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神の時は最良の時

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神の時は最良の時
神の時は最良の時
旧約単篇
コヘレト書の福音
神の時は最良の時
コヘレト 3:10-11
「コヘレト」はヘブライ語で「集会で語る説教者」の意味です。その古代
の説教者の口から語られた信仰の言葉を、3 章の初めの部分をご一緒に聞き
ました。学びの出発点になるのは 10 節の前半です。私たちが親しんだ「口語
訳」や「新改訳」では次のようになっていました。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(新改訳)
聖書学校の子供たちの暗誦聖句に使ったくらい、美しい言葉でした。もっ
とも、子供にはその本当の意味は受けとめられないでしょうし、大人でも、
現に悲しみと不幸を経験している人が、この言葉の慰めに本当に触れるため
には、まずイエス・キリストを知るという命の経験が、どうしても必要です。
ちなみに、新改訳と口語訳はヘブライ語の本文の直訳体、この新共同訳は、
古代ギリシャ語訳(LXX)に近いと思います。今朝の主題が「神の時」に近
い新改訳を引用しました。
先週の金曜日にテレビで、バッハのカンタータ 106 番「神の時」を、トン・
コープマンの指揮で聞きました。本当は今までに何度も、FM の放送で聞い
ていましたが、画像のついたのを目で見るのは初めてでした。4 人の独唱者
と 20 人ほどのオランダの合唱団と、小編成のオーケストラが小さな教会の祭
壇の前で演奏するという、地味な演出です。
神の時は、すべてで最上の良き時。神の中にわれらは生き、
神の定め給うとき―正しい時に、われらは召される。
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神の時は最良の時
関口暁子という方が NHK の字幕を担当していましたが、美しい正確な訳
詞だったと思います。「哀悼の儀式」Actus Tragicus という副題から、お葬
式の曲と考えることもできますが、バッハがこの詩を書いた時点では身の回
りでも、彼が仕えたヴァイマル公爵家でも、特に不幸は無かったと言います
から、この詩の解釈は、特に死や葬儀と結びつけなくても、もう少し広い意
味での教えと見てよいかと思います。「これが神の時であるとしても、最上
の時とはとても思えない」という、誰にでもある不満と悲しみへの“No!”
だと受けとめることもできるのです。英語式には、否定文を導くのでなけれ
ば、“No”じゃなく“Yes”ですか。
“Yes”それは正しく神の時である。そして神の時は、すべてのうちで最
善の時なのだ! それを、「最悪」とか「最低」とか、あなたの気分や感情で
評価してはならない。
神様から目を離して、肉の評価しかできない瞬間の私たちは、バッハの詩
とは逆に、「神の時は最低の時」と勝手に採点してしまいがちです。自分が
病気になったとき、家族が病気で倒れたとき、事業が行き詰まるとき……等。
人から誤解を受けたときも、自分の失敗や無力を知らされたときも、「どう
して、神様、このタイミングに……?」と、天の時間表に間違いでも見つけ
たように、不満を鳴らします。
40 年前、旧約聖書のヘブライ語を専攻したくて、米国とイスラエルの大学
に留学しようとビザも取り、保証人まで決まっていた時点で、あることから
急にその門が閉ざされた時は、「主よ、どうして?」と悲しみと恨み言を申
し上げたものでした。その後、新約聖書とギリシャ語を専攻するように主の
命令を受けるための“方向変換”の信号とは思えなかったのです。背骨の病
気を患って天井を眺めていた日々も、疑念と不安を振り払えなかったもので
す。
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神の時は最良の時
今度は、10 年前から予告されていた病気でしたので、さほどショックも受
けずに「いよいよ時が来たか」と覚悟もしますし、すでに 70 年の命を祝され
た後のオマケの時を大事に使う楽しみもあります。「神の時」が“最低”と
見えた時の苦い思いから、少しばかり大人になった? のかとも思えます。神
様の時間表が見えるようになったのです。
私の友人の中には、障害児のお孫さんを与えられた人や、奥様を天に送っ
て久しい人もいます。その方たちの信仰の生き方は、私にとってはやはり、
大きな励ましとチャレンジになっています。
最初に引用した「コヘレトの言葉」の中で、このことを念を押すように教
えているのが、11 節の 3 行です。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えら
れる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許さ
れていない。……つまり、信仰の姿勢で受けとめなければ、折角「永遠を思
う心」を頂いていても、その心が一向に働かないで、「神のなさる業」をど
うしても納得できない人も、出て来るのです。
NHK の関口さんの訳詩の続きで、バスの歌手が歌う所があります。「整
えよ、家を整えよ。人はいずれ死んで天に召される。永遠に生きることはな
い。」これは、初めにあったコープマンさんの解説によると預言者イザヤが
ヒゼキヤ王に言う言葉です。(イザ 38:1)
そのころ、ヒゼキヤは死の病にかかった。預言者、アモツの子イザヤが訪
ねて来て言った。新改訳はバッハの歌詞と同じで直訳です。
「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直ら
ない。』」「家を整理せよ」とか「整えよ」というのは、ヘブライ語の言い
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神の時は最良の時
まわしで、いつまでも自分が治められるという考えを捨てよ。その処理を重
臣や親族に言い残せという意味です。新共同訳は「家族に遺言をしなさい」
と意訳しています。もっとも、ヒゼキヤはエルサレムを救うために、寿命を
15 年延ばされるのですが、これは決して「信仰があれば生き延びる」ことの
保証にはなりません。バッハの詩にこめられた意味は、あなたもヒゼキヤの
ように、いつかその同じ御言葉を頂く日が来る。
「あなたは死ぬ。直らない。」
その厳粛な事実の前に立って、それを受ける準備と信仰を持て、というので
す。
この後、バッハのカンタータは、神が定めた確かな死の確認と、その死ぬ
べき者をイエス・キリストが来てお救いになる。そのイエス様に私の命の全
部を委ねようという、信仰の告白が応答して結ばれます。
「主なるイエスよ、おいでください。……あなたの御手に、わが魂を委ね
ましょう。主よ、まことの神よ。」
これは、ルカ福音書の最後から二つ目の章で、イエスご自身が十字架の上
で、父に祈られた祈りの言葉から取っています。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ 23:46)
それと同じ信仰をこめて、地上で果たさせていただいた使命を感謝して、
喜んであなた様にお委ねいたします、というのがこの 106 番のカンタータの
結びになっています。
このような信仰は、ヒゼキヤのように寿命を 15 年余分に頂いた人のほうが、
すぐ死んだ人より強くて純粋なわけではなく、またダニエルのようにライオ
ンの牙から奇跡的に救出された人のほうが、特に偉大なわけでもありません。
十一年前の説教で、ライオンの穴から救い出されたダニエル(ダニ 6:24)
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を取り上げたとき、ライオンに食われなかったからと言って、やたらダニエ
ルの信仰に感激するなと申しました。必要があればそんな奇跡もなさる神を
崇めるのは正しいのです。しかし、食われずに出てきたダニエルの信仰は、
信じてライオンに食いちぎられた人の信仰(ローマのコロセウムはそんな人
たちの血で彩られていました)と同じ程度に尊重すべきですし、また同じ程
度にシラケていてもいいものです。大事なのは、どちらの場合にも神を信じ
て委ねられることです。(講話「たといそうでなくても」1988,9,14.大東.)
イザヤ書の例で言えば、15 年の命を与えられたヒゼキヤの純粋さをシラケ
の目で眺め、石で打たれて即死したステファノ(使 7:60)にも、ヘロデ王
に剣で首を刎ねられたヤコブ(使 12:2)にも、シラケの目を失ってはなら
ないのです。私たちが本当に感動するのは、この人たちが、信仰で自分のす
べてを神の手に委ねたことです。そんな神を持っていたことです。祈って 15
年を与えられたことも、滑稽と言えば滑稽、余裕も与えられずに斬首された
華々しい最期も、それ自体としては、100 歳まで生きたヨハネの受けた恵み
と同じくらい平凡なのです。そこまでドライに見とおす“霊の眼”を与えら
れたとき、人は初めて、自分の信仰はどこまで強いかとか、役に立つかいう
オカシナ拘りから解放されて、素直に“愛の神”を仰ぐことができます。
「シラケ」とか「滑稽」とか、乱暴な言葉を使いました。自分やひとが“宗
教的になし得たわざ”を採点したり、感動したりしている限り人は、自分の
義を誇るか卑下するか、どちらかの落とし穴にはまります。神様が私になさ
ろうとする義の業だけを見て、その神様に頼る心になる時だけ、私たちは恵
みを受ける者となることができるのです。
使徒パウロのフィリピ書の言葉で締め括ります。1 章 19 節以下です。
19.というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによ
って、このことがわたしの救いになると知っているからです。 20.そして、
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どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、
わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望
しています。 21.わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは
利益なのです。
結びの一句は、「生きる」ことはキリストで、「死ぬ」ことは利益と二分
して区別することもできますが、本当は「生きるのも死ぬのも」同じように
恵みを得ることであり、どちらも、キリストと一つになることだ……という
意味を、対句にしてあるのでしょう。
私たちも、もしこの私のために死なれたキリストを信頼できて、私のため
に復活されたキリストから命を受ける人とされれば、使徒パウロと同じ信仰
を告白して、力づくことができると思います。
わたしにとっては、生きて主を崇めることもキリスト、死んで去ることも
キリスト。どちらも、恵みを受けることに変わりはない。
この告白は、バッハが歌詞に取り入れたヒゼキヤの病気の例に留まらず、
すべて人が不運とか苦痛とか考える出来事にもあてはまるものです。あなた
の前で弱ってゆかれる親やお年寄をお世話する苦しみ、若くして病苦に苦し
む家族を見る痛み、両親の思いを踏みにじって自分の道を進むように見える
わが子を思う思い。……その苦しい一時が過ぎたとき……
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(新改訳)という告白と
なって、感謝の結末となるか……。今はそれが「美しく」見えなくても、い
つかそれが「美しい」時であったことに気付くかです。
神の時は、すべてで最上の良き時。神の中にわれらは生き、
神の定め給うとき―正しい時に、われらは召される。
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神の時は最良の時
すべては、イエス・キリストがくださる命を、信仰でお受けできるか否か
にかかっているのです。
(1999/06/13)
《研究者のための注》
1.聖書教会口語訳で「伝道の書」、新改訳で「伝道者の書」と呼ばれてきた旧約箴言と
雅歌の間の書は、ヘブライ語で「コヘレト」ですが、これはヘブライ語聖書の書名に
慣例に従って、1節の冒頭の言葉「コヘレトの言葉」(ディヴレ・コヘレト)から取
られています。「カハル」が「集会」、「コヘレト」が「集会の話者」です。同じ方
式で、「初めに」(ベレシト)で始まる創世記は「初めに書」、「荒野で」(ベミド
ヴァル)が 4 語目に出る民数記は「荒野で書」と呼ばれました。英語の書名 Genesis,
Numbers 等は、これとは別の、古代ギリシャ語訳につけられたギリシャ語の書名
に由来します。
2.カンタータ cantata はラテン語で「歌われるもの」という意味ですが、音楽形式とし
ては、独唱、重唱、合唱などから成る楽曲を指し、バッハの宗教カンタータは、特定
の聖書箇所や福音のテーマに基づいて、楽章に似たいくつかの部分から構成されてい
ます。よく知られた代表作として、このスピーチで触れた第 106 番「神の時」のほか
に、第 56 番「われ喜びて十字架を担わん」、第 140 番「目覚めよと呼ぶ声あり」、第
141 番「心と口と行いと命」等があります。
3.3 頁の「私の病気」は長い C 型肝炎から発症した「肝硬変」で、この講話から 6 年後
には「肝臓癌」と「膵臓癌」に進展しました。
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