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この世の賢い者には隠して幼子たちに現された

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この世の賢い者には隠して幼子たちに現された
主日集会 2016.12.4
この世の賢い者には隠して幼子たちに現された
ちのような者に現して下さった。その事がイエスにとってまことに喜ばしいことであった。イエスがこの世にお出で
になったのは、そういう者たちを集めるためだった。
ルカ福音書10:21-24
ユダヤ社会においては、知恵ある者・賢い者と言えば、律法学者・あるいは律法の専門家であるところのパリサイ
人、また祭司たち・宗教の専門家たちである。彼らは自らを賢い者と考えていた。そして律法に対して不熱心な・無
知な者たちを、自分たちからはっきり区別していた。
10:21 ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる
父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに
現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
10:22 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、
父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定
めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。
」
10:23 それからイエスは、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた。「あなたがたの見ているこ
とを見る目は幸いです。
10:24 あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願
ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、
聞けなかったのです。」
【祈りながら考えよう】
(1)21節の「幼子たち」とはどういう特徴を持った者たちですか。
(2)この世の賢い者に何が「覆い」となって隠されているのですか。
(3)キリストは「神のかたち」「完全な神の現れ」であるとはどういうことですか。
【解
説】
(1)「幼子たち」とはどういう者ですか
「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる 父よ。あなたを
ほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そう
です、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されていま
す。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父
を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」
①幼子の特徴-1
「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイ
エスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
」(使徒の働き4:13)
「幼子たち」と言われている弟子たちの中に、当時の指導者層であった祭司や律法学者はいなかった。むしろ無学
で、特に宗教家でない人々で、取税人や漁師たちであった。
②幼子の特徴-2
「幼子たち」の重要な特徴がある。それは、「素直に神の救いの福音を受け入れることができたこと」である。主
イエスは聖霊による喜びにあふれて、このことについて、父なる神を賛美している。
今日でもそうである。とかく高学歴の人は、信仰を持つことが難しく、たとい信仰を持っても、観念的な信仰や打
算的な信仰になりやすく、一途な信仰を持つ人はまれである。
それに反して、それほど肩書きや学歴に優れたものを持っていない人ほど、純真な信仰を持ちやすい。どうも教養
や肩書きが邪魔をする。しかし、高学歴や肩書きや財産を持っていたら、純真な信仰を持てないということではない。
要は主に対する「絶対信頼」である。幼子の「親に対する信頼は絶対的」である。主イエスは弟子たちの父である神
や主イエスに対する信頼が「幼子の親に対する信頼」と同じようであることを喜んでおられる。
(2)神の国はこの世の賢い者にではなく幼子たちに現される(啓示される)
①幼子たちに現して下さるお方
「幼子たちに現してくださいました」
「現す」という言葉は、隠されていたものが、その覆いが除かれてあらわにされる(啓示される)ことを言う。神
はご自身を、この世の知恵のある者や賢い者に隠して、何にも知らない・何にも経験のない・全く小さな弱い幼子た
-1-
しかしイエスのもとに来て、イエスを受け入れることのできた人々は、律法学者たちが愚かとし・小さい者とし、
自分たちと区別していた取税人のたぐい・罪の女のたぐい・律法から縁遠い者と考えられていた者たち。何にも持た
ない者。持つものはただ弱さだけ。自分では歩めない・やっていけない・そういう弱さをになう者たちであった。
②この世の賢い者に何が「覆い」となっているか
神においては全部あらわになっているが、人間の方で自分の知識・知恵・経験・信仰を誇り、そういうものにより
頼んでいる人間の心、そこに「覆い」がある。それが神の真理を見えなくしている。
たとえ知恵があり賢い者であったとしても、それが神の真理を知るには全く空しい出来事だということが本当にわ
かった時、その人は神に対して幼子となる。
神のあるがままをあるがままに、幼子のように受け取る者となる。しかし自分の知恵や賢さにより頼み・自分の経
験・信仰により頼んでいる者は、それによって神を見ようとする。神の言葉を語られていても、わからない。彼らの
持ち物が目を覆って、神の真理をまともに見られない者にしている。
人間の知識・賢さ・あるいは経験はよいもの。しかし、全く世界の違う・次元が違う神の出来事・人間の側から到
底到達できない天の出来事・その天の消息を、どうして人間の経験や少しの知識でつかむことができるのか。
このいっさいの人間の経験・知識・人間の働きを越えた神の側の出来事は、そこで語られている・そこに現れてい
るそのままを、幼子のように受け取る。それ以外に方法はない。主イエスは、「子どものように神の国を受け入れる
者でなければ、決してそこに、入ることはできない」(マルコ10:15)と言われた。
神の言葉は、ただそのままを受け取るべきもの。これしか方法はない。それを人間の知識・賢さ・人間の少しの経
験で判断していこうという時には、それは神の言葉ではなくなってしまう。神の言葉はそこで受け取れはしない。そ
んな事を生涯やっていても、神の言葉は一句も開かれない。隠された出来事として、何も見えない状態にいる。
(4)神のみこころににかなうこと
「父よ。これがみこころにかなったことでした」
さと
もの
この事については、コリント第1の手紙1章18節以下にも記している。パウロもかつては聡き者、あるいは賢い者、
律法において賢くなろうとする者であった。しかし、キリストにあって自分が何にもわからない者、愚かな者である
ことを悟らされた者である。次のようにこの事態を受け取っている。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こ
う書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこに
いるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚
かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵
によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定め
られたのです」(Ⅰコリント1:18-21)
特にこの21節に「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵による」と言われている。人
間が神を知るということは、造られた者が造り主を知るということ。造り主の側からの呼びかけに、そのまま聞い
て、初めて造り主を知ることができる。自分自身が何のために造られた存在か、自分の存在の根源を、目的を知る
ことができる。それ以外に、造られた者が自分の存在を知り、また自分を造られた者を知る手立てはない。
人間は自分の知恵でこれを知ろうとした。そこでいろいろな神々を論じてきた。人間の歴史はその発端から、神
を求める、神を考える歴史であった。人間が他の動物と違った文化する者として歩いてきたその1つの大きな現れは、
この天地宇宙間に何か神秘なもの、神らしきものを求める、考えざるを得ない、そういうことから始まっている。
学者でもいい、知者でもいいが、ひとたび神の真理に向かう時には、ただ幼子の心で単純にそのままに神の声を
聞く、その謙遜な貧しい心、むなしい心にのみ、神ははっきりとそのまま現れて下さるお方である。
(5)単純に神を信頼する
神と人間の関係、造り主と造られた者の関係、これは「ただ信頼するということ」、「信じる」ということ以外に
おいて関係を持つことはできない。神は愛である。神は愛の御心をもってすべてを造られた。中でも人間を神に似
こころかよ
あ
もの
た者として、
「神の愛の 心 通い合う者」として造られた。
しん
その愛の関係をあらわすものは何か。「信」ということにおいてのみ具体的にあらわされる。個人同士信じ合うこ
り がいかんけいあい あ
とができない。信じ合っているようだが、それは表面だけ、利害関係相合う時だけである。少しそこに狂いが生じ
-2-
主日集会 2016.12.4
れば、深刻な疑い、裏の裏の裏の裏まで疑っていかなければおられない。
みんなが幼子のような単純な心に返ったらどうか。単純に神を受け、神を信頼し、お互いを信頼していけたらど
した
おさな ご
こころ
うか。慕わしいのは 幼 子の 心 である。賢くなることではない、もっと単純になることである。
(6)神の公平さ
私たちは幼子の心でイエス・キリストを受け取っていく。そこに永遠を貫く神の栄光を拝し、神のすばらしいみ
わざを拝していくことができる。人間の傾向はこの幼子の心を全く軽蔑し拒絶して、何か少しでも多く物を持とう
と持ち物において人に劣らないようにする。
真の神を知り、神にある幸せを受け取っていくことが人間の賢さや人間の知識によって得られることであるなら、、
神様はなんて不公平なお方か。人間、生まれながらにして知識を求めていこうとしても、学問していこうとしても、
いけない条件の中に生まれてくる子供もいる。ある子供は、経済的に、能力的に、楽々と身に知識をつけることが
できる、そのような頭を持ち、そのような環境に生まれてくる者もいる。
神は公平、愛なるお方。どんな生まれであろうと、無能に生まれてきた者であろうと、どんな環境に生まれてき
た者であろうと、どんな故障を身に負っている者であろうと、人間が神を知る道は、この幼子の道である。何の学
へだ
問もしない人も、最高の学問をした人も、そこに何の隔てもない。
持とうとするようなそんなちっぽけな考えを捨てて、我々アブラハムの子孫たちは、この世界を真に神に導く、救
いに導くために起こされた民族であると、本来の使命をもう一度自覚して、ひたすらに求めるは天の永遠なる来た
るべき神の国であると、そこに望みをおいて、神から与えられているその使命と全能力をあげて、この世界のため
に働くようになったら、どんな事が起こるだろうか。
いずれの日にかその時が来る。パウロはそれを預言している(ロマ11章)。すべての異邦人に福音が広く行き渡っ
た最後の段階において、肝心のユダヤ人たちがイエスを受け入れる時が来る。その時世界の歴史は終わり、新しい
神の国が来る。この世界とは全く別に、新しい永遠の装いにおいて、神の国が来る。その時、私たちキリストを信
じる者たちは復活して、この永遠なる神の国を受け継ぐのである。
(10)信仰は個と個の「ひそかな」関係である
父を現す者は「ひとり子なるキリスト」以外におられない。またその御子が「御自身の心のままに選び・現そうと
された者・幼子の心でキリストを信じた者たち・キリストの弟子たち」だけが真の神を知ることができる。22節に、
「父」と「子」と「キリストを信じる者たち」との一体関係が表されている。この所は、ヨハネ福音書と非常に似通
っている所である。
父とわたしとは1つである。わたしを受け入れる者は父を受け入れる者だと言われている。そしてヨハネ17章に
は、
「父」と「子」の交わりに、
「キリストを信じる者」がみな1つに入れられることが切に願われている。
(7)幼子の心の幸い
神はどんな人にもご自身を現しておられる。すべての人を造られた神の公平な姿である。信仰とはそういう神と
の出会いをなす出来事。それをいつの間にか難しくして、私のような無学な者はとても教会に行ってもわからない、
というような考え方を世の人に起こさせるような教会になってしまった。
幸せな心はこの世的に立派な者になることではない。幼子の心になっていくこと。その方向にこそ私たちの真の
幸せがある。この神がおられるかぎり、この神の支配の中にある限り、他の何をもって喜ぼうとするのか。そんな
必要は何にもない。そして幼子の世界は喜びの多い世界である。大人の世界になればなるほど喜びが少なくなる。
そこに増大していくのは喜びではなく不満である。
大人の心は、こんなすばらしい真理(大きな喜びの出来事)が、ここにあるのに、そんなものをみなけ飛ばして、
全く沙漠を行くごとくである。何にも潤いのない、ただ金儲けと、地位争いと、いわゆる人間の持ち物を比べて、
知識にしろ、金にしろ、地位にしろ、何でも人より多く持ちたいという「欲」で走っている。
キリストは幼子の心を愛される。イエス様は幼子の心のお方である。空の鳥には巣がある、きつねには穴がある。
寝るところをみな持っている。しかしわたしは何もないと言われながら、イエス様は全部をお持ちになっていた。
(8)キリストは「神のかたち」「完全な神の現れ」である
「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知
る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれ
も知る者がありません」(22節)
ここに父と御子の関係がそのまま現されている。この天地の主なる神は、御子イエス・キリストにおいて全部ご自
身を現している。全部をこれに託しておられる。
コロサイ1章15節以降に次のような言葉がある。
だから「キリストを信じる」ということは、この「父と子の永遠の交わり」に「私たち」も加えて頂くこと。そし
てみな1つになって、御霊に結ばれ、1ついのちに結ばれ、愛に結ばれていく。永遠のいのちに結ばれていく関係に
入れられることである。その出来事はどこまでも幼子の心で受け取られる出来事である。
「それからイエスは、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた」(23節。)
そこには弟子たち以外に、群衆がいた。だからこれから言われることは、特に弟子たちだけに向かって言われたこ
とである。「ひそかに」というのは、「ぼそぼそ」と内緒でという意味ではない。個人関係において、
「特に親しい関
係において」ということである。
キリストと私たちとの関係は今でもそうである。一般関係ではない。キリストと結びつく関係は、
「個と個の関係」
である。1対1の関係である。特に、イエスの心に親しくふれる場は、一般の中にいても、「個の心において」イエ
スに向かう。イエスをわが個において受け取るという、そこでイエスと私の関係が具体的に起こっていく。
(11)キリストを見る目の幸いと主を証しする特権
「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。「あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたが
たの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きた
いと願ったのに、聞けなかったのです。」(24節)
今幼子の心の目・イエスを見ている目・神のすべてを現しておられるイエス様を見ているその目・この目にまさる
幸いがあるか。イエスを見る・イエスに聞く・イエスがわかる・イエスを受け取る・そのようにイエスを見る、これ
以上の何を見る目が「幸い」か。それは幼子の目に見える・幼子の心の目に見える・単純に受け取る目に見える。
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子に
あって造られたからです」(コロサイ1:15)
「御子は、見えない神のかたちであり」、ここで「かたち」という言葉で使われている。イエス・キリストは神の
かたちである。神の像、あらわれ、イメージ、ギリシャ語ではエイコーンである。イエスを見ることによって、そ
こに神の姿を見る。神は肉眼では見えないお方・霊なる存在である。しかしその霊なる神の御子が、人の形をとっ
て具体的にこの人間の歴史の中に現れた。ナザレのイエスの姿において、私たちは神の姿を内外ともに見ることが
できる。さらにヘブル人への手紙1章3節に、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり」(ヘブ
ル1:3)と、
「完全な現れ」という言葉がある。これは表現ということ。ギリシャ語カラクテール、神の表現である。
実際の現れである。神はこのイエス・キリストにご自身の姿のすべてを現しておられる。私たちはキリストを見て
神を見る。キリストを見ないで神を見ることはできない。
これこそ「人生における最大の幸せ」である。このような目を私たちが持ち得たこと、そしてキリストを明らかに
見ることができる目とされたこと、これに勝る幸いはない。世の中にはいろいろ欲しいものがあるかも知れないが、
本当に欲しいものといったらこの「イエスを見ること」ではないか。
(9)ただ神を信じるの信仰ではない、イエス・キリストを信じる信仰
②十字架上の贖いや復活を知っている今日の私たち
私たちは「ただ神を信じる」と言わない、「キリストを信じる」という。なぜか。ただ神を信じると言ってもどう
いう神を信じるのか。人間の心に描かれているいろいろな神を神としている。そんな神を信じたところ何になるか。
イスラエル人はなお旧約の信仰に立っている。彼らの祖先は神の真の現れであるイエスキリストを十字架につけ
た。そのままで今日に至っている。彼らはなおも旧約の神を信じている。イエス・キリストを受け入れていない。
彼らが本当の神、主(ヤハウェ)を信じていると言っても、イエス・キリストを受け入れない限り、それは彼らの
勝手に考えている神である。
もし彼らが、イエス・キリストを彼らが本当に受け入れるようになったらどうか。こんな地上に自分たちの国を
今日の私たちも、主イエスの直弟子のようには、主イエスにお目にかかってはいない。それなら、私たちも旧約時
代の人々と同じなのか。
-3-
-4-
①弟子たちが生きていた時代的特権
これは、弟子たちが生きていた時代的特権について言及しておられる。かつての旧約の預言者たち、大預言者たち、
あるいはダビデ、ソロモンのような偉大な王たちも、この出来事を見ようとしたが、見ることができなかった。どん
なに願ったかわからないが見ることはできなかった。預言という形でしか知ることができなかった。
主イエスはここで、
「わたしこそ、旧約の預言者たちが待ち望んだメシヤだ」と主張しておられる。弟子たちは「イ
スラエルの望み」であるお方の奇跡を見、その教えを聞くという特権にあずかったのである。
じき で
し
そうではない、私たちは自分の目で主イエスを見てはいないが、主イエスが成し遂げて下さった十字架上の贖いや
復活を新約聖書を通して知っている。
この時の弟子たちは、まだそのことを実際に見たわけではない。にもかかわらず、彼らが幸いなら、主イエス・キ
リストの十字架上の贖いや復活を知っている今日の私たちは、さらに幸いなのである。
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