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朝鮮民主主義人民共和国を訪問して
昭和26年8月27日 第3種郵便物承認 広島県医師会速報(第2019号) 2008年(平成20年)8月5日(8) 「朝鮮民主主義人民共和国を訪問して」 「朝鮮民主主義人民共和国を訪問して 」 広島県医師会常任理事 柳 田 実 郎 今回、朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)を訪問する機会を得た。実質3日間の滞在中、 KANPP(IPPNWのDPRK支部)のメンバーとの会談を行い、在DPRK被爆者2 名の方からお話を伺い、ピョンヤン市内を中心に、多くの施設を見学した。 DPRK訪問の経緯 6月21日松から25日昌の5日間、朝鮮民主主 義人民共和国(DPRK)を訪問する機会を得 た。 実は、昨年モンゴルのウランバートルで行わ れたIPPNW北アジア地域会議での、JPP NW(日本支部)とKANPP(DPRK支部) の会談の席で、碓井静照JPPNW支部長(広 島県医師会長)が、「DPRKの被爆者に面会 し、広島県医師会として何ができるか考えるた め、DPRKを訪問したい」旨、KANPP側 に伝えていた。 本年インドのデリーで行われたIPPNW世 界大会にもKANPPから2名の参加があり、 再度行った会談の席で、碓井支部長がこの件に つき問いただしたところ、KANPP側から そうれん 「DPRKの入国については、朝鮮総聯を通して 欲しい。すでに話はしてあるので、問題ない」 との答えであった。 これを受けて、本年秋頃広島県医師会役員5 ~6名でDPRKを訪問することについて、朝 鮮総聯広島県本部と詰めを行っていた過程で、 「6月にピョンヤンを訪問するグループがあるの で、先遣隊として医師会から1名参加してはど うか?」という投げかけがあり、担当理事が参 加することになったという経緯であった。 DPRK訪問団 今回の訪問団の団員は、朝鮮総聯広島県本部 と広島県内在住の元教職員などの方々による 「国交正常化を早期実現するための広島県訪問 団」に、在DPRK被爆者の映画を作っている フォト・ジャーナリスト1名と担当理事が加 わった、計10名(最終的に1名減の9名)で あった。 すなわち、団長で民族教育の未来を考える ネットワーク広島の横間洋海代表、社民党広島 連合の上村好輝副幹事長、アイ女性会議の中尾 泰美事務局長、新社会党広島県本部の齋尾和 望・敏子両執行委員、朝鮮総聯広島県本部のキ ム・ジ ノ 委 員 長(都 合 に よ り 不 参 加)と リョー・セジン国際部長、広島県朝鮮商工会の カン・イジュン会長、三重県桑名市在住のフォ ト・ジャーナリスト伊藤孝司氏であった。 ところで、朝鮮総聯やそれに近い方々は、朝 鮮民主主義人民共和国を「共和国」と呼び慣わ しており、担当理事も今回の訪朝中は、そのよ うに呼んでいたが、ここではあえて「DPRK」 と記す。 DPRKに向けて出発 6月20日晶前泊の関空近くのホテルで「結団 式」という呼び名の顔合わせ会を行い、21日松 関空から出発した。中国・瀋陽行きの全日空便 で、ひとまず経由地の中国・大連に降り、中華 人民共和国への入国手続きを行い、再び同じ飛 行機に乗り込んで瀋陽に飛び、瀋陽空港でピョ ンヤン行きの航空券とDPRKの入国ビザを受 け取り、携帯電話を預け、出国手続きの後に、 高麗航空のロシア製(旧ソ連製?)ジェット機 に乗り込んだ。 瀋陽空港では、京都と茨城の朝鮮学校の卒業 旅行の一行と遭遇した。日本各地の朝鮮学校で は、卒業旅行にDPRKを訪れるのが慣例なの だという。以前はマンギョンボン号で訪朝して いたが、ここ2年は利用できないため、航空機 利用となり出費がかさんでいるとのことであっ た。この100名近い卒業旅行生を乗せるため、本 来週2便の高麗航空は臨時便を増発しており、 われわれも定期便から30分後に出る臨時便で ピョンヤン空港に向かった。 (9)2008年(平成20年)8月5日 広島県医師会速報(第2019号) ピョンヤン空港に到着したのは夕刻であった。 空港には、DPRKと国交のない国からの渡航 者の受け入れ機関である対文協(朝鮮対外文化 連絡協会)の3名(研究員のリ・ハジン氏、指 導員のオ・ソンウ氏とキム・チュンシル女史) が、通訳兼ガイド役として、マイクロバスで出 迎えてくれていた。 自己紹介もそこそこに、早速ピョンヤン市内 のホテル・コウリョウ(高麗ホテル)に移動し た。このホテルは、欧米人や日本人専用であり、 古くはあるがツインタワーの形体を持つ、ピョ ンヤンでは最高級ホテルであり、パスポートを 預けチェックインした。 ところで、稲作はDPRKにとって最重要産 業であり、6月後半は全人民をあげて田植えに 従事するのだそうである。ピョンヤン在住の政 府の役人や軍人も例外ではなく、出迎えの3名 も、前日まで田植えにかり出され日焼けをして いた。 歓 迎 会 ホテル到着後、ホテル内の宴会場で歓迎会が 行われた。対文協側からは、ファン・ホナム局 長と前出の3名の計4名が出席した。ファン局 長は、従軍慰安婦に関する裁判の証人として来 日経験があり、この時の証言内容のためか、以 後日本への入国が拒否され続けているというこ とであった。 訪朝団の中では、横間団長は今回で4度目の 訪朝であり、親DPRK活動家として対文協か ら評価されており、フォト・ジャーナリストの 伊藤氏は23度目の訪朝で顔馴染みであり、上村 氏も3度目の訪朝とのことであった。 まずファン局長から歓迎の辞が述べられた。 当初は、横間団長をはじめ、社民党や新社会党 の活動に敬意を表する旨の弁が述べられ、 「偉大 なるキム・イルソン主席と親愛なるキム・ジョ ンイル総書記のおかげで、DPRKは税金もな く、教育や医療は全てただであり、大変住みや すい国である」という自国を賛美する言葉が続 いた後、本音の言葉となった。要約すると、 「D PRKとアメリカ合衆国は、停戦協定を結んだ のみで、何ら条約を交わしておらず、両国はい まだに戦争状態にある。アメリカ帝国主義は、 南(大韓民国の意)に膨大な軍備と兵員を駐留 させ、わが国を威嚇し続けており、日本帝国主 義もこれに追従している。日本は、2次大戦中 に数百万人の朝鮮人を強制連行し、10 0万人以上 を殺し、20万人以上を従軍慰安婦にした。これ 昭和26年8月27日 第3種郵便物承認 らの保障は全くなされておらず、この膨大な犠 牲者に比べれば、拉致された5~6名など物の 数ではない。米国による「テロ支援国家」解除 が秒読みの現在、拉致問題にこだわっていれば、 日本は6カ国協議の中で孤立するであろう」と いうものであった。また医療については、 「被爆 者は被爆者証明書を持っており、この証明書が あれば優先的に診察が受けられる」という話で あった。 続いて訪朝団の各自の自己紹介が行われた。 担当理事は、広島県医師会としての今回の訪朝 の意義について説明するため、広島県医師会が これまで行ってきた在外被爆者支援について 縷々述べた。しかしながら説明が長すぎたため か、 「アメリカの被爆者の話はいいから、わが国 の被爆者のことを喋るように」とファン局長に せかされた。 ホテルの部屋 ホテル・コウリョウは、客室が30階くらいの ツインタワーとなっており、複数のレストラン やみやげ物店のある高級ホテルである。一泊1 万5千円くらい(DPRK並みには大変高価) の部屋は大変広く、ツインベッドのシングル・ ユースで、コーヒーテーブルを置いた小さな別 室もあり、等身大のやたら大きな姿見(鏡)の ある踊り場のような部屋にはやや違和感はあっ たものの、バス・トイレも広く清潔であり、冷 蔵 庫 や ド ラ イ ヤ ー も つ い て お り、ミ ネ ラ ル ウォーターも毎日供給され、大変居心地が良 かった。 また、海外からの客専用とあって、テレビに は地元の番組は映らず、CNNなど英語放送の 2局をはじめ、ロシア語放送と中国語放送が2 ~3局ずつあり、NHKの英語放送もあり、衛 星放送を受信しているものと思われた。 6月22日掌 板 門 店 朝ホテルを出て、マイクロバスで板門店(パ ンムンジョム)に向かった。対文協の3名も同 じホテルに泊まっており、われわれに常に同行 した。 ピョンヤンを出ると、片側2車線で中央分離 帯のあるまっすぐな道路が、板門店まで続いて いる。メンテナンスが悪いため、アスファルト の表面が剥げており、ガタガタ・ゴトゴトとい う振動の中、160キロの道のりを2時間かけてひ 昭和26年8月27日 第3種郵便物承認 広島県医師会速報(第2019号) 板門店:DPRK側の建物から韓国側を見る。青と白の建物 の間に、軍事境界線が引かれている。 た走った。 ピョンヤン市内にもあまり多くの車は走って いないのだが、この道路では対向車を見ること はなく、軍のトラックに2~3台出会ったのみ であった。国境に向かって軍備や兵士を運ぶた めに造られた軍用道路であろうと思われた。農 作業にかり出されたのか、カーキ色のズボンに 白シャツの若者が大勢で、スコップなどを肩に ひたすら歩いていた。自転車も時に見かけたが、 ほとんどの人が徒歩であった。 DPRKは韓国に比べ、山岳地域が占める割 合が大きく、土壌の大部分はやせた赤土であり、 水田に適した土地は少ない。しかしながら、こ の道路の周辺には水田が広がり、DPRKの穀 倉地帯のようである。遠くの山々には、水害で 崩れて赤い地肌をさらしている場所を多く見か けた。山肌の中腹まで、急ごしらえの段々畑と なっているところも多かったが、畑の中に果樹 などを植え、畑土が雨で流されるのを防止する 努力も払われているようであった。 DPRKと大韓民国との国境は、38度線と呼 ばれてはいるが、まっすぐなわけではなく、米 国を中心とした国際連合軍とDPRK・中華人 民共和国による共産軍との間で交わされた停戦 協定が成立した時の停戦ラインに他ならない。 この停戦ライン(国境)の南北2キロメートル ずつは、非武装地帯となっており、南側には一 般住民は住んでいないそうであるが、北側には 水田が広がり、農民が田植えにいそしんでいた。 ところで、くだんの軍事道路は非武装地帯の 手前で終わり、そこから先は、徒歩で通り抜け るゲートをくぐり、われわれの護衛のためとい う2名の人民軍兵士とともに専用のバスに乗り 込み、片側1車線の曲がりくねった道を通って 田んぼの中を進んだ。 板門店は停戦協定が調印された場所である。 停戦ラインの両側には、それぞれの国の威信を 2008年(平成20年)8月5日(10) 示すがごとき大きな建物が向かい合い、それら に挟まれるような形で7棟の平屋の建物が並ん でいた。3棟は青く4棟は白く塗られており、 青いのは国連側が白いのはDPRK側が管理し ている。これらの建物と建物の間のさら地には、 ブロックを並べたようなコンクリートの線が中 央部分に引かれており、停戦ラインを示してい る。 この建物には、南北両側に入り口があり、7 棟の真ん中の青い建物に入ると、中央に横長の 大きな机があり、机の真ん中の線が停戦ライン に一致し、その両側に椅子が並んでおり、ここ で停戦協議が行われたという。建物の前には、 人民軍の兵士が立っており、職務交代の儀式 (?)なども行われていたが、これはもっぱら観 光客用であり、普段は全員監視棟の中にいるの だそうである。 停戦ラインを見下ろす建物のバルコニーから、 青と白の建物、向かいにある韓国側の建物、そ れぞれの監視棟と国旗、うっそうと茂る木々な どを眺め、近くにある停戦調印が行われた建物 で、調印に関わる資料を見たりした後、来た道 を戻った。 霊 通 寺 再びマイクロバスに乗り、板門店に程近い開 城(ケソン)市を抜け、舗装のない山道をしば らく走って、五冠山霊通寺(リョントンサ)に 着いた。 霊通寺は、高麗初期に大覚国師という僧が興 した高麗天台宗の寺であり、観世音菩薩を奉り、 朝鮮で最も由緒ある寺として700年間栄えていた ものの、豊臣秀吉の朝鮮出兵で廃墟となり4 00年 が経過していた。1998年から、日本の大学とD PRKの共同調査により遺跡の発掘が進み、そ の資料を元に29棟の仏閣・仏塔が復元されたと いう。落成式には、日本からも天台宗の僧侶80 名が参加したそうである。 再建された霊通寺:2名の僧侶とともに (11)2008年(平成20年)8月5日 広島県医師会速報(第2019号) 周辺の山々には、面白い形の岩々が山肌から むき出しており、その周囲をうっそうとした 木々が取り囲む、大変風光明媚な場所であった。 KANPPとの面談 夕刻ホテルに着くと、KANPP(IPPN W・DPRK支部)のカン・ムンリョル事務局 長と医学生のオ・リョンイル君が待っていた。 両名ともにヘルシンキ大会とモンゴル大会に参 加しており、カン氏とはデリー大会でも会って いる。 KANPPのメンバーとは、英語で話すのが 常であるものの、今回は会談の内容を対文協で も把握する必要があると見え、キム女史が通訳 として加わり、担当理事が日本語で、KANP P側は朝鮮語で話した。当初は喫茶コーナーで コーヒーを飲みながら話していたが、何となく ざわついており、小さな会議室を用意していた だき、そこで1時間くらい会談した。 最初に担当理事から、今回の訪朝の目的とし て、 「今年秋に広島県医師会役員数名が、在DP RK被爆者との面談と情報収集、病院訪問、被 爆の実態と被爆医療に関する講演会の開催や可 能なら被爆者の健診を行うなどを目的に、ピョ ンヤンを訪問する予定になっている。今回はそ の打ち合わせに来た」と説明した。 これに対するカン氏の答えは、 「DPRKでは 全ての人民の医療費はただであり、健診もいつ でも受けられる。全ての被爆者は『被爆者証明 書』を持っており、この証明書を示せば、他の 患者に優先して診療が受けられる。それゆえ、 広島の医師団が健診に来る必要性は特にない。 DPRKの医師たちは、被爆に関する情報がな いため、どのような医療をしていいのか不安に 思っているので、被爆医療に関する講演会を行 うことには意味があると思う」というものであ り、デリー大会の会談の時とほぼ同じ内容で 昭和26年8月27日 第3種郵便物承認 あった。 いろいろ話し合ったものの進展は得られず、 結局のところ、被爆者数名からの聞き取り調査、 1~2ヵ所の病院訪問、被爆医療に関する講演 会の3点は、何とかなりそうな感触であった。 また、KANPP側の人事としては、これま でのKANPPのチャ・チャンシー会長が厚生 大臣に昇格したため、新会長にリ・ボンフン氏 が就任したとのことである。 ところで、KANPPは元来北欧をはじめと するヨーロッパのIPPNW支部とのつながり が強く、KANPPを初めてIPPNW世界大 会に呼んだのもSLMK(スウェーデン支部) であった。本年8月には、スウェーデンとドイ ツから、2名のIPPNWメンバーがDPRK を訪問するそうである。 会談終了後、KANPPの2名と担当理事の 3人で、ホテル内にある冷麺の店で夕食を共に した。DPRK国内のことや医療などにつき、 2時間ばかり雑談をした。 それによると、「1995年と96年の大規模な洪 水による食料不足は大変に厳しく、草を食べて いた時期もあった。それ以後も時に水害はある ものの、国全体としての食糧事情は良くなって いる。赤土で痩せた土壌のため、米作に向かな い土地が多いものの、ジャガイモやトウモロコ シの耕作を推奨しており、収穫も安定してきて いる。ジャガイモ冷麺やトウモロコシ冷麺など の新しい食品も開発し、ウサギやダチョウなど も飼育しており、食品のレパートリーも増えて いる」という話であった。 一方、DPRKの医療については、主たるも のは彼らの言うところの「伝統医療」であり、 漢方と針治療を合わせたもののようである。診 断手順は中医とは異なるらしいが、使う薬は生 薬であり中医とほぼ同じと考えられる。ピョン ヤンのような特別な街でも、西洋医学はそれほ ど普及していないらしい。ちなみに医学生のオ 君も、 「伝統医学に興味があり、もっと勉強した い。」と言うばかりで、担当理事から西洋医学の 情報を得ようとするそぶりはほとんど見られな かった。 6月23日捷 万景台生家訪問、プエブロ号見学、 チュチェ思想塔見学 KANPPとの会談:左がオ・リョンイル君、1名おいてカ ン・ムンリョルKANPP事務局長、右がキム・チュンシ ル対文協指導員 朝からマイクロバスに乗って、キム・イルソ ン主席が幼少期に住んでいた万景台生家を訪問 昭和26年8月27日 第3種郵便物承認 広島県医師会速報(第2019号) チュチェ思想塔から眺めたピョンヤン市内 した。古い農家の壁に、幼少期のキム・イルソ ン主席と両親の写真などがかかっていた。 次に、1968年にDPRK警備艇に拿捕された 米海軍武装情報収集艦(スパイ船)「プエブロ」 の船内を見学した。船内で見たVTRによれば、 DPRK警備艇との戦闘で、プエブロの乗員1 名が死亡し、82名が身柄を拘束された。紆余曲 折の11ヵ月後に、米国側が「スパイ活動を認め る謝罪文」という屈辱的な文面にサインし、板 門店で全員解放されたとのことであった。しか しながら、プエブロの船体は返還されず、いま だピョンヤンに係留され、米国に屈服しなかっ た記念資料として一般公開されているのである。 午前の3番目は、チュチェ思想塔の見学で あった。キム・イルソン主席の提唱した「主体 (チュチェ)思想」の象徴の塔で、170メートル の高さを誇り、石造りの塔としては世界一の高 さであるという。塔の上にはチュチェ思想のシ ンボルである炎の形をした、大きな物体が鎮座 している。地上1 50メートルの展望台までエレ ベータで上がり、ピョンヤン市内を3 60度眺め ることができた。 またこの塔の前には、2名の男性と1名の女 性からなる3名の若者が、筆・ハンマー・鎌を 空に掲げているという、この国のコンセプトと も言える大きな銅像が建っている。ちなみに、 ピョンヤン市内のビルの壁面にも、同じような 図柄の巨大な絵がペイントされているのを見か けた。また、キム・イルソン主席や主席を取り 巻く子どもや人民などの大きな像も、複数ヵ所 で見受けられた。 人民大学習堂見学、蒼光幼稚園見学、 サーカス観覧 午後はまず人民大学習堂を見学した。学生や 一般人民を対象にした図書館であり、巨大な建 物の中に600の部屋と5, 000の机が用意され、3 千万冊の蔵書を擁し、毎日1万人が利用できる 2008年(平成20年)8月5日(12) という。また、科学・技術・文化・思想などの 各専門分野の教授がそれぞれ部屋を構えており、 質問に対して解答や助言を行うのだそうである。 外国語のリスニング用の部屋やデスクトッ プ・コンピュータが一面に並ぶ部屋もあり、ラ ジカセの並んでいる部屋では、音楽を楽しむこ ともでき、日本の曲も収録されていた。受付の 司書から、カプセル入りの伝票をシューターで 飛ばし、収蔵庫からベルトコンベヤーに乗って 本が流れてくるというシステムもあった。 しかしながら、蔵書を含めた全ての機材・資 料は大変古いように思われた。ちなみに、われ われが訪問することが予め分かっていたため、 閲覧室に入ると司書が指示を送り、数冊の日本 の本がベルトコンベヤーで流れてきた。その中 に歯学の本があったが、1980年代出版という大 変古いものであった。 次に訪れたのは、蒼光幼稚園であった。DP RKの義務教育期間は、幼稚園年長組1年、小 学校4年、中学校6年の計11年であり、学費は 無料という。これに一般の大学や大学院、教員 養成大学や専門学校などもあり、幼稚園は年少 組みと年長組みからなっている。 特にこの幼稚園は、共働きの家庭のため、一 週間子どもを預かって保育と幼児教育を行い、 この間子どもは幼稚園に寝泊りするというユ ニークなシステムをとっている。 5~6歳の子どもたちは、音楽や踊りなどを 中心に、しっかり躾けられており、各クラスで の遊戯や踊りも板についていたが、最期に行わ れたいろいろな楽器の演奏と歌による発表会も 優れたものであった。しかしながらそれ以上に 驚いたのは、DPRKの女性が踊りの時に見せ る独特の笑顔(一種の作り笑顔)を、5~6歳 の子どもが既に習得していることであった。 夕刻からは、ピョンヤン・サーカス劇場で サーカス見物をした。DPRK特有の演目は特 になかったように思われたが、もろもろの曲芸 や綱渡りなどが続き、最後に空中ブランコがあ り、1時間半があっという間であった。 6月24日昇 3大革命展示館見学と対文協表敬訪問 午前の前半は、3大革命展示館を見学した。 3大革命とは、思想・技術・文化の革命を意味 するそうであり、広大な敷地に大きな展示館が 6つ配置されていた。このうち重工業館と技術 革新館を見学したが、重工業館では、DPRK (13)2008年(平成20年)8月5日 広島県医師会速報(第2019号) 人民文化宮殿内の対文協を表敬訪問:中央の女性がホン・ソ ンオク副委員長 が豊富に埋蔵している無煙炭をはじめとする石 炭や、欧米や日本が注目しているレアメタルな どの鉱石についての展示が目を引いた。 午前の後半は、人民文化宮殿に対文協副委員 長のホン・ソンオク女史を表敬訪問した。広く 立派な応接室に通され、ホン副委員長から、一 昨日ファン局長から述べられたものとほぼ同様 の内容の挨拶があり、これに対して横間団長が、 「キム・ジョンイル総書記の永遠の長寿と、共和 国の限りない発展を祈念して…」と返礼した。 在DPRK被爆者のインタビュー 午後は、2名の被爆者の方のお話を伺った。 当初は、5名の被爆者との面談の予定であった が、諸事情で前日にキャンセルされ、また同時 に、病院訪問もキャンセルされた。しかしなが ら、それではDPRK訪問の目的が達成されな いことになる。同行の伊藤氏にとっては、担当 理事が被爆者の方々と面談して診察するシーン を収録することが、この訪朝の最大の目的で あったらしく、対文協の3人や反核平和のため の朝鮮被爆者協会のケイ・ソンフン書記長と夜 遅くまで談判していた。 結局、病院訪問は実現しなかったものの、2 名の被爆者との面談は可能となった。一方、診 察については許可がでなかったという。伊藤氏 長崎被爆者のパク・ムンスクさんのインタビューをする担当理事 昭和26年8月27日 第3種郵便物承認 に乞われて、白衣と聴診器を日本から持参して いたが、聴診のみで何がわかるというわけでも なく、単なる茶番であり、診察の真似事などし なくてよくなって安堵した。 ホテルの応接室で面談は行われた。はじめの 方は、65歳女性で長崎被爆者のパク・ムンスク さんで、反核平和のための朝鮮被爆者協会の副 会長もしておられる。 「2歳時に、祖父、両親、兄、3人の親戚とと もに、爆心地から4キロ以内で被爆した。家は 壊れて消失したが、家族全員で厚い布団をか ぶっていて、大きな怪我からまぬかれた。 被爆後も長崎市内に住み続けていたが、妊娠 中の母は、胎児死亡のため郊外の病院で手術を 受け、以後不妊となった。母は、貧血や胃の病 気などのためABCCで治療を受け(?)たこ ともあり、1960年DPRKに帰国後も病院通い が続き、1999年に胃癌で亡くなった。兄は下痢 や胃潰瘍などを繰り返していたが、1999年にリ ンパ腫(?)で亡くなった。父もずっと胃が悪 かったが、2005年に心臓病で亡くなった。 私自身も、下痢や鼻血を繰り返し、心臓病 (狭心症?)で苦しんでいる。DPRK帰国後に 入院治療を受けたこともある。1992年に長崎に 行って被爆者手帳を入手した。毎日いろいろな 病気の症状で苦しい生活を送っている。自分た ち被爆者のこのような病気には、漢方薬があっ ていると思う。 DPRKでは、以前は1, 950人の被爆者が登 録されていたが、どんどん亡くなっていて、今 では200人あまりに減ってしまった。実際には、 未登録の人も多く、詳しい数は分からない。被 爆者には時間が残っておらず、日本政府に早急 な謝罪と保障を強く要求する。 」という要旨で あった。ちなみに、本年3月にDPRK政府が 発表したところによると、DPRKでは1, 911人 の被爆者が確認されていたが、昨年末の時点で すでに8 0%が亡くなっており、3 82人が生存し ているということである。 もう一人の方は、67歳女性で広島被爆のリ・ ケソンさんであった。 「私は南朝鮮(現在の韓国)生まれで、3歳の 時に家族とともに広島に行き、大竹に住んでい た。被爆したのは4歳の時であり、あまり覚え ていない。というより、4年前までは被爆者で あることも知らなかった。母の話では、当時勤 労奉仕で広島に行く際に、子どもも連れて行っ ていた(?)そうであり、母とともに被爆した という。 昭和26年8月27日 第3種郵便物承認 広島県医師会速報(第2019号) 広島被爆のリ・ケソンさん 1960年に単身DPRKに帰国したが、いつも 体がだるく、疲れやすく、痩せていて、下痢が 続き下血になることもある。日本から送っても らった梅干を食べてしのいでいる。若い頃から 不安神経症、動悸、めまいなどが続き、心臓や 関節などの症状もある。病院に通って、漢方薬 の治療を受けている。 2004年に43年ぶりに妹と再会し、この時に自 分が被爆者だと知らされた。被爆者だと分かる と結婚差別を受けるため、母が黙っていたよう である。自分が被爆者であることを知ってはじ めて、自分の体の不調の原因が被爆であること が分かった。」という要旨であった。 広島・長崎の被爆者におけるPTSD(外傷 後ストレス障害)に関しては、長崎で研究され つつあるものの、その実情はいまだはっきりし ていない。ゆえに、この2人の被爆者の訴え (症状)が、被爆と関係ないとは断言できないも のの、広島で被爆医療に関わっている医師の考 え方とは大きく異なっているようである。西洋 医学が発達していない国だからとも考えられる が、われわれのように「癌を早期発見して、内 視鏡や手術で完治を目指し、叶わなければ化 学・放射線療法などを行い延命を図る」という スタンスの医療ではないようであり、一般人民 もそれを受け入れているのかもしれない。 このようなことから考えて、広島県医師会が これまで行ってきた在外被爆者健診事業の理念 や方法論が、この国では通用しない(意味がな い)ようにも思われた。もちろん、われわれ広 島の医師はDPRKでも医師免許がないという 問題もあり、健診場所となる病院やその設備な ど、北米健診と同じには行かない状況も多々あ るようも思われるのだが…。 このようなお話に対して、担当理事から広 島・長崎の被爆データについて簡単に説明を試 みた。すなわち、 「爆心地から1キロ以内の被爆 者のデータではあるが、被爆60年以上経った現 2008年(平成20年)8月5日(14) 在でも、いろいろな癌が、一般人の1. 2倍~1. 5 倍くらいまで増加している。最近では、動脈硬 化も増えているというデータまで出ている」な どなど噛み砕いて話したものの、ほとんど空振 りであった。 これらの説明に対して、 「癌や心臓病になって 死ぬのは仕方ないのだけれど、今あるつらい症 状を何とかして欲しい」という答えしか返って こなかった。「この国の被爆者の方々の病気に は、この国の伝統医療があっているのかもしれ ませんね」と返すのがやっとであった。 平壌学生少年宮殿見学 夕刻からは、ピョンヤンに2ヵ所ある学生少 年宮殿の1つを見学した。学生少年宮殿とは、 ピョンヤン市内の小中学生の中から選抜(?) された少年少女が、課外活動を行う場所である。 音楽・絵画などの芸術、スポーツ、文学、自然 科学などクラブ活動を発展させたような200あま りのサークルがあり、各分野のエリート養成の 場所でもある。 今回見学した平壌学生少年宮殿は、毎週火曜 日が一般公開(オープン・ハウス?)の日であ り、海外からの訪問者に、DPRKの少年少女 の技術・技能のレベルの高さを誇示する日なの であろう。アコーディオン、ギター、エレク トーン、琴、ピアノなどの楽器演奏の各部屋、 書道の部屋や刺繍の部屋などを見て回ったが、 いずれも高いレベルにあった。仲良しサークル などというものではなく、一人ひとりの子ども がしのぎを削っているように見えた。 一回りした後、エリート(?)の子どもたち による発表会を見学した。地元の人たちも見に 来ているらしく、千人くらいは収容できそうな ホールは、観客でいっぱいであった。カラフル な衣装をまとった子どもたちによる音楽、踊り、 寸劇などが入れ替わり立ち代り披露されたが、 発表会というレベルをはるかに超えていた。 平壌学生少年宮殿での芸術公演のフィナーレ (15)2008年(平成20年)8月5日 広島県医師会速報(第2019号) 答 礼 会 夜には、到着の晩に行われた歓迎会の反対 バージョンの答礼会が行われた。すなわち、歓 迎会は対文協がホスト役であったが、答礼会は こちらが対文協の4人を招待するということに なる。 食事をしながらいろいろ雑談もしたが、やは りファン局長が場を仕切る形になり、歓迎会の ときと同じような話が続いた。ファン局長から、 ピョンヤンの印象を各人述べるように言われ、 返答に窮した担当理事は、「ピョンヤンは、広 告・看板・自販機などがなく、交通渋滞もない、 小ざっぱりした綺麗な街である。DPRKの被 爆者には、この国の伝統医療があっているよう に思える」などとお茶を濁した。 DPRK(ピョンヤン)お国事情 DPRKは、日本の3分の1の国土に2, 300 万人余りの人口を抱え、そのうちの3 00万人余り がピョンヤンに住む。ピョンヤンは、政府の役 人や軍人などが住む特別区のような街と言われ ており、ほかの地域に先駆けて整備が進んでい る模様であった。 他の地域のことは分からないものの、ピョン ヤンについては、餓死者が出たと報道された12 ~13年前に比べて、食料事情はある程度改善し ているようであった。丸々と太った人には出会 わなかったものの、田植え中の農民や若者など の中に、特にガリガリに痩せた人も見かけな かった。 ピョンヤン市内には、高層住宅(アパート) が多く建っているが、その外壁はコンクリート にペンキを塗ったのみであるため、経年変化で 薄汚れているものが多かった。しかしながら、 本年の9月9日がDPRK創建60周年になるた め、目抜き通りに面した建物は、いっせいに壁 のコンクリートを剥ぎ取られて、新しく塗りな おされていた。 道路については、中心部の目抜き通りを除く と、舗装のメンテナンスが極めて悪く、穴ぼこ だらけの道が多かった。大きくゆれながら走る のだが、よけて通らなければならない程の大き な穴にもしばしば出くわした。しかしながら、 街の中心部に入ると、突然綺麗に舗装されてい る道路を目にする。こちらも60周年に向けての 改修事業なのかもしれない。 昭和26年8月27日 第3種郵便物承認 ピョンヤン市内でも、車の数は少なく、交通 渋滞とは縁がない。信号もほとんどなく、滞在 中に1ヵ所で見かけたのみであった。大きな交 差点では、女性の警官が手旗で交通整理をして いたが、どちらの方向に流れろと言っているの か良く分からなかった。 このように車は少ないものの、街の中心部に は、片側6車線くらいの「本家1 00メートル道 路」と呼ぶべき道がある。テレビ報道で見たこ とのある、軍事パレードが行われる大通りと思 われ、そのために造られたのかもしれない。60 周年記念式典でも、このパレードが披露される のであろう。 ピョンヤンの女性たちの服装は、割とカラフ ルでおしゃれなものが多かった。電力の供給に 難のある国でもあり、家電製品の普及について は、良く分からなかった。少なくとも、自家用 車については、ある程度身分の高い人にのみ所 有が可能なのではないかと思われた。 DPRKは、中華人民共和国やロシアとのつ ながりは相変わらず強いものの、いわゆる西側 としては、米国と敵対関係にあるためか、西欧 との関係が親密である。外貨も米ドルではなく ユーロであり、車も欧州車が多かった。ちなみ に、ファン局長の車はメルセデス・ベンツのR Vであった。 見学の道すがら、人民大学習堂の前に位置す るキム・イルソン広場には、2千~3千人くら いの若者が列をなして並んでおり、マスゲーム の練習が続けられていた。これも、60周年に向 けた準備の一環とのことであったが、予定通り 9月に再訪することになれば、彼らによるマス ゲームを目にすることができるかもしれない。 今回のDPRK訪問は、これまで入国した20 余りの国と比べ、いささか違和感をもてあまし ながらの、ちょっと風変わりな旅であった。 キム・イルソン広場でのマスゲームの練習