしましたが、あまり種類は多くありませんでした。焼いも
やジェンビン(煎餅)がありました。
寝るところはベッドでした。生徒は通いで寮生はいませんでした。トイレは扉があって
も、中国人や朝鮮人の女の子は閉めませんでした。
安三先生と郁子先生の夫婦喧嘩も覚えています。このようなことは記録するのが憚られ
るのが通例ですが、今思うとお互いに意見を述べあっていた、主張されていたのだと思い
ます。つまり学園の在り方をめぐる理想論の口論であり、それを私たちは面白がって「夫
婦喧嘩」と呼んでいました。ご夫妻が帰国して桜美林学園を創設されるとき、昔の文部省
に掛け合いに行ったのが郁子先生で、安三先生は階下で待たされて、郁子先生が設立の認
可をもらって階下の安三先生に満面の笑みを示されたと聞いています。言葉に表さなくて
もご夫婦の心は通じていたのだと思います。安三先生は桜美林学園の総長を務められ、私
中山時子をことあるごとに「我が輩の弟子の中山時子」と最期まで気に留めていてくださ
いました。近年は安三先生を学問の対象として,また小説の材料として、私の話を聞きた
いという人も出てきて、私の話がお役に立てれば思い、昔話をしています。崇貞学園に関
する資料はまとめてどこかに寄贈してお役に立ててもらうつもりです。
崇貞学園の周囲ではよく見られた情景ですが、指先を唾で濡らして紙窓に穴をあけ、家
の中をのぞくと母親が見知らぬ男に身体を売っているのを目にする幼い娘が大勢いました。
小説に描かれるようなことがふつうにありました。清水安三先生が「崇貞」と名付けられ
たのも「女性の貞操を崇める」という意味でした。女性に経済力を持たせるため、ハンカ
チに刺繍する技術を教え、刺繍されたハンカチを売って金銭を得るようにすることを郁子
先生とともに目指されたのですね。
寮かぞえ唄
玄次俊さん記録
一つと出たほいの,ヨサホイノホイ 人もよく知る朝陽門,崇貞学園良いところ
二つと出たほいの,ヨサホイノホイ 二言めには自己宣伝,それが本当であれば良い
三つと出たほいの,ヨサホイノホイ みんな揃ったご飯どき,今日はお風呂があるかしら
四つと出たほいの,ヨサホイノホイ よるとさわると云うことにや,不平ぶつぶつ豆芽菜
五つと出たほいの,ヨサホイノホイ いつも元気でほがらかな,崇貞娘の笑い顔
六つと出たほいの,ヨサホイノホイ 昔恋しや懐かしや,腐った麺の伸びうどん
七つと出たほいの,ヨサホイノホイ なんぼ云ってもわからない,空けっ放しの便所の戸
八つと出たほいの,ヨサホイノホイ やっぱり寝坊はしたいけど,それじゃ理想はできゃしない
九つと出たほいの,ヨサホイノホイ ここまで遠く来たことにや,買食いばかりじゃ能がない
十っと出たほいの,ヨサホイノホイ
遠く離れて眺めれば,崇貞学園理想郷
2
関連図書紹介―-―-―-―-―-―-―-―-―-―-―-―-―-―-―-―-―-―-―-―-―-―崇貞学園について多くの本が書かれています。中山先生が描かれている文章もあり冒頭
のお話しとは違った先生の当時の様子が窺えるように思いますので、以下にご紹介します。
○山崎朋子著『朝陽門外の虹――崇貞女学校の人々』
(岩波書店 2003 年)
ルーメメイトになったのは中山時子さんで、大変な勉強家。崇貞には中国語をおぼえ
るためだけに在学したので、間もなく北京大学に合格して中国文学を専攻し、日本敗戦
の混乱のため卒業証書をもらえずに帰国されたそう。そして、もっと学びたくて東京大
学で三年間研究をつづけ、お茶の水女子大学の中国文学の教授を何十年もつとめたとい
う人です。小説『四世同堂』で有名な作家=老舎の研究の第一人者で、
『老舎文学事典』
(一九八八年・大修館書店)という大きな本を出されたと、風の便りにききましたが。
(258-259 頁)
按:朴善永さんという方からの聞き書きとあります。文中に『老舎文学事典』とあります
が、
『老舎事典』が正しい書名です。中山先生も著者である山崎朋子さんの取材を受け、そ
の日は昼から夜の 10 時過ぎまでの長時間のインタビューで、さすがの先生も、とても疲れ
たと話されたことがありました。
○李紅衛著『清水安三と北京崇貞学園』
(不二出版 2009 年)
副題として「近代における日中教育文化交流史の一断面」とある本書の 154 頁に「崇貞
学園の教職員」とキャプションがついている写真があります。しかし写っている女性の説
明がありません。中山先生にお聞きするとはっきりと覚えておられました。
右から 3 人目が清水郁子先生です。左端から近野チウ(旧姓島貫)、中山先生、門田昌子
(旧姓佐藤)と並んでいます。
なお本書のあとがきに資料収集と聞き取り調査にご協力を賜った方々のお名前が挙がっ
ています。そのなかに「中山登起子氏」とあり、
「中山時子氏」の誤植かと思い、先生にお
尋ねすると、それでよいのですとおっしゃいました。特別なときは「中山登起子」をお使
いになるのだそうです。そういえば田中静一編著『中国食品事典』付補遺・索引(書籍文
物流通会、昭和 49 年 8 月)にも「中山登起子」とありました。今後、検索をかけるときは、
「中山登起子」も入れる必要がありそうです。
3
【編集部】
学会主催講演会報告―――――――――――――――――――――――――――――――
詩の行方
楊 逸
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
以下は 10 月 18 日午後 2 時から二松学舎大学で行われた楊逸氏の講演の内容を講演会実
施委員会が書きとめた要旨です。氏の講演を忠実に文字に直したものではなく、参加出来
なかった会員にも理解できるように講演で話されなかった訓読などを加えたもので、講演
者楊逸氏の名前を冠するには躊躇もありますが、講演の趣旨は損ねていないつもりなので
標題としました。なお当日の録音は事務局で保存してあります。
ただいまご紹介にあずかりました楊逸です。本日は「詩の行方」という題で三島由紀夫、
和泉式部、陸游と唐琬の3つの話を中心に、中国と日本における詩の詠われ方の異同をめ
ぐり、話があちこち行くことになると思いますが私なりの考えを述べてみたいと思います。
日本に来ていろいろな異文化体験をしましたが、なかでも驚いたのは、テレビドラマだ
けのことかもしれませんが、日本の若者が異性に自分の気持ちを表すとき、その表現がス
トレートというか、直截的なのには驚きました。
私の体験を話すと、小さい頃は詩の暗誦という教育がありました。朝、祖父からこの詩
を覚えろと言われます。夜、兄弟の前でその詩を暗誦します。出来ないと恥ずかしく思い、
深い意味もわからず、丸暗記です。学校に入ると、毎日の詩の暗誦はなくなりましたが、
大人になって、ふと口をついて出るのが、小さい頃の覚えた、覚えさせられたと言ったほ
うがいいかもしれませんが、その詩なのです。
カナダの観光地ナイアガラの滝を間近で見た感動を言葉で表そうとすると李白の詩が口
をついて出てきます。李白はナイアガラに来たことはないのだけれど、詩を通して、時を
隔てて李白と自然の雄大な情景を共感することができるのです。
望廬山瀑布(廬山の瀑布を望む) 李白
日照香炉生紫煙
日は香炉を照らし 紫煙生ず
遥看瀑布挂前川
遥かに看る 瀑布の前川に挂るを。
飛流直下三千尺
飛流直下
疑是銀河落九天
疑うらくは是れ 銀河の九天より落つるかと。
三千尺
中国国内でも、シルクロードを旅行するといたる所に、古来から送別の詩として愛唱さ
れている王維の詩あり,
“西出陽関無故人”とうたった心情がしみじみと心に沁みるのです。
送元二使安西(元二の安西に使するを送る) 王維
渭城朝雨浥輕塵
渭城の朝雨 軽塵を浥し
客舎青青柳色新
客舎青青柳色新たなり。
勧君更盡一杯酒
君に勧む 更に盡くせ 一杯の酒
西出陽関無故人
西のかた陽関を出ずれば故人無からん。
4
また故郷を離れて国境という異郷の地で死んでいった漢代の兵士の墓地を目にし、五人
が一組になり共に闘い死んで埋葬された姿を思うと悲壮感あふれる王翰の詩が出てきます。
涼州詞
王翰
葡萄美酒夜光杯
葡萄の美酒 夜光の杯
欲飲琵琶馬上催
飲まんと欲すれば 琵琶馬上に催す。
酔臥沙場君莫笑
酔うて沙場に臥すも 君笑うことなかれ
古来征戦幾人回
古来征戦 幾人か回る。
パリを旅行し喫茶店に入り、トルコ系の美しい女性から給仕を受けると李白の詩が思い
出されました。
21 世紀のフランスで 8 世紀の長安の都の様子が彷彿と眼前に浮かぶのです。
少年行 李白
五陵年少金市東
五陵の年少 金市の東
銀鞍白馬度春風
銀鞍 白馬 春風を度る。
落花踏盡遊何處
落花踏み尽くして 何れの処にか遊ぶ
笑入胡姫酒肆中
笑って入る 胡姫 酒肆の中。
『中国名詩選(下)
』松枝茂夫編 岩波文庫
こうして見ると、中国人にとって、少なくとも私にとって、詩は血となり肉となってい
ることに気づくと同時に小さい頃の暗誦した詩が潜在意識となっていることに驚きました。
中国の章回小説(長編小説の一形式。全編を 80 回とか 100 回など多くの回に分け、各回
に内容を概略したタイトルを付した小説)、例えば『西遊記』の各回には、2 行の詩が置か
れ、その回の内容を集約しています。初めにその 2 行の詩を読み、回のストーリーを読み
終わってからまたその詩に戻ると、なるほどという思いがして、興味が尽きません。私は
いま、西遊記についてエッセイを書いており、いろいろな日本語の訳本を見ていますが、
岩波文庫の訳者である中野美代子さんも作品に出てくる詩にはずいぶん工夫をされている
ように思えます。
『紅楼夢』は『三国志』
『水滸伝』
『西遊記』とともに「四大小説」と称さ
れます。日本では後者 3 作は、漫画、ドラマ、ゲームなどで親しまれていますが、
『紅楼夢』
はあまり知られていません。そのわけは作中に詩が多用され、その理解が難しいからなの
ではないでしょうか。中国の小説の中に詩があるのは極めて普通のことなのです。
これに対して日本の現代小説ではどうでしょう。三島由紀夫の『春の雪』は長編小説『豊
饒の海』四部作の第一巻です。侯爵家の若き嫡子である松枝清顕と幼馴染である伯爵家の
美しい令嬢である綾倉聡子とのラブストーリーです。その作品には、思う人に書いた手紙
が出ていますが、それを読むとなぜラブレターが散文で書かれているのかと奇異に感じま
す。詩で書いてこそ愛情が美しく表現できるのではないか、私はそう思うのです。日本に
来る前、外国文学が自由に読めなかった時代に青春時代を過ごしましたが、隠れて欧米文
学を読みました。ゲーテの自伝的小説『若きウェルテルの悩み』は青年ウェルテルが婚約
者のいる女性シャルロッテに恋をし、叶わぬ思いに絶望して自殺するまでを描いています。
作品は、おもに主人公ウェルテルが友人にあてた数十通の書簡によって構成されています。
5
シャルロッテあてのものも数通含まれていますが、詩が頻用される独白調の作品です。
三島にも自伝小説と言われる『詩を書く少年』という作品があり、そこには詩が多用さ
れています。しかしこの作品への評価はあまり高くありません。佐藤秀明氏は、三島の『小
説家の休暇』を引いて、生きながらなお小説を書くことが問題として設定され、
「生きるこ
とと小説との間に一種の齟齬」が見出されていたと考察しつつ、しかし“小説”は、
“詩”
のように、「生きること」とは対立しないとし、三島の言う小説とは、「人生(現実)と詩
(現実が許容しない”詩”)との対立を含み、それを描いたもの」なのだ、と述べていま
す。つまり、三島自身も詩は現実が許容しないと認識しているのです。また知人の評論家
の先生の話では、日本では詩というものは地に足がついていないということのようです。
小説に詩が使われると、詩が浮いてしまうというのです。三島は『詩を書く少年』以降、
作中に詩を用いた小説は書きませんでした。
しかし、日本の古典作品を読むと、必ずしも詩と現実が乖離しているわけではないこと
が見て取れます。平安時代の日本に恋多き歌人といわれる和泉式部がいました。今風にい
えばスキャンダラスな女性です。王家の宮様と結婚し、その宮様がなくなると、今度は実
弟との恋が芽生え、その過程が日記に記されています。和泉式部から弟の帥宮(そちのみや)
に送った詩に次のようにあります。
かをる香に よそふるよりは ほととぎす 聞かばや同じ 声やしたると
(花橘の)薫る香に(亡き宮様の袖の香を)そえますよりは、(宮様が亡き兄宮さまそ
っくりの)お声かどうか、
(一度お声を)お聞きしたいですわ。
この詩に対して、帥宮が返した詩です。
同じ枝に なきつつをりし ほととぎす 声は変わらぬ ものと知らずや
わたしは故宮とは同腹の兄弟でいつもいっしょに行動していのだもの(身は異なるが)
声は(兄上)そっくりだとわかってください(わたしを兄宮と同じに思ってください)
『和泉式部日記(上)』小松登美全訳注 講談社学術文庫
今は携帯メールがあって、自分の手紙を必ず相手が読むと保証がありますが、この時代
は、紙に書かれた手紙を使者に持たせるので、何が起きてだれに読まれるかわかりません。
そのようなときに問題が起きないように、真意は隠して表の意味は問題ないように作って
おく。会いたいということを、あなたの声を聞きたいと言わずに、ほととぎすの声を聞き
たいと書くのです。今よりずっと素敵なやり方だと思います。
恋人同士、愛を語るとき詩はなくてはならない表現方法と言えるのではないでしょうか。
中国の宋の詩人である陸游と唐琬の物語にも詩が使われています。陸游は二十歳の時に母
方の姪にあたる唐琬と結婚し、仲のよいおしどり夫婦でしたが、嫁と姑の間の折り合いが
悪く、唐氏は離縁され、別な男性と再婚しました。陸游も二度目の妻を迎えましたが、あ
る時、唐氏と沈氏の庭園で再会しました。唐氏の夫が、二人で積もる話もあるだろうと宴
席を設けてくれましたが陸游はとても出られません。すでに人妻となっていた唐琬と語り
合うことなく思いに暮れ、
《釵頭鳳》という詩を詠みました。
6
紅蘇手/黄騰酒/満城春色宮墻柳/東風悪/歓情薄/一杯愁緒/幾年離索/錯、錯、錯
あなたは赤い柔らかな手で酒をとどけてくれた。瓢には黄色い紐が結わえてあった。
城内は春色に満ち、宮垣の柳は緑をたたえていた。春風につらく当てられて、夫婦の
喜びは少なく、胸いっぱいの愁いを抱いて、幾年も別れ別れに過ごしてきた。ああ、
思えば何もかも行き違いの連続であった。
春如旧/人空痩/泪痕紅悒鮫綃透/桃花落/閑池閣/山盟雖在/錦書難托/莫、莫、莫
春は昔に変わらぬが、あなたはいたずらに痩せ細り、涙の跡がまっ赤に綾絹にしみこ
んでいた。桃の花は散り、湖畔の高楼はひっそりしている。海山にかけて誓った仲だ
ったけれども、いまは手紙をことづけるあてもない。ああ、何もかもおしまいだ。
『中国名詩選(下)
』松枝茂夫編 岩波文庫
この詩は有名で、私も暗誦しました。とくに最後の“錯、錯、錯”“莫、莫、莫”と同じ
3つの文字が続くところは、気持ちが心に迫って来ます。陸游は親孝行ですから、唐氏を
追い出した母が悪いとあからさまに書けません。そこで“東風悪”と表現したのです。
唐琬もこれを応え、同じ詞牌で詩を詠みました。
世情薄/人情悪/雨送黄昏花易落/暁風乾/涙痕残/欲箋心事/独語斜欄/難、難、難
世間は薄情で、あなたの母上は非情です。雨降りが夕刻まで続くと、花もおちてしま
います。夜明けの乾いた風に、涙は乾くが、心を伝える手紙を書きたくてもできず、
階段でひとりごつばかり、つらい、つらい、つらい。
人成各/今非昨/病魂常似鞦韆索/角声寒/夜闌珊/懼人尋問/咽涙装歓/瞞、瞞、瞞
お互いにそれぞれの生活、昔とはちがう。悩む心は鞦韆の綱のようにゆれる、朝の鐘
は寒々として、夜はさびしい。夫にどうしたのと聞かれるのを恐れて、私は涙を隠し
笑顔を装う、うそ、うそ、うそ。
“錯、錯、錯”
“莫、莫、莫”に対して“難、難、難”
“瞞、瞞、瞞”と応えています。
同じ宋代の文人ですが、陸游から百年ほど前に蘇東坡という詩人がいます。蘇東坡の妹
蘇小妹にも詩を介した秦少游との恋物語が有名です。明代の短編小説集《醒世恆言》には
“蘇小妹三難新郎”(蘇小妹、三たび新郎を苦しめる)という題で収録されています。邦訳も
あり、ふたりの間の遣り取りに詩は欠かせません。自分も詩が詠め、相手の詩が分かるだ
けの素養がなければいけません。ただ中国社会では文人だけでなく、普通の人々も詩を通
して恋を語るのです。映画にもなりましたが《劉三姐》の物語があります。中国南方の広
西少数民族の歌姫の物語です。日本の古代には歌垣というものがあり、男女が集まって歌
を詠みかわし求婚するのですが、
『万葉集』の相聞歌も、広く唱和・贈答の歌もありますが、
恋愛の歌が主要な内容になっています。
話は飛躍しますが、動物は何で恋の相手を見つけるか、鳥でしたら鳴き声でしょう。こ
れが自然の法則であれば人間は、鳴き声に代わる詩で恋の相手を選ぶのではないでしょう
か。現代日本の恋愛小説には詩がありません。詩は一体どこに行ってしまったのか。この
ようなことを考えて日本の小説を読んで行たいと思います。 (文責:講演会実施委員会)
7
事務局から―――――――――――――――――――――――――――――――――――
・楊逸氏講演会が行なわれました。
10 月 18 日午後 2 時から講演会が始まり、はじめに中山時子会長の挨拶があり、今年の
3 月にメール 2 行で楊逸さんに講演依頼をしたところ、さっそく快諾のお返事を頂いたこと、
また本日こうしてお招き出来てお話が伺えることを感謝致しますという話のあと、楊逸氏
の講演が行われました。内容の概要は前ページに記しました。予定では 3 時半に終了でし
たが、話が盛り上げり 15 分ほど超過し、その後の意見交流の時間にはフロアーからいくつ
か意見と質問が出ました。日本人も感動した時には和歌を詠うのではないか、中国人であ
る楊逸さんが小説を書くとき頭のなかでは日本語で考えるのか中国語で考え日本語に訳す
のか、どちらも興味ある内容でした。終了時間になり、司会から会場特別価格で販売され
ている楊逸の著書の紹介と講演会終了後サイン会の案内が行われ、講演会が終了しました。
サイン会が始まると、多くの参加者は本を購入し、楊逸さんと言葉を交わし思い思いの
語句を書いてもらい、写真を撮ったりして、16 時半ようやくサイン会も終了しました。最
後に学会関係者を交えて記念撮影を行いました。
当日の入場者数は 73 名、販売冊数は 39 冊、150 名規模の学会の講演会にしては出来すぎ
の講演会であったと講演会実施委員会のメンバーの一致した意見でした。
・発行日を 8 日から 1 日に早めました。
これまで九段生涯学習館を使用していたときは,翌月の会場は 5 日以降でないと確定で
きませんでした。そこで本通信も毎月 8 日を一応の発行日としてきましたが、9 月以降に使
用している練馬区民・産業プラザでは 2 か月前の 1 日に会場の確定が出来るようになりま
した。これを契機に本通信の発行日を毎月 1 日としました。ホームページでのアナウンス
も更新日を繰り上げます。
12 月の開催案内―――――――――――――――――――――――――――――――――
紅楼夢研究会 12 月 6 日(土)13 時~15 時 日本大学通信教育部 8 階 学生ラウンジ
読み合わせ:
『紅楼夢』第 56 回
梅文化研究会 12 月 6 日(土)15 時~17 時 日本大学通信教育部 8 階 学生ラウンジ
人と題:池間里代子氏:唐詩宋詞にみえる梅
概要:唐詩と宋詞にみえる梅を概観し、両者に梅についての感情が変化しているのかを中
心に考察する。唐代でもてはやされた花は牡丹が知られているが、宋代では芍薬に変化し
ている。梅についても何らかの変化があるのかどうか、従来はそれほど議論されてこなか
った。また、詩と詞という形態の違いによってとらえ方が異なるのかも考察する。特に、
宋代には梅を妻とした林甫や『范村梅譜』を編んだ范成大がおり、考察の一助としたい。
連絡:前日までは水野 03-3793-8703、 当日は栗原 090-8119-6944
詳しくは、学会ホームページを参照されるか、事務局あるいは各会の世話人まで電話で
お問合わせください。
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