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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ) Title Author(s) Citation Issue Date URL J.von Sachsの植物生理学について 池田. 耕 / 井原. 聡 茨城大学教養部紀要(23): 217-226 1991-03 http://hdl.handle.net/10109/9937 Rights このリポジトリに収録されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作権者に帰属 します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。 お問合せ先 茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係 http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html J.von Sachsの植物生理学について 池 田 耕 井 原 聰 1 はじめに J.von Sachs(1832−97)は,ユ9世紀中頃に植物生理学分野の広範囲にわたる実験的研究を行 ったことで知られている1)。 なかでもSachsの研究業績としてもっともよく知られているのは,葉緑体内の澱粉粒が光合成 の生産物であると証明した点であろう2)。この光合成実験が生物学教育によく用いられるため,Sa− chsの教科書の該当部分が紹介されたり3),実験が再検討されたりしてきている4)。 また, S achs が1892年に発表した「生体単位(Energid)」概念を検討し,「生物学的概念が,(Sachsにか かわって)研究者社会の中で生存権を獲得する」条件を考察したもの5}など,生物学史での検討は 少なくない。 さて20世紀の初頭はやくもSachsを歴史的に検討したR. Greenは「近代植物学の父」6}とSa− chsを評した。「近代植物学」の定義そのものにかかわるこの評価は,当該時代の生物学や植物学の 段階の制約の中での評価といわざるを得ないが,形成されつつある「近代植物学」の分野でSachs は極めて高く評価されたものといえよう。 また近年ではA。G.Mortonが「新しい生理学を本格的に開始し,その発展方向を決定した。」7} とも評価している。それによればSachsの水耕法による無機栄養分の研究,顕微鏡使用や化学の発 展を利用しての体系的な研究による光合成の研究,また温度と光と多様な植物機能との関係の研究 は,「それが生みだした新しい知識の豊富さ,明瞭でしっかりと基礎付けられた結論,そして新し く巧みな実験方法の駆使の結果,大きな影響をもたらした。」8)というものであった。 ところで1982年西ドイッでSachsの生誕150周年を記念するシンポジウムが開催された。ここ ではSachsの再検討あるいは再評価なども行われた9)。この時A. Pirsonは, Sachsは単なる科 学者にとどまるばかりか,W。 Pfefferをはじめとした多くの植物学研究者を育てた優れた教育者 と述べた10)。増田芳雄もまたSachsのもとにいた日本人留学生を通しての日本の植物学への影響を 考察しており11),教育者Sachsという側面も大きく評価されている。さらにPirsonはSachsの 研究手法にたちいってその特徴を「彼の実験の取り組みかたはより新しい認識手段のために物理学 の知識,化学の知識を補助手段として用いた」,「微量化学の方法を用いてより明解に」し,「説 得的な証拠を得るために生理学的装置の改良発展を重視した」12)とも述べている。このPirsonの 218 茨城大学教養部紀要(第23号) 見地はBoppの指摘する, Sachsは植物生理学が物理学からも,化学からも独立した科学であるこ とを強調した,というそれに通じている13)。 こうしてみると生物学史上におけるSachsへの言及は決して少ないものではない。小論ではSa− chsのこうした全局面に及ぶ検討はしないが,植物生理学,植物学しいては生物学の「近代化」と 深くかかわる位置にあったと考えられるSachsの研究について検討を加えるのが目的である。この 際,A. Pirsonの指摘するような「物理学の知識,化学の知識を補助手段」とするようなものがSac− hsの研究の特徴であったのかどうか,そもそもSachsが展開した諸実験は「近代植物学」の成立 とどのような関わりをもったものなのかなどを,かれの「実験」に即して検討する。 ll SachsによるSachs以前の植物生理学評価について Sachsは,1875年に植物学の歴史書を執筆している14)。その中で19世紀前半期の植物生理学に ついて次のように総括している。 ① 19世紀の最初の20年間は,植物生理学の発達が自然哲学や,生命力の理論に阻害されたとし ている。例えば,1804年de Saussureが,植物体を構成する炭素は大気中のそれであることを植 物栄養の分野で示していたにもかかわらず,当時炭素の由来を大気中のそれではなく,生命自身に 起源を持っ神秘的物質の「腐植土(Humus)」に求めるという説が優位を占めていたと指摘する15)。 生命力の理論にたいするSachsの態度は「生命力を仮定することは研究を励ます仮定ではなく,す べての知的試みを不必要にする幻想にすぎない。」16)というものであり,生命力の理論とははっき り快をわかっている。 ② 次の20年間は,「生命力の理論に対立して種々の方面から反動が始まった」17)期間としてい る。生命力の理論を否定する有力な研究はなんといっても有機物質の人工合成であったが,Sachs はこれを生命力の理論への「反動」と呼び,まっ先にこれを例示した。ついで,反動の事例として, Dutrochetが植物体内の樹液の運動を浸透作用で説明をしたことや,生命力で説明されていた植 物体の発熱が,酸素呼吸によるとするde Saussure(1822年)の研究があらわれたこと等,を指 摘している18}。 ③ 1840年から1860年の20年間,栄養理論の分野では,植物に含まれる灰分の組成とその成分 の由来が研究されたとし,1840年Boussingaultが窒素分は土壌から得られることを証明した 点を高く評価している。運動理論の分野では,Brifckeがオジギソウの研究(1848年)を,またHo− fmeisterが溢泌の研究(1857年)をおこなっていたことなどを取り上げて価値のある事実が発見 された時期と評価している19)。 Sachsは植物生理学の歴史を上述のように総括したが,しかし植物生理学に固有な歴史段階の評 価は生物学全体の19世紀前半期の展開と関わらせて理解されなくてはなるまい。この視点をSachs に求めるのはいうまでもなく酷なことであろう。 さてSac hsに至る生物学の特徴的な点は,細胞学説が提出され,その発展がみられたことであろ う。っまりR.Brownによる核の命名(1831年), von Mohlによる細胞分裂の観察(1835年)20), そしてSchleiden(1837年)、, Schwannの「細胞説」の提出(1838年)などがそれである21)。 ま 池田・井原:J.von Sachsの植物生理学について 219 た,Ungerによる遊走子の観察22}, Dujardinの細胞内容物の研究, von Mohl, Chonの動物と 植物に共通の要素としての原形質の指摘,そして1861年にはSchultzeによって細胞は核を含む原 形質の塊であると定義されるにいたったのである。いうならば植物のエネルギーと物質代謝がその 基本単位との関わりで論じられる条件が形成されてきた時期でもあった。だからこそ,かつてR。 Greenはこの時期の原形質認識と植物生理学上の接点を次のように強調したのである。動・植物 に共通する原形質を媒介に,動物の呼吸作用のアナロジーから植物の呼吸作用の理解が深まり,昼 に二酸化炭素を吸い夜に酸素を吸う植物の生理的活動が実は炭酸同化作用と呼吸作用の二つの側面 として分離されて認識されるもととなったのである,と23)。 さらにいえばSachsが研究を開始するころまでには, Darwin進化論(1859年)が提出されるが, 生物体とそれが存在する外的環境との間には経時的な相互作用が認められ,生物が時間的にも空間 的にも多様な存在形態をもつことも知られ始めた時代であった。 Ill 1862年の光合成研究 〈1)Sachs以前の「光合成」研究の展開 光合成につらなる研究はSachsによって新たな段階に移ったと言われている。それ以前,この 種の分野ではどのような研究が展開されていたのかを概括しておこう。 1772年J.Priestleyは植物の酸素放出を示した。1779年には,」.Ingenhouszが,その放 出には日光と植物の緑の部分が必要であることをあきらかにした。また同時に植物の非緑色部分が 酸素を吸収することもJ.Inge nhous zは明らかにしていた。さらに緑色部分の酸素放出に二酸化 炭素が必要なことはJ.Senebier(1788年)によって付け加えられた。そしてde Saussureが 1804年に緑色の植物を二酸化炭素を含む大気にさらし,日光を当てると,酸素を放出すること, また同時にそのとき植物体の重量が増加することなどを明らかにしていた。つまりde Saussure までの段階では,緑色植物の同化作用と異化作用である光合成と呼吸は基本的に未分化のまま,植 物体のガス交換の問題として認識されていたのであった。またこのガス交換という見地は炭素源を 大気中の低濃度な二酸化炭素に求めるものであったので,植物が低濃度の大気中の炭素を引き出す 能力を持っているのかどうかが疑われたu)。この疑いはLiebigが植物体内の炭素分が土壌からで はなく大気中から取り入れられることを強調し(1840年),さらに腐植土を用いずに植物を育てる Bossingaultの耕砂法(1851年∼1855年), S ac hs(1860年), Knopの水耕法(1865年)など によってはじめて晴らされた。こうして腐植土説が克服されたのであった25)。 一方,1817年にPelletier, Caventouによりクロロフィルが命名され26 ),1837年にDutro− chetが細胞内に緑の色素粒(クロロフィル)がないと二酸化炭素の吸収が認められないことを示 し,クロロフィルの存在とガス交換を関連づけるにいたっていた27}。1855年にはH. von. Mohlが澱 粉粒は葉緑体の内部に,通常含有されていること,そして澱粉粒が葉緑体内で二次的に発生をする ことなどを指摘するに至っていた28 )。加えてNageIiもまた葉緑体内での澱粉粒の一般的な存在を 強調していた29 )。 こうした一連の「光合成」研究の展開を踏まえてSachsは1862年,「光合成」の生産物が葉緑 220 茨城大学教養部紀要(第23号) 体中の澱粉粒であることを証明しえたのである。 (2) 1862年の光合成実験30}とその手法 Sachsは1862年にはそれまでの研究と観察から「クロロフィル中の澱粉は,二次的な貯蔵物質 ではなく日光中でクロロフィルの働きによってできる同化作用の産物である。」31)と推論していた。 ここで取り上げる1862年の実験の目的は,その推論のうち「クロロフィル中の澱粉はそれらの 中の二次的な貯蔵ではなく,一定程度の強さの光の働きでクロロフィルの同化作用を通じて発生す るものであること,」さらに「クロロフィル内で獲得された構成要素で合成された澱粉物質が植物 の他の部分,つまり成長を担う部分に移り,澱粉は芽の部分の成長のときに構成物質として使用さ れること」32)という二つの点に関する直接的な証拠を提出することであった。 Sachsはまず大量の種子を植本鉢に植え暗所に設置する。そして幼植物(Keimpflanzen)の子 葉と内胚乳のすべての貯蔵物質が消耗されるまで成長させている。Sachsは暗所の中で植物体を種 子から生育させ続けると,成長が停止してしまうことを既に知っていた。っまりここでは貯蔵物質 の使い果たされた後にはじまる成長に光がどのようにかかわるのか,という問題を設定したのであ る。このように貯蔵物質が使い果たされた植物体は3∼4グループにわけられた。 ①一部は発芽した時点で検査のためにとても濃いアルコールのなかに入れ,残りは暗所に置き 続ける。 ②その後,日光の当たる窓際に設置しその一部を緑化させて,検査した。 ③ 残りはさらに時間がたってから検査した。 澱粉の存在している組織,細胞はヨード澱粉反応で確認された。検査のため植物体はアルコール のなかにいれ日光にさらして漂白された。そして葉,根,茎,芽の全ての部分が薄い縦断,横断の 切片にされて調べられた。とくに澱粉の存在とその配分の明瞭な様子が調べられた。ヨウ素溶液に よる染色処理法が,こうして澱粉の植物体内の挙動を明らかにする目的をもたされたうえ,環境条 件が体系的に管理されたことで,単純な染色法が,生理学の固有の方法となったのである。ところ で実際には同化澱粉はショ糖あるいは簡単な単糖となり転流するので,かれの実験によっては転流 している物質自体を捕捉することはできない。この処理によって染色されるのは師管周辺の細胞に 堆積した移動澱粉であったと考えられる。そのような限界はありながらこの実験は体系的な処理に より澱粉を生産する器官とそれを消費する器官とを確定することに成功している点が重要である。 一連の処理の結果としてCucurbita Pepo(カボチャ)では次のような結果が示された。 「子葉の細胞を満たしていた脂肪粒は,発芽の間に澱粉とショ糖にかわり成長に使われた。暗所 での成長で黄色い子葉が2∼3㎝の長さになり,最初の葉がはっきりと現れた時には貯蔵物質は完 全に消耗されていた。微量化学検査(ヨード澱粉検査)は,この植物体には新しい柔組織のなかに も子葉の維管束にも澱粉の反応がないことを示した。このような成長をした植物体を暗所から出し て光があたるように設置する。そして6日間(気温約15度)そこにとどめた,すると完全にクロロ フィルは緑化したが,まだそのなかには澱粉の反応はなかった。むしろその植物体重は減少した。 三番目の黄化植物体は10日間光に当てた。子葉は成長し,最初の葉が大きくなり,二番目の葉が現 れ始めていた。今や澱粉は子葉と最初の葉のクロロフィルのなかに相当量見いだされ,さらに大量 に節間と芽部分の新しい柔組織のなかに見いだされた。」33)このほか実験植物体として,Helia一 池田・井原:J,von Sachsの植物生理学について 221 nthus a nnuns(ヒマワリ),Zea Mais(ソラマメ),Phaseolus vulgaris(インゲンマメ) が使用され,次のような一般的結果が引き出された。 暗所で成長し貯蔵物質を使い果し成長が止まった植物体を日光中に置くと, ① それまで黄色であった葉緑体が緑色になりそして増大する。 ② 引き続く光の作用で緑になった葉緑体内に澱粉が生じる。 ③ 次に澱粉は茎の上の部分と芽の部分に広まる。 ④ 芽の部分が生長をはじめる。 ⑤ さらに他の古い下方の茎の部分の柔組織が澱粉を受け入れた34 )。 この③と④とが結び付くには澱粉が細胞の成長増加の原料として認識される必要がある。こ の点についてSachsは,同年の別の論文で「根端,新しい芽の柔組織の中にそれ(澱粉)は,ほと んど例外なしに見いだされ,細胞の新たな成長時にその膜に成長原料を供給するために消失する。」35) と述べている。つまり細胞の成長を澱粉の供給と結び付けて理解していることが知られる。 さらにSachsは光の強さと葉緑体の緑化と澱粉形成の関係を確かめるために前出の染色法を使 って室内での実験を追加している。 多数の種子を植木鉢に植えて南の窓から15フィートはなして設置した。その結果,検体は発芽し 最初の葉が緑化した。茎は日光中で育てたときよりも高く,暗所よりは低くなる。しかし子葉,胚 乳の貯蔵物質を使い果たすと,成長がとまり,色を失うこととなる。この状態の植物をヨード澱粉 反応で検査してみると,葉緑体は正常に生じて緑色になっているにもかかわらず,そのなかには澱 粉の反応がなく,植物体の他の部分にもほとんどなかった36)。貯蔵物質を使い果たした後も引続き 成長できることと葉緑体が緑化することとの区別が明瞭に示されているものであった。 この実験によってSachsは「継続した成長のおこらない原因は,もっぱら同化(Assimilation) のおこらないことである。より厳密に言えばその作用(同化作用)の生産物がクロロフィル内の澱 粉として証明されたことによって,同化はとても明確な意味をもった。」37 )として同化の意味を成 長と澱粉生産とに関連させて定義したのである。 さて葉緑体内に出現した澱粉の起源についてSachsは既に「クロロフィルに関する新研究」(1862年) で以下のように述べていた。「クロロフィルは日光中で炭酸を分解し炭素を引き留める。従って葉 緑体中に多くの炭素分から構成されている澱粉が発生しその中に貯蔵されているのは不自然なこと ではない。」40)そしてこの実験の考察ではさらに以下のように述べて植物の他の部分からの転流 ではないことを明らかにしているのである。「有機物は酸素を多く含んでいないので,無機の物質 から合成されるときは常に酸素が放出されるという条件を満たさなければならない」が酸素を放出 するのは「光の下でのクロロフィル含有部分のみである。」39}有機物質,無機物質の元素組成の知 識に依りながら植物を客観的に探求する彼の姿勢がここにも表れている。 以上のような実験と考察からSachsは目的とした証拠を提出しているのである。 222 茨城大学教養部紀要(第23号) IV 仮想的な物質「花形成物質」の提起 (1) 「花形成物質」を提起した実験 Sachsは1863年に花の形成と光との関係を実験的に考察している。その結果,彼は「花の形成 に特殊で特別な物質」の存在を推論している。1886年にはこの実験を再検討し「花形成物質」(bl− ifthenbildende Stoffe)概念を提出しているのであるが,その概念は今日の花成ホルモン(フロ リゲン)に近い内容を既に持っていたことが評価されている40)。ここでは1863年の「花形成物質」 の提出の経過を追いながら実験の特徴を考察する。 Sachsは1864年の論文「普通葉の仲介下にある花形成への光の影響について」4Pで初めて「花 の形成に特殊で特別な物質」の存在に言及している。この1864年論文の目的は,前年1863年に行 われた実験結果をさらに追求することにあった。 1863年の実験は,明所,暗所,それぞれでの,葉の形成,成長,節間の伸長成長,花の分化と開 花という植物の機能を問題にしたものであった42)。ここで,Sachsは,暗所での開花には光との関 係で植物群を以下の二つに分けることができることを明らかにしていた。 ④ その開花のために芽が日光に当てられる必要がないものでTulipu(チューリップ),Crocus (クロッカス),Hyacinthus(ヒヤシンス)等がそれにあたる。 ⑱ 開花のためには事前に充分な日光の下で成長していることが必要なもので,Brassica (ア ブラナ),Tropaeolum majus (ノウゼンハレン),Cheirunathus cheri (ニオイアワセ イトウ),Cucurbita Pepo(カボチャ)等がそれにあたっている。 例えば,Brassicaの場合,野外で栽培して植物体の発育状態が,「極めてしっかりとした葉を 付けているが,外見上花芽をもつ段階になっていない。」43 )ものを植木鉢に移す。そして検体は以 下のように三つのグループに分けて処理する。 ① 3月20日から暗所に鉢ごと移す。 ② 実験期間初期には日光の当たる窓辺に設置し,4月4日から暗所に移す。 ③ 最初の花が開花する直前に暗所に移す。 その結果は,①は1m近く茎が伸びたものの縮みこんだ異常な花が形成され,②,③は茎の成長 と共に明所条件と同じ大きさの花が形成された,というものであった。 Sachsはこの結果について開花の違いは,暗所条件で正常な花を付ける④がいずれも燐茎や球根 を有していることから,組織を形成する貯蔵栄養物質の比率の違いによるものであると考えられる とする。しかしBrassicaの実験結果では,茎と葉は花が形成されるのに充分な程度に成長してい るにもかかわらず,花の形成は不十分に終わっていた。そこで花形成の違いをSachsは「一般的な 構成物質ではなくて花形成に特殊で特有な物質が欠けているにちがいない44)」と推論する。つまり ④には前年度のうちに緑葉で生成された特有の物質が蓄積されているが,⑱にはそれがないので, まずはじめに葉が形成され,その葉が日光中で「花形成に特殊で特有な物質」を生産する必要があ る,と考えていたのである。 Sachsは,実際にそのような物質が移動していることを証明するために1863年,1864年に6種 の植物をもちいて11回の実験を行っている。その実験は基本的には検体を,緑葉部分は同化作用が おこるように日光に当て,その一方で花の形成される部分を暗所に取り入れ,花の形成具合いを観 池田・井原:Jvon Sachsの植物生理学について 223 察するものであった。図45)はそのときのlpomaea purpurea(アサガオ)の実験装置である。こ の検体は葉腋にある葉芽と花芽を入念に取り除き,頂芽にのみ18の芽が残された。円柱Rは厚紙製で 外側に黒の光沢紙が貼られ暗所を部分的につくっている。頂芽を引き込んだ穴は,切れ目をいれた コルクKでふさぎ残りの隙間は綿でふさぎ中に光がもれないようにする。Dは蓋で, R内を繰り返 し観察するために取り外し自由になっている。R2は日除けの傘であり温度を適度に保つものであ った。装置は西向きの窓に設置された。 実験の実施は6月25日から9月7日までの74日間であった。その結果,検体の箱の中に引き込ま れた部分が黄化していて,箱の内部が充分に暗いことが示されていたにも関わらず,最初の花(F) が正常な大きさで開花した。その後,花は9月7日までに15個開花した。しかし花の大きさは,正 常なものの二分の一,三分の一,四分の一と小さくなり色にも異常を持つものが多くなった。他の アサガオの実験図 224 茨城大学教養部紀要(第23号) 検体の結果も同様の傾向をもち,Sachsは「花形成物質は,日光中,葉の同化作用によってつくら れ,花芽が形成され,開花する期間,茎を通り芽の部分に上昇していく」46}ことが実証されたと結 論するのである。 実験によりSachsは葉緑体を含む細胞の機能として澱粉の生産とは別に「花形成物質」の生産を 推論したのである。 ② 「花形成物質」の位置づけ 現代的な意味での花成ホルモンは,今日でもその存在自身が議論されている物質である。だから Sachsの時代に実体のある物質として認識しえないのもむりからぬことであったといえよう。Sac− hsの実験は緑葉と日光そして花の形成の間に相関があることを明らかにしている。ところで植物の 生活史のうち花の形成は,古くから注目されていたものであり,それだけに神秘的な現象とされて いた。だからSachsは,植物体の発熱が最初に観察されたのはこの花の部分であったが,その神秘 性ゆえに生理学的意味をもって評価されにくかった47)と指摘したのである。だからこの現象を生命 力の理論に陥らずに「仮想的」とはいえ物質を想定し客観的にとらえる試みを行っている点は留意 されてよいであろう。 同時に進化論のもとで見直される環境と器官の関係は,ここでは日光と緑葉という関係としてす でに積極的な研究が開始されていたといえる。 V おわりに こうしてみてくるとSachsの研究の特徴は物理学の知識,化学の知識を「補助手段」としてとい うより,植物生理学の固有の手法を成り立たせる不可欠な要素として取り入れていたといえるだろ う。この点はヨード澱分染色法の活用,検体の生育条件の管理,などの点に現われていた。またかれ の実験は生気論的な生物学から明確に抜けでたところで展開されていた。それはこの時期の生物学 全体に始まっていることだが,生気論的な生物学から脱却し客観的な科学としての「近代」生物学 を形成していく,その傾向が植物学,植物生理学のなかにも浸透してきていることがSachsの実験, 考察等のなかにあらわれていた。同時にそのさい生理的基本単位として細胞の認識が彼の実験の基 礎にあったことも指摘してきた。Sachsを生物学史のなかに位置づけていくにはこのような視点は 欠かせないものといえるだろう。 小論作成にあたって,大阪市立大学の増田芳雄教授から,rSachs生誕150周年記念論文集」はじ めとして貴重な文献を拝借させていただいた。また,大坂教育大学の鈴木善次教授,茨城大学の野本宣夫 教授からは文献等の示唆をいただいた。さらに,茨城大学教養部科学史研究室の皆様にいただいた 有益な御助言は私の理解の大きな助けとなりました。記して感謝の意を表します。 池田・井原 J.von Sachsの植物生理学について 注 と 文 225 献 1)A.G.MGrtcn:‘ Hi st ory cf Bctanical Science’,1981, pp.424−428. 2)八杉龍一:『生物学の歴史』下,1984,日本放送協会出版部,p.42. 中村禎里:『新装版生物学の歴史』,1983,河出書房新社,P.264. 3)加藤信行:「古典紹介,ユリウス。ザックス;植物生理学講義」, 『生物学史研究』,1978,Nb.33, pp.53−57. 4)鈴木善次:「古典実験の再検討,ザックスの光合成実験」,『科学の実験』,1972,vol.23, No.13, pp.1577−1579. 5)市村浩:「『生体単位』概念の有効性」,『生物学史研究』,1977,No.31, pp.33−36. 6)R.Green:‘AHistory of Botany,1860−1900’,London,1909, p.17. 7)A.G.Morton:op.cit., p.424. 8)Ibid.,pp.424−428. 9)記念論文集がだされている・H・Gi mmler(ed・):‘Julius S ac hs und die Pflanzenphys。 iologie heut e’,WUrzburg,1984. 10)A.Pirson:“Julius Sachs−Arbeit und Denken aus der sicht der neueren Pflan− zenphysiologie”,(ed.)H.Gimmler:‘Julius Sachs und die Pf1 anz e nphysiol ogie he ut e’,Wifr z bur g,1984, S S.115−161. 11)Y・Masuda:“Professor Julius Sachs and his influence on plant physiology in Japan”,(ed.)H.Gimmler:‘Julius Sachs und,die Pflanzenphysiologie heute’, Wttr z bur g,1984,S S.163 一一 166. 12)A.Pirson:op.cit., S.117. 13)M.Bopp:“Julius Sachs”,(ed.)C.C.Gillispie:‘Dictionary of Scientific Bi− ography’,New York,1975, pp.58−60. 14)J・Sachs:‘Geschichte der Botanik vom 16. Jahrhundert bis 1860’,Munich, 1875. 15)J.Sachs,(trans. by E.F.Garnsey):‘Sachs’History of Botany’,London,1906, p.448.‘Geschichte der Botanik vom 16. Jahrhundert bis 1860’,Munich, 1875. 16)Ibid・,p・504・ 17)Ibid.,p,448. 18)lbid.,p.370. 19)Ibid.,pp.373−374. 20)ダンネマン,安田訳:『大自然科学史』10,1979,三省堂,p.169. 21)シュバン,佐藤七郎他訳:「動物および植物の構造と成長の一致に関する顕微鏡的研究」 シュライデン,佐藤七郎他訳:「植物発生論」, 『近代生物学集』,1981,朝日出版社. 22)Unger:‘Die Pflanze im Momente der Thi er werdung’Wien,1843二 23)R.Green:op. cit., pp.19−20. 226 茨城大学教養部紀要(第23号) 24)J・Sachs:oP・cit・,14),SS・504−524・ 25)J.Sachs:Ibid., S S.531−532. 26)八杉龍一:前掲書,p.42, 27)A.G.Morton:op. cit., p.423. 28)H.von Mohl:“Ueber den Bau des Chlorophylls”,‘Botanische Zeit ung’1855, SS.89−99. 29)Nageli:‘Pflanzenphysiologische Untersuchungen’,2.H。,Zurich,1858,S.398. 30)J.Sachs:“ Ueber deh Enfluss des Lichts auf die Bildung des Amylum in den C hl or ophyl 1 k6rnern ”,1862,(ed.)V. W.Enge lmann:‘Gesammelte Abhand1 unge n uber Pflanzenphysiologie von Juhus Sachs’, 1・Band, Leipzig, 1892,SS・332 −343. 31)J・Sachs:Ibid.,S・332・ 32)J.Sachs:lbid.,S.333. 33)J・Sachs:Ibid.,S・333・ 34)J.Sacbs:Ibid., S.335. 35)J・Sachs:“Uebersicht der Ergebniss der neuere Untersuchungen uber das Chlo− rophyll”,1862,S.313.(ed.)V. W. Engelmann:SS.313−318. 36)J・Sachs:oP・cit.,30),S・338・ 37)J.Sachs:Ibid.,S.341. 38)J・Sachs:oP・cit.,35),S・314・ 39)J・Sachs:Ibid., S・ 339・ 40)W.Hartung:“Der Beitrag von Julius Sachs zur Entdeckung der Phytohormone”, (ed・)H・Gimmler:‘Julius Sachs und die Pflanzenphysiologie heute㌧Wifrzb− urg, 1984,SS.167−180. 41)J.Sachs:“Wirkung des Lichts auf Blut he nbildun g mter Vermittlung der Lau− bbl翫ter”,1862,(ed.)V. W. Engelmann:S.230. 42)J.Sachs:“Ueber den EinfIuss des Tageslichts auf Neubildung und Enttfaltu− ng verschiedener Pflazenorgane”,1863,(ed.)V.W. Engelmann:SS.179−228. 43)J.Sachs:Ibid.,S.215. 44)J.Sachs:op.cit.,41),S.230. 45)J・Sachs:Ibid., S・234・ 46)J・Sachs:Ibid.,S.231. 47)J・Sachs二〇P・cit・,15),S・507・