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第9回日本サッカー殿堂掲額者

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第9回日本サッカー殿堂掲額者
第9回日本サッカー
回日本サッカー殿堂掲額者
サッカー殿堂掲額者
〔特別選考による掲額者〕
金 子
勝
彦
奈良原 武
士
〔投票選考による掲額者〕
奥 寺
康
彦
永 井
良
和
2012年8月21日
金子 勝彦
KANEKO Katsuhiko
●1934年8月30日、神奈川県生まれ
中央大学を卒業後、大阪毎日放送を経て、東京12チャンネル(現テレビ東京)に入社。
1968年にスタートした「三菱ダイヤモンドサッカー」などを担当し、40年以上にわたり
サッカー中継の実況をつとめた「サッカー実況アナウンサー」の草分け。
軽快な「ドラム・マジョレット」のテーマ音楽と、「サッカーを愛する皆さん、ご機嫌いかが
でしょうか」のフレーズで始まる「三菱ダイヤモンドサッカー」は、解説の岡野俊一郎との
絶妙のコンビで、FIFAワールドカップをはじめ欧州各国のトップリーグの模様を、戦術的
な解説を含め視聴者に分かりやすく映像で伝えた。当時、情報量の少なかった海外
サッカーを紹介する「世界への窓」ともいえる唯一のテレビ番組であった。
1974年には、日本史上初めてFIFAワールドカップが衛星生中継された西ドイツ大会の決勝戦を実況した。テレビ東京退
社後も、「オフィス・ワンツー・リターン」を立ち上げ、フリーランスアナウンサーとして活躍。民間放送や衛星放送で、Jリーグ
やイングランド・プレミアリーグの試合を数多く実況し、今も現役アナウンサーとして活躍を続けている。
常に、膨大な資料を読み解き、研究し、試合展開や局面での的確な情報を瞬時に分かりやすく多くの人に伝える努力を
続けてきた。1968年の日本代表チームのソ連・ヨーロッパ遠征への同行をはじめ、現地取材を積極的にこなし、生の姿を
伝えることに心を砕き、言葉を通してサッカーの素晴らしさを伝え続けている。
2002年Jリーグ特別功労賞受賞。
奈良原 武士
NARAHARA Takeshi
●1937年7月22日、東京都生まれ
共同通信記者としてFIFAワールドカップを1970年メキシコ大会から4大会連続で取材した
日本のサッカージャーナリストの草分けの一人。
1961年、早稲田大学を卒業後、共同通信社に入社し、運動記者となる。
1971年同社札幌オリンピック室勤務。翌年運動部に戻り、1983年より福岡支社運動部長。
1985年に編集局に異動、整理本部整理部長、編集委員室編集長を務めた。
共同通信在籍中から『サッカーマガジン』などの専門誌に海外のサッカー情報や歴史、
名選手のエピソードなどを幅広く紹介。定年退職後も共同通信、日刊スポーツなどに
連載記事を寄稿し、40年以上にわたりサッカーの素晴らしさを書き続け、鈴木武士の
ペンネームでサッカーに関する多数の著書を世に出している。
著書に、『ワールドカップ物語』(1997年)、『サッカー狂騒曲~ワールドサッカーおもしろ話』(1998年)、
訳書に、『ベッケンバウアー自伝』(1976年)、『ペレ自伝』(1977年)等がある。また、1977年発行の
『世界サッカー史』を監修した。
1978年にリニューアルされたJFA機関誌『サッカー JFA News』の第1号(1978年12月)から第95号(1992年5月)まで
編集委員長を務めた。また、綿密な史料収集と歴史調査を行い、1987年には『天皇杯65年史~全日本サッカー選手
権全記録』(編著)、1996年には『日本サッカー協会75年史』(編集長)を手掛けるなど、日本サッカー界のアイデンティ
ティを未来に伝えるため、JFAの歴史を正しく伝え、そして長く後世に残すことに心血を注いだ。
2007年没
奥寺 康彦
OKUDERA Yasuhiko
● 1952年3月12日、秋田県生まれ
相模工業大学附属高校から1970年に古河電工に加入、スピード突破と破壊的な
左足シュートで大きな期待を集めた。同年ベンフィカ・リスボン戦で日本代表にデビュー。
また、1970~72年まで3年連続でアジアユース大会に出場し活躍した。
その後1976年初頭のブラジル留学を経て、日本代表のエースとなった。
1977年、日本代表の欧州遠征で西ドイツ・1FCケルンのバイスバイラー監督に出会い、
日本人として初めてヨーロッパのトップクラブでプレーするプロ選手となった。
そのシーズンのブンデスリーガとドイツカップに優勝、翌年のUEFAチャンピオンズカップ
ベスト4に貢献し、クラブにその名を残した。その後ヘルタ・ベルリンを経て1981年に
ベルダー・ブレーメンに移籍し、3回のブンデスリーガ準優勝を経験した。
ブンデスリーガ(1977~86年)では、通算259試合に出場し、34得点をあげた。
© studio aupa
1986年にスペシャル・ライセンスプレーヤー(わが国初のプロ選手登録)として、古河電工に再加入。同年、アジアクラブ
選手権優勝に貢献し、日本代表にも復帰し、ソウルオリンピック予選などで活躍した。
日本代表として、79(国際Aマッチ32)試合出場、19(国際Aマッチ9)得点(1970~88年)。日本サッカーリーグ(JSL/
古河電工)では143試合出場、39得点(1970~77、86~88年)、JSL年間優秀11人賞2回受賞。1976年度シーズンに
は、JSL1部初優勝、天皇杯全日本選手権優勝の二冠達成。
東日本古河サッカークラブGM、ジェフユナイテッド市原監督の後、横浜FC GM、同代表取締役社長を務める。
永井 良和
NAGAI Yoshikazu
●1952年4月16日、埼玉県生まれ
相手ゴールに向かうスピードと得点力で市立浦和南高校をインターハイ、国体、全国
高校選手権優勝の「三冠」に導き、人気テレビアニメ「赤き血のイレブン」のモデルとなる。
高校時代にユース代表に選ばれ、1972年まで3回のアジアユース大会に出場。
1971年、高校卒業とともに古河電工に加入、同年日本代表に選出され、ミュンヘンオリ
ンピック予選の韓国戦でゴールを決めるなど19歳で攻撃陣に欠くことのできない存在と
なった。169センチと小柄ながら、スピードに乗ったドリブル突破とミドルシュートなどゴール
感覚に優れたプレーはアジア各国のディフェンダーたちに恐れられた。FIFAワールドカップ
予選や、オリンピック予選、アジア競技大会等で活躍し、日本代表として、166(国際A
マッチ69)試合に出場、19(国際Aマッチ9)得点を挙げた(1971~1980)。
© studio aupa
1976年度、古河電工でJSL1部初優勝と、天皇杯全日本選手権優勝の二冠達成。そしてその年の年間最優秀選手賞
を受賞。また1986年のアジアクラブ選手権優勝に貢献。
日本サッカーリーグ(JSL/古河電工)では1988年までプレーを続け、常にチームの先頭に立って戦いつつ、歴代1位の
出場272試合、63得点(歴代9位)、77アシスト(歴代2位)という大記録を残した。アシスト王3回受賞、JSL年間優秀11
人賞5回受賞。
現役引退後は、日本ユース(U-18)代表監督を経て、東日本古河サッカークラブ(ジェフユナイテッド市原)(1992~93)、
福島FC(1996)、アルビレックス新潟(1998~2000)、横浜FC(2001)、浦和レッドダイヤモンズ・レディース(2006~07)
の監督を務めた。
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