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中国古代の祭祀 - 宗像・沖ノ島と関連遺産群を世界遺産に

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中国古代の祭祀 - 宗像・沖ノ島と関連遺産群を世界遺産に
中国古代の祭祀
王
劉
陳
姜
曄
建
平成
巍
原
憲
波
年
「宗像・沖ノ島と関連遺産群」研究報告Ⅱ‐
抜刷
中国古代の祭祀
王
劉
陳
姜
巍 中国社会科学院考古研究所長
曄原 中国文連口頭与非物質文化遺産保護専家委員会専家
建憲 華中師大文学院教授
波 中国文化遺産研究院水下考古研究所所長
要旨:人類が伝承してきた文化遺産のうち、最もその民族の精神世界を体現するものは、その信仰である。各民
族には独自の神話や宗教があって、独特の神聖な世界を築き上げており、それぞれ独特な祭祀儀礼が見られる。
文化という角度から見て、祭祀儀礼とは、人類社会の精神的領域の代表作であり、人が世俗的な世界から神聖
な世界へ行き来するための架け橋と言える。各民族は、祭祀儀礼によって、その非凡な想像力やそれによる華麗
多彩な象徴世界を繰り広げつつ、様々な困難に直面したときに発露される巨大な精神の張力や民族の結集力を発
揮してきた。
古い文明国である中国は、
千年の連綿たる文明を擁し、その文化伝統は
万年以上も遡ることができる。統
一的な多民族国家の中国では 余りの民族がそれぞれ様々な文化で異彩を放ち、中でも祭祀が中華文化の重要な
部分を構成している。本論文では、古代中国の祭祀を概括的に紹介する。
キーワード:牛河梁遺跡、天壇、宗廟、祖先祭祀、皇帝祭祀、泰山、媽祖信仰
壱、神霊と祭祀
一、神霊の発生
祭祀には、必ず対象があり、必ずその理由がある。
神霊がなければ、神霊に対する畏怖や依存もなく、祭
祀を語ることもできない。
の神霊は、曖昧な心象の段階に留まり、具体的な形は
ないものの、威厳があり、感情を持って常に人々の行
いを見守りながら懲罰や奨励を行う神霊となった。こ
のほか、逝去した祖先、親族、勇士なども神として崇
められた。
様々な自然の物や力を象徴した神霊が生まれると、
神霊とは、現実世界の人が頭の中で作り出した虚構
それらを崇拝する原始宗教が発生し、祭祀を行うため
の存在である。発生当初の神霊は、それが象徴する物
に必要な前提条件も整う。最も重要なのは、神霊が人
体と一致しており、実際の木、山、石、天、地、動物
格化されていることであろう。こうした人格化は主に
などが、樹神、山神、石神、天神、地神および各種動
思想・感情の人格化であり、神霊と人々は行為や心情
物神として祀られた。その後、人々の思考が発展し、
に関する共通の基準を持っている。人々は神霊の好悪、
想像力が高まるにつれて、現実に生きている各種動物
喜び、怒りなどを推測したり、誘導したりできると考
の爪、牙、頭、尾といった最も特徴的な部分が人の顔
え、そうであってこそ、神霊と何らかの意思疎通をし
や肢体と結合され、現実世界には存在しない神霊が創
たい、という願いが生じるのだ。また、人々の想像力
造される。神霊は、人類が比較的に高い文明を持つに
が向上し、神の様々な事績に関する神話が編み出され、
至った後、やっと完全な人の形となり、俗離れして垢
観念だった神霊が具象化された。そして、具体的な崇
抜けた、威厳のある帝王、将軍、宰相などの姿の神霊
拝の対象や崇拝すべき理由ができ、さらに神霊と意思
が出現した。しかし、古くから発生して厳粛に祀られ、
疎通する可能性も生じてくる。祭祀は、こうした機運
人々が常に心に刻んでその名を唱えてきた天や地など
に応じて生まれたのである。
①‐
(
)
①.中国古代の祭祀
北京の山頂洞遺跡を調べたところ、原始人が住んでい
二、祭祀の出現
神霊という考え方が生まれた後、人々は、それに対
た洞穴の付近に死者を葬り、死者を弔うため遺体の周
囲に赤い鉱粉を撒いているのが発見されている。新石
応するため祭祀を始めた。人々と神霊の関係を見ると、 器時代の末期になると、ようやく固定的かつ大規模な
人は受け身の立場にある。神霊は、人よりはるかに大
祭壇が見られ始め、歴史時代に入ってからは、時とと
きな能力を持つうえ、どこにでも存在するので、その
もに祭祀の種類は複雑化し、場所も多様になっていく。
機嫌を損ねてはならず、避けることもできない。当時
人類は、早くも旧石器時代から、肉体以外に
「霊」が
の人々は、その姿を説明し難く非常に不可思議な神霊
存在していることを信じてきた。北京周口店の原人遺
が生活環境の中に存在すると考えていた。
跡では、約
万年前の山頂洞人の墓が発見され、その
神霊を祀るのは、神霊が人の運命を握っており、人
遺体の周囲には赤い粉末が撒かれ、副葬品も埋められ
を超えているからである。そのため、神との意思疎通
ていた。これは、当時の人々に
「不死の霊魂」
という観
に際しては、主に帰順、服従、尊崇といった態度がと
念があったことを示している。原始人は、そうした観
られる。それは、神霊が人々に恩恵をもたらし、少な
念を物にも広げ、万物に霊魂があると考えた。そして、
くとも災厄をおこさないように、神霊を喜ばせ満足さ
彼らの生活を支配する自然の力が、自然の力を支配す
せようとするためである。どこにでも存在する神霊を
る超常的な霊魂、すなわち神霊となったのだ。神がい
ごまかしたり、騙したりはできないため、敬虔に真心
れば、人と神との対話や交流が行われ、その主な手段
から神を崇め、地にひれ伏しながら神の加護を求めな
が祭祀である。原始時代の人類は自然を変える能力が
ければならない。
弱く、生活が完全に自然の恩恵に依存していたため、
ここで説明を要するのは、ひたすら神霊を恐れてい
そうした時代には宗教や祭祀が非常に盛んであった。
ても、原始宗教は生まれ得るが、祭祀が生まれるとは
この点は、世界の大量な考古学資料や原始民族に関す
限らない、という点である。祭祀が生まれるには、人々
る人類学的調査により証明されている。
が何かを願い求めるということがなくてはならない。
文明の発展に伴い、人類の生活を支配する別の外的
すなわち、人は、単に遠くから神霊に服従するだけで
な力、すなわち社会の影響力が強まっていく。氏族、
なく、服従しながらも、神霊に影響を及ぼし、神霊を
民族、国家といった外在的な社会の力は、個人や家庭
制御することすら願うようになる。なぜなら、原始的
の基本的な生活状態を決定し、瞬時にして個人の運命
な農業や牧畜業を営むようになった人々の間では、自
を変えることさえできる。宗教的な様々な神殿に現在
然物の増殖に対する願いが日増しに高まり、適度な雨
も存在する新たな主が祀られ、祭祀の内容や方式も発
風や漁労・狩猟の無事平穏を祈るようにもなっていて、 生し変化していった。
そうした願いを叶えるためには、神霊が少なくとも邪
宗教は、自らの道に沿って進んでいく。原始社会で
魔したり人に害を及ぼしたりせず、助けとなる必要が
は全住民によるものだった祭祀は、階級社会の出現と
ある。したがって、ある側面から見ると、祭祀とは、
文明の発展に伴い、公的および民間という分野に分か
人が神霊を相手に駆け引きする一種の手段でもあった。 れていく。長い歴史の中で、公的祭祀は統治者が自ら
祭祀は儀式であり、その根本的な目的は、神霊の機
の統治を維持するための重要な手段となったが、民間
嫌をとり、災厄を避けつつ幸福を求めることにある。
の祭祀活動は、幅広い民衆が生活上の切実な願いを掛
それは、神霊に対して贈賄や買収を行い、帰順を示す
け、彼らの精神的欲求を満たすものである。それは、
こととも言える。
伝統儀礼の形式をとりつつ、民衆の生活に深く浸透し、
一種の生活形態や生活方式となっていった。
三、祭祀の変遷
太古の昔、人は、居住地や墓地で鬼神を祀り、もっ
ぱら祭祀を行う場所を持っていなかった。考古学者が
①‐
(
)
四、古代中国における祭祀の地位
古代中国において、祭祀とは、重要な意義を持ち、
王 巍
社会生活の全体を貫く大事であった。
『春秋左氏伝』
で
祭祀を失敗させる。そうした殷代には、
「商の湯王の
は、「国の大事は祀
〈祭祀〉
と戎
〈軍事〉
とにあり」
と明確
祈雨」
という伝説がある。それによれば、商の湯王の
に示されている。春秋時代から戦国時代にかけて、し
時代、旱魃が
ばしば戦争により小国が併呑されるような極めて危う
え溶けるようだった。人々は、夏の傑王を滅ぼして独
い状況下で、軍備を整えて国境を守るのは当然である。
立した商の湯王に対する天罰ではないかと考えていた。
年も続いて、洛水すら干上がり、石さ
祭祀もまた国の最重要事項であり、「戎
〈軍事〉
」よ
いかなる祭祀も功を奏さないため、商の湯王は、仕方
り前に置かれている。つまり、古代中国では、祭祀と
なく古い習俗に従い、桑林の社を訪れて、上帝〈万事
いう活動が国の法定制度とされ、社会全体が神霊の支
を主宰する天上の神〉と祖先の面前で自らの身を生贄
配下に置かれていたのだ。実際、歴代の史書や地方誌
とし、燃え盛る火の中へ命を捨てて、上帝の歓心を買
を見ても、祭祀の儀式や関連事項に紙幅を割いていな
い、災害を収束させようした。これが有名な
「商の湯
いものはなく、各地の伝説や故事では必ず祭祀の風俗
王の祈雨」
という伝説である。鄭振鐸氏も、こうした
や霊験が語られ、あらゆる家庭で祭祀に関する様々な
行為と古代人の祭祀・習俗との関係につき、
『湯祷篇』
しきたりがある。祭祀活動は、先史時代と人類全体の
の中で民俗学的な視点から論述している。しかし、商
文明史を包含するような大変長い歴史の間、中国の先
の湯王は幸運だった。湯王が自らの髪と指の爪を切り、
人たちとともにあり、その伝統文化に極めて大きな影
まさに足下の薪に火を点けようとしたとき、天から大
響を及ぼしてきたと言えよう。
雨が降り出したのだ。この祭祀の成功は、上帝が商の
古代中国では、祭祀が最重要事項であった。四季を
湯王を見捨てておらず、災害が湯王のせいではないこ
通じて祭儀が絶えず行われ、祭祀の名目も数多いうえ、
との証しとなる。建国の大功を立てた領袖がこれほど
それは政治の一部であり、古代生活を貫くものであっ
の危険まで冒さなければならないということは、上帝
た。殷代にも祭祀が重視され、その君主は、国の政治
の霊威や
「天が君主を選ぶ」
という観念の強さを示して
に関わるあらゆる事項を占いで決めていた。周代にな
いる。
ると、周公旦が儀礼や音楽について定め、儒家の祖で
周代以後、やはり天は厚く信仰され、祭祀を司る君
ある孔子も「怪・力・乱・神を語らず
(怪異・暴力・反
主の職責も引き続き厳格に履行されている。君主の徳
乱・鬼神について語らない)
」
という名言を残している
の有無を人々が評価する重要な基準は、その者が鬼神
ように、周代以後の中国では聖人や先哲による実際的
をよく祀れるか否かであった。
な文化が重んじられ、祭祀という神霊との交流するよ
群雄割拠の戦国時代では、常に滅亡の危機に晒され
うな事柄は重視されなくなったかのようにもみえる。
ており、君主も神の権威や臣下に譲歩せざるを得ない。
しかし、実際には、長い封建時代全体にわたり鬼神へ
その後、封建時代の統一的な制度基盤が固められると、
の祭祀が脈々と受け継がれて、古代の神霊が姿を消す
君主は譲歩する必要がなくなり、その権威が絶対的な
どころか、新たな神霊が次々と生まれ、祖先や天地に
まで強化されて、天地祭祀の権利も完全に独占されて
対する祭祀も代々相伝されていた。道徳、軍事、文化
いる。鬼神は、民間の小事にしか関わらなくなってし
などに関する功績を上げた功臣や哲人でさえ祭祀に
まった。
様々な形で携わっており、国の最高統治者が祭祀と無
縁でいられるはずもない。
殷・商の時代には、国家の血縁性が完全になくなっ
ておらず、君主が族長として位置付けられていた。族
弐、古代中国の祭祀
一、古代中国における祭祀の分類
長は、部族の生活を管理する以外に、部族を代表して
中国諸民族の祭祀儀礼は非常に複雑であり、異なる
天の鬼神と意思疎通することも重要な任務とした。つ
視点から見ることによって、様々な分類が可能である。
まり、族長は霊媒師の役割を兼ねていたのだ。天の鬼
祭祀の目的に応じては、次の
種類に大別される。
神は、族長に対して不満なとき、災厄をもたらして、
つは幸福を祈る祭儀、すなわち生活上で困難に直面
①‐
(
)
①.中国古代の祭祀
していないときに行う日常的な祭祀活動である。例え
紅山文化と名付けられている。この文化は、
ば、節句(春節、清明節)
の祖先祭祀、沿海都市の民間
から加速度的な発展を見せ始め、
商業施設で今も定例的に行われている拝神儀式などが
盛期を迎えた。玉器の発達が紅山文化の最も目立つ特
含まれる。もう
徴で、
つは災いを避ける祭儀であり、それ
年前
年前くらいに最
年前頃には紅山文化の玉器は高度に発達し
を行う者はすでに困難に直面しており、往々にして明
ていた。第一に種類が多く、第二に作りが精緻であり、
確かつ直接的な目的を持ちつつ、祭祀・儀式により目
第三に各種動物を形取った玉器の占める割合が大きい。
前の危機的状況が変わることを祈る。
⑴女神像と女神廟の発見
祭祀の対象から見ると、主に自然界の神霊および社
会的な神霊という
ると、
種類に分かれる。祭祀の方式を見
つは消極的な方式、すなわち儀式の過程で可
紅山文化の重要な特徴は、人の彫像・塑像の発達で
ある。世界美術史を概観すると、中国では人物像の伝
統が欠けていると広く考えられてきた。例えば、動物、
能な限り神への礼節と謙恭の態度を示すものである。
饕餮
〈中国神話の怪物〉
、鳳凰などの模様は広く見られ
例えば、特別な禁忌、身の清め、禁食などを行う。も
るが、確かに人物像があまり見られない。しかし、東
う
北の紅山文化が次のような伝統を持つのも事実である。
つは積極的な方式、すなわち様々な方法で神霊に
働きかけたり、神霊を感動させたりし、自らの願望成
年代前半、紅山文化に属する有名で大規模な牛河
就を助けるよう促すものである。例えば、献物や呪文、
梁の建築遺跡
(女神廟)
から女人像が発掘され、妊娠し
演技などを神霊に捧げる。
た状態のものも一部あった。建築遺跡から出土した人
頭像や女性頭像は精巧で美しく、その眼には玉が使わ
二、古代中国における祭祀の変遷
れており、本物の人の頭のようである。それは広く女
㈠文明創始時代の祭祀
神像と呼ばれている。人物像が出土したこの建築遺跡
.「竜」と「虎」を副葬した
からは、頭部や肢体といった女性像の残片が数多く発
年前の墳墓
数年前、河南省東部の濮陽西水坡で仰韶文化時代
見された。注目すべきなのは、その女性像の大きさに
の墳墓が発掘された。墳墓の副葬品はいくつかしかな
差異があることである。例えば、実際の人の
かったが、それは驚くべき発見であった。墓の主の両
いのもの
(耳など)
、実際の人と同じくらいのもの、実
側に貝殻が積まれ、墓の主の東側に竜、西側に虎が形
際の人より非常に小さいものなどが見られ、この建築
作られていたのである。これは、なんと中国の戦国時
中の女性像は大・中・小の
代から漢代にかけて流行した四神信仰
(東・青竜、
西・
は、当時、女性が崇拝されていたことを示している。
白虎、南・朱雀、北・玄武)と合致している。
そうした女性の身分については、次の
年
倍くら
種類に分けられる。これ
種類の考え方
前、すでに四神信仰の雛形が出現していたのだろうか。 が成り立つ。
つは地母、すなわち土地神とするもの
である。もう
つは祖先神という考え方で、例えば実
まだ多くの学者が認めているわけではないが、これを
偶然の一致というのも不合理であろう。いずれにせよ、 際の人の
倍くらい大きな女性像は最高等級の祖先神
こうした図案は、当時の人々が死者を葬るとき意図的
であり、人と同じくらいの神像は等級が少し低く、そ
に作ったものであり、深い意義が込められていること
れより小さいものは祖先神ではないとみなす。女神像
は間違いない。これらは埋葬時に行った祭祀活動の遺
とともに、後世の竜に似た動物の口の部分、けものの
物と考えるべきであり、死者の霊魂が悪鬼に襲われな
牙、猛禽
(鷹類)
の大きな爪など、若干の動物塑像も出
いよう守るという祈りが込められたのであろう。
土している。残念ながら、それらの神像、人物像、動
.
年余り前の女神廟、積石塚および祭壇
物像などはすべて泥で作られ、焼成されていない。焼
年前にかけて、中国東北地
成されていれば硬くなって扱いやすいのだが、そうし
方西部の遼河流域で考古学的文化が分布していた。こ
た泥像は、発掘時に扱いにくく、少しの衝撃で壊れて
の文化は、日本の学者・浜田耕作が
年代に中国内
しまう。発掘の難しさや現代発掘技術の限界のため、
蒙古赤峰市の紅山後遺跡で発見したものであるため、
少し試みただけで発掘を中止し、まだそれらを全面的
およそ
①‐
(
年前から
)
王 巍
に発掘できていない。しかし、この建築が祭祀と関係
我々は、この大墓の傍らにある円形遺跡が祭祀に関係
していることは間違いない。現在、この遺跡は学術界
した祭壇ではないかと考えた。形状からみると、祭壇
で広く「女神廟」と呼ばれている。
が丸く、墓は四角い、という点も注目に値する。古代
の
「天円地方」
という観念が知られているが、北京の天
壇も含め天の祭祀には円形の祭壇が使われ、天壇も三
⑵想像の神的動物―玉猪竜の出現
この紅山文化の墓からは、新しい種類の玉器が発見
重になっている。この
「三重」
、つまり
「三層」
について
されている。その玉器は、頭部が猪の口に似て、身体
は、中国の戦国時代の文献でも
「天に三重あり」
という
が湾曲し、竜のような形状をしていることから、「玉
記述が見られ、当時神仙が上り下りする神の山と考え
猪竜」と名付けられた。竜の起源を猪が発展・変化し
られた崑崙山も三重になっていて、紅山文化の三重の
たものと考える学者もおり、一般的に
「玉猪竜」
と呼び
祭壇が連想される。こうした
慣わされている。周知のとおり、竜は実際には存在し
世の天壇と関係しているとは断定できないが、このよ
ない動物だが、それはどのように発生したのだろうか。
うな三重で円形の施設が
この点は謎のままで、少なくともいくつかの動物が合
できる。それと古代中国で天を祀る伝統的な天壇との
体したものと思われ、これが古くからの竜のイメージ
関係の有無については、注意しておく必要がある。
であった。最近、一部の学者は熊のイメージも提起し
年余り前の祭壇が後
年前にあったことは肯定
方形の中にある大墓と周辺の小墓とでは主の身分が
ている。やはり出土した玉器についてだが、当時の動
異なる。大墓には
物の他に、機能が明確に分からない玉器もある。玉猪
小墓の副葬品は
竜について語るとき、赤峰出土の玉器を考慮しないわ
されていないものも見られ、この一帯の墳墓に埋葬さ
けにはいかない。それは極めて精緻に美しく作られて
れない者の地位はさらに低いと思われる。
おり、年代も近く、
年前頃と思われる。それらは
中国東北地方西部の遼河流域一帯では、人の地位が明
発掘・出土したのではなく、収集されたもののため、
確に分化し、貴賤や貧富の差が明瞭になっていたこと
まだ年代について若干の不確定要素がある。しかし、
がみてとれる。
紅山文化の墓から出土した上記の玉猪竜とは似ていて、
個余りの玉器が副葬されているが、
∼
個の玉器しかなく、玉器が副葬
年前頃、
注目すべきなのは、牛河梁の積石塚が所在する 数
たとえば口の部分の形は、それより作りがはるかに精
平方キロの範囲内には多くの山があり、
緻で美しい。我々が遺物の用途について判断するとき
墓が設けられているにもかかわらず、村落跡や住居跡
は、その形状以外に、出土した場所
(どのような場所
は発見されていないことである。これは何を意味する
なのか)や出土時の状態も考慮する必要がある。
のだろうか。
⑶貴人を埋葬する積石塚と周辺の円形祭壇
的に生活する区域でなく、もっぱら身分階級が比較的
上記の玉猪竜は、牛河梁遺跡第
地点の墓から出土
余りの山に
つの推論だが、この一帯は人々が日常
に高い人を埋葬する区域なのではないか。つまり、後
した。それは石を積み上げた墓であり、積石墓または
世の宗教的聖地のような、祭祀との関係があるもので、
積石塚と呼ばれる。西側の
号は方形を呈し、
紅山文化の集団が共同で崇拝していた神霊とは、彼ら
中央に四角い大墓があるが、破壊されている。南側に
の女性始祖だったのだろう。前記の女神廟は当該遺跡
は小墓が設けられ、その一部からいくつかの玉器が出
群の中で最も高い山の頂上付近に位置し、その山頂で
土した。注目すべきなのは、近くに石によって囲まれ
は石積みを土で固めた大規模な祭壇が発見されている。
た直径約 m の円形遺跡 か ら は 墓 葬 が 発 見 さ れ な
全体的には、
かったことで、内、中、外という三重に石で囲まれて
祭壇が、最も高い山の頂の女神廟と巨大な長方形の祭
おり、内側が高くて外側は低く、最外周の石の外側に
壇を取り囲んでいるように見える。これは、牛河梁遺
も円筒形の陶器(中空で底がない)
が埋められていた。
跡群が当時の遼寧西部で栄えた紅山文化の祭祀の中心
陶器の外側の半周には彩色が施され、日本の古墳時代
地であったことを示していよう。紅山文化の晩期には
に古墳の盛り土の周囲に置かれた埴輪と少し似ている。
社会の役割分担と分化が未曾有の水準まで達していた
号と
余りの小山の頂に設けられた積石塚と
①‐
(
)
①.中国古代の祭祀
と思われ、宗教祭祀の権力を握った貴人の階層と精緻
である。当地の土質は長きにわたり酸性のため、人骨
で美しい玉器を製作する専門的な手工業集団が発生し
は残留しないことが多く、出土した遺物によって性別
ていた可能性は高い。
を判断するしかない。そこで我々は、主に装飾品が副
∼
年前頃は、中国先史
時代の文化と社会の発展において重要な時期なのであ
葬されている墓の主は女性ではないかと判断している。
る。
もう
つは武器や祭祀用玉器といった権勢に関係した
.長江下流地区の初期文明―良渚文化の祭祀と社会
副葬品であり、我々は、男性のものである可能性が高
―
いと考えている。墓からは精緻で美しく作られた玉器
年前
が数多く出土しており、当時、それら珍奇な品物を製
年前にかけた良渚文化の遺跡や墓地が数多く
作するために大量の労力が費やされたと思われる。そ
分布している。良渚文化の時代は、当地の文明が形成
うした品物は比較的に大規模な墓でしか見られず、当
された非常に重要な時期である。
時の社会で上層階級が非常に多くの財産を占有してい
江浙滬地区、すなわち太湖沿岸地区では、
から
まず農業の発展についてだが、ここでは
年前か
たことが窺われる。
年余り前の石鋤が発見されて
注目すべきなのは、良渚文化の玉器の中に日常生活
おり、耕作の技術や効率が大幅に向上していたことが
用以外の新たな高級玉器
(玉琮や玉璧)
が含まれていた
分かる。また、良渚文化では手工業の生産技術が著し
ことである。玉琮は角柱体を呈し、中間に大きく丸い
く進歩していた。
穴が開けられ、表面に彫刻が施されていて、その図案
ら
年前の水田や
良渚文化の最も大きな特色は、玉器およびその製作
では、大きく丸い目を持ち、大きな口の牙を剥きなが
技術の発達である。まず玉器の発達については、種類
ら地に伏せた猛獣の上に、羽毛の冠を被った人が跨っ
や数量が顕著に増加している。良渚文化でよく見られ
ている。このような図案は、長江下流地区の良渚文化
る玉器は 数種類もあり、この地区では後にも先にも
の玉器で広く見受けられ、当該文化圏の人々にとって
ないほど多い。また、玉器製作技術も大幅に進歩して
馴染み深く、当地の信仰に関係しているものであった
いる。良渚文化の玉器は非常に精緻で美しく作られて
ことが明らかである。年代の新しい玉琮では模様が次
おり、トーテムに関係すると思われる図案が表面に彫
第に抽象化し、
刻されたものもある。
ぞれ表わしている。こうした玉琮は、長江下流地区で
良渚文化のもう
つの特徴は、祭祀が盛んに行われ
年前から
つの丸で目、
本の横線で口をそれ
年前頃にかけて非常に流行し、当地
たことであり、すでに 数カ所で祭壇が発見されてい
を代表するものである。この図案については多くの解
る。その祭壇は、平面が方形を呈し、周りが石積みの
釈がなされ、祖先のイメージと考えるものや、また別
壁で囲まれ、一辺の長さが 数メートルである。また、
の説によれば、霊媒師または祭祀活動に携わる司祭を
祭壇の上に良渚文化の墓が伴うことが多い。当初、こ
描くことで、墓中の死者の霊魂が神獣に跨って天へ昇
うした祭壇は祭祀の場所として使用され、そこで人々
るイメージを表現しているという。中国周代の文献に
が神霊への礼拝を行った。その後、人々は祭壇に死者
は、確かに仙人が神獣に乗って天へ昇る記載が見られ
を埋葬するようになり、祭壇が墓地に変わっている。
る。また、良渚の人々の祖先と動物が結合して彼らの
祭壇に伴う墓は、ほとんどが数多くの玉器を出土する
始祖が形成され、部族の始祖伝説が描写されている、
高級なものであり、祭祀に関係する様々な玉器も多い。 という考え方もある。古代中国の文献にこれに類する
我々は、生前に祭祀を主宰した司祭が祭壇に埋葬され
記載が確かに見られる。そのとおりだとすると、この
たと考えている。彼らは身分が比較的高く、生前に当
図案は、長江下流地区で
年前から
年前にかけ
地で祭祀を主宰して、死後には次々と祭壇に埋葬され、 て盛んだった祖先崇拝に関係している。この図案は当
後の人々による祭祀の対象となったのであろう。祭壇
地区で極めてよく見られ、非常に代表的なものである。
に伴う墓からは玉器が出土しており、そうした墓の副
墓主の軍事権を象徴すると思われる玉鉞も同じ墓から
葬品は次の
出土したが、やはり同様の図案が施され、片側の端に
①‐
(
種類に分かれる。
)
つは主に副葬装飾品
王 巍
は鳥も描かれている。もう
つの円形の玉璧について
が、合計で
万 ,
人
(記録で判明した者)が人身御
は、余杭反山 号墓も祭壇上の墓だが、墓主の周囲に
供とされた。それ以外に卜辞 ,
篇の人数が未算入
円形の玉璧が数多く置かれていた。それは、墓主が莫
なので、すべて
大な富を集めていたことを表わすほか、後世の魔除け
万 ,
のような、宗教的な意義もあると思われる。
による集計値は控え目なものである。既存の甲骨卜辞
人として加算すると、少なくとも
人が祭祀で殺された」
と述べている。胡厚宣氏
では人身御供が
回につき
人だけという場合は極め
て少ないため、実際の人数は、この集計値をはるかに
㈡夏・商・周時代の祭祀
古代中国の奴隷社会時代に属する夏・商・周の三代
超えるだろう。いずれにせよ、驚くべき人数と言える。
では、祭祀活動が頻繁に行われた。
『礼記』
表記では、
祭祀で人を殺すときの手段は極めて残酷で、家畜の
「殷人は神を尊ぶ。民を率い以て神に事え、鬼を先に
場合と何ら変わりなく、首切りや生き埋めに止まらず、
して礼を後にす」
と記されている。彼らは、祭祀活動
人の肉を細かく切り刻む場合すらある。
『史記』
殷本紀
と戦争をともに重視し、
「国の大事は祀と戎にあり」
と
によると、殷朝最後の紂王は、怒りに任せて九侯(官
考えた。祭祀では必ず占いを行い、霊媒師が占い用の
位名)
の肉を切り刻み、もう
亀甲や獣骨に卜辞を刻み付けるのだが、それが今で言
肉にしてしまった。焼く、四肢を切り取る、といった
うところの甲骨文である。数多くの祭祀活動が行われ
内容も卜辞でよく見られる。殷代墓の発掘により、こ
たからこそ、今日、文字が刻まれた大量の亀甲や獣骨
の卜辞に書かれた人身御供の存在は充分に証明されて
が出土する。古い記載を見ると、当時の人々による祭
いる。
祀の対象は幅広く、既に天上の上帝や太陽、月、星と
側で
地上の山、川などがあるほか、逝去した祖先も対象と
められていたのは、いずれも首を切られて頭がない身
なる。また、鼎、鬲、豆、爵、尊、壺、盤、盆など、
体の骨である。それら
人の鄂侯も切って干し
年の春、考古学者が殷墟・武官村大墓の南
奉献に使われる大量の青銅礼器も甲骨とともに存在し、 ずつ、
列に並んだ
カ所から
の墓穴を発見したが、その中に埋
の穴のうち、
体、
カ所から
カ所から
体
体の人骨がそれ
それらにもしばしば文字が刻まれており、金文と呼ば
ぞれ発見され、別の
カ所では人骨が散乱して人数を
れる。甲骨文と金文により、中国奴隷社会の歴史が記
計算できなかった。それ以外の穴
録されているとともに、それらはこの時代の祭祀活動
められており、人骨は合計で
の証拠である。
のない人骨には上下の顎骨が残っているものもあり、
カ所に
体ずつ埋
体となる。それら頭
.人や家畜を供物とする商代の祭祀
歯が残っているものさえ見られ、生贄にされたときの
商は、
年前に黄河中流域を中心に
惨状が想像される。王陵地区では他にも多くの墓穴が
確立された王朝である。河南の安陽で発見された殷墟
あり、それらの中では人骨が散乱していて、一部のも
は殷末の都城であり、そこでは宮殿、宗廟、王陵、手
のは頭がなく、人の頭骨だけ積み重ねられている場合
工業の工房、大量の住居や墓が発見されている。殷・
もある。そのような排葬坑や乱葬坑は、いずれも祭祀
商の祭祀が後世の祭祀と最も異なる点は、牛、羊、豚
のとき殺された人身御供を埋葬する
「祭祀坑」
と言えよ
といった家畜だけでなく、多くの人を供物にしている
う。こうした祭祀坑は、殷墟で数多く発見されている。
ことである。甲骨の卜辞には、人祭
(人身御供)
の記録
殷代の祭祀場所については、廟祭および墓祭という
が数多く見られる。中国の有名な古文字学者の胡厚宣
種類の形式に分かれる。廟祭は固定的な祖廟で行わ
年前から
氏の集計によれば、
人身御供が記録された甲骨は ,
れ、殷代の祖廟は宗、升、家、室、亜など様々な名称
片、卜辞は , 条であった。多ければ一度に
で呼ばれる。同姓の者には共同の宗廟、同宗の者には
∼
人が人身御供とされ、 人くらいがごく普通の祭祀と
共同の祖廟、同族の者には共同の禰廟がそれぞれある。
なる。胡厚宣氏は、この集計について「殷では、盤庚
宗廟の建立や祭祀に関しては、以下のような違いが見
の遷都から帝辛の滅亡まで
られる。
年(紀元前
年∼
世・ 人の王がいて、
年)にわたり奴隷社会が栄えた
宗廟に祀られる先王の位牌は
「示」
と呼ばれる。「示」
①‐
(
)
①.中国古代の祭祀
には大小の区別があり、
「大示」
は直系の先王、
「小示」
本紀でも人を干し肉や肉の塩漬けにするという記載が
は傍系の先王などに使われる。通常、
「大示」
には牛、
少なからず見られる。
「侯」
のように地位が高い人物さ
「小示」には羊が供物とされる。
「大示」
が集められた場
え軽微な罪で食物とされてしまうのなら、平民や奴隷
所を「大宗」、「小示」
が集められた場所を
「小宗」
と呼ぶ。
宗廟建築の名称は数多く、例えば、東室、南室、大室、
の肉が食卓に上るのは言うまでもない。
殷代の祖先祭祀に関する資料としては、甲骨卜辞以
小室などは祭祀の場所となり、宗、家、室、亜などは
外に銅器の銘文もある。殷代には、武勲、功績、栄誉
位牌を納める場所となる。商代の都城、河南偃師の早
といった喜ばしいことを記録するため、しばしば銅器
期の都城や、特に商代末期の都城・殷墟では、大規模
に銘文が刻まれた。殷・商の銅器に銘文が記された日
な宮殿や宗廟の基礎跡が発見されており、そのいずれ
付は祖先祭祀の日に当たることが多い。それは、殷代
かは商王が祖先を祀った宗廟と思われる。
に祖先を祀るときは「罪ある者を戮し、功ある者を賞
種類の祭祀形式は墓祭と呼ばれる。国
す」
必要があったからである。今の幸福を祖先の霊が
王や大貴族は、廟を建てて祭祀を行うだけでなく、祖
加護してくれた結果として受け止め、恩賞や栄誉を受
先の墓前でも祭祀を行った。
けたときには
「慶あれば祖に告げる」
べきだと考えて、
殷代でもう
墓祭は、代々にわたり先人を祀る形式として広く用
賞金の一部で銅器を鋳造し、亡き父母や祖先の祭祀で
いられてきた。その名称は、墓祀、上墓、上塚、上墳、
用いたのである。殷・商時代、こうした習慣が貴族の
上飯、上食、祭掃、拝掃、拝墓、修墓、添土などと各
間に形成されていたようであり、殷・商における祖先
地で異なる。殷代に墓祭が盛んに行われたことは、考
祭祀の特色となっている。
古学者により証明されている。河南・安陽の殷墟には
.近代まで影響が及ぶ周代の祖先祭祀制度
王室の陵墓が集まった地区があり、王族の大墓が数多
周代の初め頃に分封制度が布かれたが、その社会・
基余りの小
経済構造は典型的な農耕社会に属し、後世まで伝わる
墓が発見された。ここを研究した考古学者は、
「これ
いわゆる
「周公の礼」
の影響は極めて大きい。また、孔
ら , 基余りの墓群は、すべて大墓の付近に設けら
子が
「郁郁として文なるかな。吾は周に従わん」
と周礼
れ、多くが列をなして、人の頭だけや肢体だけが埋葬
を尊重したため、封建社会では常に孔孟の書が読まれ
されており、しばしば多数の頭や肢体が見られる。ま
て
「周公の礼」が行われ、それが知識人の行動基準と
た、車馬や鳥獣の墓穴もあり、大墓に付属していたこ
なった。周代の祖先に関する祭祀制度は、家族が基本
とは間違いない」
と述べ、それらの小墓が商代の祭祀
的中心および生産単位となる農耕社会で、全体をまと
坑であり、穴の中の死者も、殉葬者ではなく、祖先を
める役割を果たしていた。そうした一部の制度は、清
祀るための人身御供であると確定している。
代まで踏襲され続けている。
く分布する。
年、王陵東地区で ,
は、この付近でさらに
年に
基余りの墓穴が発掘され、
それら祭祀坑の場所が祖先を祀る殷王朝の祭祀場であ
⑴遠祖・近親に関する明確な等級分け
周代の祭祀では、等級が明確に分けられ、数量も具
ると研究者により確定された。そうすると、殷王朝で
体的に定められている。天子が
は、墓地で祭祀を行う際にも人身御供を用い、祭祀後
夫が
には墓地付近の穴に埋葬し、そのまま
「人肉宴」
を祖先
処で祭祀を行う。いわゆる廟とは、独立した祖先祭祀
の墓前に供えたこととなる。こうしたやり方は、酒な
を行う場所である。天子の
どを直接に地下へ捧げる以外は物を並べて供えるだけ
廟、士が
廟、諸侯が
廟、大
廟をそれぞれ持つとされ、庶民は寝
廟では、在位の天子から
世遡った祖先までに太祖
(始祖)
を加えた計
人の祖
で埋めなかったり、墓前で祭祀者が食したりする後世
先が独立した祭祀を受けることとなる。祭祀者から
の祖先祭祀と大きく違い、「死に事
(つかう)
ること生
世遡った祖先と太祖との間にいる祖先については独立
けるが如し」
という意義が直接的かつ現実的に感じら
した祭祀を行わず、合祀の方式を用いる。これら
れる。これに基づいて推測すると、殷代の実生活では
のうち、太祖廟は不変の第一廟とされ、それ以外は上
人肉食の習慣が残っていたのだろう。上記の
『史記』
殷
から下に数えて、
第
①‐
(
)
・
・
世のものは昭廟、
第
廟
・
王 巍
・
記載された等級制度と確かに合致しているのである。
世のものは穆廟と呼ばれる。
これら
種類の廟を
「昭」
と
「穆」
に分ける周代の制度
は、主として祭祀に関する
つの重点を体現している。
⑵節約を尊び、道徳を強調
多くの家畜や人を殺して供物とした殷代に比べて、
第一は、太祖廟での祭祀である。太祖は、一族で最も
周代の祖先祭祀では倹約が尊ばれ、敬意が強調された。
功績の大きな祖先であり、一族の基を築いた旗幟とな
周には
「倹約は善行の中の大徳、贅沢は邪悪の中の大
るため、その祭祀は世代が交代しても変わらない。国
悪」
ということわざがある。こうした善悪観のためか、
家は太祖が築いたものであり、その独立した祭祀は恒
周代の祖廟建築は華美でなく、太廟には茅葺屋根が用
久的に続けられる。第二は、近親の祭祀である。近い
いられている。このことは、魯の荘公が桓公の廟を装
時期に逝去した父親や祖父は最も血縁が近く、最も深
飾して批判されたという記録により裏付けが得られる。
い情愛が感じられるため、それらの独立した祭祀を確
魯の桓公の死後、その息子である荘公が君主を継いだ。
保するのも人情の常と言えよう。年代が離れた
代以
荘公が父親の廟を建てるとき、まず柱に赤い塗料を塗
上の祖先については、夾室
〈横に付属した小部屋〉
に入
り、翌年には廟内に花の彫刻を施したため、徳を失う
れて合祀するという原則が継承されてきた。民間では、
贅沢な行いと臣下から批判された。
廟を設けないものの、父親および祖父までの墓を建て、
周代の人々の観念によると、祖廟とは、祖先が子孫
を監督し、百官を取り締まり、それらの者の道徳を発
それ以外は合祀される。
陝西省の周原遺跡では、西周時代の高級建築基礎跡
揚させて邪悪を防ぐ場所である。そのため、
「礼」によ
が発見された。その様式は特殊なもので、過去に発見
り制限され固定された制度に基づいて祭祀を行うのが
された西周時代の四合院式宮殿建築とは明らかに異な
当然であり、それに反することは、礼に違背した大き
り、『周礼』などの文献に記載された宗廟の構造と似て
な不敬に当たる。その制度では祖父から父という順序
いるため、西周高級貴族の宗廟である可能性が高い。
で祭祀が行われ、個人的な好き嫌いで変えることはで
周代の等級制は、廟の制度に体現されるだけでなく、
きない。
祭祀で演じられる音楽や舞踊においても具体的に規定
祭祀の礼では、順序以外に、宗廟の祭器についても
されている。「万舞」
と呼ばれる当時の舞踊は、羽根の
定められている。周代の頃には、鼎や玉、および祭祀
旗を持って演じられる。祖廟の中で万舞を演じるとき
に用いる器具がいずれも貴重な宝器と考えられており、
羽根を持って舞う人数について、天子が
列、諸侯が
普段はそれら貴重な物品を宗廟に納めていた。神霊さ
列との規程がある。なぜ最
えも奪い合うほどの美しい石である玉は、宝器である
列、大夫が
大で
列、士が
列なのだろうか。春秋時代には次のような説明
が見られる。すなわち、楽器は
種類の材料で作られ、
のは当然で、重大な祭祀や会盟のときにだけ使われる。
青銅容器は周代では貴重なため、それを使えるのは貴
方へ音楽を伝播させるため、それに合わせて舞いも
族だけであった。大きくて製作が難しい鼎は、国家を
列とした、とのことである。その他、祭祀の規模や
すくみ上がらせ、邪悪を払い除くこともできるような
参加者などについても、すべて詳しく等級別に定めら
国の重宝と考えられ、天子の宗廟でしか使われないも
れている。
のであった。そうした鼎を欲しがることは、天子の座
周代の祭祀に関する等級制度は、祭祀で用いられる
を狙う反逆行為とみなされる。春秋時代、南方の楚が
器具へも明確に反映されている。西周の礼制に基づき、
力を蓄えて強国となった際、楚の君主は、自らの実力
貴族の身分や地位の高低に応じて、使用する青銅容器
を恃んで周王室の権力を奪おうと企て、公然と九鼎の
の数が明確に定められている。天子が
簋、諸
重さを問うた。それは王権の象徴である九鼎を楚に持
鼎・
簋、卿・大夫が
鼎・
簋をそれぞれ使
ち帰ろうと考えたためであり、周王室の大夫・王孫満
鼎・
鼎・
簋を使用する。
に楚の行いは徳がなく、無法な挑発行為として反駁さ
西周後期の墓では、その等級に応じて副葬される青銅
れた。それ以降、
「鼎の軽重を問う」
という言葉は、国
容器の種類や数が異なっており、鼎や簋の数は文献に
の最高権力に対する挑戦を表わすようになった。国家
侯が
鼎・
用し、士は
簋または
①‐
(
)
①.中国古代の祭祀
権力を象徴する鼎は、正当な手段によって獲得される
れら三篇の書は、上古の祭祀習俗を継承しつつ、その
べきであり、そうでなければ邪悪な行為とみなされる。 体系化と規範化を図り、それを民衆の生活の中に浸透
道徳を重んじるという周代祭祀の特徴は、これによっ
させた。
ても証明される。
⑶豊富な供物と誠実な態度
周代には、農業が重んじられて農作物が大切にされ、
農産物の供物も増えた。春の祭祀には韮、夏の祭祀に
㈢秦漢∼隋唐時代の皇帝祭祀とその変遷
.郊祀
郊祀は、古代王朝が最も重視した祭祀活動と言える。
は麦、秋の祭祀には黍、冬の祭祀には稲がそれぞれ使
漢代の有名な礼学家の匡衡と張譚は、「帝王の事、天
われる。また、採取してきた様々な旬の野菜も祖先祭
の序を承けるより大なるはなし。天の序を承けるは郊
祀で使用されていた。動物の供物については、調理方
祀より重きはなし」
(
『漢書』
郊祀志)
と述べている。郊
法が増え、活きたままの供物と調理された供物に分か
祀とは、皇帝が都城の郊外で行う大規模な天地への祭
れる。
祀である。
礼に違わず恭しく祭祀を行うため、祭祀の仕様、範
文献の記載によると、秦代に都城咸陽付近で白帝へ
囲、進行順序などの原則が定められただけでなく、礼
の祭祀が始められ、それが都城で行われた郊祀祭天の
制の規定によると、祭祀を主宰し、各過程の仕事を担
最も古い記録となる。しかし、秦では天を祀る施設だ
う者が必要となる。祖先祭祀には各種の執事者を要し、 けを持ち、地を祀る北郊壇または方丘は持っていな
『周礼』春宮では大宗伯、小宗伯、肆師、鬯人、雞人、
かった。
司尊彝、司幾筵、天府、典瑞、典命、司服、守祧、世
漢の文帝は、首都長安城の付近に渭陽五帝廟と長門
婦、内宗、外宗、塚人といった執事者の名称が記載さ
五帝壇を建造して五帝祭祀の象徴とし、祭祀の場を都
れている。また、祖先祭祀の参加者についても詳細な
城の外へ移した。
規定がある。周代の祖先祭祀は年間を通じて絶えず行
漢の武帝は、天と地の祭祀制度をそれぞれ確立した
われるうえ、「礼」
も守らなければならないため、上記
が、陰陽の原則に基づいて都城の南郊と北郊に祭祀の
の名称を見ても分かるとおり、祭祀に用いる服装・調
場所が設けられるということはまだなかった。注目す
度・酒器の管理や、接遇、酒の扱い、主祭、副祭など
べきなのは、漢の武帝のとき至高の天神として泰一が
に関して祭祀要員の役割が細かく分担され、それぞれ
出現したことであり、漢の武帝は長安城の東南郊に泰
専門の者がいる。
祭祀での礼節や役割分担に関する
『春
一壇も建てている。これは後代に都城南郊に建てられ
秋左氏伝』
の記載を見ると、祭祀に携わる常設の役職
た天を祀る円壇
(圜丘)
の起源と思われる。泰一壇は三
として太史・太祝があり、太史は祭文を朗読し、太祝
重・八陛の円壇であることからも、以後の圜丘の雛形
は供物を陳列する。祭祀に際しては、誠実かつ恭しい
と見ることができる。
振る舞いが必要とされ、供物の数量を偽ったり、誇張
前漢の末頃には、王莽などが中心となり、一連の礼
したりしてもならない。これに反することは、神や祖
制改革が実施されている。郊祀制度についても大きな
先を欺く行為と見なされ、大きな罰が当たると考えら
動きがあり、陰陽の原則に基づいて、長安城の南郊と
れていた。
北郊にそれぞれ天を祀る天壇と地を祀る地壇が建てら
奴隷社会から封建社会への転換期に、統治階級は国
れた。天と地を併せて祀る儀式は南郊で行い、それに
家統治における祭祀が果たす役割をさらに重視し、ま
より以後の郊祀制度の基礎が固められ、その影響は大
た民衆教化のため祭祀儀式をより意識的に利用するよ
きなものがある。
うになった。
後漢は、首都洛陽の南郊と北郊にそれぞれ郊祀施設
二千年にわたる中国儀礼制度一般の基盤と言える
を建てた。南郊壇は八陛の円壇になっており、重壇で
「三礼」、すなわち
『周礼』
、
『儀礼』
および
『礼記』
は、こ
周りは三重の壁で囲まれている。北郊壇は四陛の方壇
の時期(西周から秦・漢以前)
にまとめられている。こ
になっており、祀舎がある。後漢における南・北郊壇
①‐
(
)
王 巍
の建築構造は、以後の各王朝に模倣された。
西晋では、南郊施設と円丘、北郊施設と方丘をそれ
ぞれ結合させ、その制度は東晋や南朝でも踏襲された
台や太学はそれぞれ独立しており、明堂と辟雍も独立
していた確率が高い。当時に建てられた明堂や辟雍は、
いずれも五室・上円下方である。
が、北朝では郊と丘を分立させている。隋と唐では北
後漢の光武帝は、明堂、辟雍、霊台および太学を雒
朝の制度が踏襲され、郊と丘は分立されて天地の祭祀
陽城
(洛陽)
の南郊に建てた。それらは曹魏、西晋およ
を行った。
び北魏
(洛陽遷都後)
の時代にそれぞれ修復されている
漢∼唐時代まで遡って郊祀制度を見ると、漢末の礼
制改革による強い影響が看取される。前漢末には祭祀
(ただし北魏は辟雍を修復せず、霊台も廃された)。
北魏の太和年間
(
∼
)
に平城
(大同)
で建てられ
の分野における陰陽五行説の指導的地位が確立され、
た明堂、辟雍および靈台は三者が合一されており、漢
それが後漢時代に制度となって、魏晋南北朝時代に段
代の法式とは異なる。明堂の建築構造は
「上円下方」で
階的な整備が図られ、隋唐時代に完成されたのである。
ある。
武則天の時代になって、初めて真の明堂が建てられ
.宗廟と社稷
「左に祖廟、右に社稷」
とは、周代礼制の基本原則の
た。武則天が建てた明堂は上・中・下の
層であり、
一つである。しかし、漢∼唐時代における「左祖・右
下層が方形、中・上層が円形を呈して、
「上円下方」と
社」制度の形成は、やはり長い発展過程を経ている。
いう古制にかなったものである。明堂の周囲に
「鉄渠」
前漢の社稷は長安城の南郊にある。王莽が摂政を務
をめぐらし辟雍になぞらえ、明堂と辟雍を一体化させ
めるまでは、漢の帝廟は都城の内外に散在していたう
ているようである。明堂の中心に上下を貫く大柱があ
え、左祖・右社の制度も形成されていなかった。王莽
る構造は、古制にはないものである。特に注目すべき
の時代に社稷の左へ郊廟が建てられ、初めて「左祖・
なのは、武則天の建てた明堂が城南でなく洛陽宮城の
右社」の配置となった。
中央に位置することである。明堂の機能は、上層が天
王莽が建てた「王莽九廟」
では、昭穆の制度が厳格に
遵守されており、太初祖廟が始祖廟とされた。
後漢時代には、宗廟・社稷制度の大改革があり、洛
を祀る場所で下層が政を布く場所となっているため、
武則天が建てた明堂には
「宮廟合一」
という復古的な傾
向が窺える。
陽に高廟と世祖廟を建て、前漢の諸帝と後漢の諸帝を
武則天の時代以降には明堂の改築や撤去が進み、明
別々に祀った。各帝の位牌を太祖廟に集めて祀る、と
堂の機能は失われていった。その後、唐代の
「大享明
いう「七主共一堂」
の制度は、後世の太廟に大きな影響
堂」
の礼は、ほとんど雩壇で行われている。
を及ぼした。後漢では社稷壇が宗廟の右に位置するが、
霊台は、北魏以後に礼制建築の地位を失った。唐代
これは漢∼唐時代における
「左祖・右社」
制度の最も古
には、僧の一行が中心となって天文観測を行ったが、
く確実な実例である。
それには観象台が使われ、
祥瑞を調べたり、
祭祀を行っ
.明堂・辟雍・霊台
漢の文帝が建てた渭陽五帝廟は、以後の
「明堂」
の前
たりする霊台の機能はなくなっている。
.日月に対する祭祀
古代中国では至高の天神の地位が際立っているため、
身とみなされる。
漢の武帝は汶水のほとりに明堂を建てたが、以後の
日月の神への祭祀は、相対的に見てあまり重視されて
明堂の計画においては、済南の人・公玉帯の設計によ
いないように思える。この点も古代中国における祭祀
る明堂図が雛形となった。
の伝統が持つ大きな特色である。漢∼唐時代には、朝
漢・平帝の元始
年、王莽らが中心となって、長安
日夕月の礼は途切れ途切れに続けられていた。
城の南郊に明堂、辟雍、霊台および太学
(いわゆる
「学
.農神を祀る先農壇と先蚕壇
者のため万区に舎を築く」
の
「太学」
)
が建てられた。王
古代の帝王は、農業や養蚕を奨励するため、皇帝自
莽が中心となって建てたこれら一連の礼制建築は、後
ら耕作を行い先農
〈農業の神〉
を祀ったり、皇后自ら養
世に大きな影響を及ぼしている。当時に建てられた霊
蚕を行い先蚕
〈養蚕の神〉
を祀ったりする礼制活動をし
①‐
(
)
①.中国古代の祭祀
ばしば行った。
中国文化の重要な特徴は実利性と親和性を重んじる
漢∼唐時代の皇帝による親耕や農神に対する祭祀は、 ことであり、そのため中国の民間信仰は典型的な多神
漢の文帝に始まる。漢の景帝、武帝、昭帝も行った籍
信仰である。一般民衆は、各宗教の教義、理論、方法
田の儀式は、皇帝が象徴的に田を耕し、五穀豊穣の加
などに関する違いをあまり気にせず、それら宗教の神
護を農神に祈るためのものである。
霊が自らの現実生活を平穏に守ってくれるか否かだけ
後漢時代には、祠を建てて先農や先蚕を祀る手法が
に関心を持つ。そのため、中国の民間信仰では、しば
とられるようになった。曹魏では漢の文帝の手法を踏
しば儒教、道教、仏教の
つが統合され、神、鬼、精
襲して洛陽城の東郊で耕籍の礼を行うとともに、皇后
霊などが入り混じっていて、原始宗教の神霊すらそれ
の親蚕を北郊で行うよう改めている。
なりの地位を占めている。
その後、ほとんどの歴代王朝では、皇帝と皇后がそ
中国の民間信仰における神の体系は非常に複雑で、
れぞれ象徴的に耕作や養蚕に従事して農神と蚕神を祀
数え切れないほどの神がいる。一方では、原始宗教時
る制度が踏襲されている。
代に発生した神霊
(伏羲、女媧、盤古など)
が今なお民
間で祀られており、もう一方では、それより後の時代
.その他
漢∼唐時代には、上述した礼制建築以外にも、雩壇、 にも新たな神が発生し続けてきた。そうした新たな神
霊星祠、高禖壇、六宗祠、風伯壇、雨師壇といった礼
は、仏教などの外来の宗教に起源を持つ。また、たと
制施設が数多くあった。しかし、それらの祭祀はいず
えば老子、呂洞賓のような道教の様々な仙人や、関羽、
れも「国家常祀」とはされず、次第に淘汰されていった。 岳飛といった歴史上の人物が神格化される場合もみら
その他の孔廟、武廟、山川壇といった祭祀建築は、漢
れる。さらには、各地の城隍・土地
〈町や村の鎮守の
のように、地域の名士が神や仙人として祀り上げ
∼唐時代には盛んではなく、副次的な地位にあったが、 神〉
宋、元、明、清と時代を追うごとに重視され、歴代王
朝の皇帝祭祀の重要な構成部分となっていった。
られることもある。
民間祭祀の神霊が基づく宗教はそれぞれ異なり、道
教の
「三清」
、
「四禦」
、
「太上老君」
、玉皇大帝、王母娘
㈣古代中国の民間祭祀
娘
〈西王母〉
、真武大帝や媽祖、八仙、張天師などの仙
〈仙人となった人〉
のほか、仏教の如来や弥勒の諸仏、
古代中国の民間祭祀は、明・清時代に隆盛を極めた。 真
近現代における中国社会の巨大な変革がもたらした急
観音や普賢、文殊といった菩薩や五百羅漢、さらには
激な社会の変化に伴って、民間祭祀も大きな変化を遂
儒教の文の聖人・孔子や武の聖人・関羽、そして原始
げている。特に新中国の成立以来、科学文化に関する
宗教の皇帝や炎帝、民俗信仰の福禄寿星などが挙げら
国民の知識水準が急速に向上し、民間祭祀が衰微し始
れる。
めて、あるものは消失し、あるものは形式が簡略化さ
中国の民間信仰では、地位の高い神霊がいずれも天
れ、あるものは役割が変わっている。当然、一部の伝
上に住んでいる。そうした神霊には元からの神霊であ
統的な民間祭祀は、昔からの習慣であり、現代社会の
るもの
(昊天上帝、日月星辰など)
もあるが、人の世で
人々も困難に直面したときは彼岸の精神的な拠り所を
高い名声を博したり、苦しい修行を経たりして天界へ
必要とするため、今なお日常生活の中でかなり活発に
上ったものもある
(媽祖、八仙など)
。
行われている。
㈠玉皇大帝
玉皇大帝は、中国民間信仰中の最高神であり、神仙
三、古代中国における祭祀の対象
世界の皇帝と言える。民間では玉帝、玉皇、天帝、天
中国における民間祭祀の内容と形式は、祭祀の対象
公、老天爺などとも呼ばれる。昊天上帝・黃天上帝を
によって直接的に制約され、祭祀で祀られる諸神も、
祀る儀式は早くも商・周時代から行われており、その
原始宗教、道教、仏教、儒教など、中国の歴史に登場
身分は天空の神とされていた。
その後、
次第に人格化・
してきた様々な宗教に起源を持つ。
社会化され、民間の伝説や道教の神話によって広まり、
①‐
(
)
王 巍
宋代には国家祭祀における主神にまで地位が上がって
旦呼吸すると大風が吹き、その威力を見せつける。そ
いる。民間信仰では、常に玉皇大帝が天上・地下で生
れは、原始人が抱いた鐘山のイメージと言えよう。
死の決定権を握るため、最もよく祭祀の対象とされる。
毎年正月
日は伝説上で玉帝が生まれた日に当たり、
中国の封建時代で最も影響力を持つ山神は、
五岳(東
岳・泰山、南岳・衡山、西岳・華山、北岳・恒山、中
民間では玉帝を祀る盛大な廟会が行われる。
岳・嵩山)
の山神であろう。特に泰山の神である東岳
㈡王母娘娘
大帝は、位が高くその権限は重い。皇帝の即位に際し
王母娘娘は、玉皇大帝の妻と考えられており、伝統
ても、しばしば泰山で封禅を行い、泰山の神を祀って
的な信仰の中で最も地位が高い女神である。王母娘娘
加護を求める。
は、西方の崑崙山で仙宮に住んでおり、天上天下の三
㈥水神
界十方で仙人になったり、得道したりしたすべての女
中国の水神は竜王と呼ばれることが多く、大海や黄
性を管轄する。しかし、文献の記録によると、西王母
河・長江のみならず、淵や井戸の中にも竜王がいる。
の原型は、中国の西部にあった国
(または部族)
の首領
竜王は、地上の水だけでなく、天上の水も司る。竜王
とされている。
は、玉帝の指示に基づいて各地へ赴き、雲を動かして
㈢媽祖
雨を降らせる。一般に四海の竜王が全竜王の首領だと
媽祖は天后とも呼ばれるが、玉帝の妻ではなく、海
考えられている。人々は、旱魃や豪雨の災害が起こる
神の妻である。天后は、中国の封建社会で生み出され
たびに竜王を祀ってきた。旱魃に際した祈雨の祭祀活
崇められてきた代表的な神と言える。宋から清の皇帝
動は、中国の農耕社会で広くみられるものである。
たちは、 数回にわたり媽祖に対する冊立
〈皇后を定
㈦社神
めること〉
を行い、初め林姑娘
〈林家の娘〉
だったその
封建時代には、国家から地方まで
「社」
と呼ばれる祭
地位は夫人、天妃、聖妃と次第に上がり、最終的に天
壇が設けられていた。通常、社は特定の森の中に建て
后および媽祖となった。
られ、祭壇の中心には、神を表わすものとして
「社石」
㈣雷神
という石が安置される。例えば、女媧〈中国神話の女
天象に関する神について見ると、中国の民間では、
神〉
を表わす石は「高禖」
と呼ばれ、最も古い子宝の神
世界の他の民族でよくみられるような日神・月神に対
ということである。神話に出てくる大禹とその息子・
する特別な崇拝はみられない中で、雷神が特別に畏怖
啓は、いずれも石から生まれたと伝えられる。今でも、
される。雷神は生死決定の大権を握ると考えられてい
一部の少数民族は、男女の性器に似た形状の石を祀り、
る。民衆が誓いを立てるときには「もし誓いを破った
それが不妊の夫婦に子宝をもたらすと信じている
(例
ら、天から五度雷が落とされる」
というまじないを唱
えば、雲南大理の白族が祀っている
「阿央白」)
。漢民
える。通常民間では、凶暴な神に対してはその機嫌を
族で最も盛んに崇められた石神は
「石敢当」
である。通
損ねないよう丁重な態度がとられる。雷神の姿は、太
常、それは路地の入口や道路の要衝に立てる石碑であ
古のトーテム崇拝に関係すると思われ、鶏頭人身で力
り、表面に
「石敢当」
または
「泰山石敢当」
という文字が
士のような逞しい身体をしている。
刻まれる。泰山の神は人の生死を司るので、秦の始皇
㈤山神
帝は、天下巡幸に際して特に泰山を訪れ、刻石を建て
山神崇拝は、太古の中国から大変広く見られた民間
ている。そこから民間では、泰山の石で災いが避けら
信仰である。『山海経』
からは、ほとんどすべての山に
れると考え、それを家や道の厄除けで用いるように
山神がいたことが窺える。例えば、その中に記されて
なった。
いる燭陰という鐘山の神は、まるで創世主の一人のよ
㈧その他の自然神
うでもある。それは人の顔と蛇の身体を持ち、全身が
一般民衆にとって自然界の無生物の中にさえ神霊が
赤くて、身長が千里にも及び、目を開けば昼となり、
いるとすれば、魂を持ち、飛んだり跳ねたりできる動
眠れば夜となって、普段は飲食や呼吸をしないが、一
植物は言うに及ばない。そうした動植物の霊魂のうち、
①‐
(
)
①.中国古代の祭祀
人と友好的なものは
「神」
や
「仙」
と呼ばれ、人に危害を
て異なり、通常は高さ数尺とされ、四面・八方に設け
及ぼすものは「妖精
〈妖怪・化け物〉
」
と呼ばれる。漢民
た階段から上る。通常、漢代以後の祭壇は
族の民間信仰では、動物神として竜、鳳凰、蛇、狐な
ており、各層に階陛
(階段)
が設けられる。上層は内壇
どがよく登場する。植物については、人々に必要とさ
と呼ばれ、下層は外壇と呼ばれる。内壇には主神を安
れる植物、穀物などが多く、巨大な老樹といった珍し
置し、外壇には祭大神を配置して、その他の小神は壇
いものも祭祀の対象になりやすい。
の下または階陛に置かれる。天壇、地壇、日壇、月壇
層になっ
などはいずれも通常城外に設ける。数千年来、この祭
四、古代中国における祭祀の場所
古代中国における祭祀の場所は、主に墠〈祭祀用の
祀を行う資格は統治階級のみに与えられてきた。
古代には、
世帯ごとに
つの
「社」
を設け、社壇を
平地〉、壇〈土を盛った祭壇〉、坎〈祭祀用の窪地〉、宗
築く必要があった。一般民衆は春と秋の
回、その社
廟、祠堂、寝龕〈中央広間の神棚〉
、墳墓などがある。
で祭祀を行った。通常、古代の社壇は森の中にあり、
先述のように、太古の昔、人は、居住地や墓地で鬼
石を積み上げたり木を立てたりして目印とした。今日
神を祀り、祭祀を行うための場所は持っていなかった。 では社は簡略化され、社壇だけや社樹(祭祀の場所と
北京の山頂洞遺跡からは、原始人が自ら住んでいた洞
なる古い大樹)
だけになっていたりする。
穴の付近に死者を葬り、死者を弔うため遺体の周囲に
㈢坎
赤い鉱粉も撒いているのが発見された。新石器時代の
「地を掘って坎となす」
というように、地面に大きな
末期になって、中国東北地方西部における紅山文化の
穴を掘って祭壇にすることである。坎と壇は相対する
円形祭壇や長江下流地区における良渚文化の方形祭壇
もので、壇は高いので陽に当たり、坎は窪んでいるの
など、多くの祭壇がようやく見られ始める。商・周王
で陰に当たる。陽に属する日の神、暑さを司る神また
朝まで時代が進んでから、主に墠、壇、坎、宗廟、祠
は高い山や丘の神を祀るときは壇が使われ、
「陰」に属
堂、寝龕、墳墓などが登場する。
する月の神、寒さを司る神または窪んだ川や谷の神を
㈠墠
祀るときは坎が使われる。
「地を除いて墠となす」
というように、平地をきれい
㈣宮廟
に掃き清めた場所が
「墠」
と呼ばれる。これは、最も原
壇と墠を基礎にして壁や屋根を作れば
「宮」
となり、
始的かつ簡単な祭壇と言えよう。周の人が天を祀ると
位牌を安置すれば
「廟」
となる。古の人は、鬼神も人と
きは、地を掃いて祭祀を行った。天は最も尊貴なもの
同様に室内で生活して眠る必要があると考えていたた
とされたが、その祭祀は質素であった。こうした最も
め、廟堂の配置は生人の住む家と変わりがない。当初、
簡単な祭祀の場は、今日でも広く見られる。民間で田
宮廟は祖先のためだけに建てられたが、自然神が人格
公・田婆〈土地の神〉
を祀るときは、土地廟で祭祀を行
化されるにつれて、あらゆる天地神祇が宮廟をもつよ
うほか、掃き清めた農地の一角で祭祀を行う場合も多
うになった。
『礼記』
祭法では日壇が
「王宮」
と呼ばれて
い。普段、自宅の庭の一角で紙銭を焼き、拝跪して祖
おり、戦国時代すでに宮廟があったことが分かる。漢
先に祈りを捧げる者もいる。
代以後、仏教文化が伝来したため、雨後の筍のように
㈡壇
仏教寺院が建てられ、至るところで香煙が焚かれるよ
「土を封じて壇となす」
というように、土や石を高く
うになった。唐朝の詩人杜牧の
「南朝四百八十寺、多
盛り上げて祭壇にすることである。土を盛り、石を積
少の楼台煙雨の中」という詩句を読むと、当時の情景
むために大きな労力を要するが、壇は墠より盛大で荘
が目に浮かんでくる。唐朝の皇帝が道教を崇拝したた
厳に見える。壇の形状は祭祀の対象に応じて異なり、
め、道教が仏教と対等に発展し、宮観
〈道教の社〉も数
天を祀るとき用いる天になぞらえた円壇を
「円丘」
と呼
多く建てられた。建てられ始めた頃の仏教寺院は、イ
び、地を祀るとき用いる地になぞらえた方壇を
「方丘」
ンドの様式を参考にして、塔を中心に据えつつ、その
と呼ぶ。壇の高さと幅は時期、場所、等級などに応じ
周囲に殿堂が建てられている。晋・唐以後には、そう
①‐
(
)
王 巍
した建築配置が少し変わり、寺院の主体となる塔の役
刻まれる。現在は社会の進歩や文明水準の向上に伴い、
割が次第に弱まって、外部へ移されるようにさえなり、
特に大都市では土葬が行われなくなり、ほとんどの場
殿堂が主要建築となってきた。有名な仏教寺院として
合、墓碑のみを立てるか、共同納骨所を設置して、死
は、洛陽の白馬寺や登封の少林寺などがあり、有名な
者の家族が参拝している。
宮観としては、北京の白雲観や泰山の碧霞元君祠など
五、古代中国の供物
がある。
歴代典籍の記載を見ると、供物は主・副に応じて以
㈤祠堂
祠堂とは、祖先を祀るための場所である。宮廟は、
祖先を祀る神廟に起源を持ち、当初は統治階級のみに
下の数種類に分かれる。
㈠食物
よって建てられ、平民は廟を建てる資格を与えられな
.肉類
かった。通常、祠堂は家族や宗族から集めた資金によ
原始的な採集・狩猟経済において、肉は命がけで獲
り建てられ、その規模は太廟
(皇帝が祭祀を行う場所)
得する貴重な食物であり、原始的な農業や牧畜業が発
を超えてはならず、さもなくば
「僭越」
な行為とされ、
展してからも長きにわたり珍重された。そのため、肉
死刑に処せられることもあった。一般に祠堂の正庁は
類は神霊に捧げる主要な供物であった。古代中国の祭
世代にわ
祀では、肉類に関する独特な名詞がいくつかあり、祭
たる祖先の位牌が祭られて、西が上位となる。龕の前
祀で使う動物は
「犠牲」
と呼ばれる。
「犠牲」
という言葉
にはそれぞれ供物台が設けられ、香炉や香箱などが置
の原義は毛色が均一な動物のことであり、牛、羊、豚
かれる。祠堂内の祭器は、使用しないときは封を施さ
といった貴重な大型家畜が犠牲とされた。大きな家畜
れ、他の用途には使用できない。
をそのまま神に捧げることは、最高の贅沢と言える。
㈥寝龕
春秋時代になって牧畜業が発展すると、
「少牢」
および
つの龕〈神棚〉に分けられ、父方・母方の
平民の祖先祭祀は正堂
(堂屋とも呼ぶ
〈家屋の中央の
「太牢」
という
種類区別ができた。豚、羊、牛の中で
部屋〉)で行われることが多い。通常、神龕を作って祖
は牛が重んじられ、天子の祭祀では必ず牛を供物とす
先の位牌を安置する。ほとんどの龕は、高さ
尺
るか、牛、豚、羊を一緒に捧げ、それを最も贅沢な供
の小さな小屋のような形に木材で作られ、正堂の香案
物として
「太牢」
と呼んだ。卿や大夫は、地位が天子よ
〈香炉などを載せる机〉
の上に置かれたり、正堂の正面
り低く、能力も限られているため、祭祀で豚や羊のみ
壁の中央上方に掛けられたりする。また、その中に神
を使い、それを
「少牢」
と呼んだ。
「牢」
の原義は家畜を
仏の偶像を安置して祀ることもある。
柵で囲い込んで飼育するための小屋である。覆い屋根
㈦墳墓
の下に牛を閉じこめた字形をもち、他の動物にも用い
∼
死者が葬られた場所を死者の神霊が宿るところと見
られる。
「太」
は
「大きい」
、
「少」
は
「小さい」
という意味
なし、そこで祭祀を行うのは、最も古くかつ質素なや
で、牛を飼育するための柵・小屋は大きく、牛、羊、
り方である。封建時代には、最も質素な方法も、最も
豚を併せればさらに大きくなるため
「太牢」
と呼ばれ、
贅沢な散財となり得た。古代の天子や諸侯は一般に、
豚や羊は相対的に小さな柵・小屋で済むため、
「少牢」
その墳墓も生前の宮殿に似せて作ったため、帝王の墳
と呼ばれた。
墓の地下層には寝室や客間があり、地上層にも宮、廟、
.酒
堂などが建てられる。平民の墓は丸い盛り土一つであ
酒の発明により、飲酒を楽しめるようになった。酒
り、俗に「土饅頭」
と呼ばれる。死者の精神を青々とし
は、醸造に大量の穀物を要するため、古代では非常に
た木のように永続させるためか、霊魂のため日光や雨
貴重なものとされた。商代の貴族の宴会には酒が不可
を遮るためか、それとも死者を孤独にさせないためか、
欠であり、人が享受している物として、自然に神へも
墳墓の傍らに木を植えるのが風習となっている。墳墓
酒が捧げられるようになった。
『周礼』
天宮・酒人では、
の前には木または石の墓碑が立てられ、死者の姓名が
祭祀用の酒を管理するための役職が定められていて、
①‐
(
)
①.中国古代の祭祀
それ以後の時代にも酒を司る官職が置かれた。
焼き殺す、水で溺れさせる、生きたまま埋める、喉を
.野菜・果物
刺して血を流す、首を切る、といった形式をとり、肉
古代には、野菜・果物の多くが野生であり、新鮮な
を細かく切り刻んだり、煮込んだりする場合さえある。
野菜・果物を採取して神に供えることが広く行われて
当初は、主に戦争の捕虜が用いられたため、男性が中
いた。
心であったが、男神が確立されてからは、別のやり方
.穀物およびその製品
として美女が捧げられるようになり、その場合は美し
穀物もよく見られる貢ぎ物の一つである。特に民間
く若い娘が供物とされている。想像の産物である神霊
の祭祀では、穀物で作られた様々な日常食品が最も主
の強い女色の欲望を満たすため、美女を供物とする習
要かつ常用される供物であった。
俗が生まれたのであろう。殺す、生きたまま埋める、
人々は、日常生活や社会生活で広く用いられる方法
溺れ死なす、といったいずれの場合でも、美女で神を
により供物を消費し、それに一定の社会的機能を発揮
楽しませようという意図が表現されている。その女性
させている。そうした象徴的な飲食行為については、
たちの霊魂が神霊の妻や妾になるという名目だが、実
祭祀中の供物の分配、供物の寄贈、供物の飲食といっ
際には神霊に弄ばれるのだ。
た特定の方式が用いられる。祭祀中に供えた肉を分配
子供を神霊に捧げるものであり、子供の身体が供物と
することは、古代中国の社会で広く行われていた。祭
されたものである。
種類目の人祭は男女の
祀中に供えた肉を分配したり、供物を食べたりするこ
.血
とは、近現代の漢民族や少数民族においても様々な程
古代には、血が霊魂や生命の重大な意義を持ち、何
度で行われている。
らかの神秘的な力を持つと考えられていた。祭祀で神
㈡精緻な供物
霊に帰順の態度を示すからには、新鮮な血を差し出す
.玉
のも自然なことだったのであろう。家畜の血が使われ
人類は、猿人であった頃から石を扱い続け、長きに
る場合と、人の血が使われる場合があった。
わたる実践により、石を美しく滑らかに輝かせる技を
古代中国における宗教祭祀の様々な方法を見ると、
身に付けた。そうして作られたのが
「玉」
である。金銀
動物の鮮血を神霊に捧げることは比較的多い。人々は
の装飾品が少なかった古代において、玉は非常に貴重
通常、天神に血を捧げるときは、旺盛な生気を表すた
なものであった。玉を身に帯びることは貴族の象徴と
めに家畜の血を供えるのだと考え、そして
『周礼』春官
され、玉で作った符節
〈割符〉
や印章は非常に珍重され
宗伯で
「血を以って社稷、五祀、五岳を祭る」
と記され
た。そのため、玉を使って神を敬うことも、古の人の
たような献神の礼が形成された。新たな廟が落成した
考え方に合致している。古代の典礼で玉器が最重要の
ときにも、血を神に捧げる祭祀が行われた。
礼器とされたのも、それに由来する。
六、古代中国における祭祀の方式
.帛
帛とは、絹織物の総称である。古代の祭祀では、玉
と帛がともに貴重な供物とされた。
最後に、
種類の特殊な供物について説明する。
㈢特殊な供物
中国人の伝統的な観念によると、自然界で起こる
様々な不思議な現象や人の世で起こる生死禍福には、
すべて神霊の特殊な作用が関係している。そうした神
霊には、様々な自然現象や自然物、そして歴史伝説上
や現存している特定の人物たち、および無名の既にこ
.人
つ目の特殊な供物とは、人である。人を供物とし
の世を去った人の霊魂が含まれていて、それぞれ天体
て神霊に捧げることは、
「人祭」
と呼ばれる。人祭は祭
神、気象神、地域神、植物神、動物神、祖先神、人格
祀で生きた人を生贄とすることであり、それに関する
神、職業神などとして、非常に複雑で統属関係のある
記録が殷・商時代の甲骨文に数多く残されている。最
神々の体系が形成されている。人々の想像から生まれ
も多い祭祀の生贄は千人にも達する。人祭については、 たこれらの神霊は、しばしば超常的な能力を持ち、人
①‐
(
)
王 巍
の運命を左右することさえあるので、人々から崇め奉
地の郊祭とともに月の祭祀が行われただけでなく、月
られ、長きにわたり人々の崇拝または祭祀の対象と
を祀るためだけの儀式も設けられていた。今の北京・
なってきた。こうした様々な神霊としては、
そのイメー
西二環路の西辺にある月壇は、明・清王朝が月に対す
ジ自体が神の化身と見なされるものもあるが、特定の
る祭祀を行った祭壇である。秋分の日には月を祀る大
自然物や偶像といった象徴的符号により表されるもの
規模な儀式があり、新年や節句といった慶事にも月の
はさらに多い。例えば、太陽、月、星、山岳、河川、
祭祀が行われる。
湖沼、石、洞穴、植物、動物、人工物、偶像、切り紙、
太陽や月以外に、
星の信仰も盛んである。
上古の人々
模様、想像上の妖怪や怪物といった具体的なイメージ
は天と人の世が密接に通じ合っていると信じており、
などである。
天の大小の星々がそれぞれ地上の人になぞらえられ、
㈠太陽に対する祭祀
国家の盛衰、人の地位や寿命などのすべてに星々が関
太陽については中国の古代神話でいくつかのイメー
わっていた。
『史記』
封禅書の記載によると、前漢以前
ジが記されており、第一は創造神の目だというもの、
には、雍地
〈今の河南省沁陽一帯〉に
第二は女神・羲和から生まれたというものである。ま
廟があり、その多くで星神が祭られている。参、辰、
た、太陽が天空を巡ることについては、
太陽が車に乗っ
南斗、北斗、熒惑、太白、歳星、二十八宿といった星
ているとされたり、太陽が鳥に背負われているとされ
神は、それぞれ独自の廟に祀られていた。祭祀では、
たりしてきた。東方に起源を持つ殷の人は、鳥を特別
星は自然属性により神秘的な力を持つとともに、星を
に信仰しており、東方からの日の出についても具体的
官職の順序で整理するため、官吏、皇后、皇帝との対
に観察し、太陽の祭祀に関する字句が卜辞にしばしば
応ができ、自然気候、社会現象などと対応させられる
みられる。殷では朝に太陽を迎える祭祀と夕方に太陽
ことで、占星術や星の現象を何らかの兆候と考える迷
を送る祭祀が毎日行われ、朝の祭祀は
「賓日」
、夕方の
信や習俗などが形成されていった。
祭祀は「餞日」と呼ばれた。太陽を祀る習俗は古い起源
㈢天に対する祭祀
を持ち、それは、様々な民族の太陽を祀る儀式から証
カ所余りの神
天を祀ることは、古代中国で最も重要な皇帝祭祀で
あり、それを行う資格は皇帝にしかなかった。
明される。
太陽の祭祀については、古代から形式が定まってい
キリスト教が誕生する約
年前の殷朝では、すで
た。殷代には、日の出を迎えたり、夕日を送ったりす
に自らの上帝
〈万事を主宰する神〉
が創造されていた。
るために牛や羊が供物とされた。周代には、高い壇を
殷・商の上帝は、自然の力を支配し、かつ社会的権力
築いて固定的な祭祀が行われた。まず東の門の外で太
へ介入するという両面で働きを示す。風を吹かせたり、
陽を迎え、その後、南の門の外で太陽を拝む、という
雨を降らせたりするのが自然の力の支配であり、上帝
ものである。漢・唐から明・清にかけては、朝に東方
は上記のような両方面の人々の願いを叶えることがで
で太陽の祭祀を行い、夜に西方で月の祭祀を行ってい
き、そうした記載は卜辞に数多くみえている。その影
た。太陽の祭祀はほとんど春分に行われ、秋分には月
響により、後世の道教でも玉帝には同様の支配力が与
の祭祀が行われる。明の嘉靖
年)、東郊
えられている。殷の人々は、農産物が豊作になるか否
で太陽の祭祀を行う伝統に基づき、
都城の朝暘門外
(今
か、狩猟で雨に遭うか否か、祭祀でどのくらいの人や
の日壇公園)に敷地
ムー(畝)
の日壇が建てられた。
牛・羊を供えるべきかなど、いかなることでも上帝や
そこで春分の日の早暁に太陽を祀る儀式を行い、それ
神霊に教えを請い、その祭祀を重んじ、鬼神を敬う思
は「迎日」と呼ばれた。その儀式は、「迎神」
、
「領福受
想や習俗を充分に体現されていた。殷の人が創造した
胙
〈供えた肉の分配〉」
、
「送神」という 段階に大きく
上帝とは
「天」
であり、上帝の意思は天意と呼ばれる。
年
(西暦
分かれていた。
㈡月と星に対する祭祀
中国では古代の早い段階から
「祭月の礼」
があり、天
殷・商時代の王権は、天命による支持を必要とした。
当時、殷の人が考えた上帝、すなわち天はまだ草創段
階にあり、祖先神と密接に関わっていた。まだ上帝手
①‐
(
)
①.中国古代の祭祀
の届かない高い存在ではなく、神と帝、帝と鬼、鬼と
としてその規格をみてみたい。
神などの間にも、まだ厳格な区別や等級が設けられて
明朝の初めは南京に都が置かれたため、鐘山の南に
いなかった。殷では、あらゆる人の祖先が上帝のとこ
圜丘が築かれ、冬至の日に天と風雲雷雨に対する祭祀
ろに収斂し、上帝に背くことは、祖先に背くのと同じ
が併せて行われた。北京への遷都後に南郊に天を祀る
であった。このように、殷の上帝信仰は祖先信仰と一
壇が建てられ、それが今の北京天壇である。永楽 年
致していた。災禍、戦争、疑問などが発生したときは、 (西暦
祖先を通じて上帝に祈りが届けられるのだ。
殷王朝が四方を統治できたのは、上帝信仰の助けに
よるところが大きい。殷の人は、豊富な供物と多くの
年)に建てられた天壇は、
総面積
ヘクター
ルで、その主要建築である祈年殿、皇穹宇、圜丘の平
面はみな円形にして天を象徴させている。祈年殿の大
柱
人身御供や家畜を供えて、上帝の祭祀を盛大に行った。 は
本は四季を象徴し、周囲に
列に並んだ
本の柱
の月と時刻を象徴する。天壇の真の意義は、漢白
商族自らが敬虔に祭祀を行い、民衆と共に神に奉仕す
玉の欄干で三重に囲まれた圜丘にある。天を祀る実利
るだけでなく、そうした祭祀が各部族にも影響を及ぼ
的な意義は、主に適度な風雨と農産物の豊作を祈るこ
して、各部族にとって殷族は天から選ばれた者として、 とにあり、そのために祈年殿が建てられている。
反抗すべからざる存在になっていたのである。
以上のように、天体諸神を祀る祭祀の中では、天の
天は霊性や権威を持っているが、一神教の神とは異
祭祀が最も重要である。封建時代には、天命を畏怖す
なり、自然神や祖先神とともに存在している。
したがっ
る思想が社会の隅々まで浸透していた。天の祭祀は、
て、天が祀られると同時に、山河の諸神も祀られる。
すべて皇城の南郊で行われ、南郊における祭祀は歴代
盟約を結ぶときは、天や祖先に対して誓い、鬼神にも
王朝において重大行事とされた。蒙古の貴族が建てた
証しを請う。天と鬼神がともに存在するのは、周代の
元朝や満州族が建てた清朝ですら、その祭祀を継続し
天帝信仰の特色の一つである。このように天の祭祀と
ている。清代にも、毎年の冬至の日には南郊の天壇で
鬼神の祭祀が併存するモデルは、西周以後の歴代王朝
天を祀る大規模な祭祀が行われた。
でも一貫している。
㈣天に対する祭祀に関連した名山での祭祀
古代中国の皇帝は、自らを天子と称した。つまり、
山は特別な自然景観の一つであり、古の人は、自然
天の子として、天意を代表するのである。歴代の王者
崇拝の観念の影響の下、しばしば山を神霊の象徴と見
は、いずれもこうした王権天授の考え方を大いに宣揚
なした。山が神霊を象徴するのは、人々が山自体の特
したため、みな天の祭祀を非常に重視した。天、地、
徴的な自然に対して想像力を働かせるからである。険
五穀、祖先に対する祭祀が最も盛大に行われたが、天
峻かつ雄大で近寄り難い高山もあり、人々は、高い山
を祀る儀式は、当初の簡素なものから複雑化していっ
は天まで届いていて神霊が降下してくるものと想像し
た。秦朝以前には、天を祀るとき、高い山へ登るか平
ていた。
地に土を盛り上げて少しでも天に近づこうとし、供物
については薪で燃やす方式
(
「燔祭」
、
「燎祭」
、
「望祭」
、
「煙祭」、「柴」などと呼ばれる)
が用いられた。具体的
には、薪を組んで供物を燃やし、酒さえも干し草にか
よく雲や霧が立ち込め、また奇異な動植物も生息す
るような神秘的な山もあり、そのような山は人々にた
やすく幻想的な感覚を生じさせる。
そうした特徴的な自然により、山は人々の崇拝対象
けて燃やすことにより、様々な供物の香りを天に届け
となってきた。『山海経』だけでも
たのである。
載されており、その多くが半人半獣の姿をしている。
周代以後、『周礼』
に国都の南郊で天を祀るべきこと
余りの山神が記
例えば、鳥身竜首、竜身鳥首、人面竜身、人面牛身、
が定められた。祭祀で古いものを崇める気風が最も重
人面羊身、人面蛇身、人身竜首、人面鳥身、人面獣身、
んじられ、三代〈夏・殷・周〉
に続く王朝でも踏襲され
人面猪身、馬身竜首などとされ、太古の人々による山
たため、冬至の日に南郊で天を祀る祭祀が定着した。
神崇拝のあり方が反映されている。
天を祀るための建築や儀礼も定制となった。明代を例
①‐
(
)
雲を衝いて聳え立つ山は天に近いところであり、天
王 巍
上の神霊は山から降りて来ると想像されていた。その
げられた。また、山は地域や国家の主宰神あるいは守
ため、山は天柱や天梯と呼ばれ、山は神霊の世界、山
護神とされていたため、継承者の決定という大切な事
頂は天神がしばしば降臨する場所とされている。天は
柄も山神に託された。
高く近寄り難いため、天を祀るときは、まず天に最も
古代中国における山神の祭祀では、よく埋祭、懸祭、
近い山が選ばれる。古代中国において、天から神が降
投祭といった方式が用いられた。埋祭とは、供物を地
りて来ることで最も知られた山は、第一に東岳・泰山
中に埋める方式であり、そうしてこそ、人々が祭祀を
で、第二に崑崙山である。
行っていることを地祗
〈地の神〉
が知り、喜ばせること
『淮南子』地形訓によると、崑崙山は天帝の居所でも
ができる。こうして供物を埋める方法は、地を祀ると
あり、この山に登ると神になれるとされる。崑崙山は、
きだけでなく、山神の祭祀でもしばしば用いられる。
それ以後も神格化および神秘化され続けた。泰山も神
山神を祀る懸祭とは、供物を掛けて神に捧げることで
話上の名山であり、山の祭祀が行われていた時代には
ある。
古の人は、
供物を掛けて高く掲げれば神霊が寄っ
泰山が最も名高く、諸山の王とされている。
て来て供物を受け取る、と考えていた。もう一つの方
当初、泰山での封禅の大典は、天を祀る形式の一つ
法は
「投祭」
だが、供物を山の中へ投げ込むものであり、
であった。古の人の考えによると、泰山は天と同等で
近現代の一部の少数民族もこうした方法で山神への祭
あり、天命を受けた帝王も、
泰山で天帝への祭祀を行っ
祀を行っている。
てこそ、真の天子となり、天に代わって国や民を治め
㈤水神の祭祀
る大権が与えられる。そのため、泰山に登って行う封
水に関する主な祭祀は祈雨である。古代の中原にお
禅は、帝王の権力の象徴となった。六国を統一して莫
ける大旱魃の記録は枚挙に暇がなく、大旱魃のたびに
大な権力を手に入れた秦の始皇帝は、天帝によって権
様々な祭祀が行われ、天地山河の各所へ祈りが捧げら
威を高めようとして、天子が泰山の封禅で功績を示す
れてきたが、もちろん水神もその例に漏れない。雪解
伝統を利用するため仰々しく泰山へ向かったが、泰山
けの春と河川が結氷する秋には、それぞれ子牛と玉を
で予想外の豪雨に遭って散々であった。漢代以後は、
用いて祭祀が行われる。冬の歳末には盛大に天地を祀
漢の武帝も封禅を行ったため、泰山の地位はさらに確
るとともに、水神の祭祀も行う。
立された。
沈祭は、水神や河神を祀るための方法である。古の
山神の祭祀は、いくつかの等級に分かれる。それら
人の考えによると、水神は水の中に住むので、供物は
の等級は、封建社会初期の等級観念を様々な山脈にあ
水中に沈めなければ、水神に受けとってもらえない。
てはめたものであり、祭祀の規模、供物の数量、祭祀
そのため、奥深い淵の水の枯れないところがあれば、
者の身分などがそれぞれ大幅に異なる。
そこへ玉を投げ入れて神に祈る。殷代の甲骨卜辞には、
天子は、全国の名山・大河への祭祀の主宰者であり、
河川を祀る儀礼に関して「三羊を沈める」、
「三牛を沈
それらの祭祀はいずれも天子により行われる。そうし
める」、
「五牛を沈める」、
「十牛を沈める」
といった記
た名山を代表する五岳とは泰山、嵩山、華山、衡山お
載が見られる。
よび恒山で、中でも泰山の祭儀は最も盛大に行われ、
㈥海神の祭祀―媽祖信仰―
帝王の威勢が示される。封禅の主な特色は、華麗な儀
古代の人々は、国土の四周がすべて海であると考え
仗、煩瑣な式次第、豊富な供物である。周王朝から泰
ていた。果てしない海に対して、古の人は川よりも神
山は君主や天子が祭祀を行う神の山とされ、自らの功
秘性を覚え、彼らにとって海は理解し難い世界であっ
績を誇示したい歴代の皇帝は、いずれもここで大げさ
た故、神霊でなければ海を棲家とすることができず、
な儀式を行っている。
そこで人々は四海に神霊を創造した。
古代中国においては、各地で大規模に山神が祀られ
『漢書』
郊祀志では、海を祀る楽は天を祀るものと同
てきた。どこかで災禍が発生したときは領域内の名山
じとされ、宋・元以後、航海が次第に発展するにつれ
で祭祀が行われ、戦争に勝利したときも捕虜が山に捧
て海神信仰も発達し、沿海地方で
「天妃」
信仰が生まれ
①‐
(
)
①.中国古代の祭祀
て、天妃が海を司る神となった。天妃は元々
「媽祖」
と
きには家畜を捧げ、玉や絹織物を祭祀に供える。土盛
呼ばれ、林黙という本名が伝えられている。宋・太祖
りや築壇を行うとともに、周囲には木が植えられる。
の建隆元年
(西暦
年) 月 日に福建省莆田県湄洲
封建時代に廟堂での儀礼とされた祭祀は、時代とと
日に没した
もに時期、場所、方式などが変わり、それらが初めて
林黙は、幼い頃から聡明で向学心が強く、成人してか
定められたのは周代である。
『周礼』
大司楽では、冬至
ら巫術を身に付け、人を助けることを楽しみとし、郷
の日に天神を拝し、夏至の日に地祗
〈地の神〉
を拝する
土で誉め讃えられていた。死後、当地の人々は林黙を
よう定められている。古代の
「天円地方」
という観念に
海神として崇めるようになり、言い伝えによれば、林
基づき、人々は国都の北郊に方沢壇を建ててそこで地
島で生まれ、雍熙 年(西暦
年) 月
黙は幾度も霊験を表し、海で遭難した船を救ったため、 を祀った。地の神の祭祀は、天の祭祀と対応しており、
航海者や漁民から信奉された。元の至元年間に
「天妃」
天地を併せて
「皇天后土」
と言った。秦漢から唐宋を経
「郊祭天地」
と呼ばれる
という神号が授けられた。明代には海禁が行われたが、 て明清に至ると、地の祭祀は、
通商や外交使節のための航海が海上で行われた。海の
南郊で天の祭祀と同時に行われる祭祀か、夏至の日に
天気予報がまだ原始的であった時代、木造船での航海
北郊で地だけを祀る祭祀が行われるようになった。
『明
は極めて大きな危険を伴うため、天妃は大いに名を高
史』
によると、漢・唐の千年余りの間は、ほとんど天
めた。当時、沿海地方の港には広く天妃廟があり、大
と地の祭祀が併せて行われていたとされている。
小を問わず、船の出航前には必ず天妃廟での祭祀を
天を祀るときに南郊で供物を焼いたのとは異なり、
行って無事を祈り、船上にも香公
〈祭祀の係員〉
を置い
地を祀るときには北郊に供物が埋められた。古の人の
て媽祖への祭祀を行わせた。明・清の皇帝は、媽祖に
考えによると、地祗は地下の深いところにおり、供物
「天后」や「天上聖母」
という称号を授け、この海の女神
を地中に埋めてこそ、人々が祭祀を行っていることを
に対する信仰をさらに盛んにさせている。中国の港に
地祗に知らせ、喜ばせることができる。
天妃廟が建てられるだけでなく、華僑の移住に伴い、
社神は、戦争と切っても切れない関係にあり、勝利
日本、朝鮮、インドネシア、シンガポールなどに止ま
の栄光を分かち合うとともに、敗北の屈辱も共に受け
らず、欧米諸国にさえ媽祖廟が建てられ、媽祖は世界
なければならない。戦争に勝利したときは、社神の前
的な海神となっている。埠頭や港湾における媽祖の祭
で盛大な祭祀を行って捕虜を献上する。捕虜を殺して
祀は、その地で最も熱心かつ盛大な儀式の一つと言え
その血を捧げる場合もあり、社神はその美味を大いに
よう。有名な天津の廟会も媽祖を祀るもので、人々が
楽しみ、引き続き人々を戦争へと駆り立てた。一敗地
様々な人物に扮して、媽祖の塑像を担いだ行列が賑や
にまみれた君主と社神は、共に辱めを受ける。その場
かに街を練り歩き、数々の出し物が演じられる。その
合は君主は捕虜となり、
「社」
も破壊の憂き目を免れな
際には、地方の官吏も祭祀に参加する。
いのである。
また、農業を司る神霊である后土神は、土地の産出
㈦土地神の祭祀
土地神は、時の流れとともに発展してきた。まず地
物である穀物の神と併せて祀られている。農作物と土
母が社公〈土地神の一種〉
に変わり、
「社」
は、土地自体
地をともに代表する存在として祀られる
「稷」
は、周代
でなく、土地の主を指すようになった。土地神を祀る
から崇められてきた神霊である。
ことこそ、「社」の祭祀なのである。
㈧祖先祭祀―中国における最も中心的な祭祀―
「社」の具体的な祭祀形式については資料が少ないが、
おそらく土盛りと築壇の
種類があったと思われる。
.祖先祭祀の地位
祖先祭祀は、古代中国の社会生活における大事であ
古代には、新たな土地へ移って国を建てるとき、さら
り、祖先は、古代中国で最も主要な崇拝対象であった。
には村落を作るときにも、
「社」
を建てて祭祀を行う必
皇帝においても、祖廟の祭祀を天地・社稷と並立させ
要があった。これこそ
「邦国を建てるとき、先ず后土
て三大祭祀の一つとしている。民間では、大きな一族
〈土地神〉
に告げる」
という言葉の意味であり、そのと
①‐
(
)
は祠堂を建てて族譜を作り、小さな家では位牌を立て、
王 巍
字輩〈親族関係を示す名前で共有する文字〉
を設ける。
屍とは生きた人を死者の代わりとして祭祀を受けさせ
古代中国では、社会全体が宗法に基づいて統治され、
ることである。立屍と位牌は、いずれも近い時期に逝
祖先祭祀の霊光に照らされながら発展してきたのであ
去した貴族への祭祀で用いられる。身分に応じて要求
る。
される祭祀は、死者を敬っているか否かの証しであり、
古代中国の祭祀は、霊魂不死の観念を前提としてい
死者の子孫が持つ権力を示すことにもなる。
る。古代には、人の死後にも霊魂が存在すると考え、
周代には階級が重視され、君主の死は
「崩」
、諸侯の
身体を離脱した霊魂を
「鬼」
と呼んだ。祖先が家庭や集
死は
「薨」
、大夫の死は
「卒」
とそれぞれ呼ばれ、平民で
団を離れても、祖先の霊魂は、常に人の世を行き来し、
ようやく
「死」
となる。君主が逝去すると必ず位牌が作
子孫を見守っていく。必要があれば、生前の姿で現わ
られ、死者の位牌は祖廟で祀られた。死者の位牌を
れたり、夢に出てきたりして、子孫に警告を与える。
つだけ立てて行う祭祀は、新たな死者への特別な礼遇
この霊魂不死という考え方は、かつての中国では広く
であり、
「特祀」
と呼ばれた。それ以後は祖廟の中で他
認められていた。死んだ人の霊魂は、なおも仇敵に報
の祖先とともに祀られるのだが、その前に、諸侯へ訃
復したり、恩人に恩返ししたりする能力を持ち、その
報を知らせ、埋葬の後に祖廟のところで大声で泣いて
姿や声は生前と同じとされた。
から、新たな位牌を祖先の位牌とともに安置し、それ
.祖先祭祀の確立
でようやく葬儀の全過程が終了する。埋葬の時期や葬
厳粛かつ熱烈な雰囲気で行われる祖先祭祀は、奴隷
儀の場所についても、具体的に定められている。すな
社会の時代から確立されていた。
商・周時代の祖先祭祀では、主に他部族の捕虜が生
わち、天子は逝去の
カ月後に埋葬され、全諸侯が葬
儀に参列し、諸侯の場合は
カ月後に埋葬され、同盟
贄として捧げられ、祖先は部族共通の祖先という意義
している全諸侯が葬儀に参列し、大夫の場合は
をもっていた。祖先祭祀は、同族の結集、子孫の激励、
後に埋葬され、同じ官位の者が葬儀に参列する。諸侯
子孫の地位確立といった役割を果たした。血縁の親疎
の葬儀では、異姓の者は城外で哀悼の意を表して泣き、
や身分の貴賤は、祖先との関係に応じて決まり、それ
同姓の者は宗廟で、同じ宗族の者は祖廟で、同族の者
は祖先祭祀の中にも反映された。周代には、祖先祭祀
は父廟で哀悼の意を表した。死者へ哀悼の意を表した
は貴族の特権にもなっていた。国王は、先祖代々に対
り、葬儀に伴う贈り物を渡したりすることは、埋葬前
する大祭を毎年
に行う必要があり、そうしなければ礼節に反し、死者
回行えるが、ずっと血縁を遡った、
伝説中の部族の始祖を大祭の主要対象とし、自らの血
カ月
に対する不敬となった。
縁に属する祖先も併せて祀ることができる。それより
祖先祭祀は、宗族や親戚をまとめる手段である。同
階級が低い諸侯は、伝説上の象徴的な遠祖まで遡るこ
宗の者による祭祀は心情的な繋がりを強めるし、親戚
とができず、初めて諸侯に封ぜられた代の祖先までの
には供物の肉を分配した。
祭祀しか行えない。
士・大夫階級の者は自らの高祖
〈祖
父の祖父〉
までしか祀れず、庶民以下の者については
言うまでもないが、祖父の代までしか遡れず、それ以
周代には、祖先祭祀は様々な名目で極めて頻繁に行
われ、四季に応じて定例的な祭祀が年に
回行われた。
『礼記』
王制には「天子・諸侯の宗廟の祭は、春を礿と
上の祭祀は許されなかった。このように、地位が高く
曰い、夏を禘と曰い、秋を嘗と曰い、冬を蒸と曰う」
て権勢のある者ほど、その祭祀の名目は多く、祖先祭
とあり、鄭玄の注釈によると、これらは夏代と殷代に
祀は身分の証しになるため、政権存立の象徴ともされ
おける祭祀の名称と思われる。周代になると、春の祭
た。王朝が打倒されると、概ねその宗廟や社稷は全て
祀が
「祠」
、夏の祭祀が
「礿」
と呼ばれるようになったが、
破壊し尽くされるが、それを
「絶祀」
や
「夷宗廟」
と言い、
秋と冬の祭祀については変わらない。
『春秋左氏伝』で
国家滅亡の代名詞ともなっている。
は、
「禘」
、
「蒸」
、
「嘗」
という
種類の祖先祭祀方式が
.立屍と位牌
述べられている。秋冷を迎える頃に嘗祭を行い、新た
位牌とは死者の名前が書かれた木製の札であり、立
に醸した酒を祭祀に供える。秋に穀物を収穫した後、
①‐
(
)
①.中国古代の祭祀
祖先に新しい穀物を捧げて、新しい米や酒を味わって
てくる。祖先祭祀という行為も同様で、習慣になって
もらうのだ。こうした祭祀は、今でも多くの少数民族
しまうと、衆に従う心理が芽生え、行為が形式化して、
により行われている。
「蒸」
とは本来薪を指し、祭祀の
祖先祭祀や墓参りをしないことが許されざる特殊な行
名称で使われる「烝」
は
「蒸」
にも通じる。虫が冬眠する
為と見られ、批判の的とされてしまう。封建社会では、
厳寒の頃に薪を焚き、供物の肉を蒸して器に盛ること
不孝が罪として懲罰の対象とされ、そうした環境下で
は、祖先に冬を越すための栄養を付けてもらう、とい
は、人の心情を表す方法が固定化するだけでなく、そ
う意義がある。禘祭は、祖廟で行う大規模な祭祀であ
の表現方法が内的心情を凌駕して単なる定例行事と
り、夏の穀物収穫後に行うことが多く、歴代の祖先が
なってしまう。祭祀が内的心情より優先されて、すべ
すべて祀られる。禘祭では
「禘楽」
と呼ばれる特別な音
ての家で遵守されるべき一種の
「規則」
となってしまう
楽が奏でられ、春秋時代の魯国には禘楽が伝承されて
のである。
いた。その他、新たな死者を祀るための「特祭」
や
「安
定例の祭祀とともに、無病息災のために臨時祭祀も
行われる。古代中国では、人が病気になったり、家で
神祭」の名称もみえている。
.弔いと厄除けを目的とした民間祖先祭祀
災いが起こったりするのは、亡くなった親族の霊魂が
祖先祭祀は、民間で幅広い基盤を持っている。平民
祟りをなすからであり、何らかの願いが満たされない
は曾祖父や高祖までの祭祀しか行えず、最も頻繁に祭
か、祭祀が行き届いていないために霊魂が怒り、子孫
祀を受けるのは亡くなった父母や祖父母である。
に災厄をもたらすという考え方が広く信じられていた。
亡くなった親類の祭祀を行う最も基本的な理由は情
霊媒師も、病気の原因についてこのように説明するこ
愛によるものである。祭祀者にとって、父母や祖父母
とが多い。こうした事態に直面すると、病人の親族は、
は長きにわたり生活を共にした存在であり、生前に受
霊媒師から伝えられる死者の要求に無条件で応じよう
けた様々な労りや思いやりなどの記憶が強く残ってお
とするため、往々にして規格外の色々な祭祀を行い、
り、苦労しながら育ててもらった恩は忘れ難い。そう
衣服や紙銭を燃やして霊魂を慰めたり、願いを叶えた
した存在と死に別れて二度と会えなくなり、恩返しが
りする。また、病気が治ってからは、再び墓参りした
できなくなると、心残りのため穏やかではいられない。 り、正月や節句に霊魂を呼び戻して飲食させたりなど
特に、親族が亡くなった後に自らの生活水準が向上し
もする。無病息災以外の目的で臨時祭祀を行う原因と
たり、親族が苦労しながら短命で亡くなったりした場
して、最も多いのは
「夢」
である。主に生活を共にして
合、生きている者の悲しみはさらに抑え難い。そのた
いた親族が夢に出てきて、餓えや寒さを訴えたり、屋
め、死者と心を通わせ得る祭祀は、亡くなった親族に
根の雨漏りなど一般家庭でよく生じる問題を伝えたり
恩を返し、その者を懐かしむ方途と言えよう。正月や
するのだ。夢を見た人は、それが亡くなった親族の所
節句に一族が集まり祖先祭祀を盛大に行うのは、祖先
為であり、信じるべき真実であると思い込む。古代の
を家に呼び戻して子孫たちと語らわせたり、酒食を楽
人はそのような夢を見たとき、貧富・貴賤を問わず、
しませたりし、生きている者が亡き祖先を忘れていな
亡くなった親族の願望を満たすため、様々な形式の祭
いことを示す行為なのである。清明節や
日の鬼
祀活動を行った。人々の考えによると、亡くなった親
節などに墓へ参り、墓の手入れをして、墓前で祭祀を
族が夢に出てくるのは、その霊魂が助けを求めている
行えば、自らの義務を果たしたと感じ、亡き親族もそ
からであり、子孫として死者を助けることは免れ難い
れを喜んでいると信じることができる。こうした行為
義務である。古代には、これこそが
「孝心」
と呼ばれた。
の本質は、親族同士で生死の境を越えて心を通わせた
そうした夢を無視して義務を果たさなかったら、必ず
いという願望が、祭祀によって具現化されているもの
霊魂の怒りを買い、生きている者が急病になったり、
であり、自己満足とも言えるが、このような祭祀を支
家畜が急死したりするのである。古代中国における霊
える本質的な力は心情からくるものなのである。しか
媒師の重要な役割は霊魂との意思疎通、つまり霊魂の
し、ある行為が習俗になってしまうと、拘束力が生じ
言葉を伝えることであった。祖先もまた、霊媒師がい
①‐
(
)
月
王 巍
ることにより絶えず祭祀を受けられたのである。
上記のように、祖先祭祀は古代中国において最も主
要な祭祀であった。中国の宗法社会では、祖宗の法に
より各種の家法が形成され、国家の法規から独立した
慣習法となっている。祖宗の祠堂は、宗族の大事を処
理したり、同族の団結を図ったりする重要な場所であ
る。歴代の統治者は、孝による天下の統治を強調し、
志ある者が治国と天下泰平を至高の目標としつつ、そ
の最も主要な基礎として家をきちんと治めるべきこと
を強調している。そして、家を治めるうえでは親に孝
行して祖先を敬うことが重要な基準であり、祖先祭祀
は各階層・各一族で最も重要な儀式なのである。様々
な賞罰は、すべて祖先祭祀の名目の下に行われる。数
千年を経て、その他の神霊祭祀は簡略化されたり、消
滅したり、仏教や道教に取り込まれたりしたが、祖先
祭祀だけは、何千年経っても衰えず、その中に今日で
もなお過去のあり方の名残を探し求めることができる
のである。
①‐
(
)
Fly UP