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Page 1 175 へルマン・へッセの『デーミアン』 武 田 修 志 (昭和56年5月

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Page 1 175 へルマン・へッセの『デーミアン』 武 田 修 志 (昭和56年5月
ヘルマ ン・ ヘ ッセ の 『デー ミア ン』
武
田
(昭 和56年
ま
え
お
修
士
ツCと ヽ
5月 14日 受理 )
き
この作 品 が第 一 次大戦後 の1919年 に エ ー ミー ル・ ジ ンク レー アの匿名 で発表 され た とき,逸 速 く
これ に接 して ,作 者 が ヘ ル マ ン・ ヘ ッセで あ る こ とを見 抜 い た一人 に,心 理学 者 の C・ G・ ユ ング
が い る。 ユ ング は 『 デー ミア ン』 を読 んで深 く心 を動 か され ,次 の よ うな感謝 の 言葉 を作 者 に寄 せ
た。
《私 は本 当 に心か らあなたの完壁で もあ り真実 で もあ る御本 『デー ミア ン』 に対 してお礼 を申さ
ずにはい られ ませ ん。 た しかに,私 が あなた の匿名 を破 ります ことは,た いへ ん厚か ましくず うず
(り
うしい ことではあ りますが,私 はこの本 を読んだ とき,こ の本 はどうい うふ うにして かルツェル ン
・)ち ょうど小 さなクナ ウエルが ジンク
を経由 して来 たにちが いな い, とい う気 が したのです。 …・
(・
レー アの ところに再三押掛 けて きた ように,今 日の人 間 の暗愚化 と救 い ようのない頑迷 とが また し
て も私 の ところに押掛 けて きた ときに, この本 は私 の ところへや ってきました。 それで,あ なたの
②
御本 は,嵐 の夜 を照 らす燈台の光の ような効果 を私 に与 えました。 》
言 うまで もな く,当 時 この小説 を読 んで強 く心 を打たれたのは,こ の作品 に直接影響 を及 ばして
い ると思われる この心理学者だけではなかった。実 に多数 の読者が感動 したのであった。作者 と同
世代 の作家 トーマス・マン もその一人で,マ ンはこの小説 を読 む とただちに,「 エー ミール・ ジンク
レー ア とは何者 なのか ?」 と出版社 に問 い合わせ る0ほ どに心 を動 か された。マ ンは後年 この小 説 に
ついて短 いエ ッセーを書 いたが,そ の中 に次 のようた言葉 が読 まれ る。
《第一 次大戦直後 に,一 種神秘的 なジ ンクレー アの 『デー ミアン』 が惹起 こした電撃的効果 は
,
忘れ られない。 それは,恐 ろしいばか りの正確 さで時代 の神経 を射 当て,自 分達 の 中 か ら自分たち
①
の生の深 奥 を告知す る者が現われた と思 い込 んだすべ ての青年達 を ……)狂 喜 させ,感 謝 させた。 》
(・
ユ ングの感謝の言葉 といい,マ ンの追懐 の言 といい, この小説が,当 時 の読者 に とって,ど のよ
うな意味 を持 つ作品 であったかが窺 い知 られる。 つ まりそれは,単 に一人の若者 の短 い半生 を描 い
た興 味 ある小説作品 とい うにとどまらず,当 時 の人 間 の生の問題 の核心 を衝 き,同 時 に,「 もう一つ
176
武
別 の生の可能性 0」 を暗示 し得 た作品だ ったのである。 だか らこそ この本 は,ユ ングに「嵐 の夜 を照
らす燈台の光の ような効果 を与 え」たのであ り,当 時 の青年たち に「 自分たちの中 か ら自分 たちの
生の深奥 を告知する者 が現われた と思い込 」 ませ,彼 らを「狂喜 させ,感 謝 させた」 ので あ ろう。
そして,こ の作品の持 つ このような意味合 は,現 在 もなお少 しも変 っていないよ うに思われ る。
なぜな ら,一 この作品 の 中で言われて い るように司
々 は「百 年以上 ものあいだ
(…
…)た だひ
たす ら研究 し,工 場 を建 ててきた」が,そ してまた,「 一人の人間 を殺すのに幾 グラムの火 薬 がい る
かは,正 確 に知 っている」が,し か し依然 として我 々 は「神 にどのよ うに祈れ ばよいか,知 らないJ
か らであ り,「 どうした ら一時間満足 した気持 でい られるかす ら知 らない。七 か らである。
1
『デー ミアン』 と同時代 の作品で, この作 同様広 く読者 に迎 えられた問題作 に, トーマス・ マン
の『魔 の山』 がある。 これは千ペ ージに も及 ぶ力作長編 だが,物 語 の設定年代 は,第 一 次大戦前の
数年間であ り,『 デー ミア ン』のそれ とほぼ完全 に一致 して い る。 この大作 をマ ンは第 一 次大戦前 に
構想着手 し,大 戦 中 は,己 れの金存在 を賭 けて時代 の焦眉の問題 と取組 んだ悪戦苦闘 の書 『非政治
的人間 の考察』の執筆 その他 で長 く中断 しなが らも,戦 後稿 を続 け,構 想 か ら十年余ののち,1924
年 に発表 した。 この作 をひ とことで概括すれば,ヨ ー ロ ッパ近代 の基盤 を成す諸思想 を総点検 し
,
新たな生の意味 を探 り出そ うとい う意図を持 った作品だ ということができるで あろう。
さて,こ の大作 の山場 ,少 な くとも山場の一つを成 して い るのは,第 六部 の「雪」 と題 された美
しい一章 である。 ここで,主 人公の青年 は,冬 のある日,ス キーで 山中深 くはい って行 くのだが
,
途中で激 しい吹雪 に襲われ,難 行苦行 の末疲労困億 して,山 中の乾車置場 に一 時待避す る。 そ して
青年 は, この小屋の軒下 に,ス キー をはいた ままもたれかか りなが ら,疲 労 のため,短 いが深 い眠
りに陥 り, この とき,意 味深 い夢 を見 るのである。
初 めに,樹 木 ,緑 あふれ るた くさんの樹木 が見 えて くる。そして,う っとりす るようないい香 り。
向 うには光輝 く海 ,壮 麗 な虹が見 える。愛 らしい鳥の声が聞 こえる。それは南国 の こよな く美 しい
入江である。海辺 では大勢の若者たちが遊 んでいる。あ る者 は馬 を駆 り,あ る者 は弓 をひ いてい る。
いかに もすがすが しい。一群 の少女たちが楽 しく踊 っている。 この上 な く愛 らしい。若 い男女 がむ
つ まじ く語 らっている。 そ して,彼 ら「太 陽の子 ら」 が示す親愛のそぶ り。堅苦 しくな い礼儀 正 し
さ。品位。一 この生 命 の充浴 した美 しい眺め に青年 は夢 の中で心か ら感動す る。
しか し, この入江 を見下す丘陵の中腹 にすわっていた彼 が,あ る切 っ掛 けで,目 を後方 に転ず る
と,夢 の場面 は一転 し,そ こに は古びた神殿 が あ り,彼 は,そ の神殿 の中 にはいって行 かず にはい
られな くな るのである。する と,そ こで は血 も凍 るような恐 ろしい場面が展開 されている,つ ま り
,
魔女 に も似た醜 い老婆が二人 ,暗 闇 の中 でゆらめ く火皿の火 に照 らされなが ら,幼 児 を引 き裂 き
,
ヘル マ ン・ ヘ ッセの 『 デー ミア ン』
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これ をむさば り食 らって い るのである。恐怖 に金縛 りになった主人公 は「両眼 をおお いたかったが
おおえず」「逃 げ出 したかったが,逃 げられな」い。 しか し,気 づいた老婆たちに湿猥 な言葉 でのの
しられて,死 物狂 いで逃 げ出す却 分
手短 かには正 確 に紹介 で きない この魅力的で恐 ろしい夢 が象徴的 に表わ して い るのは,「 人間」と
「人 間共同体」の本来的な姿 であることは,前 後 の叙述 か らも明 らかである。 そしてそれ は,光 と
影 ,生 と死 ,善 と悪 ,神 的な もの と悪魔 的 な もの,つ まり,二 つの相対立す る要素 を含んで い る。
そして,こ のような人 間 と人 間社会 の状態 に対 して取 る主人公 の態度 は,両 要素 を単 なる対立 とし
て退 けず,(「 死 と生 (… …)こ れは果 して矛 盾す るものであろうか ?(… …)死 の放埓 は生の中 に
あ り,そ れな くしては生 が生で はな くなるであろう°り 対立 を越 えた ところに己れの立場 を築 こ う
とするもので ある。そして,こ の作品全体 が 目指 してい るの も,一 この小説 を理念的に見れば薪
終的 には,こ の態度 の確立であ ると言えよう。
こう見て くれば,既 に『デー ミア ン』 の読者は, このはなはだ趣 の異 なる二作品 に,あ る強 い内
的関連 のあることを推察 されるであろう。 つま り,『 デー ミアン』は「二つの世界」 と題する章か ら
始 まるのだが,こ こで言 う「二つの世界」 とは,ほ かで もない,善 なるもの,光,神 聖なものか ら
成 る「明 るい世界」 と,悪 なるもの,影,不 無味な ものの住 む「別 の世界」 の謂なのであ り,そ し
て,『 魔 の山』 において と同様 ,『 デー ミアン』 において も最終的に目指 され るのは, この相対立す
る二世界を,人 間 と人 間社会 を構成 する必須の もの として,直 視 し, この相対 立 した ものの統合の
上 に,新 しい「生の可能性」 を打 ち開 くことで あるように思われ るか らである。例 えばデー ミアン
は,キ リス ト教の神の一面性 を指摘 しなが ら,次 のように言 う一
《問題 はこうだ。 つ ま り,新 約 と旧約 の この神全体 は,た しかに,す ば らしい ものではある。 し
か し,そ れが本来表 わすべ きものを表わ してはい ない。 この神 は善 なるもの,高 貴 なるもの,父 性
的な もの,美 しく高 きところにあるもの,そ して また,感 傷的な ものである。 これ も結構 だ /し か
し,世 界 は別 の ものか らもで きてい る。 ところが ,こ ちらの方 はすべ てあっさ り,悪 魔 のせ いに さ
れてい る。世界 の こち ら側全体 , この半分全体 が隠蔽 され,黙 殺 されて い る。人 々 は神 をあ らゆる
生命 の父 と称揚 してお きなが ら,一 方,生 命 の基盤たる性 生活の全体 を,あ っさ り黙殺 し,場 合 に
よっては,悪 魔の仕業 ,罪 深 い ことだ と説明 してい る。 ぼ くは人が このエ ホバ の神 を崇めるのに全
然反対 しな い。電末 も。 しか しぼ くは,我 々 はすべ てを崇 め,尊 重 しなけれ ばならない, と思 う。
世界全体 を。 この人工 的 に切 離 された公認の半分 だけではな く/そ うなれば,我 々 は神の礼拝 と並
んで悪魔の礼拝 をも行 なわねばならな いだ ろう。 そうして こそ正 しい とぼ くは思 う。 あるいは,悪
魔 をも内に含 む神 を創造 しなければな らない。 この世 の 自然 な ことが起 こ るとき,そ の前 で 目をつ
ぶ る必要のない神 を造 らなければな らない。やり
さて,我 々がここで注目するのは,こ の同世代 に属する二人の作家が,ほ ぼ同 じ時期 に,つ まり
,
武
修
士心
178
第 一 次大戦前後の時期 に,同 様 に「時代」 と激 しく衝突 し,そ こにおける苦闘 の 中か ら,同 様 に作
風 の転 回を示す重要な作品にお いて,極 めて類 似 した
(と
い うのが言 いす ぎであれば,ほ ぼ同方向
を志向する)人 間観・世界観 を呈示 してい ることである。そしてそれは,上 に大 まかに見た ように
,
(そ
して,以 下 の論述の中心問題 となるで あろうように,)ネ 申聖な ものか ら邪悪 な ものまでの生の金
体 を直視 し,相 対立す る要素の統合 の上 に,い わば「生のダイナ ミクス Dynamik des LebenS」
を
回復 しようとする考 えであ ると言 ってよいであろ う。
ここで興味深 いのは, この考 えが,マ ンにおいて もヘ ッセにおいて も, ともに夢 と関連 してい る
ことで ある。上 に見た 『魔 の山』 の主人公 ハ ンス・ カス トルプの夢 が,作 者 自身 の夢 を素材 に した
ものであるか どうかは分 か らな い。 しか し,そ の ことよ り,こ の場 合 に注 目しなければな らないの
は,作 者 が まさに作品の中心理念 ,あ るい は,中 心理念の一 つ を夢の形で呈示 して い るとい う こと
であ り,更 にまた,こ の夢 を見 る主人公が,山 中 で激 しい吹雪 に襲われ,疲 労困悠 して山小屋 の軒
下 に避難 しているとい う危機的状況 にある, とい う点である。なぜ作者 はこの ような状況設定 を必
要 としたのか。言 うまで もな くそれは, この大作の中心理念 を展開す るのに「単純 な」青年ハ ンス・
カス トルプの意識状態 は不 都合 で あ り,ま た,夢 で あっても,日 常的状況 でひんぱんに見 られ る個
人 的な事柄 にかかわる夢 で は,や は り役 に立たなかったか らである。示 され る理念が普遍的な もの
であることを主張す るためには,こ れを展 開 してみせ る夢 は,所 謂「大夢 gr08er Traum」
でなけ
ればならない。 そして,そ うい う夢が生み出され るのは,し ば しば,人 が生 命 の危険 を覚 えるよう
な危 機的状況 においてで ある― 。そ して,こ の主人公の危機状況 は, トーマス 。
マンが第 一次大戦
中 に見舞われた精神的危機状況 を比喩的に写 し取 っている,と 見 ることがで きるので はあるまいか。
つ ま り,『 魔 の山』 において展開 された人 間・ 世界認識 は一 それはあの夢 の 中 で凝縮 して表わされ
ている一 ちょうどハ ンス・カス トルプが,山 中で吹雪 に襲われ るとい う危機的状況で見た夢の中で
,
「人間」 と人間の「共同体 Jに ついての理念 を獲得 したように,作 者 の第 一 次大戦中 における精神
的危機・ 苦悩の中か ら掴 み取 られた, と見 ることができるのではあるまいか。
一 方,『 デー ミアン』の「二つ の世界」の認 識 も,ま さにヘ ッセの危機的状況か ら,そ れ も疑 いな
く夢 を主たる手 がか りとして得 られた ものである。 つま リヘ ッセは,第 一 次大戦中,こ の「大 い な
る時代 grOse Zeit」
との衝突 ,家 庭の崩壊等 に見舞われ て病付 き,な かんず く神経 をや られて,ユ
ング派分析医の J・ B・ ラング博 士の主宰 する病院 に入 院 し, この医師か ら60回 に及ぶ分析 を受 け
た(1° 。 そして,こ の経験 を上台 として『デー ミア ン』が書 かれた ことは,周 知 の通 りなのである(lD。
こう見て くると,そ して今 ,西 欧 における「現代 Jを ,第 一次大戦以後 の時代 と規定す るな ら
,
まさに現代 とい う時代 の幕が切 って落 とされん とする時 にあたって,二 人の作家 は,同 様 に精神 の
危機状 況 に追 いこまれ,そ の苦悩の底 か ら,相 対立す る要素 を含 む人 間 と世界 の全体像 を掴み取 り
,
この全体像の認識か ら,い わば「生のダイナ ミクス」 を回復 せん と願 った, とい うことになる。そ
して,二 人の認識の獲得あ るいはその表明が,と もに夢 を通 してなされてい ることは,彼 らの直面
ヘルマ ン・ ヘ ッセの 『デー ミア ン』
した危機状況 が,日 常的意識状態 を突崩すほどの ものであった ことを明示あ るい は暗示 して いる。
ここに,こ の二人 の極 めてす ぐれた作家が,同 様 に,西 欧 の近代精神史上 の大 問題 と対面 して い
ることは明 らかであろう。それは,一 西欧近代 の精神史 に関す る議論 のあるところで しば しば指摘
され るように(姥 均
代 とい う人間中心主義 の時代 の進 展 とともに起 こった,人 間 の生の一面化 ,断
片化 ,皮 相化,あ るいは,宗 教的感情 の貧困化 の問題 である。 (こ れを裏返 して言 えば,一 面化 ,断
片化 した生の,あ るイデオ ロギー,あ る強大 な指導者等の触発物 による凶暴化 ,野 蛮化 の問題 であ
理由をどう考 えるかは,大 なる議論のある とこ
る。)こ の ような生の傾向の発 生過程 あるいは原因 。
ろだが , この問題 に,西 欧近代 の標章 とで も言 うべ き科学主義 とキ リス ト教 が深 くかかわって い る
ことは,異 論 の余地がないであろう。換言す れば,近 代 の合理主義的理性 の無批 判 な信仰 と,キ リス
ト教 の世俗化あるい は宗教 のキ リス ト教 による一元化 (異 教的要素 の追放 )の 問題 である
(19ち
マン
,
ヘ ッセ, この二人の作家が,第 一 次大戦 とい う大事件 との遭遇 をきっかけにして,い わば全身 をも
って対決 したの も,ま さにこの問題 であった。 そ して,彼 ら自身が身体・ 精神 の変調 を来たすほ ど
の危機状況 に陥った とい うのは,そ れが他人の問題 ではな く,己 れ自身 も,そ の言 うところの「合
理主義的理性」 を身につ け,そ の「一面 的生」 を生 きてい るとい う抜 き差 しな らぬ側面 のあった こ
との証左であろう。
ところで,こ こで見落 せないの は,マ ンにおいて もヘ ッセにおいて も,目 指 された ものが「生の
ダイナ ミクス」 の回復 ,つ まりは,人 間 の生の新 たな意味合の発見であった として も,そ れは,人
間 の善 なる面 ,高 貴 なる面 を希求す るとい うような単純 な形で示 され るもので は全然 ない, という
ことで ある。 マ ンにおいて も,そ して,特 にヘ ッセにおいては,真 に生 きた生の意味の探求 は,ま
ず何 よ りも,人 間 と世界 の本源 に存す るその一面 としての醜悪なるものの直視か ら始 まる,と い う
主張 が あるように思われ る。ハ ンス・ カス トルプが,あ の「大 い なる夢」 の 中 で,身 の毛 もよだ つ
場面 に際会 して,「 両眼 をおお いたかったがおおえなかった」のは, この点 を暗示 して いるのではあ
るまいか。 一 方,デ ー ミア ンが今言 った主張 を,ほ とん どその まま述 べ るのは,先 に見 た通 りなの
である。
ヘルマ ン・ ヘ ッセ40歳 の力作 『デー ミアン』 の持 つ中心問題 と,そ の背景 にある精神状況 とを暗
こお ける主人公の見 る一つの夢 を引合 に出す ことか ら話 を始 めたが,こ
示 しようとして,『 魔 の山』と
のあた りで,こ の作品 の 内部 に立入 って,よ り詳細 な検討 を加 えてみる ことに しよう。
2
この作 品 を支 え る基本 的認 識 ,少 な くとも基本 的認識 の一 つ は,先 に示 した デ ー ミア ンの 言 に集
約 され る もので あ る と言 って よか ろ うが ,こ の作 品 はあ る認識 か ら出発 して何 事 か を語 ろ う とす る
もので はな い。 そ うで はな くて ,あ る具体 的 な事件 か ら出発 し,何 らか の認 識 に到達 す る と,そ れ
180
武
を再 び,い わば生の うちに返す― この運動 を繰返すのである。つ まり,一 人の人 間 の 自己発見の過
碍 を語 ろうとす るのだが ,こ の過程 は極 めて個性的な ものであると同時 に, この上 な い普遍性 を獲
得 しているよ うに思われて,我 々 に,こ の過程 において現われ る様々な問題 の聞明を強 い るのであ
る。我 々 はこの過程 を逐一追跡す る煩 い を避 けたい と思 うが,少 な くとも, この 自己発見の物語の
発端 を成す事件だけは詳 しく見 てお く必要がある。 そこか ら我々は, この作 品 における幾 つかの重
要な問題の所 在 を知 り,具 体的な検討 を力日えてい く手がか りを得 る ことがで きるように思われ るか
らである。
それは,主 人公 エー ミー ル・ ジンクレーアの十歳の折 の出来事 で ある。
エ ー ミールは「明 るい世界」 そ こには「ゆるしとよき志 ,愛 と尊敬 ,聖 書 の言葉 と叡知があっ
―
た°つ」―
― に住 む良家 の少 年 だが ,あ る日,彼 が,同 年輩 の仲間 と遊 んでいると,二 つ三つ年長 の悪
童が一人 これに加わる。 このフランツ・ク ローマー をエ ー ミールは「恐れて い た。9。 」 それは,ク ロ
ーマーが「別 の世界か ら来 た。6も 者 であるか らである。 その うち彼 らは,各 自,こ れ まで自分のや
らか した武勇伝の数 々 を自慢 しあ う。 エー ミール も
「ただ不安 に駆 られて(1つ J,つ まり,黙 っていて
ク ロー マー に碗 まれるのを恐れて,皆 の前 で, リンゴ を盗んだ話 をでっちあげる。 ところがク ロー
マー は,こ の大掛 りな盗 っ人話 の真実 で ある ことを誓わせ て,こ れを種 に,エ ー ミールをいわば小
さな悪の世界 へ,「 別の世界」へ 引招 りこんで しまうので ある。か くして,エ ー ミールの苦悩の 日々
が始 まる一―
さて,こ の クローマー事件 に関 して注意すべ き幾 つかの点 が あるが,そ の第 一 は,少 年 エー ミニ
ルが,ク ローマーの恐 喝を両親 に訴 え,両 親 の力 を借 りて この災 いか ら逃れ ようとは,決 して しな
いこ とで ある。 この誘惑 を少年 は強 く感ず るのだが,彼 は自分 が決 して「そうは しな いであろうこ
とをよ く知 って(481」 ぃ る。 なぜな ら; この災 い は彼 に とって運命的な出来事 で あ り,そ の ことを十
歳の少年 は直 覚 しているか らである。
「 い まは一つの秘密 を,自 分ひ とりで,自 分 だけでなめ尽 くさ
ねばな らない一つの罪 を,持 っているのだ ということをぼ くは知 っていた(D)。 」
人類が歴 史 の初 めに失楽園神話 を持 つ ように,一 個 の人 間 もその真 に「人間」 になる最初 の過 程
において失楽園神話 を持 つ。 リンゴ を盗 む話 か ら始 まったク ローマー事件 が,エ ー ミール・ ジンク
レー アの失楽園神話であることは言を倹たな い。そ して,ア ー ダム と工 ヴァの物語が示す ように
∵
,
それは,楽 園 にお けるいわば無認 識 の生活 か ら,善 悪 を区別する認 識 を持 つ生活 へ の転 回を語 る物
語 で ある。で は,エ ー ミールには,い かなる認識 が どのよ うに訪れたか。
ク ローマーの手中 に落 ちたその 日,重 大 な罪 を犯 した思 いに圧倒 されなが ら,両 親 のいる居間 に
はいってきたエー ミール を見て,父 は小 言 を言 う。 しか し,そ れは少 年の犯 した罪 を指 しての こと
ではな く,見 当違 い もはなはだ しいことに,濡 れて い る靴 を とがめたので あった。 エ ー ミー ル は心
密 かにその小言 を自分の犯 した罪 に結 びつけて聞 い ている。そしてその とき,「 奇妙 に新 しい感情 °O七
ヘ ルマ ン・ ヘ ッセの 『デー ミア ン』
181
が少年 の心 を閃光の ごと く貫 くのである。
《(そ れ は)逆 針 に満 ちた邪悪で鋭利 な感情であった。父 よ りぼ くの方が上だぞ /と 感 じたのだ。
一瞬間,父 の不明 に対 して一種 の軽蔑 の念 をおぼえ,濡 れた靴 についての小 言な ど取 るに足 りな い
ことに思われた。「本当の ことを知 った ら /」 とぼ くは考 え,本 当 は殺人 を白状 しなければな らない
のに,パ ンをひ とつ盗 んだ といって問 い質 されてい る犯人の ような気が した。 それは醜 く心 に逆 ら
う感情だった。 しか し,そ れは力強 く,あ る深 い魅力 を持 ってお り,そ れで,ほ かの どの考 えよ り
しっか りと,ぼ くをぼ くの秘 密,ぼ くの罪 に結 びつけた。 ・…・)そ れは父の神聖 さにはいった最初
の裂 け目であった似ち》
(・
十歳 のエー ミール・ジンク レー アがクローマー事件 か ら得 た認識 は,ま ず何 よ りも, この世 には
,
両親 に代表 され る善 なるもの,光 ,神 聖 なるもの,つ ま り,「 明 るい世界」のみな らず,他 方 に,フ
ランツ・ク ローマーの顔 をした「別の世界」,悪 なる世界があるのだ, とい う認識であった といつて
よいで あろう。 しか し,そ れのみではなかった。聖書 におけるアー ダム とエー ヴァの,善 悪の木 の
実を食 べ るとい う行為が,一 つの堕落 を意味 した ように,エ ー ミールの認 識 に もある堕落 した趣
,
あるいまわ しい洞察 が付随 していた。 それは,悪 は,例 えば,フ ランツ・ ク ローマー として自分の
外部 にあるのみな らず,自 分 の裡 にもある,自 分 もまた悪 を所有 してい る, という認識 で あ り,そ
巳した 自分 が,「 明 るい世
れは「ある奇妙 に新 しい感情」として少年 の心 を打 ったのであった。罪 を必
界」に住 んで罪 を知 らない父 よ り優越 してい ると感ず る /こ れは,自 分 自身 これ まで「明 るい世界」
の住人 であった少 年 にとって,強 く心 に逆 らうもののあった ことは当然だが ,重 要なのは,少 年 が
ここで,悪 にはある力強 さがある,「 ある深 い魅力」があることを全身 をもって感 じ取った ことで あ
る。
この作品 の根底 には,人 間 の生 と世界 に対す る真の洞察 を得て,新 しい生の可能性 を獲得 せん と
願 うもののある ことを先 に述 べたが,上 に見 た十歳 のエー ミール・ ジンク レー アの いわば感覚的認
識 が,こ の中心問題 と直接 つ なが るものである ことは言 うまで もない。 しか し, この点 を検討す る
前 に,ク ローマー事件 の成行 きをもうしば らく辿 ってみよう。
3
瑣細 な こ とか らク ロー マー の手 中 に陥 った エ ー ミー ル は,こ の 「悪魔 」 へ の隷従 を強 い られ なが
ら,苦 悩 の数週 間 をす ごす。 しか し,あ る 日, この苦悩 か らの救 いが ,「 全 く思 いが けぬ方面 か ら」
や って くる。 それ は次 の よ うな次第 で あ る。
最近,エ ー ミールの学校に一人の年長の少年が転校 して来た。マ ックス・ デーミアンである。 こ
2ち
の大人びた生徒は「あらゆる点で皆 とは異なってい° る。ある日,何 らかの理由で,デ ー ミアン
のクラスも,下 級生であるエー ミール達の大きな教室でいっしょに勉強することになる。エー ミー
武
士心
182
ルたちは聖書物語 の時 間 で,先 生か ら「カイ ンとアーベル の物語」 を聞か され る。一方,デ ー ミア
ンの クラスには作文の課題が与 え られる。 そ してエ ー ミー ル は,自 分 の課題 に一個 の「研究者 の よ
うに」取 り組 むデー ミアンを,あ る反撥 を感 じなが らも,見 ずにはい られない。
さて,こ の 日の帰 り道 ,デ ー ミア ンの 方か ら声 をかけられてエー ミールは,こ の妙 に気 になる少
年 と初 めて話 を交わす ことになる。話題 の中心 となったのは,そ の 日の授 業 で聞 いたカインとアー
ベルの物語 である。デー ミアンは言 う,「 ぼ くたちが習 うた いていの ことは,た しかに,全 く本 当で
正 しい。 しか し,何 で も先生 とは別 なように見 ることもで きる。 そして,そ うす ると,た いてい
,
99。
はるかに良 い意味 を持 つ ようになるんだ
」と。 そ して,カ イ ンとアーベルの物語 も同様 だ と言 う
ので ある。デー ミアンの この物語 に対する疑惑 は,こ の聖 書創世記第四章第一 節 か ら十六節 までの
短 い話の中の後半部 ,主 がカインを弟アーベル殺 しの罰 として地の放 浪者 としてお きなが ら,一 方
では,今 は意 気地 をな くしたカイ ンを人々が殺 さな い よう,彼 に しるしをつ け,「 カインを殺す者 は
誰 で も七倍 の復讐 を受 ける°4ち ょぅに取計 らって い る点に向 けられ る。興味 を引かれたエー ミール
は,そ こで,こ の物語 に対 して どんな違った解釈 がで きるのか と問 う。 そ して,デ ー ミアンの行 う
カイ ン物語解釈 は,エ ー ミールを心底か ら驚かすに足 るものである。
《まず在 って,物 語 の発端 となったのは,あ の しるしだったんだ。 まず,顔 に他人 を不安 にす る
ものを持 っている男 がいたんだ。人 々にはこの男 に手 を出す勇気 はなかった。 この男 とその子 孫 た
ちは人々 を畏怖 させた。 たぶん,い や,ま ちがいな く,そ れは しか し,実 際 に郵便 スタンプみたい
・)む しろそれ は,何 かほ とん ど気 づかれ得な い ような
な しるしが額 についていたんじゃな い。 …・
(・
不気味 なもの,人 々が慣れ ているよ りも少 しばか りよけいな才智,大 胆 さがその 目差 に光 って い る
といったよ うな ことだ ったんだ。この男は力 を持 って いた。 この男 を人々 は恐れた。そこで男 は
「し
るし」 を持 って い るということになった。 これを人々 は 自分 たちの好 きなように説明する ことがで
きた。 そして,「 世 の人々 」とい うものはいつ も,自 分 に好都合で,自 分 をよしとす るものを好 む も
のだ。人 々 はカイ ンの子孫 を恐れて いた。 そこで彼 らは「 しるし」 を持 っているということになっ
た。 そして人々 は, この しるしを,そ れが本来表わ しているもの,つ ま り,す ぐれた しるしと取 ら
ないで,そ の反対物 と説明 したんだ。人々 は,あ の しるしを付 けて い る奴 らは不気 味 だ,と 言 った。
そ して,実 際その通 りだった。勇気 と性格 とを持 って い る人 間 は,他 の人々 に とっては,い つ もひ
ど く不気味だ。恐れ を知 らぬ不 気味 な一族がそこらを徘徊 して い るのは,全 く不都合な ことだった。
そこで人々 は,こ の一族 に報復 し,さ んざんなめた恐怖 に対 して少 しばか りつ ぐな い をつ けようとし
て,こ の一族 にあだ名 を付 け,作 り話 を くっつ けたんだ。9。 》
「要す るに」とデー ミアンは言 う,「 あのカイ ンとい う男 はすば らしいや つだった」,「 一人 の強 い
男 が一人の弱虫 を打 ち殺 したのだ°°」 と。
このデー ミア ンのカ イ ン物語の解釈 がエー ミールを「仰天」 させ るのは,そ れが, この聖書物語
に対す る正統的・ 伝統的な解釈の完全 な転倒 を意味す るものであるか らであることは言 うまで もな
ヘルマ ン・ ヘ ッセの『デー ミアン』 183
い。デ ー ミアンの言 う通 りだ とすれば,「 人殺 しは誰 も,自 分 を神の寵児だ と言 いはることがで きる
であろう9° 。
」だ とすれば, この聖 書 の神 は何か まちが い を犯 した ことにな り,唯 ―の正 しい神 では
な くなって しまう。 これは愚劣 で無意味 な ことだ /敬 虔 な両親の子 で あるエ ー ミール は,デ ー ミア
ンの話 を神を冒漬す るふ とどきな話 として,何 として も否定 した い。 しか し,そ れにもかかわ らず
,
彼 にはたち まちクローマー の手 中 に陥った 日,家 に帰 って父に対 して感 じたあの一 瞬 の優越 の感情
が思 い出 されるのである。あの ときエ ー ミール は,「 父 と父の明 るい世界 と叡知 とを突然見抜 き,軽
蔑 した」のだった。「そうだ,あ の ときぼ くは,自 分 自身 がカインであ り, しるしを帯 びて いたのだ
が,こ の しるしは汚名 で はな く,す ぐれた しるしなのだ,そ して自分 は己れの悪意 と不 幸 とによっ
9°
」
て,父 よ り,善 良で敬 虔 な人々 よ り高 い ところにい るのだ, と思 い こんだのだ 。
こうして,デ ー ミアンのカイ ン物語解釈 に触発 されて,エ ー ミールの心 に浮 かびあが つて くる考
きるところを知 らない。 それは,最 初 の一晩 は,ク ローマー事件 の渦中 にあるエー
えや疑間 は
,尽
ミール か ら,こ の「悪魔」の ことを完全 に忘れさせて しまうほどである。
《いわば泉に石が落ちたのだ った。 その泉 とはぼ くの若 い魂 であった。 そ して,そ の後長 い間
非常 に長 い期間,こ のカイ ンと殺人 としるしの ことは,ぼ くの認識 ,疑 惑,批 判 のす べての試 みの
,
99。
出発点 となった
》
さて,我 々 は先 に,こ の作品 の精神的背景 として,近 代 における合理主義的理性 の無批判 な信仰
とキ リス ト教 の世俗化 ,あ るいは,宗 教 のキ リス ト教 による一元化 の徹底 (異 教的要素 の追放 )故
に,人 間 の生の全体像 に対す る洞察力が失なわれ,人 間 の生がはなはだ しく平板化,一 面化 した と
`
い う問題 があることを推測 してお いたが,こ の観点 か ら,上 に述 べ たエー ミー ルの 自己認識 ,デ ー
ミアンのカイン解釈 を見 てみれ ば,そ れ らは,こ の問題 に対す る真正面か らの取組 みを示す もので
ある ことは明瞭 であろう。 そ して,こ こで もマンの 『魔 の山』 を引合 に出す なら,こ の大作が如上
の問題 の どちらか と言 えば合理主義的理性信仰 の問題の側面 に,よ り多 く理智的姿勢 で取 り組 んで
いるのに対 して,『 デー ミア ン』は,同 じ問題の,キ リス ト教 が直接 かかわ る側面 に,多 分 に宗教的
態度 で取組 んでい ると言 えるであろう。
このよ うな観点 か ら,こ こで,エ ー ミール の最初の運命的な体験 を多少詳細 に見 てみ ると,ま ず
,
エー ミールの父親 は,聖 書の神 エ ホバ の現世 における体現者 ,あ るい は,伝 統的なキ リス ト教支配
の世界 の代表者 の役割 を担 って い る者 とみなされ る。 エー ミールが例 の瞬間父 に対 して いだいた優
越感 とは,悪 を知 らぬ,あ るい は,悪 を排除す る聖書の神に対す る,悪 を己れ 自身所有 して い る こ
とを知 って い る者の優越感 ではないか。 ここで思 い出 されるのは,エ ー ミールが ある日父親 に,先
に示 したデー ミアンのカイン物語解釈 について問 い質 した とき,父 親 の取 った態度であ る。父 はデ
ー ミアンの解釈 を,原 始 キ リス ト教時代 に現われ た宗〕
特― その中の一つはキ リス ト教 の異端 で,「 カ
イ ン派」 という一 の「気違 い じみた教義」にもとづ くものである と教 え,エ ー ミールに,そ うい う
士心
184 武
考 え方 をしないよう「真剣 に戒 めた」 ので あった°°。 この態度 は,エ ー ミールの父親の今見た象徴
的役割 を裏 書 きしてい るのみな らず,こ の作品の持 つ基本構造 をも暗示 して い るように思われ る。
つ まり, この物語 は,先 に見 たデー ミア ンの持 つ認識の方向 へ展開 して行 くのだが ,そ の認識 は
エー ミールに対 する父親の教示が示 して い るように,あ る「異端」の教 え と極 めて近 い関係 にある
,
ものであ り, これが,伝 統的・ 正統的 なキ リス ト教世界の考 え方 と対決 して い る, とい うのが この
作品の基本構造 ではないか と思われ るので ある。
この基 本構造 を支持す る要素 は,ク ローマー事件 の 中 にほかに も見 い出 され る。 それは,恐 喝 さ
れたエ ー ミールが初めてクローマーに金 を渡す約束 の時間 が,10時 で もな く,12時 で もな く,「 11」
時だ とい う点である。 ウーヴェ・ヴ ォルフが指摘 してい るように,こ れは「偶然ではな い」。なぜな
らば,「 数 《11》 は,数 象徴 において,ま た,教 父たちの教 えにお いて,こ れが 〈モーゼの 10誠 〉の
数 としての 《10》 を越 えてい るとい う理由で,罪 を意 味 して い る°ゆ
Jか らである。更 にまた,エ ー
ミール とク ローマーが初 めて「取引 き」 する場所が,未 だ完成 していない新築の家であるとい う点
も,同 じ観点 か ら,注 目しておいてよいで あろう。 なぜな ら,今 ,明 」
の世界 か ら来 た」クローマ ー
と「取引 き」 しようとしているエー ミールは,伝 統的キ リス ト教支配の世界 =「 明 るい世界 Jを 出
て,別 の新 しい世界 ヘー 歩踏み出そ うとして い るか らであ り,一 方,「 家」が,夢 象徴 において,そ
の人 間 の「人格 PersonlichkeitJ,ぁ るいは,そ の人 自身 を表わす ことがあるとい う事実が,知 られ
てい るか らである°か
。
この ように見 て くるとき,こ の作品が,「 キ リス ト教の世俗化,あ るい は,宗 教のキ リス ト教 によ
る一元化の徹底
(異 教・ 異端的要素の追放 )に 基 づ く人間の生の平板化
,一 面化
(あ
るいは,宗 教
的感情の貧困化 )Jの 問題 をどう捉 えてい るかは,既 にほぼ明 らかであろう。tt「 ち,ひ とことで言 え
ば, この作品は,如 上の問題の核心 は,人 間の行 う「悪」 を何 と見,こ れ とどう対処 す るか という
難題 であると洞察 し,こ の「悪Jの 問題 と正 面 か ら取組 もうとしているので ある。 そ して,こ の取
組 みへのいわば絶対無比の手がか りとして一 これは物語の進展 とともにいよいよ明瞭 になって くる
が 一暉や 専暑 q体 とい うものを重要視 して い る, とい うことが注意 されねばな らないであろう。
硲
換言すれば, この作品 はこう主 張 してい るとも言 えよう,即 ち,人 は,己 れの現 に経験 して い ると
ころ を,偏 見 のない眼で凝視 し,そ こか ら露わになって くる否定 しようのない人 間の本性 に即 して
,
伝統的なキ リス ト教教義や生 き方 を再検討 しなければならない, と。9。
別の観点 に立 てば, ここで問題 になってい る一つの ことは,正 統的なキ リス ト教教義 が,「 悪」の
存在 を,正 面 きってはかつて一度 も認 めた ことが な い, とい う事実である。0, とも言 えよう。 キ リ
ス ト教の「悪」 に対す る態度・ 見解 は,「 悪 とは善 の欠如 pr atio boniで ぁる」 とい う命題 によ く
表われて い るとみてよいで あろう。9。 つ ま りそれは,「 悪」を,ひ とつの絶対的現実 とは認 めず,絶
対的存在 としての善 (神 )を 倹 っては じめて問題 とされるよ うな何かある相対的な もの, とい うこ
ヘルマ ン・ ヘ ッセの『デー ミアン』 185
とであろう。 ひ とことで言 えば,正 統的 キ リス ト教 は,本 質的な意味 では「悪」 を知 らないので あ
る。ち ょう どこの作品 における「明 るい世界」,あ るいは,エ ー ミールの父親 がそうであるように。
しか し, この作品 の認識 によれば,「 悪」 は厳然 として存在す る,例 えば,フ ランツ・クローマー
として。否,そ れは,「 明 るい世界」に育 ったエー ミールの内 に も厳存 して いる。 しか し,こ の事実
を「明 るい世界」は直視 しようとしない。 おそ らく,ま さにそれ故 に,「 明 るい世界」の代表者 た る
エー ミールの父親 は,「 悪魔」ク ローマーに捕 え られた エー ミー ル を,本 質的な意味 では全 く救助す
ることがで きないので ある。
ちなみに,こ のクローマー事件 におけるエ ー ミー ルの父親 の無能 は,彼 が「明 るい世界」=「 伝統
的キ リス ト教支配 の世界」 の代表者 とみ られ るとき,西 欧近代及 び現代 にお いて キ リス ト教 が果 た
した,そ して今後果たす役割 に関 して,あ る独 自な見解 のあることを暗示 して いるよ うに思われ る。
つ ま り,そ れは,い ま,(こ の作品成立の外的契機 ともなった)欧 州大戦 を,科 学主義 と人 間中心 主
義 の時代たる西欧近代 の一つの帰結 と捉 えるな ら, ここに至 った人間 と世界 の救出 は,ち ょう どエ
ー ミールの父親 の ように,悪 を知 らない,あ るい は,悪 を排除す る正統的 キ リス ト教教義・ 倫理・
道徳の力では,不 可能 なのではないか,そ してまた,ヨ ーロ ッパ ニキ ウス ト教世界 の人 間 が,欧 州大
戦 のような「悪魔 の所業」 にも似 た大 殺貌戦 を行 なうに至 った とい うの も,ほ かで もない,悪 を常
に 自分 の外部 に見 て,こ れを己が内にも見 ,対 決す ることを怠った ところに,そ の真の原因が ある
のではないか― このよ うな見解 のあることを暗示 して いるよ うに思われ る。
ここで我 々 は再度 ク ローマー事件 に返 らねばな らな い。 エー ミールは,た しかに,「 悪魔」ク ロー
マーの手中 に陥 ることによって「悪」「悪なる世界」の存在 を全身 を持 って知 り,そ して また,「 悪」
はある力強 さ,「 ある深 い魅力」を持 って い る ことをも知 った。物語 はこのエー ミール の体験 の方向
へ と展開 してい くことは,言 うまで もない。 しか し,看 過 してな らないのは,エ ー ミール に とって
ク ローマー 自身 は,依 然 として「打 ち殺 し」 てで もその手 中か ら脱 しなければならない「悪魔」 で
6ち
あることにかかわ りはない とい うことで ある。 ェ_ミ ールに とってク ローマーが「悪魔」 だ と
,
い うのは,ク ロー マーがいわば全 身 を「悪」 によって捕 えられてお り,自 己の内にただ「悪」のみ
しか所有 して いないか らである。 つ まり,こ の作品 は,「 悪」「悪なる世界 Jを 一つの絶対的現実 と
認め,ま た,「 悪」にはある力強 さがあ り,こ れが「生 のダイナ ミクス」を回復する重要な手 がか り
,
少な くとも,重 要な手がか りの一つで ある ことを示唆す るものだが ,決 して「悪」 その もの を,そ
れだけで是認 しようなどとはしていないので ある。逆 に,こ の「悪 」 に対抗す る力 を持た ぬ者 が こ
れに捕 えられ ると,そ の生 は破壊 されて行 くことを,ク ローマー事件 の エ ー ミールの姿 はよ く示 し
てい る。
あ る 日,ク ロー マー は突然 エ ー ミー ル か ら身 を引 く。 しか し,そ れ はエ ー ミー ル 自身 の力 に よる
186
武
修
もの で はな く,デ ー ミア ンの働 きか けに よる もので あ った。 問題 は残 った ので あ る。
4
作品の根底 において,「 近代」 とい う時代の進展 とともに起 こった「生の一面化・平板化 ,あ るい
は,宗 教的感情 の貧 困化」の問題 と取組 み,「 生のダイナ ミクス」を,つ まりは,人 間 の生の意味合
を回復 ,発 見 せ ん と願 っていると思われ るこの小 説 が,正 面 において描 くのは,先 にも言 ったよう
に,一 人の青 年 の 自己発見 の過程 である。
ところで,こ の過程 を描 くの に,こ の作品は,作 者 の体験 を別 にすれば,多 くの素材 を聖書 に求
め,こ れを主軸 にして物語 を展開 してい る。それは,第 一章の主た る内容であるク ローマー事件 が
,
エ ー ミールの失楽園物語 であること,「 カインJと 題 された第 二章 では文字通 り聖書創世記中の カイ
ン とアーベル の物語 がテーマ とされてい ること,そ して,第 二 章 のキ リス トとともに処刑 された盗
賊 Schacherの 話 ,第 六章 における主人公の「ヤ Fぞ
?諄
k心
」,第 七 章 と八章 (終 章 )に おける干て
ヴァ夫人 の登場 とその象徴的形姿 , と見ただけで も明 らかである。 しか し, ここで も重要 なの は
,
この作品が,こ れ ら聖書か らの素材 を物語の展開 に利用す るに際 して, これ らの聖書物語,あ るい
は,聖 書の登場人物 に,多 くの場合,新 たな解釈 の光 を当て つつ,あ るい は,そ れ らとほとん ど対
決す るような構 えで, これを作品の うちに取 り入れてい ることである。 これ まで見 た ところでは
,
最初 に引用 したデー ミアンの言葉 ,エ ー ミールの失楽園物語 としてのク ローマー事件 の取扱 い方
,
カイン物語 に対す るデー ミアンの解釈 は,そ れをよく示 して いると言 えよう。 そして, このよ うに
して出来上 がっているこの作品の基本構造線 を,い わば独 自の形 に絢合 わせ,独 自の色彩 に染 めあ
げて い るのは,「 アブラクサス=エ ー ヴァ神」と呼ん でよい神あ るいは神的イ メージをめ ぐる出来事
であ り,追 憶 で あ り,夢 で あ り,認 識 であろう。
神「 アブラクサス」 の名 が露わにされるのは,物 語の半ば,主 人公のギ ュム ナージ ウム時代 に属
す ることだが,こ の神 に直接連 なる出来事 は,こ の物語の発端 を成すク ローマー事件 の渦 中 にあっ
たジンク レー アにデー ミアンが初 めて近附いて来 た とき既 に語 られて い る。 それは,デ ー ミア ンが
ジンクレーアの家のアーチ型門の上 に,「 要石 として」つ けられた「一種 の紋章」を問題 にするとき
である。この ときジンクレーアは,デ ー ミアンが何 の ことを言 って い るのかす ぐには見当が つかず
,
デー ミアンが,ジ ンクレー ア本人 よ リジンクレーアの家 の ことをよ く知 っているらしいのに驚 くの
だが,デ ー ミアンはこの紋章 の鳥 を「 ハ イタカ」だ という°つ。 この「ハ イタカ」 が,実 は,神 「 ア
ブラクサス」 を象徴的 に表わす鳥,あ の「アブラクサスヘ 向って飛 ぶ」鳥 であることは言 うまで も
9。
ない。
だか らこそデー ミアンはこの紋章 の鳥に関心 を持 ち,の ちには,彼 がジンク レー アの家の
前 に立 って,こ の鳥 をスケ ッチす る姿 さえ見 られ るのである。 しか し, この時期 のジンク レー アに
は,こ の「資金色」 の鳥の持 つ意味 は,勿 論,感 得 されないままである。
ヘ ルマ ン・ ヘ ッセの 『デー ミア ン』 187
この紋章 の鳥が,あ る意味深 さを持 ってジンク レー アに再度意識 され るのは,彼 が「暗 い世界」
に落 ち こみ,放 蕩無頼 の幾月か を過 したのち,「 ベ ア トリーチ ェ」との出会 い をきっか けに,新 たに
自己の道 へ立返 り,己 れの内面 を凝視す る毎 日を続 けて い るある日の夜 の夢 を通 してである。 この
夢 に,デ ー ミアンと紋章 の鳥があ らわれ,デ ー ミアンはジ ンク レー アに,こ の鳥 を食 え と強要 す る。
ジンク レー アがそうす ると,呑 込 まれた鳥 はジンク レー アの身中で活動 を始 め,内 部 か ら彼 の身体
を食 い減 らしだす。ジ ンク レー アは死 ぬほどの恐怖 に満 た されて目をさます。 そ して彼 は, この紋
章 の鳥 ,「 鋭 い精憚 なハ イタカの頭 をした猛禽」が地球 の 中か ら抜 け出よう としてい る絵 を描 いて
°9ち
宛先 の分 か らぬデー ミアンヘ と向 けて発送するのである
,
しば らくして,返 辞 が「不思議極 まる方法で」や って来 る。そして,そ こには,こ う書 かれて い
る一―
《鳥 は卵 か らぬけ出ようともが く。卵 は世界 だ。生 まれ出ようとす る者は世界 を破壊 しなければ
°
な らぬ。鳥 は神 へ 向 って飛ぶ。 その神 の名 はアブラクサ ス 。》
“
更 にジンク レーアは,「 偶然 に」,こ の返辞 を受取 ったの と同時 に,こ の「アブラクサ スJが 「神
に1も でぁ ることを聞 き知 る
的な もの と悪魔的なものを結合す るとい う,象 徴的な使命 を持 つ神 の名
ことになる一 。
こうして我 々はここで再 び,こ の作品の主要 モ チーフで ある「二つの世界 J認 識 に出会 うわ けだ
が,神 「アブラクサス」 が,そ の本質 において,こ の神 の名 が露わになった と同 じ時期以降繰返 し
ジンクレーアを訪れ る夢 に現われ るあの「大柄で力強 いり 」女性 ,ジ ンクレー アに とって「母」「恋
°
人」「悪魔」「娼婦」 そして「殺人者」 である
・ 「太母 エー ヴァ groSe Mutter Eva」 (と 呼 んでよか
ろう)と 同 じものである ことを考 え合わせれば,こ の「アブラクサス =エ ーヴ アJ神 が,い わば こ
の作品建築 の「要石」 となって いることはまちがいないであろう。作品の成立 という観点 か ら言 え
ば, この神的イメージが作者に把握 されてはじめて,こ の作品 は書かれ得た ものであろう。
ここで しば らく作品 の外 に出 ることになるが, この作品の読者 の うち には, この神 「アブラクサ
ス =エ ーヴ ァ」 は,全 く作者 の創作 になるものであると思 いこんでい る向 もあ るので はないか と思
われ る。 しか し,そ うではな いので ある。 この点 に関 して多少検討 を加 えてお きた い。
「アブラクサス Abraxas」 とい う名の神 ,あ るいは,こ の言葉 のそ もそ もの出所 は,は っきりし
ない °。しか し,紀 元二世紀 ごろに実在 したグノーシス主義者 GnOstikerバ ジ リデス Basilidesの 思
“
想大系の中で,こ のアブラクサスが重要な位置 を占めていた らしい ことは,よ く知 られた ことで あ
9。
る。 で は,ヘ ッセはバ ジ リデスを問題 にした教父達 の著作 を読んだのであろうか“ あるい はそう
か もしれな い °。 しか し,ヘ ッセが「 アブラクサ ス」 の名 を知 ったのは,お そ らく,C・ G・ ユ ン
“
グの『死者 へ の七つの語 らいVI SERMONES AD MORTUOS』 を通 してであ ろう。 というのは
,
この書 は 『デー ミアン』 が書 かれ る前年 (1916年 )に 私家版 としてユ ングの知人 に配布 されたのだ
188
武
修
が,当 時 ヘ ッセの主治医であ り,ユ ングの弟子 に して,か つ,グ ノーシス主義 に特別 の関心 を抱 い
ていた J・ B・ ラング もこの本 を贈 られたにちがいな く,そ して,ヘ ッセがラングか ら60回 に及ぶ
分析 を受 けるあ いだに,こ の本 の ことが話題 になった ことは,ほ ぼ まちが い ない ように思われ るか
らである1471。 言 うまで もな く,『 死者 へ の七 つ の語 らい』では「 アブラクサス」が極 めて重要 な役割
を演 じている。
興味深 い ことに,『 死者 へ の七つの語 らい』 には著者名 としてユ ングの名 はな く,「 東洋 が西洋に
接す る町ア レキサ ン ドリアのバ ジ リデス」 の名が
されている。 この小冊子 は,ユ ングの 自伝 の記
謡
0,ユ
ング自身 のほ とん ど異常 とも思 えるような心 的経験 をその まま写 し取 った もので
述 に従 えば
“
あるが,こ の書 に,ほ かで もな いバジ リデスの名 が冠 せ られた とい うのは, この奇妙 な小冊子の内
容 が,も しどこかに類似物 を持 って い るとす るなら,古 代教父 たちの著作 を通 じてわずかに知 られ
るこのグノー シス主義者の思想以外 には考 えられなかったか らであろ う。
グノー シス主義者バ ジ リデスの思想がいったいいか なるものか,ま た,独 特 の認 識法 と言 われ る
グノー シス GnOsisと はどのよ うな ものか,更 に,歴 史上 の所謂 グノーシス主義 GnOstizismusと は
いか なる内容 を持 つ宗派 (宗 教 )だ ったのか,こ れ らの点 について, この小論 において,細 かに論
ずる余裕 はない 働
。 しか し,最 近の研究では,必 ず しもキ リス ト教 の異端 ではな く,少 な くともそ
“
°
の最初の発生時にお いては独立 した宗教 であった とされる
・ グノーシス主義 が,古 代 の宗教世界 に
おいて,キ リス ト教諸派の中の一 つ の「異端Jと して,正 統派か ら激 しく攻撃否定 され,判 語 の
中でジンクレー アの父親 も言っているよ うに6嵯―少 な くとも表面上 は完全 に消滅 した宗派 (宗 教 )
で あるとい う ことは,言 っておかねばな らないであろう。 つ まり, この宗派,あ るいは,広 くグノ
ーシス的考 え方・ 生 き方は,古 代 か ら現代 までの長 い西欧の精神的・ 宗教的潮流の 中 で,正 当な取
扱 い をほ とん ど受 けた ことがない ものだ とい うことである。この点 は看過 され得な い。というのは
ユ ングの『死者 へ の七つの語 らい』は,ほ かで もない,正 統派キ リス ト教の立場 か らすれば「
異端」
の徒 として否定 されるべ きグノー シス主義者バ ジ リデスが,★
又会 ヽ黎律 である死者たちに教 えを説
くとい う一般 には受 け入れ難 い形式 を取 っているか らである。(こ の書の書出 しはこうなっている一
,
《死者たちが ェルサ レム か ら帰 って来た。彼 らはそこで 彼 らが 捜 したものを見 出 せなかったのだ。
彼 らは私 の ところに入来 を切 に請 い,私 に教 えを求めた。そ こで私 は彼 らにこう教 えた。
(。
,…・
)1521》
3っ
― そ して,こ の「死者たち」がキ リス ト教徒である ことは,書 中 に明言 され ている
・
この不思議 な書物が取 って い るこの形式
一 つ まり,グ ノー シス主義者がキ リス ト教徒 に教 える
とい う この形 式― は,我 々が今問題 に してい る作 品 の先述 した基 本構造 と作者の来歴 とを考 え合わ
,
せ るとき,示 唆するものがある。 それはつ まり,ヘ ッセは当時 において も稀 なほどの敬虔 なキ リス
ト教徒の家庭 に育 ったのであるが,一 方『デー ミアン』 の基本構造 は,既 に見 たように,少 な くと
も作品の前半部 においては明瞭 に,異 端的な考 え方・ 生 き方 と正統的 。伝統的なキ リス ト教教義 と
の対決 とい う形 をとっている, とい う点 に関 してで ある。即 ち,『 デー ミアン』はグノー シス主義 の
ヘ ルマ ン・ ヘ ッセの 『 デー ミア ン』
書 『七 つの語 らい』 といわば同 じ方向をむいた作品 と言 えるのであ り,こ こに,伝 統的 なキ リス ト
教支配 の世界 =「 明 るい世界」 を出て,グ ノーシス的世界 =「 もう一つ別 の世界」へ踏み込 んで行
くヘ ッセの精神 の一大転 回の劇 が あった ことが推測 され るわけである。 そして,こ の「死 と再生」
の ドラマが展開 されたのが,第 一 次大戦中,自 己の精神的基盤が崩壊 し,神 経 をや られて,J・
B・
ラングによって精神分析 を受 けた時期であることは,言 うまで もない。 おそらく,こ の悪戦苦闘 の
一時期 に,ユ ングの『死者 へ の七つの語 らい』 はヘ ッセの心 を強 く捉 え,ヘ ッセの「再生」 に一役
かった もの と思われ る。それは,『 デー ミアン』 における「アブラクサス」 と『七つの語 らい』 に見
られ る「アブラクサス」 の極端 な類似性 を見れば,更 によ く推測 され得 る。以下 ,『 七 つの語 らい』
か ら「 アブラクサス」 に関す る部分 を,ご くわずかだけ引用 してみる。
《神 と悪魔 は充実 と空虚 ,生 産 と破壊 とによって区別 される。しか し,「 作用するもの Das Wirkende」
は両者 に共通 で ある。「作用す るもの」 は両者 を結び つ ける。 それ故 ,「 作用す るもの」 は両者 を越
えた ところにあ り,神 の上 にいる神 である。 とい うのは,そ れ はまさにその作用 によって充満 と空
虚 を一 つにす るか らである。
これは,汝 らが知 らない神 である。 というのは,人 間 たちはこの神 を忘れたか らである。我々 は
この神 をその本来の名でアブラクサス と呼 ぼ う。 この者 は神 と悪魔 よ り更 に規定 されない も、
のであ
る。 (… ……)
アブラクサスは認知 することの難 しい神 で ある。 アブラクサスの力 は最大 である。 それは,人 間
がその力 を見 ることがで きないか らである。人間 は太陽 に最高善 を,悪 魔 に最低悪 を見 るが,ア ブ
ラクサスには,あ らゆる点で規定 されない生命 ,即 ち,善 と悪 との母 を見 る。 (… ……・)
神・ 太陽が語 るものは生 命 で あ り
,
悪魔 が語 るものは死 である。
しか し,ア ブラクサスは,生 命 で ある と同時 に死 であるところの ことば,尊 敬 に値 し,か つ,呪
われた ことばを語 る。
アブラクサスは同 じ言葉 ,同 じ行為で,真 と偽 を,善 と悪 を,明 と暗 とを産 み出す。 それ故 ,ア
ブラクサスは恐 ろしい。
アグラクサスは,餌 食 となるものを打倒す瞬間 のライオ ンの ように素晴 らしい。 アブラクサ スは
・)
春 の日の ように美 しい。 … …・
(・
アグラクサスは原初 の両性具有 der Hermaphroditで あ る。 ・…・…)
(・
アブラクサスは愛であ り,愛 の殺害 である。
アブラクサ スは聖者であ り,そ の裏切者 である。 ………)° つ》
(・
一 方,『 デー ミアン』の「アブラクサス」が「神的な もの と悪魔 的な ものを結合するとい う,象 徴
的な使命 を持 つ神 の名」 であることは既 に見 た通 りである。次 に引用す るのは,ジ ンクレー アが繰
返 し見 る例 の夢 あるい は「内面的映像 Jと 「アブラクサス」 との関連 を述 べ る くだ りである。
190
武
修
《法悦 と恐怖 ,男 と女 とが混 じ,こ の上 な く神聖 なもの とこの上 な く醜悪な ものが互 いにか らみ
あ い,深 い罪 があ どけない無邪気 によって震 えて い る一 ぼ くの愛の夢の像 はそうい うふ うだった。
そして,ア ブラクサス もそうい うふ うだった。愛 は もはや,ぼ くが不安 な思 いで初 め感 じたように
,
動物的に暗 い衝動 ではなかった。 それはまた,ぼ くがベ ア トリーチ ェの像 に捧 げた ような,敬 虔 に
精神化 された崇拝 で もなかった。それは両方であった。両方であ り,更 にそれ以上の ものであった。
それは天使 に して悪魔 であ り,一 身 に して男 と女 であ り,人 間 で あ り獣,最 高善 であ り極悪 であっ
た°9。 》
両作品 における「 アブラクサス」像の類似性 ,あ るい は,一 致 は,明 白で あろう。
さて,こ の「アブラクサス」 の姿が ,こ の物語 において,ジ ンクレー ア とデー ミアンの最初 の出
会 いの時 か らエー ヴァ夫人の登場す る七 章そ して終章 (八 章 )に 至 るまで,ほ とん ど全体 に渡 って
,
ある時 は暗示的な姿 で,あ る時 は直 接名指 されて,更 にあるときは「太母 エー ヴァ」 の姿に変容 し
て,現 われて い ることは,先 に も述 べ た通 りだが,こ こで の問題 の 中心 は,ヘ ッセの描 く「アブラ
クサスJ像 が誰 か らどのような影響 を受けた ものか というような ところにあるのでは決 してない。
それよ りむ しろ, この,今,我 々が問題 にしている作品 の「要石」 となっている神的イメージが
,
先 にも触れたように,作 者 の崩壊 した精神基盤 の再建過程 で生 み出された ものであるとい う こと
,
そ して,こ の神的形姿 は,ま さに,「 明 るい世界」=「 伝統的なキ リス ト教支配 の世界 」 に住み「敬
虔 な」生活 を送 って い る人々,例 えば,ジ ンクレーアの両親 な ら断 じて拒否す るような性格 を持 っ
た神 のイメージで ある, という点 にこそ注 目すべ きであろう。
この作品 には,「 ぼ くはただ,自 分 の内か らおのず と出 て こよ う とした ものを生 きてみようとした
にす ぎない。 それが何故 こんなに困難 だったのだろう6° 。」 とい う題辞 が付 されている。ヘ ッセは
,
先 に も述 べ たように,大 戦 中の 1916年 5月 か ら一 年以上 に渡 って通計 60回 に及 ぶ精神分析 を受 けた
が,こ の分析 を受 けて いた当時のヘ ッセの心構 えこそまさに「 ただ 自分 の 内か らおのず と出 て くる
ものを,生 きてみよう」 とするものであったであろう。 そ して,ヘ ッセが この とき自分 の内部 に見
出 した ものは,予 想 をはるかに越 えるほ どの「大 きな無秩序60」 であった。次 に引用す るのは,こ
の時期 のことを数年後 に振返 ってみたヘ ッセ 自身 の言葉 である。
結局,病 気 で,苦 しみのため半 ぼ気 の狂 った私 は,私 自身 に返 り,そ して,今 ,私 自身 の心 を
《
整理 しなければな りませ んで した。何 よ りも,私 が以前欺 き去 って いた もの,さ もなければ,言 わ
ずに隠 して いた ものすべ てをよく見 ,認 知 しなければな りませんで した。私 の内部 のすべ ての混沌
とした もの,野 蛮 な もの,本 能的なもの,「 悪なるもの」を。私 はそのために,私 の以 前 の美 しい調
和 の とれた文体 を失 いました。私 は新 しい調子 を捜 さねばな りませんで した。私 は,私 自身 の 内部
ヘルマ ン・ ヘ ッセの 『デー ミアン』 191
のすべ ての未解放 の もの,原 初的な もの と血み どろの戦 い をしなければな りませんで した一 それ ら
を根絶や しにするためではな く,そ れ らを理解す るために
(…
…)6° 。》
当時 において も最 も信仰 に篤 い,最 も敬虔 な家庭 に育 ったヘ ッセの所謂 「無意識」 には,無 視 さ
れ,追 い払われ,「 抑圧」された ものが厚 い層 を成 して いたであろう。先 に引用 したデー ミアンの言
葉 に見 られ る性 生活 に対す る言及 ,父 親殺 しの夢,禁 欲 のためにほ とん ど狂気 の相 を帯 びた少年 ク
ナウエル,こ れ らはすべ て,ヘ ッセが 自己 の心の深 部 を凝視す るところか ら得た 自己批評 の言 で あ
り,自 己の秘密の心的経験 で あ り,も う一つの 自己の姿であろう。 しか し, これ らはおそ らく,当
時 のヘ ッセの 内的経験 の見易 い部分 である。
ヘ ッセに とって当時の精神分析体験 が何 か決定的な意味 を持 った とすれば,そ れはヘ ッセが この
行為 を通 して,聖 書 の神 とは異 なる々 で卿 ?押 々尊で'い ?琴 部 に牽早 ヤ々,と い う点 においてであ
ろう。 そして,こ の神 こそ,あ えて名 づ けれ ば,「 アブラクサ ス」あ るいは「 エー ヴア」と呼ばるべ
きものであった。
言 うまで もな くこれは推測 だが ,こ う考 えなければ,ヘ ッセ 自身 の現実の体験 と夢 を上台に して
成 る作品 の 中で,「 アブラクサス 三エーヴ ァ」の形 姿がその 中心 に据 えられて いる理 由は,全 く不明
になる。 ヘ ッセ 自身 に「アブラクサス」 という言葉 も, この神 の何 たるか も知 られて いなかった ろ
うが,ヘ ッセの夢 は,ア ブラクサス的形姿 を一 それが どのような もので あれす 産 み出 し,お そ ら
く,そ れが,の ちにユ ングの 『七 つの語 らい』 あるい は,そ の他 の文献 によって,「 アブラクサ ス」
の名 が与 え られたのだ と思われ る。
そして,こ の「アブラクサ ス」 において重要なのは,繰 返す ことになるが, この神 が「 神的 な も
の と悪魔的な ものを結合する」 もの,「 天使 にして悪魔 で あ り,一 身 に して男 と女 で あ り,(・・…・)
最高善 であ り極悪」 なるものであるとい う点 である。ヘ ッセが伝統的 なキ リス ト教信仰世界 の 中で
「天
申的な もの」
も最 も敬虔 な家庭 に育 った,と い う ことか ら推測 され るように,ヘ ッセに とって,「 ネ
使」「男性的な もの」 (キ リス ト教 の神 ,あ るい は,三 位 一体 には,全 く女性的要素 がない),「 善 な
るもの」の方 は,熟 知 した ものであった。 つま り,ち ょう どエー ミールに とってそ うであつた よう
・)大 部分 な じみ深 い もので あった°9。 」それ故
に,ヘ ッセに とって も「 この (明 るい)世 界 は …・
(・
,
「悪魔 的な もの」「獣的な もの」
「女性的な もの」 を,自 分 の心の深奥にお いて,つ ま り,自 分 の夢
の描 く神的形姿の中 に見 い出 し,こ れ を己れの「神」の本質的一面 として認知す る ことは,決 して
全 く心の抵抗のない もので はなかった。それは先の ヘ ッセの言葉 が示 して い る通 りである。しか し
,
それは疑 い もな くヘ ッセ 自身 の心が産 み出 した もの,あ るいは,少 な くともヘ ッセの心 を通 して産
み出 された ものであった。だ とした ら, これを,自 分 の もの,あ るい は,自 分 もか かわ るもの とし
て認 めないわ けにはいか なかったはずである。 そしておそ らく,こ の 自己 の内心の凝視 と,そ こに
産 み出 される醜悪なるイメージ との格闘 を通 して,ヘ ッセが,自 己の本質的一面 として,ひ いて は
,
人間に普遍的な一側面 として,「 悪 なるもの」の存在 を認知 した とき,ヘ ッセは,人 間 と世界 の全体
192
武
修
像 が生 き生 きと甦 るのを覚 えたので はあ るまいか。「 自己 の 内なる悪」の認知 には,何 かい まわ しい
思 いが伴 っていたで あろうが,こ れを認 めることによって,「 生」が,「 人 間 の全体像」が,力 強 く
,
「ある深 い魅力」 をもって甦 ってきたので はあるまいか。
この ように して,「 アブラクサス」の神 が,ひ とたび崩壊 した この作家の精
神基盤 の再建 を保証す
る作 品にお ぃ て,そ の「要石」の部分 に据 えられ ることになったように思われ る。
5
我 々 はこの小 論 を, トーマス・ マ ンの『魔 の山』 において主人公の見 る意 味深 い夢 が象徴的 に表
わす もの と,作 品『デー ミアン』 を支 える基本的認識 との類似性 について述 べ るところか ら始 めた
が,こ のマンの大作 『魔の山』の,い わば作品成立の前提 となってい るのは,例 えば次の,主 人公
ハ ンス・ カス トルプの心身状態 を叙 した くだ りに読み取 られ るような
,穏 やかではあ るが全 く悲観
的な時代認 識 である。
《わた くしたち人 間 は,個 々の存在 としての個人的な生活 を生活 しているばか りでな く,意 識的
にせ よ無意識的にせ よ,自 分の時代の生 活や 自分 と同時代の人々の生活 をも生活 して い るものであ
る。 そ してわた くしたちが,自 分の生存の普遍的な非個人 的な基礎 を絶対的 に与 え られた 自明 な も
の と見 な して,善 良なハ ンス・ カス トルプの ように,そ れを批評 してみようなどい うことは一 向 に
思 いつかない として も,も しそうい う基確 に欠陥があれば,そ のために 自分 の精神的な健康がそ こ
なわれているとい う漠然 とした感 じを持 つ ことは,大 い にあ り得 ることで ある。個々の人 間 に とっ
ては,い ろいろな個人的な目標や 目的や希望や見込みなどが眼前に浮 かんできて,そ うい うものか
ら高度な努力や活動 へ 向か う衝動 を汲み取 ることができるか もしれない。 しか し,わ た くしたちの
日甲?非 岬本中ぞや?上 々t々 々'時 いそ?や ?が ,外 見はすこぶる活気にあふれているにもかか
とすれば,つ まり,時 代が希望も見込みもなくて
々々ギ,中 零年有雫ヤ々奪雫甘昇44そ 持々有し
↑
途方 に くれている実情 をわた くしたちにひそかに認識 させて,意 識的 にか無意識的にか, とにか く
なんらかの形で提出される質問,い っさいの努力帯て砕?菊 揮中ぞ導揮本中4禅
秤中4蔦 昧如q埓
学
fつ て甲好却 ヤて,つ ?々 奪準黙そマぐ とすれば,そ うい ぅ事態が,普 通 よりも誠実な人間に対 し
てこそ,一 種 の麻痺作用を及ぼすのは,ほ とんど避 けられないことであろう。そして, この作用 は
個人の精神的道徳的な側面か らさらに肉体的有機的な側面へ とひろがってゆきかねないのである。
4々 ?々 や年1等 し
f⊇ 軍甲に
村│て 時いギロ尽4輝 ギそヤてヽそ4しfの に,現 に与えられているも
のの標準 を抜 くような,顕 著な業績 を挙 げる気 になるためには,め ったにない,英 雄 的な性質の
,
ひたむきな精神的孤独か,ま たは,非 常 に退 しい活力が必要である。0。 》
つ ま り,『 魔 の 山』は,主 人公の生 きる19世 紀末 か ら20世 紀初頭 を,人 間 の生の意味合 に
関す る究
極的な間に対 して,本 質的には,い かな る答 も用意す ることがで きな くなった時代 と規定 し, これ
ヘ ルマ ン・ ヘ ッセの 『デー ミア ン』
193
を前提 として,物 語 を展 開 して い る作品なのであ る。 そして, この時代認識 はまた作品『デー ミア
ン』 のそれだ と言 って もよいよ うに思われ る。 この作品の 中 に も,例 えば,次 のような言葉 が読 ま
れ るか らである。
《(こ うして,ぼ くたちが集 めたすべての ものか ら,現 代 と現代 ヨーロ ッパ に対する批判 が生 まれ
た。)一 恐 ろ しいほ どの努力 をして ヨーロ ッパ は人 類 の強力 な新武器 を創 り出 したが, しか し,つ
いに,深 刻な,惨 愴 たる精神の荒廃 におちこんで しまった。 それ とい うの も,ヨ ーロ ッパ は全世界
を獲得 したが,そ のために,己 が魂 を失ったか らである°D。 》
《百年以上 もの間,ヨ ーロ ッパ はただひたす ら研究 し,工 場 を建 てて きた /人 々 は,一 人の人間
を殺すのに幾 グラムの火薬 がいるかは,正 確 に知 ってい る。 しか し人々 は,神 にどのように祈れ ば
よいか知 らな い。 どうした ら一時間満足 した気持 ちで い られ るかす ら知 らない。 まあひ とつ,学 生
集会所で も見てみた まえ /あ るい は,金 持連 がやって くる娯楽場 で もいい /絶 望だ /。 つ
物語 の設定年代 は全 く一 致 して い るのだか ら,今 も言 ったように, ここには『魔 の山』 と同 じ時
代認識 があると見 てよいであろ う。 しか し,引 用文が示す ように,『 デー ミアン』における時代認識
は,単 に時代認識 というより,む しろ,時 代批判 で あ り,当 時 の ヨーロ ッパ 批判 である。それ も
,
ある確信 に満 ちた,極 めて徹底 した批判 のように見 える。我々は ここで, この作品 に見 られ る「現
代 ヨー ロ ッパ批判」 とで も言 うべ き側面 に注 目して, これ まで述 べ てきた ことと関連 させなが ら
この作品の持 つ問題′
性を更 に明 らかにしてみたい と思 う。
,
おそ らく,こ の作品 における現代 ヨーロ ッパ批判 の核心 を成 しているの は,主 人公の最 も重要な
導者の一人 ピス トー リウスの次の言であろう。
《ぼ くたちの宗教 はまるで宗教ではない ように営 まれている。 まるで知 的な仕事で でもあるかの
ようになされている163ち 》
つ まり,「 中世 の巡礼や乞食 にみ られ るような敬虔 ,い っさいの宗派 を越 えた ところにある世界感
情 にな りふ りか まわず帰依す るような敬虔」 °はめったに見 られず,多 くの人々 はただ「 賢明な言
“
葉 を聞 くために,義 務 を果たすために,何 事 も怠 らないために°D」 教会 へ やって くる。そして,他
・)三 位一体やイエ ス
方 には,「 一つの神 を信 じるのはばかばか しく,人 間 にふ さわ しくない。 ―・
の処女 降誕 のような話 は全 くのお笑 い草 だ°°
」等 々 と口に して した り顔 の所 謂合理主義的無神論者
(・
たちがいる。
ここに指摘 ,批 判 されているのが,西 欧近代 において,時 代 の進 展 とともに露わになって きた人
間生活 におけ る宗教的感情 の衰微の問題 ,つ まりは,人 間生活 の平板化 ,一 面化の問題である こと
は,改 めて言葉 を費す まで もない。
では,な ぜ こうい う問題が生 じて きたのか。
修
ここが,こ の西欧近代精神史上 の大問題 を概念的 に論究す る場 で あるな らば,我 々 はまず,何 は
ともあれ,西 欧近代 の標章たる科学主義 =合 理主義的理性信仰の問題 ,そ して また,キ リス ト教 に
よる宗教 の一元化 の徹底 (異 教・ 異端的要素 の払拭 )の 問題 を取 りあげねばならな いであろう。
しか し,こ の作品 はこの間 に対 して,一 人の青年の断固たる生 を開示 して答 えるのである。
そして,こ の仮借 な き生 は端的 にこう言 って い るように見 える,我 々の多 くはある「罪 Sunde」
を犯 してい る, と。 そ して,こ の「罪」故 に,如 上の問題 は生 じて きたのである,と 。
で は,そ の「罪」 とはいったい何であろうか。 この間 に答 えるためには,こ の作品 の主人公がい
ったい何 を人間の本来 の「義務
PfliCht」
「運命 SChiCksal」 と考 えてい るか を見 てみなければな らな
いで あろう。
《ぼ くたちは唯一 次の ことを義務 であ り運命である と感 じて いた。即 ち,ぼ くたちの一人一人が
完全 に 自分 自身 にな りき り,自 分の内で はた らいてい る自然の萌芽 を完全 に正 しく遇 し,そ の意志
に従 って生 きることによって,不 確実な未来が何 をもた らそうとも,そ のすべ てに対 して心の準備
°う
々▼てや ヽ琴準― この ことで ある 。》 ´
だ とすれば,我 々の多 くが犯 してい る「罪」 とは何 であろうか。
°°
それは,デ ー ミア ンがジンクレーアの饒舌 をとがめる時 に言 うように,「 申倉 専三☆ゝ々畔 4ぐ 」
とい う ことで ある。「人 は亀の ように自分 自身 の中 に完全 にも ぐりこまなければならぬ。9」 とデー ミ
ア ンは言 う。
では,な ぜ,「 自分 自身 か ら離れ る こと」が「 罪」 で あるのか。換言すれば,「 自分 の内ではた ら
いている自然 の萌芽 を完全 に正 しく遇す る」 ことが,な ぜ,人 間 の「唯―の義務」 なのか。
ここで,第 一 次大戦後 の1919年
(『
デー ミアン』が発表 された年)に 書 かれた『クライ ンとヴーグ
ナー』 の中の,主 人公 フ リー ドリヒ・ クライ ンについて述 べ られた一 節 が思 い出 される。
《いつ も彼 は何かで忙 しか つた。 いつ も何か自分以外の ことで忙 しかつた 。 いつ も何 か用事 が あ
り,心 配 ごとが あった。お金の こと,役 所 における昇進 の こと,家 庭 の平和 ,学 校 の こと,子 ども
の病 気 の ことなど。 いつ も,市 民 として,夫 として ,父 親 としての大 なる神 聖 な義 務 が 彼 の まわ
りにはあ り,そ の保護 ,陰 の 中で彼 は生 きて きた。 それ らの義務 に彼 は犠牲 をささげた。 それ らの
°
義務 か ら彼 の人生の正 当性 と意 味 は出 てきた
・ 。》
おそら く,こ の「いつ も何 か 自分以外 の ことで忙 しい」 クライ ンの姿ほど,現 代 に生 きる実 に多
数の生活人の端的な写 し絵 となっているもの も少 ないで あろう。 クラインは平 凡 な市民 ,と い うよ
°1ち
り,実 の ところ,「 立派な天性 を備 え,神 的な ものを感 じる力があ り,愛 す ることので きる人間
「自
なのだが,市 民 として,夫 として,父 親 としての義務 を果す ことに明 け暮れて,つ ま り,ま さに
分 の 内ではた らいてい る自然の萌芽 を正 しく遇 し,そ の意志 に従 って生 き」 なかったが故 に,中 年
に至 って,心 の奥底 に 目を醒 した暗黒 の力 に引 きず られて,思 わぬ犯罪 をおか して しまうのである。
この クラインの生活態度 と彼 が犯 罪者 にな らねばならない とい うその宿 命 とに,作 者 が,合 理主
ヘルマ ン・ ヘ ッセの 『デー ミア ン』
195
義的理性信仰 の時代 たる西欧近代 の コー ロ ッパ人 一般 の生 活態度 と,ヨ ーロ ッパ が近 代科学 の精華
を持 ってす る人間殺動の戦場 とな らねばならなかった とい う運命 とを,重 ね合 わせて見 て い る こと
は疑 い ない。近代 ヨー ロ ッパ とは,何 はともあれ,人 間 の外 なるものに価値 を置 き, これに血道 を
あげて きた時代である,と 作者 は言 いたげに見 える。そ して,そ うす ることによって,司 々が現
「己が魂 を失 って
に見 ているように一ゴ ヨーロ ッパ は全世界 を獲得 した」。 しか し,そ の代償 として
しまった」,つ まり,犯 罪 を行 う前のク ラインのように,生 きる意味合 を紛失 して しまった。そして
この空虚 か らのあが きが,ク ライ ンにおいては,公 金横領 という犯罪であ り,ヨ ーロ ッパ人一般 に
,
おい ては,第 一 次大戦 である一
しか し,作 品『クライ ンとヴーダナー』 は,主 人公 を犯罪の道へ踏み込 ませ ることによって,彼
と,彼 を犯罪 へ と誘 った暗黒の力 とを対面 させ,ま さにこの心の奥底の魔的な力 との格闘 を通 して
,
新 たな生の意味合 を発見 して い く過程 を描 くもので ある。 つ まり,こ こに もまた,人 間 の心の奥底
には,そ れ を無視 し,こ れ との対決 を避 ければ,人 間 に恐 るべ き不幸 を招来す る魔力 ともなるが
,
それ を「正 し く遇す」れ ば,生 の意 味 を産 み出す神的 な力 ともなる「 自然力」 あるいは「神・ アブ
ラクサス =エ ーヴ ァ」が存する, とい う認識 が ある,と 見 てよいで あろう。上 に言 った ように,ク
ライ ンの運命が近代 ヨー ロ ッパ の運 命 に重ね合 わせ られ る部分があるとすれば,人 間 の外 なるもの
にあまりに も重 きを置 いて魂 を失 った近代 ヨー ロ ッパ の再生 の道 は,ク ライ ンが犯罪 をおか したの
ちそうしたように,人 間 の 内へ帰 り,そ の 内奥 に存す ると思われる魔的 で もあれ ば神的 で もある力
と対面 し,こ れ と格闘す る以外 にはない ことを, この作 品は暗示 して い るのである。
E罪 者 とな らなかった とすれば,彼 の後半生 はど
ところで,で はもしフ リー ドリヒ・ クライ ンが必
うなったのか ?こ の一見意味 をなさぬ間 を問 うてみるというの も,作 品 『デー ミア ン』 における現
代 ヨーロ ッパ批半Jは ,ま さに「犯罪 をお こさぬクライ ン」 を こそ最 も激 しく問題 に して い るのでは
ないか と思われ るか らである。つ まり,ク ライ ンが,犯 罪 もお こさないが,「 自分 の内で はた らいて
い る自然の萌芽 を正 しく遇す る」 こと もしな いな らば (彼 が犯罪者 になった とい うの も,彼 が ,犯
罪 を行 う以前 に も,己 が 内なる自然力 と多少 ともかかわって いたか らである),彼 の生活 は退屈 な
,
平板 な ものになったであろう。 そ して, これ こそ現代 に生 きる多数の人 々の「生」な ので はな いか。
物語 も終 り近 く,デ ー ミアンがジンク レー アの宿所 に駆 けつけて,開 戦 の近 い ことを告 げる くだ
リー
布告 はまだだ。しか し,戦 争 になる。 ・…・)そ れが どうい うふ うに進むか,見 ていた まえ。人々
《
(・
は喜び勇むだろう。 もう今か らだれ もが開戦 を楽 しみにして いる。 そゃ暉ギ冬ででぞ 4暉 等Pて
∼
。2ち
味気 な くなったんだ 」
(こ
の言葉 には少 し注釈 を加 えてお こ う。 これは,当 時 の人々の生活が この作品 の作者 にはそう
い うふ うに見 えた,と い うような ことを言 って いるので はな い。「推量」で はな く「事実」なのであ
る。無論ぅすべ ての人の生活が そうであった とい うので はな い。 つ まり,ヘ ッセ は,当 時 ,生 活 に
196
武
退屈 しきっている人々 を現 に己れの眼でみたのである。例 えば,ヘ ッセの1914年 10月 15日 の 日記 に
は,あ る陸軍病院 で一人の老婦人 に出会 った ことが記 されている°3七 それはのちに次の ように回想
された出来事 で ある。
《
私 は戦争 の最初 の年 の小 さな体験 を決 して忘れたことがない。志願者 として変化 した世界 に何
らかの形で有意義 に)買 応す る可能性 を求 めて,私 はある大 きな陸軍病院 を訪れ た。 …・。
)そ の戦傷
(・
者病院で一人の老嬢 と知 りあった。 この婦人 は以 前は金利で結構 な生活 をして いたが,今 は この病
院 で看護婦 として働 いてい るのだった。彼女 は涙 ぐましい ほどの感激をもって, この大 い なる時代
を体験 することがで きたのは,ど んなに嬉 しく誇 らしいか とい うことを,私 に語 った。 それ は私 に
理解で きない ことではなかった。 とい うのは, この婦人 に とっては,そ の怠惰 な,一 か ら十 まで利
己 的 なオール ド・ ミスの生活 を,活 動的で よ り価値 ある生活 にす るためには,戦 争 が必要だったか
り
らである
・ 。》
負傷 した兵士 に満 ちた病院 で, これ までの退 屈な生活 をやめ,看 護婦 として働 ける己れの喜 びを
語 る一婦人 /こ の婦人 に出会 った ことは,ヘ ッセに とって,お そ らく,誠 に胸 の痛 む, しか し,い
かに も時代 を象徴す る出来事 と思われた ことで あろう。)
おそ らく人間 は,己 れの内部 に充実 した生 活内容 を見 い出す ことができな くなった とき,自 身の
外部 に刺激的な出来事 を求める。戦争す ら求 める。無論 この作品は,戦 争 の原因如何 というよ うな
議論 はどこで も行 なっていないが,戦 争 とい う この世 における人間の一大不幸 も,そ れを意 識す る
と否 とにかか わ らず,窮 極的には,人 間 が欲 し,押
茸煮ギ で ものであることを, しか と見据 えて い
ると言 ってよいで あろう。
さて,我 々 は上 に見 たように,「 自分 の内ではた らいている自然 の萌芽 を正 しく遇 し」ない ことの
帰結 を,我 々の現実の うちに明々 白々 と見 ることがで きるわ けだが,そ れに もかかわ らず我 々 は
,
この「 自分 自身 か ら離れ る」
「罪」を犯 しつづ ける。 それは,自 分の内に働 く自然の力 を遇 す ること
の困難 を,我 々が どこかでよ く知 っているか らであろう。我 々の 内部 に芽生 える自然力の うちには
,
我 々 を圧 倒す るもののあることを,我 々 はよ く知 っているので ある。 この力 はち ょう どあの フラン
ツ・ ク ローマーの ように強力 で悪意 に貫 かれているように見 え,我 々は,ち ょうど幼 いジ ンクレー
アの ように,こ れ を恐れ るのである。
しか し,こ こで思 い起 こさね ばならないの は,ジ ンク レー アが クローマー を恐れ るだけで はな く
,
ク ローマー事件 を自分 の「運命」 と直覚 し,そ れ まで したように両親 の助 けを借 りて この災 いか ら
逃れ ようとはしなかった,と ぃうことで ある。 そして,こ の
「直覚」,つ まり,ク ローマー事件 を自
分の「運 命」 として見 ,少 年 を踏 み とどまらせた「直覚」は,ジ ンク レー アの場合 には,次 第 に 自
覚 されて,自 己 自身 に対する「信頼」,自 己の運 命 に対 する「責任」へ と育 ってい くのである。 とい
うよ りまさにこの 自己信頼 ,自 己の運 命 に対す る責任意識の深化の過程 こそ,ジ ンクレー アが歩 む
「 自己 自身 へ至 る道 」 その ものなのである。
ヘル マ ン・ ヘ ッセの 『デ ー ミア ン』
197
ところで,こ のジンク レー アの 自己 に対する信頼 ,自 己の宿 命 に対 する責任意識の深化の過程 は
,
この作品 においては,そ の ままこの主人公のデー ミアンに対す る関心 ,傾 斜 ,信 頼 ,一 致の過程 と
なって い る。 ではいったい,デ ー ミアンとは何者 であろうか。最後 に, この点 に若子 の考察 を力日え
て, この刻ヽ
論 の結 び とした い。
6
これ まで述 べ て きた ところか ら,デ ー ミア ン を,例 えば,あ の 「 神 的 な もの と悪 魔 的 な もの を結
合 す る」 神 「 ア ブ ラクサ ス =エ ー ヴ ァ」 か ら遣 わ され た使 者 , と規 定 して も,こ れ を的 はずれ と言
う こ とはで きな い で あ ろ う。 この論 の初 めに引用 した デー ミア ンの 言葉 は, この よ うな使 者 の 言 と
して いか に もふ さわ し い と言 え よ う し,ま た ,デ ー ミア ンに は まぎれ もな い 「 ア ブ ラクサス =エ ー
ヴ ァ」神 の使者 的要素 が ほか に も認 め られ る。例 えば,倒 れ て血 を流 し続 け る馬 を見 つめ る少 年 デ
ー ミア ンの顔 ―
《ぼ く
(ジ
ンクレー ア)は デー ミア ンの顔 を見た。 そして,彼 が少 年 の顔 ではな く,大 人の顔 を
してい るのを見 ただけで はな く,そ れ以上の ものをぼ くは見たのだ。 それは大人の顔 でもな く,夏
に何か ほかの ものであるのを見たように,あ るい は,感 じた ようにば くは思 ったのだ。 そ こに は何
か女の顔 の要素が混 じって い るように思われた。そ して とりわけ, この顔 は一瞬間,男 のようで も
子 どもの ようで もな く,老 人で も若者で もな く,何 か千年 もたって い るような,没 時間的な,ぼ く
°
たちが生 きてい るの とはちが う時の流れの刻印を押 されて い るもののように思われた
・ 。》
男性的要素 と女性的要素 の混合。そ して また,没 時間性。 これ は,両 性具有 の神「ア ブラクサス =
エーヴ ァ」の使者の外貌 に見 られ る特徴 として,極 めて似合わ しい ものであろう
・ °。
しか しなが らまた,デ ー ミアンを,文 字通 り,ジ ンクレー アの年長の友人 , ものに通 じた断固た
る性格の友人 と見な して も,何 ら話の辻棲 が合わないわけではな い。
つ まり,デ ー ミアンは一義的 に規定 で きない存在 なのであ り,そ れ故 に,彼 は一個の象徴的存在
として生 きてい るのである。
次 に引用す るのは,「 デー ミアン Demian」 とぃ う名前の出所 に触れた,ヘ ッセの書簡 の一節 であ
る。
《デー ミアンという名前 は私 が考 え出 したので も,選 択 したので もあ りません。 そうではな くて
,
私 はこれをある夢 の 中で知 ったのです。 そして,こ の名 が私 にたいへん強 く呼びかけてきたので
°つ
私 はこれ を私 の本 のタイ トルに したのです 。》
,
「 デー ミアン」 の名 がヘ ッセの夢 に現われ た ものであ り,つ まり,ヘ ッセの意識 を越 えた ところ
か ら現われ出て きた ものであ り,そ して また,こ れがヘ ッセに強 く語 りか ける ものであった, とい
198
武
田
修
志
う ことは,ま さに, この作品 におけるデー ミアンのさらなる一 面 をその まま言 い表わ して い る。
少年 ジンクレーアがデー ミアンと三 度 目に話 を交わす くだ リー
《夢 の 中でのように,ぼ く
(ジ
ンクレー ア)は 彼 (デ ー ミアン)の 声 に,彼 の影響力 に,屈 服 し
・)そ こで語 っているのは,ぼ く自身か らしか出 て くる ことので きない声ではなかったか。
た。 …・
(・
い っさいを知 って い る声で はなかったか ?い っさいをぼ く自身 よ りよ りよ く,よ りはっき りと知 っ
てい る声ではなかったか ?④ 》
そ して,二 人が最後 に別れ てい くときのデ ー ミアンの言葉―
《ジンクレーア,よ く聞 くんだ。ぼ くは去 って行 かねばな らない だろう。君 はぼ くをいつか また
必要 とす るだろう,ク ローマー,あ るい は,ほ かの何者 かに対 して。 その ときば くを呼んで も,ぼ
くはもうそう無造作 に馬 に乗 って,あ るいは,汽 車 でやって これるわけ じゃな い。 その ときは,君
の内部 に耳 を傾 けねばな らな い。 そうすれば,気 づ くだろう,ぼ くが君 自身 の内 にいるとい うこと
に(79)。 》
か くして,デ ー ミアンとはまた,ジ ンク レー アの人格 Personlichkeitの 核心 た る「本来的自己」
か ら,彼 の意識性 の中核 たる「 自我」 へ 向か って発 せ られ る声 ,ひ とことで言 えば,ジ ンクレー ア
の内奥 の魂 の声 の象徴 とみなせ よう。
そ して,ま さにこの作 品の作者 は, この本来的自己か らの呼び声 に注意深 く耳 を傾 け,能 う限 り
の人 間的誠実を持 ってその導 くところへ附 き従 い,つ いに は,己 れの魂 の深 淵 へ降 り立 ち,そ こに
,
みずか らの「神」 を発見 したのであ り,こ の発見 を通 して,崩 壊 した 自己 の精神基盤 を建 て直す こ
とに成功 したのである。作品の「完壁」 と「真実」 は この成功 を証 している。
あかし
註
(1)地 名。 のちに触れ るヘ ッセの精神分析 を行 った J・
B・ ラング博 士が,当 時 , この地 に住 んで いた。
(2)C G Julag:Briefe IH,Walter― Verlag,01ten u Freiburg im Breisgau,1973,S384f
(3)siehe Neue Rundschau,Heft 10,Oktober 1919,Anzeigenbeilage,in i Hermann Hesse im Spiegel der
zeitgen6ssischen Kritik,Francke Verlag,Bern u.
【
unchen, 1975,S174
(4)ThomaS h/1ann:Die neue Rundschau(StOCkh61m),Heft 7,Sommer 1947,S245ff,in:Hermann Hesse
illa Spiegel der zeitgenё ssischen Kritik,S189
(5)Hermann Hesse:Demian,in:Hermann Hesse Gesammeite Schriften in sieben Bttnden,Suhrkamp
Veriag,1958,Dritter Band,S236
(な
お,こ の金集版 か らの引用 は,以 下 においては,作 品名 と巻 数 とペー ジ数のみ を示す。)
(6)Demian,3,S228
(7)Thonaas Mann:Der Zauberberg,in:Gesammelte Werke in dreizehn Bdnden,S Ascher Veriag,1974,
Band IH,S677ff
(8) ebd S1685
(9)Demian,3,S156f
10
入院期間 は 4月 ∼ 5月 末 までの一 カ月余 り。分析 は1916年 5月 ∼1917年 11月 までの60回 。
ヘ ルマ ン・ ヘ ッセの 『デー ミア ン』
199
vgl Hermann Hesse eine Werkgeschichte,hrsg Siegfried Unseld,suhrkamp taschenbuch 143,S.55,u
ULveヽ Volff:Hel mann Hette Demian― Die Botscllaft vom Selbst,Bouvier Verlag Herbert Grundmann,
Bonn,1979,S.4
Vgl.CG_」 ul■ g:Briefe H,S183
t〕
参照。湯浅泰雄『 ユング とキ リス ト教』 (大 文書院 1978年 )同 『ユ ング とヨーロ ッパ精神』 (同 1979年 )
参照。湯浅 『ユ ング とキ リス ト教』。特 に283ペ ー ジ。
Qり
19
lo Demian,3,S.103
(151 ebd_S107
10 ebd Sl10
1171 ebd S 108
110 (10 ebd.S l14
120 12) ebd.S l15
② ebd.S.123
931
ebd.S125
90
聖書創世記 4章 15節 。
99 Demian,3,S125f
120 ebd.S,127
1271 ebd S.127
120 ebd S.1271
120
ebd.S.128
00
ebd S142
1
0, Uwe Wolff:Hermann Hette Demian― Die Botschatt vom Selbst,S36
1321
Vgi C G Jung:Erinnerungen Traume Gedanken,aufge2eichnet und herausgegeben vOn Aniela Jaffё
ヽ alter― Verlag,01ten u Freiburg illa Breisgau,Achte Auflage 1976,S.206
,
│「
参 照。 湯 浅 『 ユ ング とキ リス ト教 』 141ペ ー ジ。
vgi ebd S_188
この キ リス ト教形 而上学上 の大 問題 を,こ こで 詳 し く検 討 す る用意 は我 々 に はな い。 また 特 に その必 要 もな
い よ うに思 われ る。 こ こで は,伝 統的 な キ リス ト教 支配 の世 界 にお ける ご く一 般 的 な「悪 」排 除 の傾 向 を見
れ ば足 りるので あ る。
00
siche Demian,3,S137
137)
ebd S 124
1981
ebd S 185
1d91
ebd.S183
140
ebd S 185
140
ebd,S.186
1421
ebd S.188
1431
ebd S 190
140
siehe Meyers Enzyklopadisches Lexikon, Bibliographisches lnstitut, WIannheiln, 1971, Band l, S_
118 u vgl Uwe Wolff:Hermann Hesse Dernian―
Die BOtschaft vom Selb載
,S20:こ
こで ゥー ブ ェ 。ブ
ォル フは次 の ように述 べて い る,「 たぶ ん アブ ラクサ スはバ ジ リデ スの 発明 で あ ろ う,こ の形 姿 はバ ジ リデ ス
において初 めて現われ るのだか ら。」
8)バ ジ リデスの著 作 といった ものが残 っているわ けではない。 バ ジ リデスを「異端 Jと
して批難 ,攻 撃 した教
父た ちの著作 が残 っているのである。
O vgl Demian,3,S187 ここにこう書かれている,「 しば らくのあいだ,ぼ くは大 いに熱心 に
“
(ア
ブラクサ ス
の)跡 を追 い続 けてみた。 しか し,前 進 で きなかった。 アブラクサスを求 めて図書館 中を くまな く捜 したが
成果 はなか った。J
,
200武
田
修
志
留, vgI Uwe W01ff:Hermann Hesse Demian― Die Botschaft vOm Selbst,S15ff
80 C G Jung:Erinnerungen Trdume Gedanken,S193f
19
参照。荒井献 『原始 キ リス ト教 とグノー シス主義 』 (岩 波書店 1971年 )
60
ebd S171
6)Demian,3,S142
621 C G JungiVn SERMONES AD〕 ッ
IORTUOS,in:Erinnerungen Trdume Gedanken vOn C G」 ung,S
389
631
ebd S 392
60 ebd s 392f(こ の箇所の訳出に際 して,河 合隼雄・藤縄昭・出井淑子氏訳 『ユ ング 自伝』 (み すず書房 )を 参
考 にさせていただ いた。
)
69 Demian,3,S188f
661
ebd S 101
6, KurzgeFasster Lebenslauf,4,S478
60 Hermann Hesse:Gesammelte Briefe Erster Band 1895-1921,Suhrkainp Verlag,Frankfurt am Main,
Erste Auflage 1973,S424
60 Demian,3,S103
6け Thomas Mann i Der Zauberberg,S50 圏点引用者。 (引 用訳文 は
,『 世界文学大系54 トーマ ス・ マ ン』
筑摩書房 ,26∼ 7ペ ージ〕 における佐藤 晃―氏 の訳 をその まま使わせていただいた。
〔
)
GD Demian,3,S238
1621
ebd S 228
63) ebd S 204
1641
ebd S 192
ol
ebd S 204
6「
160
ebd S 154
ebd S 238 圏点引用者
6り
160
ebd S 160
1691
ebd S 160
90 Klein und Wragner,3,S476f
1711
圏点引用者
ebd S 527
1D Demian,3,S250f
圏点引用者
T3)siehe Hermann Hesse:Politik des Gewissё ns,Die politischё n Schriften 1914-1932, Erster Band,
Suhrkamp Veriag,Frankfurt am Main,EIste Auflage 1977,S30f
1741
Kurzgefasster Lebenslauf,4,S475f
\
圏点引用者
ちなみに,(こ の作品 に濃 い影 を投 げかけている)「 グノー シス主義」は,「 完全人 Jを 「一種 の両性具有的存
99 Demian,3,S146
90
在 とみなJす 。「 グノー シス主義者が理想 とす るヘルマ フロデ ィテ (ヘ ル メス δ十アフロディテ ♀。引用者註 )
的人間 は,男 性 と女性 ,天 上 と大地 が分化す る以 前の太初 に復帰 した人 間である。
」―湯浅『ユ ング とキ リス
ト教』 175ペ ージ及 び185ペ ー ジ
97) In:Gesammelte Werke in zwbif Bょ nden,werkausgabe editiOn suhrkamp,EIfter Band,S36
10 Demian,3,S135
90 ebd S256
圏点引用者
附 記 。 ヘ ッ セ の 作 品 か らの 引 用 訳 文 は す べ て 筆 者 の 拙 訳 を用 い た 。 そ の 際 ,秋 山 英 夫 ,高 橋 健 二
相 良 守 峯 諸 氏 の 先 訳 を参 照 した 。 記 して 感 謝 の 意 を表 した い 。
,
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