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Page 1 Page 2 第131巻 第2号 平成16年 (2004年)2月号 (92) 《研究
Title Author(s) Citation Issue Date Type ブランデンブルグにおける十八世紀半ば以降の農業技術 改革と農民開放 山田, 篤史 一橋論叢, 131(2): 182-199 2004-02-01 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/15219 Right Hitotsubashi University Repository 一橋論叢 第131巻 第2号 平成16年(2004年) 2月号(92) ︽研究ノート︾ 放が国家によって着手されたという理解がなされている。 一方経済史の文脈においては'農民解放は農業における封 建制から資本主義への移行の問題との関連で議論される。 封建制のもとにおける農民経営は'労働地代としての既役 を提供するなど債主経営に対して従属的立場におかれてい ブランデンブルクにおける十八世 紀半ば以降の農業技術改革と農民 一八〇七年に始まるシュタイン・ハルデンベルクの改革以 おいては領主1農民関係が法的根拠を持つようになるのは 義務関係が解消される過程が問題視された。プロイセンに 議論されてきた。そこでは領主と農民との相互間の権利・ 土地保有形態へ世襲隷民性へ領主裁判権などの ﹁解放﹂が イセンあるいはブランデンブルクに限ってみても十八世紀 の地域においては緩慢であったという認識が一般で'プロ フランドルへ イングランドなどに顕著であり'エルベ以東 もたらされたことは確かである。ただその傾向はオランダ、 りわけその半ば以降に、農業生産力における急激な増大が ヨーロッパ全体を視野に入れるならへ十八世紀中に、と 農民解放が進行した十九世紀が中心であった。 た。ここでも考察対象となる時期は'プロイセンにおいて が、旧来の諸制度を解消することとなった農民解放であっ の成立へと至る。この移行のきっかけとして注目されるの 金労働者を雇用することで運営される資本主義的農業経営 経営との分離が生じへ賦役に代わる新たな労働力となる賃 たが、近代に入ってその関係が解消され、農民経営と領主 山 田 篤 史 解放 J はじめに 農民解放という言葉はクナップの著書において始めて使 (-) 降である。そのため農民解放をテーマとする研究の多-は 中の農業発展への言及は限定的でしかなかった。しかし一 われて以来、主に農業制度的側面に焦点がおかれ'賦役へ 1八〇七年以降の時期を対象にその進展状況を分析するも 九六〇年代にW・ア-ベルが十八世紀における農業生産力 (2) のであり、そこでは十九世紀初頭に至ってようやく農民解 182 (93)研究ノ-ト イセンでも生産力の発展が見られたという認識が共有され の農場を中心に限定的であったとはいえへ十八世紀のプロ の発展を認めてからは'開明的なグーツヘルや王領管理人 議論されていないように田心われる。そこで本稿では-ユ 解放へとつながったのかというその連続性の問題が十分に 結果としての生産性の向上が'いかなる意味において農民 改革と農民解放との関係へ換言すれば農業技術改革とその (3) るようになった。ブランデンブルクにおいてその発展の様 ラーの議論に基づきながら農業技術改革がどのようなプロ そうした技術改革を通じて生産の発展を担った主体がどの 来品種などの新技術の導入があったことを指摘したうえで、 生産力の増大の背景に'集約的な土地利用、改良農具、外 農業生産の拡大に果たした役割を指摘している。彼は農業 ンデンブルクを対象として'ここでの農業新技術の導入が ミュラーは﹁農民解放﹂が始まる一八〇七年までのブラ への前提条件を準備したという文脈において十八世紀中の 賦役の軽減・廃止へ領主-農民関係の解消など'農民解放 なったという点を明確にし、まさにそのことが経営の分離へ 農業改革がこれら旧来の農業制度に直接変容を迫ることと 同放牧、耕地強制といった農業制度の側面にも焦点をあてへ という点においてのみ見出すのではな-、耕地混在制へ共 を確認するとともにへ技術改革が持つ意味を生産性の向上 (4) 子を'統計やその他の史料をもとに明示的に明らかとした セスを経て農業生産力の増大へと結びついたのかという点 ような階層であったのかということを議論の中心にしてい 農業技術改革を意味づけうることを新たに指摘することに (5) のはH・H-エラーである。 る。そこでは技術改革を担った階層の中心が開明的なグー したい。 農民の発展への寄与を評価しようとする-ユラーの問題 位置するブランデンブルクにおいて、種々の農業技術改革 プロイセンの中でも首都ベル-ンを取り巻-中核地域に 二 十八世紀半ばまでの土地利用形態 ツヘルや'主に市民層出身者からなる王領または騎士領管 理人にあったと指摘される。それと同時に農民層が生産力 意識からは'十八世紀後半の農業技術改革が生産性の向上 が見られるようになるのは十八世紀半ば以降のことである。 の向上に果たした役割も高く評価された。 に果たした意味がとりわけ強調されるばかりで、農業技術 183 一橋論叢 第131巻 第2号 平成16年(2004年) 2月号(94) れに当てられた。この共同放牧の場所や期間の取り決めに 常に一定の放牧地が必要でも 休閑地や収穫後の耕作地がそ 占めるにすぎなかった。そのため家畜を保持するためには であり、牧草地は全-ないかへ あっても共同地の1部分を 態を占めていたのは三間式農法であった。穀物栽培が中心 ブランデンブルクで十八世紀半ばまで主要な土地利用形 放牧しなければならなかった。領主経営は農民賦役に基づ を提供し'領主の家畜とりわけ羊を自ら経営する耕作地に 属的な立場に置かれていた。領主経営に対しては賦役労働 とはいえフーフェ農民も領主経営に対してはきわめて従 フ-フェ農民が、コッセ-テン以下の農村下層民に対して : o : 経済的にも権利の上でもとりわけ優位な地位を占めていた もつ用益権を制限または排除された。村落農民層の中では これに対し'フ17ェの一部を保有するにとどまるコッ おいては農民相互の話し合いが必要であり、耕作地は各農 -穀物生産と農民地における家畜の放牧とに基礎を置き成 その農業技術改革の特徴がいかなる意味を持ったかを明確 民経営用に細長い地条に細分化されへ それらが混在してい り立っておりへ領主経営地は農民経営地と分離して存在す セ-テンや'フ-フェを全-保有しないアイン--ガ-と たので穀物栽培にあたっても播種や収穫の時期を取り決め る場合もあったが、領主経営地も農民経営地との混在制の に理解するためにも'農業改革以前における農業経営の実 る必要があった。三園式農法のもとにあっては耕地混在制 もとにある場合も珍し-なかった。したがって三園式農法 いった農村の下層民は'フ-フェ農からなる耕作共同体の と耕地強制を基礎とした耕作共同体が存在し、それらに基 と耕地混在制のもとでは個々の農民が自らの経営地を改良 状を確認してお-必要があるだろう。 づく種々の規制および制約によって農業経営の生産性は著 し生産性を高める機会を持たなかったばかりか'領主経営 S 3 . し-制限されたものであった。農民層の中核は、フ-フェ 地においても独断で土地改良や生産方式の改良を行うこと ブランデンブルクは全体的に土質が悪く'生産性に乏し (8) と呼ばれる正規の耕作地と居住区を保有するフ-フェ農民 は困難であった。 心となって耕作共同体が構成され'農業経営にかかわる い砂地が多い。ブランデンブルク全土の約半分の土地が穀 (9) (いわゆる完全農民) であったがへ このフ-フェ農民が中 諸々の用益権はフ-フェ農によってほぼ独占されていた。 184 (95)研究ノ-卜 を利用したライ麦栽培地にまで施肥するだけの堆肥が確保 あったが'荒蕪地に近い地味の劣る外耕地 (AuBenfeld) 大麦や小麦の栽培には家畜の堆肥による施肥が不可欠で は、定期的に三年周期で一巡しない場合も少なくなかった。 た土地であった。そのためブランデンブルクの三園式農法 物栽培や牧草地としてはわずかな生産性しか持たないやせ 両地ともにライ麦が栽培されたためへ これを一園式農法と イマルクのコトブス郡ではライ麦栽培が中心で'しばしば 地利用形態はノイマルクやクールマルクに見られたが'ノ に他方を冬穀栽培地に利用する場合とがあった。後者の土 培に利用し他方を休閑地とする場合と、1方を夏穀栽培地 た。二園式農法では全耕作地を半分に分けへ一方を穀物栽 開しえず、より粗放的な二圃式農法やl圃式農法が行われ 0=0 される場合はきわめて珍し-'ライ麦栽培地はしばしば一二 呼ぶことができる。 ( S 3 年おきに耕作されるにとどまりt より地味の悪いところで ブランデンブルクでは穀物栽培に利用してきた土地が長 (2) は六年へ 九年へ 十二年おきにしか耕作されなかった。その 割を果たしてきたそれらが消滅したことで耕作地が砂地化 年の環境変化で砂地化する場合も珍し-なかった。森や薮 このようにブランデンブルクの土地・気候条件に基づく してしまう場合がしばしばあった。そのため農民たちは松 間は放牧地として利用され'生産力の自然回復と放牧中の 制約は'低い穀物生産性のみならず牧草・放牧地の低生産 を植林して耕作地の砂地化を防ごうとした。それでも砂地 を切り倒し開墾された土地においては、防砂林としての役 性をも規定したため、家畜の飼料不足と厩肥不足に直結し、 化してしまったところでは三園式農法を諦めざるをえず' 排植物による﹁施肥﹂効果が図られた。 その結果として穀物栽培地への施肥を全く不十分なものに 二園式農法へと後退する場合さえあった。 十八世紀半ば以降、ブランデンブルクの農業経営に種々 三 十八世紀半ばに始まる農業技術改革 (2) した。そこで﹁ライ麦栽培地﹂においては長期の休閑を作 り出し粗放的な放牧地とすることでも堆肥の不足分を補お より地味の悪い砂地の場合は施肥しなければ植物栽培自 の新技術が導入されていった。農業新技術には三園式農法 うとしたのである。 体が不可能であった。そうした場所では三園式農法すら展 185 一橋論叢 第131巻 第2号 平成16年(2004年) 2月号(96) 験的に導入された。ブランデンブルクの慢性的な低生産性 農法へ 輪栽式農法などが多-の騎士領・王領地において試 態についてみれば'改良三園式農法へ 四圃式農法へ穀草式 品種の導入などがあった。集約的農法としての土地利用形 に代わる集約的農法のほかへ改良農具や外来作物へ 高生産 内外の穀物需要の増大は'国王および騎士所領経営者に対 市と水路によって結ばれているブランデンブルクにおいて' 首都ベルリンを抱えへ北部にはハンブルクやバルト海諸都 紀が進むにつれて都市の穀物需要は増加の一途をたどった。 地域でも手工業の発展や都市人口の増大によってへ十八世 こうした社会経済的背景のもとで、騎士領所有者や王領 して輸出用穀物の生産増大への大きな刺激となった。 あった。新農法はいずれも牧草や休閑作物の導入によりこ 地管理人のなかにはイギ-スやオランダの農業新技術を導 を改良するためには、何より肥料不足を解消する必要が の問題を改善することを可能とした。以下では新技術の導 入し生産様式を改善することでも経営の拡大を試みようと か穀物栽培されない耕地に飼料用の牧草を栽培することを 入がそれぞれどのような意味で農業生産力の増大に結びつ 土地利用形態の変化を促した背景には、人口の増加や手 奨励したほか、イギリス式農法の導入に積極的で王領地管 する者が少な-なかった。この傾向は、軍事・財政の面で 工業の発展にともなう内外の穀物市場の拡大があった。西 いたのかへ また農民解放とのかかわりにおいては耕地混在 ヨーロッパへ とりわけイギ-スやオランダにおける資本主 理人の子弟をイギ-スに派遣してへ その技術がプロイセン G) にも導入しうるかどうか実験報告させるなどしている。農 農業生産力の向上に深い関心を持つ国王フリード-ヒ二世 義の発展は'膨大な穀物需要を生じさせただけでなくへ 封 政にかかわる訓令の中では'家畜の堆肥による効果的な施 制と共同放牧の解消という問題とどのように関係していた 建的な領主-農民関係に基づ-農業生産の仕組みを根底か 肥の方法を示したり'各地の経営状況を巡察して時には王 によっても支持された。国王は三年、六年、九年に一度し ら覆すこととなった。こうした﹁先進地域﹂ の農業生産に 領地管理人の免職という手段も用いて経営の改善・向上を のかということを具体的に確認することにしたい。 倣う形で'ブランデンブルクの農場にも新たな農業技術が 要求したりした。 (2) 導入されることになった。西欧の穀物需要に加え、ドイツ 186 (97)研究ノート 作物の導入によって休閑地はその意義を失うことな-牧 すことなく作付けすることが可能であったからへ こうした バーなどの牧草や中耕作物は夏季に深耕した直後に溝を壊 て枯死させることに主要な意義があった。ところがクロー 部に残る宿根性雑草の根茎を烈しい太陽光のもとにさらし 地を休ませ何もしないわけではな-'夏季に深耕し土中深 やめ耕地を休ませることにあるが'休閑といってもただ土 り消費した地力を回復させるために三年に一回穀物栽培を 回式農法のもとでの休閑地の意味は、穀物の連続栽培によ 耕作物が休閑地に栽培されるようになったことである。三 バー、ルーサンなどの牧草や'カブへ ジャガイモなどの中 が徐々に進行することとなった。改良の要点は'クロー その結果ブランデンブルクの大部分で三園式農法の改良 あった外耕地の穀物生産の増大へ その結果としての四圃式 つながった。堆肥不足の改善は'三年から十二年に一度で 入したりといった方法も用いられへ この結果堆肥の増産に 酒造の残りかすを飼料として用いたり'高品種の家畜を輸 られ干草として家畜の飼料に利用された。このほか麦芽や が飛躍的に高まった。ルーサンはしばしば年に五回刈入れ なかでもとりわけルーサンの栽培によって家畜の堆肥生産 圃場で飼料作物を栽培するというものである。飼料作物の なわち全耕作地を四囲場に分割し、三圃場で穀物栽培へ一 改良三園式農法はしばしば四圃式農法へと移行した。す りへ農業生産の一層の増大のためには障害として機能した。 うした制度は依然として取り除かれることな-存在してお 耕地強制や耕地混在制に変容を迫るものではなかった。そ のもとでの本質的な特質を示していた農業制度へ すなわち 休閑作物は家畜の飼料としての価値が高いためへ その普 の三分の二が穀物栽培に利用されたのに対し、四開式農法 農法への移行を可能とした。三開式農法の場合に全耕作地 (2) (2) (S) 草・飼料栽培地としての利用が可能となったのである。 及によって畜産が盛んになるとう今度は厩肥の生産量が増 では土地改良によって全耕作地の四分の三が穀物栽培に利 四囲式農法はイギ-ス式農法に従う場合もあった。ブラ (2) 大し堆肥施肥による耕作地の改良も進む。耕作地の改良に 用されるようになり'生産性の向上は顕著であった。 うした循環を通して改良三園式農法の導入は農業生産力を ンデンブルクではすでに一七六七年にカメケ伯の所領にお ( S ) よって再び穀物および飼料作物の生産が高まるという、こ おおいに高めることとなった。しかしそれは'三園式農法 187 一橋論叢 第131巻 第2号 平成16年(2004年) 2月号(98) メケ伯領の場合は市民層出身のブラウンに所領の管理が委 ( S ) たがへ ブランデンブルクでは特にこの傾向が強かった。カ 賃貸契約によって所領経営を委任する場合が少なくなかっ ると貴族所領は貴族自らが経営に携わることが少なくなり、 いてイギリス式農法が導入されている。十八世紀後半にな 分を埋め合わすことができるだけの生産増を期待できると カメケ自身は国王への報告書の中で'三年後には初期投資 するため導入を席捲する農場経営者も少な-なかったが' だへ新農具の導入は初期投資の段階で多額の費用を必要と し共同体規制を軽減する可能性を閲-ものでもあった。た とができるようになった。そのうえ地条型の耕作地を解消 とによってその優位性を明確に示すことに成功した。その はカメケ伯領での経営改善の成功をうけち イギ-ス農法の イギ-ス式農法は王領地にも浸透した。先述のブラウン 1 h ' t ) 託された。このブラウンはイングランド出身でも 彼はイギ の見解を示している。 優位性は領主カメケによっても強-認識され'彼によって 普及に関心をもつ国王フリードリヒ二世に認められ'一七 3町E リス式農法をブランデンブルクのカメケ伯領に導入するこ 国王フリード-ヒ二世宛てに新技術導入の実験結果を報告 六九年に王領地-ユーレンペックの経営を委ねられた。多 ギ-ス製新農具の導入によっても生産性の増大を図ること ウンはイギ-ス式農法による土地利用形態だけでな-'イ ることな-、穀物と飼料作物とが交互に栽培された。ブラ ノーフォーク農法の特徴に合致する形で穀物栽培が連続す ローバーと豆類1ライ麦と小麦﹂という形で輪栽が行われ、 それによると'ブラウンの経営では﹁カブ1大麦1ク あげたが'イギ-ス式農法においても依然として耕地強制 にしようと意図していた。その目標は実際に一定の成果を が増大することで'個々の農民の担税能力を安定的なもの リードリヒ二世はイギ-ス式農法の導入により農業生産力 地でイギリス式農法の導入が普及することとなった。フ 農法を学びへ その結果一七七〇年から七一年にかけて王領 -の王領管理人が王命に従いブラウンのもとでイギ-ス式 ( K ) する書簡が提出されている。 に成功した。新型の撃は軽量でありながら地中深くまで耕 と耕地混在制が除去されることはなかった。そのため農業 (8) 作することが可能であった。それによってこれまで十分活 生産力のさらなる発展と農民経営の一層の安定にはこれら ∴ : ) 用されてこなかった深部の養分を作物の育成に活用するこ 188 (99)研究ノート の旧来的な制度の廃止が問題化することになる。経営拡大 を狙う所領経営者の多-が賦役労働の非生産性を認識して 同体的性格が弛緩し経営の個別化が進行したことを意味す tO (﹂) もたらすきっかけとなったのは穀草式農法である。それは 農業生産力の増大だけでな-農業制度に根本的な変革を から分離していたところでは問題な-領主経営地における なった。またへ すでに領主経営地が農民経営地との混在制 地や刈跡地での共同放牧の必要性からも解放されることと コッペル農法導入の結果、旧来の制度であった耕地混在 ブランデンブルクでは北部で隣接するメクレンブルクから コッペル農法への移行が生じえたがへ領主経営地が農民経 おりへ 領主経営と農民経営との分離(Separation) への コッペル農法という形で導入された。コッペル農法の最大 営地との耕地混在制のもとにある場合には、コッペル農法 制と耕地強制の解消がしばしば引き起こされた。耕地を穀 の特徴は'耕作地と放牧地を区別することな-農地全体を の導入が契機となって領主経営地の分離がもたらされる場 要求が国王や領主経営者の問で高まっていった。そればか 七から一〇前後の区画に分割し、それぞれで穀物栽培と牧 合があった。さらに、それと同時に農民経営地においても 物栽培と牧草地・放牧地の両方に利用し'また有用な飼料 草・飼料作物栽培とが数年の周期で輪作されることである。 耕地の交換分合が行われへ農民経営地でもコッペル化が進 りか農民経営者の中でも生産力の増大を受けて富を蓄積し すなわち同lの土地で穀物が数年問栽培された後にへ続- 行し、個々の農民経営地の囲い込みによって耕地混在制が となる休閑作物の導入の結果へ家畜を一年中厩舎で養育す 数年間は牧草その他の休閑作物の栽培が行われへ その後再 解消される場合があった。したがって完全にコッペル農法 た富農層を中心に、一層の経営拡大を図るためへ 旧制度の び穀物栽培へと繰り返し利用される土地利用形態である。 に基づいて経営が行われた場合には'耕地混在制はもはや ることが可能となりへ恒常的な放牧地が不要となりへ休閑 この農法への移行は'三園式農法時の穀作生産から牧草栽 存在せずへ共同放牧も不要となりへその結果、耕地強制か 解消や経営の分離を要求する場合があった。 培・養畜へと生産の比重が移動したことを意味する。同時 らの完全な解放へとつながることになる。 ( S ) に地条型の耕地は統合され'区画にまとめられ'農業の共 189 一橋論叢 第131巻 第2号 平成16年(2004年) 2月号(100) ペル農法の普及は一般にホルシュタインからメクレンブル ル農法の普及はメクレンブルク式が一般的であった。コッ ペル農法が普及し'ブランデンブルク全体で見てもコッペ ( S ) あった。ウッカーマルクでも後にはメクレンブルク式コッ その際のコッペル農法はホルシュタイン式コッペル農法で ルクでコッペル農法が行われていたことが確認されるが' ブランデンブルクでは一七六四年にはすでにウッカーマ れていたのが特徴である。これに対しブランデンブルク南 るコッペル農法は穀物生産と飼料生産とが同程度重要視さ た。ここに示されるように'ブランデンブルク北部におけ こでも穀物栽培区画と牧草栽培・放牧区画とが同数であっ ウッカーマルクの騎士領でもコッペル農法が導入され、そ 休閑作物が栽培されへ 五区画が肥育用の牧草地とされた。 区画でライ麦へ 三区画で大麦とカラス麦へ一区画で豆類と 年コッペル農法が行われへ 二のコッペル区画のうちへ 二 (3) クを経てブランデンブルクに広がったと理解することがで 部ではコッペル農法が独自に改良された。ここではカブや マルク式コッペル農法は十八世紀末になるとブランデン ( g ) きる。ホルシュタインでは分割され一〇前後の区画はそれ ジャガイモなど中耕作物の栽培により比重がおかれた。中 特徴を示した。ここでは区画もほとんどの場合生垣で囲ま ブルク北部にも普及する。既述したようにブランデンブル ] ぞれクニックスと呼ばれる生垣で囲まれ、穀作より畜産に 耕作物はホルシュタインおよびメクレンプルク式コッペル れなかった。牧草としては主にクローバーが栽培されへ生 クには全体的に砂地が多くへ そのためクローバー栽培に不 7 比重をおいたものであったが、メクレンプルクでは当地の 農法ではほとんど栽培されなかったものであった。この独 産性の高い牧草栽培の結果へ畜産の改良と堆肥の増産がも 向きなことへ反対にカブやジャガイモは砂地での栽培が適 , 気候・土地条件に適合する形に改良された結果へ区画は七 自の農法はマルク式コッペル農法と呼ばれる。 たらされた。豊かな堆肥は耕作地の改良を促進し'穀物生 していること、こうした事情がブランデンブルクで独自の 1 つが主流となりへ畜産に比べ穀作により比重をお-という 産は一般に二〇から三〇パーセント増大したといわれる。 コッペル農法が生み出され'広-普及した原因であったと (32) ブランデンブルクでは当初北部においてコッペル農法が 考えられる。カブへ ジャガイモ、キャベツなどの中耕作物 叫叛E 普及した。ルピン地方の騎士領メ-ゼベルクでは一七五〇 190 (101)研究ノート 最も集約的な土地利用形態としての輪栽式農法も十八世 肥料にして土質を改善することによってへ全体としては栽 ( S ) め、牧草以上に耕地の生産力向上に寄与するものであった。 紀の終わりまでにブランデンブルクに導入された。その特 は干草とするクローバーの代用に栽培されたが'それらは コッペル農法は十八世紀の末までにブランデンブルクに 徴は先にも触れたように'穀物栽培が連続して行われない 培量を減らした分を補填する以上に穀物生産の増大がもた 普及したがへ とりわけ王領地ではその導入が顕著に見られ ことであるが'それと同時にコッペル農法で一部残存した 栄養価が高-家畜の飼料としてクローバーに劣らない価値 た。オラニエンブルク王領管区では十八世紀半ばから一七 休閑地としての利用が完全に廃止されるに至ったこともま らされたのである。 七〇年までに一二圃式農法の改良が進行Lへ 1七七一年から た注目すべき特徴である。これによって共同放牧は完全に を有したばかりか'栽培中の中桝が除草に有益であったた 一七七九年にかけてイギ-ス式農法が行われたが'一七八 廃止されて経営の個別化が進みへ耕地共同体による規制か して休閑作物の栽培へ五区画が穀物栽培へ 四区画が牧草栽 農法が導入されたO ここでは二区画中二区画が休閑地と ハウゼンにおいても一七八一年に後任者によってコッペル ラウンによってイギ-ス式農法が導入された管区シェーン ルクのコッペル農法の特徴を示している。l七七二年にブ に始まる新しい土地利用形態の導入や生産性の高い飼料作 とになったと理解することができる。つまり十八世紀後半 を阻害していた旧来の諸制度は根本的な変容を迫られるこ 耕地混在制、共同放牧へ 耕地強制といった集約的農業生産 がきっかけとなって耕地の区画化や休閑地の廃止が進行Lへ 以上見てきたように'コッペル農法や輪栽式農法の導入 ( S D 〇年になるとコッペル農法へと移行した。コッペル区画は らの完全な解放が実現されえた。 (m) 穀物栽培が四区画へ飼料栽培が四区画でありプランデンプ 培に利用された。このようにブランデンブルクにおける 物の導入が農業生産力の飛躍的な増大をもたらしたばかり ( S ) コッペル農法はメクレンブルクのそれに比べると穀物栽培 か'耕地混在制と耕地強制といった農業制度の弛緩・廃止 Km) の比重が減り穀物の栽培量は少な-なったが'反面へ飼料 への直接的寄与をなしたことを指摘することができるので (3) 作物の生産増大の結果増産された家畜の堆肥を耕作地への 191 一橋論叢 第131巻 第2号 平成16年(2004年) 2月号(102) 合が存在したことも注目される必要があろう。新技術の導 の合理化をめざして経営の完全な分離を要求するという場 かな経済力を獲得した富裕な農民経営体が、さらなる経営 度が直接廃止されなかったところでも新技術導入の結果豊 たということは見過ごされてはならないが'それでも旧制 マルクで三六五件の分離が起こりへ プロイセンアカデ-I が行われへ一七六九年から一七七四年にかけては-ッテル 六五年に騎士領において領主と農民との問で耕作地の分離 の間に一五件の分離が報告されているが'それ以前にも自 ォ) 主的に分離を行う場合が存在していた。一七五四年と一七 ブランデンブルクではすでにT七六七年からl七六九年 を進める動きが生じて-る。すなわち分離 (Separatioロ) 入によって獲得された豊かな経済力を背景にして、農民が の懸賞論文の執筆者によれば'一七八六年にはウッカーマ ある。もちろんこうした新技術の導入によって旧制度の完 領主や耕作共同体から種々の権利-義務関係を償卸しへ い ルクのすべての農場が分離されたという。実際にすべての の進行である。 わば﹁購入﹂という形で経営の分離を自ら達成する道が開 農場で分離が生じていたということは疑わしいが、それで 全な廃止へといたるケースはあくまで部分的でしかなかっ かれることになったからである。領主との経営の分離は農 もこの時期に分離が相当に進行していたことは確かだろう。 で分離が進行Lへ耕地混在制が解消されていたと,、、ユラー スムーズに進行し、十九世紀に入るまでにほとんどの農場 プロイセン全土の中でもブランデンブルクは分離が比較的 ( S サ 民解放への第一歩と位置付けることができるだろう。 四 経営の分離 先述したようにブランデンブルクでは十八世紀末までに 技術の導入の結果へ耕地強制や耕地混在制などの旧来的農 な集約的な土地利用形態が存在していた。そうした農業新 理的に分離したもののへ領主経営地での労働力は依然とし 行しない場合も珍し-なかった。耕地は交換分合により物 とはいえ初期の領主経営の分離では完全な自己経営に移 は考えている。 業制度が生産性増大の大きな障害となっていることが認識 て農民の賦役によってまかなわれたり、三園式農法や領主 三園式農法からの脱却が見られへ生産力の向上を伴う様々 されるようになると'これらを廃止して土地の整理・統合 192 (103)研究ノート (GO*) 1農民関係が依然として存続しっづけたりする場合があっ が経営の分離を要求しこれを達成した。その二年後には残 りの農民が分離を要求し'ここにおいて村落すべての農民 ( S ) た。それに対して七〇年代以降に生じた分離では、ほとん が経営を分離し耕地混在制を解消することとなった。 (5) 五 おわりに どの場合において土地所有権を分離するとともに農民の賦 役や強制奉公義務も廃止された。領主の大きな特権であっ た羊放牧権も、土地の一部割譲や免除金への転化によって し新しい土地利用形態か進展し'農民の間にもその優位性 の共同体的経営が維持される場合が珍しくなかった。しか 同時に生じる場合もあったが'領主経営の分離後も農民間 必要だった。農民間の完全な経営分離は領主経営の分離と 立的経営が達成されるには農民相互間でのさらなる分離が 領主経営の分離は比較的早-生じたが、個々の農民の自 した。騎士領においても経営の合理化に関心を持った開明 農民の土地保有権および隷属性の改善や経営の分離が進行 地においては積極的にその導入が図られた結果へ王領地で --ド-ヒ二世によっても支持・促進され'とりわけ王領 を迫ることとなった。新技術の導入はプロイセン国王フ び農民間の耕作共同体規制といった農業諸制度に直接変容 た耕地混在制へ共同放牧、耕地強制へ領主-農民関係およ 以上見てきたように十八世紀のプロイセンにおける新技 ( ! ァ ) が認識されるようになると、農民自ら個々の経営の分離を 的な貴族領主や'騎士領の経営委託を受けた市民層出身の 償却された。これによって領主経営は完全に個別経営とし 要求する事例が見られるようになる。一例としてオーデル 経営請負人が'生産性の向上に向けて種々の技術導入に積 術の導入は'旧来の農業経営上の生産方式を変更し生産力 ブルフの村落レチュヒンの場合を見ると、三人の農民が他 極的に取り組んだ。経済的関心は領主経営者に農業生産力 て分離することとなりへ 農民の賦役にかわる新たな労働力 の農民の反対を押し切る形で経営の分離を達成した数年後 向上のための先進的農業技術の導入を志向させ、これに の増大をもたらしたばかりか'生産方法と密接に結びつい の一七九〇年に'分離した農民経営の生産性における優位 よって確固たる生産力の向上がもたらされたといえよう。 として賃金労働者に依存する経営へと移行した。 が明らかになったためへ 四人の農民と二人のコッセ-テン 193 一橋論叢 第131巻 第2号 平成16年(2004年) 2月号(104) さらに集約的な土地利用を実践するためには生産力増大の に、新技術の優位性が広-認識されるようになってからは した農民層からそれらの地位を獲得する者もあった。さら (5) ﹁障害﹂となっていた旧来の農業諸制度の改廃を伴う必要 農民の側からも経営の分離を要求する動きや'旧来の権 否したり終始受身的な対応を示したりする場合が少な-な があった。したがってへ農業技術改革は生産力の増大をも 本稿で確認したように'ブランデンブルクでは十九世紀 く、したがって-ユラーのように農民の役割を過大評価す 利・義務関係を償却や金納化といった方法でいわば ﹁買取 の農業改革立法を待たず十八世紀中にすでに農民解放の萌 ることには慎重でなければならないが'それでも富農層の たらすと同時に、その過程において農業制度改革への着手 芽が見られたが'そこで農民解放に着手しこれを促進した 中には新技術の導入や経営方法の改善を志向する動きが見 る﹂という動きも見られた。もちろんこうした事例は件数 決定的要因は農業新技術の導入と農業生産力の向上とで られたことや'生産力の増大を背景に獲得した富によって を不可避としたのでありへ この段階において農民解放の端 あったと考えられる。すなわち十八世紀の農業技術改革は 旧来的な関係を自ら改善する可能性が開かれたことは見過 の上ではむしろ例外的なもので、農民は新技術導入には拒 農民解放の前提を準備し'そのため十九世紀の農民解放の ごされるべきではない。このことは国家や領主によって主 緒を見出しうるということが指摘されなければならない。 進展はむしろ農業技術改革の延長上にある必然的結果で 導された農民解放の進展の中にもへ農民側から解放へ向か う道があったことへ強大な領主権のもとにあったという東 あったと考えなければならない。 またへ新技術d導入は国王や騎士領経営者を中心として エルベ地域においても農民の主体的な性格が存在したこと -エラーによってブランデンブルクにおいても十八世紀 促進されたと理解することができる.したがって一八世紀 にもたらされたと考えられるが'王領地および騎士領の経 中における農業技術改革と生産性の発展が生じていたとい を意味しているように思われる。 営を引き受けたそれぞれの管理人は'カメケ領のブラウン う事実が明確に示された。しかしこれらの進展はブランデ 後半における生産力の増大もまた王領地や領主経営を中心 のように'市民階層出身者が多-を占め、中には富を蓄積 194 (105)研究ノート ンブルク全体で一様に進行したわけではない。個々の農場 一九七三年). 1963(三好正喜、祖田修訳﹃近代ドイツ農業史﹄未来社、 Mtiller,Hans-Heinrich,Die Bodennutzungssys- ことを指す。コッセ-テンは経営規模や共同用益権の面で (7) 本稿で単に ﹁農民﹂ といった場合にはフ-フェ農民の g e s c h i c h t e l l / 1 9 6 7 , S . 8 5 . arreformen von 1807,in:Jahrbuch fur Wirtschafts- temeunddieSeparationinBrandenburgvordenAgr- (ォO vondenAararreformenvon1807,Potsdam1967. (m) Miiller,Hans-Heinrich,Markische Landwirtschaft において導入された新技術の種類もまちまちであった。し たがって、個々の農場で農業技術改革が農業諸制度の改廃 と結びつく異体的過程を明らかにLへ全体として十八世紀 半ば以降の農業技術改革と生産性の向上が農民解放へと直 接結びついていくより詳細な経緯を理解するためにも' 個々の事例研究を通じた検証が不可欠となる。ブランデン ブルク内の個別農場を対象とした事例研究が今後の課題と なる。 ンリーガーは手工業に従事したり領主やフ-フェ農民のも の農業経営に基づいて生計を営む層であった。一方へ アイ フ-フェ農民と比べて制約が大きかったが'それでも自己 derUrsprungderLandarbeiterindenalterenTheilen とで働いたりする日雇労働者としての性格が強い。 (--) Knapp,Georg Friedrich,Die Bauernbefreiungund PreuBens,2Teile,Leipzig1887. 新報社へ一九八11年へ 五三I八六およびl二四-1三七百。 諸田宴他訳) ﹃ヨーロッパ近世経済史﹄ 第1巻、東洋経済 い農民を追放しその保有地を取り上げたり'荒蕪地の開墾 に農民の土地保有権が脆弱で、領主は世襲借地権をもたな (9) ただしブランデンブルクを含む東エルベ地方では一般 ( ) M u l l e r , a . a . 0 . , S . 8 6 , 9 2 . (ォ) Abel,Wilhelm,Die drei Epochen der deutschen などによって拡大された耕地の再測量・再分配を実施して (2) 例えばヨIゼフ・クーリッシェル著 (松田智雄監修、 Agrargeschichte,Hannover1962 (三橋時雄へ 中村勝訳 農民保有地を均等化したりする場合があった。このように にあったためへ 後述する穀草式農法や輪栽式農法を領主が 土地に対する農民の保有権は領主権への従属的立場のもと ﹃ドイツ農業発達の三段階﹄未来社へ一九七六年). (4) 代表的なものとしてHaushofer,Heinz,Diedeutsdhe Landwirtschaft im technischen Zeitalter,Stuttgart 195 一橋論叢 第131巻 第2号 平成16年(2004年) 2月号(106) 自らの所領に導入する際に、フ-フェ地を再分配して農民 あった。 可能であることなどからへ 穀作問の休閑中の栽培が有益で politikderdeutschenRomantik,Berlin1912,S.9. (2) Miiller,a.a.0..S.99;Lenz,F.,AgrarlehreundAgrar- 一六頁以下参照。 (2) 加用信文﹃日本農法論﹄御茶の水書房へ一九七二年へ は休閑作物と総称される。 (S) 休閑地で栽培されたクローバーなどの牧草や中耕作物 経営地との混在制を解消し領主経営地をそこから分離する ことが可能であった。 ( 2 ) M i i l l e r , a . a . O . , S . 8 7 . (3) Mailer.a.a.O..S.94. Gebiet der groBen Taler und Platten ostlichder Elbe, (S3) Krenzlin,Anneliese,Dorf Feld und Wirtschaft im Remagena.Rh.1952,S.53. 実作物 (穀物) と牧草・飼料作物とが交互に輪作されるこ とにある。発祥地の名称をとってノーフォーク農法ともよ (ァ) イギ-ス式農法は輪栽式農法の一種で、その特徴は稔 ばれへ そこでの輪作順序は'飼料カブ1大麦1赤クロー 場合はむしろ一二園式農法の場合と比べて耕地強制をはじめ とする耕作共同体の規制が比較的緩やかであったという特 (2) Krenzlin,a.a.0.,S.62,115.休閑がない二園式農法の 徴を示したがへ このことは新技術の導入とは別にへ ブラン バー1小麦の四囲式輪栽形式だった。 FriedrichdesGrofien,dasenglischeSystemderFrucht- (SO Muller,a.a.0.,S.100;Habernoll,P.,Die Versuche 学雑誌﹄第四六巻 第六号、一九九八年、五二頁以下参照。 (H)-市民的大借地農業者と重商主義的規制﹂﹃山口経済 (﹂) 及川順﹁プロイセン絶対王制における農業企業家 デンブルクの地理的条件に規定される形で生じた農業形態 上の特質と考えられなければならない。 (2) スターデルマン (和田維四郎訳)﹃普国布利特隣大王 農政要略﹄、明治一七年 (原著︰Stadelmann,v.Rudolph,Friedrich der GroB in seiner Tatigkeit fur den wechselwirtschaft in PreuBen einzufuhren,in:Land- LandbauPreuBens,Berlin1876)へ九九頁以下参照。 (﹂) スターデルマン前掲書へ 二五貞以下参照。 を要した。耕作地が細長の地条型になったのは、有輪撃の 従来利用されてきた有輪翠は重量のため広域の転回場 wirtschaftlicheJahrbucher,Bd29,Berlin 1900,S.90. 効果を兼ねたこと、穀物が利用しない土中の栄養分を吸い (S) 中耕作物は生育中に表土の中排を必要としそれが除草 上げて生育することへ また後述する夏季の深耕後の栽培が 196 (107)研究ノート 4 5 4 . burg,Schwerin1960,S.44;Nichtweiss,Johannes,a.a. (co) Steinmann,Paul,Bauer und Ritter in Mecklen- 転回を極力少なくするためであったと考えられている。そ のうえ牽引に必要な役畜を個々の経営で確保することは困 作物の栽培が奨励されへ とりわけジャガイモの栽培が盛ん S) Ebenda⋮また国王フ-ードリヒ二世によっても飼料 (3) Muller,a.a.0..S.105. 〇 . , s . ∞ O . 難であったからへ 筆耕には共同体を形成する必要があった。 (S) Miiller,a.a.0.,Anhang,S.122-126. スターデルマン前掲書へ一〇四頁。 になり食用としても大きな意味をもった。スターデルマン M i i l l e r , a . a . 0 . , S . 1 0 1 . voJJ コッペル (ドイツ語で ﹁連結﹂ とか ﹁集団化﹂ という 前掲書へ一一四貢。 (ft) Ebenda. (g) Muller,a.a.0..S.108. ンブルクではコッペル農地が垣で囲われることは珍しかっ たが、ホルシュタインでコッペル農地が囲われたことに示 意味) とは細分化された耕地の統合を意味する。ブランデ されるように、耕地のコッペル化はイングランドにおける ホルシュタインにおける事例として'及川順 ﹁シュレ 用を行ったのに対し、輪栽式農法では穀物栽培と牧草栽培 栽培した後に数年の連続した牧草栽培・放牧地としての利 コッペル農法を含む穀草式農法が数年の連続した穀物 (8) Ebenda. スヴィヒ・ホルシュタインにおけるアッシュベルク領の農 とが交互に行われたのが大きな相違点である。 エンクロージャIに相当する変革であったといえよう。 四三頁以下を参照。 入による実験成果を懸賞論文という形で広く募集していた。 国王の新技術導入奨励策を受けて'新技術・外来品種の導 (3) Ebenda.プロイセンアカデ-IではDEl家の主導で' ( 3 ) M i i l l e r , a . a . 0 . , S . 1 1 4 . 産力の増大は次頁の表のとおり。 (3) -エラーによって示されたブランデンブルクの農業生 業改革﹂﹃山口経済雑誌﹄第四九巻 第五号へ 二〇〇一年へ ( ァ 3 ) M u l l e r , a . a . 0 . , S . 1 0 3 . (S) Ebenda. (55) Nichtweiss,Johannes,DasBauernlegeninMecklen- Muller.a.a.0.,S.104;Langethal,Ch.Eduard,Gesch- burg,Berlin1954,S.74. ichte derteutschen Landwirtschaft,Bd4,Jena1856,S. 197 一橋論叢 第131巻 第2号 平成16年(2004年) 2月号(108) 1)穀物播種量(単位:ヴィスペル) クーノレマルク 小麦 (指 数 ) ライ 麦 (指 数 ) 大 麦 (指 数 ) カ ラ ス麦 (指 数 ) 1778 年 3 ,9 9 1 ( 1 0 0 .0 ) 2 9 ,7 2 9 ( 1 0 0 .0 ) 1 6 ,6 9 6 ( 1 0 0 .0 ) 1 5 ,1 5 1 ( 1 0 0 .0 ) 1794 年 4 ,2 3 4 ( 1 0 6 .1 ) 3 4 ,4 4 4 ( 1 1 5 .8 ) 1 8 ,8 4 9 ( 1 1 2 .9 ) 1 6 ,8 0 3 ( 1 1 0 .9 ) 1 8 00 年 5 ,9 4 9 ( 1 4 8 .9 ) 3 4 ,1 4 6 ( 1 1 4 .8 ) 1 8 ,3 5 9 ( 1 1 0 .2 ) 1 9 ,1 4 0 ( 1 2 6 .4 ) 1805 年 5 ,4 9 9 ( 1 4 0 .6 ) 3 4 ,8 3 3 ( 1 1 7 .2 ) 1 6 ,9 1 7 ( 1 0 1 .4 ) 2 0 ,8 1 3 ( 1 3 7 .4 小 麦 ラ イ 麦 大麦 カ ラス 麦 (指 数 ) (指 数 ) 17 8 4 年 7 7 0 ( 1 0 0 .0 ) 1 7 ,0 1 4 ( 1 0 0 .0 ) 17 9 8 年 1 ,3 0 7 ( 1 6 9 . 7 ) 18 0 4 年 1 ,2 6 8 ( 1 6 4 . 7 ) (指 数 ) (指 数 ) 6 ,3 1 7 ( 1 0 0 .0 ) 6 ,2 1 2 ( 1 0 0 .0 ) 1 7 ,7 7 7 ( 1 0 4 .5 ) 6 ,0 9 2 ( 9 6 .4 ) 8 ,0 4 0 ( 1 2 9 .4 ) 1 7 ,7 4 6 ( 1 0 4 .4 ) l l ,4 3 3 ( 1 8 0 .9 ) 7 ,9 5 8 ( 1 2 8 .1 ) 出典: Miiller, Hans-Heinrich, Die Entwicklung der AnbauverhえItnisse in der m云rkischen Landwirtschaft vor den Agrarreformen von 1807, in: Jahrbuch fur Wirtschaftsgeschichte, I/1964, S.2 18. 2)休閑作物播種量(クールマルク、単位:ヴィスペル) マ メ 科 植 物 (指 数 ) 17 7 8 年 1780 年 5 ,3 36 (1 0 0 ) 6 ,2 42 (1 1 7) 1 76 5 年 1790 年 6 ,2 8 1 (1 1 7) 6 ,0 5 1 (1 1 3) 1 80 0 年 18 0 5 年 1805 年 1773 年 ジ ャガ イ モ (指 数 ) 1 ,6 5 3 ( 10 0 ) 3 ,76 8 ( 2 2 8 ) 2 1 ,8 1 9 (1 3 19 ) 2 5 ,92 1 (1 56 7 ) 出典: Miiller, a.a.0., S.223,225. 3)家畜飼養頭数 クールマルク 局 (指 数 ) 1779 年 1 7 90 年 1 80 0 年 1 80 5 年 1 76 5 年 1 77 0 年 1 78 0 年 1 79 1 年 18 0 1 年 14 2 ,7 7 7 (1 00 ) 14 8 ,3 9 3 (10 4 ) 午 (指 数 ) 3 7 5 ,2 6 0 (1 0 0) 4 0 5 ,4 1 3 (1 0 8) 辛 (指 数 ) 1 ,28 2 ,8 1 0 (10 0 ) 豚 (指 数 ) 2 0 2 ,7 7 3 (1 00 ) 16 3 ,8 2 6 (11 5 ) 4 7 5 ,9 1 1 (12 7) 1 ,02 1,4 7 8 ( 8 0) 1 ,2 3 6 ,0 3 0 ( 9 6) 2 0 3 ,50 4 (1 00 ) 2 2 8 ,60 1 (11 3 ) 15 9 ,5 6 5 (11 2 ) 4 1 1,6 6 0 (11 0) 1 ,17 5 ,4 0 3 ( 9 2) 2 1 6 ,10 2 (10 7 ) 局 (指 数 ) 3 8 ,4 8 8 (10 0 ) 午 (指 数 ) 1 2 9,0 18 (1 0 0) 辛 (指 数 ) 3 9 ,4 6 3 (1 0 3 ) 4 1 ,3 1 7 (1 0 7 ) 4 5 ,0 0 6 (1 1 7 ) 5 0 ,5 8 1 (1 3 1) 1 66 ,3 0 9 (1 2 9) 4 34 ,7 6 6 (1 0 0) 4 7 1,4 3 3 (1 0 8) 豚 (指 数 ) 8 3 ,66 6 (10 0 ) 8 6 ,22 5 (10 3 ) 1 84 ,4 2 3 (1 4 3) 1 8 7,6 0 2 (1 4 5) 59 1,8 7 4 (1 3 6) 55 4 ,7 5 6 (1 2 8) 9 6 ,36 5 (11 5) 9 3 ,3 54 (11 2) 2 0 9 ,2 14 (1 62 ) 6 5 6 ,5 5 3 (1 5 1) 1 0 1,3 9 3 (1 2 1 ) 出典: Miiller, Hans-Heinrich, Entwicklungstendenzen der Viehzucht in Brandenburg vor den Agrarreformen von 1807, in: Jahrbuch fur Wirtschaftsgeschichte, IL/1966, S. 187-189より作成 198 (109)研究ノート 各地の技術者や実践家の見聞・実践報告が多数寄せられへ ( S ) M t i l l e r , a . a . 0 . . S . 1 1 7 . レフェ-Iの審査 をへて掲載決定 (一橋大学大学院博士課程) 一〇〇三年十l月十二日 一〇〇三年十月八 日受稿 第四六巻 第六号へ一九九八年、三三-六四頁を参照。 民的大借地農業者と重商主義的規制-﹂﹃山口経済学雑誌﹄ 川順﹁プロイセン絶対王制における農業企業家 0=0 -市 (SO 王領管理人および騎士領管理人の性格についてはへ 及 M u l l e r , a . a . 0 . , S . 1 1 5 . このことが新技術や知識の普及に大きく貢献した。 (3) Mailer,a.a.0.,S.115-116. Miiller,a.a.0.,S.116;Brinkmann,Carl,Wustrau. Wirtschafts-und Verfassungsgeschichte eines brandenburgischen Rittergutes,in:Staats und sozialwissenschaftlicheForschungen,155/1911,S.100. 199