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グスタフ ・ ランダウアー研究覚書
グスタフ・ランダウアー研究覚書 宅 M⊥ 米においては、近年さまざまな角度から研究が進められて来ている。ここでは、その中で提起されているいくつかの 自律性を重視したことであった。しかし、彼の思想は、いうまでもなく、より広いひろがりをもったものであり、欧 都市ベルリンを活動の舞台とした社会主義者であった彼が、農民と農村の再評価を提起し、また、ドイツの諸地域の 素描したことがある。そこでも指摘したように、ランダウアーにおいて注目されることの一つは、第一次大戦前、大 農民小説の第一人者であったルートヴィヒ・トーマピ巳惹σq日げo旨9︵一co①刈∼一りbo一︶をも含めて三者の、交錯と懸隔を ︵1︶ アーがこのガンドルファーのレーテ共和国支持の態度を重視したことに注目し、両者のーそして、当時バイエルン ァi因巴○きα。﹃h臼︵一。。胡∼おωb。︶はこれを支持する態度を明らかにしたのであった。筆者は、以前、ランダゥ 命の一翼を担ったことであり、レーテ共和国の成立に際しても、バイエルン中央農民評議会議長力ール・ガンドルフ 的な役割を演じたアナキストとして知られている。 鵬 バイエルン革命の重要な特色をなしたのは、その当初より農民評議会が労働者・兵士評議会と並んで結成され、革 バイエルン革命において、とりわけ、一九一九年四月初旬のいわゆるバイエルン・レーテ共和国の成立に際し、指導 グスタフ・ランダウアiOロω鼠く冨巳碧臼︵一Qo刈O∼ド㊤一㊤︶は、ドイツ革命の中できわめてユニークな展開を遂げた 三 問題点を明らかにし、 い。 ランダウアーを第一次大戦前後の歴史の中で考察する際の一つの手がかりとすることとした グスタフ・ランダゥアーが本格的な研究の対象となったのは、一九六〇年代以降のことに属する。まず、ドイッのヴ ︵2︶ オルフ・カルツ﹃グスタフ・ランダゥアー−文化的社会主義者・アナキストー﹄︵一九六七年︶は、ランダウアー の社会主義・革命思想を、近代アナキズムの思想家たちープルードン、クロポトキン、またバクーニン、トルスト イーとの関連に注目しつつ包括的にあとづけたものであったが、その中で結論的に浮き彫りされたのは、ランダウ アーの社会主義の﹁精神ΩΦ聾﹂に、トルストイと並んで、フィヒテ、そしてゲーテが大きな影響を与えていることで あった。他方、アメリカのチャールズ・B・モーラー﹃革命への呼びかけーグスタフ・ランダウアーの神秘主義的 ︵3︶ アナキズムー﹄︵一九七一年︶は、ランダウアーの年長の友人ブリッツ・マウトナー甲冒ζpロチロ興︵おお∼おb。。。︶ の三巻の大著﹃言語批判論集﹄︵一九〇一∼二年︶の﹁懐疑﹂がランダウアーの﹁神秘主義﹂にもった決定的な意義 を強調し、かつ、ランダウアーの文芸批評に注目しつつ、時代を越えて﹁精神﹂を受け継いでいく芸術家・思想家 ードイツ中世のマイスター・エックハルトからゲーテ、 ヘルダーリン、そしてゲオルク・カイザーにいたる、ま た、シェークスピア、ホイットマン、トルストイなどのーをランダゥアーが重視していたことをあとづけたもので ︵4︶ あった。 ここには、ランダウアーにおける社会主義・アナキズムと﹁文化﹂ないし﹁精神﹂という問題が提起されているとい えよう。そして、この点できわめて注目されるのは、アメリカのユージーン・ランの著作﹃共同体の予言者ーグス 129 一 タフ.ランダゥアーのロマン主義的社会主義−﹄︵一九七三年︶であった。ランは、既刊の文献のみならず、未公刊 ︵5︶ のランダウアi関係史料をも渉猟しつつ、ランダウアーの﹁知的発展一三①=Φ。ε巴山①︿90噂日Φ三﹂を、彼の﹁実際の生 活碧§Φ謀①﹂︵﹁個人的・政治的活動﹂︶及びその﹁歴史的環境三ωけ9。巴B田窪﹂︵彼の﹁社会的世界・。。。邑芝9α﹂、 ﹁文化的社会的背景窪一ε邑⇔巳ω。。芭・・2け冒σQ﹂︶との相互関係の中で、これらへの﹁知的応答巨巴Φ。ε巴おωb。器。。・﹂と してあとづけることを課題とし、そのことによってランダウアーの﹁包括的な知的伝記﹂を提示することに成功した のである。そのさいランが、ランダウアーの﹁歴史的環境﹂︵﹁彼が活動していた歴史的文脈﹂︶の中で最も注目したの ︹ 6 ︶ は、二〇世紀初頭のーすなわち、第一次大戦後における﹁民主主義的理想とゲマインシャフト的な理想との完全な 分裂﹂、﹁両極化﹂以前のードイツにおける、﹁中産階級知識人、作家、芸術家、そして青年の間における、再活性化さ れた共同体生活への熱烈な希求﹂、とりわけ多様な中産階級左翼共同体主義ヨこ色①−。寓゜・転け−≦一昌σq8日日q巳$︻す巳ω日﹂ の諸サークルの存在であつた。ランによれば、歴史家たちはこれまで、もっぱらナチズムの知的ルーツに焦点を合わ ︵7︶ せて来たために、﹁近代ドイツにおけるロマン主義の遺産の民主主義的、人間主義的諸解釈﹂︵﹁二〇世紀初頭におけ ヒユ マニタリアン るヘルダーの急進民主主義的後齎たち﹂︶を看過する傾向があったのであり、この点からすれば、ランダウアーの知 的発展ー﹁リバータリアンな社会主義とフェルキッシュなロマン主義との総合へのランダウアーの道﹂iをあとづ けることは、歴史に対してこれまでとはちがった新しい光を投げかけることになる、とされるのである。ちなみに、 ランはこの総合を、﹁フェルキッシュなロマン主義の、反権威主義的、社会主義的、人間主義的銘柄﹂とも表現して いるが、それを彼はさらに端的に、﹁共同体主義的社会主義8日ヨ‘巳δ壁壁ω。。巨一.■目﹂、﹁ロマン主義的社会主義﹂、さ らには﹁フェルキッシュな社会主義く巳置ω魯ω。。凶藻ω日﹂と呼んだのであった。そのさい、 ランのいう﹁フェルキッ シュ﹂とは、何よりもまず、﹁アトム化された都市的社会に対する﹃有機的﹄共同体のロマン主義的な区別﹂と重なり 130 フオルク 合ったものであり、ランダウアーに即していえば、共同体主義的なジードルング︵共同定住地、入植集落︶ωδ臼βロαQ①p を通じる、ドイツの﹁民く。貯﹂の﹁農民と職人のネーション﹂への再形成への志向、ないしそこに示される﹁ゲマ ︵8︶ インシャフト﹂と﹁フオルク﹂の重視が、﹁フェルキッシュ﹂と表現されているのである。 さて、ランのこうした視点は、いうまでもなく、ナチズムの支配からの一定の歴史的距離によって初めて可能にさ れたものであった。しかし、より重要なことは、それが現代における﹁官僚主義的社会主義﹂、さらには、﹁都市的工 ︵9︶ 業的文明﹂︵﹁テクノロジーと都市の膨脹﹂︶への懐疑に裏打ちされていることであろう。かつて、第二次大戦後にお けるランダウアーへの注目の先駆けをなした︿自由な社会Oδ甲ΦδΩoωΦ房oげ鋒け﹀社の小冊子﹃グスタフ・ランダゥ アー﹄︵︸九五一年?︶に寄せた一文の中で、ヘルム!ト・リューディガーは、﹁自由を重んじる社会主義h邑冨菖9臼 B国芭一・。ヨ臣﹂、また、インターナショナルな﹁社会主義的連合︵連邦︶主義ω。腎誇鼠・。。﹃臼句αユΦ﹃農ωヨ岳﹂の先駆者と してのランダウアーに焦点を定めたが、そのさい彼は同時に、ランダウアーが﹁発展楽観論﹂を共にせず、﹁技術と ︵10︶ 科学の発展への盲目的な信頼﹂を有していなかったことにも注意を促していた。その後、一九六〇年代に、﹁西と東 ︵11︶ とにおけるあらゆる権威の動揺﹂、﹁反権威主義的学生運動の拾頭﹂の中で、﹁アナキズムの復興﹂が進んだがーカ ルツ、モーラーの仕事も大きく見ればそうした動きの一環をなすものということができようー、ランによる﹁ロマ ン主義的社会主義﹂への注目は、 一九六〇年代から七〇年代にかけて大きく浮かび上がった近代文明︵﹁都市的工業 的文明﹂︶への危機感に樟さすものであった。そして、ランによれば、﹁ロマン主義的社会主義﹂にいたるランダウア ーの﹁知的発展﹂は、−あたかも、第二次大戦後におけるランダウアーないしアナキズムに対するこのような関心 の展開に対応するかのようにi、°﹁社会主義の、リバータリアンな、次いでゲマインシャフト的な定義づけへの道﹂ ︵12︶ と表現されるものだったのである。 131 G。 ランは、ランダゥアーの知的発展の出発点として、彼の精神的故郷ともいうべきヴュルテンベルク王国のシュヴァ ーベン地方での﹁伝統的でフェルキッシュ、分権的で、比較的独立的な﹂﹁農村的・小都市的環境﹂︵中小規模の独立 農民や小規模の商人、手工業労働者たち︶と、彼の生れ育った同じく西南ドイッ、バーデン大公国における﹁フェル キッシュ﹂な学校教育とその地の﹁リベラル・ナショナリズムの伝統﹂、また、自然科学・歯科医への道を歩ませよう とする父親ーヴュルテンベルク、シュヴァーベン地方出身のユダヤ系中産階級で、バーデンの首都力ールスルーエ で靴の商店を営んでいたーの権威に対する若きランダゥァーの抵抗に示された、彼における﹁独立と自治への顕著 な関心﹂を重視している。そして、ヴァーグナーとニーチェに刻印された青春時代の﹁ロマン主義的個人主義﹂から、 ︵13V 一八九〇年代の初頭、ドイツ社会民主党指導部の中央集権的な権威に反旗をひるがえした︿ユンゲン﹀/独立社会主 義者協会の運動と結びつく中で到達した﹁アナキズム的社会主義﹂︵﹁リバータリアンな社会主義﹂︶を経て、二〇世 紀初頭の﹁ロマン主義的社会主義﹂にいたるランダゥアーの知的発展の根底には、﹁個人の自己決定貯岳≦含巴u・①〒 αΦ§巨P鋤まロ﹂と﹁共同体的統合8菖ヨロ巳q冒呂σq話菖O口﹂、﹁個人主義﹂と﹁土ハ同体主義﹂という、ランダウアーの生 ︵14︶ 涯を貫く二重の関心があったというランの指摘は、彼の卓見というべきもののように思われる。 そのさい、ランによれば、ランダウアーが一八九三年段階はおける両者の総合としての﹁アナキズム的社会主義﹂ にとどまりえなかったのは、それが、﹁主としてドイツのロマン主義的、観念論的伝統﹂から成る彼の﹁文学的・哲 ︵15︶ 学的関心﹂に表現を与えていなかったからであったが、彼の﹁ロマン主義的社会主義﹂が最終的に成熟を遂げるに は、世紀の交における﹁神秘主義﹂との出会いがきわめて重要な意味をもつことになった。すなわち、﹁ランダウアー に対して、神秘主義は、他のフェルキッシュなロマン主義者たちに対してと同様、﹃分離から共同体ヘヰ。日ぎ毎δp 88日ヨ§一受﹄と進む理論的手段を提供した﹂のであった。そして、ランはさらに、ランダウアーのこうした展開 ︵16︶ 132 は、社会民主党へのオールタナティヴの探求の中で、ランダウアーがその社会的・政治的活動の関心の対象を、都市 ゴ 工業労働者の運命から、ー﹁フェルキッシュ﹂な思想好みのー手工業労働者や農民たちの世界へと移していった ︵17︶ こと、そしてさらに、その中で孤立を深めていったことと重なり合いつつ進行した、と指摘するのである。ここに は、﹁知的発展﹂と﹁実際の生活﹂、﹁歴史的環境﹂との相互関係を重視するランの方法的態度が端的に示されている といえよう。︵ただし、ランダウアーの関心の移動に関するランの指摘自体の当否は、別箇に検討される必要があろ う。︶ ところで、ランはさらに、この﹁ロマン主義的社会主義者﹂ランダウアーが、一九=年の第二次モロッコ危機以 降、ドイツにおける﹁軍国主義的ナショナリズムの増大﹂とさし迫る戦争の危機、そして第一次大戦の現実という、 いわば新しい ﹁歴史的環境﹂ の中で、﹁民族問題ロp鼠。p巴ρ器ωけδ昌﹂に注目を注いでいき、﹁人間主義的で平和主義 ネ シヨン 的な民族観﹂を発展させていったことをあとづけている。そしてランによれば、﹁フェルキッシュな右翼のシューヴ ィニスティックな帝国主義﹂ではなく、まさに、﹁人類を志向する文化的ナショナリズムピ目鋤三蔓6肖δ2巴。巳け霞巴 フオルク 昌pけδコ巴貯ヨへの新たな関心と、人類土ハ同体における各民族︵民︶のユニークな価値の強調﹂を特質とするランダゥァ ーのナショナリズムの﹁コスモポリタンな枠組﹂こそが、ヘルダーを初めとする初期ロマン主義の遺産を一貫して受 け継ぐものだったのである。しかし、ランダウアーをヘルダーらと同じく﹁文化的多元論者窪ぎ琶喝ξ邑禦﹂たら ︵18︶ しめた主要な要因が、ランの指摘するように、﹁自分がドイツ人でありかつユダヤ人であると感じる﹂彼の自覚にあっ たとすれば、そのことは逆に、当時のドイツにあって、﹁ロマン主義の遺産﹂の正当な継承者たることがいかに困難で あったかをもさし示しているといえよう。︵彼が、自己のドイツ民族性とともに自己のユダヤ民族性を強く自覚するよ うになったのも、第一次大戦前における反ユダヤ主義の拾頭を重要な一契機としてであったことを、ランは明らかに 133 して艶・︶そして・ランダウアーは・この困難の中で・天々に自らのフ・ルキ・シ・な根への自覚を促し、文化民 族。巳け自臥舜まpを発展させる神話を生み出す﹂芸術家の役割を重視し、彼が当時民族問題に関心を注いだのとま さに時を同じくして最も集中的にくりひろげた文芸批評の中で、﹁同時代のドイツ・ナショナリズムの方向とは鋭い フオルク 対照をなすような、自らの民族のための神話を生み出した詩人や劇作家たち﹂ ホイットマンやヘルダーリン、あ ︵20︶ るいはゲオルク・カイザーやシェークスピア に焦点を定めていったのである。 ランの著作は、このように、ランダウアーをドイッ・ロマン主義の継承者として浮き彫りにするものであったが、 そのことは同時に、ランダウアーにおける﹁ユダヤの遺産﹂を重視するランダウアi観への一定の批判をも意味する ものであった。 ランの著作に先立って一九六七年に再刊されたランダウアーの主著﹃社会主義への呼びかけ﹄︵初版は一九一一年︶ に付されたハインツ・ヨアヒム・ハイドルンの序文は、ランダウアーの思想がユダヤの宗教生活、とりわけそのメシ アニズムに深く根ざしたものであることを指摘し、次のように述べている。﹁ランダウアーの精神世界は、その特殊 ライニグングブント ユダヤ的な出発点なしには理解されえない。救済史と人間の浄化、同盟︵盟約︶と精神の支配は、深くかつ自覚的 に、ユダヤの遺産冒臼ω。冨の国ま①に由来しているのである。﹂﹁ランダウアーのユダヤ性冒伍窪εヨは、彼の仕事全体 ︹21︶ に決定的かつ自覚的な意義を有するものであった。﹂こうしたランダウアー理解に対して、ランは、﹁﹃精神﹄、﹃欄新﹄、 ﹃再生﹄といった、ランダウアーの語彙のキイワード群のいくつかは、ある意味では、預言の書に見出されるような、 激しい倫理的宗教性の世俗的な等価物であった﹂ことを認め、﹁ユダヤの預言の伝統が彼の思想の一構成要素を形成 134 二 していたことはほとんど疑いない﹂とする。しかし、ランは、ランダウアーが﹁ユダヤ性冒号尻Bに関する諸問題 に深い関心を示したのは一九=二年から一九一六年にいたる時期以前にはなかった﹂こと、そして、﹁それに先立つ五 年間には、彼の通信の中でユダヤ人問題への一時的な言及は見られるけれども、一九〇八年以前には、彼はこうした ︵22V 関心をごくまれにしか示していない﹂ことをあくまで重視するのである。 こうしてあらためて浮かび上がった、ランダウアーにおける﹁ユダヤの遺産﹂の問題については、のち、ノルベル ト・アルテンホーファーが論文﹁革命としての伝統﹂︵一九七九年︶の中で検討を加え、次のような指摘を行なって いる。すなわち、第一に、﹁ランダウアーのユダヤ人としての自己了解﹂は、﹁ユダヤの伝統以外の諸伝統﹂に発し つつ成熟を遂げたその﹁歴史哲学的ならびに社会理論的思想﹂ の上に初めてなされたこと。 ︵アルテンホーファーは そうした伝統として、マイスター・エックハルトの著作を初めとする﹁キリスト教神秘主義﹂の伝統を挙げている。︶ 第二に、そのさいランダウアーがそれまで自覚していなかったユダヤの伝統を自覚するには、マルティーン・ブーバ 燭 ーによる、﹁それまで埋もれて来た、非公式の、神秘主義的で異端的な、ユダヤの伝統の新たな発見﹂、すなわち、一 八世紀、ポーランド・ユダヤ人の神秘主義ハシディズムO﹃p。。。。・聾。・ヨ匿の再発見が、そのもう一つの前提をなしてい たこと。そしてアルテンホーファーは、さらに、﹁ユダヤの預言者たちとユダヤの神秘主義は、ランダウアーにとっ て、ユダヤ性の、そして彼の世界史的任務の、本質をなすものとなった﹂、と結論するのである。︵彼はそのさい、﹃社 会主義への呼びかけ﹄終章におけるモーセ第三書からの大幅な引用を指摘しつつ、ユダヤの伝統へのランダゥァーの ︵23︶ 自覚的な合体は、すでに一九一一年になされていた、としている。︶アルテンホーファーのこうしたランダゥアー理 解は、最初の二点については、ランの先駆的な指摘を継承発展させたものであったが、最後の一点において、ハイド ルンのランダウアi観を大きく継承するものということができよう。 これに対して、アルテンホーファーの論文に先立って刊行されたルース・リンクuサリンジャi︵ハイマン︶著﹃グ スタフ.ランダゥアーーユートピアの哲学者−﹄︵一九七七年︶は、 ランを批判しつつ、 ランダゥアーにおける パラレリズム ﹁ユダヤ性臼①豊ωぎ①ωω﹂の経験、及び﹁ドイツの遺産Ωo§碧8﹃98σQΦ﹂の経験の﹁平行性﹂、﹁ランダウアーのナシ ョナリズムの二重の軌跡﹂を強調するものであった。彼女は、﹁聖書の預言者たちの、また、彼の理解するところの イエスの、人聞主義的ユダヤ性に対する、そして離散せる歴史的イスラエルの全体に対する、彼の生涯にわたるコミ ットメント﹂を指摘し、﹁ランダウアーの青年時代の諸々の文学的試み、彼の成熟した諸著作、及び彼の社会的交渉 は、彼の、ユダヤ入、ユダヤ人の関心事、また世界文学におけるユダヤ人にかかわるテーマへの、一貫した、絶えざ ︵24︶ る関心をはっきりと示している﹂とするのである。しかし、﹁ランダウアーは、最も若い時から、その生涯の最後に ︵25︶ いたるまで、自分をユダヤ共同体の一員とみなしていた﹂という彼女の指摘は、必ずしもその根拠が明確に示されて はいないように思われる。そして、﹁キリスト教の創始者、中世の異端的キリスト教神秘主義、そしてドイツの古典期 ヤの伝統の連鎖の生きた環﹂たるランダウアーという彼女の認識は、1とりわけその双方に占めるイエスの位置に の、真の相続者﹂で、かつ、﹁預言者から、彼︵ランダウアー︶の同時代のユダヤのユートピアンたちにいたる、ユダ ︵26︶ かかわって あらためて、ランダウアーにおけるいわば底流としての﹁ユダヤの遺産﹂とその自覚化という問題と ともに、﹁ユダヤの伝統﹂と﹁キリスト教神秘主義﹂との関連の問題を提起しているというべきであろう。 ランダゥアーとドイッまたはユダヤの歴史的な諸伝統とのかかわりに関する研究は、このように大きな前進を遂げ て来たが、この点できわめて示唆的なのは、ドイツ・アナキズム史の研究者として知られるウルリヒ・リンゼのラン ダウアi観の展開であろう。彼は、その最初の著作﹃一八七︸年のドイツ帝国における組織的アナキズム﹄︵一九六 九年︶では、ランダウアーのアナキズムの特質を、﹁近代アナキズム思想とユダヤの宗教的・黙示録的観念との結合﹂ 136 に認めており、その限りでは、ハイドルンのランダウアー理解とほぼ軌を一にしていたということができる。 ︵27︶ ︵28︶ リンゼはその後、ランの著作刊行の翌年、ドイツ革命期のランダウアーの演説、著作、書簡等を編纂した﹃グスタ フ・ランダウアーと革命の時代 一九一八/一九年﹄︵一九七四年︶を刊行したが、それは、従来十分な史料的根拠を 欠いていたこの時期のランダウアーが、彼の社会主義の評価に決定的な意義を有すると考えたからであった。リンゼ は、この史料集に付した序文の中で、﹁彼︵ランダウアi︶が、独自の仕方で、ロマン主義思想、ユダヤの遺産、そして ビスマルク時代の社会主義的・アキナズム的伝統を結びつけた﹂ことを指摘し、ランダウアーにおける﹁アナキズム の刻印を帯びたユダヤのメシアニズム﹂と並んで、﹁子供の時代から全くシュヴァーベンの南ドイツ的な農村的・小都 ミリュー ミユスデイカー ︵29︶ 市的環境に根ざした﹃神秘主義者﹄﹂ランダウアーに注目を寄せている。ここには、明らかに、ランの研究の成果が反 映されているということができよう。そして、リンゼがランダウアーにおける﹁﹃神秘主義的﹄社会主義..目遂駐警曾、、 37 ωoNΣδ匿器﹂を語るとき、そこでも、とりわけ、﹁ロマン主義の遺産﹂としての﹁神秘主義﹂が大きく意識されてい ー ︹30︶ たと考えられるのである。 この関連で注目されるのは、ランダウアーが﹃懐疑と神秘主義﹄︵一九〇三年︶の中で自らの﹁﹃政治的﹄存在﹂の 根本にかかわる次のような指摘を行なっている、というリンゼの指摘であろう。すなわち、﹁ロマン主義の﹃神秘主義 スケプテイカ 者たち﹄﹂と一八三〇年及び一八四八年の革命が、﹁懐疑主義者﹂カントと因果関係に立っているのとまさに同様に、 ︵31︶ マゥトナーのラディカルな否定の仕事もまた、﹁新しい神秘主義と新しい強力な行動への開拓者﹂となるであろう、 と。しかし、リンゼでは、この指摘からもうかがわれるように、まさに、﹁神秘主義者﹂で﹁革命家﹂、﹁内向家﹂で ﹁﹃ラディカル﹄な行動者﹂たる﹁﹃神秘主義的﹄社会主義者﹂ランダウアー、そしてとりわけ、大戦中から革命期に かけて、﹁あらゆる人々に内在する﹃神秘主義的﹄な精神を基盤とした、ドイツの精神的刷新αQΦ一ω江αq①国ヨ窪臼弩σQ﹂、 ﹁社会の浄化菊Φ巨αQ§σq畠90Φ。.亀。.。訂︷己を強く求めた﹁革命的な精神﹂︵序文表題︶としてのランダウアーが最も重 ︵32︶ 、、 視されているのであり、そこには、﹁ロマン主義的社会主義者﹂ランダウアーの﹁知的伝記﹂︵傍点、三宅︶を描き出 すことを課題としたランとの微妙な、しかし重要な差異を認めることができるように思われる。そして、リンゼが、 労働者の﹁自覚的、自立的な自発的行動﹂を通じるその﹁精神的再生σq①算黄①芝δ牙おΦσ霞什﹂という、一八九五年当 ︵33︶ 時のランダウァーの﹁意識革命ゆ①≦匡聾㎝虫器呂く9葺δ⇒﹂のプログラムを重視するのも、こうしたランダウアー観と深 くかかわるものというべきであろう。リンゼは、ランのいう、﹁実際の生活﹂と﹁知的発展﹂の双方を貫く、﹁革命的 な精神﹂としてのランダウアーに注目しているということができよう。 ライデン ウムケ ア ロイテルング ところで、リンゼは、﹁苦難と回心の﹃神秘主義的﹄な経験﹂と記すその一方で、﹁苦難を純化と内的な回心へと転 換させようとする﹂ランダウアーの思想の源泉を、﹁ユダヤの伝統、わけても、現在の恐ろしい事態が頂点に達する ︵34V ことに将来の救済の確実な到来を期待した黙示録にあらわれたそれ﹂に求めており、そこから、ランダウアーの思想 を、﹁アナキズムの刻印を帯びたユダヤのメシアニズム﹂とも表現したのであった。この、黙示録にあらわれた﹁ユ ダヤの伝統﹂ないし﹁ユダヤのメシプニズム﹂と、﹁ロマン主義の遺産﹂ともされる﹁神秘主義﹂とがどのような関係 に立つのかは、しかし、リンゼの叙述では必ずしも明確にされていない。そしてこの点で、アルテンホーファーの研 究が、﹁キリスト教的神秘主義﹂とともに﹁ユダヤの神秘主義﹂ハシディズムに注目し、かつこの後者について、﹁預 言者や黙示録の作者たちが告知した、包括的な、人間の内部と世界とをとらえる革命の思想﹂の再生であったことを 指摘していることは、この問題に﹁ユダヤの伝統﹂の側から光を投げかけるものであった、ということができよう。 ︵35︶ これに対して、リンゼの最近作﹃はだしの予言者たち−一九二〇年代の救世主たちー﹄︵一九八三年︶は、ドイ ツ史における﹁メシアニズム﹂、﹁黙示録的革命巷o犀巴巻冴。﹃Φヵ①︿oξけδ昌﹂の伝統に注目し、ランダウアーをもその重 138 要な一環として位置づけたものとして、この聞題にドイツの伝統の側から新しい光を投げかけることとなっ︵煙。 イツの危機における予言者﹂、﹁インフレ聖者ぎ津けδ冨冨旨σQΦ﹂たちをさすが、リンゼによれば、彼らにおける﹁政治と ここで﹁はだしの予言者たち﹂とは、敗戦と革命後の混沌の時代に籏生した宗教的・革命的な﹁救世主﹂たちー﹁ド ︹37︶ 宗教との融合﹂は、﹁世界大戦とドイツ十一月革命がドイッに解き放った強力な宗教的期待﹂なしには理解されえない ものであった。すなわち、第一次大戦の勃発自体、﹁聖なる祝祭﹂であり、﹁日常生活のルーティンからの、意味を失 なった現実のさえなさ、みじめさからの脱路﹂−﹁一九一四年のドイツ黙示録O⑦葺。・。冨>boパ巴巻ω①一㊤置﹂であっ た。こうして戦争は﹁聖化﹂されることとなったが、反戦派も﹁政治の脱聖化﹂をめざすことなく、﹁政治的・経済的 革命﹂としてのドイッ革命もまた、グスタフ・ランダゥアーやクルト・アイスナーら教養市民層的社会主義者によっ て、﹁﹃一九一四年の理想﹄の直接の継続﹂において、﹁魂の刷新と精神の昂揚ω①Φげ器5①信①歪口αq爆巳OΦδけΦ。・①浮①ぴ8σq﹂ という意味を与えられた、とリンゼは指摘するのである。 ー ︵38︶ 39 ポリテイ ク レアル しかも、リンゼによれば、すでに一九世紀において、一八四八年の挫折した革命は、ドイツの教養市民層に、﹁現実 政治﹂への方向転換のみならず、﹁黙示録的な救済への希望﹂をも解き放ったのであり、この希望は結局は、新設の 国民国家の﹁ライヒ理念﹂へと流れ込み、そしてこの理念が、ヴィルヘルムニ世の世界大の帝国主義の時代に、﹁世 界の救済乏霧①ま§σq﹂の観念︵﹁ドイツの本質に触れることによって世界は立ち直ることとなるのだ﹂︶と結びつき、 ︵39︶ ついには大戦の勃発とともに社会的な支配力をかちうるにいたったのであった。そして、こうした﹁黙示録的な革命 の連続性﹂という歴史的文脈の中に、﹁行為する理想主義日象山α①⇔房ヨ匿﹂と﹁救世主的指導者性日①ωω置巳ω筈①。。閃口7 お肖εヨ﹂を特質とする﹁はだしの予言者たち﹂が、そして、多くの点でその一変種とされ、やがて﹁ドイツの救世主 曇ω゜膏蕃ω星として一董することになるヒトラーもまた・位置するものとされるのであ.砲・ ここで想起されるのは、 一八四八年革命の激動期に突如として登場したといわれる﹁民衆的な神秘主義﹂であろ う。ドイツにおける歴史的民俗学の創始者とされるヴィルヘルム・ハインリヒ・リールの小論﹁革命の民衆的神秘主 義﹂︵一八五〇年執筆︶によれば、それは、黙示録を近づく世界の没落に関連づけて解釈したり、民衆の口を通して 政治的な未来を予言したりなどする、実に様々な﹁政治的また宗教的・神秘主義的な予言の小冊子﹂の数々に現れ た、﹁ある時はより宗教的な、またある時はより政治的な﹂﹁民衆の迷信﹂であり、人々は、世界的な出来事の予測し がたい成り行きを前にして、自分たち自身の間から出現した予言者たち、流しの芸人ベルンハルト、ブリュッゲの日 傭い女ヘレーネ、アイヒシュテッテンめ小間物屋クンツ、羊飼いヤスパルスなどの予言の中に、教養層の異質な思考 ︵41︶ 世界の所産たる書物や新聞によりも、より深い真実を見出したのであった。そして彼らが、革命と戦争 とりわけ ハンガリー戦争−の激動の中で、﹁最後の大決戦とそれに続くべき黄金の時代﹂という、新たによみがえった古来 ︹42︶ の伝説に向った時、しばしば﹁革命とその最終的勝利への運命的な信仰﹂が生じた、という。こうして、リールによ れば、これらの予言は、下層の人々の間で革命の一箇の推進力を構成したのであり、﹁それは、文化史的事実であっ ︵43︶ たが故に、政治的事実であった﹂のである。リンゼは、 一九∼二〇世紀における﹁黙示録的革命の連続性﹂を指摘し たさい、一八四八年革命のさ中のこうした﹁民衆的神秘主義﹂には触れていないが、当時現れた数々の﹁予言の小冊 子﹂は、はるかにヴァイマル時代の﹁はだしの予言者たち﹂と遠く連なるものとして、立ち入った検討に値するもの ︵44V のように思われる。 ところで、リールは、これらの﹁予言の小冊子﹂の中には、社会皿民主主義共和国の終局の勝利をうたう、﹁こし らえもの﹂の予言の書も多かったが、﹁歴史的に真正の、真に民衆の口から溢れ出た予言﹂は、ほとんどすべて、周 知の伝説圏の地盤に根ざすものであり、その大部分は、偉大な皇帝ないし英雄が再来し最後の大決戦を行なうとい 140 ︵46︶ う、バルバ・・サ伝説の形式のものであ・た・と指摘して廃・ここには・保守派リールの面目躍袈るものがある が、ここであらためて想起されるのは、若きランダウアーとバルバロッサ伝説との関わりに関する、ランの次のよう な指摘であろう。 るのみならず、バルバロッサとホーエンシュタウフェン朝が西南ドイツ、シュヴァーベン地方に由来することから、 すなわち、ランダウアーは、十五才の時、バルバロッサ伝説ードイツのロマン主義的ナショナリストの心に訴え シュヴァーベン人の特別に好みのテーマでもあったこの伝説にのっとりつつ、ドイツを眼覚めさせ導くべき皇帝への 待望の心を詩にうたい、﹁よき君主をもつ民が、最も美しい自由、最も美しい平等をもつ﹂とうたったが、さらに十 八才の時には、こうしたバルバロッサ崇拝をハインリヒ・ハイネの革命的感情と結びつけ、﹁祖国、ライヒの統一、 141 そして革命﹂を年老いたホーエンシュタウフェン家の皇帝と結合させるエッセイを書いて、ギムナジウムのコンクー ルでフィヒテ箏叱責の・とばとともにーかちえたのであ・.煙・ランは・この中に・独特なたぐいのー﹁反 権威主義的﹂なー﹁ロマン主義的ナショナリズム﹂を見てとっているが、これをリンゼの指摘する、ドイツにおけ る﹁メシアニズム﹂、﹁黙示録的革命﹂の﹁連続性﹂の中におくとき、ランダウアーがこの伝統の中で、彼の生涯を通 してきわめてユニークな位置を占めていることが注目されるのである。そして、ドイツとユダヤの﹁メシアニズム﹂、 また﹁神秘主義﹂、そしてドイツの﹁ロマン主義﹂、さらには﹁アナキズム﹂の、 ランダウアーにおける独自の交錯 は、これら諸伝統自体相互の交錯の問題を含めて、いっそうの検討が要請されているというべきであ臥狸。 ルース・リンク凹サリンジャー︵ハイマン︶は、前掲書の中で、ランダウアーを、﹁ポピュリスト・ユートピアン 三 ︵49︶ ℃◎℃巳聾三〇営き﹂と規定している。そのさい彼女が、クロポトキンを通してランダウアーがロシア・ナロードニキの ﹁経験﹂を受容したことと並んで重視したのは、ランダウアーが早くから オイゲン・デューリング国qσq①口Oμ7 ヘ ヘ ヘ へ ︻ぎσq︵一QOQQ蝕W∼h㊤卜0一︶、及びその信奉者で、一八九〇年代初頭のくユンゲンVの運動におけるランダウアーの師かつ僚友 であったベネディクト・フリートレンダioコ9①爵ぎ甲国邸巳臼、また﹃自由な土地甲①旨巳﹄︵一八九〇年︶の著者 テーオドーア・ヘルツカ日ゴ8伍。﹃寓①﹃欝訂︵一co心α∼一ΦbQ心︶などの考えの多くを受け継ぎつつ ﹁共同体的なジードル ング﹂や﹁田園都市﹂に関心を示していた、という同時代入マクス・ネットラウζ爲ZΦ巳pβ︵一G。歌∼一霧O︶の指摘、 また、同じく同時代人のアウグスティーン・スーシーによる﹁コムナリスト﹂という規定であり、そして、 一九一九 年三月当時、パレスティナの地に、﹁自由意志を重んじ、かつ相互扶助的な、﹃自由な﹄社会を建設しようとする﹂、 ヘ へ ドイツの社会主義的シオニストたちの﹁ユートピア﹂に、最も示唆的な﹁青写真﹂を提示することがランダウアーに ︵50︶ 期待されていたー1と考えられる こと、総じて、同時代人のこうしたランダウアー観であった。 ており、ここでも、ランダウアーの思想の生涯にわたるコ貫性﹂が強くおし出されているといえよう。しかし、 ここには、ランダウアーの﹁知的発展﹂︵傍点、三宅︶に重点をおいたランの認識に対する一定の批判がこめられ ︹51︶ ︿ユンゲンV時代のランダウアーに対するデューリング以下の影響、そして、彼が当時すでに、のちの﹁フェルキッ ︵52︶ シュでロマン主義的な社会思想﹂の諸要素を吸収していたことは、ランもまた指摘するところであり、ロシアのナロ ードニキとランダウアーとの思想的共通性についても、ランはすでに、﹁共同体主義的﹂ということばを用いつつ、次 のような指摘を行なっていた。すなわち、ランダウアーとロシアのポピュリスト︵Uナロードニキ︶たちとは、とも に、﹁農民の共同体的伝統に由来し、都市的・資本主義的工業主義の段階を拒否ないし迂回する、協同的・共同体主 コ ミ ユ ナル 義的社会主義。o。需鑓けぞρ8ヨヨβ巳け壁きし。。9巴一ω3﹂を望み、しかもこの﹁急進民主主義的共同体主義﹂は、両者に 142 おいて、それぞれの﹁民︵民族︶<o貯曾のユニークな使命への信念﹂と結びついていた、と。そして、ランは、ラン ダウアーが、﹁民衆の文化b。℃巳費。ロHεお、農民及び職人の世界への信念﹂という﹁ポピュリストの信念﹂を、ドイツ におけるフェルキッシュな伝統と共有しつつも、彼においては、フェルキッシュな右翼とは異なって、ーそしてロ シアのポピュリストと共通にー﹁地域の自律及び農民の共同体的伝統の維持の目的が、民衆の草の根レベルでの自 治を確保する・とにあ・た﹂ことを重視するので菱・ 臣民たち﹄︵一九八一年︶の、また、農民の﹁歴史的−家父長的共産主義三ω8蔚筈・窟鼠碧。ぽ巴ω畠臼囚。ヨヨ巨一ω目話﹂ ここで想起されるのは、ドイッにおける﹁共同体主義囚o日岩§鋤房目霧﹂に関するペーター・ブリックレ﹃ドイッの に関するリールの指摘であろう。ブリックレは、およそ=二〇〇年から一八〇〇年にいたるドイツ史は、これを﹁下 から﹂見るとき、これまでの、﹁お上﹂に屈従する﹁臣民﹂の像とは異なり、﹁臣民﹂︵﹁家父長たち﹂︶の、ゲマインデ を﹁制度的枠組﹂とした、﹁相対的.機能的な自由、自己責任の労働︵農民的ないし手工業的・営業的な家族経営の 形態における︶、及び政治的讃﹂を特徴とする﹁共同笙義﹂の時代であ・た・と指摘菱・そして・=ハ世紀半ば までは、スイスの誓約同盟から二五二五年の革命﹂︵ドイツ農民戦争︶にいたるまで、﹁ゲマインデの原理といくつ かのゲマインデの結集の上に国家をうち建てようとする﹂﹁共同体的・連合的モデル﹂器ぎヨ日巨巴1σ言岳・・筈ΦζO号=﹂ の試みがくり返しなされたことーそのさい、農民戦争に際してこのモデルが最も顕著に認められたのは、シュヴァ ーベン、フランケン、上ラインの諸地方であったi、また、一五五〇年以降の﹁共同体主義﹂の﹁下降局面﹂でも、 ドイッの西部では、ゲマインデの領域への介入は東部でよりはるかに少なく、とりわけ、ヴュルテンベルクでは、共 同体原理がラントシ・タ・トシ・フトを通して維持されえたことに注目するので艶・ 他方、リ!ルは、彼が﹁革命の民衆的神秘主義﹂に注目した一八四八年の革命とかかわって、主著﹃市民社会﹄ 143 ェ五一年︶の中で、次のような指摘を行なっている。すなわち、ゲマインデは、かつて、共有財産を曲豆かにもっ ており、﹁ゲマインデのあらゆる成員の、森や放牧地等に対する同等の権利は、 一種の歴史的阻家父長的共産主義で あった。﹂しかし、 この﹁家父長的共産主義﹂の解体にともなって、無数の小農民がプロレタリァートの階級におち こんでいき、盗伐や密猟、畑荒しが頻発することになった。そして、現代の運動 一八四八年の革命 の中で、 こうしたプロレタリアのみならず、裕福な農民もまた、彼らの﹁幻想﹂の中に息づく﹁黄金時代﹂を想起し、国有林 フアンタジ がゲマインデの用益のために分配されること、総じて、自由な︵ただの︶森や放牧地、さらにはちょっとしたお金 が、再び個々人に分配されることへの期待に幻惑されたのであった。そして、実さいに、革命の当初、ドイツ西部の 諸邦では、農民たちが、獣を力の限り狩り、木を好きなように伐り、またあらゆる貢租をさしあたり自分の手もとに とりわけ ラインガウと並んで 西南ドイツ諸邦で発展を遂げたものであったことを指摘している。こうしたブ とどめた、掘酬そしてリールは、﹃土地と人々﹄︵一八五三年︶の中で、そもそもこうした﹁祖先の共産主義﹂自体、 ︵57︶ リックレ、またリールの指摘を考え合わせるとき、ヴュルテンベルクのシュヴァ1ベン地方を精神的故郷とするラン ダウアーの﹁急進民主主義的土ハ同体主義﹂、﹁協同的・共同体主義的社会主義﹂の根が、遠く歴史をさかのぼるもので あったことを知るのである。ランダウアーは一九一三年一月の一書簡の中で、自分のことを、﹁少なくとも三重のナ ショナリストードイツ人として、南ドイツ人として、そしてユダヤ人として﹂と規定しているが、この﹁南ドイツ 人﹂としての自覚の重要な背景をなしたと考えられる﹁南ドイツ的な農村的・小都市的環境﹂︵ラン/リンゼ︶も、 ︵58︶ こうした﹁土ハ同体主義﹂の伝統を含めて理解さるべきものといえよう。 ランダウアーにおける﹁伝統﹂と﹁地域﹂の問題としては、さらに、リンゼの次の指摘が問題となろう。すなわ ち、彼は、一九一九年から二〇年にかけて﹁インフレ聖者たちの新しい教えがドイツに光を放射する中心点﹂となっ 144 (一 たヴュルテンベルクが、かつてドイツ敬慶主義の中心地であり、その伝統が﹁インフレ聖者﹂たちの登場と活躍の重要 な背景をなしていたことを明らかにしているのである。しかし、この点では、﹁インフレ聖者﹂たちのもう一つの中心 地となったテユーリンゲン︵とザクセン︶が﹁メシアニズムの伝統の中心地﹂であり、敬慶主義の地でもあったとい ︵59︶ ゲン、ザクセンを経てボヘミアの森へと連なる ﹁中部︵中位︶山地﹂の地域性が問題となるようにも思われる。 ︵60︶ うリンゼの指摘を考えるとき、﹁南ドイツ﹂というよりも、リールのいう1西南ドイツからフランケン、テユーリン ミツテルゲビルゲ こうして、ランダウアーにおける﹁伝統﹂の問題は、﹁ユダヤの遺産﹂と﹁ドイツ・ロマン主義の遺産﹂の問題を越 えて、さらにひろがっていかざるをえない問題であった。そして、これらの諸﹁伝統﹂は、ランダウアーにおいて、 ︵61︶ 1相互に、そしてロシア等他地域の﹁伝統﹂とも、交錯しつつ 、﹁時代状況N①ぎ巳・・鼠巳①﹂︵リンゼ︶の中で再 活性化することとなるのである。︵ちなみに、ランのいう﹁歴史的環境﹂は、﹁時代状況﹂と﹁伝統﹂との相乗として 理解することができるように思われる。︶ 蜘 ミリユ さて、リンク・サリンジャーは、ランダウアーの﹁環境﹂、﹁グスタフ・ランダウアーの世界﹂が、﹁エキサイティ ングな世紀末の世界﹂であったことに注目するとともに、それが﹁第一次世界大戦に先行する世界﹂でもあったこと に注意を促している。この二つの世界は、単純な継起の関係ではなく、相互に大きく重なり合っているものと考えら ︵62︶ れるが、この表現に従っていえば、ランダウアーの﹁土ハ同体主義的社会主義﹂は、﹁世紀末の世界﹂における模索の 中に胚胎し、﹁第一次世界大戦に先行する世界﹂の中で成熟を遂げた、ということができよう。そのさい、この成熟に ︵63︶ 際してロシアにおける一九〇五年革命が果した役割は、無視しえないものがあると考えられる。そしてランダウアー は、第一次大戦勃発の前夜、この﹁共同体主義的社会主義﹂︵社会主義者が﹁自分たちのゲマインデと連合OΦ目Φ一巳魯 §匹団Oα。話けδ9ロをうち建てること﹂︶を、﹁野蛮で放将な帝国主義﹂の﹁国家政治﹂と﹁民族戦争﹂との展望に対置 したのであった。 ︵64︶ しかし、リンク”サリンジャーでは、﹁世紀末の世界﹂以降の﹁一貫性﹂が重視されるあまり、﹁第一次世界大戦に 先行する世界﹂、また、いわば﹁大戦と革命の世界﹂が、ランダウアーに提起した新しい問題への関心がきわめて薄 いように思われる。一九=年以降大戦期にかけてのランダウアーの﹁民族問題﹂への注目をあとづけたランの研究 は、この点でも高い水準を示すものというべきであろう。そして彼が、ランダウアーの思想を﹁共同体主義的社会主 義﹂とも呼びつつ、総じて、﹁ロマン主義的社会主義﹂と規定したのも、ランダゥアーの民族観における初期ロマン 主義の遺産の継承を彼が重視したことと、深くかかわるもののように思われるのである。 リンゼは、この﹁ロマン主義的社会主義﹂という規定に対して、次のような批判を加えている。こうした規定は、 ランダウアーの﹁ライヒの工業化﹂に対する関係が単に﹁後向きの防衛﹂の態度ではなく、﹁彼が工業化と民主化と を結びつけることの必要性を認識し、そして、ドイツ社会民主党のカウツキー的精神に発するものとちがった、それ ︵65︶ への社会主義的な解決を探求した﹂ことを看過するものである、と。この批判の当否は一応おくとして、ランダウア ︵66︶ 1が﹁進んだテクノロジーに反対ではなかった﹂こと自体は、ランも指摘しているところであった。そして、ここで はむしろ、リンゼのこの指摘とも関連しつつ、革命期のランダウアーの﹁共同体主義的社会主義﹂に関するランの次 の指摘に注目しておきたいと思う。すなわちー ランダウアーのレーテ思想は、﹁ドイツにおける権威の連邦主義的分権化の計画と結びついた、下からの参加民主 主義冨﹃曹6舞○蔓号白09⇔畠﹂にもとつくものであった。そして、﹁ミュンヒェンのプロレタリァの多くの者が革命の 経過の中で農村に立ちもどることの可能性をランダゥアーが構想していた﹂ことに示されるように、﹁ランダゥアー のレーテ運動観の中では、世紀の交以降のほとんどすべての彼の思想と行動におけると同様に、アナキズム的社会主 146 義とフェルキッシュな反都市主義とが結合していたのである。﹂しかし、コ九一九年三月までには、ランダウアーは、 都市的現実霞びき箕Φω①馨と部分的に妥協することをいとわなくなり、もはや大都市の大規模な人口削減を求めなく なっていた。戦後のミュンヒェンにおける急進化した都市プロレタリァートにさらされる中で、彼は今や、小都市及 び農村の生活に疑いなく依然として根ざした、しかし、分権化された都市の諸街区色①。窪胃巴幕伍霞げきo①一σq﹃げo筈o。αω の内部で統合的な地域共同体生活営巴8日ヨ§凶蔓年Φを実現しようとする試みをも含むような、土ハ同体主義的で ︵67︶ フェルキッシュなアナキズムの構想を進んで定式化しようとするにいたった﹂、と。 ランは、こうして、ランダウアーが、急進的な工業労働者の強い印象のもとに、﹁フェルキッシュなアナキズムの 都市社会への適用可能性﹂について考え始め、﹁近代都市のただ中での街区社会主義器お暮o跨。。伍ω。畠冨ω日の構想﹂ を定式化し始めたことに注目し、そこに﹁近代社会へのアナキストのよりプラグマティックなアプローチ﹂を認める のである。 ︵馨 柳 ランによるこの史料解釈が妥当か否かは、なお検討の余地があるように思われる。しかし、ここに提示されてい る、 ︵大︶都市及び工業労働者の現実とランダウアーがどのように切り結んでいったかという問題は、きわめて重 要な問題提起ということができよう。そもそも、ランダウアーのレーテ思想自体、その原理が最も明確な形をとっ たのは、一九二年の第二次モロッコ危機に際する、反戦の大衆ストライキに向けた﹁自由な労働者大会血臼沖Φδ ほかないという、彼の現実認識があったのである。︵なお、第一大戦前におけるランダウアーのレーテ思想ーもとよ ﹀告舞①︻$αq﹂開催の呼びかけの中においてであったが、そこには、﹁大衆行動が問題となる時には﹂労働者に訴える ︵69︶ あろう。ただし、﹁大衆行動が⋮⋮﹂うんぬんへの言及は見られない。︶リンゼは、﹃はだしの予言者たち﹄の中で、 り﹁レーテ﹂という名はなお用いられていないけれどもーに的確な叙述を与えているのは、リンゼの第一の著作で ︵70︶ ﹁インフレ聖者﹂たちの中心地について、﹁千年王国主義的な宗教性﹂の﹁農業的な背景﹂を指摘するとともに、ハン ブルクやベルリンなどの大都市でもその教えがーー危機的な時代状況のもとでーー﹁工業化以前のメンタリティーに 固執する、ないし、すでに獲得した︿近代的﹀態度を再び放棄した﹂層を中心に影響を与えていったことに注目した が、リンゼがそのさい、﹁﹃インフレ聖者たち﹄は、その千年王国主義的な教義を近代化し適応させていかざるをえな かった﹂としていることは、ランダウアーを理解する上でも考慮さるべきことといえよう。 ︵71︶ ﹁世紀末﹂から﹁大戦と革命﹂の時代にかけてのランダウアーの模索は、 一九一九年五月二日、バイエルン・レー テ共和国を倒した白軍の手で暴力的に閉じられることとなった。こうしていわば﹁未完のランダウアー﹂としてこの 世を去ったランダウアーの、生涯にわたる模索のあとをたどることは、彼が﹁時代状況﹂のただ中にあって、様々の ﹁伝統﹂の交点を生きただけに、この時代にさまざまな示唆を投げかけるもののように思われるのである。 ︵72︶ ︵4︶ モーラーは、カルツの前掲書について、ランダウアーの社会的著作を論じたものとしつつ、哲学・文芸作品はほとんど全 U㎞圏■器属$江op匿oユゲ芝Φω8ヨq巳くΦ話沖団お①9 礎となったのは、次の博士論文である︵未見︶。包こ、.Oロω鼠くい鋤註窪霞鱒﹀ωε音。h出♂い一hΦ雪匹≦。蒔、.讐℃70. ︵3︶ O訂比oωω蜜碧話が9亀貯湘馬§Nミご鳶、§恥さ砺職ミN︾註良§ミ肋§ミ⇔§縣§卜§概§馬、”Uo茸o騨HΦ謡゜本書の基 ︵2︶ 芝o鼠囚巴辞Q§妹§卜§駄§免、、肉ミ蔦ミ旨熱ミミ§匙︾篭ミき蹉♪寓色。。①島①ぎ仁。ヨO﹃コH⑩O刈゜ ルン農村史の︸断面ー﹂︵村瀬興雄先生古稀記念西洋史学研究論叢﹃政治と思想﹄、一九八三年︶。 における国家と農民 ﹂︵﹃駿台史学﹄第四五号、一九七八年︶、同﹁︿アンドレーアス・フェスト﹀の世界 近代バイェ なお、ガンドルファーとトーマについては、参照、三宅立﹁ガンドルファi兄弟事始め 第一次世界大戦前のバイエルン 訂巳窪Φコ因⇔巳Op巳o臥o﹁言傷臼ωo巴山〒二乙いき号゜・ゆqoの。ぼ98伍ΦH恥Φ葺8ゲ9謁o<oξ賦8、、︵ζ窃9ぢ①匿o訂節噸H⑩c。ω︶ ︵1︶ 第一回日米歴史家会議での報告︵一九八三年三月二八日︶。↓9。冨葺ロζ帯o犀ρ ..N註・。9窪い巳≦お↓ゲ。ヨ四口巳〇二ω3く 注 148 く扱っていないと指摘している。ζp霞Φが鱒09 ︵5︶国・°Q。・。い琶p㍗愚︸ミミ9§§§ξ%§馬沁§§ミ象らミ軌§亀Q§牒§卜§叙§§切ミミ聖卜8卜躇馬§ ︵6︶ 奪ミリc。.H卜⊃”日ρ念ω.なお、ランは、こうした方法的観点から、カルツの著作に対し、﹁ランダウアーの知的発展、また、 お刈ω゜ その歴史的環境﹂に関心を払っていず、かつ、重要な彼の﹁民族﹂観を無視している、と批判している。そして、モーラー における﹁知的発展﹂、あるいは、﹁彼の知的伝記の、彼の政治活動や、ヴィルヘルム・ドイッのより広い社会的世界との の著作に対しては、ランダウアーのマウトナー論及び文芸批評の検討は有益であるとしつつ、ランダウア:の一八九〇年代 ︵7︶ 建ミ‘①中‘ω腿象゜彼がそうしたサークルとして挙げているのは、モーリッツ・フォン・エーギディζo葺N<o昌国σq乙団︵H。。幽刈 関係﹂を注意深く研究していないと批判するのである。奪ミ.導置︷°”。。醗炉障G。h 園都市協会O⇔答Φ器9臼ΩΦ器房。討⇔坤﹀、マルティーン・ブーバーζ鷺江昌しdロσ霞︵H。。刈。。∼お①㎝︶らベルリンの﹁シオニス ∼ドc。Φc。︶のサークル、ハルト兄弟国①一冒一。げ口巳冒諏器出霞けを中心とするく新しい共同体Z①ロΦOo日o言ωoゴo坤V、︿田 ト社会主義者たちN一〇巳゜。けω。。芭凶゜・けの﹂、ランダウアー自身の︿社会主義同盟餌臼ω。N配聾一゜。90bd§島V、そして、大戦 49 中、﹃出立UoH>匡げ歪。﹃﹄誌に結集した表現主義の作家やドイッ青年運動の社会主義派、また、デュッセルドルフの劇場 1 ︵8︶ 以上、“ミ郵曽α中”G。心。。°なお、ランは、この点からすれば逆に、ナチスのフェルキッシュなロマン主義を、﹁彼らが、個性 ︿シャウシュピールハウスV等々であった。奪ミ゜”◎Hωo。頃ごb。お中゜︾G。膳①h を奪う官僚制や工業的合理性を、きわめて近代的かつ反ロマン主義的に利用した﹂という文脈で考察することが提起されよ ︵9︶奪ミ゜渇り。。 嵩 中 う、と示唆している。奪ミ‘ω騎゜ ︵10︶ 出①ぎ巳国&貫①5..国ぎ山Φロ$9臼坤oまo潔一8冨婦ωoN芭聾、.冒ぎ”O§蛛ミト§匙§ミ゜き、鷺蹴ミd§ミ磁§αq”O舞準 。・3警9臼引旨∼b。①.﹁発展楽観論﹂以下は、§匙ζb。H.一九四九年十一月に創刊され一九五三年秋まで続いた﹃フライエ. ゲゼルシャフト﹄誌上における﹁連合︵連邦︶主義﹂に関する議論には、いずれもヴァイマル時代にアナルコ・サンディカ ﹀ロoq墓ニロω。9ぽ団︵HGoObo∼H⑩cQ心︶、そしてリューディガーらが参加している。Ω茸8婦しU費審。ド︾嵩ミ罫篤恥§§§b恥ミ逡㌍ リズム運動の中心的活動家であった、ルードルフ・ロッカー幻巳o崔国。舞費︵HoQ刈ω∼ド㊤㎝Qo︶、アウグスティーン.スーシー 冒鵠黛ゆ9H“μ謹㎝∼HO①μ出p。昌づoく魯HO刈b⊃”ド刈bo卑なお、リューディガーについては、出9p°。竃o昌坤o島しU。。ぎ。.しdま嵩。σQH⇔, 音゜・°冨﹃<①曇筈N霞○Φ・。ゲ酵8匹Φ゜・>g§尻暮・鶴巳︾冨穿。あ巻舞⇔ζ・票ωぎuΦ冨。三⇔昌匹、、㌃昌・鳶款、蝕塁偽評 ︵11︶ いq⇒Pω出゜ ︾、富蹄ミ富遷嚇晦ミ旨QqりしdPH°宰き謀ρユ鉾ζ゜H雪ρQ。卜。9 ︵12︶ 奪ミ‘Hω. ︵14︶9奪ミこωρω㎝曽幽c。圃①。。旧謡h‘謡﹄O累こ目O° ︵13︶ 奪ミ‘日Qo中 ︵15︶ 奪ミ‘置. ︵16︶ 奪ミ”詰軽典嶺ρド謡゜ランは、﹁人類と宇宙が個人の魂の中に存する﹂という教義ないし意識としての神秘主義が、ラ ンダウアーのロマン主義的社会主義の多くの側面に現れていると指摘している︵奪“翫己 ドbQ蒔︶。そして、ランによれば、﹁世 界の小宇宙としての個人という観念は、個人の自己決定への信念と共同体主義的統合8日ヨ§一$二pp首80Q冨梓一8への信 念とを同時に抱くことを可能にするものであったが、そうした観念は、ドイツにおける初期ロマン主義哲学にありふれたも ㈹ のであった。﹂︵寧ミ‘H課゜︶ ︵17︶ 寧軌“”刈90。H中‘=Oh°℃目㎝中‘這ド中己日b。9 ︵19︶ 奪ミこト◎O“中゜ ︵18︶ 奪ミこト○ωb◎団‘bっ巽中 ・︵20︶ 奪ミ6トっcoO卑 ︵21︶O器鼠く訂巳き①さトミざ、憩母ミ浄獣ミ§§﹄閉αq°β゜①ぎσqΦ蛋8けく8国①⋮爲−臼8。げぎ国①旨。﹃P閃Rp口匡二巴け鋤・罫 ︵22︶ いβづPb◎①刈団‘Q。㊤ρ お①メ<o目≦o腎”㎝∼軽9引用は、遠ミ‘b。°。”b。Q。° ︵23︶ 以上、ZoぴΦ盛﹀=o昌げo︷Φさ、、日巳象江o口巴。。力①<oざ江oづ門O窃畠くいp巳窪臼ω、σq①妻o匡①口芝曾山Φづα窃.冒自Φ暮¢ヨ、.・ 幽p騨U⇔く置しd﹃o昌ωΦ⇒︵①島・︶・計竃師葛蕊靴Oミミ額謡匂喬◎§NO。軌O蛛oN㎏恥勲国Φ乙匹ぴ①﹃σqμΦ﹃PH刈㊤炉Hco刈中”ド⑩国なお、ハシデ ィズム、総じてユダヤの神秘主義については、参照、ゲルショム・ショーレム︵山下肇他訳︶﹃ユダヤ神秘主義﹄法政大学出 版会、一九八五年。ちなみに、若きショーレムΩΦ屋げ。ヨω。ゲ。一Φヨ︵Hoo⑩刈∼ド⑩◎ob⊃︶は、第一次大戦下、ランダウアーの諸著 ︵24︶ 菊三プいぎ〒ω⇔財昌σq霞︵国矯日き︶”Q§牒§卜§匙§ミ、孚概oい愚譜、ミ$愚賞H民貯ロ巷o匪日り刈メωど鳶塗 本書のも 作に親しんでいる。ショーレム︵野村修訳﹀﹃わが友ベンヤミン﹄晶文社、一九七八年、エハ、二一、二三頁。 ととなった博士論文は、”仁静ω⇔=昂αqo目国団ヨ餌登、、Oロω$︿門o巳碧臼”Ω霞匿o昌らo≦凶筈℃o喝巳凶陰⇔巳Ooωヨo弓o年9P、.℃﹃ U﹂︶一゜・ω臼3江oP日7Φ0一受q駄く臼゜・一受o︷乞Φ芝くo蒔お胡゜ ︵26V 奪ミ‘ooc。噸 ︵25︶ 奪ミ‘ω目゜ ︵27︶ ご一ユ筈いぎωPO茜§馬鴇馬註ミト謡ミき蹄§§§bミ妹防き§肉匙題ミ臨き建§Nc。譲噂bd9ご亭芝需什お①Pb。。。目h ︵以下、 い言・。9Hと略記︶リンゼは、次のようにも述べている。﹁彼の黙示録的・宗教的使命の中に、ランダウアーは、自分が召 命されていると感じたその公的・政治的活動の核を認めた。精神的及び社会的刷新は彼にとって不可分のものであった。彼 は、彼自ら述べているように、﹃作家﹄と﹃アジテーター﹄との﹃総合﹄であった。﹃彼の人間としての活動の全体は、神秘 ︵28︶ ただし、﹁非合理主義、文化ペシミズム、反資本主義、そして反議会主義が結び合っていた﹂ランダウアーのアナキズムは、 主義的認識の、政治的・社会的現実のレベルにおける実践であった。﹄︵ヴィルヘルム・ミーヘル︶﹂§鉢鳩ミ9 ﹁ドイッにおける、産業革命の諸結果に対するはるかに包括的な精神的潮流の一部としてとらえることができる﹂とは、リン ゼがこの著作の中で指摘するところであり、その点からすれば、ランの﹁ロマン主義的社会主義﹂という規定は、リンゼの ンゼでは、彼のいう﹁ランダウア;の修正主義﹂ー﹁全き社会主義に徐々に接近していく﹃実現の社会主義く霞鼠﹃江凶。7 こうした認識にー﹁ロマン主義﹂の再評価のもとに 積極的な表現を与えたものということもできよう。ちなみに、リ 菖σQ鴇。NΣ一ω日儀。.﹄、﹃運動の社会主義ωoN一⇔一一=■日ロω匹魯ゆo妻ΦOQ口PσQ﹄﹂ の中心をなすとされる﹁ジードルング思想 ω8巳慧oQの乙ΦΦ﹂について、﹁ロマン主義的で、後向き、保守的であった﹂とされている。奪ミ‘卜。c。Oやb。刈Sリンゼによれば、 ﹁新しい土ハ同社会は必然的に実現されるものではない﹂とし、ジードルングで、今、事を始めることを提起したランダウア N陰。。\N玲切霞一首−芝o曾お刈餅り∼ω刈.︵以下、匿器ρ国と略記︶引用は、導ミ゜”Pb。c。° ︵29︶ q三9い一器ρ.、O器鼠くいp乱きoコ∪霞話くo冒氏8跨①ΩΦ聾”、、言”置‘Q§ミ唱卜§翫§馬、§氏ミ恥勘§oNミ“§養臨臥 ーは、﹁ドイツのアナキストの中の最大の修正主義者﹂であった。寧ミ‘b。♂h 151 ︵30︶ 奪“SH8b。。。巳なお、リンゼは、神秘主義を、﹁人間自身の内に横たわる世界との同︸化﹂と規定している。奪ミ‘ド。。° ︵31︶ 奪“3H8ただし、ランダウアーの原文では、﹁ロマン主義の﹃神秘主義者たち﹄﹂ではなく単に﹁ロマン主義﹂となって いるつO島$<い雪山窪Φび恥神愚肋帖防§叙さ隔職鋼謬基§︸馬軌§卜蕊防罫ミb縞蕊さミ諏ミ誠魯、§︸瀞注翫蝕しu霞㍑pドΦOq。層 ︵32V =ロ゜。9国゜Hω”H8b⊃噴゜ 課゜[Z窪雲ωαQ⇔げΦ器oゲ傷oHb⊃’﹀島⇔αQo︵溶05H8G。γ≦①巳胃μO﹃o。りG。]. ︵33︶ 奪帖“”baooh ︵34︶ 奪ミ’ubO㎝塗 ︵35︶ ﹀犀窪﹃o胎①がHcoq° ︵36︶ d寓。ゲピぎωρ馳a愚b粛馬、、愚︸ミ§%肉栽魯ミ犠ミN罎§にαqミ§専♪しu臼一一守窯Φ曾お。。ω︵以下、訂器ρ目と略記︶ ︵37︶ 奪馬猟”b。b。ここで、﹁はだしの予言者たち﹂とされる人々を、第一章の概観に続く諸章の目次に沿って挙げておこう。第 グ ル オ バ ダダ ニ章﹁刺激を与えた人々﹂”﹁自然人・導師﹂O¢鴇O感器賊︵HG。お∼お㎝o。︶、︽ダダの長︾陶o冨言窃しu$畠霞︵Hc。蕊∼お田︶、 浪者の王︾O話α頃自O。σQ︵Hco㊤H∼H㊤蔭α︶、﹁世界の転換﹂を説いた日ゲ8住自コδ≦賃︵ド。。⑩b。∼お習︶、︽赤い反動家︾で︽キ 第三章﹁︽マルクスかイエスか?︾ 十一月革命からキリスト革命へ﹂”﹁O益・。曾の使徒﹂≧坤巴U9−巳Φ一︵日c。c。①∼︶、︽放 齪 リスト教革命家︾Ooユω三ロ簿ヨ9弓︵Hoo圃笛∼ドO㎝ω︶、第四章﹁甲δ紆ドげζ琴パ由⇔日げo触曙 ︽テユーリンゲンのメシア︾﹂、 ︵HcoooH∼日Ob⊃刈︶、第七章﹁国器器゜。臼の模倣者・後継者たち﹂”︽民の皇帝く。貯停囚巴゜・禽︾﹁冨目囚巴ωΦ﹃︵日c。。。c。∼μり鳶︶、︽強 第五章﹁ζ⇔×ω警巳No−ωα匡① ︽青年のヨハネ︾﹂︵μQ。Q。刈∼おO刈︶、第六章﹁い巳書σQO芹聾一雪団器口゜・器同−︽精神の君主︾﹂ 度一〇〇%のビール︾いoo⇒げ①置ω3爵︵Hco潟∼︶。 ︵39︶ 奪ミζbっQo° ︵38︶ 奪ミ‘ωOh° ︵40︶ 奪ミ゜りb。c。”ωb。”蔭ρなお本書の冒頭に付されたバーゲン・シュルツェの論文﹁社会の危機と愚者の楽園﹂では、﹁ポロを まとった胱惚の聖者たち﹂とその支持者の群の歴史が一五世紀までさかのぼって、﹁精神の第三帝国﹂の到来を説き、かつ ンラントの︽自由な精神の兄弟たち︾︵自由心霊派︶から、フス派、再洗礼派等を経て、さらに一七世紀末以降の、ドイッ敬慶 ユダヤ人のゲットーに火をつけてまわった修道士Op豆゜・茸雪器、また、乞食をしつつ放浪し、盗みをも許されるとしたライ オロギーの時代﹂とされている。出pσQ雪ω9巳Nρ.、○①。・①房。ゲ鋒畠訂幕琶α2餌旨①呂p冨臼oの..”等ミ゜”Φ∼b。ρ﹁自由心霊派﹂、 主義の流れをくむ﹁放浪の聖者たち﹂へとあとづけられ、一九世紀については、﹁大衆に影響力をもつ、宗教類似の諸イデ また総じて、ヨーロッパ中世における﹁神秘主義﹂、﹁終末論と千年王国説﹂については、参照、樺山紘一﹃ゴシック世界の ︵41︶ 薯一臣①一日国o一霞一号空Φ三”..<o一す一暮目ま冨]≦誘鼠犀傷①﹁”o<o罠二8..”一﹃崔‘卜“謡職袋蕊載卜恥ミ♪ωε洋oQ胃什Hc。窃ρ 思想像﹄岩波書店、一九七六年、一三六頁以下。 α゜﹀島゜H°。Oど合H∼自Oの内、癖OH層きG。u合吟 ︵42︶ ♂帖“”合9 ︵43︶ 寧ミ‘おρ ︵44︶ リールの﹁神秘主義﹂という表現がリンゼのいう﹁神秘主義﹂とどこまで重なり合っているかは、必ずしも明らかでな い。ここでは、リールにおける﹁神秘主義﹂の理解に資すると思われる次の文を、いささか長くなるが、引用しておきたい と思う。彼は、流しの芸人ベルンハルト以下の文章に続けて次のように述べている。 ヘ へ ﹁これもまた一種の解放であった。いたるところで、教養層の間ですら、克服された、ないし迫りつつある政治的・社会 53 1 的闘争の深刻な警告によって、個々人がより宗教的で、より信心深い気持ちになっていることが認められた。そして、民 衆の最も粗野な層は、当初少くとも迷信︵強調、原文︶に冒されやすい気分になっていた。革命は、いわゆる自由教会主 義を破滅させ、これに反して、厳格な教会支配、実践的な信仰や、敬慶主義、神秘主義に広々とした場を開いた。それは ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ とりわけ、庶民にあてはまることであった。革命前の数年間は多分もはやほとんど福音書を読まなかった農民が、革命期 や革命後には黙示録とその社会的・政治的注釈者たちに手をのばした。神秘主義的な基調が彼の現代史観に忍び込んだの である。それはまさに新しい事ではない。それはいつでも、人を震骸させる世界の出来事が人々の心をおののかせるよう な時期には、起こったことであった。こうした時には、すでにしばしば、最後の審判が告知された。⋮⋮不作と物価高の 時期、悪疫、厳冬、奇妙な自然現象が、ほとんどすべての大きな政治的変革に予言的に先行した。そのことは、ーそれ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 以外の歴史のことは多く知らなくとも1農民の知るところなのである。そして農民は、そのことから、自然と歴史との 蔭O蔭h° 間の神秘︵主義︶的な関連を自ら思い描くのである。﹂︵傍点は、とくに断わったものを除き、すべて三宅。︶奪ミ” ︵45︶ 奪ミ‘き。。°なお、バルバロッサ伝説については、参照、阿部謹也﹁偽皇帝伝説覚書﹂︵同﹃歴史と叙述﹄人文書院、一九 八五年、一七四∼二〇一頁︶。 ︵46︶ リールについては、参照、寺田光雄﹁ドイッ三月革命期の思想史的考察 W・H・リールの社会像 ﹂﹃歴史学研究﹄ 第四一七号、︷九七五年、一七∼二七頁、同﹁ドイツ近代化と秩序意識の転換 その構成的枠組 ﹂﹃社会思想史研究﹄ ︵47︶ い口pPbO㎝捗 第一号、一九七七年、﹁二〇∼一四五頁。 ︵48︶ 長尾龍一﹁無政府協和の楽園﹂︵同﹃カール・シュミットの死﹄木鐸社、一九八七年、=∼三四頁︶には、ランダウアー ︵49︶ いぎ〒ωp=コσq①がく層αω゜なお、彼女は、別のところでは、﹁ウトーピッシャー・ポプリストd8嘗ω畠霞勺o℃島゜・ことも呼 についての言及とともに、﹁ユダヤ人のメシア待望﹂の歴史についても言及がある。 んでいる。Oロω8くい雪山9口Φさ肉誌§篭§跨§駄b爵無袋蕊晦゜︾§αq恥電翫ミ譜沁鴨載§ミ醤蹴︾§斜簿魯ゴおσQ°口p畠ヨ箒Φヨo日 2碧ゲ≦〇二く①諺警窪︿8幻ロ昏い冒〒ωp=昌αq曾︵国団3鋤ロ︶”勾話口匡ロコ⇔°ζ.ド箋ρμO卜彼女には、さらに次の仕事がある。 惣晦蕊ミミ、鮫卜O§鳳ミト§駄§ミ§︾象瓢ミミ︽°出ミ冒簿恥專馬、内ミミきぎミ隷§蹴S愚篤鴨︵Nc。爲山゜。塗γ芹超゜ 54 二⇔αヨ搾Φ言霞臼巳9εづσq︿oロヵ自普いぎ〒ω巴ぎαQ臼︵国団旨op︶”両冨昌謀霞けo.竃゜おQo①. 1 ︵50> い言パあ巴5σQΦがω㎝勢㎝卜⊃緊‘①ド中‘蕊h‘c。Φ︾目PHH腿監なお、同時代人によるランダウアー論として最も注目されるも 第六章﹁ランダウアー﹂︵]≦碧江昌しd自げ①ひき職馬§q琳◎驚3寓Φ置巴σ①﹁σqHOOO︶° のの一つは、友人ブーバーの手に成るものであろう。M・ブーバー︵長谷川進訳︶﹃ユートピアの途﹄理想社、一九七二年、 ︵51︶ リンクーサリンジャーによれば、総じて、ランダウアーの﹁成熟した知的発展のヒントのすべては、一八八〇年代及び一 ︵52︶ い¢昌P8中層鳶u這卜⊃h: 八九〇年代の彼の青年時代の文学的創造活動と個人的行動性の中に存在している﹂のであった。奪ミ゜”b。。。° ︵53︶ 奪計bQ♂h ︵55︶ 奪ミ゜︾お中゜”H置中‘HωO中 ︵54︶ 勺①8触bu一8匡9b亀ミ魯詳qミミミ蕊§°肉§葦翫鴨、斡ミき”竃茸o冨口おo。が日Hω゜ ︵56︶ ≦昌ゲ巴日出皿旨凶oゲ零Φ三”bミいミoqミN苛隷O塁ミ、砺きミひωε暮αq翁−婦ミ日口げぎσqΦロ日゜。朝ど罐Po。膳中リールがさらに、こ 没落した農民、また、﹁農民の閉鎖的な団体精神Oo愚。冨梓一8超①一・。直と関連させつつ指摘していることもまた、あわせて銘 れに続けて、﹁南ドイツの多くの農村ゲマインデによって、三月の日々にくりひろげられた恥ずべきユダヤ人迫害﹂をも、 記さるべきことであろう。寧ミ‘OOh ︵57V Hαこト黛篭翫袋誌賊卜鳴ミ♪卜⊃ωQ◎° ︵58︶ ちなみに、ヴュルテンベルク出身のフリートリヒ・リストの構想した行政組織﹁コルポラツィオーン制度﹂も、ゲマイン デを基礎としたものであった。玉野井芳郎﹃エコノミーとエコロジー﹄みすず書房、一九七八年、一四六頁以下。 ︵59︶ 以上、いぎω9目uωメc。b。h‘HO①. ︵60︶ 幻δ匿”卜亀謡蹴寒論駄卜§欝︾障㎝α中 ︵61︶ ご諺P目︾H8° ︵62︶ ご昌犀ーω巴言αq①がω. ︵63︶ 参照、Ω口ω3︿いき畠口㊦いb融肉§。Nミ噺§”閃量時注二勲竃゜お08目㊤︵本書には、国胃q甲。・。ωの序文を付した新版 導ミ叙に、§駐き恥肉ミ。Nミ馬§§賊Q轟§ミq9ミ馬§いbd興ば昌μOOり︵チェルケゾフはロシアのアナキストで、この小冊子 がある・い巨讐Φ﹁誌§ミ§”ゆ①爵−≦婁謹︶・また・≦日゜・°耳翁鼻寒肉藩帖藁§§猟郎ミ§§晦§鵬 は、ランダウアーが彼の機関紙﹃社会主義者﹄に一九〇九年三月十五日号以降四回にわたって訳載したものに彼の後書きそ 8昌ωけO言]H㊤◎oO︶° の他を付したものである。なお﹃社会主義者﹄の復刻版は、bミ曾獣ミ“鼻おOり∼H㊤HμZΦ巳旨。ぎωしu住ρ”<註爲[臣①。ゲ, ︵64︶ 団︵Ωロω3<Upaき霞γ.、H$=Φ⇒””燭ミミ‘しd9目糟旨αQ°ρZ昌ドH︵目.冒嵩H㊤置γo。刈h ︵65︶ 臣塁P目層㊤゜なお、リンゼは、同じ箇所で、カルツの﹁文化社会主義﹂という規定に対しては、﹁ランダウアーが﹃神秘 主義﹄.と社会的ユートピアを結びつけたこと﹂を正しく表現しえていない、という批判を投げかけている。 ︵66︶ いロロPb◎ドcQ° ︵68︶ 奪ミご認ω゜ ︵67︶ 奪ミ.ωOH炉Q。トっド中 ︵69︶ bミき慧ミ“鼻bU9目魑臼αQ°ω輸翼﹁.ミ︵H°ω8ρおコ︶皆Hbo㊤゜ ︵70︶団諺PH”ωαω中゜なお、リンゼによれば、バイエルン革命におけるランダウアー1及びミューザーム国ユ。ず竃自ゴ器日 ︵ド◎o﹃oo∼同㊤ω蔭︶1によるレーテ体制の肯定は、﹁単純に、彼らのラディカリズムの論理的帰結であったのではなく、むしろ、 社会主義同盟によって始められた修正主義の頂点、アナキストにより拒否された議会主義体制への最初の現実的なオールタ ︵71︶ いぎ゜。ρ目讐ω謡゜第二帝制期ドイツのアナキズム運動の﹁社会的構成﹂については、リンゼによる分析がある。それによれ ナティヴであったのである。﹂Nミ亀‘ω㎝ω゜ランダウアーの﹁修正主義﹂については、注28参照。 ば、 ﹁ドイツのアナキズムは、工業労働者層に担われ、大都市のインテリ、ボヘミアンの小さな知的尖端と、大都市に集ま っているルンペンプロレタリアート的存在に対する全く限られた影響力発揮の可能性とをもった、大都市の運動であった。﹂ しかし、ランダウアーを中心に一九〇八年に結成された社会主義同盟の支持者は、ドイツ・アナキスト連盟の場合とは異な へと逃げ込もうとする人々﹂であったと考えられる、と。いぎ゜。ρHり旨ρb。㊤りh り、﹁階級意識をもった工業労働者層﹂ではなく、﹁工業化に直接はさらされていないか、その暗黒面を逃れて前工業的世界 ︵72︶ わが国では、小林政吉﹃ブーバー研究﹄︵創文社、一九七八年︶が、ブーバーに影響を与えた諸思想の一つとして、シオ ニズム、ドイツ神秘主義、ハシディズム等と並んで、﹁ランダウアーの社会主義﹂に一章をあてている。 56 1