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坂中紀夫 - 東京外国語大学

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坂中紀夫 - 東京外国語大学
セルゲイ・ウヴァーロフの思想の変遷
-「ナロードノスチ」概念の包摂性について-
坂中紀夫
神戸市外国語大学外国語学研究科
1.はじめに
19 世紀前半ロシアの国民教育省大臣セルゲイ・ウヴァーロフの思想の変遷に
ついて検討する。従来のウヴァーロフ研究では、彼はアレクサンドル一世の反
動化やニコライ一世の即位を境にした、自由主義から保守主義への転向者であ
る、との見方が伝統的であった。しかし、こうした見方は、近年の研究により、
批判されてもいる。そこで当報告は、そうした批判をふまえ、彼の保守主義に
自由主義的理想が伏在していたことの論証を目的とする。
ウヴァーロフは通常、
「正教、専制、ナロードノスチ」というスローガンと並
べて語られる。つまりそれは、一つの象徴としての機能を果たしている。それ
ゆえ、彼の思想を検討するにあたっても、まずこの三幅対、なかでも最も議論
を呼ぶ「ナロードノスチ」概念の内容の確認を起点とすることが効率的である
よう思われる。そこで当報告では、この概念に言及する先行研究を整理した上
で、それがそもそも教育原則であったという、その素朴さゆえにこれまであま
り注目されなかった点に立ち返り、彼が採用した教育政策の方からこの概念の
把握を試みる。
ここでは教育の包摂性に関連する政策に注目する。
「ナロードノスチ」がナロ
ードに由来する概念である以上、それが実際のナロードをどのように扱ってい
るかは、その理解にとって重要であると思われる。まず、19 世紀初頭からの教
育の包摂性について概観した上で、ウヴァーロフ個人が強く関連した政策につ
いて検討する。ここでは授業料の問題について扱い、彼が庶民の教育機会の享
受について両義的な見解をもっていたことを指摘する。そして、その両義性の
原因を探るため、彼の世界観に言及し、結果として、彼が教育の一般的な普及
を目指しながらも、歴史の理想的な発展のためにそうした理想を断念したこと
が確認される。結果、
「ナロードノスチ」とはこの理想とその断念とが交錯する
思想が想定するような単位だったのではないか、との仮説を提示する。
2.「正教、専制、ナロードノスチ」
(1)本質主義的規定の否定
「正教、専制、ナロードノスチ」はウヴァーロフが 1830 年代以降、提示し続
けた教育原則である。しかし、そうした執着にもかかわらず、その教育原則は
体系化されることはなく、代表的なものとして 1832 年から 49 年にかけてなさ
れた彼の言及が説明からは、意味的に重複した情報しか与えられない1。ここで
はさしあたって、時期的に一番早い資料とされる 1832 年 3 月の「ニコライ一世
への手紙」を検討する。
ウヴァーロフは次のように書いている。
[国民的宗教と専制という]これら保守的原理と並び、密接に関連する
もう一つの同じほど重要な原理があります。すなわち、ナロードノスチで
す。[…]。ナロードノスチの問題は、専制権力の問題よりも複雑ですが、
それと同じほど確実な基礎の上にあります。そこに含まれる困難は主に古
...
い概念と新しい概念を一致させることですが、ナロードノスチとは後戻り
....
.......
することでも、ましてや立ち止まることでもありません。2
ウヴァーロフ自身による「ナロードノスチ」概念への言及で、最も説明的な
ものの一つが、以上の一節である。しかしながら、A・ミラーが「ウヴァーロフ
自身がそれを定義する方法は曖昧である」、と評すように3、ここからは内容的な
1832 年 3 月の
「ニコライ一世への手紙」
(Уваров С.С. «Письмо Николаю I. Март 1832».
// Новое литературное обозрение. 1997, № 26)
、同年 12 月のモスクワ大学「視察報告書」
、
1833 年 3 月 21 日の大臣就任に際した教育管区監督官への「回状」(Уваров С.С.
«Цирклярное предложение г. управляющего Министерства народного просвещения
начальствам учебных округов, О вступлении в управление Министерством» //
Журнал министерства народного просвещения, 1834, ч. 1, от. 1, с. XLIX-L、以下
ЖМНП と略)
、同年 11 月 19 日の二通のニコライ一世への報告書(Уваров С.С.
Десятилетие Министерства народного просвещения, 1833-1843. СПб, 1864. С. 1-4;
Уваров С.С. «О некоторых общих началах, могущих служить руководством при
управлении Министерством Народного Просвещения (Доложено Его Величеству 19
ноября 1833. Уваров)». // Река времен (книга истории и культуры). Книга 1. Москва:
Эллис лак, 1995)、1834 年の『国民教育省雑誌』の「序文」
(Уваров С.С. «Предисловие»
// ЖМНП, 1834, ч. 1, от. 1, с. Ⅲ–Ⅶ)、1843 年のニコライ一世への報告書『文部省の十年。
1833-1843 年』
(Уваров С.С. Десятилетие)、1849 年の「国民教育省概観」
(Уваров С.С.
«Обозрение управления Министерства народного просвещения. 1849» // Шевченко
М.М. Конец одного Величия: Власть, образование и печатное слово в Имперской
России на пороге Освободительных реформ. М.: Три квадрата, 2003)など。
2 Уваров С.С. «Письмо Николаю I.» С. 94, 98
3 Alexei Miller, The Romanov Empire and Nationalism: Essays in the Methodology of
Historical Research. Budapest, New York: Central European University PressМиллер,
2008, p. 142
1
特定性を導くことはできない。Ф・ペトロフは彼の説明が否定的・消極的規定に
終始していることを指摘しているが4、そこでは肯定的・積極的規定による具体
的な対象性の結実がもたらされないからだ。その結果、
「ナロードノスチ」概念
5
の曖昧さは、多くの先行研究に共通する見解となる 。こうした抽象性は、ウヴ
ァーロフ自身の思想的深化の失敗や人格的問題に関連付ける指摘も存在する6。
こうした指摘に示唆されるように、
「ナロードノスチ」概念には、その言葉を素
朴に解釈する際に想起されるようなスラヴ主義的な含意も認められない7。つま
り、ナロードへの特殊な愛着という実体性も、そこからは否定されている。
Петров, Ф.А. Формирование системы университетского образования в России. т. 3.
Москва: Изд-во Моск. ун-та, 2003, С. 202-203
5 たとえば、M・フロリンスキーは「ナショナリティ概念は、正教や専制のそれとは異なり、
いかなる明瞭な意味も伝えていない」とし(Michael T. Florinsky, Russia: A History of an
Interpretation. v. 2. New York: Macmillan, 1960, p. 798-9)、E・ターデンも「ナショナリ
ティ(ナロードノスチ)はウヴァーロフの三幅対のなかで明らかに最も曖昧な用語である」
と指摘している(Edward C. Thaden, Conservative Nationalism in Nineteenth-Century
Russia. Seattle: University of Washington Press, p.19)。また、H・コーンは、それはロ
シアの独自性であり、「ほとんど究明されていない過去の理想化、十分に分析されていない
現在の力の過大評価、知られざる未来の希望にみちた美化などにもとづく国民的誇りの共
通する感情に呼応するもの」であると解釈する(Hans Kohn, Panslavism: Its History and
Ideology. Notre Dame: University of Notre Dame Press, p. 111)
6Б・エゴーロフは「
[正教、専制、ナロードノスチの]三位一体は非常に不明瞭であるが、
ウヴァーロフはこれをより正確に説明することはできず、しようとも思わなかった。[…]
ウヴァーロフは[ロシアの独自性、ナロードの生活と理想]といった問題群の深化や拡大
を決して求めず、遥かに明確な正教や専制と比べて第三の要素の定義が曖昧であるのも、
これによって説明される」と指摘し(Егоров Б.Ф. «Официальная идеология» // Из
истории русской культуры, том V (XIX век). Москва: Языки русской культуры, 1996,
C.83)
、А・レヴァンドフスキーも次のようにいっている。
「彼をよく知っていた同時代人の
証言によれば、彼には断固たる信念がなかったばかりか、基本的な誠実さも欠いていた。
[…]
根強い役人的性格、冷たく計算高い、本質的には自分のキャリアのための利益を除いては
何に対しても無関心な性格が、明確に感じられていた」
。そして、
「正教、専制、ナロード
ノスチ」の理論は、こうした人格性向が、教育と反体制運動との因果性の通念に抗して、
教育の発展を説得するために案出した方便であるので、
「彼の理論には[…]いかなる創造
的力もなかった」(Левандовский А.А. Т.Н. Грановский в русском общественном
движении. М.: Издательство Московского университета, 1989, С. 6-7, 9)。また、М・
シェフチェンコも「政治的キャリアのゆるぎない論理」がウヴァーロフの思想が独自に発
展するのを妨げた点を見ている(Шевченко М.М. «Сергей Семенович Уваров» // Против
течения. Исторические портреты русских консерваторов первой трети XIX столетия.
Воронеж: Модест Колеров, 2005, С. 294-295)。Н・カザーコフも、「正教、専制、ナロー
ドノスチ」が当時のはやり言葉「信仰、ツァーリ、祖国」の焼き直しすぎないとし、そこ
に積極的な意味を認めていない(Казаков Н.И. «Об одной идеологической формуле
николаевской эпохи» // Контекст-1989. Москва: Наука, 1989, С. 10)。
7 Florinsky, Russia, p. 798; Thaden, Conservative Nationalism , p. 19-20; Cynthia H.
Whittaker, The Origins of Modern Russian Education: An Intellectual Biography of
Count Sergei Uvarov, 1786-1855. DeKalb: Northern Illinois University Press, 1984, p.
103-110
4
(2)農奴制
他方で、
「ナロードノスチ」概念に具体的な内実を伴った意味合いを見出そう
とする解釈も存在する。これまで一定の影響力を持っていたのは、それを農奴
制と関連付ける見方である。例えば、А・プィピンは、検閲委員会の席において
ウヴァーロフが出版物での農奴制への言及に反対したことを根拠に、
「ナロード
ノスチ」は農奴制を含意するとし、ウヴァーロフの三幅対を「公式国民性理論」
と名付けた8。しかし、出版物での農奴制の議論はすでにアレクサンドル一世の
時代から禁止されていたことであり9、それを彼が望まなかったというだけでは、
「ナロードノスチ」と農奴制との関連は見い出せない。
(3)統治主義
しかしながら、プィピンの「公式国民性理論」の議論は、その後、統治主義
という観点からの解釈へと引き継がれる10。Л・ナソンキナは「[…]国民教育
省が目指したのは、社会・政治的、さらには学術的思想の発展の道程にできる
だけ「知的防波堤」を設け、大学教育を「公式国民性理論」の下で進めること
だった」11、とし、Н・エローシュキンも次のようにいっている。「[19 世紀]
30 年代には専制ロシアの「ナショナルな」国家的ドクトリン、すなわち基本理
念を専制、正教そしてナロードノスチに置く「公式国民性」理論が最終的に形
成された(最後の理念は封建・農奴制国家のあらゆる秩序に対する広範な国民
大衆の従順さとして理解されてきた)。この理論によって農奴制国家は国民大衆
の隷属を維持し、先進的な貴族や新興の雑階級人の輿論に対抗しようとしたの
である」12。
ただし、こうした一義的な評価に対しては疑問を呈する声もある13。たとえば、
Шевченко M.M. «Понятие «теория официальной народности» и изучение
внутренней политики императора Никорая I» // Вестнник Московского
университета. Серия 8, история. № 4, 2002, C.91-92
9 Там же, С. 92
10 Каптерев П.Ф. «История русской педагогика» // Педагогика, 1994, №3 , 1994, С.
68; Пресняков А.Е. Российские самодержцы. М.:Книга, 1990, С. 294-295 など
11 Насонкина, Л.И. Московский университет после восстания декабристов. М.:
Изд-во МГУ, 1972, C. 118
12 Ерощкин Н.П. История государственных учреждений дореволюционной России.
3-е изд. М.: Высшая школа, 1983, С.143
13Г・パヴロワは、自由主義と神秘主義の双方の論陣がウヴァーロフの三幅対に批判的であ
ったことを指摘し(Павлова Г.Е. Организация науки в России в первой половине XIX
в. М.: Наука, С. 1990:96)、П・アクリシンも、それが一定の思想傾向に還元できないこと
に言及した上で、彼を単なる反動であるとする結論について、次のようにいっている。「事
実を先入観を除いて検討すると、別の結論に達する。すなわち、ウヴァーロフのこうした
[大学自治の制限、身分制教育、私立学校や家庭教育への圧力、古典主義などの]施策は
8
高野雅之は、ウヴァーロフを反動家や開化主義者へと排他的に分類するのでは
なく、彼の三幅対が、国家の繁栄のための教育の重要性についての自覚と、教
育と反体制運動との因果性の通念という対立とを、両立させる原則であったと
指摘する。
「知的防波堤」の働きをするこの原則に準拠すれば、懸念される自由
主義思想や革命運動の広まりが抑制された上で、教育の発展が期待されるから
である14。
(4)ドイツ・ロマン主義の影響
こうした不可能性の克服の試みには、一種の美学的態度を見いだせるかもし
れない。Н・ツィンバーエフは「ナロードノスチ」概念におけるドイツ・ロマン
主義の影響を指摘する。
「「ナロードノスチ」は、
「時代精神」への必要に迫られ
た譲歩であり、ウヴァーロフがドイツ哲学(三位一体の原理はカント、フィヒ
テ、ヘーゲルに特徴的である)やヨーロッパのロマン主義を(個別の諸国民の
歴史が一回的であることへの関心や、歴史的に形成されてきたナショナルな性
格への敬意、過去の理想化をもって)重視した結果である」15。また、А・ゾー
リンは、F・シュレーゲルの影響を特に強調し、それとナショナルな単位につい
ての気づきの関連について指摘している16。
(5)ナショナリズム
「ナロードノスチ」概念にナショナリズムに関連的な含意を見出す解釈もあ
る17。A・ミラーは、ウヴァーロフの政治的感覚をそれに関連付ける。個別的な
ナショナリズムの高まるポーランドなどの西部地域において、教育を媒介に親
ロシア的態度を植え付け、当地に将来的に醸成されるだろうロシア・ナショナ
リズムを、帝国がその正統性のために利用する、という戦略である。
「ナロード
ノスチ」はここで、「未来を見越した戦略の発展、帝国の地位を固めるために、
教育の領域での進歩を妨げたのではなく、反対に促したのである」
(АкульшинП.В. «Граф
С.С. Уваров и его роль в жизни российского общества» // Педагогика, 1993, № 4, С.95,
96)。
14 高野雅之「一九世紀のロシア保守思想――文部大臣ウヴァーロフと公式国民性」
『社会科
学討究』早稲田大学社会科学研究所、第 37 巻第 2 号 108
15 Цимбаев Н.И. «Под бременем познанья и сомнения...» (Идейные искания
1830-х годов) // Русское общество 30-х годов XIX в. Люди и идеи (Мемуары
современников). М.: Изд-во МГУ, 1989, С. 30
16 Зорин А.Л. Кормя двуглавого орла... М.: Новое литературное обозрение, 2001,
С.351-354, 374
ただし、В・ポズナンスキーは、それが実体性を伴わない言葉であったことを
指摘している(Познанский В.В. Очерк формирования русской национальной
17
культуры. Первая половина XIX века. М.: Мысль, 1975, С. 144-145)
。
ナショナリストの政治学の原理を利用する方法の探求」に関連付けられている18。
ウヴァーロフのこうした戦略は、
「公定ナショナリズム」としての特徴を帯び
ている。それを指摘するのが H・シートン=ワトソンと B・アンダーソンであ
る。
「公定ナショナリズム」とは、帝国内の非支配的民族の民族運動への対応を
契機とした、王国や帝国による権力維持のためのナショナリズムの逆利用であ
る19。そこでは、本来は相容れないはずの帝国的原理(「正教、専制」)と国民的
原理(「ナロードノスチ」)との両立が生じる。ただし、シートン=ワトソンは、
その実際的な効果については疑問を呈し20、アンダーソンも同様である21。
以上、「ナロードノスチ」概念について、本質主義的な規定を認めないもの、
農奴制や統治主義、ロマン主義やナショナリズムについての含意を指摘するも
のとの二つの傾向が確認された。解釈の多様性は、対象が非本質主義的である
ためであると思われる。結果として、この概念はその言葉だけが独り歩きして
いる。そこで、そもそもこの概念が教育原則として提示されたものだった、と
いう素朴な事実に立ち返り、ウヴァーロフの教育の包摂性についての考えを、
彼の教育政策を参照することで、確認する。つまり、個別的な政策のほうから、
原則の内容を推量していくのである。
ただし、そうした教育政策がどの程度ウヴァーロフの意思を反映したもので
あるのか、という問題にも配慮するため、歴史的な流れを確認しておかねばな
らない。
3.19 世紀前半における教育の包摂性
(1)基本的特徴
身分制原理の採用の度合いの最も明示的な指標の一つとなるのは、国民教育
省管轄の各種学校の入学資格に関する規定であろう。そこで、それについて言
及するいくつかの重要法令を確認する。具体的には、1803 年の「国民教育予備
規程」、1804 年の「大学令」と「大学管下諸学校令」、1827 年 8 月 19 日のニコ
ライ一世の「レスクリプト」、1828 年の「初等・中等学校令」、1835 年の「ロ
Miller, The Romanov Empire, p. 151-154, 153
Hugh Seton-Watson, Nations and States: An Enquiry into the Origins of Nations and
the Politics of Nationalism. London: Methuen, 1977, p. 143, 148
20 「その市民の半分近くはまだ、まるで家財道具のように売り買いされる農奴であった。
半分以上は、ロシア語以外の言語を話していた。そのような段階で、ロシアのネーション
とは何であり、そのヨーロッパにおける位置とはどのようなものであっただろうか?」
(ibid,
p. 84)
21 ベネディクト・アンダーソン『増補
想像の共同体』白石隆・白石さや訳、NTT 出版、
1997 年、149 頁
18
19
シア帝国大学一般令」である。
この間、入学資格に関する規定は、政治状況の変化に対応して、修正が加え
られた。1825 年のデカブリストの乱とニコライ一世の即位がその代表的なもの
であるが、これ以降の法令は、政治の反動化を背景に作成されることになる。
一方、それ以前の法令は、アレクサンドル一世の治世初期に特徴的な啓蒙精神
の影響を受けている。そのため、19 世紀前半の教育システムの大まかな特徴と
して、自由主義から保守主義への移行という点を指摘できるだろう。このこと
は、入学資格の内容も左右することになるが、本質的な変更が生じることはな
い。本質とは、一定の身分開放性が、教区学校や郡学校などの初等教育のみな
らず、ギムナジア・大学といった中等・高等教育においても貫徹されたことで
ある。
(2)アレクサンドル一世時代
「国民教育予備規程」では、身分開放性が原則とされていた。ただし、上位
学校への進学には下位学校の履修が条件とされ、そのため、大学以下の諸学校
では、進学希望者にはそのための準備教育が、非進学希望者には完成教育が施
された22。
「大学令」では、
「大学で提供される講義の聴講に必要な知識を持たないもの
は、何人も学生として大学には受け入れられない」(109 条)とされていた。た
だし、ギムナジアの卒業生は入学試験を免除された(91 条)。また、所属する身
分団体からの証明書の提出が求められ、身分的な制限は明示されなかったもの
の、これが実質的にはその機能をはたした。「大学令」の目的は、「若者を国家
勤務の様々の職務へと参入させるべく準備する」ことだった23。
「大学管下諸学校令」でも、
「ギムナジアへはあらゆる身分の生徒を受け入れ
るものとする」
(14 条)とされ、大学以下の諸学校の身分開放性を保証している。
教育内容についても、進学のための準備教育と完成教育とを指定している24。
22Антология
педагогической мысли России первой половины в. (до реформ 60-х гг.)
Сост. П.А. Лебедев. Москва: Педагогика, 1987, pp. 28-31; Петров, Формирование, т.
1, С. 219-227; РождественскийС.В. Исторический обзор деятельности Министерства
Народного Просвещения, 1802-1902. СПб, 1902, С. 50; 佐々木弘明『近代ロシア教育史
研究』亜紀書房、1995 年、373-374, 376-377 頁
23 橋本伸也「19 世紀前半ロシアにおける教育の身分制原理とエリート学校」
『京都府立大
学学術報告「人文・社会」
』第 51 号、1999 年、201 頁; Петров, Формирование, т. 1, C.
266-268, Рождественский, Исторический обзор, C. 58
24 Антология, C. 31-45; 海老原遥
『帝政ロシア教育政策史研究』風間書房、1998 年、294-295
頁; Рождественский, Исторический обзор, C. 64; 佐々木『近代ロシア教育史研究』
376-378 頁
(3)ニコライ一世時代
1827 年のニコライ一世の「レスクリプト」は解放農奴を除き、農奴のギムナ
ジアへの入学を明示的に禁止した25。ニコライ一世が教育程度を生得的な身分に
対応させることを求めたためだ26。結果、「大学及びギムナジアへの入学が許可
されるのは、
[…]解放されたものも含めて、自由身分のものだけに制限される
必要がある」(Flynn [1988:172]。Петров [2003:65]、佐々木[1995:420])との
決定なされ、ギムナジアと大学への身分的な入学制限がなされた。
「初等・中等学校令」の入学資格に関する規程では、身分優先指定がなされ
る。ギムナジアは貴族・官吏の子弟を(137 条)、郡学校は全身分、特に商人や
職人その他の都市住民の子弟を(46 条)
、教区学校は最も低い身分の子弟を対象
とするよう定められた(4 条)。また、郡学校とギムナジアとの連続性も失われ
た。ただし、これらの身分規定は「優先」であって「専用」ではない27。
「ロシア帝国大学一般令」の入学資格に関する規程では、入学試験の合格が
条件とされたが、ギムナジアを修了している場合はそれを免除されることもあ
った(91 条)。また、農奴を除き担税民も入学することができ、身分的な制限は
明示されていない。
「一般令」は大学自治の制限を特徴とし、しばしば反動的と
の評価を受ける28。
(4)身分開放性と身分的排除
こうしてみると、身分開放性と身分的排除とは 19 世紀前半を通して並存し、
君主の交代に連動してその強調の度合いを変化させたのだと考えられる。そし
て、この並存の一貫性は、いずれの傾向も合理的な根拠を有していた可能性を
Patrick L. Alston, Education and the State in Tsarist Russia. Stanford: Stanford
University Press, 1969, p. 28, 32; 橋本伸也「ロシア近代中等教育の形成と展開」望田幸男
編『国際比較・近代中等教育の構造と機能』名古屋大学出版会、1990 年、180 頁;
Рождественский, Исторический обзор, C. 187-188
26 彼は次のようにいっている。
「ギムナジアやその他の高等教育機関でしばしば農奴が学ぶ
姿が目にされるようになってきた。このことは二重の害をもたらす。第一に、そうした若
者は初等教育を受けても、それは大抵が怠慢な主人や両親からのものなので、悪い習慣を
備えたまま上位の学校に進み、それを仲間に伝染させてしまう。このことで彼らは、より
慎重な両親がその子弟をこうした機関に通わせることを妨げている。第二に、彼らのなか
で最も有能なものは[上位学校での]生活や思考様式、観念に適応するものの、それが彼
らの階層に見合ったものとはならないということである。その避けられない重荷は絶えが
たいものとなり、おおかた彼らは絶望して有害な夢や低俗な感情にふけることになる」
(Nicholas Hans, History of Russian Educational Policy, 1701 – 1917. New York:
Russell & Russell, 1964, p.65)
27 Антология, C. 178-187; 橋本「ロシア近代中等教育の形成と展開」
、182 頁; 佐々木『近
代ロシア教育史研究』417-424 頁
28 橋本「19 世紀前半ロシアにおける教育の身分制原理とエリート学校」216 頁; Петров,
Формирование, т. 3, С. 291, 350; Рождественский, Исторический обзор, С.247
25
示唆するものだ。ここでその根拠を探るには、その並存を体験する当事者であ
る担税民の教育システムにおける扱いの実相が示唆的であると思われる。
担税民の高等教育の機会が問題化されたのは、1827 年の「レスクリプト」が
初めてではない。それは 1811 年には、官僚制の問題として主題化されていた29。
担税民は元老院の許可なしに国家勤務につくことはできないという論理と
(1798 年 7 月の法令)、大学卒業者は基本的に国家勤務につくことになってい
るという論理が並存しており、ここに担税民の大学卒業者の扱いの問題が生じ
たのだ。これについて、1811 年 11 月の法令は、担税民は大学に入学できるが、
全課程を修了するとその身分から解放されるとし、彼らの官僚機構への道を開
いた30。ただし、1813 年 9 月には、担税民は入学前にその下属先から解放され
ていることが望ましい、との通達が教育大臣によりなされる。結果、1814 年に
は31、大学とその準備機関であるギムナジアへの入学には、担税民はその法的な
権威者からの解放証明書を提出しなければならなくなった。
身分に関するこうした弾力的な運用が、官僚制確立に連動したものであるこ
とは、1813 年 9 月の教育大臣の通達32が示唆的である。そこでは、担税民に高
等教育が奨励されないのは、彼らが卒業後もその身分の義務をはたさねばなら
ず、教師や文官にならないからである、とされている。この懸念はしかし、身
分的拘束から自由であることが予め確証されていれば解消される。解放証明書
の問題はこれらを背景としている。ここで教育システムは、官僚制確立と身分
制原理という二つの対立的な規範の作用圏にまたがっており、身分に関する弾
力的な運用も、そのどちらを優先させるかという問題に規定されたものだった、
と考えられるよう思われる。
以上、19 世紀前半の教育の包摂性の特徴として身分開放性と身分的排除の並
存が確認された。そして、この弾力的な運用が可能にする非特権的身分の高等
教育への人材流入の容認が示唆するのは、一定の教育水準にある官吏の不足33か
らくるその要員確保という意向である。つまるところ、身分制原理と官僚制確
29
青島陽子「19 世紀前半ロシアにおける教育――国民啓蒙省下の教育システムと大学の機
能」『クリオ』12、クリオの会、1998 年、35 頁; Петров, Формирование, т. 2, С. 17;
Рождественнский C.Б. «Сословный вопрос в русских университетах в первой
четверти XIX века» // ЖМНП, 1907, новая серия ч. 9, отд. 2, С. 88-89, 96-98
30 James T. Flynn, “Tuition and social class in the Russian universities: S.S. Uvarov and
‘reaction’ in the Russia of Nicholas I” Slavic Review. Vol. 35. No. 2, June, 1976, p.
234-235
31 James T. Flynn, The University Reform of Tsar Alexander I, 1802 – 1835 .
Washington D. C.: The Catholic University of America Press, 1988, p.176
32 Ibid, p. 76; Петров, Формирование, т. 2, С. 18
33 塚本智宏「19 世紀ロシア身分制的学校制度の展開とその再編」
『稚内北星学園短期大学
紀要』七/八号、1995 年、11 頁
立の二つの論理が同時に働いていたのである34。
4.ウヴァーロフにおける教育の包摂性
(1)授業料の問題
一般的な評価としてウヴァーロフは貴族主義的とされており、彼自身そうし
た言辞をいくつも残している35。この点を確認した上で、彼の授業料の扱いにつ
いて整理しよう。授業料を定めることは、相対的に貧しい非特権層に対して、
たとえそのことが明示的でないとしても、間接的・遂行的に教育機会を奪う政
策である。したがってそこには、教育の包摂性についての考えが表れざるをえ
ない。
1839 年 10 月 10 日、大学授業料はペテルブルグ大学とモスクワ大学は 28,57
ルーブル(以下、すべて銀貨)、ハリコフ大学とカザン大学は紙幣で 14,29 ルー
ブル、聖ウラジーミル大学は銀貨で 14 ルーブルと定められた。ただし、それは
貧窮学生の奨学金と学校の運営費を主眼に設定されたものである。また、これ
には減免制度も用意されていた。1845 年 6 月 15 日には、それが値上げされる。
ペテルブルグ大学とモスクワ大学には 40 ルーブル、ハリコフ大学とカザン大学、
聖ウラジーミル大学には 20 ルーブルを授業料として課す提案がウヴァーロフに
よりなされたのだ。ただし、これについても集められた基金は貧窮学生の奨学
金と学校の運営費に対してあてられ、減免制度も用意されていた36。
34
同上、14 頁; 橋本伸也「帝政期ロシアの教育システム――エリート教育とその若干の特
徴をめぐって――」
『ロシア史研究』第 60 号、1997 年、48, 50 頁。同前「19 世紀前半ロシ
アにおける教育の身分制原理とエリート学校」『京都府立大学学術報告「人文・社会」
』第
51 号、1999 年、203, 207, 209 頁。同前「帝政期ロシアにおける古典語教育の運命――微
弱な伝統と「上から」の導入」望田幸男・村岡健次編『近代ヨーロッパの探求④エリート
教育』ミネルヴァ書房、2001 年、157 頁
35 彼は 1840 年 12 月 31 日の回状で次のようにいっている。
「私の考えでは、学生の受け入
れの際には完全な公正さの遵守をもって、高等教育に身を捧げようとする若者の出自だけ
でなく、彼の前に広がる未来にも一定の注意を向けなければならない。一方では、知的能
力の広範な発達は確かな利益をもたらすが、他方では、この発達は市民生活における未来
の使命に合ったものでなければならない。この問題については、厳格な規則を敷いて断固
とした線引きをすることは難しいにしても、教育志向がいたるところで高まるなか、高等
な教育科目へのこの過度な志向によって市民的身分の秩序が、それを現実に適用してもほ
とんどは成功せず、貧しい両親の期待や若者の空想的な予期を裏切ることになる贅沢な知
識の獲得へと若者の精神を昂揚させ、何らかの形で揺るがされることがないよう配慮する
時代がきた、という判断に従うことができ、そうべきである」(Сборник распоряжений
Министерства народного просвещения, т. 2, 1835-1849. СПб, 1866, C. 494)。
36 ЖМНП, 1839, ч. 24, отд. 1, c. 22-28; 1840, ч. 26, отд. 1, c. 19-20; 1842, ч. 34, отд. 1, c.
6; 1845, ч. 27, отд. 1, c. 31-39; Егоров Ю.Н. «Реакционная политика царизма в
このように、貧しい学生の教育機会に制約を加える手段としての授業料は、
その目的を彼らの教育機会の拡充においており、矛盾した構成をもったものだ
った。とはいえ、1845 年の授業料についてウヴァーロフは、ニコライ一世への
報告においてその身分的排除の意図を明確に語っている37。しかしながら、授業
料をめぐる目的と手段との矛盾は、その意図を一義的に解釈することを困難に
し、それが貧困学生の救済基金を目的にしていたとして、下層身分排除の動機
の強調を批判する指摘にもつながっている38。
ここで留意すべきは、実際にはどういった階層のものが最も救済されること
がありえそうだったか、という点である。蓋然性の域を出ないが、恐らくそれ
は貴族・官吏層だったことが予想される。というのも、多様な身分構成を示す
とはいえ大学生の最大の割合を占めていたのはこの階層であり39、また救済対象
に身分指定はなかった40からである。また、財力の条件についても、彼らは適合
的である。リチャード・パイプスによれば41、19 世紀中頃のロシアで農奴を所
有するロシア人貴族は 10 万人、そのうち、一定の社会的ステータスの指標であ
る 100 人以上の農奴を所有する者は 2 万人だった。すなわち、地主貴族といえ
どもその大半は裕福ではなかった。このことは、その子弟の経済状況も推量さ
せるものだ42。実際、1839 年には、大学生の七割から九割が授業料の全額ない
вопросах университетского образования в 30-50-х гг. в.» // Исторические науки:
Научные доклады высшей школы. 1960, № 3, C. 62, 64; Flynn, “Tuition and social
class,” pp. 239-240, 242-244; Рождествеский, Исторический обзор, C. 255; Whittaker,
The Origins , pp. 179-180
37 「高等そして中等学校では若者の流入が明らかに増えており、その一部は社会の下層の
生まれで、彼らにとって高等教育は無益であり、過度の贅沢であり、当初の身分から抜け
出ても、それは彼らにとっても国家にとっても利益のないところでありまして、このこと
を考えますと、個人的な確信としても陛下のあらかじめの許可[ウヴァーロフの授業料値
上げの提案にニコライ一世が賛成したこと]に則しましても、教育施設の財政強化という
よりは、若者の教育への志向を様々な身分の市民的習慣とある程度相応した枠組みに抑制
するため、高等と中等教育機関では学生からの授業料の値上げが不可欠であると思われま
す」
(Рождествеский, Исторический обзор, C. 256)。また、以下も参照。Alston, Education
and the State, p. 36; Егоров., «Реакционная политика», C. 62, 65; Милюков П.Н.
Очерки по истории русской культуры, в 3 томах (4 кн.), т. 2, ч. 2. М.: Прогресс, 1994,
C. 301; Florinsky, Russia, p. 804; W.E.H. Johnson, Russia’s Educational Heritage.
Pittsburgh: Carnegie Press, 1950, pp. 99-100
38 Flynn, “Tuition and social class,” pp. 242-243
39 Егоров, «Реакционная политика», C. 63, 67; 橋本
「19 世紀前半ロシアにおける教育の
身分制原理とエリート学校」203-205 頁、同前「帝政期ロシアにおける古典語教育の運命」
155-157 頁
40 Flynn “Tuition and social class,” p. 240
41 Richard Pipes, Russia under the old Regime. Second edition. London: Penguin Books,
1995, pp. 175-179。以下は、1858-9 年、ヨーロッパ・ロシアの 37 県の数である。
42 次のような指摘がある。
「授業料の導入は学生の多くの経済状況に重い影響を及ぼし、多
くの者を大学からさらせた。ハリコフ教育管区の監督官は、1840 年前半で 37 名の学生か
し部分的な免除を受け、1848 年にモスクワ大学で授業料の全額を支払った学生
は 1165 人中 85 人しかいなかった43。また、モスクワ大学の学生の少なくとも
30%は何らかの援助を受け、その約半分が貴族であり、給費生の構成において
も世襲貴族の割合は高かった44。以上のことから、一見すると下層身を救済する
この政策が最も利的だったのは貴族・官吏層だったと予想される。
授業料それ自体は、
「貧困層」の進学を抑制するものだ。しかし、貧困層の救
済が目的におかれている場合、それはむしろ彼らの進学を促進する政策となる。
授業料は富裕層だけに課され、それが貧困層に再分配されるのだから。とはい
え、1845 年の授業料値上げに関しては、ウヴァーロフはその動機として「下層
民」の排除を明確に語っている。ここで語られる排除の圧力は、貧困層に対す
る進学の奨励に一見、矛盾する。それらが両立しうるとすれば、ウヴァーロフ
が「貧困層」と「下層民」とを別に考えている場合である。そうでなければ、
彼は同じ対象を包摂しつつ、排除していることになり、この行為は冗長である。
ゆえに、両者は異なる単位であると考えるのが自然であるが、一般に「貧困層」
と「下層身」とは即応しており、ウヴァーロフもそれを知らなかったとは考え
にくい。そこで、両者を分かつ差異について示唆的であると思われるのは、彼
が教育機会を享受できる条件として能力を重視している点である。次のような
元農奴の少年の事例が、このことを物語っている。
この若者[ラゴジノ村の農奴イワン・ペトロフ]は「数学の天才」で、875
×35×5=153125 といった課題を 17 分間で 12 問解いた。彼の主人は 8 人
の子供を抱えた未亡人で、所有する農奴は大家族を支えるにはあまりに少な
いたったの 17 人だったので、ギムナジア入学のためペトロフを解放するこ
ら貧困のための授業料免除申請が、同年後半には 77 名、1841 年前半には 135 名の学生か
らの申請があったと報告している」
(Егоров, «Реакционная политика», C.62)。当時の学
生の経済状況を知るには、その貧しさに焦点を当てるなら、たとえば給費生を志望する学
生の事例への参照が有益であろう。モスクワ大学の学生については、次のような指摘があ
る。「給費生としての受け入れは、優秀な成績、品行方正、貧困についての「数名の貴族」が
署名した証明書の提示を条件に、学生の申請に基づくものだった。政治学部の学生 A・コマ
ロフが申請で示したのは、郵便局長である彼の父親が 10 名からなる家族に何の生活手段も
残さぬまま亡くなってしまったことだった。聖職者身分出身で医学部の学生 L・デルブスキ
ーはこう書いている。「昨年は給養に関しては本当に貧窮状態ですごし、現在も金銭的援助
はどこからも受けておらず、すべてを失い、パンや住むところさえありません…」。貴族の
息子で政治学部の学生 A・デミデンコは、彼の父親が「極貧にあり、私の学業を続けたいと
いう思いにもかかわらず、私を扶養することはどうしてもできません」、と書いている」
(Насонкина, Московский университет, C.31)。
43 Whittaker, The Origins, p.179
44 Flynn, “Tuition and social class,” p. 244, note 30; Рябикова, Т.Б. «Численный и
сословныц состав студентов Московского университета» // Вестник Московского
университета. Серия 9, история. № 5, 1974, C.66
とに乗り気ではなかった。だが、最終的に彼女はツァーリから 2000 ルーブ
ルの保証を受け彼を解放する。45
ここで政府は優秀な人材を、場合によっては損失補填をしてまで、集めようと
し、ウヴァーロフ自身も彼を気にかけ、大臣の年次報告書のなかでしばしば言
及している46。つまりここでは、元農奴の少年は「下層民」よりも「貧困層」と
しての属性を強調され、能力がこの区別の際の指標となっている。このことは、
彼の上流階級の定義によっても傍証される。それは、大学の専門性は彼らに完
成教育を授けること、とする文脈の中で、次のように語られる。
.
ここで上流階級といって我々が思い描いているのは、他からの何らかの封
...
....
建的な断絶ではない。上流階級という言葉が意味しているのは、高い知的
能力を恵まれ、市民的状況がその完全な発展を妨げない者のすべてである。
47
つまり、ウヴァーロフは教育機会に関して生得的地位よりも獲得的地位を重視
しているのであり、授業料と奨学金はこの思想が貧困層について適用されたと
きの表現だったと考えられるのである。であれば、ここに能力主義を基調とし
た一種の平等主義を指摘できるだろう。しかしそれは、彼の基本的な傾向とし
てのエリート主義と矛盾するものである。ここで示唆的であるのは、彼のいく
つかの初等・中等学校政策である。それは、彼を一義的にエリート主義的であ
る、とする見方に慎重さを促すものである。
(2)初等・中等学校政策
1817 年 4 月、サンクト・ペテルブルグ教育管区の監督官だったウヴァーロフ
は二つの提案をする。第一に、初等学校の教員の給与と年金のための資金とし
て全階梯の学校で授業料を導入すること、第二に、中央高等師範学校に教区学
校と郡学校用の教員養成課程を設立することである。第一の提案については、
1819 年 2 月、国民教育省が必要と認める学校で、地方の状況にあった額を徴収
することが承認される。このときの授業料の導入に身分的排除の意図はなかっ
た48。第二の提案については、1817 年 10 月に承認され、1820 年 1 月に実現に
Whittaker, The Origins, p. 141
Уваров C.C. «Общий отчет» // ЖМНР, 1836, ч. 10, отд. 1, c. XLVII; 1837, ч. 14, отд. 1,
c. XXXVI-XXXVII; ЖМНП, 1839, ч. 22, отд. 1, c. 28; 1840, ч. 26, отд. 1, c. 35; 1842, ч. 34,
отд. 1, c. 21
47 Уваров, «О средствах», C.235-236
48 海老原『帝政ロシア教育政策史研究』313 頁; Hans, History of Russian Educational
45
46
至るも、ウヴァーロフが監督官を辞した翌年の 1822 年には閉校になった。これ
は教員不足の改善策として案出されたものであり、初等教育に対する彼の重要
視を示すものである。しかも、この問題に関してウヴァーロフは「庶民教育を
適切に制定しなければ、国民教育の全システムは砂上の楼閣である」との見解
も残している49。
この様な見解は、非エリート教育の根幹的な重要性に関するウヴァーロフの
確信を窺わせるものだ。であれば、庶民を含めた「国民教育の全システム」、す
なわちある種の平等主義がその関心の基底部を構成していたにもかかわらず、
実際には身分制原理を伴う政策が彼によって推進されたことの矛盾をこそ問題
にしなければならない。この矛盾は、官僚制確立という目的だけでは説明でき
ない。なぜなら、官僚制の論理が平等主義を一定の割合で許容していたのは、
十分な官吏の確保という目的に相関してのことであって、庶民自体が積極的に
価値化されてはいなかったからだ。ところが、ウヴァーロフにおいては、彼ら
は「国民教育」における重要な役割を与えられている。したがって、そのこと
の説明は、外在的な要因(官僚制確立)ではなく、内発的な要因に求められね
ばならない。彼の世界観がここで参考となるだろう。
5.ウヴァーロフの世界観
(1)平等主義
ウヴァーロフの世界観には平等主義と進歩史観の二つの特徴を指摘できる。
Policy, pp. 51-2; Милюков, Очерки по истории русской культуры, C.301; James T.
Flynn, “S. S. Uvarov’s ‘Liberal’ Years,” Jahrbücher für Geschichte Osteuropas 20, No. 4,
1972, pp.483-484; Рождественский, Исторический обзор, С.137; 佐々木『近代ロシア教
育史研究』395 頁; Whittaker, The Origins, p.68
49 Flynn, “S. S. Uvarov’s ‘Liberal’ Years,” pp.484-485; Исабаева Л.М.
«Общественно-политические взгляды С. С. Уварова в 1810-е годы» // Вестник
Московского университета. Серия 8, история. № 6, 1990, C.29-30; Петров,
Формирование, т. 2, С.428-431, 753 note 60, 69; Whittaker, The Origins, pp.68-69。ま
た、彼は同様の内容を次のようにも語っている。
「結果として、良質な初等学校はギムナジ
アの繁栄を促し、有能な学生と教師を常に十分な数で準備する。ギムナジアとしては大学
に貢献し、後者からはアカデミーが才能と基本的な知識を備えた者を確保する。このよう
に、下級学校は啓蒙の苗床なのであり、それらは解体から必ず守られねばならない」
(Whittaker, The Origins, p.69)、大学のこうした[停滞した]状況は、中等と初等教育の
状況によって非常に簡単に説明できる。これらを然るべく整備しないことには、我々が大
学を手にすることは決してないだろう。しかし、ギムナジアの整備、特に国民学校の整備
は、大学の改善の困難を上回るものだ。それは経験ある幸福な手を必要とするだけでなく、
我々がギムナジアは大学に準備し、初等学校はギムナジアに準備しなければならない、と
主張しながらも、これまであまり考えてこなかった計画や目的も必要とするのだ」(Уваров,
«О средствах», C.232)。
以下、主に C・ウィッタカーによる整理50を参考に、それらを確認する。
まずは平等主義について概観する。ウヴァーロフの世界観の基礎を構成して
いるのはキリスト教である。彼は 1840 年の論文の冒頭で次のように記し、それ
を人類の精神史における分岐点として理解している。
キリスト教、この崇高な事実、重大な完成された事実だけが、知性の年代
記におけるそれ以前とそれ以降との間に深い境界線を引くのである。
それゆえ、厳密に言うと、二つの文芸、同じく二つの観念体系、同じく
二つの文明しかないのである。すなわち、キリスト以前の古代文明とキリ
スト以降の近代文明である。51
こうした理解を基礎に、キリスト教的倫理観が彼の世界観を構成することに
なる。その結果、各人は神の被造物として意味付けられ、彼らの尊厳と平等の
保障が規範的とる。たとえば彼は、近代の成熟した政府はその住民すべてに市
民権を認めるべきである、と信じていた52。また彼は、1818 年の中央高等師範
学校での演説において古代ギリシャや古代ローマの政治形態を可能にした奴隷
制に言及し、ヨーロッパ中世をそれを緩和した時代として肯定的に位置付ける53。
この評価の違いは、キリスト教的倫理観に由来するものだ。そして彼によれば、
ローマ帝国の崩壊自体がキリスト教の出現に規定されたものだった。
「ローマ帝
国という巨人を倒壊させたのは、ゲルマン民族でも、北方や東方からの戦争で
も、暴君の落ち度や民衆の堕落でもない。キリスト教がそれにとどめを刺した
のだ」。
「奴隷制が消滅したのはキリスト教の影響下のことである。というのも、
それはキリスト教の道徳とは両立しなかったからである」54。
ウヴァーロフは自身のキリスト教的世界観とそれに由来する平等主義との妥
当性を、アカデミックな形でも裏付けようとしている。彼はサンクト・ペテル
ブルグにアジア・アカデミーを設立し、ロシアを東洋研究の世界的拠点にする
ことを主張する 1810 年の論文において、最も古代のサンスクリット言語でさえ
文法的完成を誇っていることの意味を、そこに摂理が働いていること、この点
で人類共通の尊厳があることの証明としている55。
Whittaker, The Origins, pp.34-56
Ouvaroff, S.S. “Vues générales sur la philosophie de la littérature,” Études de
philologie et de critique, deuxième édition, Paris, 1845, pp. 339-340
52 Whittaker, The Origins, p.50
53 Исабаева, «Общественно-политические взгляды», C.25-26; Петров,
Формирование, т. 2, С. 749, note 23]、Cynthia H. Whittaker, “The Ideology of Sergei
Uvarov: An Interpretative Essay.” Russian Review 37, No. 2 , April, 1978, p.161
54 Исабаева, «Общественно-политические взгляды», C.25-26
55 Whittaker, “The Ideology,” p.512。彼はそこで、イギリスの言語学者ウィリアム・ジョ
50
51
以上の概観は、ウヴァーロフの世界観に平等主義的な傾向を見出すことにつ
いての一定の根拠となっているだろう。とはいえ、先述のように彼は実践にお
いてはエリート主義的でもあった。こうした理想と現実とのねじれは、感情的
な葛藤を生むものである。だが彼は、理想を制限した。そしてこの制限に関連
しているのが、進歩史観という彼の世界観を特徴づけるもう一つの傾向である。
(2)進歩史観
ウヴァーロフにおける進歩史観の形成には以下のような文脈があった56。少年
期の彼はフランス人家庭教師からヴォルテール主義を、遊学したゲッチンゲン
大学では保守主義を受容し、青年時代を過ごしたウィーンでは絶対主義と立憲
君主制のいずれの支持者とも交流している。進歩史観については、社会的な影
響が強い。進歩への信念は 18 世紀以降の歴史哲学の中心的な主題であり、彼も
「進歩の法則」と「人間理性」とを関連付けて文明の発展モデルを構想した。
その際、イメージされたのは、各世代が先行世代の達成を引き継ぐ「終わりな
き連鎖」というものだった。
「進歩の法則」は、幼年期・青年期・成熟期・老齢期など有機体論的に分け
られ、それぞれ世界史上の区分と緩やかに対応させられた57。ウヴァーロフによ
れば、歴史の幼年期(古代オリエント)は、生得的な知性の力により青年期(古
代ギリシャと古代ローマ)へ移行する。ただし、その社会構成は自由民と奴隷
との分化に依拠し、政治形態も独裁(デスポティズム)と無政府状態(共和制)
だった。キリスト教の影響を受けつつ、これに後続するのが、封建制、さらに
は絶対王政である。中世と近代とがこの段階に対応する。これは成熟への移行
期であり、その間に福祉や市民権などの問題が主題化され、制限君主、啓蒙専
制君主が現われるようになる。結果、次の段階として、ウヴァーロフが「神の
最後の最良の賜物」と呼ぶ政治的自由が想定される。この段階が彼の歴史理論
における成熟期にあたる。ただし、その場合も規範的な理想を体現するのは立
憲君主制である。とはいえ、ウヴァーロフはこうした図式を理論的に基礎づけ
ーンズの次のような一節を引いている。「サンスクリット語は、その古さにもかかわらず、
驚くべき構造を持っている。それはギリシャ語よりも完璧で、ラテン語よりも豊富で、そ
のいずれよりも洗練されているが、そのいずれに対しても動詞の起源や文法形式において
偶然によって生まれるだろう以上の強い類似性を持っていて、実際、その強さはどんな文
献学者も、それらが恐らくはもはや存在しない共通の起源から生まれたものであるという
ことを信じずには、それらを調べられないほどである」
(Ouvaroff, S.S. “Projet d’une
académie asiatique,” Études de philologie et de critique, deuxième édition, Paris, 1845,
p. 13)
。
56 Whittaker, The Origins, pp.35-38
57 Ibid, pp. 38-44; Исабаева, «Общественно-политические взгляды», C. 25-26; Петров,
Формирование, т. 2, С. 421; Шевченко M.M. «Сергей Семенович Уваров» //
Российские консерваторы. (ред. Н. Мещерякова). М.: Русский мир, C.99-100
ることはなく、その原動力も神の摂理により説明されるにすぎない。
ウヴァーロフの進歩史観における理想態である立憲君主制を、すでにヨーロ
ッパは実現している。従って、それは成熟期を過ぎた「疲弊した老人」として、
それとの対照においてロシアは「勇敢な花盛りの若者」58として位置づけられる
ことになる。「ヨーロッパの大家族における年少の息子」59であるロシアには後
進性が残るものの、それは「進歩の法則」により克服される。その際、重視さ
れるのが君主の役割である。歴史の発展が不可避である以上、その移行を穏や
かにし、予期される動揺を緩和することが重要であるが、それを可能にできる
のは君主とされたからだ。
発展は失敗することもあり、その象徴が革命である60。それは摂理が課す罰で
あり、歴史的道程からの逸脱や伝統をないがしろにする政治システムの採用の
結果であった。このことの問題性は有機体論的に説明される。進歩の実現され
る範域は国家が単位として想定されているので、その変化は物理的環境や社会
的慣習から無関連ではいられない。そのため、
「移植された制度は、それを受け
入れる土壌と非常に長い時間をかけて同一化しない限りは、繁栄することはな
い」61との判断が導かれる。社会政治的な変容が、根源的には容認されつつも、
一定のサンクションを受けるのは、このためである。ウィッタカーはウヴァー
ロフのこうした歴史理論を次のように簡潔に整理している62。強調されるのは摂
理と人間理性の機能である。前者が後者の前提となり、目的を与える。それを
受け取った後者は、予定された方向を目指すが、逸脱した場合には、前者が再
び後者に干渉する。
以上の概観により、ウヴァーロフの世界観における平等主義と進歩史観とは、
次のように交錯する。すなわち、平等主義の文脈では政治的自由と市民的自由
とが主題化される。前者は万人の平等を最善の形で具体化し、後者はその次善
的な選択である。進歩史観の文脈では、絶対王政から啓蒙君主制、そして立憲
君主制への発展が主題化される。君主の役割は歴史の発展を調整することにあ
り、革命はその失敗だった。従って、緩慢な発展と、規定的な支配形態として
の王制とが妥当視される。結果、移行期にあるロシアは発展に失敗する可能性
がある以上、本来は政治的自由が選好されるが、それはウヴァーロフの独特な
Исабаева, «Общественно-политические взгляды», C.32, 27-28; Петров,
Формирование, т. 2, С.424; Шевченко, «Сергей Семенович Уваров», C.100-101;
Whittaler, The Origins, pp.1984:45-49
59 Ibid, p. 46; Петров, Формирование, т. 2, C.424; Шевченко, «Сергей Семенович
Уваров», C.100
60 Исабаева, «Общественно-политические взгляды», C.27, 31; Whittaker, The
Ideology,” pp. 162-163
61 Ibid, p.162
62 Whittaker, The Origins, pp.38-9
58
進歩史観の内容上、許容されないので、市民的自由が選択されるのである。
5.まとめ
(1)世界観と「ナロードノスチ」
ウヴァーロフの世界観を参照したのは、彼の教育政策が庶民の包摂を目指し
つつ、彼らを排除するという矛盾した構成を呈していたからであった。そして、
この矛盾ゆえに、教育原則「ナロードノスチ」の含意を確定するのに困難が生
じるからであった。
平等主義と進歩史観とが、その内容上、ウヴァーロフの教育政策に要請する
のは次の二点である。すなわち、教育は、一方では平等主義に準拠せねばなら
ず、他方ではエリート主義に準拠せねばならない(教育機会の拙速な拡大は、
革命思想を招来し、発展を失敗させる恐れのあるため)。しかし、双方の要請は
互いに背反しており、同時に果すことはできない。それゆえ彼は、授業料の問
題において示されているように、平等主義に配慮しつつ、実質的にはエリート
主義的な政策を推進するという妥協的な選択を迫られることになる。とはいえ、
こうした妥協が意味するところは、充足の遅延であり、目的からの疎外に他な
らない。そうした状況の常態化にあって選択される合理的な適応行動は、内面
化された目的を放棄することだろう63。ところが、ウヴァーロフは平等主義的理
念を一貫して表明している。このことは、彼が何らかの方策を勘案し、そうし
た葛藤にうまく対処していることを示唆するものだ。
ここで注目すべきは、ウヴァーロフにとっての未来の意義である。彼は現在
の行為が、未来の目的に相関して意味づけられるという図式を、忠実に遂行し
ているように思われる。たとえば、次のような発言がある。
[教育の基礎作りのような]このような営為の完全な達成を目にすること
は、我々にはできないにしても[…]すぐに我々に取りかわる世代なら、
我々の仕事の成果を集めることができるだろう。64
ここで語られているのは、目的が未来に達成されることを口実に、現在の負い
目を正当化する戦略である。こうした見解は以後も表明されており、同様の戦
63
ロバート・マートンはこうした態度を「逃避主義」と呼んでいる(ロバート・マートン
『社会理論と社会構造』森東吾・森好夫・金沢実・中嶋竜太郎訳、みすず書房、121-178
頁)。
64 Whittaker [1984:89]。
ウヴァーロフの同様の志向性については ibid [1984:5]、Шевченко
[1997:130]も参照。
略が一貫して採用されていることを示している65。そして、同じことは、彼の教
育の包摂性にかかわる政策についても指摘できると思われるのだ。すなわち、
エリート主義が平等主義を目的として措定することである。これにより両者の
交錯がもたらす葛藤は大幅に緩和されるだろう。重要な点は、こうした想定と
教育原則とは無矛盾的でなければならない、ということだ。であれば、
「ナロー
ドノスチ」とは、まさにそのような未来への志向性を備給する原則だったので
はないか。なぜなら、教育政策においていかにエリート主義を採用しようと、
そこに「ナロードノスチ」という媒介がありさえすれば、それは平等主義を擬
制できるからである。
こうした見解を採用するならば、そもそも「ナロードノスチ」概念について
のウヴァーロフの説明に内容的特定性が欠けていたこと自体も、説明が可能と
なってくる。というのも、内容の特定は、その包摂性を特殊に限定するからで
ある。
「ナロードノスチ」概念の本質に平等主義が含意されているとすれば、こ
の傾向の徹底は普遍主義としか両立しえない。したがって、それは普遍主義を
含意することになり、ここに積極的な規定(特殊主義)を加えてしまうと、そ
れは原理的な混乱を生んでしまう。それゆえ、
「ナロードノスチ」についての言
及は必然的に抽象的なものにならざるをえなかったのである。
(2)まとめ
以上の議論を振り返っておく。初めに、ウヴァーロフが 1830 年代以降に主張
するようになった教育原則「正教、専制、ナロードノスチ」における「ナロー
ドノスチ」概念の内容的特定性の欠如が確認され、次に先行研究の多様な見解
を参照した。続けて、それが教育原則であったことに立ち返り、彼が採用した
教育政策の方から間接的に推量する、という方法を試みた。
まず、19 世紀初頭以降の教育の包摂性に関係する政策を参照し、身分制原理
と官僚制確立の二つの論理を背景にした身分的排除と身分開放性との並存を確
認した。次に、ウヴァーロフの授業料政策に言及し、それによる貧困層の排除
と包摂という二重の効果を確認した。これは、
「ナロードノスチ」から彼らが完
65
「もちろん、
[国民教育の]システムは、一人ないし数人の人間の力以上のものを要求す
るものです。しかし摂理は、成果を手にするのは、その種をまいた者である、と定めてい
るわけではありません。全体の幸福が問題になっているとき、一人の人生と力など、何を
意味しましょうか? 世代の一つや二つはすぐに地表から姿を消してしまいますが、国家
というものは、そこに信仰、愛そして希望の神聖な火が灯っている間は、永遠なのです」
(Уваров, «О некоторых общих началах», С. 72)、「[教育部門ではなく、学術部門]で
は、教育省がなしたことは、ある意味で、後に芽を出し成長する種の未来を信じるまでで
した。我々にはまだ隠されている未来が、現在は萌芽にある果実を目にし、収穫するので
す。教育省の機関で教育を受け、人生と国家勤務への準備を終えた若い世代が成熟し発達
したとき、未来は教育省に最後の判決を言い渡すでしょう」
(Уваров, Десятилетие, С. 72)
。
全には除外されていないことを意味するもので、この概念の包摂性の複雑さを
示す事例として扱われた。次に、その複雑さをより理解するため、彼の世界観
の問題へと議論を移した。
彼の世界観の主要な特徴は、平等主義と進歩史観であり、いずれも教育の包
摂性についての彼の考えに影響を与えている。前者は教育の一般的な普及を、
後者は歴史発展の緩慢化を迫るものである。両者の交錯により、教育の一般化
の理想は、歴史発展の失敗への危惧から、断念され、教育機会は限定されるこ
とになる。
次に理想を断念することに由来する、感情的な否定性の解消方法について検
討した。その際、注目したのはウヴァーロフにおける未来の意義である。とい
うのも、彼は理想の実現を未来に設定することで、現状の充足からの疎外を克
服しているように思われるからである。教育に関しても同様の構想は指摘でき
る。そして、それは教育原則「ナロードノスチ」に下属するものである以上、
両者は無矛盾的でなければならない。このことから、
「ナロードノスチ」概念が
包摂するのは、現在の限定的な単位と未来の包括的な単位だったのではないか、
との仮説を立てるにいたった。
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