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井上隆晶牧師 出エジプト記40 章28~38 節

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井上隆晶牧師 出エジプト記40 章28~38 節
2015 年 10 月 25 日(日)主日礼拝説教
『臨在の幕屋』 井上隆晶牧師
出エジプト記 40 章 28~38 節、ヨハネ 11 章 38~44 節
❶【主がモーセに命じられたとおり】
神様はモーセに幕屋を建てるように命じられました。幕屋というのは神殿の事で
す。荒野を旅するイスラエルの民は、石の神殿を建てることが出来ません。そこ
で彼らは木と布で折り畳み式のテントでできた神殿(幕屋という)を造りました。
出エジプト記の 25 章から 39 章まで、15 章もさいて、事細かに幕屋の建設のこと
が書かれています。彼らは釘一本に至るまで主が命じられたように作って行きま
した。横木の数や寸法、台座の数、柱の数、留め金の数、幕屋の刺繍の色の数ま
で忠実に作って行きます。ちなみに契約の箱の寸法は縦 67 ㎝×横 112 ㎝、高さ
67 ㎝です。聖所の寸法は高さ 4.5m×横幅 5m40 ㎝×奥行 13m50 ㎝です。その
周りに庭があって幕を張りめぐらします。都島教会が 27 坪(89 平米)あります
から、20 坪(67.5 平米)すこしということになります。けっこう大きいです。
さて 36 章を見ると面白い記事が出て来ます。工事が始まると、民はおのおの自発
の献げ物をモーセのところに持っていきました。ところが彼らの献げ物があまり
にも多かったので、モーセは命令を出し「聖所の献納物のためにこれ以上努める
必要はない」
(出エジプト 36:6)と言いました。何とうらやましい話かと思いま
す。また何と欲のない話でしょうか。せっかく民が献げ物を持ってきたのだから、
それらを全部集めて、もっと大きな立派なものを建てればいいのにと思います。
でも彼らはそうはしませんでした。
●以前、徳島の大塚国際美術館に行ったことがあります。そこには世界の名画を
陶板で再現したものが沢山あり、聖堂も有名なシスティナ礼拝堂とイタリアとフ
ランスとギリシャの聖堂などが建物そのままに内部が再現されています。テサロ
ニケの聖堂はとても狭く、15 人も入れるかどうかで、祭壇はとても小さいのには
びっくりしました。
聖堂というのは大きければいいというものではないのだと思いました。出エジプ
ト記 39 章を読むと、
「主がモーセに命じられたとおり」に作ったという言葉が 10
回も出て来ます。大事なことは、神が命じられたとおりに造るということなので
す。
●榎本牧師はこの箇所についてこういっています。
「聖所は『すべて神が命じられ
たようにしなければならない』のである。そこに聖所の生命がある。たとえ大き
なものを建てても、主が命じられた以上のものであれば、それはもはや聖所では
なく、単なる建造物である。そこは神のいましたもう所ではない。
」
なるほどと思います。教会が大きいかどうかを神は見ているのではなく、神に従
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っているかどうかを見ておられるのです。そのことに気をつけなければなりませ
ん。ここは聖所になっているだろうか、それとも単なる建物なのだろうか問われ
ていると思います。
・
「馬は勝利をもたらすものとならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、
主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。
」
(詩編 33:16
~18)
●エリの息子たちは祭司でしたが神を畏れず、神への献げ物を盗み、神殿で仕え
ている女性たちと関係を持ちました。エリの子どもたちは祭司の家に生まれなが
らも、神を畏れる敬虔さがありませんでした。聖なるものに慣れてしまうことは
何と恐ろしいことでしょう。
「私を重んずる者を私は重んじ、私を侮る者を私は軽
んじる。
」
(2:30)と主はエリに言います。こうしてエリの一族の若者は早死にし、
一族は没落してゆきます。これが神の罰です。神を重んじない者は、その務めが
解任されるのです。ああ、何と恐ろしいことか。こうして神を軽んじ、神の言葉
を軽んじる者は、神からの守りを失うことになります。神の裁きは正しいと思い
ます。神の聖性が守られますように。教会の聖性が守られますように。正しい者
が神の国を継ぎますように。
神様が見ているのは、その人が神を畏れているかどうか、主に従っているかどう
かです。そのような人が集まる教会に神の命は宿り、そこは神のいましたもう聖
所となります。
❷【幕屋に主の栄光が満ちるために】
40 章になると、彼らは 1 月 1 日に、幕屋を建てたとあります。建てるといっても
正確に言うなら「組み立てた」という意味でしょう。パーツはすでに出来ていた
のですが、そのバラバラのパーツが一つに組み立てられて幕屋になったというこ
とです。そして契約の箱を至聖所に安置し、垂れ幕を掛け、パンを備える机、七
枝の燭台、香を炊く祭壇を置き、入り口には垂れ幕をかけました。そして庭には
祭壇と手足を洗うために水が入った洗盤を置き、すべての祭具に聖別の油を注ぎ、
聖別しました。さらに祭司に祭服を着せ、油を注いで聖別しました。ここを読む
と、私はこの都島教会を改装し、すべての祭具を買って準備し、カーテンをかけ、
祭服を揃えた時のことを思い出すのです。
「モーセはこうして、その仕事を終えた。雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕
屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとど
まり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。
」
(出エジプト 40:33~36)書か
れています。すべて神が命じられたとおりにすると、神の栄光が満ちたというの
です。ソロモンが神殿を建てた時にも同じような表現がされています。
「祭司たち
が(契約の箱を安置して)聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。その雲のた
めに祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が主の神殿に満ちた
からである。
」
(列王記上 8:10~11)ここにも聖所の中に雲が満ち、祭司たちが
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入れなかったと書かれています。私の経験では、雲というのは「香の煙」のこと
であり、聖霊のイメージを現しています。私も時々香を炊きますから良く分かり
ます。ここには窓がありますが、幕屋には窓がありません。その中で香を炊けば、
煙が満ち、何も見えず、奉仕を続けらなくなります。香の煙のことを古い時代の
人は「神の栄光、雲」といったのです。
幕屋というのは「臨在の幕屋」と言われています。臨在というのは、
「神がそこに
来られる、そこに臨まれる」という意味です。すべて命じられたとおりにすると、
神様が来て下さり栄光を現すというのです。
「栄光」というのは神様が姿を現すこ
とを言うのです。神様は目には見えませんが、本当にいるというしるしを人に見
せます。時にはそれが奇跡であったり、病の癒しであったり、回心であったり、
人の知恵を越えた驚くべきことが起こるのです。信仰生活にとって一番すばらし
いのは神の現れを体験することです。ここを読むと神の栄光が現れる、満ちるま
でに長い時間の準備と大変な苦労があったということが分かります。それなくし
て、神の栄光は現れないのだと思います。
●火曜日の「心の病の勉強会」でT牧師が「家で使っている充電式の掃除機は、
充電するのに 3 時間がかかる。でも 20 分しか使えません」と言っておられたのを
思い出します。天平時代に造られた薬師寺もそうでした。塔の屋根裏には所狭し
と材木が使われています。今の大工なら3つの塔ができるほどの材料です。それ
で塔は倒れないのです。
無駄だと思う水汲みをした僕だけが、水がぶどう酒に変わる神の力を体験したの
です。神の栄光を現すために見えないところで、祈りに多くの時間をかけなけれ
ばなりません。その人だけが、神の栄光を見ることが出来ます。
❸【天を見上げて旅をしよう】
「雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときには
いつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発し
なかった。
」
(出エジプト 40:36~37)雲は香の煙であるといいました。だから香
の煙が幕屋の上に白く昇っている時というのは、モーセが中で祈っている時なの
です。
「わたしの祈りを御前に立ち上る香りとし、高く上げた手を夕べの供え物と
してください。
」
(詩編 141:2)神の言葉を聞いて、祈って確信を得たら出発した
のではないかと思うのです。このことは祈りの生活をすることなしに、人生を旅
立ってはならないということを教えています。この教会は 7 年の祈りの後にスタ
ートしました。だから必ず祈りの雲が私たちを導いてくれます。
イスラエルの民が旅をしたように、私たちの人生も旅です。目的は神の国です。
私たちは神の国をいつも仰ぎ見なければなりません。この世と神の国というのは
二重の螺旋構造のように共存しています。この世の終わりは始まっており、やが
て完全に終わります。神の国はキリストの到来と共にこの世にやって来て、やが
て完成するでしょう。この世はもともと神のもの、彼の国です。この世の中に神
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が植えなかったもの(罪・悪・死)はキリストによってすべて抜き取られ、この
世は父なる神に返され、やがてこの世と神の国は一体になるでしょう。そうして
ちょうどキリストの中で天と地が一体になったように、新しい天と新しい地が生
まれるのです。天を見上げなければ、私たちに希望はありません。地ばかりを見
ていたら、心は暗くなり、絶望します。
「預言者とは、人の見ないものを見、人の
聞かない言葉を聞いて、それを恐れずに人に告げるために召された者である」と
榎本牧師はいっています。
●ある大学が良い光景と悪い光景を交互に見せるという実験をしました。すると
面白い結果が出たのです。楽観的な人は、良い光景ばかりを注視するようになり、
悲観的な人は、悪い光景ばかりを注視するように分かれたというのです。つまり
悲観的に物事を見る人というのは、いつも悪い光景ばかりを見る傾向があり、楽
観的に物事を見る人というのは、普段から良い光景ばかりを見る傾向があるとい
うことがはっきりしたというのです。これはとても面白いことです。教会に頻繁
に来て礼拝し、聖書を読み、祈る人は、楽観的な言葉、希望の言葉をいつも聞く
ことになり、いつも天国を垣間見ているので楽観的になってくるのです。しかし
同じように聖書を読んでも、悲観的にしか読めない人もいます。その人の特徴は
「神の罰」
「最後の審判」
「滅び」などという言葉だけに目が行くということと、
聖書から神を知るのではなく、この世から神を知ろうとしているという点にあり
ます。インターネットで悲惨な事件や映像ばかりを見ている人も、だんだん脳が
悲観的にしか物ごとを考えられないようになって行くのです。
●ベートーヴェンは自分の聴覚が失われてゆく兆候に気づいた時、絶望のどん底
に突き落とされました。聴覚が弱るのを食い止めようといろいろ手を尽くしまし
たが、症状はますます悪化してついに完全に聞こえなくなりました。そのような
苦しい条件の中で第3交響曲以降のすべての壮大な交響曲が生まれたのです。彼
はこの世の声に気を散らすことがなくなってから、ペンを取ると新しいメロディ
ーとハーモニーが流れるように湧き出てきたというのです。
私たちもこの世の声からしばらく退く時、神様の天上の声を聞くことができるよ
うになります。祈りと聖書朗読は集中力が勝負です。だから静かにしてほしいの
です。この二つは私たちキリスト教徒にとっての命です。神が語っているのです。
単なる良い言葉ではないのです。良く聞きましょう。すばらしい恵みの言葉が宝
のように聖書の中には溢れています。
「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に
満ちた。
」どうかこのような私たち、このような教会でありたいと思います。神に
従い続ける者になりましょう。天の国を見、キリストを仰ぎ、神の声を聞く私た
ちになりましょう。
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