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トゥハチェーフスキー事件に関する一試論 (20 周年記念号)

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トゥハチェーフスキー事件に関する一試論 (20 周年記念号)
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トゥハチェーフスキー事件に関する一試論 (20周年記念
号)
平井, 友義
スラヴ研究(Slavic Studies), 20: 81-95
1975
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/5051
Right
Type
bulletin
Additional
Information
File
Information
KJ00000113013.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
トゥハチエーフスキー事件に関する一試論
平
井
友
義
t
土 し カ1 き
1
. 証拠の「鵠造j をめぐって
2
. 粛濯の背景一軍事的効率と政治的忠誠
3
. むすびに代えて
はしがき
1937年 6 丹 10 自
,
ソ達政府は突如,
前菌防人民委員代理兼戦構局長トゥハチエーフス
キー (TyxaqeBCKI
i
註
, M. H
.
)元帥をはじめ,赤軍最高首脳部八将星の逮捕と軍規違反,反
逆罪,外国勢力との通謀,ソヴェト人民に対する背信罪,労農赤軍に対する背信罪の容疑
に よ る 告 発 を 発 表 し た 130 翌 日 日 , 最 高 裁 判 所 特 別 法 廷 は 秘 密 審 理 で こ れ ら 八 将 官 全 員 の
有 罪 を 決 定 し 即 日 銃 殺 刑 が 執 行 さ れ た 汽 被 処 刑 者 に 「 反 革 命 秘 密 ス パ イ 毘 Jの 罪 状 を
Iフ ァ シ ス ト 裏 切 者 打 倒 !
負 わ せ る 軍 命 令 は , 次 の ス ロ ー ガ ン で し め く く ら れ て L、
た
。
スパイと変節者に死を
1
わが光栄ある労農赤軍万歳! わが偉大なるレーニ
γ =スター
め
リ ン の 党 万 歳 !J
この血躍い報道は文字通り世界を驚倒させた。たしかに. 1934年 12月 , ス タ ー リ ン に
次ぐ党内ナンバー・ツウーの地位を占め,戸望ではむしろスターリンを凌駕していたとい
.M
.
) がレニングラードで暗殺されて以来,
わ れ る キ ー ロ フ ポ 叩OB,C
る仮借なき弾圧が進められ,
また二度にわたる「講清裁判
ジノーヴィエブ派テロワスト合同本部事件Jl,
1
党内反対派に対す
(1936年 8月『トロッキー・
37年 1月 『 反 ソ ・ ト ロ ツ キ ス ト 並 行 本 部 事
件Jl)が象徴するように鍔々たるオールド・ポノレシュヴイキが「人民の敵j の汚名のもと
に,大々的に抹殺されつつあったことは周知の事実であったG し か し 赤 軍 は ス タ ー ワ ン
によって強行された工業化と集団イヒの急進路議のおそらくは最大の受益者であり,またそ
の故に,
I
第 二 革 命j の 激 動 に さ い し て も 相 対 的 に は ゆ る ぎ な く ス タ ー リ ン の 背 後 に ま と
まっているものとみなされてきた。
したがって,今次の索、清の照準がまさしく赤軍の精華に向けられ,しかも百本,
ナチ
ス・ドイツの軍事的脅威がソ連の上に無気味にのしかかっているまさにその時期に,粛軍
の 火 蓋 が 切 っ て 落 さ れ た こ と は , さ ま ざ ま の 最 演 と 懐 疑 を 生 ま な い で は L、なかった。
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)Cウグライナ軍管広司令官),ウボレ
ー ヴ イ チ CY60peBs
弘
1
:
1
.n.) (白ロシア軍管区司令官),コ fレク (KOpK,A.1
:
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.
) (前モスクワ寧管
3
負
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.n.) C国 訪 航 空 化 学 協 会 議
区司令官,フノレンゼ名称軍事大学校長), ェ イ ジ ェ マ ー ソ (
長), フ エ リ ド マ ー ン (
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.) (赤軍総務部長). プ リ マ コ ー フ cnpHMaKOB,B
.M.)
(レニングラード軍管 g 司 令 官 弐 理 ). ブ ー ト ナ cnyTHa
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.K.) C
前在英大度館付武官)である。
な お 6月 11
3v
こは, ガマーノレニク craMapHHK
,完. B
.
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赤軍政治本部長〉 が 逮 播 に 先 立 ち (
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31日 ) 自 殺 し た こ と が 発 表 さ れ て い た o (
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. VI,1937)
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) 国 訪 人 民 委 員 命 令 第 97号 抗 日 p
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3
) ヴ オ ロ シ ー ロ フ (Bopo田区♂OB,K. E
8
1
平井友義
果 し て ト ク ハ チ エ ー フ ス キ ー 以 下 の 将 星 の 聞 に , 当 時 の ソ 達 額n
発表にあるように,
ツとの通謀,さらには軍事的クーデタにすら似た計画があったのであろうか。
ドイ
この疑問
は , 犠 牲 者 の 「 名 誉 回 復Jが な さ れ て い る 今 日 , 深 く 立 ち 入 っ て 吟 味 す る 必 要 は な い と も
B且)のデッチ
い え る が め , も し 将 軍 達 の 罪 状 な る も の が ス タ ー リ ン と 内 務 人 民 委 員 部 伺K
上げにすぎなかったとしたら.スターリンの真の狙いは何処に求めらるべきであろうか。
本稿はこのような問題意識に立って,今なお多くの謎に包まれた事件の摩史的背景を解明
する手がかりを見出すための一つの試みである O
1
. 証 拠 の 「 偽 造 Jを め ぐ っ て
,
ス タ ー リ ン に よ る 赤 軍 将 官 の 断 罪 の 背 景 と 動 機 に つ い て は . す で に 1939年
粛清の危
険 を 身 に 感 じ て ア メ リ カ に 逃 れ た 赤 軍 参 謀 本 部 情 報 部 員 の 手 に な る 「 内 幕 物Jが 公 表 さ れ
て い た 汽 著 者 ク リ ヴ ィ ツ キ ー に よ れ ば , 36年 末 か ら 翌 年 春 に か け て , 独 ソ 間 の 諒 解 を め
ざす秘密交渉がかなりの進展をみせており,ヒトラーとの協定の近きことを確信したスタ
ーリンは,対独接近に対して藍抗必至と予想される赤軍上層部の粛清を決意しそのため
にナチス秘密情報機関を通じてトゥハチエーフスキーらを震にかけるべく,後らの「反ソ
陰謀」の証拠を逆輸入したとされている C
との見方は,
ソ連亡命者のこの種の手記の{言憲性に関する一般的不告と,同書にみられ
る独ソ不可侵条約の論理の安易な遡及的適用に対する疑念から,戦後になってからもわが
,
国 で は , 一 部 を 除 い て あ ま り 考 慮 の 対 象 と な る こ と が な か っ た c ところが 1961年 10月
ソ連共産党第 22国大会の席上,
フルシチョフがスターザン批判に関連して,
ー フ ス キ ー 事 件 に お 汁 る ヒ ト ラ ー の 「 情 報 機 関 J の挑発の存在を示唆しめ,
トゥハチエ
その後ソ連国
内でも同趣旨の解釈に立辞する論策がし、くつか現われることによって,クリヴイツキ一説
もいちがし、には片付汁られなくなった。
,
可 A
.M.) の 著 作 (1941,22u的 flfl,MocKBa,1955)η は
,
た と え ば ネ グ リ ッ チ (HeKpH
独ソ戦前史に関するソ連で出版された研究としては比較的宣伝臭のない客観的研究に属す
るが,このなかでは,
ドイツの情報・防際機関の内部でひそかに赤軍統帥部を破滅させる
ための証拠書類が偽造された,とのドイツ側関係者の証言が紹介されているめ(もっとも
ネグリッチ自身は,同書を出版した後,党イデオローグからの激しい批判にさらされ,
1967年 7月 t
こは党から除名されたといわれている G この点については後出)。
右 名 な フ ル シ チ ョ フ (Xpy
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.
eB,H
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.
) 龍、密演説のなかでも詰示
されてはいたが(演説の邦訳は,
十月革命の 4
0周年.!l. 日月社, 昭 和 33年. 4
9
1
4
1ベージ),
1
9
6
1年 10月 27日,第 22回 党 大 会 の 需 上 , フ ル シ チ ョ フ に よ っ て 公 然 と 確 認 さ れ た 。 (CM. X XI
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4
) こ の 「 名 誉 回 復 j については,
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C'be3,
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OMMyHHCTHQeCKO詰 DapTHH COBeTcKoro Co
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中HQeCKHHOT~記T), T
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M.,1962,
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. な お 同 大 会 で の 陸 海 軍 政 治 本 部 長 ゴ リ コ フ (fOJIHKOB,φ.1
1
.
)
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) X
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IC'be3…
の発言は,スターリンによる党・国家の幹部に対する「迫害と専横」を非難しただけで,より多く
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.K
.
) 前 冨 防 相 の fボ ナ パ ル テ イ ズ ム 」 批 判i
に笥U¥,、ているのは対照的で
をジューコフ〈五(YKOB
ある。 (
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IC'be3)1. .
.
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.6
6-6
7
)
9
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8年 に 出 張 さ れ た 本 書 の 英 訳 版 で あ る 。 V
.Petrov,“ June 22, 1941,
"
7
) 筆者の利用したのは. 1
SovietHistoriansandGermanInvasion,Columbia,1
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4
.
82
トワハチエーフスキー事件に関する一試論
そこでまず,
筆者が披見しえた限りでの資料をもとに,
互
ドイツ秘密情報機関と HKB
の 「 合 作j 状 況 を 再 構 成 し て み た し 、 こ の 資 料 と し て は , ク ザ ヴ ィ ツ キ ー の 前 掲 書 の ほ
か
,
ネクリッチもふれている¥¥1.ハーゲン
〈本名 Wilhelm Hoette
1
)
,
(Schellenberg,W.) の手記号〉である c へッテ/レは、
シェレンベノレク
1937年 9月 に 「 国 家 公 安 警 察 J (
1公 安
警 察 j と ゲ シ ュ タ ボ ) と SS ( 親 衛 隊 ) の 情 報 ・ 防 諜 機 関 で あ っ た 「 保 安 部 J(SD) と の 統
合の結果新設された「国家公安本部」の第二代長官カルテンブ、/レンナー{瓦artennbrunner,
E
.
) の副官であり,シェレンベノレクは, 1933年 以 来 , ハ イ ド リ ヅ ヒ (Heidrich,R
.
)の 統 轄
す る S Dの メ ン パ ー で あ 札 ハ f ドリ
y
ヒ が 「 国 家 公 安 本 部j 初 代 I
長官になると,その下
国 防 軍 防 謀 部 J (Abwehr) の 捷 1
二
で 第 VI 課 ( 対 外 諜 報 〉 課 長 を 勤 め , 戦 争 末 期 に は , 1
とともに軍事情報機関の総括責任者となった人物である C
いうまでもなく,証拠「偽造」の問題とこの「証拠」がトゥハチエーフスキーらの処刑
で果した役説の問題とは,もともと別個のカテゴリーのものであり,これらを無媒介的に
つないでいるクリヴィツキーらの晃方は,当然に批判的検討の対象とされなければならな
し
、
。
1935年 に ハ イ ド リ ヅ ヒ は ソ 連 に 対 す る 諜 報 活 動 を 組 織 し , ド イ ツ 国 内 お よ び 国 外 の ロ シ
ア人亡命者から情報の蒐集に努めていたが,そのうちパザ在住の元自衛軍大将スコプリン
(Skoblin,N.) と 接 触 を つ け る こ と に 成 功 し た 1の 。 ハ イ ド リ ッ ヒ は 36年 終 り 頃 , ス コ プ リ
ン か ら ト ゥ ハ チ ェ ー フ ス キ ー に よ る 軍 事 ク ー デ タ 計 画 な る も の を 開 き 出 し . クザスマスの
註前,ヒトラー, SS 長 官 ヒ ム ラ ー , ハ イ ド リ ッ ヒ の 三 者 の 間 で . こ の ソ 連 の 内 部 対 立 を
如 何 に 利 用 す べ き か が 検 討 さ れ た 11九 そ の さ し ¥ トゥハチエーフスキーらを支持してポノレ
シェヴイズムの脅威を一挙に捺去するか,それともスターリンに賭けて,赤軍最高幹部を
震りさり,
ソ連軍事力の弱体イヒを図るべきか,道は二つあった。結局は後者が選択された
のであるが,その理由としては,実行の容易さのほか,ハイドリッヒが独ソ両国軍部の提
携の可能註を過大に評倍しており,赤軍幹部を罪に陥れることによってドイツ国防軍指導
者 を も 連 累 さ せ う る と Lづ 計 算 , さ ら に は ハ イ ド リ ッ ヒ が ナ チ ス 的 信 条 の 故 に 海 軍 か ら 追
にたいして抱いてきた病的指悪が働いていたとみられ
放 さ れ た 時 以 来 , 後 が 国 防 軍 上 震 音s
るO こ う し て ド イ ツ 側 に よ る ト ゥ ハ チ エ ー フ ス キ ー ら の 反 逆 的 行 為 を 「 立 証 」 す る 証 拠 物
件 の 偽 造 作 業 が 日 程 に 上 っ た 12)。
9
) W. Hagen
,Die geheime Front, Organisation, Personen und Aktionen des deutschen
Geheimdienstes,S
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. W.Schellenberg,TheLabyrinth,Memoires o
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) クリヴィツキーによれば, スコブリシは「ベテルブルク・オベラ座」の歌手であった妻を通じて
HKB瓦と結びつき,ゲジュタポ支配下の在パリ白系ロシア人組識に潜り込み,同時に I~苫昔話在郷
軍人会 j の指導者の一員でもあるという 「三重スパイ J を演じていた。 (Krivitsky, op,c
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.2
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)
1
1
) グリヴィツキーも, 1
936年 12月をスターリンの赤軍幹部にたjする精算を決意した時点としてあげ
ているが (
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.2
1
2
1
3
), この決意、を外交商での独ソ謡密訴鵠の大幅な進展と関連させてい
るのは誤りである。独ソ関係はこの時期にいささかも改善された形跡はなく,またその可能性もな
かったのが真相である。 C
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.G.L
. Weinberg,The Foreign Policy o
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s Germany,
DiplomaticRevolutioni
nEurope1933-36
,Chicago& London,1970,p
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. A. B
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Ulum,Expansion& Coexistence,t
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.,1968,p
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) Hagen,
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. これに対して,ハイドリヅヒは, トゥハチエーフスキーのクーデタが
83
平井友義
以 上 の へ ッ テ ル の 証 言 で は , ハ イ ド ザ ッ ヒ が う ま う ま と ス コ プ リ ン 〈 実 は HKB
Jlの手
元〉の情報を真に受けたかのような印象を与えられるが,シェレンベノレクによれば,もと
もとこの需報を持ち込んだ党副総統へスに近い情報ゴロ,ヤーンケ(J
ahnke) は 別 意 見 で
あり,後は問題の情報がスターリンによって故意に流されたものではないかとの疑念を一
応、は持ち,ハイドリッヒにも慎重な行動を求めたとされている O つまりスターリンは,
ト
ゥハチエーアスキーがドイツ参謀本部と詰託してソヴエト政権打倒の陰謀を図っていると
の情報をわざと流すことによって,ハイドリッヒに国防軍統帥部に対する疑心をかき立て
ると同時に,赤軍幹部を聖者圧するための「物証 J をドイツ側情報機関のノレートから回収す
る と し づ 手 の 込 ん だ 芝 居 を 仕 組 ん で い る の で は な L、か,というわけで、ある O しかしハイド
リッヒは,ヤーンケの推理に組せず,反対にヤーンケの見解は国訪軍首脳に対する忠義立
S
L ともかくシェレ
て か ら き て い る と 邪 推 し 直 ち に ヤ ー ン ケ を 3カ完関自宅に監禁した E
ンベノレクが,ハイドリッヒを中心に進められた偽造作業の予備段階として,赤軍と国防軍
の 歴 史 的 関 係 の 調 査 に と り か か っ た の は 37年初頭であった。
独ソ両軍首脳の「共謀」を立証する文書偽造の本番の過程は大分ミステリーじみてくる
が 14〉,ヒトラーの手元に問題の文書が提出されたのは 5月 始 め の こ と で あ っ た 1530 つ ぎ の
問 題 は , こ の 「 証 拠 物 件 」 を ソ 連 側 秘 密 警 察 に 渡 L, ス タ ー リ ン の 限 に ふ れ さ せ る こ と で
あった。しかもそれをいかにも本物らしくみせかけることが必要であった。
まず 5S保 官 が , プ ラ ハ 在 住 の ド イ ツ 系 市 民 を 通 じ て チ ェ コ ス ロ パ キ ア 大 統 領 ベ ネ シ ュ
の腹心の一人と接触して. I
極 秘 文 書Jの存在を示唆し,ベネシュは直ちに友邦〈チェコス
ロパキアはソ連と 1935年 5月,相互援助条約を締結していた)の危機を警告する親書をス
ターリンに送った。これに対するスターリンの返書は同じ回路を通じてハイドリッヒのも
と に 屈 け ら れ , そ の あ と で HKB
瓦長官ェジョーフ (
E
涼 OB
,H
.1
1
.
)の信任状を帯び了こスタ
ーリンの特使によって問題の物件の冥取りが行われるとしづ段取りを経て,シェレンベノレ
クによれば. 5月 に は 偽 造 文 書 が ソ ヴ ェ ト 側 に 渡 り , 赤 軍 将 官 の 告 発 ・ 処 刑 の 動 か ぬ 証 拠
となったとされるのである 16)。 た だ し , ベ ネ シ ュ か ら ス タ ー ワ ン へ の 通 報 に つ い て は , ベ
ネ シ ュ 自 身 は 異 っ た 説 明 を 与 え て い る O す な わ ち 36年 秋 以 蜂 , ド イ ツ 側 の イ ニ シ ア テ ィ ヴ
に よ っ て 南 国 の 和 解 を め ざ す 秘 密 交 渉 が 行 わ れ て い た が . 37年 1月後半,ドイツ側仲介者
成功すれば,ドイツにおいても,国防軍によるヒトラ一件舗にたいする同様の企てがなされるおそ
Vgl
. G. Buchheit,
れ が あ る と い う 理 由 で , ク ー デ タ 姐 止 の 方 に 賭 け た , という見方もある。
Derdeutsche Geheimdienst,Geschichte derm
i
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nAhwehr,Munchen
,1966,S
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.
1
3
) Schellenberg,o
1
4
) た と え ば , シ ェ レ シ ベ ル グ は , 菌 防 軍 参 謀 本 部 と 赤 軍 吉 諮 と の 「 共 謀j 関 保 を 立 証 す る 資 料 を 手 に
入 れ る た め に , 夜 陰 に ま ぎ れ て 参 謀 本 部 と 「 防 投 部 jの 秘 密 記 諒 室 に 特 別 作 業 涯 を 送 り 込 み , 必 要
a
行 浬 誠 の た め 火 を 放 っ て 遁 走 し た と し て い る が れbiιpp. 2
6
2
7
),
な資料を盗み出したうえ,
.Ericksonは, そ う し た ス バ イ 挟 題 も
赤軍統帥部の歴史に関する定大かつ綿密な研究を行った J
r
鋳造」について i
l
坊 牒 部j 長 官 カ ナ リ ス 提 督 の 協 力 は
どきの活動はありえなかったとしつつも,
えられなかったものと推定している。 0
.Erickson,The SovietHigh Command, a Military-
p
o
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lHistory1
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1
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1
9
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1,London,1
9
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2,p
p
.4
3
4
4
3
5
) なおシエレンベノレクは,独ソ再軍首
脳部の間に正真正銘の「共謀」が実在していたかのように主張しているが,これは 1
920年 代 か ら
1933年 9月 ま で 存 続 し た ド イ ツ 軍 と 赤 軍 の 一 定 の 提 携 関 係 の 読 み 違 え で ゐ る よ う に 思 わ れ る 。
1
5
) Hagen,a
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6
) Schellenberg,o
84
トゥハチヱーフスキー事件に関する一試論
ト ラ ウ ト マ ン ス ド ル フ 伯 (Trauttmannsdor百
, M. K. zu) と チ ェ コ 公 使 マ ス ト ニ ー
ny,V
.
) との会談で,前者がたまたまトゥハチエーフスキー元自主,ノレイコフ
(Mast-
(PhIKOB, A.
1
1
.
) ( 前 人 民 委 員 会 議 長 ) そ の 他 方 、 ら 成 る 「 反 ス タ ー リ ン 派j と ヒ ト ラ ー の 接 触 を 口 に 出
し,この報告を受けたベネシュ i
ヱ直ちにチェコ駐在ソ連公使アレクサンドロフスキー
(A
J
1e
KCaH
.
l
I
.pO
BCKH
,
註 C
.
) を 通 じ て , ス タ ー リ ン に そ の こ と を 連 絡 し た と い う の で あ る の9
ここにみられるようなスターリンへの通報内容や通報時期の喰いちがし、に関する疑問は,
ソ連側詰報機関が,やがて「極秘憎報」に脚色されて還流する筈の赤軍幹部に不利な情報
をさまざまのチャネノレに流し込んでいたとみることによって一応解治するであろう
O
いず
れ に し て も , ス タ ー リ ン が 単 純 に ド イ ツ 手U
lの謀略にカミ力、ったわげではないことだけはたし
か で あ る 18)。
しかもこうして手に入れた偽造文書が,
トゥハチエーフスキーらの裁判で被告達につき
つ け ら れ た か ど う か す ら , 必 ず し も は っ き り し な L、 。 ソ 連 の 反 体 制 派 の 壁 史 家 メ ト ヴ ェ ー
ジェフ (Me.
l
.Be
.
l
.eB
,P
.
) は , 偽 造 文 書 は こ の 裁 判 で も , そ の 直 前 の 「 軍 事 会 議 J(BoeHHbI
註
COBeT) に も 提 出 さ れ な か っ た と 断 じ , ス タ ー リ ン は 37年 始 め に は ト ゥ ハ チ ヱ ー フ ス キ ー
の 「 反 逆 罪 」 に 関 す る 「 確 実 な 情 報J ( こ れ 以 臼 こ 確 実 な 情 報 が ま た と あ ろ う か む を す
I
軍事会議」では,出席者はすでに逮捕されていたー赤軍将校のトゥハ
チ ェ ー フ ス キ ー 告 発 の 「 自 由 J を 間 か さ れ た だ け で 、 あ っ た と し て い る 1的 。 も し ナ チ ス 秘 密
でに握ってお今,
情報機関による「偽造」文書が単に赤軍幹部粛清の事後的カモフラージュとして利用され
たすぎ主いとするならば,スターリンの意凶は一体どにあったのであろうか。これが次に
取り組むべき問題である。
2
. 粛清の背景一軍事的効率と政治的忠誠
トゥハチエーフスキー以下の赤軍最高首脳の処刑の理由とされた外部勢力(ナチス・ド
イ ツ ) と の 通 謀 な い し ス パ イ 活 動 が 事 実 無 根 で あ っ た こ と は , す でtこ 見 た 通 ワ で あ る O で
はこれら葉清の犠牲者達は,外国勢力とは無関係の独自のスターリン打留の陰謀を計画し
ていたのであろうか,あるいは少くともスターリンの隈から見て,かかる陰謀を存在を推
1
7
) E
.Be
nes,Memoireso
f Dr
. EduardBene
,
き fτomMunicht
oNew War and New Victory,
London
,1954,p
. 20
,47note8
.
1
8
) ネグリヅチは,スターリンはトゥハチエーフスキーらの告発が根拠のないものであり,証提も偽造
であることを知っていたと断言している。 (V.Petrov,o
p
.c
i
t
.,p
.1
3
4
) 事実,当時ドイツ国防享
参謀本部外国諜ロシア査長であったシュバルケ将軍 (Spalke,H.) は
, ハイドリッヒの f
偽造証
拠j が赤軍将星抹殺の原因であったとする云分を, ハイドリッヒの f
大法螺 j と一蹴しており
(
G
.Buchheit,a
.a
.0.,S
.1
6
5
),また当時の駐ソ・フランス大使クーロンドル (Coulondre,B
.
)
の本省あて報告 (
3
7年 2丹 10B) でも 1月末以来のトゥハチエーフスキーの身辺をめぐる不吉
r
a
n
c
a
i
s 1932-1939,2eS
e
r
i
e,tomeIV,P
a
r
i
s,
な動静を伝えていた。 (Documentsdiplomatiquesf
1967,p
p
.7
3
1
3
2
.
)
.Medvedev,LetHistory}udge,theOriginsand Consequences ofStalinism,N.Y
.,
1
9
) RoyA
1971,p
p
. 300-301
. またクリヴィツキーと持じく策需の危険を感じて 1938年 7月,スペイン内戦
の戦場から西側に亡命した HKB瓦外事部の大物の一人,オノレロプも, 外事部長代理シュピーゲ
S
h
p
i
g
e
l
g
l
a
s
)から, トゥハチヱーフスキーらが裁判にもかけられないで銃殺され,特別
ルグラス (
法廷の判土はそのあとで,エジョーフから「陰謀 jの存在を伝えられ,判決に署名せざるをえなか
った宕打明けられたと記している。 (
A
. Orlov,TheSecretHistoryofS
t
a
l
i
n
'
s Crimes,N. Y.
1953,p
p
.2
3
6
2
3
7
)
.
85
平井友義
測させる何らかの動きがあったのであろうか。この問題を検討することが,とりもなおさ
ずスターリンの側での赤軍首脳部抹殺の動機の究明につながるであろう
O
まず赤軍の粛清がそれ自体部立したものではなく,旧反対派のみならず,スターリン支
持者をもまき込みつつ進行していた大量弾圧の渦中でおこったことを見逃してはならな
L、
c粛清 (
t
U
I
C
T
K
a
) そのものは党の歴史において決して自主I
fしいものではなかったが,以
前の粛清の主な目標が,堕落分子.政治的反対派の除名.罷免によって党・ソヴェト機関
1936年 9丹末,
の戦前性の強化を図ることにあったのに対し
られたェジョーフの内務人民委員就任後の粛清は,
r
血 に 飢 え た 小 人 J と恐れ
「スターリン政権自身の内部 J ~こ向け
ら れ . か つ テ ロ ル を 「 基 本 的 内 容j と す る 点 に お い て , 比 較 を 絶 し た も の と な っ た の で あ
っ7
こ20)。
粛清の第一の転機は,キーロフ暗殺事件であっ t
:
.o 事 件 の 直 後 , 党 中 央 委 員 会 は 務 密 指
令 を 全 党 組 織 に 送 り , 党 員 に 対 し て 警 戒 心 の 昂 揚 を 求 め る と と も に , ジ ノ ー ヴ ィ エ フ (3H-
r
HOBheB
, よ カ ー メ ネ フ (KaMeHeB,J
I
.Bよ
トロッキー (TpOl
¥
KH
,
員 λ)支 持 者 の 即 時 根 絶
を 訴 え た 21)。 す で に 33年 G足 か ら 始 め ら れ て い た 従 来 の 手 続 き を 踏 襲 し た 粛 清 カ ン パ ニ
ア が , こ の 決 定 に よ っ て 異 常 に 拍 車 が か け ら れ た こ と は 想 像 に 難 く な L、。こうしてお年 6
月から 35年 春 ま で に 191万 6,
500名の党員及び再侯補が粛清の対象となり,うち 18
.3 %が
怠 慢J に惇然となっ
除 名 処 分 に 仔 せ ら れ た が 22〉,その過程で発見された多くの党組織の f
た党中央は, 35年 5月,党員証,登録カードの点検に名を借りた本格的な粛清を決定し,
同 年 12月 の 中 央 委 員 会 総 会 の 決 議 を 受 け て , 翌 36年春以降,党員証の交換が実施され,
,
いわゆる「敵性分子」の徹底的追求に移っていったお〉。そして 7月 29日
rトロッキー・
ジ ノ ー ヴ ィ エ フ 派 長 革 命 ブ ロ ッ ク の テ ロ 活 動 に つ い て 」 と Lづ 中 央 委 極 秘 文 書 が 各 設 委 員
会に記和され,
E
I語 に 迫 っ た 「 合 同 本 部 事 件J裁 判 の 開 廷 を 予 告 し て 全 党 員 の 「 ポ リ シ ェ
ヴィキ的警戒心j の 発 揚 を 訴 え た 24)。 こ う し て 8月 の 「 合 同 本 部 事 件j 裁 判 ( ジ ノ ー ヴ エ
フ , カ ー メ ネ フ 以 下 回 被 告 〉 に 続 い て 37年 1月 に は 「 並 行 本 部 事 件 J ( ピ ャ タ コ ー フ
(口町aKOB,r.刀よラデック (Pa.
l
leK
,K.) 以 下 17被 告 ) 裁 判 が 公 開 審 理 で 行 わ れ , 弾 互 の
鋒先が今や左右両派のいずれを間わず,スターザン体制の一切の潜在的批判者と目される
者すべてに向けられていることは明らかになった。粛清のテロノレは第 2段 階 に 入 っ た 25〉0
2
0
) 外 務 省 課 査 部 第 三 課 「 ソ 連 邦 霞 力 総 合 謁 査 第 一 次 報 告 J(昭和 14年 1月), 8
9
9
1ベージ。
2
1
) M.Fainsod,SmolenskunderSovietRule,Cambridge,1
9
5
7,p
.2
31
.
2
2
) こ の 粛 清 は 本 来 , 急 激 な 工 業 化 が も た ら し た 入 党 者 の 激 増 に 伴 う 「 水 ぶ く れ 現 象 Jl'こブレーキをか
け る 狙 い が あ っ た が , キ ー ロ フ 事 件 以 後 , 非 ス タ ー り γ 採の排除の手段に転イヒ L, 数 々 の 「 行 き 過
ぎj を 生 ん だ こ と は . 党 史j も 認 め る と こ ろ で あ る 。 な お 被 徐 名 者 の う ち ,
党・富家規律違反
者j は 2
0.9%. 道 館 的 腐 敗 分 子 ・ 出 世 主 義 者 ・ 宮 密 主 義 者 J21
.5%, 撤 性 措 級 分 子J1
6
.
5
%
. 非
讃 極 分 子 J23.2%の比率であった。(f1. H.f
1o
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. ( 以 下 回CTOpH完
K口CC と し て 引 用 )
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) TaMe.2
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3
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5
.
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e Communist Party o
f the
2
4
) 英 訳 全 文 は R.McNeal(edよ Resolutions andDecisions o
.3,Toronto,1
9
7
4,pp. 1
6
7
81
.
SovietUnion,vol
2
5
) M. フ ェ イ ン ソ ー ド は , ジ ノ ー ヴ イ エ フ ・ カ ー メ ネ フ 裁 判 に お い て , 被 告 の 「 自 由 j の な か で f右
探 j指 導 者 の 名 前 が 灰 め か さ れ た こ と を も っ て , 薦 漕 の 第 2の 転 換 の 到 来 の 予 告 , エ ジ ョ ー フ の 内
insod, How
務 人 民 委 員 就 任 を も っ て , 第 2段 階 の 本 詩 的 開 始 を 画 す る も の と し て い る 。 (M. Fa
8
6
トゥハチエーフスキー事件に関する一試論
B. ムーアは,その著書『ソ連邦におけるテロノレと進歩 J (1954年〉のなかで,
ソ連にお
ける粛渚について鋭い原理的考察を行っているが,それは多くの塵史的事実がその後明ら
か に な っ た 現 在 も な お 妥 当 性 を 失 っ て い な L、。ムーアによれば,
ソ連における「制度{とさ
れたテロル」は,社会議造のラディカルな変革→反対派の表出→反対派の結束→テロノレの
強化と Lづ 後 進 国 革 命 の 歴 史 的 循 環 モ デ ル の 殆 ん ど 純 粋 な 発 現 型 懇 で あ る と さ れ る 2
6
Lし
かしテロルが急激な工業化と都市化と相侯って伝統的な社会的経帯を切断し,社会の「涼
子生 j を促進した擦りにおし、て,テロノレ機構の行き過ぎをチェックする「多元的権力核」
(自主的集団〉をも完全に粉砕することになり,結局は党に向げられるべき忠誠心の個人
レベルへの恒婦を必然化しめ,テロノレ的方法が本来志向したヨリ高次の社会的統合を却っ
て阻害することになった,と彼は説くのである O
このようにみてくるならば,大東清の持代に,赤軍とし、う独自の利害関心を持つ組織集
団がし、つまでも暴抵の圏外に留まりうる可能性は,客観的になかったといってよ L、 集 団
化と工業化の激動期に赤軍が体舗の安定要素としての役割をこれまで果してこれたのは,
赤 軍 が 5カ年計画における最大の受益者たる地位を亨受してきたことと結びついていた。
たとえば, 5 カ年許画〈特に第 2次 ) に お け る 菌 防 部 門 の 擾 遇2町れ、うまでもなく, 33年
か ら 35年春までの粛清過程においても軍隊における除名と蒔等処分の率が,軍以外の組織
のそれと比べてはるかに低かったことが挙げられよう
O
すなわち軍党組織における除名・
降等処分〈党員から党員侯誌ないし向調者への)LJ:,それぞれ 3.5%,2.4%であったのに対
し,能の組織では 17%, 6.3%であった 2め。さらに命令系統を明確化し,あわせて指揮官層
の 社 会 的 威 信 を 高 め る と い う 一 程 二 鳥 の 効 果 を 狙 っ た 「 価 値 付 与J (豆.ラズウエノレ)も他
方では進められていた。 33年 4月 , 政 治 部 門 担 当 副 指 揮 官 制 の 導 入 が 決 定 さ れ て
25年
3月 に 承 認 さ れ た 「 単 一 指 揮 j 京 別 は 大 き く 前 進 し 30入 35年 9月,赤軍参謀部は赤軍参謀
本部に改組されるとともに,指揮官,隊長の「権限と権威」を正確に反映させるという理
Russia i
sr
u
l
e
d,Cambridge
,1
958, p
. 371 . ) な お , エ ジ ョ ー フ の 統 制 委 員 会 議 長 か ら 内 務 人 民 委
員への転出は,講清のスピード・アップのため,スターリンじきじきの命令によるものであった。
〈邦訳『フルシチョフ説、密誤説Jl, 74ペ ー ジ )
2
6
) B
.Moor,J
r
.,Terrorand ProgressじSSR,Some Sources o
f Changeand S
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SovietDictatorship,1954, p
p
.1
7
2
1
7
3
. もちろんムーアは社会主義革命のみを念頭においてい
るわけではなく,多くの歴史的変革 (
i過 去 と の 急 激 な 断 絶 J) が 広 い 意 味 で の 「 革 命 的 暴 力 」 を 伴
うことは避けられないのでふり,ただそれを f
抑 圧 的 暴 力jに 退 化 さ せ な い こ と こ そ が 問 題 で あ る
C
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.B
.Moor
,J
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.
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lOriginso
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pandDemocracy,Lordand
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.p
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.4
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.
Peasantsi
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eMaking o
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eModern¥Vorld,Boston,1966
2
7
) Moor, Terrorand ProgressUSSR, p
p
. 160-61
. この自発性の喪失を代{賞として党支配の拡大
と指擁している。
がえられることになる C
2
8
) 日CTOpH完 Kncc
,C
T
p
.3
9
8
3
9
9
. さらに赤軍の近代化・増強の具体的ケース〈たとえば民兵・常
備 軍 混 成 体 制 か ら 常 備 軍 事j
への移行,空軍・機誠化部隊などの兵種の独立編制など)については,
I
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.1
1
. Kopa6JIeB,M. 日. JIOfHHOB 手
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み Kncc H cTpOHTeJIbCTBO Boopy}KeHHI:泣 C
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1959,C
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.336-41
.
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.2
2
5
2
6
.
もっとも,
その後の粛清の強化により,
軍内部
934年 7月 か ら 四36年 7月 ま で の 間 に 党 員 〈 含 同 候
の 党 員 数 は 激 減 L, た と え ば パ ル ト 艦 隊 で は 1
補)数は 1
0
,
729人 か ら 7,
127人 へ 33.6%も 減 少 し て い る o (TaM }Ke
.C
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p
.2
2
7
)
1CTOpH冗 Kncc,CTp.410.
3
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) I
87
平井友義
由で下士宮,将校,将官,元帥の階級制が復活され,将校については,国防人民委員の承
認 な し に は 民 間 機 関 に よ る 逮 捕 は 禁 止 さ れ た 31)。こうして, 11月に誌,トゥハチエーフス
キーは元帥,ヤキール,ウポレーヴィチは一等可令官,
コルクは二等司令官,ガマーノレニ
グは一等軍団コミッサーノレ (
l、ずれも将官に相当〉にそれぞれ任命されたのであった。
軍が支配機構のなかで相対的に恵まれた立場にあったかにみえていたとき,
ら
,
しかしなが
トゥハチエーフスキー事件の予兆を示す暗雲が地平線の彼方に立ち現われてきた。「合
1pa弓KOBCKH
,
詰 C.) スミルノーフ
同 本 部 事 件j 裁判の被告のなかに,ムラチコーフスキー(i¥
(CMHpHOB
,1
1
.
) とL、った国内戦時代の軍事指導者が含まれていたことは,粛、清の手が軍統
帥 部 に も や が て は 及 ぶ で 島 ろ う こ と を 暗 示 し て い た が , 果 せ る か な 7月 始 め , キ ー エ フ 軍
管区のシュミット(IllMHJlT,旦)師団長がまず逮捕された。 復 は 天 成 の ゲ リ ラ 戦 指 導 者 と
して量内戦で活擢し, 25年 か ら 27年にかけてトロッキー振に属し,
トロッキーの追放を
きめた第 15回 党 大 会 (27年 12月)のさいスターリンを面罵すると L、う野人ぶりを発揮し
たと L、われるめ。シュミットは,
1"合同本部 J rJ)陰謀に加担していた旨の「自己」の後,
ひそかに銃殺された。
元トロッキ一派の将軍の次の犠牲者はブートナであったO ブ ー ト ナ は , ジ ノ ー ヴ ィ エ
フ・カーメネフ裁判の証言で名前が上っていたが,秋には任地のロンドンから召還され,
そのまま拘禁された初。
「合同本部事件」裁判ののち,スターリンは粛清メカニズムの再検討を余儀なくされる
ような事態が持ち上ったらしし、。1"らししづというのは今日まで,これを裏付ける確実な
資料がないからであるが,一説によれば, 36年 9月 始 め に 関 寵 さ れ た 中 央 委 員 会 総 会 で は
プハーリン (6yxapHH,討よノレイコフ (PbIKOB,A. 1
1
.
) ら,いわゆる「右翼反対派」に対
する訴追を要求したエジョーフの動議が三分の二の多数で否決され,軍を代表する中央委
員〈ヤキール,ガマーノレニク).同侯補(ウボレーヴィチ,
トゥハチエーフスキーのほか,
1
.
) 参謀総長,ブりュヘノレ (6J1loxep,B. れ よ 特 別 極 東 軍 奇 令 官
エゴーロフ (EropOB,A. 1
1
.A
.
) 政治本部長代理)は,
プーリン (6y♂HH,1
スターりン派と目されていたヴオロシー
ロフ菌防人民委員,ブジョンヌイ (BYJ
l
邑HHhI
,
註 C. M
.
)
!
騎兵監を除き,全員これに向調した
と い わ れ る 制 。 も っ と も 元 ソ 連 共 産 党 員 で あ っ た ウ ラ ロ フ ( 本 名 A. ABTOpXaHOB) のこの
情 報 は 一 概 に は 信 じ が た L、。問題の中央委員会 9月 総 会 の 開 催 の 真 否 に つ い て は ソ 連 鎖 文
献には全然言及されていないし,エジョーフがスターワン直々の命令で内務人民委員に就
任するのは,
9月も末のことだったからであるお〉。ただ中央委員会のなかにスターリンの
「個人崇拝j 的 風 潮 の 行 き 過 ぎ に 対 し て 歯 止 め を か け る 必 要 を 感 じ て い た 者 は , そ の り ー
3
1
)
3
2
)
33)
3
4
)
35)
1
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.Bo6KOB,
KHCTOpHHBOHHCKHX 3BaHl議 B COBeTCKHX Boopy)KeHHblX CHJIaX,<<BOeHHO・
日CTOpHQeCKl
査 員 涼ypHa
J
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>
>
.I
X,1970,crp.86-88. ま た こ の 時 期 の 指 揮 官 層 の 実 態 に つ い て は ,
K
.φ.CKopo6araTKHHH np.,50JIeT Boopy)KeHHblX CHJ1 CCCP,M.,1968,CTp.210-218
.
Erickson,o
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.,p
.4
2
6
.
M.M.30MOB(pe)
l
み M創 出a
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ITyxaQeBCKH
,
詰 M.
,1965,CTp.230.
A.Uralov,TheReignofS
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a
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n
,London,1953,pp. 41-42.
36年 9月 101
3, r
合 同 本 部 事 件 J1'.こ関連してプハーリン,ノレイコフ, トムスキー (TOMCKH
弘 M
.
0
.
)に 対 し て 行 わ れ て い た 予 審 の 終 了 と 不 起 訴 が 発 表 さ れ た こ と 村 口paB.
l
I
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)
),1
0
. IX
,1
936) 法
,
あ る い は 党 内 の か か る 反 対 傾 向 と 関 保 が あ っ た の か も Lれない。
88
トゥハチエーフスキー事件に関する一試論
ダーと目されていたキーロフ的の死後も,なおすっかち後を絶つてはいなかったことであ
ろう
O
た と え ば 重 工 業 人 民 委 員 (36年初頭以降,
軍 事 工 業 の 特 別 責 任 者 と な っ て い た )3η
で ス タ ー リ ン と 同 部 で あ っ た オ ル ジ ョ ニ キ ッ ゼ (Op
且況OHHKH
瓦3e
,r
.K
.
)の急死
月 18日)をめぐる謎は,
(37年 2
彼がスターリンのテロノレ粛清のやり方に対して反対していたこ
とを示唆している紛。
ともかく,スターリンはしばらくのく怠つぎ〉を置いたあと,弾圧の第二波をとき放つ
作業にとりかかった。 36年 11月のケメレヴォ(西シベリア〉にお汁る技師・技術者の「破
壊行為」に対する裁判が行われ,翌 37年 1月の「並行本部事件J裁 判 に 「 首 謀 者 j の一人と
してピャタコーフ重工業人民委員代理が引き出されたことは,ある意味でスターリン体制
の最も忠実な支持基盤であるテクノクラート層もまた,テロノレ粛清を免がれえない運命に
あ る こ と を 示 す も の に は か な ら な か っ た 39)0 1月公判で,ラデックは「一味 jのブートナの
活 動 に 関 連 し て ト ワ ハ チ エ ー ア ス キ ー の 名 前 を あ げ , ヴ ィ シ ン ス キ ー (BbICHHCKH
,
註A
.兄)
検 事 総 長 か ら さ ら に 追 究 さ れ る と , 後 者 と 「 並 行 本 部j グループとのつながりを即座にき
人 民 の 敵j か ら の 忠 誠 証 明 は 決 し て ト ゥ ハ チ エ ー フ ス キ ー の 潔
っぱり否定していたが. 1
白の証しになるとは思われなかった。すでに前年 1
1月 に プ リ マ コ ー フ が 監 禁 さ れ て い た
し,年が明けてから軍司令官クラスの人事異動があわただしく行われていたことは,統帥
部 の 毘 結 の 分 断 を 企 図 し た も の で あ っ た 40)。
3
大 量 弾 圧 の 第 二 の 波 を と き 放 す 直 接 の 契 機 と な っ た の は . 37年 2月 23日から 3丹 5 1
まで続き,プハーリン,ノレイコフの除名を決定した中央委員会総会であった。 3月 3日と,
51
3の再 1
3
. スターリンは反ソ分子の徹底的根絶の必要をあらためて強調し,
それを合理
化するために,ソ連における社会主義の建設が成功すればする程,菌内の階級関争は激化
し , 今 司 で は ト ロ ツ キ ズ ム は 「 労 働 者 階 設 内 の 政 治 的 ー 潮 流 j ではなくなり,
1
外国スパ
イ機関に雇われて働く無原期,無思想な妨害者,謀略者,スパイ,殺人者の徒党」に転落
した,とする理論を持ち出した 41)。 も し こ の 「 理 論Jが機域的に適用されるならば. 1ト
ロツキスト j の範盟は無謀にふくらみ,しかもその熔印を押された者に対しては,
1スパ
イJ と記じ極刑が待っていることだけは確実であった。関じ演説のなかでスターリンが,
「戦闘での勝利をくつがえすには参謀部のなかの 2, 3のスパイで充分である J と無気味な
ヵ- fJl..
皮 肉 を 飛 ば し た の に 呼 応 し て , モ ロ ト フ (M.OJIOTOB,B
.
)人 民 委 員 会 議 議 長 は 「 軍 幹 部 の 殺
裁を直接煽動し,総会参加者を f
人 民 の 敵 J に対する熱意、の不足のかどで叱責した」とさ
れている O
モロトフの発言は,
ソ連でこれまで出版された党=軍関係史では最も詳しく新事実も盛
3
6
) 第 17自 党 大 会 (
3
4年 1月〉でキーロフを中心としてスタージシを書記長から解任しようとする動
,
きがあったことはたしかのようである。 CM.C.KpaCHHKOB,Cepre益 MHpoHOBHq KHpOB,M.
1
9
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e,AnnArbor,1975,p
. 92
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,CTp.399.
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) L
.Schapiro,TheCommunistPartyo
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eSovierUnion,2nde
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.,London,1
9
7
0,p
.4
1
3
.
.A.Armstrong,ThePolitics of Totalitarianism, the Communist Party of the Soviet
3
9
) J
Unionfrom1934t
ot
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t,N.Y
.,1961,p
p
.5
4
5
5
.
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p
.449-451
.
4
0
) Erickson
<
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B
)
(
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>
>29,I
I
I
.,1
9
3
7
. (邦訳は. Irスターリン主義とアノレパニア問題j1. 合同出底, 1
9
6
2年
,
4
1
) <
282-324ペ ー ジ )
89
平井友義
り沢山の IO. ベトロフの著書42)~こ引用されているものであるが,その後の事態の進行につ
いて,問書は次のように述べる O
中央委員会総会の直後から,内務人民委員部は,
i
赤 軍Jに お け る 「 反 革 命 軍 事 フ ァ シ
スト組織」と Lづ架空の組織に対する攻撃に取ちかかり,
6月 1日から 4日 に か け て の
「拡大軍事会議 j で は , 赤 軍 内 の 「 陰 謀 組 織 J が 討 議 の 焦 点 と な り , 席 上 ス タ ー リ ン は
「偽造の証拠Jを 援 用 し て 軍 に 巣 く う 「 陰 謀 分 子Jの 影 響 の 絶 滅 を 強 く 訴 え た の で あ っ
た 43)。ここでし、う
「偽造の証拠J な る も の が , 例 の SD=HKB
瓦合作文書そのものでは
ないにしても.それと何らか関係のあるものであったことは疑いないであろう
の会議には,
G
さらにこ
トゥハチエーフスキー以下のやがてテロノレの犠牲者となるべき将軍は出露し
て い な か っ た と み る の が 妥 当 で あ る O なぜ、ならば,すでに捕えられていたプートナ,プリ
マコーフにつづいて,コルク (5月 日 日 ), エ イ ジ ェ マ ー ン (5月 22呂), トゥハチエー
フスキー (5月 26日), ウ ボ レ ー ヴ イ チ (5月 29日), ヤキー/レ (5月 31 日)と次ぎつぎ
に逮捕されてしまっていたからである“〉。このように 5月 に 入 っ て か ら 赤 軍 最 高 幹 部 が 一
網打尽に逮えられたことからみて,既述のように, i
偽 造 証 拠 」 が HKB
瓦の手を経てスタ
ー リ ン の と こ ろ に 届 い た の が お そ く と も 5月 始 め で あ る と す れ ば , こ の 「 証 拠Jが少くと
も弾圧計画の実施時期を決定するに当ってきわめて重要な要因として作用したとみてよい
であろう C
それでは赤軍最高幹部の間にナチス・ドイツとの「通謀」は論外としても,反スターリ
ン「陰謀j の計画は実際存在したので、あろうか。それともそのような「陰謀Jはスターワ
ンの偏執狂的白昼夢にすぎなかったのであろうか。 工ドイツチャーは,
キーを指導者とする宮廷革命型のクーデタ計画が練られており,
トクハチエーフス
スターリンの暗殺と
r
.
O
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. (国家政治部)本部の占領がその目標となっていたことは疑いない,としている 4a)。
しかし軍に対する弾圧の予兆はかなり前から現われており,首脳部の逮捕も同時に行なわ
れたわけて・はないから,もし疲らの関に「陰謀」計画がありとすれば,当然に先制攻撃に
出るべきであったし,反対に準備不充分のところを急襲されたとしても,反抗ないし逃亡
は可能であった筈で、ある O 背 後 に 強 大 な 武 装 集 毘 を 控 え て い た 彼 ら が 反 抗 も 逃 亡 の 試 み も
しないまま,
7
f
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J
場の露と消えたこと岳体,かかる f
陰謀」が存在しなかったことを雄弁に
物語っているのではなかろうか。
他方,スターリンの側に立って見れば,状景は全く異って映るであろう
O
さきに挙げた
ムーアの図式が示すように,スターリンが国の工業化を「むち」をもって推進しようとす
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,M.,1964,CTp.299.
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,CTp. 300.
3時は, R
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.に 散 見 さ れ る も の を , い く つ
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かのソ連側文献と窺合したものである。
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,London
,1961,p
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7
9
.(
邦
I,みすず書房,昭和 43年
, 65-66ペ ー ジ ) 厳 密 に は rnyは 1923年
訳(上東京) WスターリンJl I
7月. Orny ( 合 同 国 家 政 治 部 ) に 改 組 さ れ て HKB
瓦から独立したが. 3
4年 7JL 再 び HKB
瓦
に吸収され.
ryrB (国家録安部〉と改称された。
90
トゥハチエーブスキー事件に摸する一試論
る譲り
46)
下からの自発性と創意は軽視されることになり,逆に上からの強制と監視の網
からはみ出た者,あるいはそれからはみ出る可能性を秘めた者のなかに,常に「体制」に
対する悪意、と陰謀の匂いを嘆ぎとり,これに容赦なく諜圧を加えずにはおかないというタ
ンタロスの不安から逃れることはできなくなったことであろう
O
ここにオールド・ポリシ
ェヴイキ達への,ついでテクノクラートへの迫害は,独自の制度となりうる軍中寺区部に対
す る 予 訪 攻 撃 に 発 展 せ ざ る を え な いc 軍 が 技 街 的 中 立 性 の タ テ 前 に 揺 れ て 強 大 な 物 理 的 暴
力の貯水槽と化すおそれがあればある程,外部世界からの軍事的脅或と相まってスターリ
ン の 不 安 は 増 大 し て ゆ く か ら で あ る 47)。
こうしてスターリンにとっては,既存の草の背骨を叩き潰しながら,それと同時に,党
の統制の貫徹する戦開=技術集団を再生してゆくというまさに至難な課題が立ち現われる
ことになる G ま ず 軍 に お け る 党 の 影 響 力 の 低 下 ( こ れ は 粛 清 の 時 期 に , 赤 軍 の 増 強 が 休 み
設いとめ,同時に軍首脳部に対する弾圧
な く 続 い た こ と の 不 可 避 的 な 結 果 で も る っ た 〉 をl
に伴う動揺をあらかじめ訪止する意味もかねて,
37年 5月 8 日
ド央委員会は,軍管区,
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軍 事 会 議J
, 連 隊 何aCTb),師団
軍 , 鑑 隊 に 3名 〈 司 令 官 他 2 名 〉 よ り な る
(COe,
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.MHeHMe),
菌 防 人 民 委 員 部 の 本 部 恒 Ta6) お よ び 部 局 (ynpasλeHlIe), 軍 施 設 な 可pe)
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.eHMe) に 軍 事 コ
ポロトル-?
ミ サ ー ノ レ , 中 隊 に 政 治 指 導 員 を 設 け る こ と を 決 定 , さ ら に 6月 7日 に は , 従 来 の 政 治 部 門
I
単 一 指 揮j 制 は 一 朝 に し て 魔 止 さ れ た 4f:l)。
f
軍 事 会 議j の メ ン バ ー は 最 初 , 可 令 官 , I
専 従 政 治 活 動 家 J, 管 区 政 治 部 長 と さ
担当部指揮官が軍事コミサールに任命され,
軍管区の
れたが,
7月 に は 管 区 政 治 部 長 の 代 り に , チ1
'
[. 地 方 委 員 会 書 記 も し く は 民 族 共 和 国 中 央 委
員会書記がメンパーとなっ,このしばらく後に,管区政治部長は[専従政治活動家」の単
専 従 政 治 活 動 家J とは,
な る 代 理 と し て 位 置 づ け ら れ た 49)0 I
HKBlI.から派遣された昌討
役の別名であると西側研究者はみており,戦術・戦略段階では「軍事会議」を通じて軍事
4
6
) スターリンは 33年 1丹の中央委・中央統制委合同総会の鹿上,「菌にむちをあて」る必要を公黙と
語っている。 (
1
1
.B. CTaJIHH,BonpocbI JIeHHHH3Ma,ll-e H3.,M.,1952,CTp.411.)しかも,第
一次 5カ年計画完了時 (1932年)において,たとえば年産 90億ルーブルの生産能力のある機域生
,
5
0
0 トンの銑鉄生産能力をもっ溶鉱炉の
産が実際には 66億ルーブノレにとどまり, また日産 2万 1
生産実績が 1万 8,
0
0
0
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"
"
"
1万 9,
000 トンを越えなかったように, 生産設構と生産性の間の大きな落
差は,スターリンに fむち j の必要を一層痛感させたことであろう。生産性向上のドライブが,同
0 CM.
時に猛烈な「精神主義j と結ひ、ついた理由もここにある 〈スタハーノフ運動のもう一面 )
日CTOpl
甥五日 C C,白下.240.
j
lなしには不可能であれ同時に党の政治的統
4
7
) 軍の近代化は,圏内戦時代の「英雄主義」からの扶5]
事!とも矛盾する面をもっ。 トヮハチエーフスキーは逮捕の直前 (
5月 3日付『赤い星』抵)に発表し
た,伎が心魂を額けて起草した「新野外操典J(EoeBo益 YCTaBPKKA)の解説論文のなかで,赤軍
が「特別の j機動能力を持っとする意見を屋内戦の経験の遺物として激しく批判した。これは窮ら
かにパルチザン出身の軍事指導者(典型はプジョ γ ヌイ騎兵監〉に向けられたものであったが,
同時にスターリン統治方法の「非合理性」への註轄にも連なるものであった。 (M. H. Tyxaqe九日36paHHblenpoH3Be.
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. I(1928-1937r
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) M.
,1964,CTp.245-259) また赤軍に
BCKH
対する弾圧が,兵種で法空軍,機甲部隊,機誠化部践においてその打撃が最も強烈であったといわ
扶儒 J と「政治」の矛盾・相魁と無関係ではないであろう。 (neTpOB, napTH設Hoe
れるのも, r
, CTp.300) この点で, 37年 12月,新設の海軍人民委員部の責任者に赤軍政治
CTpOHTeJIbCTBO.
本部長スミルノーフ (CMHpHOB, n. A
.
) が転補され,政治本部長にスターリンの寵児メフリス
(MexpHC
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.
)書記局員が就任していることが注目される。 (<<DpaB.
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91
平井友義
専 門 家 の み な ら ず , 本 来 の 「 政 治 将 校j の 権 限 も ま た 大 幅 に 表 わ れ る に 至 っ た 5句
。
他方,新しい赤軍幹部の養成については,
36年 1
1月 , 高 級 指 揮 官 お よ び 参 謀 将 校 の た
めの参謀本部大学が,従来からあったフルンゼ名称労農赤軍軍事大学より独立し,その卒
業生が粛清によって空白になったポストをうめていき,
反 対 に 粛 軍 が 猛 威 を 振 っ た 37年
5月 か ら 39年 ま で フ ル ン ゼ 名 称 軍 事 大 学 で は 徹 底 的 な 機 構 改 革 が 行 わ れ て い た も よ う で
ある 5130 ス タ ー リ ン は , 知 識 と 経 験 を 犠 牲 に し て も , 忠 誠 に つ い て は , 一 点 の 疑 い も な い
親衛践的高級将校を確保しようとしたわけで、ある C
こ う し て お 年 か ら 38年 (
2月,中央委員会,
軍鼓における入党促進を決定〉までの軍
部 を 襲 っ た 徹 底 的 な 粛 清 に よ っ て , 軍 の 「 政 治 化j も ま た 大 き く 前 進 し , 全 く 新 し い エ ス
プリ・ド・コーノレをもっ戦闘集団に生まれ変るための前提条件が一先ず、出来上ったといっ
てよいであろう
O
これはまた粛漬の発条としてあげた, I
日型テクノクラートに対する「予
防 攻 撃j の婦結でもあった。
3
. むすびに代えて
前節において,
トゥハチーフスキー事件として知られている赤軍将星の粛清の背景をみ
てきたので‘あるが,一旦こうして開始された粛清過程は,独自のそーメンタムをもって自
転 運 動 を 始 め る こ と に な っ た 。 そ の 理 由 と し て 考 え ら れ る の は 次 の 2点 で あ る O まず,ス
タ ー リ ン に よ っ て 粛 清 の 合 理 づ け の た め に 持 ち 出 さ れ た 「 階 級 関 争 激 化 論j は , 要 す る に
一場の潜在的批判要素を「スパイ j ないし「外国勢力の手先」と規定するものであったか
ら , こ の 「 姿 な き 敵j の 範 囲 は 怒 意 的 に 拡 大 さ れ る 可 能 詮 を 始 め か ら は ら ん で い た こ と ,
主,パーソナノレなつながりの
第二に,テロノレによる不断の「原子化」にさらされた社会でt
価値を高め,もともと人間的な告頼関係を究極のより所とする軍隊ではこの額向はさらに
防長されることになるから,粛清は個人的つながりに沿って連鎖反志的に誘曝せざるをえ
ないこと,で若うる O
こ う し て 軍 幹 部 の 粛 清 は . 39年 に 入 っ て ひ っ そ り と 止 む ま で , 療 原 の 火 の よ う に 荒 れ ま
くった C こ の 期 開 の 粛 溝 の 全 貌 を つ か む の は 容 易 で は な い が , 西 側 の 研 究 者 の 誰 定 で は ,
000名 〈 将 校 団 の 約 半 数L 内 訳 は 元 師 5名 中 3名 , 軍 司 令 官 (
1
5名)の
議 牲 者 総 数 3万 5,
8
5名) 57名 , 師 団 長 (195名) 110名
,
うち 13名 , 以 下 同 じ く 軍 団 長 (
旅語長 (
4
0
6名〉
220名 , 将 官 ク ラ ス の 90%. 大 佐 ク ラ ス で 80%と い う 数 字 が 挙 げ ら れ て い る 幼 。 ソ 連 側 の
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8年 始 め の 政 治 部 員 の 数 は 全 体 で 定 数 の 1
/
3にすぎず,
実,弾圧による政治将校の犠牲も甚大で, 3
TpOB,
上 級 お よ び 高 級 政 治 部 員 の 場 合 に は 半 数 が 欠 員 の ま ま と い う , 惨 藷 た る 状 態 で あ っ た 。 ( 口e
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) 最 高 段 階 で も , 合 議 借i
続鵠経験としての「赤軍中央軍
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8年 3丹) (
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) L,
事会議」が新設された (
7年 4丹に江,防衛問題の最高統轄接関として, 7名 の メ ン バ ー か ら な る 「 国 妨 委 員
それより前, 3
会」が人民委員会議に付置されていた。 (
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. この論文によれば,軍事大学校長はコルクの逮捕された 1
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7年 5月から
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9年まで空位のままとなっている。
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トウハチエーアスキー事件に関する一試論
数 字 で は , 総 数 は 伏 さ れ た ま ま で あ る が , 将 校 団 の 1/5が粛清され,
内訳は元自J
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!5名中 3
名 , 軍 管 区 司 令 官 の 全 部 , 海 軍 司 令 長 官 2名 . 軍 国 司 令 官 の 全 部 , 師 団 長 , 旅 団 長 の ほ と
んど全部,連隊長の約半分,管区軍事会議員,管区政治語長の約半分,軍団,師団,主主屈
の軍事コミサーノレの大半,連隊軍事コミサーノレの 1/3, とされている 5330 もっとも犠牲者
のうち 1/4以上が独ソ戦毘戦前後には現役に復帰したことになっているから,
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ソ
連
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数 字 に よ れ ば 〉 将 校 屈 の 1/7近 く が 文 字 通 り 抹 殺 さ れ た こ と に な る O
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おけるソ連軍の大出血の主たる原思であつたことは否定でで、きな L O ネ ク リ ツ チ は ' 独 ソ 戦
勃 発 当 時 , 赤 軍 将 校 の う ち 高 等 専 門 教 育 を 受 け て い た 者 は わ ず か に 7 %, 373
ぎはまだ中等
専門数育すら完了していなかったと述べているし的,
ソ連における人権擁護の同士として
有名なグリゴレンコ少将の舌鋒はさらに鋭く,あとで述べるネクリッチの著作をめぐる議
争に関連して,もし粛清された赤軍幹部がそのままポストに留まっていたら,独ソ戦の被
害ははるかに少かったで、あろうし,おそらくドイツの対ソ攻撃すらありえなかったであろ
う,とまで極言している ;;5)。
一 方 . フ ル シ チ ョ フ の 「 秘 密 演 説J v
こ始まるスターリン批判が.スターリン時代からの
強引な絶縁に与えられていた翠り.フルシチョフの画いてみせたノミラ色の「共産主義社
会j の 夢 が 崩 れ た と き , 民 衆 の 失 望 は ス タ ー リ ン が 代 表 し て い た も の へ の 漠 然 た る 憧 震 に
変 っ て ゆ き , こ れ に 意 識 的 に 乗 り か か る 形 で , い わ ゆ る つ ド フ ル シ チ ョ フ 化J が 進 ん で ゆ
くことになったむそのさい.
r
大祖国戦争」におげる勝利の組織者としてのスターリンが
ま ず ク ロ ー ズ ア ッ プ さ れ る の は 当 然 で あ り , こ こ に ネ ク リ ッ チ 事 件 が 登 場 す る 5630
ネ ク リ ッ チ が 前 掲 の 著 作 を 公 刊 し た の は 65年春のことであった。 彼はこのなかで,
独
ソ戦産後の赤軍の敗北の原因を準備体制の不備に求め、その点に関するスターワンの責任
をソ連層内で発行された類書にはみられない程の執揚さで追求しようとした。軍長老のヒ
アリンクーのほか西側文献もある程度偏見なしに利用されており,多くの興味深い事実も明
らかにされた。しかしネクリッチがスターリンの「誤謬 jの摘発に熱中すればする程一「誤
謬j が 「 誤 謬 」 に と ど ま る 限 り 結 局 , 当 時 の ス タ ー リ ン を 取 巻 く 政 治 的 ・ 軍 事 的 助 言
者 を 意 志 な き 操 り 人 形 と Lて 描 き 出 す こ と に な る か ら , 軍 の ベ テ ラ ン と 党 イ デ オ ロ ー グ か
ら猛烈な反撃を引き起すことになった。こうしてネクすッチの書物は発行後まもなく回収
されて庖頭から姿を出し, 66年 2月,モスクワで開かれたlV
IL研 究 所 付 属 大 祖 国 戦 争 史
5
3
) M. M.MHHacs
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.(
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ゐ BeJIHKa兄 UTeqeCTBeHHa兄 Bo如 a COBeTcKoro Co陪 3a 19411945(KpaTKa冗 HCTOpJ
偲
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. な お 1970年 の 同 書 第 2寂 で は , こ の 数 字 は す っ か
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.4
5
)
り消え,粛清にかんする記述も鰐略化されている。 (
5
4
) Petrov,o
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5
5
) P
. Grigorenko,Ders
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eZusammenbruch 1
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1,Frankfurt/Main,1969,S
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3
. しか
し,逆に,赤軍幹部の講清にもかかわらず独ソ戦で赤軍が発揮した強靭な戦模力に驚樗したナチ幹
3年 1
0月 4日
,
部の関に,深刻な反省があったことも付け加えておかな吟ればならない。たとえば 4
,A
.) は
, 37~38 年の赤軍将官
ポ ー ゼ ン で 行 わ れ た 55軍団長会議の席上, ヒムラー (Himmler
の 粛 清 に よ っ て 「 ポ リ シ ェ ヴ イ ズ ム 棒 鵠j が 弱 体 化 Lた と す る 当 時 の 判 断 は 「 決 定 的 に 誤 ま っ て
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いた」と沈痛な告白をしている。 T
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yTribunal,Vol
. XXIX,1948,Nuremberg,p
.1
11
.(
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n1919-PS)
5
6
) 独ソ戦〈特にスターリンの戦争指導〉に関する歴史叙述と層内の政治的気流の変化の関連について
は
, N. W.Heer,P
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tUnion,Cambridge,1
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.
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平井友義
部 の 会 議 で 時 , ネ ク ザ ッ チ の 叙 述 に は ド 客 観 的Jの 熔 印 が お さ れ , 翌 年 7月 に は 彼 は 党 か
ら 除 名 さ れ る と し づ 結 末 を 迎 え な け れ ば な ら な か っ た5
7
L ネクリッチに向けられた批判
は,同書で取り上げられたテーマそのものというよりはむしろ,解釈の視座=合法期的壁
史発展モデ、ノレの「否定Jに か か わ る も の で あ っ た が 的 , と も か く こ れ 以 後 , 歴 史 的 ス タ ー
すン援の再修正が徐々に進んでいることはたしかであり,最近の
F
軍 事 史 雑 誌1
1(BOeHHO・
I
1
cTOpMQeCK
誠 氏ypHaλ) では粛清の問題は完全にタブ-{とされてしまったように見える。
も っ と も , こ の ス タ ー リ ン 橡 の 再 修 正 が 直 ち に ス タ ー ザ ン の 「 復 活Jに つ な が る わ け で は
な く , ス タ ー リ ン の 全 称 否 定 の う え に 成 立 し て い た 「 ス タ ー リ ン 批 判J に 詑 ベ , あ る 意 味
ではヨリ堅実な方向も出かけているのであるが。
本穣では,紙面の都合も為り,検討すべき多くの問題点を残したままに終っている。と
りわけ,赤軍粛清とソ連をとりまく冨際環境の関連(もちろんクザヴィツキー説とは別の
角度からのに新テクノクラート型専門家の育成,軍部と
HKB互 の 関 係 な ど で 怠 る 。 そ
のほか粛清に反映したスターザンの精神病理学的性格構造の問題もたしかに無視すること
はできないであろう
O
しかし筆者は精神分析的方法の歴史研究への安易な適用には今なお
疑問を持つものであり,基本的にはスターリンの行動・動機のいわば合理主義的な解釈は
充分に可能で怠ると考えていることを最後につけ加えておきたし、的。
5
7
) この討論会の模様は酉傑にひそかに持ち出された会議参加者のメ Jとからある程度窺うことができ
る
。 (Petrov,o
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五百九 3 双又e
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5
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) スターリン像の再構成に精神分析の手法をとり入れたものに R タッカーの最近の研究があるが
(
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.C.Tucker & S
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.Cohen(
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),TheGreatPurgeT
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l,N. Y.,1965
,p
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. IX-XLVIIL
R.C
.Tucker,S
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トゥハチエーアスキー事件に関する一試論
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