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中山道六十九次踏破記録 3日目

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中山道六十九次踏破記録 3日目
3 日目 熊谷 -10.8Km-> 深谷 -10.6Km ->本庄 -7.9Km-> 新町 -5.9Km->倉賀野 -6Km->高崎
熊谷駅スタート
2014 年 9 月 20 日(土)、JR 高崎線熊谷駅をスタート、時刻は午前 7 時、天候は曇り。 熊谷駅前に
は熊谷次郎直実の像があり、墓がある熊谷寺に寄るつもりだったが、標識が全く無く、通りすぎて
しまった。
深谷宿の見返りの松
冬枯れや
深谷宿 9 番目
熊谷から 2 時間程で 9 番目の宿場の深谷に到着する。
宿場の入口に、愛宕神社があり、芭蕉の句碑がある。
次にあるのは「見返りの松」で、これは旧中山道並木
の最後の 1 本。 街道沿いに中学校、小学校、高校と
並び、小学校では万国旗で校庭を飾って運動会の真っ
最中。
芭蕉句碑
世は一色の
風の音
深谷の旧家と JR 深谷駅
本陣は残っていないが、比較的古い建物が多い。 曰くありげな建物があり、掃き掃除をしていた
人に聞いたところ 80 年前に建てた個人の家、許可を得て写真を撮る。 目を引いたのは、煉瓦で
うだつを作った家、ここは煉瓦の産地でもあり、東京駅の赤煉瓦はここの煉瓦を使っており、JR
深谷駅は同じ赤煉瓦を使っているとのことで、深谷駅に寄り道、確かに東京駅と似ている。
普通に漆喰を使ったうだつの旧家もある。
煉瓦うだつの旧家
旧家、個人の家
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漆喰のうだつの旧家
JR 深谷駅
注:うだつ」とは隣家との境界に取り付けられた土造りの
防火壁のことで、これを造るには 相当の費用がかかった
ため、裕福な家しか設けることができなかった。
清心寺とマネキン人形
なんとなく尼寺のような名前の清心寺、因みに近くには「呑龍院」の名の寺もあり、これは破戒坊
主の寺なのではと思ってしまう。 深谷は源平合戦で平忠度(ただのり)を討った岡部六弥太の所領
であり、岡部は平忠度の墓を清心寺に建てた。 忠度は一の谷の戦いで死んだが、その官名は薩摩
守、電車等の無賃乗車を意味する薩摩守の語源となり、現代にその名を残している。
清心寺の平忠度の墓の門
平忠度の墓
深谷のマネキンと
歩道を歩いていると若い女性が目の前に立っていてびっくり、よく見るとマネキン、普通、道には
出さないよなぁ!
深谷宿のはずれに芭蕉の句碑があり、更に百庚申があった。この百庚申は世
情の不安を鎮める為に 100 体の庚申を万延元年に建てたもの、百よりは少ない気もするが。
歩道のマネキン
百庚申
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原中や ものにもつかず 啼く雲雀
芭蕉句碑とマンホール
深谷郊外の岡部の外れの道路脇に芭蕉の句碑があった。
深谷で最初に目についた派手なマンホールは消火栓で、
派手な割には芸の無いデザイン、深谷市の木である椿
の花マンホールの蓋はゴチャゴチャしたデザイン。
深谷郊外の岡部のマンホールの蓋は建物を描いたユニ
ークなもの、ネットで調べると「町内の中宿古代倉庫
群跡がある事に由来する倉庫に米を運んでいる様子を
描いた」とのこと。
深谷の消火栓の蓋
岡部のマンホールの蓋
深谷のマンホールの蓋
本庄宿 10 番目
小山川にかかる滝岡橋を渡り、
稲の実った田圃の中を歩いて行く、
遠くに稲刈り機で稲を刈っている
のが見える。
体調 1m を超える大きな白い鳥が
2 羽いたが、まさか鶴ではないよ
なぁ、やはり白鷺だろうな。
芭蕉句碑
白い鳥
いつまでも本庄宿に着かないので
GPS で確認、道は合っている。
本庄のマンホールの蓋
足元のマンホールの蓋をみて、本庄に到着したことを
知る。このマンホールも魚のデザインで、ネットで調
べると「ムサシトミヨ」で熊谷と同じの埼玉県の天然
記念物。
深谷で歩き回り思いのほか時間がかかってはや 12 時、
昼食は 1 軒だけあった食堂にはいり、うどんとおにぎ
りの定食、800 円也。
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本庄宿の本陣とハニポン
本庄宿の本陣は無いが、その立派な門が残っていて、本陣の大きさを偲ばせる。
色んなところにゆるキャラの「ハニポン」があり、調べたところ、当地では古墳からの埴輪の出土
が多く、ハニワの「ハニ」と本庄の「本(ポン)」と合わせてハニポンとのこと、
「いい加減だなぁ」
と思いつつ、ゆるキャラだからまぁ「有り」かと考える。
本陣の門
ハニポン
安養院の山門
安養院の山門の像
本庄宿の寺、安養院には文人・歌人の句碑・歌碑
が沢山あるとのことで寄り道したが、境内には案
内は無く、余りにも沢山の墓で、しかもお彼岸前
の墓參の人が多く、物見遊山、カメラ片手の格好
では墓參の人に聞くのはためらわれ、結局敷地内
を一回りして出てきてしまった。
句碑、歌碑はともかく
として、山門の左右
2 体の「阿吽 多分」
仁王像の目に迫力が
あった。
金網越しの写真でその
迫力が分かって頂ける
でしょうか?
右側の仁王
左側の仁王
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金鑽神社のクスノキとカヤ
本庄宿の金鑽神社には県の天然記念物の「クスノキ
樹齢 400 年、幹周り 6m 樹高 30m」と「カヤ 樹
齢? 樹高 25m 幹周り 3.5m」がある。
並んでいて大きく、全体は写真に収まらない。
左がカヤ 右がクスノキ
神流川と県境
本庄宿を出て暫く歩くと神流川(かんながわ)があり、
神流川橋を渡ると右側に神流川古戦場跡の碑がある。
神流川の戦いは信長亡き後の、織田側の滝川一益と
北条軍との戦いで、滝川軍は軍勢 16000 人中の戦死
者 3760 名を出す大激戦だったらしい。
神流川古戦場跡の碑を過ぎると「群馬県高崎市」の
標識が見え、行政的には高崎市となり群馬県に到着、
旧中山道としては本庄宿と新町宿の中間地点。
神流川古戦場碑
ここより群馬県
新町宿 11 番目
市街地となり、新町宿に到着、柵の金網の向こう側にカーキ色の車が沢山あり、良く見ると戦車も
あり、奥にはヘリコプターもあってビックリ、自衛隊の基地だった。宿場に自衛隊は似合わない。
傘に おしわけ見たる 柳かな
宿場の入口に八坂神社があり、その前の柳茶屋跡に芭蕉の句碑があった。
新町の自衛隊基地の戦車
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芭蕉句碑
新町宿には目を引くような遺跡はなく、早足で素通り。 宿場のはずれに、新町から見た山の絵が
ある。 そう言えば、朝には遠くに見えた山々が、近くになっている。
山の案内板
北側は見通しが悪いが、西側の山を撮った私の写真と比較して頂きたい。
撮影した西側の山影
薩摩守、電車等の無賃乗車を意味する薩摩守の語源となり、現代にその名を残した。 JR 深谷駅
私の写真の右側が妙義山で、その左側は蓼科や八ヶ岳となる、つまり見えているのは信州の山々、
もうそこまで来たのだ、少し興奮してしまった。
日本スリー
デーマーチ
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マーチと書いてあるので行進曲の記念碑かと思ったらさにあらず、歩け歩け協会の記念碑。
ネットで調べると
昭和 53 年に始まった「ウォーキング」大会です。各コース(50 キロメートル・30 キロメート
ル・20 キロメートル・10 キロメートル・5 キロメートル)を自分の体力にあわせて自由に選び、
3 日間歩きます
とあり、日本最大のウォーキングイベントらしい。
更に、感銘を受けたのは、掲示板に書いてある「日本歩け歩け協会の会長」は友人のご尊父。
もちろん既に鬼籍にはいられているが、こんなところでお目にかかるとは!
倉賀野宿 12 番目
新町から 1 時間程で、倉賀野宿となる。 入口に大きな常夜灯があり、そこに常夜灯と例幣使街道
の掲示板があった。ネットで調べると
「例幣使」とは、朝廷がつかわした、伊勢神宮の神前に捧げ物をもっていく使者のことである。
江戸時代朝廷は、徳川家康の法要のため日光東照宮にも同じように勅使を派遣した。恒例となっ
たこの派遣のため、京から中山道を通り、倉賀野宿より日光に至るまでの道を整備した。復路は
日光道から江戸に入り、東海道を使って帰京した。春の東照宮例祭に合わせ、勅使が通る道のこ
とを「日光例幣使道」とよんだ
つまり、倉賀野は日光例幣使街道の分岐点であり、その
目印としての大きな常夜灯だった。
本陣は残っていないが、黒塗りの立派な脇本陣が残
っている。
更にうだつのある立派な旧家があった。
脇本陣
うだつのある旧家
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倉賀野の常夜灯
倉賀野の高札
元の高札
高札場に高札の現物と、それを大きな
文字で分かりやすく書いたものがあっ
た。 現物は、墨で書かれた文字の黒
色は消え、文字の輪郭が浮かび上がっ
ているが、文字自体が小さい為に読取
は難しい。
新たに書き直したものを見ると一つは
切支丹の宗門改めで、日付の正徳元年
は 1712 年。その高札の最後に書かれ
ている「越前」が気になり調べた。
TV で活躍している大岡越前守が江戸
町奉行に就任したのは正徳 2 年、それまでは山田奉行(伊勢)なので、残念ながら大岡忠相の越前で
はなかった。 もう一つの高札の慶応 4 年は 1868 年であり、明治元年でもある。
徳川の世ではなくなり、新しい為政のトップである太政官が改めて道徳を示したものか。
切支丹宗門改めの高札
道徳の高札
倉賀野を過ぎたのは午後 5 時で日没直前、目的地である高崎まで 6Km、明るい内に到着しようと
トップギアで歩き、高崎宿はすっとばして高崎駅に到着したのは 6 時ちょうど、空はまだ明るさが
残っていた。 本日の歩数は約 7.2 万歩、距離は約 50Km。
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