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旅と交流 - Researchmap

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旅と交流 - Researchmap
平成24年度北海道大学
大学院文学研究科・文学部 公開講座
旅と交流
―歴史を旅して、現代の問題を考える―
第1回 5月16日(水) ブッダの旅
大学院文学研究科
教
授
細田
大学院文学研究科
教
授
佐々木
典明
第2回 5月23日(水) 聖書と旅
第3回 5月30日(水) イランの王さま、ヨーロッパへ行く
大学院文学研究科 准教授
第4回 6月6日(水) 郵便と旅行
守川
啓
知子
―近世ドイツにおけるコミュニケーション革命
大学院文学研究科 教 授
山本 文彦
第5回 6月13日(水) 万里の長城を見にいった日本人
大学院文学研究科
第6回 6月20日(水) 朝鮮取経の旅
授
武田
雅哉
―室町幕府外交の舞台裏
大学院文学研究科 准教授
橋本
雄
准教授
吉開
将人
教
授
池田
透
准教授
樽本
英樹
第7回 6月27日(水) 江戸時代漂流民のベトナム見聞
大学院文学研究科
教
第8回 7月4日(水) 旅をする動物
大学院文学研究科
第9回 7月11日(水) 国境を越える旅の社会学
大学院文学研究科
第10回 7月18日(水) 質疑応答
上記講師全員
時期:5月16日~7月18日(毎週水曜日)
時間:午後6:30~8:00
会場:人文・社会科学総合教育研究棟(W棟)W103室
-1-
第1回
5月16日(水)
「ブッダの旅」
大学院文学研究科
教
授
細田
典明
インドでは、学問をし、夫婦生活を営み、家や国を豊かにすることを「人生の
三大目的」といいます。この世俗生活を離れることが「出家」で、ブッダはサー
ごうたん
キヤ国の王子として生まれ(A降誕)、29歳の時に老病死を克服する修行者をめざ
じようどう
し出家しました。35歳で悟りを開いた後(B成 道)、かつて共に修行していた五
び
く
しよてんぼうりん
人の比丘に初めて法を説き(C初転法輪)、以後45年間、説法の旅を続けました。
にゆうねはん
講義では、ブッダが老齢80歳で病に罹り、入滅(D入涅槃)後、遺骨を分配する
だいはつねはんぎよう
迄を伝承する『大般涅槃経』(大パリニッバーナ経)から、ブッダのことばを紹介
します。なお、AからDの場所は「四大聖地」と呼ばれています(地図の地名は
現代日本語として定着している表記で、原典の地名表記とは多少異なります)。
Aラージャガハから④クシナーラーまでの間にブッダは様々な教説を説きま
す。そして、この経は他の経典には見られない、老いて疲れ果てたブッダの姿を
伝え、ブッダ亡き後の「仏とは何か?」ということを問いかけています。①~③
は青年ブッダが生地から文化の中心地を目指した旅ですが、「ブッダ最後の旅」
のAラージャガハから最終地④クシナーラーの経路の北に、生地①ルンビニーが
あります。北枕にして、沙
羅双樹の間でブッダは入滅
しました。
〔和訳〕中村元訳『ブッダ
最後の旅
―大パリニッバ
ーナ経―』岩波文庫、1980。
だいはつねはんぎよう
『大般涅槃経』の旅と教説
〔(
A
B
C
D
○
E
)内は和訳の該当頁〕
ラージャガハ:出発点(p.1)
アンバラッティカー(p.25)
ナーランダー(p.26)
パータリグラーマ:渡河(p.32)
ナーディカ:法鏡の教え(p.49)
ヴェ ー サー リ ー: 発病 (p.60)
「自らを島とし法を島とせよ」(p.63)
「ヴェーサーリーは楽しい…」(p.66)
Fパーヴァー:チュンダの供養(p.108)
④クシナーラー:最後のことば(p.158)
地図は、奈良康明『仏教史Ⅰ』(山川出版社, 1979, 87頁)より。
-2-
第2回
5月23日(水)
「聖書と旅」
大学院文学研究科
教
授
佐々木
啓
キリスト教の聖書の中には、良いことも悪いことも、およそ人間の営みならば
あらゆる事柄が書かれている、と言っても過言ではない。「旅」や「交流」もま
た例外ではない。旧約聖書と新約聖書に大別される聖書の諸文書には、「旅」や
「交流」をめぐる話も満載なのである。本講では、特に「旅」ということに焦点
を絞り、新・旧約両聖書における「旅」の物語をめぐって、暫し考察を深めてみ
たい。
例えば、旧約聖書ならば、キリスト教徒ならずとも、アブラハムが故郷を発っ
て神ヤハウェから約束された土地へと向かう「旅」、あるいは、イスラエルの民
がモーセに率いられてエジプトの地を去り荒野を40年に渡ってさまよう「旅」
などを思い起こすだろう。また、新約聖書ならば、イエスが弟子たちを引き連れ
て各地を経めぐる宣教の「旅」、さらには、ユダヤの地を発ってついに遠くロー
マに至ったパウロの伝道の「旅」などを思い起こすだろう。
これら聖書に記された数々の「旅」には、何か共通点や際立った相違点などが
あるのだろうか?まず、この点を少し立ち入って検討してみたい。
ところで、新・旧約聖書は「正典」といわれる。
「正典」とは、簡単にいえば、
新たな言葉や文章を付け加えたり取り除いたりしてはいけない、いわば規範・基
準となる文書のことである。それに対して、「外典」あるいは「偽典」などと呼
ばれる多量の文書がキリスト教には存在している。新約聖書の成立と同時期に書
かれた「外典」と呼ばれる一群の文書は、最終的に聖書「正典」に採用されなか
ったものであり、場合によっては異端の書として焚書の憂き目に会ったようだ。
本講では、初期キリスト教のそういった「外典」と呼ばれるいくつかの文書に
記された「旅」をも視野に入れることによって、「正典」聖書における「旅」の
特徴をさらに浮き彫りにしてみたい。このような作業は、案外、キリスト教とい
う宗教の本質を探るうえでも役立つかもしれない。
-3-
第3回
5月30日(水)
「イランの王さま、ヨーロッパへ行く」
大学院文学研究科
准教授
守川
知子
1873年4月、イラン国王ナーセロッディーン・シャー(在位1848-96年)は首都
テヘランを出立し、ロシア、プロイセン、ベルギー、イギリス、フランス、スイ
ス、イタリア、オーストリアを4ヶ月かけて周遊し、そして最後にイスタンブー
ルを訪ねるという欧州歴訪の旅に出た。これは、イスラーム国家の君主としては
初めてイスラーム圏以外の土地に行ったものであり、かつこの王は、その旅の体
験を『ヨーロッパ旅行日記』として克明に綴った最初の君主でもある。
ナーセロッディーン・シャーの第1回目の欧州旅行は、くしくも明治の日本か
ら派遣された岩倉使節団の欧米歴訪(1871-73年)と同時期である。この当時の
イランは、イギリスやロシアといったヨーロッパ列強に領土を侵食されながらも、
ほぼ現在につながる国境線を維持した主権国家であった。
ナーセロッディーン・シャーは、ロシアでは皇帝アレクサンドル2世に、プロ
イセンではヴィルヘルム2世やビスマルクに招待され、またロンドンではヴィク
トリア女王に饗応されるなど、各地で国賓として厚遇されているが、彼自身の旅
行記からは、そのような政治的な交流以上に、19世紀後半の躍動するヨーロッパ
諸国を目の当たりにした一個人としての率直な感想を窺い知ることができる。
本講座では、君主と官僚という立場の違いは
あるものの、岩倉使節団の記録である久米邦武
著『米欧回覧実記』と比較しながら、一国の君
主が見た19世紀後半のヨーロッパと、「旅」の産
物でもある、アジアにおける近代化・西洋化に
ついて考察する。
-4-
第4回
6月6日(水)
「 郵便と旅行
―近世ドイツにおけるコミュニケーション革命」
大学院文学研究科
教
授
山本
文彦
郵便と旅行。一見すると関係なさそうに思えるこの二つの事柄は、実は密接な
関係にある。ドイツにおいて郵便が初めて歴史上登場したのが、1490年であり、
このことは当時「郵便の発見」と呼ばれ、ほぼ同時期のコロンブスによる「アメ
リカ大陸の発見」よりも画期的な発見として人々の注目を集めたのだった。この
当時の郵便は、街道上に一定の間隔で宿駅を設置し、この宿駅の間を馬に乗った
配達人が、リレー方式で書簡等を24時間体制で運んだ。宿駅が設置された街道は、
郵便路線と呼ばれ、宿駅は飲食と宿泊ができる施設として一般にも開放された。16
世紀以降郵便路線が拡充されていくが、このことは多くの街道に宿駅が設置され
ることを意味した。
ヨーロッパ中世の旅は、地図のない旅だった。旅行者(修道士・商人・使節な
ど)は、基本的には村や町ごとに道を知っている案内人を雇いながら旅を進めた
のである。また、宿泊や飲食の施設が必ずしも整っておらず、中世の旅は危険に
あふれていた。
しかしながら16世紀以降、郵便路線が拡充されるに従い、旅行のスタイルも大
きく変化することになった。旅行者は宿駅を利用することで、宿泊と飲食の心配
から解放された。また15世紀半ばのグーテンベルクの活版印刷技術の改良以降、
郵便路線図が頻繁に刊行され、旅行者はこの郵便路線図を携帯したのである。郵
便路線を旅すれば、そこには必ず宿駅があり、また郵便路線である街道は、道路
が通行できる状態にあることを示していた。たとえ遠回りでも郵便路線上を旅し
たのである。
17世紀後半以降、郵便馬車が普及し始めたが、この郵便馬車は19世紀に鉄道が
普及するまでの間、最大の旅客システムであり、郵便路線図、郵便馬車時刻表、
郵便馬車料金表、旅行案内書がこの当時の必須の旅行アイテムであった。こうし
た新しい旅行スタイルは、当時の人々の時間と空間意識をも大きく変えることに
なる。郵便の発見から始まるこのような大きな変化全般は、近年では「コミュニ
ケーション革命」と呼ばれている。
-5-
第5回
6月13日(水)
「万里の長城を見にいった日本人」
大学院文学研究科
教
授
武田
雅哉
中国、特に北京で観光旅行をする人ならば、かならず足を伸ばすにちがいない
のが、あの万里の長城でしょう。その長さは8850キロあまりとも言われています
が、計測するたびに長くなっていくという、いわば現在も成長をつづけている、
不思議な古代建造物でもあります。
「人類の偉大な智恵の産物」「労働人民の血肉の結晶」「秦の始皇帝の暴政のシ
ンボル」「漢民族の誇り」「無用の長物」など、さまざまな評価が与えられている
長城は、あまりに長いので、「月から肉眼で見える唯一の人工建造物」などとも
いわれてきました。
中国文明の大きさのシンボルともいえるこの建造物は、そもそも、われわれ日
本人によって、どのように認識され、見られてきたのでしょうか?
この地に足
を運んだ旅人たちの記録のなかに、日本人がこの巨大建造物を通して抱いてきた、
古い大国へのさまざまな思いを読んでみたいと思います。
長城をその眼で見て、報告をもたらした最初の日本人は、1644年にロシア領沿
海州に漂流した商人たちだといわれています。かれら生還者の報告は、のちに『韃
靼漂流記』と題してまとめられました。以降、長城を見た日本人は山ほどいたで
しょうが、わたしたちは、その最後尾に位置しているわけです。
それといっしょに、西洋人が「中国」や「万里の長城」といったものに託して
きた中国趣味の産物、あるいは探検家や旅行家たちによる長城についての報告を、
あわせて読んでみることも、おもしろいかもしれません。
さらにまた、中国人自身にとっては、どうだったのでしょう?
長城は、かつ
ては、ただいまのような景勝地などではありませんでした。
この講演では、古代から現在にいたる、長城を実際に歩いた人びとの考えや感
想、あるいは、実際に行くことはなかったけれど、長城に対する好奇心と夢想を
抱きつづけてきた人びとの頭のなかを探りながら、この隣国の驚異建造物への、
観念の旅をしてみたいと思います。
-6-
第6回
6月20日(水)
「朝鮮取経の旅
―室町幕府外交の舞台裏」
大学院文学研究科
准教授
橋本
雄
室町時代の日本には、朝鮮半島から約50部の大蔵経がもたらされたと言われて
いる。その多くは、日本からの使節が高麗・朝鮮王朝に出向いて求請して持ち帰
ったものである。今回は、室町幕府が派遣した(とされる)使節(「日本国王使」
)
を中心に、いくつかの大蔵経求請使節の旅を紹介し、当時の国内・海外旅行のあ
り方を探ってみることとしたい。
概して、前近代は「政経不可分離」の世界であり、当時の海外旅行は多かれ少
なかれ外交と貿易の要素とを兼ね備えていた。ただし、社会的・身分的階層の低
い商人に関する記録は乏しいのだが、外交使節については相当程度ゆたかな史料
が残っている。こうした記録を丁寧に見ていけば、当時の「旅と交流」の特徴や
実相にもある程度は迫ることができるだろう。
具体的には、外交使節はどのような段取りを経て出発したのか、どれくらいの
規模の船団・使節団を組んだのか、付随しておこなわれる貿易はどのようなもの
であったか、彼の地ではどのような活動をしていたのか、帰国のプロセスはいか
なるものであったか――といった問題におおよその見通しをつけていきたい。そ
のなかで、まるきりニセモノの使節を仕立てたり、外交文書を勝手に改竄したり
書き替えたり、輸入品を猫ばばしたり、船を水増ししたり、……数々の倭人(中
世日本人)たちの「問題行為」にわれわれは遭遇することになるだろう。あらか
じめ結論めいたことを書いてしまえば、往時の日本人は、いまの日本人とは比べ
ものにならないくらい逞しく、また厚かましかったのである。
ただ、そうした不埒な言動を多数確認できるのが確かだとしても、彼らを糾弾
しようというのが本講義の趣意ではない。なぜそうした不正行為が生まれたのか、
それを許す素地・歴史的条件とは何だったのか、そうした背景部分を解明するこ
とに力点を置いていきたい。こうした研究の視角こそが、表面的な理解ではない、
真の歴史理解をもたらすと考えるからである。
-7-
第7回
6月27日(水)
「江戸時代漂流民のベトナム見聞」
大学院文学研究科
准教授
吉開
将人
歴史は、時に思いがけない出会いを演出します。
今から220年前、鎖国政策の中にあった江戸時代の寛政6(1794)年9月、現在
の宮城県から江戸に向けて出航した16人の船乗りたちは、3ヶ月の漂流の後、閏11
月に現在のベトナムの一角に漂着しました。地元民に助けられた彼らは、その
「国」の「王城」に案内され、12月にその「国王」なる人物に拝謁したのです。
その「国」「王城」「国王」については、当時ベトナムを統治していた西山(タイ
ソン)朝安南(アンナン)国、その都であった現在の中部ベトナムのフエの街で、
王位を継承したばかりの第2代安南国王の阮文纉に会ったのだという説と、そう
ではなくて西山朝の敵対勢力であり、その拠点であった現在の南部ベトナムのホ
ーチミン(旧サイゴン)の街で、その盟主の阮福映に会ったのだという説が、並
存し続けてきました。
彼ら漂流民は、マカオと中国を経て翌1795年11月に帰国し、その際に長崎奉行
所の取り調べできわめて詳細な記録を残しています。ところが、その内容は一般
に知られるベトナム史の歴史的事実と符合せず、また現地の様子などについて記
録したベトナムの文献などと比較しても一致点がほとんど見出せません。このこ
とが、彼らはベトナムのどこの何を見聞したのかという謎を、今日まで残し続け
てきたのです。
ところが、手がかりは思いがけないところから見つかりました。当時の国際関
係の中にあってベトナム国王を冊封する立場にあり、相手国の情報を収集し、ま
た彼ら漂流民を日本に送還する役割を果たしたのは、宗主国中国の清朝でした。
その都、北京の紫禁城に、関連する同時代記録が残されていたのです。それら清
朝の文書は、彼ら漂流民が出会ったのが、その8年後の1802年に西山朝を滅ぼし
てベトナムを南北に初めて統合して阮(グエン)朝越南(ベトナム)国を創業す
る阮福映その人に他ならないことを、今日の私たちに明らかにします。こうして、
彼らが長崎で語った記録は、史料の乏しい阮朝創業前夜のベトナム南部の社会の
実態と、当時はまだ反乱軍に過ぎなかった阮福映政権の姿を、生々しく伝える貴
重な手がかりとなったのです。
遠く離れた国にまったく異なる経緯で残された複数の史料が、歴史に埋もれた
一つの出来事に、どのように光を当て、興味深い歴史的事実を明らかにするのか。
この点を通じて、本講義では、アジアの多国間にまたがる東洋史を研究する面白
さを、皆さんに紹介したいと考えています。
-8-
第8回
7月4日(水)
「旅をする動物」
大学院文学研究科
教
授
池田
透
我々人間は、鳥のように自由に空を飛びたいとか、クジラのように悠然と広い
海をゆったりと泳いで見たいなどと思うことがよくありますが、実は動物たちは
決して自由気ままな生活をしているのではありません。確かに鳥類、魚類、クジ
ラ、陸棲哺乳類や昆虫から微生物まで大きな移動をする動物もいますが、彼らは
生活に必要な場所を求めて季節的に移動をするものであり、人間のような日常か
ら離れて異文化や異国情緒を体験するといった旅とは趣が異なるものです。見聞
を広めて生活を豊かにする旅ではなくて、生きるために必要な旅であり、その旅
にはとてつもない体力が必要であり、また多大な犠牲が払われることも少なくあ
りません。広く自由な旅をしているように見えて、実は動物の生活というのは保
守的な側面が強いのです。さらに移動距離は大きくなくても、子が親元から巣立
つ分散行動も、新天地を求めて新たな土地に移動する点で旅と捉えることもでき
ますが、これも自力で生き抜くために与えられる試練であり、生やさしい旅では
ありません。
この講義では、こうした動物の旅の特色を整理し、何故彼らはこんなにも広大
な地域を旅しなければならないのか、旅をした結果何がもたらされるのかをみな
さんと一緒に考えてみたいと思います。また、動物の中には、人間が世界中を旅
して回るようになったことに伴って、思いもよらない旅をするはめになり、他所
の地に定着してしまった外来生物というものも存在します。こうした予定外の旅
によって本来は生息していない場所に連れてこられた動物たちが引き起こしてい
る問題についても紹介しながら、人間とは異なる動物の旅の意味を理解していた
だくことができれば幸いです。
-9-
第9回
7月11日(水)
「国境を越える旅の社会学」
大学院文学研究科
准教授
樽本
英樹
「旅」、特に海外旅行は人をワクワクさせる。他国の文化に触れ、本場の料理を
楽しみ、見知らぬ人々と出会う。飛行機の狭い座席で長時間耐えたとしても、旅
先で大きな満足が待っている。
その昔、日本ではほんの少数の人々しか海外へ出られなかった。1ドル360円の
時代、外貨の持ち出し制限などがあった。国境を越える「旅」が今日のように盛
んになったのは、1980年代終わり頃だろうか。大学生が卒業旅行と称してヨーロ
ッパなどに1か月程度滞在することが流行った時期である。ベルリンの壁が崩壊
し東西冷戦が終結したのも同じ時期である。
それ以降、国境を越える「旅」が急増していく。世界中で移動が起こるようにな
った。観光客だけではない。労働目的の人々や政治的な庇護を求める難民も国境
を越えていった。中には、観光ビザしか持たず非合法で働く人々もでてきた。観
光のように何日か滞在して帰国するのではなく、渡った先の社会で定住する人々
も増えてきた。このような現象を「国際移民のグローバル化」と呼ぶ。
もちろん、様々な文化を持った人々が集う多文化社会には多くのメリットがある。
エスニックなレストランや雑貨店の料理や雑貨は魅力的である。他国の人々に話
を直接聞くだけで異文化経験を味わえる。
しかし同時に、国境を越える人々の増加は、様々な問題を社会に引き起こす。習
慣の違う人々が地域社会に居住すると、社会生活のルールを整えなくてはならな
くなる。収入の少ない不安定な種類の仕事に特定の国の出身者が集中し、貧困層
ができてしまうこともある。極端な例として「人種暴動」が起きてしまう社会も
ある。
「旅」をする個人の自由は尊重されるべきでだろう。しかし同時に、国際移動を
制限するなどして社会秩序を守ることも重要である。自由に「旅」することと社
会秩序を守ること。これら2つをどのように両立させたらよいのだろうか。国家
主権という観点などから考えていきたい。
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