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1
斎藤勝郎です。鹿児島の旅日記を書きました。
130523
鹿児島の旅
―歴史をたどる
ゴールデンウィークに薩摩のくにを
旅した。九州新幹線が全面開通したのは
約2年前だったが「みずほ」に乗るのは
初めてである。
明けやらぬ早暁の明石を出て神戸ま
で戻り、新神戸6時13分発の一番列車
に乗った。みずほは新大阪が始発で、停
車駅は一県一駅。
「のぞみ」のスピードには慣れている
はずなのに、この時ほど新幹線ってこん
なに速いのかと感じたことはない。おか
しなものである。
もし万が一、脱線でもしたら一体どう
なる、フェイルセーフは大丈夫か、
神戸須磨浦の春(あきおの水彩)
などとおもいながらも新幹線の技術にわけ
もなく感心してしまった。時速300キロの猛スピードだ。
窓外に流れる景色を見ながら、ここは我がま
ち明石かな、それとも加古川を過ぎたあたりか
と考える間もなく、みずほは相生を過ぎ県境を
越えて驀進していた。わずか20分足らずの間
にである。
日常性にどっぷり浸かって暮らす人間の非日
常への疎さ、無頓着、というより無防備といっ
ていい。
日本開闢の「瑞穂のくに」に行くにはタイム
トンネルを銀河特急で飛ばさなければならない
のだろう。岡山、広島から山口を飛ばして小倉、
博多の次は熊本だった。
右手はるかに島原半島の雲仙岳が見えてきた。
島原の子守唄
♪ おどみゃ島原の
おどみゃ島原の
梨の木育ちよ 何の梨かよ
・・・
・・・
はよ寝ろ泣かんで おろろんばい
鬼の池の久助どんの
連れんこらるばい ♪
2
極貧のなか、娘を「唐ゆきさん」に売らなければ暮らしていけなかっとい
う哀しい島原の子守唄が聴こえてくるようだ。天草の鬼の池に棲む久助どん
は人買いだった。
過酷な年貢に耐えかねた島原半島や天草諸島の農民、商人たちが一揆を起
こした島原の乱はあまりにも有名である。多くは隠れキリシタンだった。
若干18歳のキリシタン・天草四郎を首領に立
て、有明海に臨む廃城(原城)に立てこもった3
万余が残らず圧殺された。江戸幕府草創期の悲劇
である(1637/38)。
皮肉なことに約250年後、反乱は形を変えて
また起きた。南九州一帯が西南戦争の舞台になり
旧薩摩藩士1万3千余を含む3万余が犠牲にな
った。
「征韓論」に敗れた新政府参与・西郷隆盛の下
野(明治 6 年)が引き金になったとはいえ、この
戦争は、廃藩置県(明治 4 年)によって身分や禄
を失った旧士族の反乱だった。起きるべくして起
きたといわれる。
維新ふるさとの道
それにしても征韓論とは何だったのか。
複雑な江戸後期の思想史を紐解いてみたくなる
が、それは旅の終わりに考えるとしよう。
25年ぶりの南九州の旅
南九州の旅は25年ぶりだろうか。勤続30年の特別休暇を利用しての家
族旅行、初めての「フルムーン切符」を手にした旅だった。
湯布院の会社保養所から豊肥線で阿蘇をまわり、鹿児島から指宿まで行っ
たのはおぼえている。
家内は、「指宿の砂風呂はよかったわね~」と
いってくれるが、わたしはコースの細部はほとんど
記憶にない。困ったものだ。
今回は罪ほろぼしの旅にしたいのだが、どうや
ら半分以上は重~い旅になりそうな予感がある。
知覧特攻=暗い昭和史の重しである。
薩摩は大西郷のくに
みずほは熊本を出て44分後の9時44分、
まだ朝のうちに終点・鹿児島中央駅に着いた。
大観覧車がシンボルマークという新駅である。
初日は市内を脚とタクシーでまわった。
西郷隆盛像
3
薩摩は何といっても大西郷のくに。訪ねる先々にあの堂々たる「せごどん」
の雄姿があり、幕末・維新一色に街を染め上げている。
一昨年、高知を訪ねた時のことをおもい出した。NHK大河ドラマのあと
で土佐は「竜馬まつり」で賑わっていたが、薩摩はどうやら勝手が違ってい
る。
維新ふるさとの道公園入口に大久保利通の像が立っている。このあたりは
西郷、大久保、大山巌、東郷平八郎、西郷従道ら下級武士が生まれた加治屋
町という歴史スポットになっている。
維新ふるさと館に入った。幕末維新の群像が入れ代わり立ちかわり大舞台
や袖に現れ、口々に「――どん」「おはん――」「—―ごわす」などとテレビ
ドラマで聞きなれた薩摩弁が飛び交い耳に心地よい。みな実物の倍はありそ
うな大男である。
せごどんの自決、別府晋介の介錯
イギリス公使館軍楽隊長フェントンが
明治3年に東京から薩摩に招聘され「君
が代」を作曲したと、はじめて知った。
生麦事件、薩英戦争のあと、イギリス
と友好関係を築いた薩摩の力量をうかが
わせるエピソードといっていい。
あるいは、フェントンが、
「せごどん、近代国家は National
Anthem をもたなくっちゃ~ね」
と、おべっかをつかったかもしれない。
鶴丸城本丸跡にある鹿児島県歴史資料センター
黎明館には有史以来の県民俗資料が展示、解説さ
れている。
すぐ近くに私学校跡(いまは大きな病院)があ
った。石垣に官軍総攻撃の際の弾痕が至るところ
に見える。西郷が側近たちと作戦会議をしたとい
う城山の洞窟もあった。
明治10年2月、決起した私学校の薩軍は熊本
鎮台(熊本城)に迫ったが、装備において官軍の
火器に及ばず、田原坂の攻防に敗れて総退却した。
戦闘は7か月に及んだ。
庄内南洲会のこと
島津斉彬 座右銘「思無邪」
以下は余談である。わたしの故郷庄内に庄内南洲会という西郷ゆかりの会
がある。
戊申戦争で、会津のように直接官軍と戦闘を交えることなく開城できたの
は西郷の計らいによるとして、その恩義に報いるために南洲会ができた。
今もあり、友人O君の兄が生前に会長をしていた(O家は代々藩医だった)。
4
西南戦争に、徳川親藩だった旧庄内藩2
0万石から相当数の義勇兵が参加したと
いう話がある。しかし、それは間違いだ。
若い藩主・酒井忠篤20歳が南洲翁の人
徳を慕い、自ら藩士50人を引き連れて西
郷の私学校に2年間留学したことが後世、
義勇兵の話になって伝えられたようであ
る。
忠篤は戦争が西郷の本意ではないとい
西郷、作戦会議の洞窟
いう情報を得て、出兵を思いとどまった
ようだ。
島津家別邸、仙巌園
市中心部から西北へ遠く離れた島津家別邸、仙巌園を訪ねた。錦江湾の向
こうに桜島を望む風光明媚な山裾にあった。一時、篤姫が住んだといわれる。
広大な敷地の一角に尚古集成館がある。開明君主、島津斉彬肝いりの藩営
工場兼殖産研究所である。反射炉(製鉄)があり大砲、銃器など兵器のほか
造船、紡績から薩摩焼の研究まで手掛けた。
桜島へ
2日目からはレンタカーを借りた。フェリーで3-4キロの海峡を桜島にわ
たる。桜島は鹿児島の顔である。観光島のコミューターとして10-15分毎
(深夜は30分)に24時間運航している。
島の反対側は大正大噴火で大隅半島と陸続きになっている。神社の大鳥居
が8割かた地に埋もれ、往時の噴火のすさまじさを物語っていた。
桜島大正大噴火で鳥居が埋没
この日、桜島の噴火に遭遇
5
指宿へ
左手に錦江湾を見ながら海岸線を指
宿方面へ南下した。小半島が湾内にせ
り出している。半島の砂州を埋め尽く
すように巨大な石油備蓄基地がのびて
いるのが見える。さながら高層ビル群
だ。
長崎(佐世保だったか)に海中浮遊
(沈潜)備蓄基地があると聞くが、こ
にもあるのだろうか。国家石油備蓄法
で45日分(以上)の備蓄が義務づけ
られているそうだ。
指宿海上ホテルと砂風呂
指宿は南国だった。ソテツが自生す
る摺ケ浜の海辺で砂蒸し風呂を楽しん
だ。
海が美しく、あちこちに島が見える
が、100キロほど南方に種子島や屋久
島が浮かんでいるはずである。
高速フェリーが運航している。
開聞岳と日本最南端の駅、西大山
池田湖から知覧へ
薩摩半島は霧島屋久島火山帯の一部を
なす。池田湖は周囲が絶壁に囲まれたカル
デラ湖で水深233メートル、世界有数の
透明度を誇り2メートルを超す大ウナギ
が棲息しているそうだ。
池田湖の左岸を知覧に向かった。
知覧茶で知られる山あいの茶処は緑一
色の茶畑が広がっている。
池田湖と借景開聞岳
知覧は島津藩の<麓>集落の代表例とい
われる。海映えが明るい台地の一角に武家
屋敷が軒を連ねていた。数百メートルもあ
ろうか。
鎌倉時代の守護大名に遡る島津家は家臣
団を城下町に集中させず、113の外城(麓
=府下)をつくって外城衆中と呼ぶ郷士集団
を住まわせる地方支配をとった。
知覧茶畑と開聞岳
6
外城衆中は普段は農業に従事し、い
ざ鎌倉のとき武士になる。土佐、長宗
我部の一領具足に似ている。
薩摩隼人は競い合って尚武に励ん
だ。それが近世幕末の群像輩出の原動
になったといわれる。
知覧の武家屋敷通り
知覧特攻平和会館
知覧特攻隊のこと。知覧特攻平和会館を訪ねた日は恒例の特攻基地戦没者
慰霊祭が行われる5月3日の憲法記念日と重なった。
構内の神社境内で全国から集まった遺族たちが厳かに祭事を執りおこなっ
ていた。
昭和16年12月、ここに大刀洗陸軍飛行学校
(福岡)の分教所が開設され、翌年1月30日、
あどけない紅顔の第10期少年飛行兵78名が知
覧駅に到着した。訓練は猛烈をきわめたという。
が、飛行学校分教所がわずか3年後に少年兵た
ちを沖縄戦線に向かわせる肉弾特攻基地になろう
とは誰が予想しただろう。歴史は非情である。
会館には1036隊員の遺影が出撃戦死した月
日順に掲示されている。その下には家族知人に遺
した遺書、辞世、絶筆の類が展示されていた。
その数、4500点。
特攻少年兵たち
『 お母さん、不幸者でした。
お許しください。元気で征きます 』
『 野畔の草
召し出されて
見るほどに、涙で目がかすんでくる。
年配の語り部が、ときに遺書や遺品を
かざしつつ切々と語って聴かせる。
涙なしに聴けるものではない。目頭を
拭う者、すすり泣きも聞こえた。
親として、子として、兄弟として、そ
して人間として、わが身に照らせば思い
は一つ。
わたしの10歳上の兄も19歳で旧
満州の野砲隊にとられた。
櫻哉 』
特攻の母・トミさんの富屋食堂
7
驚くなかれ、翌春、フィリピンから両親に宛てた手紙が届いた。制空・制
海権ともにない長途の海域をよくぞ辿りついたことか。
「ルソンは陽光まばゆい、緑いっぱいの別天地です、天国のようです」
と。
しかし終戦まもなく、一片のにべもない戦死を知らせる公報が入った。
「昭和20年1月―日、フィリピン・ルソン島イポの戦において戦死せり」
大学親友Kくんの兄も鹿屋基地か
ら沖縄へ飛び立ち、二度と帰ってく
ることはなかった。
越後の寒村から選ばれて江田島の
海軍兵学校にすすんだ秀才だった。
「おらが村から、未来の提督が出る」
村をあげて提灯行列で送った。
Kくんの目に焼き付いて離れない光
景である。誇らしげに兄を語るその
眼はいつも遠くを見ている。
誰の眼にも敗戦が明らかだったこ
の時期、なんで国家がこんな禁じ手
に走ったのか。上級将校たちは講和を有利に持ちこむためだといったらしい
が、おぞましい言語道断な話ではないか。
出撃前夜の知覧特攻「三角兵舎」
展示特攻機
特攻機が数機展示されていた。戦後回収された残骸もある。
・「疾風」-- 20年1月 フィリッピンで米軍が修復
・「飛燕」 -- 陸軍の名機とうたわれた
9.16mx12m
590km/h
20mm 機関砲 2 門 12.7mm 機関銃 2 挺装備
鹿児島沖海底から引き揚げた
・「零戦」-- 海軍、最も多かった特攻機
・「隼」-- 陸軍、5750 機 零戦の次に多かった
沈寿官窯を訪ねる
来る日も 来る日も
毎日毎日が 今日とかわらない
日は暮るる 日はのぼる
今日は今日 いつの世も同じ
「故郷忘じがたく候」
(司馬遼太郎)
8
知覧を出て薩摩山地の尾根伝いにスカイラインを北上し、伊集院で下りた。
むかし「故郷忘じがたく候」を読んで感銘をうけたことが忘れられず沈寿
官窯を訪ねることにした。
司馬遼太郎は先代の14代沈寿官を訪ね、親しく懇談をしている(1976)。
沈家の先祖は、秀吉の慶長の役で島津義弘により日本に連行された慶尚北
道の陶工名門。
秀吉の二度にわたる朝鮮出兵は別名、焼き物戦争といわれた。西国諸藩(唐
津<有田、伊万里>、黒田、萩など)が争って陶工たちを連行した、いわば文
化略奪の側面をもっていた。
沈家伝世品収蔵庫
沈家伝世品収蔵庫(ミュ
ージアム)を観てまわった。
よく知られる白薩摩は
ひときわ美しい。焼き物の
伝統美であろう。
白薩摩を一つ求めたか
ったが、高価なのでやめに
した。
沈寿官窯 伝世品陳列
征韓論と江戸の思想史
さて、征韓論について。19世紀、列強の植民地攻勢が強まるなか明治新
政府内で沸騰した征韓論は、すでに旧満州で権益を得たロシアの南下を阻止
するための国防論が根底にあるのだろうと思っていた。それはわたしの思い
過ごしのようだった。
征韓論は江戸の思想史の中から生まれた、それもメンツに拘ったものであ
ることを知ったのは意外である。
儒学(朱子学)を支配体制の基礎に置く江戸幕府はかねて朝鮮通信使を受
け入れるなど朝鮮王国と友好関係にあった。江戸後期になった興った国学派
(後期水戸学など)がこれに異を唱え、朝鮮は記紀の昔から大和政権の傘下
にあったとする政治思想が台頭した。尊王攘夷論が勢いづき明治維新へとつ
ながっていく。
新政府は近代国家成立を内外に宣言するとともに、かたくなに半鎖国を続
ける隣国に開国(修好条約)を迫ったが拒否されるという経緯があった。
9
西郷や板垣ら強硬派は国の威
信にかけて朝鮮討つべしとした
が結局、岩倉、大久保、木戸ら内
治優先派によって退けられた。
征韓論はメンツの所産だった
らしい。
西郷は道徳的実践(知行合一)
を重んじる陽明学を信奉したが、
国学派でもあったようだ。
国学(皇国派)は日清、日露戦
争を経て後のち太平洋戦争まで
尾を引くことになるが、その源流
は江戸期の沸騰した思想史の中
に求められるとみていいのでは
ローマの哲人 セネカ(あきおの水彩)
ないか。
近世儒学(朱子学)は幕府の官学であり続けたが、形を変えて現われた古
学(古義学、古文辞学、折衷学など)、国学、果ては神道、仏教、洋学(蘭
学)などとどう系統づけ、説明したらいいのだろうか。
断片的な知識をこの機会に江戸の思想史体系として自分なりに整理してみ
たくなった。難しい作業になるだろうが、別稿でまとめてみる。
* 水彩画は友人、土屋明夫氏の「あきおの水彩画ギャラリー」より。
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斎
藤
勝
郎
674-0057 明石市大久保町高丘 5-1-7
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