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判例に学ぶ ∼輸血準備不足と報道された損害賠償請求

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判例に学ぶ ∼輸血準備不足と報道された損害賠償請求
解説・報告
判例に学ぶ ∼輸血準備不足と報道された損害賠償請求訴訟
岩上悦子† 勝又純俊 押田茂實 内ヶ崎西作(日本大学医学部社会医学系法医学分野)
飼い犬が死んだのは獣医師の輸
岩 上 悦 子
よるエストロゲン中毒性汎血球減少症と診断した上で,
血準備不足などが原因であるとし
飼い主に対し,手術に先立って輸血を行う必要性ととも
て,名古屋市の夫婦らが獣医師に
に次のように説明した.被告病院では供血犬を育成中で
約 230 万円の損害賠償の支払いを
あり,また,連携している他の病院から輸血用血液を借
求めた訴訟があり,名古屋地裁は
り受けることが難しい状態であることから,被告病院で
獣医師に慰謝料など計 24 万円の
は血液の入手が困難であるため,飼い主らが,供血犬を
支払いを命じたと報道された(平
準備する必要がある.これを受けて飼い主は,本件犬の
成 2 1 年 2 月 2 6 日読売新聞).新
妹犬からの輸血が可能ではないかと述べた.また,担当
聞には,「夫婦が飼っていた雄の
獣医師は飼い主に対し,順調にいけば治療費は 13 万円
ウェルシュコーギーは,平成 18 年 8 月に精巣の腫瘍を
程度で収まる旨を述べた.
除去する手術を受けたが,12 日後に死んだ.判決では,
飼い主は,犬を被告病院に入院させていったん自宅に
この動物病院では治療に必要な輸血用血液を用意できな
戻り,電話で手術の実施を依頼し,翌 31 日に本犬の妹
かったため,原告側が準備するよう説明する必要があっ
犬を連れて来院した.そこで,妹犬から採血が行われ,
たが,これを一部怠ったとした」と掲載されていた.今
止血機能を確保する目的で 72ml の血液を本件犬に輸血
回,判決文(平成 21 年 2 月 25 日名古屋地裁)が公表さ
した上,精巣腫瘍摘出手術が行われた.術中,術後にわ
れたことにより(日本法データベース h t t p : // l e g a l .
たり,出血はほとんど見られなかった.
lexisnexis.jp/)
,新聞報道からでは不明な点が明らかに
術後は,徐々に食欲が出てきたものの,黄疸や貧血が
なったので,その概略を紹介し,検討する.
認められたことから,5 日目に,妹犬から採血した
100ml の血液が輸血され,術後 8 日目に退院した.
1
事案の概要と診療経過
担当獣医師は,術後 5 日目の輸血により体調が改善し
名古屋地裁判決文の認定事実によると,診療経過の概
たことから,手術によっても骨髄機能が回復しておら
略は以下のとおりである(表).原告は患犬(ウェルシ
ず,今後も 1 カ月に 1 回 300ml 程度の輸血を継続して行
ュコーギー,雄,11 歳)の所有者ら 3 人である.被告は
う必要があるものの,大型犬でない妹犬から今後十分な
獣医科病院を運営する獣医師(以下,「院長」という.)
採血をすることは不可能であり,今後の輸血用血液を確
であり,治療を担当したのは勤務獣医師である.
保する必要があることを飼い主に理解してもらうととも
本件犬は平成 X 年 8 月 30 日に,前日からの元気消失,
に,休診日に容態が急変した場合の対応が必要であると
食欲減退,嘔吐を主訴に,被告病院を受診した.診察し
考えた.そこで退院の際,飼い主に対し,今後の輸血の
た獣医師は,触診により腹腔内に腫瘤の存在が認められ
必要性を説明し,輸血態勢が整っている他の「どうぶつ
たこと,幼少から片側陰睾丸であったこと,超音波検
病院(判決文に従ってこの表記とする)」の名前と電話
査,血液検査の結果から,腹腔内における陰睾丸の悪性
番号を記載したメモを渡して受診を示唆し,自ら作成し
腫瘍化(セルトリ細胞腫),エストロゲン中毒による骨
た本件犬についての書面及び急患対応の獣医科病院につ
髄抑制,汎血球減少症を疑った.そこで飼い主に,体調
いて記載されたチラシを交付した.
悪化の原因が陰睾丸の悪性腫瘍化,エストロゲン中毒に
そこで飼い主は,そのどうぶつ病院へ電話をかけ,本
起因する骨髄抑制,汎血球減少症の症状にあること,こ
件犬の病状を説明し,治療としての輸血を実施してくれ
のままでは生存可能性が低いこと,悪性腫瘍を手術で取
るかどうかを問い合わせた.同病院の獣医師は,輸血を
り除く必要があることを説明した後,今後の治療方針に
すること自体は可能であるものの,病状からみて輸血が
ついて院長と相談した.
根本的な治療でないことを説明し,現に診察を受けてい
院長は,腹腔内陰睾丸腫瘍及び悪性セルトリ細胞腫に
る獣医科病院でよく相談するよう助言した.そのため飼
† 連絡責任者:岩上悦子(日本大学医学部社会医学系法医学分野)
〒 173h8610 板橋区大谷口上町 30h1
蕁 03h3972h8111(内線 2277) FAX 03h3958h7776
E-mail : [email protected]
日獣会誌 64
412 ∼ 418(2011)
412
表 診療経過一覧
年月日
経 過
HX−11
飼い主所有の親犬より自宅で誕生.
HX. 8.29
元気がなく,食欲が少し落ちた.
HX. 8.30 朝
血痕と嘔吐した跡が認められたため,受診.
来院時,可視粘膜色がやや淡かった.
入院.
HX. 8.30 午後
HX. 8.31
妹犬を伴い来院.妹犬から採血した 72 ml
の血液を輸血後,精巣腫瘍摘出手術を行った.
術中,術後の出血はほとんどなかった.
HX. 9. 1
嘔吐あり.
HX. 9. 2
ミルクを飲める状態となった.黄疸.
HX. 9. 3
ビーフ缶を食べられる状態.
HX. 9. 4
貧血あり.
HX. 9. 5
妹犬からの血液 100 ml を輸血し,可視粘膜
色がやや良化し,元気が回復してきた.
HX. 9. 6
可視粘膜色がさらに良化し,黄疸指数も低下.
HX. 9. 7
可視粘膜色がさらに良化し,黄疸指数も低下.
HX. 9. 8
退院.
HX. 9. 9
病理検査結果:悪性セルトリ細胞腫.
獣医師の説明
A 獣医師:片側陰睾丸,腹腔
内腫瘤の触知,超音波検査,
血液検査の結果,陰睾丸の悪
性腫瘍化,エストロゲン中毒
に起因する骨髄抑制,汎血球
減少症の症状にあり,このま
までは生存可能性が低いこと,
悪性腫瘍摘出手術が必要があ
ることを説明.治療費は,順調
にいけば13万円程度と述べた.
院長:腹腔内陰睾丸腫瘍及び
悪性セルトリ細胞腫によるエ
ストロゲン中毒性汎血球減少
症と診断.術前輸血の必要性
について説明し,飼い主らに
供血犬を準備する必要がある
ことを説明.
A 獣医師:夜に電話をかけ,
容態及び手術の危険性につい
て説明し,翌31日の来院を指
示した.
妹犬から輸血が可能ではない
かと述べた.
自宅で相談し,昼ごろ電話で
手術を依頼.供血犬として,
大型犬か,妹犬を連れて翌31
日に来院すると述べた.
A 獣医師:退院の際,今後の
輸血の必要性について説明し,
輸血態勢が整っている他のど
うぶつ病院の受診を示唆し,
紹介状及び急患対応の獣医科
病院について記載されたチラ
シを交付した.
他のどうぶつ病院へ電話をか
けたが,輸血をすることは可
能であるものの,病状からみ
て輸血が根本的な治療でない
ことを説明され,現に診察を
受けている獣医科病院でよく
相談するよう助言されたため,
結局,被告病院で継続して通
院治療を受けさせることにな
った.
HX. 9.10
HX. 9.11
再診時,可視粘膜色が蒼白.
HX. 9.12
自宅において死亡.
飼い主の反応
413
い主は,このどうぶつ病院は他の病院で治療を受けてい
中毒が原因である可能性が高いと診断されているため,
る動物に輸血だけを実施する意思はないと理解し,結局,
両検査を実施しないとの判断は獣医師の裁量の範囲内に
被告病院で継続して通院治療を受けさせることにした.
あり,汎血球減少症に対する治療について過失は認めら
れないとした.
その後,病理組織検査の結果,
「悪性セルトリ細胞腫」
(5)説明義務違反の有無
であったことが判明し,術後 12 日目に,自宅にて死亡
裁判所はまず,一般論として,獣医師の説明義務に関
した(当時 11 歳)
.
以上の経過から,飼い主らは院長に対し,①輸血の準
し,次のように述べた.「獣医師は,飼育動物の治療を
備が不十分であった,②輸血態勢の整った他院への転院
実施するにあたり,診療契約に基づき,特段の事情のな
を怠った,③骨髄吸引生検・骨髄コア生検の実施を怠っ
い限り,飼い主に対し,当該疾患の診断(病名と病状)
,
た,④敗血症に対する適切な投薬を怠った,⑤治療内容
実施予定の治療行為の内容,治療行為に付随する危険性,
及び安楽死の選択についての説明を怠ったと主張して,
治療行為による回復の可能性,他に選択可能な治療行為
債務不履行又は不法行為責任に基づき,損害賠償等 226
があればその内容と相違点などについて,飼い主がその
万余円(支払い済み治療費 20 万円,未払い治療費 16 万
獣医科病院で治療を受けるかどうか,受けるとすればどの
余円,財産価値 10 万円,慰謝料 50 万円× 3 人,弁護士
ような治療を受けるかを熟慮して判断することができる
費用 10 万円× 3 人)の支払を求めた.これに対し獣医
ような方法で,分かりやすく説明することが求められる」
.
そして,本件輸血に関し,獣医師らの認識している事実
師側は反訴として,飼い主が未払いである診療報酬 16
としては,次の 3 点があると認定した.①骨髄機能は手術
万余円の支払を求めた.
によって回復する可能性もあるが,回復しない可能性の方
2
裁判所の判断
が高く,その場合,治療としての輸血が継続的に必要と
(1)死 因
なり,状態にもよるが月 1 回 300ml 程度の輸血を継続し
裁判所は医学的知見から,死因を「セルトリ細胞腫に
て行う必要がある.②被告病院では輸血用血液を準備で
伴うエストロゲン中毒による骨髄抑制が,手術によって
きないので飼い主らが準備する必要があり,準備できな
も改善されないまま,術後も十分な量の輸血ができず重
いのであれば他の病院で治療を受ける必要がある.③飼
度の貧血となったことにある」とした.
い主らが供血犬として提供した妹犬からは,手術にあた
(2)輸血用血液の準備義務違反の有無
っての輸血に必要な血液量は確保できるものの,治療と
しての輸血に必要な血液量を確保できない.したがって,
輸血用血液の準備義務について裁判所は,「輸血を要
する手術を実施するにあたり,たとえ当該獣医科病院自
手術前に獣医師らは飼い主らに対して,少なくとも手術
体において輸血態勢が整っていなかったとしても,飼い
のみならず,術後の治療のためにも輸血が必要となるが,
主の協力を求めるなどして,手術に必要な輸血用血液を
病院ではいずれの血液も確保することができないことに
確保できるのであれば,同手術を実施したとしても輸血
伴う問題点について具体的に説明し,いずれの輸血用血
用血液の準備義務違反は生じない」と認定した.本件で
液についても飼い主らが準備して被告病院で治療を受け
も,被告病院では輸血態勢が整っていなかったことか
るか,他の病院で治療を受けるかの選択について熟慮し
ら,飼い主らに対してその旨を説明し,飼い主らは供血
た上で判断できるよう,分かりやすく説明する義務があっ
犬として妹犬を提供し,手術にあたって必要量の輸血が
た.しかし,骨髄機能は本件手術によっても回復しない
なされた.したがって,必要な輸血用血液を確保して本
可能性が高く,術後に骨髄機能が回復しなかった場合に
件手術を実施したものと認められた.
は,治療としての輸血が継続的に必要となるが,妹犬か
(3)転院義務違反の有無
らは必要な量を確保できないので,術後も飼い主らが独
飼い主らの主張する転院義務違反は,輸血用血液の準
自に血液を確保するか,他の病院で治療を受けることが
備義務違反が前提である.前記のとおり,輸血用血液の
必要となることについて,分かりやすく説明したとは認め
準備義務務違反は認められないことから,転院義務違反
がたく,この点に限り説明義務違反が認められるとした.
一方,飼い主らの主張する安楽死については,飼い主
も採用できないとした.
(4)治療の適否
が獣医師に対し安楽死を希望することを明確に表明した
などの特段の事情がない限り,獣医師は安楽死について
まず,飼い主らの主張する敗血症に対する治療に関し
説明義務を負わないとした.
ては,「敗血症を発症したことを認めるに足りる証拠は
(6)因 果 関 係
ないから,これを判断する必要はない」として退けた.
次に,骨髄吸引生検及び骨髄コア生検に関しては,そ
飼い主らは,担当獣医師から紹介された,輸血態勢の
の目的は「骨髄抑制の原因探索」にある.本件について
整ったどうぶつ病院に問い合わせをし,診察を拒否され
は,検査所見から,セルトリ細胞腫に伴うエストロゲン
たと認識したために被告病院での治療を継続している.
414
(1)獣医療における輸血について
このことから,本件手術前に,前記の説明を受け,継続
して血液を確保できないことを認識していれば,輸血態
本件のように,小動物臨床においては,輸血が適応と考
勢の整った他の病院を探し,その病院で治療を受けさせ
えられる状況にしばしば遭遇する.輸血の頻度は各病院に
たものと認められる.そうすれば,重度の貧血の悪化を
より異なると思われるが,重要な治療法になっている[4]
.
遅らせることができ,その死亡した時点においてなお生
本件の原疾患は,「セルトリ細胞腫」であり,治療と
存していた高度の蓋然性が認められる.したがって,説
しては手術と輸血が行われたものの,死亡し,「腫瘍に
明義務違反と死亡との間には,相当因果関係が認められ
伴うエストロゲン中毒による骨髄抑制」が死因であると
るとした.もっとも,骨髄機能が回復できない以上,治
認定された.しかし判決には一切の血液検査データが記
療としての輸血を続ける必要があり,十分な量の輸血を
載されていないので,どの程度の骨髄抑制が認められた
したとしてもどこまで生存できるかは不確定要素が多い
のか詳細は不明である.セルトリ細胞腫を含む精巣腫瘍
こと,既に高齢であったことを考慮すると,十分な量の
の犬の大半は,去勢手術によって治癒する[5]
.しかし
輸血をしたとしても,後の生存期間は短いものであった
骨髄抑制による汎血球減少症を伴う場合には,しばしば
可能性が高いとも判じた.
致命的となる.古い資料ではあるが,セルトリ細胞腫に
(7)損 害
伴う骨髄抑制を示す犬 8 頭のうち,7 頭が死亡したか安
楽死させられたという報告があり[6]
,去勢や輸血等の
本件犬は,高齢で交換価値がなく,獣医師の行った治
療自体は必要なものである.したがって,財産的損害は
治療によっても,予後不良であることを示唆している.
否定された.
現在でも,重度の骨髄抑制が認められる場合,有効とな
一方,慰謝料については,自宅において生まれてから
る根本的な治療はない.対症療法として,貧血に対して
11 年にわたり,家族同然に可愛がって育ててきたことが
は輸血,血小板減少症に対しては多血小板血漿投与を必
認められる.また獣医師の説明義務違反により,輸血態勢
要に応じて繰り返し行うことになるが,予後不良である
の整った他の獣医科病院で治療を受けさせることができ
ことが多い[7]
.本件でも,術前に輸血をしてから,去
ず,その結果,本件手術後早期に死亡したこと,輸血態勢
勢手術が行われた.しかし術後も骨髄機能の回復が見ら
の整った他の獣医科病院で治療を受けたとしても,生存
れず,輸血を繰り返すには血液が十分確保できないま
期間は限定的であった可能性が高いことなど,本件に現
ま,死亡したものとされている.しかし,前述の通り,
れた一切の事情を考慮すると,飼い主らの精神的苦痛の
本判決には手術前後の検査データおよび輸血前後の検査
慰謝料としては,1 人 7 万円(合計 21 万円)が相当であ
データが記載されていないため,輸血の効果に対する評
るとした.なお,獣医師側は,幼少時から陰睾丸があり,
価は判然としない.また輸血の必要量についても,本犬
腫瘍化しやすいため予防的な摘出手術が必要であること
の体重や血球検査データなどが記載されていないため,
を飼い主らは認識していたのに放置していたこと,本件
その妥当性も判断しかねる.もっとも,現在の獣医療体
より半年も前に運動不耐性と乳頭腫大を認識していたこ
制では,一部の病院を除き,輸血を行うためのシステム
とから,過失相殺を主張したが,裁判所はこれを退けた.
が整っておらず,実施に困難を伴うことがほとんどであ
(8)診療報酬債権の有無
る[8]
.また本邦には認可された動物の血液バンクが存
獣医師は,診療開始当初,術後の病状が予測不可能で
在しないので,輸血を行う診療機関自らが,ドナーを動
あったことから,最低限必要な費用として 13 万円を提
物病院の施設内で飼育するか,一般家庭で飼育されてい
示したもので,術後の輸血などの費用は別途必要となっ
る動物の血液を提供してもらうことになる[9]
.被告動
たものであり,合計 30 万余円を要したと主張した(内
物病院も,輸血態勢が整っておらず,飼い主の協力を求
訳は公表されていない).しかし裁判所は,飼い主らは
めて手術の実施に至った.裁判所は,獣医療の現状に鑑
本件診療契約の報酬額について 13 万円程度との額を獣
み,これを是認し,一定の理解を示している.輸血療法
医師より提示されており,退院するまで他に具体的な金
は,きわめて有効な治療法である反面,高価で,労力を
額を提示されていないことなどから,獣医師の主張する
必要とする上,ドナーの福祉(体調管理,採血頻度な
残余の報酬額についての合意は認められないとした.
ど)にも配慮しなければならない.これらの獣医療水準
したがって,弁護士費用 1 人 1 万円を加えたそれぞれ
に関しても説明を行い,獣医師と飼い主との信頼関係を
8 万円(合計 24 万円)の損害賠償が認められ,獣医師側
築くことがインフォームド・コンセントであり[1]
,よ
の診療報酬請求は棄却された.
り適正な小動物医療を提供することが,結果として診療
トラブルの防止にもつながるものとなろう.
3
(2)説明義務について
考 察
獣医師の説明義務は,民法 645 条[受任者による報
以上のとおり,本件は「輸血準備不足」を過失とした
告]に基づくことになる.これについて具体的な説明内
のではなく,
「説明義務違反」とした判決であった.
415
容までの法規制はないが,日本獣医師会制定の「小動物
するという「自己決定権」の思想が高まった[12].そ
医療の指針(平成 14 年 12 月 12 日制定,平成 19 年 1 月
して,東海大学安楽死事件判決(横浜地裁判決平成 7 年
5 日一部改正)
」においては,①受診動物の病状,②検査
3 月 28 日[12]
)において,患者の自己決定権を根拠に,
や診療の方針と選択肢,③予後等,④診療料金としてい
積極的安楽死を一定の要件の下で許容する判断が示さ
る[1]
.本件において獣医師らは,①に該当する診断に
れ,治療中止の要件も検討されている.これを要約する
基づく病状と一般的な経過,②に該当する手術の内容お
と,①患者が治癒不可能な病気におかされ,回復不能の
よび術前輸血の必要性,④に該当する予測される費用に
末期状態にあること.②治療行為の中止を行う時点で,
ついては明言したものの,②および③に関する説明が不
患者の意思表示が存在すること.③治療行為の中止の対
十分であり,「実施予定の治療行為の内容,治療行為に
象となる措置は,薬物投与,化学療法,人工透析,人工
付随する危険性,治療行為による回復の可能性,他に選
呼吸器,輸血,栄養・水分補給など,疾病を治療するた
択可能な治療行為があればその内容と相違点などについ
めの治療措置及び対症療法である治療措置,さらには生
て,分かりやすく説明することが求められる」と判示さ
命維持のための利用措置など,すべてが対象となる[13]
.
れた.すなわち,治療行為としての手術の内容について
他方,獣医療においては,治療行為の中止に対する自
説明するのは当然であるが,その危険性等も十分理解し
己決定権を持つ「患者」とは,本来「患畜」である.し
た上で意思決定ができるよう事前に説明し(平成 19 年 9
たがって,動物である患畜,それ自体の自己決定権を論
月 27 日東京高裁判決.飼い犬の卵巣子宮全摘出,下顎
ずる余地はなく,その意味で,飼い主が患畜の治療につ
骨切除,乳腺腫瘍切除の同時手術後の死亡[2]),手術
いて一定の意思決定権を有するとしても,人の医療と同
しないで放置する場合の経過や,治療方法の選択肢があ
列に論ずべき前提を欠くとする判決がある(平成 13 年
るならば,それについても説明するとともに,使用する
11 月 26 日東京地裁判決.3 匹の愛玩犬が治療後に死亡.
薬品の薬効,投与法,副作用等も説明する必要がある
Westlaw Japan : https://go.westlawjapan.com).一
(平成 20 年 9 月 26 日東京高裁判決.愛玩犬の無菌性結
方,飼い主が患畜にいかなる治療を受けさせるかにつき
節性皮下脂肪織炎治療後の後遺症[3]).また,治療行
自己決定権を有するとする判決もある(平成 17 年 5 月
為後の経過についても,学術データ等を示しながら予測
30 日名古屋高裁金沢支部判決.飼い犬の前肢腫瘍切除
できる予後について説明し[1]
,動物の生命,身体に軽
手術後に死亡[14]
)
.これを獣医師から見れば,飼い主
微でない結果を発生させる可能性のある療法を実施する
がいかなる治療を選択するかについて,必要な情報を提
場合や,適切で的確な療養状況を確保するためにも,同
供すべき義務がある.アメリカでは,獣医倫理の観点か
意を得る前提として十分に説明する必要があろう[3]
.
ら,癌のような病気では治療の最初の段階から,クライ
(3)獣医療における「尊厳死」について
アントに,治療が不首尾に終わる可能性や,最期の時期
にその苦痛から救えるのは安楽死だけであることについ
本件で飼い主らは,安楽死(ここにいう安楽死とは,
延命措置を中止する等の,いわゆる消極的安楽死の意味)
ても,きちんと知らせておかなければならないという
について全く説明が行われず,その選択をする機会を奪
[15]
.しかし日本の獣医療では,安楽死の説明をする義
われたと主張した.本疾患の病態から考えると,術後の
務はないと裁判でも認定されており[14],安楽死は最
繰り返しの輸血は,一時的な救命にはなるが,根本的な
終的な選択肢として,飼い主と獣医師が十分協議して決
治療とはならない.そのため,被告動物病院が紹介した輸
定すべき重大な問題である[1]
.そのためには,獣医師
血態勢の整っているどうぶつ病院では,安易に輸血のみ
は,動物の苦痛がどの程度かを認識して,絶えず動物の
を請け負わなかったものと考えられる.つまり本件は予
QOL を観察する必要があろう.
(4)獣医療における転医(転送)義務について
後不良の疾患であり,輸血は延命治療の一つとも考えら
本件においては獣医師の転医義務も争点となった.獣
れる.飼い主は,高齢であること,手術の危険性が高いこ
とを理由としたが,予後をも考慮すると,消極的安楽死
医師側は,
「転院させる法的義務はない」と主張したが,
として輸血を受けないという選択肢もあり得たであろう.
飼い主側が主張するとおり「人の医療の場合,転院義務
人の医療において,治療の中止,いわゆる「尊厳死」
は診療契約に内在する義務」として認められている.人
が直接争点となった裁判例は,川崎協同病院事件判決
の医療契約は,当該医療機関の特性に従って医療水準
(横浜地裁平成 16 年 3 月 25 日[10])より以前には存在
(平成 7 年 6 月 9 日最高裁判決.未熟児網膜症姫路日赤事
しない[11].医学の進歩は,治療を継続しても間近に
件[16])が要求されており,患者の疾患が,当該医療
死を迎えざるを得なくなりながら,生命を維持し延命を
機関の技量・設備では適切に対応できない場合には,そ
図ることを可能とし,患者は治る見込みのないまま,時
こでなしうることを見極め,より規模の大きい,設備の
には苦痛に苦しみながら命を長らえる.こうした事態に,
整った医療機関に早めに転送することが,医師の義務と
医療のあり方を再考し,病気への対応は患者自身が決定
されている(平成 9 年 2 月 25 日最高裁判決.薬剤による
416
顆粒球減少症の副作用[17]
)
.そして,①医師の臨床経
般開業獣医療機関,基幹的獣医療機関,高度獣医療機関
験や医療設備では治療が困難であること,②適切な医療
という,獣医療機関の規模・性質に応じた対応が求めら
機関が搬送できる範囲内に存在し,受け入れを認めてい
れよう.先ごろ公表された農水省の方針にもあるよう
ること,③患者の状態が搬送に耐えうる状態にあるこ
に,獣医診療施設の専門化および一次診療施設と二次診
と,④転医により危険回避や疾病改善の見込みがあるこ
療施設の連携・協力の確保等に関する合意形成の促進,
となどの可能性がある場合に,転送義務が発生するとさ
地域獣医療のネットワーク体制の整備の推進[23]が期
ア 患者への転
れている.また転送義務の内容としては,蕘
待される.
イ 転送先への情報提供, 蕘
ウ 患者の安全を確保
医勧告,蕘
引用文献 15 を訳出された竹内和世様,浜名克己先生に深謝
したい.
バーナード・ローリン:獣医倫理入門,竹内和世訳,浜名
克己監訳,白揚社(2010)
しながらの転送とされている[18].もっとも,人の医
療の場合,国が平成 4 年以来,医療法の改正を重ね,医
療機関を機能別に体系化することに取り組んできた.診
療所,一般病院,地域医療支援病院,特定機能病院など
引 用 文 献
に大別され,一次医療(外来・初期診療),二次医療
(入院・検査・手術)
,三次医療(高度先進医療)といっ
[ 1 ] 日本獣医師会:小動物医療の指針,獣医師倫理関係規程
集,8h16(2004)
[ 2 ] 判例時報,1990,21h33,判例時報社,東京(2008)
[ 3 ] 判例タイムズ,1322,208h217,判例タイムズ社,東京
(2010)
[ 4 ] 高島一昭:臨床における輸血の実際,SA Medicine,33
(6)5,19h26,インターズー,東京(2004)
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[20] 牧野ゆき:獣医療における転送義務についての考察,日
比臨医会誌,17(2)
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[21] 岩上悦子,勝又純俊,押田茂實:判例に学ぶ∼去勢犬に
発生したセルトリ細胞腫と損害賠償請求訴訟∼,日獣会
誌,61(3)
,169h174(2008)
た役割分担が推進されている.そして,地域に根ざす開
業医は,基本的な診断・治療を幅広く行い,必要に応じ
て患者を病院へ紹介することが求められている[19]
.
獣医師の場合も,準委任契約である診療契約に基づ
き,善良なる管理者としての注意義務(民法 644 条)を
尽くして動物の診療に当たる義務を負うとされている
[3].そして,この注意義務の基準は,人の医療と同様
に,診療当時のいわゆる臨床獣医学の実践における獣医
療水準である[3]
.この獣医療水準は,診療に当たった
獣医師が診療当時有すべき獣医療上の知見であり,当該
獣医師の専門分野,所属する医療機関の性格等の諸事情
を考慮して判断されるべきものである.そして,獣医師
が自ら獣医療水準に応じた診療をすることができないと
きは,獣医療水準に応じた診療をすることができる医療
機関に転医することについて説明すべき義務を負い,そ
れが診療契約に基づく獣医師の債務の内容となると判示
されている[3].しかし,現状では,標準的治療内容
や,経済的事情,飼い主の価値観,当該地域の獣医療提
供体制などの獣医療現場の諸事情が[20],獣医師の転
送義務のあり方に少なからず影響すると考えられる.さ
らに救急動物の受け入れと転送の問題もあり,本件で
も,人の医療における転送義務に対する要件(前記)に
あるような,②適切な獣医療機関が搬送できる範囲内に
存在し,受け入れを認めていたのか,④転送により危険
回避や疾病改善の見込みがあったのかという点にも疑問
が残る.実際には,近医で去勢した犬が,後に紹介した
大学病院でセルトリ細胞腫摘出手術を受けて死亡した事
案[21]や,大学病院で心不全等の診断を受け,継続治
療を引き受けた近医で死亡し,死因の所見に相違が生じ
た事案(平成 18 年 10 月 19 日東京地裁判決.Westlaw)
などのトラブルも発生しており,専門医紹介の難しさが
指摘されている[22]
.適切な治療,より高度な治療を,
適時受けることを保障するための転送義務を満たすに
は,人の医療と同様に,獣医領域においても,地域の一
417
[22] 佐藤善隆,佐藤 隆:日本の獣医療にインフォームドコ
ンセント,セカンドオピニオン,専門医紹介制度は成立
するのか,日獣会誌 58(9)
,587-588(2005)
日獣会誌
64
418(2011)
[23] 農林水産省:獣医療を提供する体制の整備を図るための
基本方針,http://www.maff.go.jp/j/syouan/tikusui/
zyui/pdf/khosin.pdf
418
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