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2015.02.01 聖書 出エジプト16:1-21 ヨハネ6:35
聖 書 メッセージ ヨハネ 6:35 出エジプト16:1-21 「マナといのちのパン」 野田 禎 ○ ここに森永製菓のマンナというお菓子があります。 このマンナがいつ頃できたかというと 1930 年、今から 85 年もまえのことです。 金解禁、金融恐慌の中の不景気な中です。 森永さんがクリスチャンだそうで、ロゴマークは天使となっています。 「世の中にはまだ、乳離れをしたばかりの幼児が食べられるお菓子がほとんどない時代 でもありました。森永は、母親が子供に与える最初のお菓子として、栄養価の高いビスケ ットを食べてもらいたい。そんな願いを込め、ミルクの味わいを大切にした、軽くて食べ やすい、離乳食としてのマンナが生まれたのです。 マンナの語源が、旧約聖書にある、“神が荒野をさまよえる民に与え給うた愛の食べ物” manna <マナ>にちなんでいることからも、森永の想いが見受けられます。」 *1 栄養価が高く、安心して食べられるお菓子、マンナ、それが出エジプトのマナから来て いるのですね。 マナというのは神様が荒野を旅するイスラエルの民の為に、なんと毎日天からくださっ た食べ物です。味は「蜜を入れたせんべいのよう」(出エジプト 16:31)で、「おいしいク リームの味のようであった」(民11:8) だったのです。子どもも喜んで食べられるものです。 !m マンと発音しますが、これは何だろうという意味です。(16:31) 今日はマナといのちのパンと題して語ります。 中心のみことばは イエス様の御言葉「わたしがいのちのパンです。」です。 ○ イスラエルの民がエジプトから脱出することができました。それは不思議な神様の導き と助けです。紅海は真二つに分かれ、民は乾いたところを通って向こう岸に行きました。 その後をエジプトの精鋭の戦車が追ってきましたが、モーセが海に手を伸ばすと、神様は その海を元通りにされ、エジプト軍は大波に飲まれてしまいました。 民は神様の奇跡に感動しました。 しかし、心は感動しているのですが、食料は段々空くなっていきますそしてお腹は空い てきました。出発して第二の月の 15 日には エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に つきました。 食べるものがありません。どうしたら良いのでしょうか。 このときにでてくるのは「つぶやき」です。 そのつぶやき、不平不満を言ったのは誰でしょうか。 イスラエル人の全会衆(16:2)です。 誰に向かって行ったのでしょうか。指導者であるモーセとアロン(16:2)にです。 *1 https://www.morinaga.co.jp/biscuit/history/story/ex_manna.php -1- 400 年の間、奴隷となっていたところから救われて喜んでいたのですが、大きな困難が すぐにやってきました。それが食料が不足しているということでした。 このつぶやきは当然のこととして理解できないでもないのですが、しかし、紅海を真っ 二つに分けてくださってイスラエルの民を助けてくださった神様への信頼が無いのでつぶ やきがでてしまったのです。 賛美歌に 数えて見よ主の恵みというのがあります。 538 2 節、主の賜いし十字架を 数えて見よ 担い切れず沈む時 主の恵み 呟きなど如何であらん 数えよ主の恵み 数えよ主の恵み 数えよ一つずつ 数えて見よ主の恵み イスラエルの民は数えることのできる恵みが少なくとも12ありました。 エジプト王がイスラエルの民にエジプトを出て行って良いというまでに10の災いが エジプトを襲いました。しかしイスラエルの民には何の害もなかったのです。 そして先程も話しました、紅海が二つに分かれてその乾いた地を通ることができた こと、そして最後にイスラエルの民を取り戻そうとやってきたエジプトの軍勢が海 の中に飲まれてしまってもう二度とみることが無かったこと。 もしイスラエルの民がこの恵みを数えていたら、「つぶやきなどいかにあらん」でしたで しょう。 モーセにこう言えたでしょう。 「モーセさん、神様は幾つも幾つも恵みを与えてくださり、イスラエルの民を守っ てくださいました。10の災いもイスラエルの私たちには及びませんでした。神様 の恵みです。そして紅海のなんと乾いたところを渡ることができましたし、エジプ ト軍はもう私たちから永久に遠離りました。今私たちの現状を申し上げますと、食 料は底をつきそうになっています。神様はきっとこの困難からも救ってくださいま す。モーセさん、神様にお祈りをお願いします。よろしくお願いします。」 つぶやきと信仰をもったお願いとどちらを私たちは取りたいでしょうか。 神様に対する信仰をもったお願い、祈りでしょう。 モーセはアロンを通してイスラエルの民に主の前に近づくように言いました。 そこに主の栄光の雲の柱が現れました。 つぶやきの原因はそこに神様をカウントしていなかったからです。 モーセはイスラエルの民に神様をカウント、考えに入れるように導きました。 先程の 数えてみよ主の恵みの歌詞には英語の原文があります。そこには Count His blessings とあります。神様の恵みをカウントしなさい。考えに入れなさい、数えてみ なさいと言う意味です。 神様はイスラエルの民をエジプトから救出してくださり、荒野に導かれた時に、神 様ご自身を礼拝する民として訓練をしてくださいました。 考えの中心に神様の恵みを数える、それが礼拝の姿勢です。 神様に対してイスラエルの民はつぶやいてしまいましたが、神様はイスラエルの民 にご自分に信頼を置くように諭されます。 -2- なんと神様は優しいお方でしょうか。 ○ ひこばえ幼稚園というキリスト教主義の幼稚園がちかくにあります。そこでお祈り をするときには「やさしい天のお父様」と言ってお祈りをします。 やさしい天のお父様は、イスラエルの民にどんなことをしてくださったのでしょう か。夕方にはうずらが飛んできたというのです。急いでイスラエルの民はウズラを 捕まえました。大切なタンパク質が手に入りました。 それだけではなく、朝になると一年に不思議な露が降りていました。それがあがる と、そこには白い霜のような細かいもの、鱗のような細かいものがありました。お いしいマナが日ごとに与えられたのです。 神様は毎日各自自分の分だけ、一オメルずつ、一オメルは2.3リットルを集めま した。二日分は駄目です。明日の分までととっておくと、それは腐ってしまいまし た。安息日の前にには二日分、各自 2 オメルを取ることが許されました。しかしとっ ておいたものは不思議と腐らないのです。それで安息日は労働をしなくても食事を とることができるようになりました。 マナはイスラエルの民が荒野を旅をしていた 40 年の間ずっと与えられていました。 不平不満を数えるのでは無く、神様の恵みを数えながら、礼拝者として作り上げら れていったのです。 ○ 旧約聖書を読む時に新約聖書が必要です。また新約聖書を理解するためには旧約聖書 が必要です。 旧約聖書に書かれている マナ、民に与えられた食べ物は、実は新約聖書において大 切な雛形となりました。それはイエス様こそ、まことの神であり、いのちを与えてくださ る方、マナがイスラエルの民にとって必要なパンのようなものであったように、まことの いのちのパンとしてイエス様が来られ、私たちはまことのいのちのパンであるイエス様が 必要であることを教えているのです。 私たち人間には、まことのいのちのパンであるイエス様が必要なのです。 イエス様は私たちに 1,神様からのいのちをあたえてくださいます。 教会のリフォームの時、電気屋さんが向こうとこっちで声を掛けていました。 「おーい、このコードは生きているか、死んでいるか」「あっ、それは生きて います」コードが生きているというのは蛇のようにくねくねと動くというの ではなく、電気が来ているということです。 生きているコートも死んでいるコードも見た目は同じですが、違いは電気が 来ているかどうかです。 人間も見た目は同じでも神様からのいのちがあるかないかは大きな違いです。 2,神様の恵みを数えられるようにしてくださいます。 イエス様は私たちの罪の為に十字架にかかってくださいました。そして三日目 によみがえってくださいました。信じるあなたの心の中に入っていてください ます。まことの神様が私たちの内に宿ってくださるのです。ありがたいですね。 -3- 神様は私たちの前に恵みを置いて下さっています。 これも感謝、これも感謝。今は嫌だなと思うことがあっても、きっと神様はす べての事を働かせて益としてくださいますから、感謝。 3,神様は私たちに生きる喜びを与えてくださいます。 偶然生きているのでは無く、神様に愛され、目的を与えられて生きていること はすばらしいことです。生きるってすばらしいと思いながら生きられることは すばらしいことですね。 私が学生時代、主都中央教会の早天祈祷会に行くのを楽しみにしていました。早天 祈祷会が終わると、田中礼子先生が用意してくださった朝食を皆で頂きました。 そのときに飯島さんという年配の方の話を聞きました。 私がクリスチャンになる前は飲んべえでね、給料が入ると皆酒に使ってしまって 家族を苦しめていました。そんな時に娘が教会に行くようになって、娘に連れら れて教会に行くようになって、罪深さが分かってイエス様を信じてクリスチャン になりました。クリスチャンっていいですね。心の中から喜びが溢れてきますか ら。 この前、窓を見たら向こうに素敵な笑顔の人が映っていました。良い笑顔だなと 思って良く見たら、実は自分の顔がガラスに映っていたんですよ。 そんなことを言って、また素敵な笑顔で話してくださいました。 そのお嬢さんが将来献身して、梅田先生と結婚され、フィリピンの宣教師となっ た梅田登志枝先生です。 ハレルヤ! 「わたしはいのちのパンです」 私たちにできることがあります。 1,聖書と証し 日々のみことば メール 電話で 2,祈る事 個人で、また祈祷会は教会の中心です。 3,集会に励むこと 互いに励まし合う、 礼拝の時間、祈祷会の時間、9 時の祈りの時間 イスラエルの民が、マナを日ごとに食べたように、わたしたちは毎日イエス様 から恵みを頂いて歩むことができます。 「わたしはいのちのパンです」と仰る、イエス様を信じ、今週も神様の恵みを一 つ、また一つと数えて歩みましょう。つぶやきは消えてしまいます。 お祈りしましょう 優しい天の父なる神様、御名を讃美します。 今、私たちは生かされ、神様に愛されている事を感謝します。 イスラエルの民は折角神様から沢山の恵み、奇跡を見せて頂いたのに思わずつぶ やいてしまいました。恵みの主なるイエス様を見上げ、恵みを数えて歩みます。 そしていのちのパンであるイエス様につながり歩んで行きますのでよろしくお願 い申し上げます。愛する主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン -4-