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近代におけるオスマ ン帝国の軍事改革と軍事教育
55 近代におけるオスマン帝 国の軍事改革 と軍事教育 岩木 秀樹 MilitaryReformsandMilitaryEducationsinthe ModernOttomanEmpire IWAKIHideki は じめ に 近 代 に お け るオ ス マ ン帝 国 は,西 欧 列 強 の圧 力,帝 る た め,様 国 内 の 離 反 等 に対 応 す 々 な 軍 事 改 革 を 行 っ た。 近 代 化 の過 程 に お け る軍 の再 編 や 近 代 化 の 担 い 手 育 成 と して の軍 の 教 育 は,オ ス マ ン帝 国 に と って 非 常 に重 要 な もの で あ っ た。 しか し従 来 の 国 際 関 係 史 で は,オ ス マ ン帝 国 の 軍 事 的側 面 を扱 っ た もの は少 な く,ま た オ ス マ ン帝 国 は 西 欧 の客 体 と して 描 か れ る こ とが 多 く, 主 体 と して の 内 実 に迫 っ た研 究 は少 な か った 。1)また 現 在 の トル コ共 和 国 に お け る軍 の政 治 介 入 の 問題 を 考 察 す る上 で も,淵 源 と して オ ス マ ン帝 国 の軍 の 動 向 は重 要 な 視 点 とな ろ う。 本 稿 で は,20世 紀 初 頭 の オ ス マ ン帝 国 の戦 争 と平 和 を 考 察 す る前 提 と して, 近 代 特 に19世 紀 後 半 か ら20世 紀 初 頭 にお け る オ ス マ ン帝 国 の 軍 事 改 革 と軍 事 教 育 を 概 観 す る。 第1章 で は,セ 軍 事 改 革 を簡 単 に見 た後,第 第2章 リム 三 世 か ら ア ブ デ ュル ハ ミ ト2世 ま で の 二 次 立 憲 期 の軍 内 部 で の対 立 や 混 乱 を考 察 す る。 で は,軍 学 校 や士 官 学 校 の 開 設 や 教 育 内 容 を説 明 し,学 生 や 将 校 が新 しい 思 考 様 式 を 持 っ た近 代 化 の担 い 手 で あ る こ と を分 析 す る。 さ ら に彼 らが 比 較 的 広 範 な 階 層 か ら構 成 され,オ た こ と を 明 らか にす る。 ス マ ン主 義 的 イ デ オ ロギ ー を も持 っ て い 56 1.オ ス マ ン帝 国 の 軍 事 改 革 (1)近 代 の改革 オ ス マ ン帝 国 に お い て,18世 紀 末 に体 系 的 な 近 代 西 欧 モ デ ル の受 容 に よ る 改 革 が 開 始 さ れ る以 前 の 前 近 代 で は,政 た 。2)しか し,西 欧 に よ る政 治,経 済,軍 治 と軍事 が比 較 的未 分 離 で あ っ 事 等 の 衝 撃 に よ りオ ス マ ン帝 国 に お い て も近 代 化 が 叫 ば れ る よ う に な る と,ま ず 最 も早 く西 欧 化 を 目指 した の は 軍 事 的 分 野 に お い て で あ っ た 。1789年 に 即 位 し た セ リム三 世(在 1807年)か ら現 代 トル コ に至 る200年 あ ま りの 間,軍 位1789- 人 た ち は近 代 化 の 担 い 手 と して の側 面 も有 して い る。3) セ リム三 世 の 時期 にオ ス マ ン帝 国 は本 格 的 な軍 制 改 革 を開 始 し,ニ ザ ー ム ・ ジ ェデ ィ ー ド(新 制)と 呼 ばれ る 改 革 を 行 った 。 そ の 中 で ヨ ー ロ ッパ よ り軍 事 顧 問 団 を 招聰 し,ヨ ー ロ ッパ 式 軍 団 を 作 り,砲 術 学 校 や 海 軍 工 学 校 な ど を 開設 した 。4)だが イ ェニ チ ェ リな ど の反 対 に よ り挫 折 す る こ と にな る。 続 くマ フ ム トニ 世(在 位1808-1838年)の 時 期 は 軍 制 改 革 が最 盛 期 を 迎 え る。1826年 に はオ ス マ ン軍 の 中核 的存 在 で あ った イ ェニ チ ェ リを 廃 止 し,ヨ ー ロ ッパ 式 教 育 に よ る ム ハ ンマ ド常 勝 軍 を創 設 した 。5)さ ら に翌 年 の1827年 に は,ス ル タ ン直 属 の 近 衛 軍 団 の前 身 が 作 られ た こ と に よ り,マ フ ム トニ 世 の 新 軍 隊 の 中核 は ムハ ンマ ド常 勝 軍 と近 衛 軍 団 に な っ た。1828年 に は 軍 で 使 用 さ れ る編 成 上 の 用 語 が変 わ り,新 た に 「連 隊」 「大 隊 」 「中 隊 」 が使 用 され た。 連 隊 は500人 か ら構 成 さ れ,三 佐,大 つ の 大 隊 か ら成 っ て い た。 指 揮 官 は連 隊 が 大 隊 が少 佐 とな った。 次 に前 近 代 的 な イ ェニ チ ェ リ軍 団 を廃 止 して 以 来, 適 切 な 将 校 団 の 育 成 が最 大 の 問題 とな り,1830年 代 に は,陸 軍 士 官 学 校 と軍 医 学 校 が 開設 され た 。6) 1843年 に は軍 隊 法 が発 布 され,こ 予 備 役 軍,補 の 法 令 に よ って オ ス マ ン陸 軍 は,正 規 軍, 助 軍,不 正 規 軍 の 四 つ の カ テ ゴ リー に分 類 され る こ と にな った。 さ ら に正 規 軍 の 地 方 軍 団 組 織 が 確 立 され,イ 団),ウ 団(ル シ ュ ク ダ ル の 第 二 軍 団(イ メ リー軍 団),ハ ス タ ンブ ル の 第 一 軍 団(近 衛 軍 ス タ ン ブル 軍 団),マ ル プ ー トの 第 四軍 団(ア ナ ス トゥル の 第 三 軍 ナ ドル 軍 団),ダ マス クスの 近 代 にお け るオ スマ ン帝 国 の軍事 改革 と軍 事教 育57 第 五 軍 団(ア ラ ビ ア 軍 団)の 年 と 定 め ら れ,兵 五 つ に 分 け られ た 。 ま た正 規 の 兵 役 の 期 間 は五 士 の 人 員 補 充 の 制 度 化 が 行 わ れ た 。7) ア ブ デ ュ ル ア ジ ズ(在 位1861-1876年)の の と お り で あ る 。 近 衛 軍 団 は,歩 コ サ ッ ク 騎 兵 連 隊1つ,竜 兵 連 隊2つ,黒 兵 連 隊7つ,偵 騎 連 隊1つ,砲 海 兵 連 隊1つ,予 将 校 の 構 成 は,元 時 期 の オ ス マ ン軍 の 構 成 は 以 下 察 大 隊7つ,騎 兵 連 隊1つ,工 備 歩 兵 連 隊1つ 兵 連 隊5つ, 兵 連 隊2つ,白 海 か ら構 成 さ れ て い た 。 ま た 帥 が ス ル タ ン の 息 子 で あ る シ ェ フ ザ ー デ ・ユ ス フ ・イ ゼ ッ デ ン ・エ フ ェ ン デ ィ で あ り,そ の 他 に 中 将1人,少 20人,少 尉18人 佐31人,准 佐65人,大 将7人,大 佐12人,中 佐 で あ っ た 。8) オ ス マ ン帝 国 に ヨ ー ロ ッ パ か ら外 国 人 が 招 聰 さ れ,主 に 軍 事 的分 野 で 制 度 改 革 や武 器 技 術 の教 育 の た め に貢献 を す るよ うに な る。 特 にそ れ が盛 ん に な っ た の は セ リ ム 三 世,マ 男 爵,ヘ フ ム トニ 世 以 降 で あ り,ド ル ム ー ト ・フ ォ ン ・モ ル トケ,フ ・ボ ヌ バ ル 伯,ド ・ トッ ト ォ ン ・デ ア ・ ゴ ル ツ,リ ー マ ン ・ フ ォ ン ・ザ ン デ ル ス ら が オ ス マ ン帝 国 を 訪 れ た 。9) 1939年 か ら の タ ン ズ ィ マ ー ト期 は,軍 の 中枢 部 に い る 幹 部 た ち が 伝 統 的 な シ ス テ ム の な か で 育 っ て き た 人 々 と,近 代 化 され た シ ス テ ム の な か で 育 って き た 人 々 が,徐 々 に 交 替 し て い く 時 期 で あ っ た 。 ま た,フ お け る 近 代 化 に も か か わ ら ず,イ ォーマルな制度 に ン フ ォ ー マ ル な 行 動 様 式 に お い て はな お伝 統 性 が 根 強 く残 さ れ て い る 時 期 で も あ っ た 。10) ア ブ デ ュ ル ハ ミ トニ 世(在 お い て,近 時 期 は近 代 軍 の 形 成 過 程 に 代 軍 の 組 織 とそ の 近 代 的 な 構 成 が確 立 定 着 した 時 期 で あ っ た。 ま た 将 校 団 の 確 立 と,陸 完 成 は,し よ り,組 位1876-1909年)の 軍 士 官 学 校 を 中 心 とす る 将 校 の 自 己 再 生 産 シ ス テ ム の だ い に固 有 の 専 門 職 業 意 識 を 持 つ 軍 人 層 を つ く りだ した。 こ れ に 織 自体 の 機 能 分 化 と あ い ま っ て,タ ン ズ ィ マ ー ト期 ま で の か な り不 分 明 で あ っ た 文 民 と 軍 人 と の 境 界 も ま た 相 対 的 な が ら 明 確 化 し始 め た 。11) 1876年12月 に ミ トハ ト憲 法 が 発 布 さ れ,翌1877年 議 会 が 開 会 さ れ た 。 だ が 同 年4月 閉 鎖 さ れ 憲 法 も 停 止 さ れ,ア に は上 院 と下 院 か らな る よ り は じ ま っ た 露 土 戦 争 を 口 実 に,議 会 は ブ デ ュ ル ハ ミ トニ 世 に よ る 専 制 が 開 始 さ れ た 。 そ れ に 対 し て 青 年 将 校 ら を 中 心 と す る い わ ゆ る 青 年 トル コ 人 は 憲 法 復 活 を 要 求 し,様 々 な運 動 を オ ス マ ン帝 国 内 外 で 展 開 す る よ うに な っ た。 58 この 時 期 に も軍 制 の改 革 が 行 わ れ,1887年 に は砲 兵 隊 が 師 団 レベ ル に ま で 格 上 げ さ れ る な ど,軍 の再 編 成 が行 わ れ た。この 改 革 に よ り,オ ス マ ン帝 国 は 7つ の 軍 団 とそ れ と は独 立 した2つ の 師 団 に よ って 構 成 され る よ う にな っ た。 そ れ ぞ れ の 軍 団 に は2つ の 正 規 軍,4つ の 予 備 役 軍,2つ の郷土 防衛軍 が存 在 した 。正 規 軍 に は そ れ ぞれ 一 つ ず つ の 正 規 騎 兵 隊 と正 規 砲 兵 隊 が あ った。12) ま た 兵 役 義 務 を 免 除 され た 人 々 は 以 下 の よ うな 人 々 で あ る。 イ ス ラ ー ム法 官,シ ャ リー ア法 廷 の 裁 判 官,教 員,モ の 修 道 場 の長,メ 医 師,軍 ドレセ の 学 生,ス ス クの イマ ー ムや 説 教 師,ス ー フ ィー ル タ ンに使 え る給 仕,医 学 部 を 卒 業 した 隊 で そ れ ほ ど役 に立 た な い 肢 体 不 自由 な 者 た ち で あ る。13) ア ブ デ ュ ル ハ ミ ト期 は 専 制 政 治 の 時 代 で あ り,そ の政 治 の 中枢 は 彼 の 居 住 で あ るユ ル ドユズ 宮 殿 で あ っ た。 本 来 の 行 政 の 中心 で あ る大 宰 相 府 は大 幅 に 権 力 が 制 限 さ れ,そ れ に 代 わ っ て ユ ル ドユ ズ 宮 殿 の宮 内 府(マ ー ベ イ ン)の 権 力 が 拡 大 し,国 家 統 治 機 構 は変 則 的 二 重 機 構 を 持 って い た 。 軍 隊 の 指 揮 命 令 系 統 に 関 して も同 様 で あ った 。 ユ ル ドユズ 宮 殿 に は武 官 団 と して 多 数 の 副 官 が 配 属 され て い て,1908年 の 時 点 で は441名 の 武 官 が い た 。 そ の 階 級 の 内訳 は,大 将24人,中 将51人,大 少 佐28人,准 佐37人,大 数 含 まれ て い て,誰 将59人,少 尉80人,中 尉51人,少 佐37人,中 佐36人, 尉18人 で あ り,高 級 将 校 が多 か ら も ほ と ん ど干 渉 を受 けな か った。14) 彼 らの 多 くは 各 地 に配 属 され,ス ル タ ン直 属 の 機 構 と して オ ス マ ン軍 の監 察 を した 。 オ ス マ ン軍 に は スル タ ンの 代 理 と して 全 軍 の 指 揮 権 を持 つ 大 宰 相 の 下 に陸 軍 大 臣 と総 参 謀 総 長 を置 く正 規 の命 令 系 統 が あ った 。 しか し,ア ブ デ ュル ハ ミ トニ 世 は ス ル タ ン府 付 高 級 参 謀 本 部 か ら各 部 隊 へ 命 令 を 直 接 出 し た 。 そ の 結 果,オ ス マ ン軍 に は二 重 の 指 揮 命 令 系 統 が で き,混 乱 を き た し た。15) この よ うに ア ブ デ ュ ル ハ ミ トニ 世 は マ ー ベ イ ン を拡 大 す る こ とを 通 じて, 宮 廷 の 機 能 と規 模 を拡 大 し,専 制 の 基 礎 を 固 め よ う と した の で あ る。 彼 は士 官 学 校 の 学 生 か ら元 帥 に 至 る軍 人 た ち と個 人 的 な 関 係 を 結 ぶ こ とに よ っ て, か つ て の 伝 統 的 な 宮 廷 の小 姓 出身 者 と スル タ ン と のパ トロ ン ・ク ライ ア ン ト 関 係 に近 似 した もの を作 った 。 これ を 通 じて軍 人 統 制 を 行 お う と試 み た 。 ま た ア ブ デ ュル ハ ミ トニ 世 は,軍 人 と一 緒 に 食 事 を して,信 頼 関 係 を作 り 近 代 にお け るオ スマ ン帝 国 の軍事 改革 と軍 事教 育59 出 そ う と した。 そ の 場 で 彼 は,父 祖 か ら受 け継 い だ勇 気 と祖 国 愛 を,軍 が証 明 して い る こ とを 大 変 感 謝 す る と述 べ た 。 さ ら に私 は あ な た 方 の父 で あ り, 恐 れ な くて も い い と も語 った 。16)この よ うに ス ル タ ン は,軍 人 に対 して ス ル タ ンへ の 忠 誠 心 を 持 た せ よ う と試 み,軍 に対 して 専 制 を 支 え る一 つ の 集 団 と 考 え て い た。 専 制 政 治 の 後 期 に は,軍 組 織 内 の 人 事 に も直 接 介 入 し,自 分 の武 官 と な っ た者 を 特 に重 用 す る傾 向 を 強 め,軍 の 一 部 に い わ ば ス ル タ ン閥 と もい うべ き 部 分 を 作 った。 しか し この こ と は 陸 軍 士 官 学 校 の 定 着 に よ って 専 門職 業 意 識 を 強 め つ つ あ っ た軍 人 た ち の 中 に反 発 を生 む よ うに な る の で あ った。17)この こ とが,青 年 将 校 らを 中心 と して ス ル タ ン専 制 に反 対 し,憲 法 の復 活 を求 め る 青 年 トル コ人 運 動 の一 つ の 要 因 と もな る の で あ っ た。 (2)第 二次 立憲期の改革 1908年7月 に 青 年 トル コ人 革 命 が 起 こ り憲 法 が 復 活 し,第 二 次 立 憲 期 が 開 始 す る。 こ の革 命 に参 加 した 軍 学 校 の 学 生 た ち と軍 人 た ち は,ア ブ デ ュ ルハ ミ トニ 世 に よ る人 事 の不 公 平 と停 滞 に大 き な違 和 感 を も って い た。 ま た ス ル タ ン に よ る軍 人 統 制 の試 み は,正 統 性 を もた ぬ 政 治 体 制 を 維 持 す るた め の不 当 な 干 渉 と して み られ た。 そ の こ とが か え って 職 業 軍 人 で あ る こ とを 意 識 し て い る彼 らを政 治 化 さ せ た の で あ った 。18) この 第 二 次 立 憲 期 は,政 治 家 と軍 人 の 確 執 の 時 期 で あ り,軍 の政 治 へ の干 渉 が 激 し くな り,つ い に エ ンヴ ェル らを 中心 とす る若 手 将 校 が 政 治 の 実 権 を 握 り,第 一・ 次 大 戦 へ と進 む 時 代 で あ る。 こ の 時 期 は,こ の よ うな政 治 家 と軍 人 の 対 立 の他 に,旧 来 の政 治 家 と新 しい タ イ プの 政 治 家 つ ま り宮 廷 と議 会 の 競 合,ま た次 に 述 べ る軍 隊 内部 で の 角 逐 もあ った 。19) 1909年4月 将 校(ア に 士 官 学 校 出 身 の将 校(メ ク テ プ リ ・ス バ イ)と 兵 士 上 が りの ラ イ ル ・スバ イ)の 対 立 や 徴 兵 問題 を 主 要 な争 点 と して,3月31日 事 件 い わ ゆ る 「反 革 命 」 が 起 こ る。 陸 軍 士 官 学 校 卒 業 生 は 少 尉 任 官 と 同時 に, そ の 多 数 が ル メ リー 方 面 軍 の 第 二 ・第 三 軍 に配 属 さ れ た。 一 方,兵 士 も下 士 官 か ら将 校 へ の 道 が 開 か れ て い た。20)しか し第 二 次 立 憲 制 成 立 以 後,軍 改 革 され,将 校 は陸 軍 士 官 学 校 出 身 者 の み に 限 られ,ま 隊は た 定 員 法 に よ りア ラ 60 イ ル ・スバ イ は 強 制 的 に退 役 を迫 られ た 。21) さ ら に軍 の再 編 成 に あ た り,こ れ まで 兵 役 の 対 象 外 に お か れ て い た 特 権 を 持 つ メ ドレセ の 学 生 に も兵 役 の義 務 が 課 せ られ た 。 こ れ に メ ドレセ の 学 生 は 反 発 し,3月31日 は,プ 事 件 の学 生 決 起 の 主 要 な 原 因 とな っ た。22)また この 事 件 に レ ンス ・サ バ ハ ッテ ィ ン らを 中 心 とす る人 々 も深 く関 与 して お り,暴 徒 らを 扇 動 した と考 え られ て い る。 さ らに彼 ら と英 国 との 密 接 な 関 係 か ら英 国 の 関 与 も取 り ざた さ れ て い る。23) この よ うに 出 自の 異 な る将 校 の 問 題 と,兵 役 義 務 問題 に よ り生 じた3月31 日事 件 で あ った が,事 件 後 ア ラ イ ル ・スバ イ を 不 利 に す る定 員 法 は 取 り消 さ れ た 。 しか し,事 件 鎮 圧 にサ ロ ニ カ,エ デ ィル ネ か ら第 三 軍,第 二 軍 の 実 戦 部 隊 が 「行 動 軍 」 を編 成 し,イ ス タ ン ブル に進 駐 した。 ア ブ ドユル ハ ミ トニ 世 は 廃 位 さ れ,そ れ ま で 弱 体 で あ った 統 一 と進 歩 委 員 会(以 下,統 一 派)は この 部 隊 を背 景 と して しだ い に台 頭 して くる こ と と な る。24) この 事 件 の 後,1909年7,8月 に 軍 に 関 す る三 つ の 法 令 が 出 さ れ た 。25)そ の 中 で,階 級 の 整 理 や退 役 問 題,年 齢 制 限 な どが 決 め られ た 。1909年7月2 日に 出 さ れ た年 齢 法 に よ り,各 階級 の 最 高 年 齢 が 決 め られ た 。 そ れ に よ れ ば, 少 尉 お よ び 中尉41歳,大 尉46歳,少 佐52歳,中 佐55歳,大 佐58歳,准 将60歳, 少 将 お よ び 中 将65歳,元 帥68歳 で あ る。26)この 法 令 に よ り軍 の 若 返 り と活 性 化 が はか られ た 。 これ らの法 律 は軍 へ の一 定 の制 限 を 設 け,軍 を 政 治 の 場 か ら遠 ざ け る効 果 を もた ら した。 ま た年 を と り親 方 弟 子 関 係 に よ る経 験 豊 か な 者 か ら,知 識 の あ る活 力 に 満 ち た若 者 へ と軍 の 構 成 員 が 推 移 した の で あ る。27)この よ う な 中 で,数 年 間 の 内 に1万 人 以 上 の将 校,お よ そ将 校 の三 分 の 一 が 退 役 させ られ た。28) 1909年 よ り1913年 に か けて,オ ス マ ン帝 国 の 内 外 の情 勢 は緊 迫 し,1913年 1月23日 の ク ー デ タ ー に よ り統 一 派 の 将 校 らが ほ ぼ権 力 を 掌 握 す る まで,政 軍 関 係 も様 々 な 動 き を み せ る。 1910年3月 に ア ル バ ニ ア で 大 規 模 な 反 乱 が起 こ り,要 求 を 自治 獲 得 へ と強 め,民 族 運 動 が台 頭 して くる。29)この一 ヶ月 前 に は統 一 派 か ら分 離 した グ ル ー プ に よ っ て民 衆 党 が 作 られ た 。 これ は 統 一 派 よ り分 派 した 最 初 の政 党 で あ っ 近 代 にお け るオ スマ ン帝 国 の軍事 改革 と軍 事教 育61 た。30)さら に9月 に な る と オ ス マ ン社 会 党 が 作 られ,1911年 の 内 部 で の分 派 活 動 は さ ら に激 し くな り,右 派 の 新 党,左 に な る と統 一 派 派 の進 歩 党 が 誕 生 す る。31)1911年11月 に は第 二 次 立 憲 期 に お け る最 大 野 党 で あ る 自 由 と連 合 (以 下,自 由派)が 結 成 さ れ る。 力 を つ け つ つ あ っ た統 一 派 で は あ るが,こ の 時 期 内外 に 難 問 を抱 え,分 派 活 動 や 野 党 の 台 頭 に よ り閉 塞 状 況 が 強 ま って い く。 統 一 派 と い って も一 枚 岩 で は な く,多 様 な人 々 が様 々な 利 害 を 求 め て 集 ま って い た の で あ る。32)この よ うな状 況 を打 破 す るた め に,統 一 派 は軍 の力,特 に若 手 将 校 の イ ニ シア テ ィ ブ に よ り打 開 の 道 を探 す の で あ る。 2.オ (1)士 ス マ ン帝 国 の 軍 事 教 育 官 学 校 ・軍 学 校 の 開 設 西 欧 列 強 に 対 抗 す る た め に は,軍 隊 の 改 革,整 優 秀 な 将 校,兵 備,兵 器 の 技 術 革 新 の ほ か, 士,技 術 者 育 成 の た め 各 種 の教 育 機 関 が必 要 で あ った 。 こ の よ うな 機 関 の最 初 の 形 態 は,1734年 に ウ シ ュ ク ダル に 開 設 され た数 理 学 校 で あ ろ う。33)しか し本 格 的 な軍 教 育 の近 代 化 が 始 ま った の は,お 世 以 後 の こ とで あ る。1773年 に は砲 術 学 校 が,1793年 よ そ セ リム三 に は 海 軍 工 学 校 が 開設 さ れ,西 欧 方 式 の 最 初 の軍 学 校 と して 誕 生 した 。 ま た1827年 に マ フ ム トニ 世 は 四 人 の 軍 学 校 の 学 生 を,西 欧 の軍 隊 や 技 術 を 学 ばせ る た め にパ リ に送 った。 これ は軍 学 校 の 学 生 が外 国 に留 学 す る先 駆 け とな っ た。34) 1826年 に イ ェニ チ ェ リを 廃 止 して か らの最 も重 大 な 問 題 は,近 代 的 な 将 校 団 の 育 成 で あ っ た。35)当初 は 様 々 の 旧 軍 事 組 織 か ら将 校 要 員 を 調 達 し,不 足 の 場 合 は諸 官 庁 か ら志 願 者 を 募 り,さ らに ス ル タ ンの 宮 廷 の 小 姓 や大 官 の家 に属 す る奴 隷 た ち を も吸収 して必 要 に対 処 し よ う と した。 だ が これ らの 要 員 は近 代 的 知 識 と軍 事 訓 練 の 体 験 を有 さず,こ 必 要 とな った。 マ フ ム トニ 世 は ま ず,オ れ ら の教 育 訓 練 の た め の 要 員 が ス マ ン帝 国 本 国 よ り先 ん じて 軍 制 改 革 に着 手 して近 代 軍 の 形 成 を進 め つ つ あ った エ ジプ ト総 督 ムハ ンマ ド ・ア リー に必 要 な 教 官 要 員 の 派 遣 を 依 頼 した が 謝 絶 され,西 欧 か ら教 官 要 員 を 招 来 し よ う と試 み た が,こ の 時 期 ギ リ シ ア 独 立 戦 争 が 進 行 中 で あ り困 難 で あ っ 62 た 。36) こ の よ う な 状 況 の 中 で,近 代 西 欧 モ デ ル に 基 づ き 軍 事 教 育 を 行 い,将 校 を 養 成 す る 機 関 と し て 陸 軍 士 官 学 校(Mekteb-iHarbiye)の 前 身(Mekteb-i Ulum-uHarbiye)が1834年 に は 青 年 トル コ に 開 設 さ れ た 。37)さ ら に1839年 人 運 動 に 多 く の 人 材 を 輩 出 す る こ と に な る 軍 医 学 校(Mekteb-iT・bbiye-i Askeriye)が 開 設 さ れ,1843年 学 校 に つ い て は,当 め,内 に は 最 初 の 卒 業 生 を 送 り 出 し た 。38)陸 軍 士 官 初 は 関 連 す る初 等 中等 教 育 機 関 もま た 未 整 備 で あ っ た た 容 的 に も 高 等 教 育 機 関 と は 言 い 難 く修 業 期 間 も長 期 に わ た っ た 。 し か し体 制 は 徐 々 に 整 備 さ れ,1848年 に は 陸 軍 士 官 学 校 の正 規 の 第 一 期 卒 業 生 を 送 り 出 し た 。39) 陸 軍 士 官 学 校 開 設 後 ま も な く,陸 軍 に 参 謀 制 度 を 設 け る と と も に1846年 参 謀 養 成 の た め の エ リ ー ト コ ー ス と し て,陸 (Erkan-lHarbiyeS・n・f)を に 軍 士 官 学 校 内 に参 謀 科 設 け た。 参 謀 科 に は 原 則 と して 陸 軍 士 官 学 校 を 特 に 優 秀 な 成 績 で 卒 業 し た も の を 引 き 続 き 進 学 さ せ,軍 エ リ ー ト教 育 を 実 施 した 。 当 初 は2年 の中枢養成 のた めの 制 で あ った が,1878年 よ り3年 制 に な っ た 。40) さ ら に 軍 学 校 の 初 等 中 等 教 育 機 関 も し だ い に 整 備 さ れ て い く。 陸 軍 予 科 学 校(Askeri・dadi)が1846年 に イ ス タ ン ブ ル と ブ ル サ に,1847年 ネ と マ ナ ス ト ユ ル に,1848年 に ダ マ ス カ ス に,1873年 に バ グ ダ ー ドに 次 々 と 開 設 さ れ た 。 ま た1864年 にエデ ィル に エ ル ズ ル ム,1876年 に は イ ス タ ンブ ル の ガ ラ タ サ ラ イ に 統 合 さ れ た 陸 軍 予 科 学 校 が 成 立 し た 。41)予 科 学 校 の 前 段 階 と な る 陸 軍 幼 年 学 校(AskeriR偽diye)は1875年 (2)将 に9つ 校 の 階 層 と不 満 ま ず 軍 人 の 人 員 の 推 移 で あ る が,1881年 274,046人 が 開 設 さ れ た 。42) で あ っ た 。43)そ の 後 の 推 移 は 表2を に 将 校 は12,998人 で あ り兵 士 は 見 て も わ か る が,将 官 級 の 高 級 将 校 の 増 加 率 が 高 く な っ て い る 。 士 官 学 校 卒 業 生 は,毎 名 ほ ど で あ り,44)1892年 第46期 ま で に 総 計4,152名 将 校 に 占 め る 士 官 学 校 出 身 者 の 割 合 も,1884年 は25%と な り,オ 校 特 に将 年 ほ ぼ75 の 将 校 を 送 り 出 し た 。45)全 で は10%で あ っ た が1896年 に ス マ ン軍 将 校 の 中 に 占 め る 割 合 は 高 ま っ て い っ た 。46)近 代 近 代 にお け るオ スマ ン帝 国 の軍事 改革 と軍 事教 育63 的 将 校 団 の確 立 が 急 務 で あ っ た か らで あ ろ う。 鈴 木 に よ れ ば,士 官 学 校 卒 業 生 の 出 身 階 層 に つ い て は,公 刊 さ れ た 系 統 的 資 料 を 欠 き 明 らか に さ れ て い な い。 しか し上 層 出身 の者 は 必 ず し も多 くな く, 下 層 中 産 層 出 身 者 もか な り含 ま れ て い た こ とは 個 別 的事 例 か ら見 て 明 らか と 言 え よ う。47)出身 地 域 につ い て は,ア ナ ト リア とバ ル カ ンの ム ス リム が 中心 とな って お り,こ れ らの 各 地 に か な り広 く出身 地 が 分 散 して い た。 これ らの こ とか ら将 校 は 出 自 にお いて も出身 地 に お い て もか な り広 範 な 背 景 に ま た が っ て お り,特 定 地 域,特 定 階 層 に極 端 に偏 重 した 構 成 を有 して い た の で は な い と言 え よ う。 オ ス マ ン帝 国 の 将 校 は19世 紀 後 半 に は い る と,教 育 体 制 の 整 備 と と も に士 官 学 校 出身 者 を 中核 とす る よ うに な り,か な り広 範 な社 会 階 層 と 出 身 地 域 を包 括 す る と と も に,斉 一 的 な 技 能 と志 向 を持 った 集 団 と化 しつ つ あ った 。48) 陸 軍 士 官 学 校,特 に参 謀 科 を 出 た エ リー トは 卒 業 と と も に サ ロニ カ に 司令 部 の あ る第 三 軍 に ほ ぼ 配 属 され た。49)この第 三 軍 の あ るル メ リー は特 別 な地 域 で あ り,軍 人 に対 す る給 料 もき ち ん と配 給 され,比 較 的 よ い環 境 で あ った。 しか しそ の 第 三 軍 で さ え20世 紀 に は い る と,経 済 的 に厳 し くな って き た。50) 各 地 の 将 校 の 間 で,給 料 の 額 や 給 料 が 現 物 支 給 に な った こ とへ の不 満,イ ス タ ン ブル と前 線 で の 給 料 の 格 差 へ の 抗 議 が 噴 出 して きて い た 。51)また 昇 進 問 題 に つ い て も多 くの 不 満 が 出 て き た 。 士 官 学 校 を 卒 業 し,有 力 者 の 娘 と結 婚 した り養 子 とな った り した 者 は参 謀 本 部 に入 り軍 の 日の あ た る道 を歩 い て お り,階 級 が 上 が って い る。52)中に は14歳 で大 尉,18歳 で 少 佐 や 大 佐 に な る者 もい た 。53) この よ うな様 々の 不 満 は 軍 隊 内部 に留 ま らず,政 治 に 対 す る不 満 へ と発 展 して い っ た。1909年4月 のAsker(軍 人)紙 にハ ム デ ィ大 尉 は,文 民 政 治 家 は 私 よ り50倍 もの 給 与 を も ら っ て い るの だ か ら,50倍 か ろ うか,と の 仕 事 をす べ きで は な 主 張 して い る。54)彼は政 治 家 らの 怠 慢 を 指 摘 し,軍 人 と政 治 家 の 距 離 を示 した の で あ る。 彼 の不 満 は,怠 慢 を 解 消 しそ の 距 離 を埋 め るべ く, 今 後 軍 人 が政 治 に大 き く干 渉 す る こ とを 示 唆 す る もの で あ っ た。 ダ ニ シ ュ メ ン ドに よ れ ば,将 校 に対 す る給 料 の 三 ヶ月 の滞 りや 昇 進 問 題 は,将 校 らに不 満 を 募 らせ,青 年 トル コ人 革 命 の原 因 の一 つ に もな っ た の で あ る。55)この 時 64 期 の 若 手 将 校 は 通 常 で は考 え られ な い 様 々 な 活 動 を行 って い た。 陸 軍 大 臣 に 匿 名 で は な い 苦 情 を送 りつ け た り,議 会 に請 願 書 を提 出 した り,さ ら に は演 劇 の 台 本 を書 い た り,多 くの 雑 誌 に 自 らの主 張 を 載 せ,影 た。56)様々 な 不 満 を 持 つ 将 校 らが,政 響 力 を高 め て い っ 治 に も影 響 力 を も た らす よ うに な っ た の が,第 二 次 立 憲 期 で あ った 。 一 般 の 兵 士 の 生 活 は,将 校 以 上 に 困 難 で あ った 。 食 料 も少 な く,衣 服 も不 十 分 で,生 活 は 動 物 よ りわ ず か に ま しな 程 度 で あ る と言 わ れ て い た。 兵 役 は 通 常 の 二 倍 の期 間 に及 び,も しイ エ メ ンの よ うな 帝 国 の 辺 境 に派 遣 され れ ば, 戻 れ る可 能 性 は わ ず か で あ る。57)非ム ス リ ム は兵 役 免 除 税(bedel-inakdi) を 支 払 い,こ の よ うな 困難 な 軍 隊生 活 か ら逃 れ る こ とが で き た。 ま た イ ス タ ン ブル 出身 者 や,イ エ メ ン,ヒ ジ ャー ズ,イ ラ ク,ト ラ ブル ス ガ ル プ,ア ル バ ニ ア の ム ス リム も兵 役 を 免 除 さ れ て い た。58)この よ う な状 態 に対 し,オ ス マ ン軍 は イ ス タ ンブル 出 身 者,キ リス ト教 徒,ア ラ ブ人,ア ル バ ニ ア 人,ク ル ド人 や ア ー や ベ イ,名 士 な ど の子 息 を 除 外 した 身 よ りの な い者 の 集 ま りで あ る,な ど と言 わ れ て い た 。59)しか し実 際 に は 様 々 の 民 族 の 兵 士 が存 在 して い た の で あ る。 さ らに将 校 と な る と,社 会 的経 済 的 に下 層 の 人 々 に と っ て上 昇 の た め の手 段 と もな り う る の で,か な りの 多 民 族 性 を 有 し,彼 らの た め の 学 校 も作 られ た り した 。60)この こ と よ り,オ ス マ ン軍 に は あ る程 度 非 トル コ 人 が 存 在 して い た こ とが わ か る の で あ る。 (3)士 官学校 の教育 今 まで に オ ス マ ン帝 国 の 軍 の歴 史 や 軍 学 校 の 開 設,軍 人 の 状 況 な ど を見 て き た が,本 節 で は将 校 を養 成 す る士 官 学 校 を 中 心 と した 教 育 内容 や イ デ オ ロ ギ ー につ い て考 察 す る。 1793年 に 開設 され た海 軍 工 学 校 は 最 も早 い近 代 的 軍 学 校 の ひ とつ で あ る が, 1796年 の 法 令 に よ り指 導 され る カ リキ ュ ラ ム が 決 定 さ れ た 。 そ こで は,幾 何 学,地 理 学,三 角 法,代 数,地 文 学,発 砲 術,爆 形 学,戦 史,円 錐 図 法,微 積 分,牽 発 物 取 扱,教 育 理 論,築 城 法 な ど が教 え られ,か 引 術,天 な りの程 度 近 代 的 な方 法 や 学 問 が取 り入 れ られ て い た の で あ る。61) これ らの学 校 で は読 み書 き の で き な い者 もい た が,ト ル コ語 の で き る者 は 近 代 にお け るオ スマ ン帝 国 の軍事 改革 と軍 事教 育65 ア ラ ビ ア語 や ペ ル シ ア語 ま た 外 国語 と して フ ラ ンス語 な ど も教 育 され た。62) 士 官 学 校 の参 謀 科 に お い て も,少 な くと も外 国 語 を一 か 国 語 は で き る こ と が 望 ま れ た。63)参謀 科 にお い て,軍 学,法 関係 以 外 の 科 目 と して 政 治 史,経 学 な ど社 会 科 学 も幅 広 く学 び,さ 済,地 理 らに軍 隊 で の実 習,参 謀 研 修 旅 行, 模 擬 訓 練 な どの 実 践 的 な カ リキ ュ ラム もあ った 。64) この よ うに近 代 的 な新 し い学 校 で,新 しい人 間 が,新 出 現 し始 め るの で あ る。65)彼ら は外 国 語 を学 び,そ 識 を 得,自 しい価 値 観 を 持 って れ に よ り西 欧 の様 々 な知 由 や 立 憲 制 の理 念 を知 り,ま た外 国 人 の知 人 も増 え る よ う に な る。 この こ と は青 年 将 校 らに大 き な影 響 を もた らす こ と に な り,後 に青 年 トル コ 人 革 命 を もた らす 原 動 力 とな る の で あ る。66) 「青 年 将 校 らは 戦 争 に 関 す る知 識 は あ るが 銃 さえ も発 砲 した経 験 が な い 」67) との 指 摘 は,た た き上 げ の 将 校 が士 官 学 校 出身 の 将 校 を 知 識 ば か りで 実 践 が な い こ と を椰 楡 した 言 葉 で あ る。 確 か に青 年 トル コ人 革 命 後,そ の二 者 に よ る確 執 が 表 面 化 し,い わ ゆ る 「反 革 命 」 に ま で 発 展 す る。 しか し も う一 面 を 考 え れ ば,彼 ら士 官 学 校 出 身 者 に は,近 代 的 な 知 識 は豊 富 に あ った。 政 治 を 学 び,諸 外 国語 を 修 得 して 留 学 し,自 由,立 憲 の 概 念 を 支 持 す る よ う に な っ た。 立 憲 運 動 や 専 制 打 破 運 動 を始 め,そ の帰 結 と して政 治 に干 渉 を す る よ う に な って い くので あ った 。 ま さに彼 らは オ ス マ ン帝 国 の 近 代 化 の 担 い手 とな っ て い った 。 この こ と は オ ス マ ン帝 国 ば か りで な く,非 西 欧 諸 国 に お け る軍 は 先 端 技 術 を用 い,西 欧 の知 識 を習 得 す る こ とに よ り近 代 化 推 進 の役 割 を果 た す 場 合 が あ る の で あ る。68) (4)軍 学校 の教育 とイデオ ロギー 前 節 で は士 官 学 校 の カ リキ ュ ラ ム や 教 育 内容 か ら将 校 が 近 代 化 推 進 の 担 い 手 で あ っ た こ とを 指 摘 した が,本 節 で は士 官 学 校 の前 段 階 で あ る幼 年 学 校 や 予 科 学 校 の 内 容 につ い て も考 察 して い く。 幼 年 学 校 で は11歳 か ら15歳 ぐ らい の 少 年 た ち に対 して 教 育,訓 練 が 行 わ れ た。 そ の 目的 は,宗 教 教 育,体 育,思 想 教 育,軍 事 教 練 な ど を通 じて,国 家 に 有 為 な人 材 を 作 り 出す こ とで あ った 。69)初年 度 に教 科 書 や ノー ト,軍 服 一一 式 や 靴 下,ベ ッ ドの シー ツな ど が配 られ た。 これ らを無 く した りす る と弁 償 66 しな くて は な らな か った。 ま た オ ス マ ン軍 の伝 統 を踏 襲 し,一 日5回 の 礼 拝 は 義 務 づ け られ,怠 る と当 直 士 官 に よ っ て警 告 され る な ど,か な り厳 しい規 律 の 中 で教 育 さ れ た 。70)生徒 の 人 数 に つ い て は 例 え ば,ト は 当 初 は500人 ほ どの 規 模 で あ った が,後 1848年 に イ ラ ク に オ ス マ ン軍 の 第6軍 学 校 を 作 る必 要 性 が 出 て き て,1879年 た。72)生徒 数 は1898年 に269人,1900年 カ トの 幼 年 学 校 で に は2000人 に も達 した 。71) 団 が創 設 さ れ,そ れ に と もな い予 科 に バ グ ダ ー ドに 予 科 学 校 が 作 ら れ で は256人 で あ り,そ の 中 の30か ら40 %の 者 が毎 年 イ ス タ ン ブ ル の 士 官 学 校 に進 ん だ 。73)この こ とか らバ グ ダ ー ド に お け る予 科 学 校 の 生 徒 は ア ラ ブ人 も含 ま れ て い る と考 え られ る の で,オ ス マ ン軍 の 将 校 の 中 に もか な りの数 の ア ラ ブ人 が 存 在 して い た で あ ろ う。 ま た 1910年 代 の ア ル バ ニ ア反 乱 にオ ス マ ン帝 国軍 の アル バ ニ ア 人 将 校 が 活 躍 す る こ とか ら も解 る と お り,オ ス マ ン軍 は20世 紀 初 頭 に入 って も トル コ国 民 軍 と は 言 い難 く,ア ル バ ニ ア人 や ア ラ ブ人 な ど を 含 ん だ 多 民 族 軍 な の で あ っ た。74) 後 に イ ラ クの 政 治 家 とな り1958年 の イ ラ ク革 命 の 際 に 処 刑 さ れ た ア ラ ブ主 義 者 の ヌ リ ・ア ス ・サ イ ドは,1903年 に14歳 で 士 官 学 校 に 入 学 し軍 人 に な っ た。 彼 の 父 は 息 子 を軍 人 にす る こ とを 希 望 して い た。 な ぜ な ら文 官 の 将 来 に は,ト ル コ人 で な い と障害 が あ った が,軍 人 の 世 界 に は そ れ が 少 な く,現 に 当 時 バ グ ダ ー ド出身 の 陸 軍 大 臣 や参 謀 総 長 が い た の で あ る。75)青年 トル コ人 革 命 後,活 躍 し 「独 裁 者 」 と も言 わ れ た マ フム ー ト ・シ ェ ヴ ケ ッ ト ・パ シ ャ もバ ク ダ ー ド出 身 者 で あ った 。 この よ う な こ とか ら も少 な くと も将 校 に お い て は トル コ人 の み で あ っ た と い う こ と は言 い 難 い よ うで あ る。76)いわ ば 軍, そ の 中 で も特 に 将 校 に お い て は,タ ン ズ ィマ ー トの伝 統 で あ る多 民 族 共 存 を 目指 す オ ス マ ン主 義 的雰 囲 気 が20世 紀 に な って も続 い て い た 。 士 官 学 校 や 各 種 軍 学 校 に入 学 す る と い う こ と は,社 会 的 上 昇 の た め の 手 段 で も あ り,77)20世 紀 に入 って も比 較 的,各 民 族 に も開 放 さ れ た もの で あ っ た。 そ こで は読 み書 きや 軍 事 的 教 育 も さ る こ とな が ら,政 治 や 外 国 語 な ど一 般 的 な教 科 も教 え,自 た。 由 や立 憲,民 族 主 義 な どイ デ オ ロ ギ ー の 形 成 の場 で もあ っ 近 代 にお け るオ スマ ン帝 国 の軍事 改革 と軍 事教 育67 おわ りに 多 くの 近 代 国 家 と 同 じ よ う に,オ ス マ ン帝 国 に お い て も列 強 や帝 国 内諸 民 族 に 対 応 す る た め に,近 代 的 軍 の創 設 と近 代 化 の 担 い手 と して の軍 人 の 養 成 が 急 務 の 課 題 で あ っ た。18世 紀 初 頭 か ら様 々 な 改 革 に よ り近 代 軍 の 組 織 化 が 始 め られ た。1834年 に は 陸 軍 士 官 学 校 の 前 身,1839年 に は 軍 医 学 校,さ らに 1846年 に は 陸軍 士 官 学 校 内 に参 謀 科 が 設 け られ,近 代 的 な 将 校 団 を養 成 した。 士 官 学 校 の学 生 は比 較 的広 範 な背 景 を 持 って お り,特 定 地 域 ・特 定 階 層 に偏 重 して い た とは 言 え な い で あ ろ う。 この こ とは20世 紀 初 頭 まで 持 続 して お り, オ ス マ ン軍 は 多 民 族 軍 で あ り,い わ ば オ ス マ ン主 義 の体 現 者 で あ った と も言 え よ う。 彼 ら は近 代 的 な 新 しい 学 校 で,外 国 語 や 政 治 学 を学 習 し留 学 を す るな ど西 欧 の 知 識 を得 て,自 由 や立 憲 の概 念 を 学 ん だ。 第 二 次 立 憲 期 に入 る と,士 官 学 校 出 身 の将 校 と兵 士 上 が りの将 校 との 対 立 が 見 られ た。 士 官 学 校 出 身 者 は, 兵 士 上 が りの た た き上 げ の 将 校 と比 べ て,確 か に軍 事 的 な 経 験 は乏 しか った が,近 代 的 な知 識 は豊 富 で あ っ た。 様 々 な不 満 を 持 つ 士 官 学 校 出身 の 将 校 ら は,政 治 に も影 響 を もた らす よ うに な り,立 憲 運 動 や専 制 打 破 運 動 を 始 め る よ う にな る の で あ っ た。 〈注> 1)研 究 史 に つ い て は,岩 木秀樹 和 研 究 所 所 報 』 第6号,地 「政 軍 関 係 研 究 と オ ス マ ン帝 国 の 動 向 」 『地 球 宇 宙 平 球 宇 宙 平 和 研 究 所,2011年,お よ び岩 木 秀樹 「オ ス マ ン 帝 国 に お け る1912年7月 前 後 の 政 軍 関 係 一 マ フ ム ー ト ・ シ ェ ヴ ケ ッ ト ・パ シ ャ と 統 一 と進 歩 委 員 会 と の 関 係 を 中 心 と し て 一 」 『ソ シ オ ロ ジ カ 』 第25巻 ,第1・2号, 創 価 大 学 社 会 学 会,2001年 2)鈴 木董 を参 照。 「『近 代 軍 』 形 成 期 の オ ス マ ン 帝 国 に お け る軍 人 と政 治 一1826-1908年 日本 政 治 学 会 編 『年 報 政 治 学 』1989年,196-197ペ ー ジ。 3)DankwartA.Rustow,"TheMilitaryLegacy,"L.CarlBrowned.,Imperial Legacy:TheOttomanImprintontheBalkansandtheMiddleEast,New York:ColumbiaUniversityPress,1996,p.255.DankwartA.Rustow, "Turke y,"RobertE.Ward&DankwardA.Rustoweds.,Political ModernizationinJapanandTurkey,PrincetonUniversityPress,1964,p.352. 一」 68 ) ) 4 RU 永 田 雄 三 他 著 『中 東 現 代 史1』 山 川 出 版 社,1982年,71ペ ー ジ 。 Kurtulu§Kayall,"OsmanllDevleti'ndeYθnilθSmeHareketlerivθOrdu," Tanzimat'tanCumhuriyet'eTiirkiyeAnsiklopedisi,(以 下,TCTAと 略)Cilt5, ) 6 Istanbul:IletiSimYaylnlar1,1985,ss.1252-1253. 鈴 木,前 掲 論 文,191-193ペ ー ジ 。CemalOzkan,"Tanzimat'tanCumhuriyet'θ ) ) 7 0 0 Ordu,"TCTA,Cilt5,s.1261. 鈴 木,前 掲 論 文,191-192ペ ー ジQKayall,op.CLt.,ss.1253-1254. Ziyafakir,TanzimatDevrindenSonraOsmanliNizamOrdusuTarihi, ) 9 Istanbul二CelutMatbaasl,1957,ss.69-70. Kayall,op.cit.,s.1254.メ テ 出 版 社,1996年,140ペ ・ ト ゥ ン ジ ョ ク ー ジ。 小 松 香 織 エ ン ト』36巻2号,日 本 オ リ エ ン ト学 会,1993年,182ペ 10) 鈴 木,前 11) 同 上 論 文,202ペ 12) Ozkan,op.cit.,s.1263. 13) Fahripoker,"TanzimatveOrdudakiYenilikler,"TCTA,5.tilt,s.1264. 14) fakir,op.cit.,ss.99,101-102. 15) 設 楽 国 広 一 分 冊 掲 論 文,199ペ ー ジ 。 ー ジ 。 ー ジ 。 「ア ブ デ ュ ル ・ ハ ,日 『 トル コ と 日 本 の 近 代 化 」 サ イ マ ル 「オ ス マ ン 海 軍 非 ム ス リ ム 職 員 台 帳 」 『オ リ ミ ト ニ 世 の 専 制 政 治 構 造 」 『 日 本 中 東 学 会 年 報 』 三 号, 本 中 東 学 会,1988年,185ペ ー ジ。 16) fakir,op.cit.,ss.68-69. 17) 鈴 木,前 18) 同 上 論 文,207ペ 19) HasanKayali,ArabsandYoungTurks:Ottomanism,ArabismandIslamism 掲 論 文,203ペ ー ジ 。 ー ジ 。 intheOttomanEmpire,1908-1918,Berkeley:UniversityofCaliforniaPress, 1997,pp.56-57. 20) 設 楽 国 広 「青 年 トル コ 人 と オ ス マ ン 朝 軍 一 将 校 の 出 自 に 関 す る 問 題 を 中 心 に 一 」 『中 嶋 敏 先 生 古 稀 記 念 論 集 』 中 嶋 敏 先 生 古 稀 記 念 事 業 会,1981年,570ペ 21) 同 上 論 文,568ペ ー ジ 。SinaAk§in,融 磁 ー ジ 。 亡g1-BirAyaklanma:31MartOlayr, Ankara:ImgeKitabevi,1994,ss.231-232. 22) 設 楽,前 掲 「青 年 ト ル コ 人 と オ ス マ ン 朝 軍 」574ペ ー ジ 。 秋 葉 淳 「ア ブ デ ュ ル ハ トニ 世 期 オ ス マ ン 帝 国 に お け る 二 つ の 学 校 制 度 」 『イ ス ラ ム 世 界 』50号,日 ラ ム 協 会,1998年,50ペ 23) ー ジ 。 ErikJ.Ziircher,Turkey:AModernHistory,London:1.B.Tauris,1994,pp. 103-104.HasanKayali,op.cit.,p.231.SinaAkin,100SorudaJonTiirkler veIttihatveTerakki,Istanbul:GerGekYaylnevi,1980,S.128. 24) 設 楽,前 25) NejatEralp,"lkinciMeSrutiyet「teSilahllKuvvetlerileIlgiliUGOnemli 掲 「青 年 ト ル コ 人 と オ ス マ ン 朝 軍 」576ペ Kanun,"DiirdiincziAskeriTarihSemineriBildiriler,Ankara:Genelkurmay Baslmevi,1989,(以 26) Ibid.,s.125. 下,Z)ATSBと 略)SS.122-127. ー ジ。 ミ 本 イ ス 近 代 にお け るオ スマ ン帝 国 の軍事 改革 と軍 事教 育 27) Ibid.,s.127. 28) Ziircher,op.cit.,p.105. 29) 69 StanfordJ.Shaw&EzelKuralShaw,HistoryoftheOttomanEmpireand ModernTurkey,Vol.II,Cambridge:CambridgeUniversityPress,1977,pp. 287-288.新 井 政 美 「ア フ メ ッ ト ・ フ ェ リ ト に 関 す る 覚 え 書 き 一 青 年 トル コ期 に お け る 地 方 分 権 論 的 国 民 主 義 の 可 能 性 を め ぐ る 予 備 的 考 察 一 」 『上 智 ア ジ ア 学 」 第13号, 1995年,118ペ 30) ー ジ 。 TarlkZaferTunaya,Turkiye'deSiyasi-Partiler1859-1952,TlpklBaslm, Istanbul二ArbaYaylnlarl,1952,ss.294-295. 31) Ibid.,ss.186-187.新 32) 統 一 派 が 次 第 に る が,当 な ど多 33) 井,前 掲 論 文,118ペ ー ジ 。 トル コ ナ シ ョ ナ リ ズ ム を 強 め る こ と に な り排 他 性 を 有 す る よ う に な 初 は,統 一 派 は ト ル コ 人,ア ラ ブ 人,ク ル ド人,ア ル バ ニ ア 人,ロ シ ア 人 く の 民 族 か ら 構 成 さ れ て い た の で あ る 。HasanKayall,op.CLt.,p.45. FaikRefitUnat,TurkiyeEgitimSistemininGθ 侮 η泥sεηεTarihiBirBα ん1θ, Ankara:MilliEgitimBasimevi,1964,s.58. 34) AhmetTuranAlkan,Ikinci1晩5r雄 砂 θ亡1)evrindeOrduU2Siyaset,Ankara: CeditNeSriyet,1992,s.9. 35) 鈴 木,前 掲 論 文,193ペ ー ジ 。Avigdorlevy,"TheOfficerCorpsinSultan MahmudII'NewOttomanArmy,1826-39,"InternationalJournalofMiddle EasternStudies,No.2,1971,p.21. 36) Ibid.,PP・22-24.鈴 37) 同 上 論 文,193ペ 木,前 掲 論 文,193ペ ー ジ。 ー ジ 。Alkan,op.Clt.,S.9.IlhanTekeli-SelimIlkin,Osmanli Imparatorlugu'ndaEgi亡imveBilgiUretimSistemininα D伽 38) α5αmαve お 伽 τ諺,Ankara:TurkTarihKurumBaslmevi,1993,s.60. 卒 業 後 当 初 は 准 佐 と し て,後 に は 大 尉 と し て 軍 隊 の 任 務 に つ い た 。Unat,qρ.cit., ss.62-63. 39) 鈴 木,前 掲 論 文,193ペ 部 に 入 る も の は1849年 は 准 佐,そ ー ジ 。 歩 兵 隊 に 入 隊 す る も の は1848年 に 卒 業 し,参 謀5人,歩 の 他 は 大 尉 も し く は 中 尉 と し て 任 官 兵 隊9人,騎 に,騎 兵 隊10人 兵 隊 と 参 謀 本 で あ り,参 謀 した 。 な お 後 に は 階 級 は 少 尉 任 官 に な る 。Unat,Qρ.Clt.,s.66. 40) Ibid.,s.69.鈴 41) Tekeli,op.cit.,s.68. 42) Ibid.,s.68.MehmetNaimTurfan,"ThePoliticsofMilitaryPolitics: 木,前 掲 論 文,194ペ ー ジ 。 PoliticalAspectsofCivil-MilitaryRelationsintheOttomanEmpirewith SpecialReferencetothe"YoungTurk"Era,"Ph.D.dissertation,London University,1983,P・92.な 全 体 に つ い て は,表1を お,オ ス マ ン 帝 国 の1900年 参 照 の こ と。 43) MusaCadlrc1,"II.AbdUlhamitD6nemindeosmanllOrdusu,"1).4TSB,S.39. 44) Turfan,op.cit.,p.420. 45) 鈴 木,前 掲 論 文,193ペ ー ジ 。 に お け る 男 子 教 育 シ ス テ ム 70 46) ReevaS.Simon,"TheEducationofanIraqiOttomanArmyOfficer,"Rashid Khalidietal.,TheOriginsofArabNationalism,NewYork:Columbia UniversityPress,1991,p.157. 47) 陸 軍 士 官 学 校 出 身 の 最 初 の 陸 軍 大 臣 と な っ た ヒ ュ セ イ ン ・ア ヴ ニ ー て 裕 福 な 家 族 の 出 身 で は な か SadrazamlarueBα50盈 文,194,196ペ っ た と い わ れ ・パ シ ャ も 決 し る 。MθhmedZekiPakalln,Son ε〃θr,CiltII,Istanbul,1942,ss。91-92。 鈴 木,前 掲 論 ー ジ 。 ) 00 4 同 上 論 文,194ペ ー ジ 。 ) ) 0σ 0 4 尺U Alkan,op.cit.,s.39. Ibid.,ss.41-42. ) 1⊥ 尺U AhmetRefik,Inkrlab-1Azim10Temmuz1324,Dersaadet,MehmedBey Matbaasl,1324,ss.64-65.NizamettinDelilbaSl,Hatlralarlm,Istanbul,1946, s.61.AhmetBedeviKuran,HarbiyeMektebi'ndeHurriyetMucadelesi, Istanbul,Tarihsiz,s.88.Alkan,op.cit.,ss.42-43を 参 照 。 ) ) 9自 り0 民り 民り Refik,op.cit.,s.62. DelilbaSl,op.cit.,s.44. ) 4 民り Asker,Sayll6,ss.167-176.Alkan,op.cit.,s.47を 参 照 。 ) πり 民り IsmailHamiDanismend,IzahhOsmanliTarihiKronolojisi,CiltIV,Istanbul: TiirkiyeYay.,1955,s.359.Alkan,op.cit.,s.48. 56) Ibid.,s.53. 57) ErnestEdmondsonRamsaur,TheYoungTurks-PreludetotheRevolution(ゾ 1908,NewJersey:PrincetonUniversityPress,1957,p.119.Alkan,op.cit.,s. 29. 58) Ibid.,s.29.1843年 法 に お い て 兵 役 義 務 は ム ス リ ム に 限 られ て い た 。 し か しギ ュ ル ハ ネ の 勅 書 に も う た わ れ た 宗 教 間 に お け る 平 等 原 則 実 現 の た め ,1847年 に キ リス ト 教 徒 を 始 め 非 ム ス リ ム 臣 民 も兵 役 の 対 象 と し兵 役 に 服 す る 者 は 人 頭 税 か ら免 除 す る こ と と し た が,実 施 は 延 期 さ れ た 。 非 ム ス リ ム の 兵 役 義 務 は1856年 よ っ て し だ い に 制 度 化 さ れ た が,そ の 実 施 は ご く 一 部 に 留 ま り,実 税 を 徴 収 し て 兵 役 に 代 え る こ と と な っ た 。 鈴 木,前 59) Alkan,op.cit.,s.29. 60) Simon,op.cit.,p.153.Tekeli,op.cit.,s.89. 61) Unat,op.cit.,s.58. 62) Ibid.,S.60.な お い て,フ お20世 ラ 掲 論 文,193ペ 紀 初 頭 に お い て 近 代 的 教 育 方 法 を 取 ン ス 語 を 習 っ た 学 生 の 数 の 総 計 は62,336人 の 改 革 の 勅 令 に 際 に は 兵 役 免 除 ー ジ 。 り入 れ た 様 々 の 学 校 に で あ っ た 。KemalH. Karpat,OttomanPopulation1830-1914.・DemographicandSocial Characteristics,Wisconsin:TheUniversityofWisconsinPress,1985,p.96. 63) ZekeriyaKur§un,"SadrazamKUgUkSaidPa§a「nlnBazlAskeriFikirkerive RumeliAskeriErzakMiiteahhidleriyleMiicadelesi,"AsheriTarihBulteni, Sayi34,Ankara:GenelkurmayBasimEvi,1993,s.98. 64) Unat,op。cit.,s.70.Tekeli,op.CLt.,S.89.軍 関 係 以 外 の 一 般 文 化 に 関 す る 科 近 代 にお け るオ スマ ン帝 国 の軍事 改革 と軍 事教 育 目 が あ る の は 士 官 学 校 も 同 様 で あ っ た 。 ち な み に1876年 一 年 次94名 ,二 年 次105名,三 年 次96名,参 の 士 官 学 校 の 在 籍 人 数 は, 謀 科 一 年 次9名,2年 参 謀 科 を 合 わ せ た 士 官 学 校 の 在 籍 総 数 は309名 71 次5名 で あ り, 65) serifMardin,Turkiye'deModernToplumueSiyaset,Istanbul,1990,s.192. 66) Ibid.,s.10. 67) AsafTugay,Ibret,IkinciKisim,Istanbul:YorukYay.,1962,s.51.Alkan, 68) Ibid.,s.19.Gencay$aylan,"OrduveSiyaset,"Kanun-1Esasi'nin100,Ylll で あ る 。Cadlrc1,0p.Clt.,s.43. Alkan,op.cit.,s.23. op.cit.,s.50. Armaganl,Ankara:Ankara亡nivesitesiSiyasalBilgilerFakUltesiYay.,1978, ss.393-394. 69) MustafaG61,"TokatAskeriRusdiyesi'ndeEgitim-Ogretimsistemi,"Askeri 70) Ibid.,s.5. 71) Ibid.,s.1. 72) Simon,op.cit.,pp.151-153.な TarihBulteni,Sayl38,Ankara:GenelkurmayBaslmEvi,1995,s.3. お1876年 開 設 と の 説 も あ る が,ど ち ら に し て も1870 年 代 後 半 で あ ろ う 。 73) 74) Ibid.,p.164. も っ と も,幼 1870年 年 学 校 や 予 科 学 校 の 教 員 の ほ と ん ど は に お け る バ グ ダ ー ド の 幼 年 学 校 の25名 ト ル コ 人 将 校 で あ り,例 の 教 員 は す べ て え ば トル コ 人 で あ っ た 。 Ibid.,p.157. 75) 林 武 76) た だ し 徴 兵 に よ る 兵 士 の 場 合 は 史 料 も 少 な く 明 ら か に は な っ て い な い 。 注 の58で 「現 代 ア ラ ブ の 政 治 と 社 会 』 ア ジ ア 経 済 研 究 所,1974年,308ペ 示 し た が,ギ な い 。 木 村 に よ れ ば,非 77) ム ス リ ム が 兵 役 に 加 わ っ た の は1908年 『東 ア ラ ブ 国 家 形 成 の 研 究 』 ア ジ ア 経 済 研 究 所,1987年,35ペ Simon,op.cit.,153. も ュ ル ハ ネ の 勅 書 後 に 非 ム ス リ ム も 兵 役 の 対 象 と 理 念 的 に は な っ た が, 実 際 に 実 施 さ れ た と き は い つ で あ っ た か 明 ら か で は な く,そ 博 ー ジ 。 の 人 数 の 割 合 も 定 か で 以 降 で あ る 。 木 村 喜 ー ジ。 72 ㊥ 攣 θ軸 . 寸 邸ヨΦの . 寸㊤曾 . 写 ①自 器 ◎ ㊥ θ蔭 龍穂 野鍵 ∩q ヨ ρ冠 国 弓 Σ ・5捻 着 く , 旨港 Qq 養qq 避 黛壽 ㊥ 蔭 串掛漣 θ θ ミ 驚 ミい慧 O 芯 竃 ミ 憎 のあ 鳶 捻蒔 θ ㊥ ㊥ 遜 朴 針 §掛 謹 ①きミ k壽 , 葛 醒 ㊥ θ 攣朴帥霜掛 着譜 葦 愚 ㊥ 翠舐 ヤθ θ 卜 ㊥ ㊥ θ 遜昏 ! マ断い奉 蝋 い鮫 - ◎ 寧 癖㊥ 奪㊥ 誓㊥ ㊥ 鮫 ㊥ ムZ ス ㊥ 総螺 懸 圏 培㊥ ㌔ ㊥ ㊥ θ ( 鄭齢 斑) 朴釈 OO 鄭㊥ 軸 紳 箪 ㊥ 朴θ 團 薄 θ θ 箪㊥ 承圏 ㊥ 紐 口O袖 噛 総 00 日 くθ θ θ 怠㊥ 00 ㊥ 饗圏 ヤθ ㊥ r葦 齢 態 盤 `/ 鄭 ㊥LIMO 齢 鎧 ∴1㊥軸 駐 善1 且 匡㊦ 10匡 圖 ≡ な θ 諭 。 。 攣㊥ 鰹 鋼 箪㊥ ㊥ ㊥ θ ( 纒 騨督 に) 箪卦 恒採 帥憧 8 L'¥ 000 ㊥ 0 73 近 代 にお け るオ スマ ン帝 国 の軍事 改革 と軍 事教 育 。ゆ 槍 瘤 面 り 刃 二 や £ Φ 築 訟 需 Q 溢 Φ 、£ 製 ゆ 槍 る 緊 漣 二 や 二 P 。騒 輔辺 照 、 興姪 っ . っ ㎝。① N。㎝ 一卜寸ド 爲 . ⑩ . ⑩ゆ① 寸 . 一①H ゆ . ①一① 寸 . 。 ・ 。〇一 。 寸卜㊤ド . 。 ①寸。 ⑩ 。 ゆ。ト ご .っ 寸㊤ 一 。㎝ 。。 . 。。⑩ 爲 っ . 。 ㌍ 爲 寸⑩① 蔚 ・ ゆ①。 ご . ゆト寸 ⑩ 。 寸。 咬⑩ . ・ N。一 ⑩ っ コ。ド . ・っ 。。 ㊤ 寸 ⑩①ト ぜ トゆ① 寸 っ . 。⑩ト 寸 っ H。O ご . 。 。㊤① 寸 . 。 雪寸 ゆ 。ゆH ご . コ㊤ ゆ . 一〇⑩ 寸 . 90 ㊤ ・ ⑩。H ご 、っ 一㎝O 。 、 ト 蕊 H っ、 ト。一 ㎝ 畑日、 畑 ①。。 。 、 ① 萬 ㎝ 、畑 ト 萬 。 . ①①ゆ 一 苺っ 。ド . 。っ H 。。 一 。。 。。寸 ド . ⑩⑩寸 一 。 O。寸 ド っ σQっ ⑩ 薦ゆ 寸誌 卜H⑩ っ σ 爵 爲⑩ ○っ ゆ ○σ ゆc畑寸 寸⑩ 寸 潟寸 守寸 っ 。 專 ○っ 。σN 寸萬 ①爲 測 日 。⑩。 圏N ○日 寸◎。 寸コ ⑩雪 ○ 。 曽 トき NQO一 〇 寸◎一 ⑩N 萬 っ σN 臼日 σσ っ σN っ 一〇 ①①。OH H8H ㎝O①H っ 。 8H 寸O①H 8①H . ト寸 . ω. ① 。。曾 . 写①自 器 m︻壽 日 墓 当 ①8 0 駕 起。 ,く 送 § ℃も q い ㌦つのづ℃﹄○ 莞 邸日 。,○ Φ昭 届 ①ε ∩ 出日 聾 ヨ ヨ < . HHご . δ﹄℃δ 霧 ⇒Σ "尽 揖 っ、 畑 ①。一 ⑩①。 卜① 咬一 萬 O等 ㊤⑩⑩ 討 . ゆ①O ⑩ ミ kミ 、 ゆ 8 O卜㎝ . っ トゆ寸 ⑩。㎝ お。 。ド .っ 8㎝ 。㎝ 黛①芯 § お 、 畑 9① ①卜。 ⑩O⑩ ゴ・ 。 ① コド . ・ N。O 卜 徳﹄璽 自く 冨 ミ 還 N諮 、 。 ゆ。O お㎝ . 爵㎝ ⑩ 、 。 畑 ト。㊤ 。 畑 。寸ゆ ド . 、 畑 。 萬 O 爲 . ON① ⑩寸㎝ . 臼 。寸① 寸 卜①。OH 日 O。ゆ ぜ っ 一〇 ・。 。。 胤⑩ ○っ 。。一 っ臼 ①① 胤。。 日 專。 っ ・ 。⑩。 ご ○ ○日 。 ○。 . 。 。 コ ゆ 寸トゆ ・ 。①⑩ 卜㎝⑩ ・ 討。 、っ っ 。 。①寸 。。㎝ 畑 旨。 . ⑩⑩ゆ 一 、 畑 測 。卜。 、 。 ゆ⑩。 ㎝ 霧oOH . . 。 。卜①㎡ 卜 騙 ゆ ①等 寸 っ O。 。 っ 。一 見。㎝ 一コ 一⑩⑩ぜ 写oっ っ OσN 。. 寸。① ゆ OOO寸 っ っ ◎ ⑩。 . ① 等一 雪 . 守寸 一 っ、 ㎝。N 爲㎝ . ○ っ 。寸。 ㎝ っ 。①。OH . 畑っ 。 。㎝ 卜 卜㎝ . っ O寸 。 ㎝一 ○ 。① . ○ っ 写。 。 寸O㎝ . ゆ㊤ O ⑩ ト爲 . ・ っ 畑 。①ゆ 。O 。 っ っ ◎ ㎝。 . ○ 耳。 ゆ㎝㎝ O罵 ㎝①oOH . OO寸 一 ⑩N 、っ ゆトO 。 ト9 っっ ⑩。。 ド . 一ト⑩ ゆ OO㎝ ゴ . 苺⑩ 寸ト一 。っ 。。寸 ㎡ っ。 。。一 ㎡①H 1 ○OQO。OH 8 っ 。㎝ 卜曽 N榔 ー 1 1 1 浬も 浬岳 浬釈 卑岳 卑 釈 量 暇 1 ㎝○Ooっ I oっ 臨 I . 守寸 一 I . っ 。トト ㎝ 1 . 誌ゆ H . っっ 。 。㎝ 卜 ト一 叫ゆ 1 1 . ○・ ㎝。。 ㎝一 . っ ○〇 コ。 。。一 1 . っっ 。。O ゆO㎝ 茜岳 理哩 1 茜釈 韮も ー ﹄ヤ酬 e 螺 龍 ゆむ 紹 E 圖 惟 λ 臣 K 杓 1 越測 攣朴 野 溢如 髄羽 十味 卸採 祐輿 1