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9-インドの独立

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9-インドの独立
インドの独立
ラス・ビハリ・ボース は、 1886
年にイギリスの植民地であったインド、ベ
ンガルの藩王の家に生まれた。当時の多くの上流階級の子弟がそうしたようにインド国民
会議に所属し、大英帝国からの独立運動に身を投じ、インド総督に対するテロ未遂事件な
どを起こす。また、インド時代、近代インドを代表するヒンドゥー教宗教指導者であるオ
ーロビンド・ゴーシュの宗教哲学に影響を受ける。
その後、ラホール蜂起の首謀者とされ 1914 年に日本に亡命したが、当時日英同盟を締
結するなど大英帝国と友好関係にあった日本政府は、ボースに対し国外退去を通告する。
これに怒った頭山満や犬養毅、内田良平などのアジア主義者は、かねてから知り合いで
あった新宿の菓子店、中村屋の創業者で、孫文らとも交流があった実業家、相馬愛蔵にボ
ースをかくまうよう依頼。その後の 4 ヶ月間、ボースは中村屋のアトリエにかくまわれる
ことになる。やがて頭山らの働きかけもあり、1915 年、日本政府はボースに対して日本
国内でインド独立運動を行うことを許可する。1916 年に日本政府からの退去命令は撤回
されるが、1918 年末まで英国官憲に追われ東京各地を転々とする生活を送る。1918 年に
ボースはかねてから恋仲にあった相馬夫妻の娘、俊子と結婚、1923 年には日本に帰化す
る。俊子との間には 2 人の子供をもうけたものの、俊子は 1928 年に 28 歳の若さで亡くな
っている。
この当時の日本の『カレーライス』は、本場インドのものと比べた場合、全く異質の食
べ物であった。これは海軍などの兵員食として作られた『カレーライス』の影響が大きい。
すなわち、ただでさえインドのものとは全く異なる欧風式カレーを、さらに日本人向け・
軍隊食向けにアレンジしたものが、除隊後の兵士などを通じて普及し、大きく幅を利かせ
ていた為である。
この日本のカレーの状況に憤慨していたボースは、1927 年に中村屋が喫茶部を新設し
た際、相馬夫妻への恩返しとして本場インドカレーのレシピを中村屋に提供。併せて原材
料の調達と選別も自らの手で行った。これが日本で初めての本格的なインドカレー『純イ
ンド式カリー』となり、今に至るまで中村屋の名物メニューとなっている。
日本政府の支援を受けてイギリスからの独立運動を行う中、1941 年に日本はイギリス
やアメリカとの戦争、大東亜戦争(太平洋戦争)に突入する。その後、1943 年には、日
本の支援を受けてインドの独立運動をしていたスバス・チャンドラ・ボース
らと共に日本占領下のシンガポールへ向かい、自由インド仮政府設立を宣言、同時にイン
ド国民軍の指導者の一人となる。
しかし、インド独立の夢が現実となる日を見ることなく、1945 年に日本で客死した。
同年 6 月には俊子との間に生まれた長男・正秀も沖縄戦で日本軍人として戦死する。
ボースの死後、日本政府はその功績をたたえて勲二等旭日重光章を授与する。
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昭和16年12月 8 日、日本は米英に対し宣戦布告し、大東亜戦争に突入した。
開戦初期、 日本はハワイ真珠湾、マレー、シンガポール作戦等で戦果を挙げたが、昭和
17年 6 月のミ ッドウェー海戦において、航空母艦の大半を失い、その後戦況は逆転の
様相を呈してきた。
その時、イギリスの植民地支配からの独立を願い、チャンドラ・ボースが日本に支援
を要請してきた。日本軍はインド国内の反イギリス独立勢力の支援と、混迷する戦局の打
開を計るべく、第33師団「弓 」、第15師団「祭」、そして第31師団「烈」の三コ師
団によりインド国内の要衝インパールの奪取を目指した。
作戦はこの三コ師団の他に、チャンドラ・ボース統率下のインド人志願兵1万5千人か
らなるインド国民軍(INA)も勇躍参加した。
3 月から始まった作戦は河幅600 M も及ぶチンドウィン河の奇襲渡河、そして20
00 M のアラカン山脈の峻険を越えるという最初の難関を克服し、
「弓」の進撃にあわせ、
「祭」の挺進隊はミッションを占領、インパールコヒマ道を遮断、さらに「烈」もコヒマ
を占領し、コヒマ、モイランそしてインパール周辺にまで日本軍は進出した。
インド国民軍も「烈」と「弓」の両兵団と行動をともにして、コヒマとモイランに進出。
遂に念願のインドの三色旗をインド国領土内に翻したのである。
しかし、イギリス軍の抵抗は極めて頑強で、戦線は膠着、更に空輸により潤沢な補給を
行ない、反攻を加えてきた。日本軍は食料弾薬ともに杜絶し、その消耗が極限に達した雨
季の6月、ついに撤退を余儀なくされた。連日の豪雨の中の惨憺たる撤退は日本軍に多く
の戦死・戦病死者をだすこととなった。
戦後イギリスは「インパール作戦に参加したインド国民軍は、イギリス皇帝に対する反
逆者」として、3名の将校を極刑に処そうとしたが、このことがインドの民衆の怒りに火
をつけた。抗議運動はインド全土に広がり、いたるところで官憲と衝突、流血の惨事とな
った。特にイギリス海軍所属のインド人乗組員の一斉反乱が与えた影響は大きく、遂にイ
ギリスも事態収拾困難と考え、統治権を譲渡、相当の年月がかかるであろうと言われてい
たインドの独立は、パキスタンとともに戦後わずか2年後の昭和22年8月15日に達成
されたのである。
それぞれの固と家族を思う純粋な心と信念をもって戦った、
日本軍とインド国民軍(INA)の英霊を私たちは忘れることは出来ない。
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「日本はインドにとっては良い国だと思います。
日本はチャンドラ・ボース と共にインドの独立のため戦ってくれました。
これは、はっきりいえます。 インドは日本軍の犠牲により独立することが
出来たのです。もしあんなに 犠牲者を出さず、又 I N A(インド国民軍)に
協力しないでインドに進出した場合、インドの軍(イギリス軍インド部隊)は
自分たちの方針を変えなかったでしょう。 25 万のインドの軍が方針を変え、
チャンドラ・ボースの軍になったことにより
イギリスから独立することが出来たのです。」
「私たちは常に日本に対し感謝の気持ちを持っています。」
「最後にもう一度、有難うございました。」
――デロン中佐の言葉――
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