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千代田土地鑑本社
〆 雪 ’ ザ 〆 本 社 鳥栖市駈木町1384の1 編 集 部 久留米市国分町747 編集・発行人 忠魂⑤4762番 鳥 居 重 樹 翫櫨襲講舗齪肋舗蕪繧凝旧記 だったとはいえ、政治的道 義的責任を感じないのか﹄ 庶民の感情 ⋮略⋮⋮ついでに、西日本 この時期に決勝大会を開い 北は北海道、南は沖縄と たことといい、選挙目当て 気安くいうけれど、プロの 紙の︻注︼を掲げる。 大会ならともかく、トウシ 松本氏によると、この地 は明らか。 位利用による土地操作が行 全国で25万人が参加した ロー︵素人の意︶が自費で 川敷は国の所有地である。 大分発電所 電話大代表⑯3031 福岡市渡辺通二丁目一街区82号 電話大代表⑳213一 福岡市上川端町12番18号 鴨 本社 福岡市下人参町一九四番地 久留米市西町一一一一番地 電話︵〇九二︶⑬一一六五〇乏 電話︵〇九四二二︶②三四三〇番 支店 千代田土地鑑 の役割りを果しただけであ れるのであろう。 いま少し﹃河川敷﹄につ る。自民党の目玉政策であ る﹃福祉と公害﹄の具体案 いて追求する。 筆者の知る範囲では、河 は、いったい、いつ発表さ 、 河川敷に個人の所有土地が あっては、堤防を59化した り、天災などの復旧にも支 とのくらいの距離があるか 障をきたす恐れがある。 一 . 、 こ、、 ︵現在は三井不動産に吸収 から東京まで、しつナし 当時小佐野氏らが大株主︶ ﹃河川敷は久留米市に貸し 建設省筑後川出張所長は、 本件が問題になった当初、 議会は調杏特別委員会まで つくってやかましかったが 川敷ゴルフ場の問題で、市 久留米市は、筑後川の河 大分趣きが違ってるようだ の要望によって買収し忙と いう。信濃川と筑後川では ところが田中首相は、地元 有を認めないと聞いていた なわれたのは39年から40売 年却。 ”群雨”の方は完成 確かなことは知らないから そんな理由で、個人の所 政治のカラクリ 摘録しておく。 剛 去る2日衆院予算委で4次防をめぐる問題で、社会党の石橋書記長がFS鴨 松本氏は、信濃河川敷き とっきのようになっている 朝日土地興業が入手した 柄、金と時間の空費がもっ へ サ けてるときだったので特に はげしからぬ﹄といった。 たもの、それを転貸すると たわけである。 とき国は対策に困ることが 河川敷が個人の所有地に なっていたら、洪水などの あるかも知れない。また、 また、この方は老人の話 たとえ、法律的には合法で という。 したのはふとどきだといっ の間に2人のむすこがある なって妻に逃げられ、幼い 所有主に無断で﹃又貸し﹄ 方には、田中氏の愛人︵戸 義憤を感じた。 籍謄本によれば、田中氏と この若い父親は無収入に 交換譲渡した。 ”美邸”の s2改支援戦斗機が、コンピュータによる爆撃照準装置を備えることになつ臨 を田申首相が関係する会社 東京・新宿区市谷の高級 土地は、5ヵ月後に電電公 たいない。 叩ていることを取り上げ﹃攻撃的で専守防衛を越えている﹄と主張して田螺首” 0に売却きれた。当市田中 交通事故でムチ打ち病に が“買い占めた事件”をま 住宅地の土地、約270社 ず追及、地元で﹃角栄にし 平方層を39年8月、新星企氏は蔵相だったが、蔵相を なり失職し、生活苦のため ㍑相の答えを求めたところ増原防衛庁長官が、その前に私からといって﹃ファ訓 ハントムに比べFST2改は足︵飛行距離︶が短いから、爆撃装置をつけても㎜てやられた﹄との声がある 業という不動産会社が入手 やめて自民党幹事長になっ 若い父親が生後5ヵ月余の たとたん、電電公社はこの わが子を刺殺したという新 聞を読んで、ショックを受 土地を40年6月、大蔵省に ロ ロ し ロ 返した。 の1470平方屑は入手て 後、辞任し九例がある。 と首相の答弁を求めた。首 した。この会社は、田中角 膿渡洋攻撃機能はないので攻撃用にはならない﹄と説明。これを聞いて石橋氏翫 栄氏が筆頭発起人で、同氏 貼 ﹃問題は飛行距離ではない。爆撃装置だ。首相は4次防の内容をご存じない㎞ 相は﹃日本電建社長当時、 ㍑らしい。4次防は3次防の延長というけれど、43年、当時の増田防衛庁長官沸地元から要望があったので のスポンサーである小佐野 買った。しかし、この土地 賢治氏や、同氏の秘書グル いは、爆撃装置をファントムからとりはずすとの見解を表明した。爆撃照準装剛 岬置を遣反であるといったのは政府てある。しかるにこんどの”FST2改” ㎎は売っていないし、また売 ープが取締役になっている る意思もない。国に全部寄 が、専任社員や専用電話も Ψには同装置を取りつけようとしている。増原長官の答弁は全く危弁である﹄ ㎞ け ロ ク ぬロ 田中首相の感覚 という︶が住んでいる。 子を寝せつけその寝顔を見 付することも可能だ﹄とか ない幽霊会社。 翫と言って答弁の食い違いを指摘して、意見の統一を要求して質問を留保した佐 ︻注︼プライバシーの問題 ているうちに“ふびん”に ︸ゆえに政府は7日、衆院予算委で増原防衛庁長官が、①わが国の防衛装備は州 わし、さらに﹃代議士には 新星企業は手に入れた土 だといって与党の批難があ なって、いっそ殺したほう ︵憲法上の制約で自衛上最小限のものに限られる②43年の衆院内閣委の論議は⋮⋮ いろんなものが持ち込まれ 地の半分弱、一280平方 趾 ︾ る。これを改造論と一律に 耕に木造、洋風二階建ての ったが、英国の議会でも、 がこの子のしあわせになる 予定していたファントムが行動半径の長いものだカら臨 ”美邸”を建築した。残り 陸相が女性問題で糾問され のではないかと思い殺した 爆撃装置をほとこすことによって他国に攻撃的脅威をM 考えられては困る﹄と切り 与えかねないとの配慮からだった③4次防で整備する淵 このあと、同氏は、東京 FST2改は行動半径が短く他国に攻撃的脅威を与え職 ド コ 辻和子名義になっているが 生れおちて以来寝たつきり あっても、松本氏の質問の る恐れがないので”爆撃装置”をつけることにした。 踊 市谷の土地を田中氏が関係 のわが子を、37年間介抱しような経緯によって取得し していた会社が間にたって 以上に対し石橋氏は﹃足の短さは装備の軽滅、補助隔 わずか一年間に、つぎつぎ これは6日の読売新聞の というにしては、決勝大会 つづけてきた老夫婦が、妻 たのだったら、大いに公明 タンク、空中給油や発進基地を九州、北海道に構える畑 に転売、一部屋国有地にな 切り売り。 ﹃ねらいは”総 の会場はきびしく、観客席 は長い間の看病に体をこわ さを碧いでいる。 なといくらでも仲ばせる﹄と言い政府の統一見解はこ⋮ り、一部が”田中別邸グに 選挙ストライク”/自民党 は3百人そこそこ。 “国民 して入院、双方の看護にど 物価問題や福祉計画は全 まかしで防衛力増強への拡大解釈であると批難した。 賠 なったとし、釈明を求めた ボウリング大会だが人気は 的規模”にはほど遠かった うしてよいか分らなくなり く無策。ただ、4次防だけ これはもう、石橋氏の追及通りで筆者もまったく同感臨 ﹁物価をはじめ国民生活に 思いあまってわが子を殺し それらに優先して成立させ しかし、首相が明確に答弁 さっぱり﹄という表題で、 そもそも航続距離などは、その時の事情次第でとうに縄 関する諸問題をよそに、ボ て自分も死ぬつもりだった た。新政策には福祉問題に ても変更できることだし、あるいはすでに当初から半生u しなかったため、松本氏は つぎのように毒づいている さらに﹃そして“別邸”は 自民党か初の試みとして ウリングとは﹂という野党 さすがに検察宮も、老人を 最重点をおくとうたつてる 一開いた﹁第一回田中総裁杯 関係者の批判をよそに、田 このように不幸にしたのは くせになんという矛盾だ。 画的に計算して生産されているかも知れない。憲法違㎎ 社会にも責任があるとして 佐藤前首相は政治資金規 中総裁は同9時30分、新品 きらにFST2改は、行動半径が短いので他国に脅威回これはあなたの別邸だ。こ 争奪全国決勝ボウリング大 反でないということは田申内閣の単独意見にすぎない⋮ ド ヘ ヘ ヘ ロ 脚の業界にたいする傾斜がより強まっていることは確か⋮⋮⋮ 訓 一 さらに同紙は﹃地位利用し取得/別邸建て、愛人もかこう﹄という表題で門 ⋮投機を抑えるといっている田申首相自身が、蔵相時代に地位を利用して土地踊 町 ”7日の衆院予算委員会で、共産党の松本善明氏は﹃日本列島改造論で土地㎝ 翫をめぐり疑惑を持たれることをしており土地投機の見木を示している﹄と追⋮ の ユ ≡冨輔.層﹄.ミ躍幽:i鴨≡”=﹃.闘一一閏=“.≡醐⋮=“・一二﹁一=,髄三.“=己茎晒=。“・⋮㌦・馳=開”﹃﹁∼”・一τ”曹=7・層:開=.⋮・﹃層﹃轟:=.甲∼︻=”; 活を﹂がうたい文句だが、 のボールで始球式にのぞん 抱算するのを見合わせた。 制法の改正を﹃小骨一本抜 を与える恐れはないとい・てるけれど・東南アジア挑 の女性との間に子供もあり 会﹂は、5日午前9時すぎ ますね﹄と突っ込んだ。⋮ から東京の東京タワーボウ だが、第一投ばあえなくガ まことに、哀れな話である きません﹄と言って約束し 方は、すべての国が脅威を感じると言っているし、ま⋮ リングセンターで北海道か ター。苦笑いしながらやり 自民党がこのほど発表し たが、今以て元のままであ た列強各国も“4次防”に対しては神経をとがらして臨 ⋮⋮略⋮⋮首相も、真っ赤 な顔で﹃そういう問題を公 ら沖縄まで各県の代表選手 直しの第2投も同じコース た新政策は、福祉に最重点 る。この悪法があるかぎり いる。いまや、世界じゅうの眼が、日本の軍国主義化工 の席で指摘されたことはよ を集めて行なわれた。大会 このような催しで選挙の票 をおいているとうたつてい 大企業から政治献金を受け というテーマに注がれているのである。 潤 巴 く覚えておきます。田中別 会長田申総裁、大会実行委 がとれると思っているとす る。が、 ﹃言うは易く行う ているものは、スポンサー 副次に、もっといけないのは産軍ゆ着の問題である。社会党の楢崎弥之助氏は湘 邸というが、私のものでは 員長橋本幹事長、大会運営 れば野党関係者ならずとも は難し﹄の語がぴったりの には頭があがらない。政治 川航空機のネジメーカー東京螺子をヤリ玉にあげ﹃不法に着服している﹄と指脳 資金規制法の改正が、いつ 感覚を疑いたくなる。ボウ 政府与党である。 畑摘、防衛庁を”共犯”として告発した。西日本新聞9日の記事を摘録すると⋮ ありませんソ﹄と、どなり 委員長原国民運動本部長と 声でやり返した。また女性 党幹部が顔をそろえ、司会 リングのガターなら笑い話 政党の政策は国民への公 までたってもできないのは 監八日の審議でも“防衛庁職員は供応を受けていない”といい張る増原長官にレ 問題には何も答えなかった は同党の一竜斉貞鳳参院議 ですむだろうが、議席が、 約である。それが庶民にな どうやらそのへんに原因が 隔対して﹃現場の写真を取っている﹄とすごみ、同深宮を立ち往生させた。さ副 “ガタ減り”しては﹁決断絵に書いた餅も同然という あるようだ。 松本氏は﹃この取り引き 員。全国各地を鳴りもの入 ︵らに、この日、鈴切康雄氏︵公明︶がFST2改の積載機器の契約で防衛庁哩 が行なわれている間、あな りで予選を行ない。この日 と実行の政治﹂にもヒビが ことになってしまっている だから、いかほど福祉第 則の情報が特定業者にもれていると追い打ちをかけた。 ”産軍ゆ着”は三次二三 はいるのでは⋮⋮⋮。 一を打ち出しても、彼の、 ことは、一種の詐欺行為で 諏のころから間題になっているが、総額4兆6千百億円の四次防では、防衛庁㎞ たは蔵相だった。実際に土 がいわば総仕上げ。 ﹁国民 ﹃決断と実行の政治﹄は、 ある。 地交換されたときは幹事長 的規模で楽しまれているボ いまのところ、 ﹃二軍ゆ着 ウリングを通じて健康な生 もっと詳しく知りたい 圃及し﹃首相と私的な関係にある女性もからんでいる﹄と指摘した⋮⋮⋮ 歯 、 m 具体的に数字を拐げること 治に関心を持つ人間にとり にかけてのわずか一年余の したあと、40年6月に、田 二段の愛人名義の新宿区の はできないが、旅費だって 間。その”事実関係”は、 最も興昧ある問題だから、 西日本新聞の記事をも少し 松本氏の話や同日付けの共 丹田申別邸と土地、家屋付 ちっとやそっとの金ではす まされまい。物価騰貴の折 産党機関紙﹃赤旗﹄による きで交換したという。 松本善明氏の質問は、政 1部 40円 一︷一開;一=一‘⋮堕一三⋮て一一屯ゴ三⋮叱=開響望里”=r謡:⋮ド‘=噂、¶・嗜㌧一=罫・も叱⋮臆﹂、一・≡y⋮墜・く・詮謹 一 …. =ll,”塁10h, W霊、”,’更1’1層1.ししq’=lill’賢ll’1』1圏’1【=’け1’lll脚1.1’け塁’h騨1「1船”P冨Fと.,鵬「鵬11川塁llI、、町111’」川=’』1”llll・1「[l φ 「 響昼 、 C 」 l産軍ゆ着の実体を く × 昭和47年11月20日 風 (整鑛錫蝸) 第98号 (1) \ 、 、 、 ’ 電し㍉ 3“ 。 観 民 .麗 灘躍曹 一幕︵二︶ す。お母さんわかって下さ いよ。一人の親にはもちろ んつかえねばならないが、 もっともっと悲しい親たち のことも考えねばなりませ ん。数十万、いや数百万の 兄弟たちのために、すでに 私は一身を捧げています。 思ったので、いままでお前 伝わっている。 哀感が重雄の全身にみな ねていらっしゃらなくては たつ子それは私もそう ぎる。涙が数回その頬に 在りし日の激動時代 東 んだすきがけ⋮⋮⋮しなど 次 ら田所・川俣は彼女を呼ん で、再展日比谷に見舞に行 かせた。川俣の話によれば わかりにくいバラック街を わさわざ果物籠を用意して 自分で案内して行ったとい の汚いバラックに、幸い浅 う。当時、汚物の始末が問 題になっていた。一間きり 沼はいた。開口一番、浅沼 は既に定負しており、浅沼 の象った言葉が﹁こないた 関東大震災前後のころ 三五 再上京 の馬鹿野郎! なぜ惚れて は辛らつである。 ﹁この沼 るなら惚れてると言えなん だ。誰が二度までも、お前 いきさつから、その攻撃に がって一この馬鹿野郎、 咲いている中に、もってま を見舞に行ったりするもん わった話が浅沼君の失恋の か。それを変に豪傑ふりや えば次のような事になる。 の気も知らないで⋮⋮⋮﹂ なった一かいつまんで言 それがお前の本心か?ひと ︵東徳治郎︶谷勝郎︵本間忠 の建設者同盟第三回社会問 も尻馬にのって、さんざ攻 原久︵斉藤久雄︶北耕介 前年、大震災の直前八月 といった調子に、われわれ 既に本誌三号︵三九年十二 月号︶ ﹁農民運動物語﹂の 熊本から参加した紅一点、 そう言うな﹂といろいろ弁 伊藤こま子さんが念々の美 解していた践沼が、急にだ 人だったので、随分と皆の まってしまった。見ると、 あの大男がポロポロ泣いて ツリと言った。 ﹁おれはバ いるのである。そして、ポ 関心をひき、同盟の若武者 まいたようである。 ︵本誌 ばらにもそれぞれの話題を 八○号参照︶その伊藤女史 ージンに申込みをする資格 が十三年四月上京して、二 はない﹂皆、呆気にとられ 階堂女子雷序に入学した。 た。一そして妙にシーン 彼女が同盟本部を訪れてき となってしまった1五尺 b〆 月 電代表④311.1 佐賀市神野町字一本松 三三〇一一 佐賀県農協会館 百武重四郎 n∠土 \ ︵ 2 3 1 0 市鎗 田 町 11㈲ 電 ③ 鳥栖 鳥栖市青果市場 社長坂井哲夫 ’ ︾ 蔭 佐藤伝治 佐賀県経済農業 協同組合連合会 常務理事 A耳 噛∼ 超 野川 そう、それはよく 心から病気を作り出したん すからね。何のくすりより ク、理智に輝いた顔、汚 けれども、あなたの病気は も重雄沼が一番です。ハハ。 れ た セ ビ ロ 、 オ ー バ 、 右 仮 病です。母親の盲愛で子 をひきよせようという利己 たつ子 ︵野川と面を見 手に手さげ、左手にソフ 合わせて︶それはそうでこ ト帽を握り黙って入って なら﹂と野川の声、 ﹁失 みち子 ︵泣いて言葉が ります。姉さんの負担を垂 きしことあり 失恋事件尚彼酔いて泣 ラブロアフゴア たりしかな て偉大なる未成品と呼び たとき、浅沼は足尾のスト 八寸、二十四貫鬼をもひし 暴発事件で宇都宮の未決監 ぐ豪快児魚沼稲次郎若き日 に拘留中だった。浅沼の内 の純情失恋物語である。 浅沼は忘れがたかり戯れ 心を知る田所・川俣が彼女 を説いて、宇都宮刑務所に たのです。運動に深入りす ちょうど監獄にいるのと同 雨からシケになって三晩も 物語 たく一時は一 待を抱いて面会に行ったで 重雄 お母さんの病気は ればするほと、社会の裏側 じことで、いまごろは花が 泊ることになった。シーズ 当時の同盟本部は社会主 あろう。予審がすんで出獄 した浅沼は日比谷の震災バ ヒマのないからだです。そ まきらどうにもしようがな 子の声一風の音− たつ子 ︵座って︶一時 んか。私が別の道を選んで いうことは不可能ですから 二日目は天城越えに伊東へ 動﹂は、震災後の苦難の申 いたら姉さんも結婚して今 こうすれば親はよろこぶ、 論ったが、反問に並ぶわさ に一月パンフレット型八頁 自転車のベルの音が次第 は大分ひとくてね。 に消ゆる。たつ子入って 重雄−あまり情けないで ごろ平凡な家庭の主婦にお ああすれば親は安心する一 び畑が奇麗だった。途中で から始めて、五月号から十 来る。枕頭に座って雑誌 はありませんか。私だって さまってたでしょうが、い ということを十分わきまえ 雨に見舞われ、通りかかっ 六頁になり、十一月号から ているだけ、私たちのつら たトランクに便乗して、暮 菊版三十二頁の雑誌になっ をよみ出す。、みち子に聞 かせる一長き間。 れにいま会社は争議申で私 いではありませんか。八幡 さは口には出せないのです れかかる伊東に着いた。伊 た。田所主幹の下に、同人 面会に行って賞つた。 ﹁浅 一同編集に校正に文書の取 沼さんは本当に運動家らし 時どき読みながら耳をそ のからたは二つあっても足 製鉄所のストをやったこと それを知りながら何一つす 東では、湯ケ島にこりて、 ばだてる。 が、わたしの一生を社会主 ることの出来ない約束に縛 りないのです。 い方ですね﹂と言ったとい 一級ところの湯元旅館とい 次に大童だった。 へ たつ子︵読みやめて︶重 たつ子だって⋮⋮まっ 義運動に追いこんでしまっ られてしまっているのです うのに泊った。ところが、 三六 沼さんの失恋 う彼女も、恐らく、ある期 蒔いたしました﹂とたつ 出ない︶ 題夏期講習会に、はるばる 撃した。はじめ、 ﹁まあ、 冒頭に書いているので割愛 ゃすぐ重雄君が見えましょ よりそのまま座って泣く︶ ってくわしく聞きました。 重雄 そういわれると返 する。 吾︶井上処︵佐藤一郎︶な う。どうぞよろしく、いず 重雄は黙って床の上にカ あなたの病気は、気の弄い 事のしょうがありませんが 上京の途次、当時沼津に どの若手がはいってきて、 れ明日一 バンと帽子をおき、それ で私をそばにおきさえすれ お母さん! そんな言葉を いた大原健次の家に寄った 流石の本部も手狭になった キ 野川は出てゆく。たつ子 からオーバを脱いで柱の ば、すぐ全快するそうです 親の口から聞くのが一番つ が、うっかり風邪を引いて ので、十月中旬頃、田中肇 おくりゆく。 釘に下げ、それから静か しかし、それじゃ私の将来 らいのです。子として親を 寝込んでしまった。その間 大原健次と私の三人が、程 はどうなるんです。こんな 思わない者がありますか。 みち子︵ひとりごと︶ほ に二人の側に来て座り に青森︵八戸市︶の武内五 近い立教大学の裏手の素人 んとにもうかえりそうなも 重雄 お母さん! 只今 片田舎にわたしの仕事口な しかも、私のような境涯に 郎を電報で呼んで、三人で 下宿に移り、そこから毎日 のだ⋮⋮: ︸ 帰りました。もうようろし どあるはずがなく、それで 居って、一生、とても、親 伊豆の旅に出た。第一夜の 本部に通うことにした。 戸を閉める音、 ﹁さよう い ん で す か ? は家のくらしだってどうな をよろこばせる見込みのな 湯ケ島温泉では、ケチな宿 内外は相変らず多端であ い者には二重の苦しみです を選んだせいか、いかがわ り、本部も例によって多忙 くするばかりじゃありませ とうしても親孝行をすると しい男に花札に誘われた。 だった。機関紙﹁青年運 ぎいますよ。もともと気の で す ! 立 つ 。 み ち子 お前は私のこと 病いですから。 た つ 子 お お ! 重 雄 さ ん み ち 子 仮 病 一 ま ア 、 を 少しも思ってはくれない 野川︵時甜を見て︶お、 おかえり/ おまえは! のだね! ノ もう十一時ですね。それじ みち子重雄!︵という 重雄 いま野川さんに会 たつ子は立って出てゆく ったが、その当時の本部の に言ってくれたほうがとん 愛三郎君の紹介役を務めた ことは、ニヵ月後、基山を 陣容は田所輝明夫妻を中心 なにうれしいか知れない。 重雄 そんな気やすめが 二心とする農民運動の火の に川俣清音。田申肇・田中 手をあげる予期以上の成果 長三郎︵現秋山︶それに私 私には言えないのです。 となった。それについては たち三人が加わることにな った。ところが、続いて藤 小さい洋食屋に立ちよっ 果はなかった。ただ、八月 十八日になっていた。 申出頃、日本農民組合九州 一応その足で、三人共池 た。.田所・戌沼・川俣・武 連合会の高崎正戸君と重松 袋の建設者同盟本部にはい 内、私などの顔ふれである。 酒がまわり、雑談に花が みち子 いいえ、あたし には強いておかえりなきい たつ子 まあ重雄さん! 古い日記帖をくれば、私 と歌いながら踊って子供た 君はフリー・ランサi的に 有難うこわした﹂である。 も迎えにゆくよ。 ちを喜だせた。 農村や鉱山をかけずりまわ それが、夢多い乙女の胸に とは言ってやらなかったの そんなことはあとで、いま は九月七日︵一九二四年︶ たつ子それこそもうあ だけれど、まったくこのご 帰ってすぐいわなくともよ 再度上京の途についたこと 漸く天気かあがって、伊 っていたが、いずれも東京 とんなに響いたかわからな なたは一 ろはひどくなってね。この いでしょう⋮⋮ねえ︵訴え になっている。その間のニ 豆の巡航船に乗込み、今な に帰ってくれば建設者同盟 い。が、彼女は多く語らず こ白 つこ。 みち子 重雄に一目あえ 上はもうやむを得ないと思 るようにいう︶ 間もなく帰って行った。そ ヵ月、若い心のあせりもあ ら一時聞余りで行ける東京 ー − ナ って一 ってか、久留米市で二三回 に、一日一晩かかって、相 浅沼君が珍らしく本部に して、それっきりになって ば、あたしはもう死んでも 重雄︵少し気づき︶私は みち子重雄! 私が病 偽りをいうことができない 英国のチャーチスト運動を 模灘で船酔い気味になり、 ゆっくりしていた十月のあ しまったというのである。 よい一 題材に普選の研究会を持っ 翌朝八時霊岸島に着いた。 る夜のことである。銭湯の一お互に可成り酒がはい っていた。田所一流の舌鋒 たりしたが、これという効 家を出てから十一日置九月 帰り、一行ブラリと近くの 重雄君がかえる気になられ お身体によくありません。 ました。どれおいとま致し ましょうか。ハハ。 みち子 先生! まアと 重雄ももうしきかえります うそおすわり下さいまし、 からi 、 明日でも、重雄君も当分ご たつ子は臥させようとす 気で死んでもよいのかえ? タチで、ついうっかり⋮⋮ 滞留でしょうから、何しろ る。みち子は起きようと 死んでもおまえはかえらな たつ子 それはわかって バ それはよいことでした。重 する。二人は錆う一 いつもりだったのかえ? いるけれど、いまは:⋮ 雄君さえかえられたらお母 そのところに唐紙を開い 重雄 いや、ご病気なら みち子 うそでもよいか さんの御病気はすぐ全快で て重雄がーオールバッ どうでもしてかえります。 ら、あたしは安心するよう 野川 はア、いずれまた (88) おかしくも健気なかりし 雄が帰って来た! みち旧風の音だよ/ ラックに帰った。当時、彼 それから三年後の一九二 全国ネソトの………”肇為替サービス (26) は日比谷バラックの村長を ー生活設計に.”●……霊ファミリーローン い たつ子︵立ち上る︶重雄 はじめから分っているので にばかり目がはしり、哀れ ですよ!︵歩き出す︶ す。それは無知な動物的の な人たちの話を聞くとさな みち子 ほんとうかえ? 愛情です。私はそんな愛情 がら生地獄です。そんな人 七年、、基山争議で福岡刑務 嚇 お役に立つ ・……窯商売ご繁栄ローン 10㈹ 0 〆 ︵ Q︾土 一〇 光 していたのである。何とか 所に下獄巾の私の戯作の一 二人を結びつけたい友情か こまである。 ︵つづく︶ 、 マイホームづくりに 譲A方式住宅ローン 立 目 に対しては感謝はさておき たちに頼られると手をさし 町には灯火がと知りながら ン・オフか、ガラン堂の大 義学生の梁山泊であると共 どうにもならないのと同じ きな宿屋で、退屈まぎれに に、また昔ゆかりの三宅・ 運命です。お側にいて孝行 は宿の子供たちと遊んでそ 浅沼・平野・稲村君たちの するのよりとれほど親を思 の日を送った。童謡や遊戯 東京宿舎であった。新潟の のうまい大原が﹁蟹の母さ 三宅正一、山梨の平野力三 っているのか知れません。 ノ 長 最高の利廻り一…・劉年半定期預金 (月) (日) の 一種の憎悪を感ずる位です のべずにはいられないので r の 夢がふくらむ・・…窒積立預金 4 O 3 O 西副墨壷互銀行 発売開始11時30分 、 ︵パント起きあがる︶ 一 ’ 使ってべんり・…・畷普通預金 12 ’ 伊 ウ 風 7 戯曲 たつ子 まアお母さま! 、 ほほえみは愛 久留米けいりん (2) 第98号 ’ 、 ’ 昭和47年11月20日 風 (昭和41年4月1日第三種郵便物認可) 雪 、 ’ 雪 (昭和41年4月1日第三種郵便物認可) 久留米の革新運動 情報を、誰かは虚妄の非実 と認定するであろう。淫す は真実であったと立壊する あっても、寄る辺もない泡 であろう。所詮は、人類の 歴史の流れの、明暗の別は 沫でしかない。しかし逃亡 なったので、三・一五の検 君が是非見せて呉れと言う 者には、五年の遍歴の現実 ので、 ’ 貸 し た が 返 さ ぬ ま ま と 犠 牲 は 、 堪 え 難 く 重 か っ 挙の、裏面の真相を探る、 合 同 労働組合の記録 が、時間と空間を跳躍し、 逐次に、書かねばならぬ た。すぎこしかたを、しの ぶよしもないが、十数日辛 抱して居れば、私の逃亡の 陽 いることも驚きであった。 ソビエトには絶対に行く 又一面、社会秩序といお なしと云ったとか、きらに うか、社会規律の徹底して 新婚六ヵ月の男の団員は ﹁もし共産主義の国ソビエ 公園、広場、道路には、マ ッチの燃えがら、タバコの トに行くなら、嫁は引き取 る﹂と奥さんの方の両親に 吸いがら一本落ちてはいな って云っ忙。 ﹁我々はたと も見当らない。ソビエトの 言われたが、それを押し切 い。勿論、紙屑等が落ちて って参加したのだと胸を張 いることなど裏街にいって と、どこの国とも仲良くし エンジョイしている。美し え体制が異なっていよう 国民はその申で充分生活を たい。その為にはそれぞれ い公園には考若男女がベン の青年が交流し理解しあう チに腰掛けてニコヤカに談 る。 ことが大事であり、そのた 笑しているし、サーカスや めに参加した﹂とも云っ バ レ ー 、 歌 劇 等 は 家 族 連 れ〆 た。私は何んと立派な頼も で超満員てあり、博物館 しい青年達よと叫び洗い衝 は学生、青年て一杯であ 動をやっと押えながら感心 私が何故このことを敢え て記するかというと、ソビ され、子供は縞馬なまでの エト社会主義共和国との交 幼雅園、小皆学校において 流が非常に盛んであるとい 学んでいる。医療は無料で うことを害きたかったので あり、予防医学が徹底して いるのである。 イルクーツクても、モスク 私は、短い、かけ足の訪 ある。ハバロフスクでも、 ている。 ワ、レ!ニングラードても ソであったが、その短い期 日木人はホテルに一杯であ 間に数多くの得難いものを り、北海道、乗日本、裏日 見聞したことを誇りに思っ 本では交流が盛んであると トは偉大な国である。世界 いずれにしても、ソビエ ているにすぎないという。 鳥栖市長原 同助役中 島 同収入役松田九一回 ︵電︶三一一一︵代︶ 長本 村 松 次 副議長山 本 外議員一同 西日本鉄道株式会社 ヘス 原ご ﹁ 、 7 、 ソビエト寸見 高 松 ま え が き −高松氏はこの夏ソ連が、夢見市長を招思した時 人である。氏は久留米市役所の民生労働部の労政 市長に同行して﹃今日のソ連邦﹄を見聞してきた 担当主幹︵課長︶である。駆け足見聞ではあるが 要所は確かにつかんで帰っている。高松氏の視察 もらうと﹃ソ連邦﹄という国の輪郭が浮き彫りき 記と、前号の﹃ロシアの人情﹄とをあわせ読んで 三・一五の記録が立話して た。が仔細に検討すると、 寺院の絵も同氏の筆である。久留米市役所の申堅 れていると思う。前号の筆者清水暎鳳氏は、久留 米市民会館の館長である。ワシリイブラゼンスク 必要はなかったろう。無産 者青年同盟の検挙もなかっ いる。昭和三年、日本共産 総括的に纒め、全体のバラ 手掛りをなくした。三二 易義君が死んでしまつ忙。 五の公判記録を持っていた 遺族の人に聞き合せたが行 ンスを取る場A口もある。 終戦前後まで、底コの人達 古賀寅雄君は死亡している き先が解らぬ。今更惜しい には想像の出来ぬくらい、 古賀霜の妻君は、社会運動 事をしたと思っている。し 九州と本土の距離は遠かっ 関係者の出入りするのさえ かし記録は風雪に、部分載 た。関門・関釜の要所を押 忌避していたので、関係の 録している。読めば参考に えて警戒は厳重で、社会運 書類であるから、保管して はなると思う﹂と言う返事 党の検挙の網の目は、私が てあった。 がそれぞれ﹃ソ連邦﹄に行って彼地の長所を観察 動関係の往来は、危険で はおるまい。最近、古賀寅 漏れるほど大きくはなかっ して来られたことを高く評価する。 開発するにあたってはなんといっても欠ぐことの できないのは日本の協力であろう。それには日本 いるのである。学生は勤勉 で、国の奨学金を貰い保護 するばかりであった。彼等 特に老人は年金を国が支 は歌を合唱し、談笑し、青 給しているものの、働きた い老人は能力に応じ働いて ことしソ連農業は1963年以来の不作になる春を謳歌し、機内を明るい 国民のすへてが、完全にソ連を理解することこそ ムードに包んだ。 た。無匠者青年同盟の組織 食糧危機を救うとすれば、ウラル以来、つまヶ、 んじゃなかろうかとの見方がでてきている。その は確かに摘発きれている。 三・一五の記録を調べ弛 た。鳥居さんから﹁合同労 いうことである。 私はその中で、一体ソビ エトの国民は、どのように の六分の一の広大な土地と 二郎七千万の人口を擁し、 生活し、生きているだろう た。 かと心の一隅で考えてい ウラル山脈以西が開発され 電 話 ⑱ 2 2 1 1 福岡市申央区警固2丁目13120 西部瓦斯株式会社 1西鉄 あった。その関係か申央が 雄の経歴調査の関係で、島 私が自動車事故で、頭部 記録している、九州地方の 君は古賀君の生家、三潴郡 裂傷、後頭部内出血、打撲 社会運動の資料は、正確で 三潴村を訊ねている。早速 裂傷、大腿骨骨折、下肢骨 ない。昭和三十五年頃、こ 島沼に﹁古賀君が持ってい 折で、病院に運び込まれ、 れはいけない。関係者の生 た、三・一五の公判記録を 翌日は院長から、死を予告 カザフやシベリアの収穫たろうといわれている。 高松氏や清水氏が飛行機から蔚轍︵ふかん︶し忙 シベリアは譜表︵こうぼう︶無辺てある。かつて フルシチョフ在任時代その一点を開発した部分の 働組合の記録﹂の九月の誌 ヤモンド、その他地下資源は無尽蔵。この宝町を 収穫が、ソ連邦の食糧危機を救い得るかもしれぬ と信頼されるほどの地域である。木材、金、ダイ 面の記事に、誤記している る久留米市に、しかも、市役所の職員の中に、こ が﹃日ソ親善﹄の大前提である。比較的保守てあ 立ち日本海をひとまたぎ、 然し、その危惧はソビエ ソビエトの全体の三分の二 あった。何しろ、ソビエト トでの十日間て一挙に吹き を占めるウラル山脈以東の 8月11日ソビエト国営航 空機は、三時間遅れて一時 との国交は残念ながら完全 飛んでしまった。結局、思 シベリアは全くの未開発の 三十分羽田国際空港を飛び には未だ復交されず、その 想とか、政治は高い所で行 土地が眠っているのであ .つ。 ないよろこびである。今後、ますます御精進を乞 寄稿して下さったことは、編集者としてこの上も のような万歩的な人がいてわぎわぎ本紙のために 箇所を指摘された。 ﹁風雪 六日に、鳥居さんを酒間し 十月の原稿を持って、十月 存している中に、史実の記 家族の者は知らなかったか され、三日間は虫の息であ ついでに、書庫の風雪を整 った。無意識のまま生き続 理した。創刊から二十四号 録を編纂して置こう。それ と﹂電話した。記録を持っ ていたのを、島君も知って けて、二十数日後に意識は まで未配布である。病院に には生存者の連絡機関を、 組織する事が先決問題であ いると思っていたが、知ら 戻った。弥永院長の親身の 入院申配布は受けたが、紛 ろうと、島新治君と相談 なかったらしく﹁それは貴 治療で、奇蹟的に生命拾い 失して鮫誌がある。編集部 し、私の自宅に重松愛三郎 重な資料だ。もう一度三潴 をしたが、いまもまだ治療 に残誌があれば、補充して 貰う積りて、相談かたがた 氏が来て、碁を打っていた 村に行くから、よく確めて を受けている。鳥居さんに 時、島看も同席していたと 来る﹂と言った。用件が済 電話した翌日、病院に診察 思う。重松氏に同意を求め んで電話を切ろうとすると に行った。診察の結果、最 泥。組織の中心は島国で、 島君は﹁昨日河原末吉刀が 近になく、精神状態は安定 井上易義君や岡村正義君が 死亡したと、家族から知ら していると聞いた。脳内傷 害の異状で、事故以来五力 協力して、風雪の会は出来 せがあった﹂と話した。 た。風雪の会は、農民組合 河原末吉君は、小頭町二 年、専門学書は読んでいな 丁目の理髪店主て、組合事 い。鳥居さんには申訳ない 九十六号﹂柴田邦夫氏を囲 務所が近所で、磯貝木原木 か、風雪も見ていない。病 んでの座談会の席て、福岡 運動史、全水解放運動史、 労働組合運動史の資料を、 の岩田氏に﹁岩尾君の近況 村楢原が調髪に行っては、 状良好と聞き、在庫の風雪 発掘するのが目的である。 を訊ね、岩尾君は病気で入 島刀と私は、執筆を分担 組合運動や政治問題を論じ を読破した。鳥居さんは、 て、アジられている中に社 唖然として五十年の歳月と 院申﹂と私は書いている。 して書くことにしていた。 私の前半の責任は、あと二 会主義理髪店主となった。 書く。この風雪に、歳月に 私は岩田氏に、岩尾君、井 三回で終る。後半は昭和七 私の姿を、店の表通りで見 埋没し抹殺されつ㌧あった 本君、其の他、福岡の諸氏 年からなので、資料を整理 ると、跳んで来て店内に連 大正中葉期以降の、史的資 の近況を尋ねた。岩田氏は していた。ところが﹁僕の 込み、昔の組合の話をして 料が残っている。直接関連 岩尾君は死亡した。井本君 に寄与するに違いない。 国民と世界の人々にも大い それはソビエトの街であ には驚嘆して余りある。 る。 ﹁水と緑の美しい街﹂ に街が作られた感じてあ 実に広大で、その上をジェ ット機で約八時間も飛ぶの しさに感心した。公園の中 果しなく続くシベリアは 私は、ソビエトの街の美 る。 交流も皆無てあろうと思っ われ、一般国民は資本主義 る。それが、本当の意味で でも、社会主義でも全く同 開発され、経済的に大躍進 じ生活であると見たのであ する時こそ、おそらくソ連 一路ハバロフスクにむけて ていたものにとっては驚き 責任の執筆はやめる。君が 呉れた。私の逃亡後の磯貝 資料、間接関連資料が活字 は病気で入院している、と である。 全部続けて書いて呉れ﹂と 霜達の話、三・一五の久留 になって生きていた。こう 話され九のを、私が混同し 飛び続けている。 島君が言い出した。私の筆 米合同労働組合の事は、河 した記録の貴重さを知る者 て書いてしまっている。岩 私は、未だ見ぬ未知の国 私の傍の座席のリーダー 社会主義の国ソビエト、レ は三重県の青年が集り﹁希 田氏には全く申訳がない。 致は、よぎない予定の変更 原末吉君が提供し沈、情報 は、私だけではあるまい。 に依る所もある。戦後に移 早く読んでいたら、無駄な 誌上でお詫び申上げます。 ーニンの国ソビエトをこの 望の翼﹂と云うソ連親善の に戸迷って、難渋した。 楢原君とは、死ぬ前にゆ 転した筑後市内で、末吉君 努力も時間の浪費も、しな 同じく国武耕工場の、争議 目で見ることの喜びに胸を 旅行団であり、七十五名の くて済 ん で い た 。 っくりと、話合いをしたが と二、三回会った記憶が、 の検束者釈放の時、身許引 大きくふくらませていた。 若い青年男女が社会主義国 った。佐藤織布工場争議の 私にある。その時、日木共 私の書く記録から、筆勢 受人山田健三氏の代理、横 塔質したソビエト国営航 ソビエトを見るために行っ 具体的経過、磯貝の組合離 産党に入党したと聞いた。 で横道に逸れた。私の逃亡 溝渉君に同行した﹁浦路﹂ 空機は、勿論ジェット機 ていると語った。その話の り、公害はなく、どの街も 最後に、多くのソ連青年 で、東京∼ハバロフスク問 申で、いくつかのエピソー 母なる河が街の申央を流れ が、口々に、戦争を徹底し と書いているが、これは、 ドを語ってくれたが、その ているのである。更に、芸 てにくんでいること、しか 福岡合同労働組合の常任で を四時間で飛ぶのである。 一つには﹁両親が泣いてソ 術、史蹟が完全に保存、保 も平和こそがソビエト社会 あっ泥、浦志幸人君である 日本人は我々一行五人のみ かと思っていたが、百三十 連訪間を止めた。米国とか 護され、国民のものになっ 主義建設の道であることを 語ってくれた。 人の殆どが日本人ばかりで 西欧ならば良いが、赤い国 ているのにも感心した。 から訂正する。 、 、 実 ノ、 山 保 一 忠 〆 宮崎 栄 快適な西鉄特急ノ・ 乗せて……いでゆへ……高工 (11) 脱の真佃、三二五前後の 三・一五の公判記録の編 十数日で、世代が大正から 久留米合同労働組合の実状 成には、鳥居さんも関係の 昭和に変った。この重大な を、当時組合常任の楢原に あった記憶があるので、電 転換期の、激濤に押流され 直接確めたい問題があっに 話をした。鳥居さんは﹁僕 闇から闇に葬り去られた、 その楢原に会わずしまいに も持っていたが、井上易義 無産者青年同盟一斉検挙の 「 お間合せは近くの西鉄バス営業所へ@ 議 ロマンも夢もビジネスも 」 毎月20日発行 昭和47年11月20日 風 第98号 (3) 炉 雪 風景 ﹁ り 東 ルでのぼった。小雨の降る 七人位いると答えた。娘婿 の田申が買った絵は、ユー ゴ・スラビア人のだった。 、 築家、芸術家を総動員して ラシーヌ・モリエールの宮 フランス大革命の因子は既 そのうちに市が取り除いて の上まで、溝を占拠してし に胚胎︵謡いたい︶してい くれるものと信頼していた まっている。 市は、市民にサ﹄ビスす 鳥栖基山農業協同組合 ところが、このほど市は、 道路にかなり多くのバラス 大騒動になった。熊本の 二本木といえば有名な遊 二本木に飛び込んだので 浮き河竹に身を沈めと うたわれていた。 い﹄という歌が農村では うなぎのかば焼ア十三ば して銭︵ぜに︶とらす。 や、昼寝している最申に なぐり込みをかけたみた が、ゆうべの客のうわさ その﹃のすかいたち﹄ 天女のように思えただう ら見て、 ﹃のすかい﹄は かに純粋であっても、表 現の仕方によって、馬の のである。その行動がい 力にも、行為によっては これだけの相違を生ずる ら﹃一所懸命﹄は、封建 命”は、どちらが適切で あろうかと字引をくった 〃一生懸命”と〃一所懸 びっくり仰天したんだう 時代に一か所の領地をた わけが違う。馬の場合だ って、疾走申に人に危害 ずいぶん強引で、質問者 予算”などで角さんは、 ついて考えると“防衛庁 佐賀 済組 会 長 副会長 鳥栖市田代大官町 電代表③4104 業共 合会 島秀 岡 管 簾 勝 d報筆蓋 佐 藤 房 子 も 久留米市国分三三〇五ノ四 久留米家政婦紹介所 労働大臣許可 年令不問、高給優遇します。 家政婦、ホーム・ヘルパー希望の方/ 婦人の天職! 電話⑮4431∼9 福岡市大名二丁目12番1号 正金相互銀行 電話㈹ 112 福岡,市三社町ご 博多ステーションビル 電話代表③8411 久留米市通町3の総 三光熱式会社 電話代表③8581 佐賀市成章町1番15号 参 事 飛松正典 組合長 四 勇 たのである。 て、古い部門に関心を示さ を打って命拾いをするこ 郭で、そこの代表的な店 歌舞伎の愁嘆場によく出 いの鼻切れ牛が、突然暴 浮き沈みの定らない、は かない遊女の身の上のこ そのことだけででもこの れ込んできたのである。 “のすかいさんたち”は ﹃のすかいさん﹄といっ と。そのはかない遊女を よりに生活すること、と あった。したがってここ 牛は命を全うすることは できなかったに相違ない お城の中に逃げ込んでひ を加えていたら、飼い主 専 三 るといって、ついこのほど するナント勅令を廃止する 一六六四年越つくりあげた 廷文化の花を咲かせたが、 大殿堂、ベルサイユ宮殿で 晩年、対外的な侵略戦争は 失敗し、信教の自由を保証 ある。 パリーの西郊二〇キロ、 だんだん心細くなっている つなぎとめるのも難しいと ないでは、市民の信頼感を 思う。太−側溝はことしでき 折角つくってもらって喜ん 水道は流れないのである。 でいたのもっかの間で、下 ノパリー とき その担当部門を新設してP 武士道のきおえる時代よ をまいて、通行に支障がな Rにっとめている。しかし ベルサイユの草麗の宮に いようにしてくれた。この 好意によって住民の期待は 新奇を求めることを急にし へ 幾世経にける 下水が流れない われわれ一行は第二日目の など、財政は傾き国民の不 午前申、観光バスで案内さ 満を招くことになった。死 れた。まず、金ぴかの巨大 後半世紀にして勃発した、 な門扉に驚かされる。次い で、入口の祈念堂から十七 世紀の長い歴史画廊を通り とになった。 ︵西日本新 が東雲楼である。熊本県 “必死の逃亡”が人の心 なっていた馬一頭が、く 聞超短波欄︶ で逃げた馬の心情を察す 10月30日午前9時ごろ ると殺せない﹄とほろり つわを食いちぎって同セ 筆者は大正13年、しば 人の多くは、 ﹃しののめ 熊本市春竹町の市食肉セ ンターで殺されることに ンターから逃げ出した。 のストライキ﹄は、この で女郎たちがストをした 東雲楼︵しののめろう︶ ヘ ヘ へ 必死で逃げる馬は繁華街 らく春竹町に滞在したこ とがあるが、そのころは 明治時代﹃しののめのス トライキ、きりとはつら のであると信じている。 食肉センターなととしゃ れた名称ではなく罵殺場 といっていた。うっかり 話をさいていだので何年 ようであったり、牛のよ うな運命に終ったりする の車の間を縫って一目散 てくる言葉であるが﹃浮 き﹄は﹃憂き﹄に通ずる 水道町交差点では通りか かった乗用車のボンネッ トに飛び乗り、九品寺交 差点では、びっくりして を通って熊本城の方へ走 停車したタクシーをけと ばし、鶴屋デパートの前 ゴンクール兄弟、作曲家ベ のクレムリンのそれを思わ ルリオーズ、オッペンパッ はほろりどころか、捕え では﹃一生﹄のほうが適 切であろう。政治の上に てうらやましがつたのが この歌である。このうた っそりしているのとは、 には“娼妓”を軽蔑して まじい形相をして立ち向 に対して不動のような凄 ヘ へ たてたに相逢ない。 かったのも一生懸命だっ たが、それから先の行動 謀術数がつきまとってい ノ ﹃一生懸命﹄にはかわり る。また野党にしても、 ヘ へ 国民のために政椎を奪取 ﹃寝て暮して、うまいも 忙らすぐ、屠殺場へ引っ いっしょうけんめいについて いね、てなことおっしゃ り去った。 暴走馬に驚いた市民か 何月何日というこまかな ハ等が眠っているといわれ モン・マルトルの名所は るが、残念ながら、そこま らの通報で、県警のパト いましたかね﹄という歌 ンカン踊りを観に行った。 るところはまったくない 生命の危機を予知した その二生懸命﹄には権 がはやっていた。そのこ ろ、熊本では娼妓のこと を﹃のすかい﹄といって のを食える境涯﹄をうら 第六感のはたらきは、馬 も牛も優れたものであっ そのとき逃亡したのは牛 であった。どうもう人間 である。 ﹃きっしてのさ やましがってうたったの が猛り狂うさまを、鼻切 いた。のすかいとはしん ぼうできるかいという意 ん﹄と言いながら、朝か ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 味。その反対語の﹃のさ ら晩まで牛馬のように働 なかったけれと、実力行 たのに相違ない。だが、 ぬ﹄というのは、熊本地 午前10時10分ごろ、熊本れ牛のようにというので あるが、このときの牛は 生命の危険を予感して、 方では普通使われていた タクシー数台が無線連絡 をとりながら捜索に乗り ことはおぼえていないが ランルージュ︵赤い風車︶ 一行もパリーの第二夜、カ たのである。白川を渡り 鼻綱をひききり狂い出し 出すなど一時は大騒ぎ。 カー二台が出動したほか 快な風銀である。 けて捕えた。 いた当時の百姓か、こと 城内二の丸公園に逃げ込 んだところを市消防署員 と一般人六人がなわをか を呼びこむもの一仲々愉 黙々と画筆を運ふもの、客 も丘の麓にある。われわれ 思い思いに画架を立てて、 の村の伝統よろしく、全世 ルトル一帯はパリーの夜の 界から集った画家の群れが 歓楽街であり、有名なムー 寺院から少し横にはいった で足を向けなかった。 テルトル広場である。芸術 書きおくれたがモン・マ せる。 . 頂きのねぎ坊主はモスクワ かって建てられ泥というが 画きれ、続く丘の西麓の北 パリーに珍らしいビザンチ の墓地には著名な文士スタ ン風の大伽藍︵がらん︶で ンダール、ハイネ、ゾラ、 高台に、おごそかに生えた モン・マルトルは十八世 つサクレ・クール寺院は一 紀の申葉までは、麦とブド 八六一年、普仏戦争に敗れ ウ畑の郊外にすぎず、その た反省として、三十五年か 名残りのブドウ畑が丘の一 パリーを一眸におさめる 肌寒い日であった。 にメトロで行って、ケ﹂ブ 本人が何人いるかと訊くと 光・バスで行き、第二回は田 来てもう五年になる、父は 中夫婦とパリー地図を片手 佐賀だと言った。ここに日 いや味をいうわけじゃない たばかりだし古い話ではな て、前後さえ殆んど覚えて ギリシャの神々の名を冠し 久留米市国分町の宮脇道 で、側溝に蓋をしたので、 四 モンマルトルの丘 体裁がよくなり住民はみな けれと、蓋をかぶせただけ い。市役所にはまだ﹃悦惚 ﹁白いサクレ・クール寺院 曽って、詩情あふれるモ いない。一斉にパッとあが た六大サロン、第一次世界 路の側溝は、本年1月17日 喜んだ。だけれども、残念 で流すことができなけりゃ の人﹄はいないだろう。 に象徴されるパリの北の丘 ン・マルトル風撮を描い忙 る白い肢の波が、おぼろ記 大戦の平和条約が調印され 工事に着手し、2月21日完 た﹁鏡の間﹂はじめ各居閥 成した。側溝ができるまで なことには車が通る度にパ 側溝は道路のアクセサリー ドロやバラスが測湛の申 十九世紀末、ここを根城と ユトリロをはじめ、ルノア 憶に残るだけである。 の壁画、彫像、王朝風のデ は道路がせまいうえに、道 ラスやドロをバネとばすの にしかすぎない。側溝が機 にいかほどは入っているか してみごとな“エニルーード ール、ゴッホ、コローもこ は、水道管の取りかえ工事 ムーラン・ルージュ︵カ ザインなどなど、ただ、豪 の両側から生垣や庭木の枝 で、それらが溝に侵入する 能を果さないから、そう言 ーーパリ”の花を咲かせた画 こ に 通 い 、 若 き 日 の ピ カ ソ を監督した職員には分って ンカン踊りに片唾︵かた 華絢燗︵けんらん︶の一語 が、路上にのさばり出てい のである。そして、今度は っても差し支えないだろう 家たちは、その作品によっ も五年間、近くのアトリエ いたはず。水道と側溝は所 ず︶のみ 身をのり出せ につきる。このきらびやか るばかりでなく、ブロック 水道管を取り替えるために 市当局は外観にだけ留意 てモン・マルトルを不滅な に住んでいたという。 な宮廷にかしずく貴族、貴 塀が路頭に侵入していた。 地中が深く掘り起こされた して、肝心かなめの側溝の 管が違う位に考えているわ し若者もあらむか ものにした。多分に観光地 私たちが行ったとき、二 婦人、騎士、美女が、日夜 工事執行に当たって、道路 だが住民は、これは舗装を ことは考えていないのであ けでもあるまいと思うけど として俗化しても、芸術家 回共朝が少し早かったか、 いかばかりの華かな絵巻を の幅員を規定の通りに改善 して貰う前提と思い込み喜 ろうか。バラスを2度もま 下水が流れぬことで、住民 たちをはぐくんだ丘の詩情 まだ画家の数も少なかった 五 ベルサイユ宮殿 は今も残る﹂。この解説 広場中央のパラソルを立て ブルボン王朝の全盛期、 くりひろげたであろうか。 したので、出しゃばってい んでいた。ところが掘りか くほど気にかけているなら の心は暗くなっている。 は、簡潔によくいいつくさ た野外レストランも開いて ルイ十四世は﹁朕は国家な 奢れる者は久しからず。 た庭木は切り、ブロック塀 えされたドロがバラスを算 側溝にももっと配慮しても 市当局に要請する。 えて、側溝になだれ込んだ らいたい。蓋の穴から申を 速かに﹃流れる下水道﹄ れ、後は私の下手なうけ売 いなかった。はじめのとき り﹂と宣言し、太陽王と呼 専制君主ルイ十四世の栄華・ を引っ込めたので、外観は 一応市道と思えるようにな そして下水道は流れなくな のぞくと、ドロとバラスが にしてもらいたい。 一人の日木人に話かけると ばれた。その絶大な専制権 は、産業をおこし、王権を りの蛇足に過ぎない。 った。そして道路が狭いの ってしまった。でも住民は 各家庭から注ぎ込むパイプ 私たちは二回この丘にの 熊本の生れだと言う。ご回 力の象徴が、当代一流の建 内外に誇示し、コルネーユ ぼっ九。第一回は一行と観 目の折の日本人は仙台から 畠ヨ≦垂三≦≡= ≦垂;≡=≡≦一三三[≦ [曇≦≡=≡≦≡=≡≦一三[≡≦=≡三≦==≡≦≡=三≦一≡≡≦三==≦=三葦≦≡≡三≦=≡≦≡===≦蚕≡≦=≡[=≦垂≡≦≡⋮≦.[≡=≦=藝≦≡≡三≦一三≡≦=≡≡≦ヨ==≦≡≡≦==≡≦h≡三≦=巽=≦三≡≦==≡[≦≡琵≦=一= 牛は怒らせた。必死の努 だと思う。百姓の境猛か 結構なもんたい寝て○○ という︶? を疾走して 次 開幕十時は宵っぱりの私に 言葉で、 ﹃きっしてのさ せねばならぬという、大 ︵橋を通ったのか、泳い ’ (4) 馬主の熊本県下益城郡 前捉が見うけられない。 二 1 光 モン・マルトルの丘の楽 何の苦もない筈だが、時差 しき絵師の群れ サクレ のせいか、前の晩は殆んと 使の点に差があっ忙。馬 は人をホロリとさせたが 囲気を夢想してできた歌 に若者たちが、遊郭の雰 ﹃のすかいさんたちア、 ん﹄と、いう具合。 ’ 伊 で渡ったのか記憶が確か でない︶六書︵ぜんども 虞 @ 」 ( 麿夫雄 連農 大吉二 合 県 ノ、 下南町、牧場経営者栗山 重喜きんは﹃死もの狂い ρ 第98号 ’ む ・ク⋮ル寺院はおごそか 眠れず、晩のブドウ酒のき きめもあってか、眠りこけ に嘗︵’﹂ナ︶つ 「 (4) 昭和47年11月20日 風 二二二子) ・