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「 生 き る た め の 熱 」 開 催

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「 生 き る た め の 熱 」 開 催
「生きるための熱
―スポーツにかける入所者たち―
」
開 催
あった。
作に力を入れるという楽しみ方も
いが、応援やそのための道具の製
ていた。また競技そのものではな
状 が 進 む こ と は 少 な い た め、 ス
する前に療養所に収容された人も
しかし化学療法以前でも、重症化
議 な 印 象 を 受 け る か も し れ な い。
が盛んだったと聞くと、少し不思
入所者が書いた、運動会について
九二九(昭和4)年の「山桜」に
でにも活気づかせる」―これは一
「 千 名 の 村 人 の 血 を 湧 立 た せ 老
若男女の別なく、病床にある者ま
入所者チームができてリーグ戦を
する療養所も現れた。いくつもの
中でも野球熱は特に高く、園内
に本格的な野球グラウンドを整備
ようになっていた。
テニス、卓球、相撲等が行われる
ムは各地域の強豪で鳴らし、星塚
になった。おしなべて入所者チー
一九七〇年代後半からは、すべ
ての療養所でゲートボールが盛ん
登場した。
いうものが不可欠だった。
まさに「血を湧立たせ」る場面と
冒 頭 の「 山 桜 」 の 記 述 の よ う に、
そ う し た 入 所 者 に は も ち ろ ん、
症状が進んでそれらを観戦するこ
ポーツに取り組むだけの体力が十
多く、またハンセン病は急激に症
これらのスポーツは太平洋戦争
の中断を経て、社会復帰者が増加
の 記 述 だ。
「村人」とは全生病院
行ったり、代表チームを結成して
敬愛園のように全国大会で優勝す
限られた空間と選択肢しか許さ
るチームまで現れた。その一方で、 れない療養所の中でも生きている
としかできない入所者にとっても、
分にある入所者が多くいた。
の入所者を指していて、誰も彼も
ことを実感するために、また自分
九二三(大正 )年前後には野球、 する一九六〇年代まで続いた。ま
た 戦 後 は バ レ ー ボ ー ル、 ソ フ ト
が運動会に熱狂していたことがよ
職 員 チ ー ム と 試 合 を し た り し た。
が患者・回復者だということを一
が必要だった。生きがいを見出し
とするために、また社会と関わる
場面を手に入れるために、没頭し
他人と対等に渡りあえるものも必
要だった。入所者にとってスポー
ツ は、 単 な る 娯 楽 の 域 を 越 え て、
まさに生きるために無くてはなら
ないものだったのだ。
スポーツにかける入所者のすさ
まじいまでの熱狂ぶりは、こうし
たところから生まれている。本展
を通して、入所者がスポーツに向
月
け た、 い わ ば“ 生 き る た め の 熱 ”
月1日(土)~
を感じていただきたい。
・会期/
27
付帯事業/当館ホームページ参照
日(火)
・会場/当館企画展示室・
12
ボール、バドミントン等も新たに
くわかる。
また整備されたグラウンドは、入
地域のゲートボール連盟から加盟
の一コマを写した写真や実物資料
に出て行くことこそ稀だったもの
を拒否されるという、入所者の向
を展示する。野球は長島愛生園か
の、終生隔離の時代にあって、ま
所者チームや職員チームの実力と
ら 新 良 田 教 室 の バ ッ ト と グ ラ ブ、
ぎれもなく数少ない社会との交流
今年度の秋季企画展では、全国
の療養所で入所者が取り組んだス
菊池恵楓園から優勝旗と交流大会
の 一 場 面 と な っ て い た。 直 接 プ
時的にでも忘れられる時間を手に
のトロフィー、沖縄愛楽園から澄
レーしない入所者たちも試合を楽
上心や社会と交流したいという気
井 小 中 学 校 の ユ ニ ホ ー ム 等 を、
し み に し、 応 援 し、 記 録 を つ け、
相まって、近隣のチームを療養所
ゲートボールは邑久光明園からス
に引き寄せることとなり、頻繁に
ティック・ボール・ゼッケン、星
勝敗を予想した。
ポーツを取り上げる。野球、運動
塚 敬 愛 園 か ら 大 会 横 断 幕・ ユ ニ
運動会は大人も子どもも、男性
も女性も、入所者も職員も、全員
会、ゲートボールを中心に、競技
ホ ー ム・ 全 国 大 会 優 勝 時 の ト ロ
が参加できる療養所の行事として、
入れるために、何か熱中するもの
フィー等を借用している。また個
春秋または秋に開催されることが
持ちに水を差す事態も生じた。
人から、東北新生園の交流試合に
多かった。個人の上手下手とは関
試合が行われた。こうした対外試
関 す る 賞 状 等 も お 借 り し て い る。
係なく、誰でも楽しめる点が、他
合は、入所者チームが園外へ試合
さらに試合の模様を記録した貴重
療養生活を少しでも充実したもの
な動画もご覧いただける。
のため入所者の気持ちを明るくさ
病気を患っていたり後遺症を
負っている入所者の間でスポーツ
各地の療養所では、入所者の間
でスポーツが盛んだった。早いと
せ、チャレンジしてみようかとい
う気持ちを呼び起こす機会となっ
10
のスポーツとは異なっていた。そ
)年頃
ころでは一九一〇(明治
野球の試合(邑久光明園 1955年頃)
1
12
秋季企画展
にはすでに運動会が開催され、一
43
第93号(季刊)
国立ハンセン病資料館
2016年10月1日
企画・編集 国立ハンセン病資料館
発 行 公益財団法人
日本財団
〒189-0002東京都東村山市青葉町4-1-13
電話 042-396-2909
FAX 042-396-2981
URL http://www.hansen-dis.jp
の変更、④国のけじめで、その報
検討会の主な課題は、①隔離条
項等の廃止、②処遇維持、③病名
のかを説明した。
それをどのように克服していった
持の規定が付けたしではなく、重
稀であるという。これは、処遇維
たが、この点も法律の形式として
がともに法律の本則に盛り込まれ
は、法の廃止と処遇維持の規定と
行ったりした。さらに、この法律
ために全ての政党に事前説明を
り、法案を全会一致で成立させる
くった。
きであると指摘し、講演をしめく
セン病問題の教訓が参照されるべ
れない社会を目指す」ため、ハン
病気を理由とした悲劇が繰り返さ
8 月 中 旬 に 訪 問 し た 際 に は、
ポーチ両側の支柱が大きくずれ
の収集・保存・展示を行ってきた。
春病院の歴史を伝える貴重な資料
デル、ライト両女史の遺品や、回
される側になり得ることをふまえ、 有形文化財(建造物)である。リ
、
7月 日(日)
春 季 企 画 展「
「ら
かえる」の付帯事
あった。作業にあたっては、検討
志氏を講師に招き、 告書をとりまとめたのが長田氏で
業として、長田浩
会における議論をふまえつつ、自
ん で い く こ と を 心 掛 け た と い う。
を 行 っ た。 展 示 資 料 は、「 癩 予 防
お借りして春季企画展の特別展示
7 月 日( 水 ) か ら 日( 日 )
にかけ、国立公文書館から資料を
あった。
たことで、大きく損傷したものも
には、床をすべり、あるいは倒れ
た。両女史の遺品の家具調度の中
いた。建物内部には、壁面一部に
とりわけ、国による法の見直しの
ニ関スル件」
(一九〇七年)
、「 癩
担当した。長田氏はこの仕事に対
の廃止に向けた厚生省内の実務を
就 任、
「らい予防法」
( 以 下、 法 )
課企画法令係長に
エイズ結核感染症
に同省保健医療局
省し、一九九四年
長田氏は一九九
〇年に厚生省に入
があった。
時)に対する要請書を全患協から
変更に消極的な日本らい学会(当
病 」 へ と 変 更 す る に あ た っ て は、
が色濃い「らい」から「ハンセン
上の病名を、差別的なニュアンス
がら書いた」という。また、法律
盛り込むことができるかを悩みな
分なりに国のけじめをどのように
つながらない」との信念から、「自
がなくならない限り真の解放には
防 法 」( 一 九 五 三 年 ) の そ れ ぞ れ
の御署名原本(天皇の御名・御璽
が 入 っ た 法 律 の 公 布 原 本 )、 お よ
び「ハンゼン氏病法〈草案〉
」(一
九五三年、左派社会党代議士長谷
川保が全癩患協の意向を反映させ
て作成した法案)である。特別展
示の期間中、一二二三人の入館者
あるとした「大谷見解」が表明さ
一九九四年、法の廃止と入所者
の処遇維持を同時に実現すべきで
長田氏ら厚生省の担当者が全ての
「 自 分 の 誇 り 」 で あ る と い う。 長
後に全療協から贈られた感謝状は
めて異例なものであった。例えば、 「 自 分 の 原 点 」 で あ り、 法 の 廃 止
長田氏によればそのプロセスは極
田氏は、法廃止時に全患協事務局
だからである。法の廃止の仕事は
プロセスについての説明を行った。 の重要性をこの時の経験から学ん
によって大きな被害を受けた(現
が、本年4月に起こった熊本地震
町のリデル、ライト両女史記念館
一九九四年の開館以来、回春病
院の歴史を伝えてきた熊本市黒髪
リデル、ライト
両女史記念館の
被災状況について
行して必要だと痛感した。
一刻も早い資料のレスキューも並
い と の こ と だ っ た。 現 場 を 見 て、
ながら、運営の立て直しを図りた
の修復には大変な時間と費用がか
があった。
れ、法の廃止に関する議論が高ま
国立療養所を訪れ、報告書の内容
長であった故・神美知宏氏を「同
同館はもともと一九一九年に回
春病院内の癩菌研究所として建て
られた木造2階建て(一九三五年
増改築)の建物で、熊本市の登録
8 月 7 日、 リ デ ル、 ラ イ ト 両
女史記念館館長緒方晶子様が
逝 去 さ れ ま し た。 謹 ん で ご 冥
福をお祈りいたします。
かりそう。今後関係各所と連携し
南側の歪みや損壊が大きく、建物
るなか、翌年には厚生省内に「ら
を 入 所 者 に 直 接 説 明 し た。 ま た、
最 後 に、「 誰 も が 差 別 す る 側、
という。それは、行政官として当
い予防法見直し検討会」が設置さ
「らい予防法の廃止に関する法律」
を行った。
れる。長田氏は、この検討会にお
志」と呼ぶ。
在休館中)
。
ける議論とその結果まとめられた
の法案の内容を、与党による法案
隣接するリデルライトホームの
中山施設長によると、特に記念館
モルタルの剥落、
歪み、亀裂があっ
道のり」を開催し
遅れを指摘し、国は法の見直しに
予 防 法 」( 一 九 三 一 年 )、「 ら い 予
する行政官としての自身の思いを
長田氏はハンセン病に関する仕
事から離れても、当時者との対話
ものであった。
た(会場は資料館
誠実に取り組んでいくべきである
い予防法」をふり
講演会「全患協と
要な規定であることを示すための
(写真)、玄関前の石段も破損して
共に歩んだ「らい
分の問題意識を報告書に落とし込
映像ホール)
。お
とした部分は、行政官の立場とし
春季企画展の特別展示を実施
予防法廃止」への
人の参加者
交えつつ、どのような手順で廃止
提出してもらい、病名の変更にこ
を大事にしながら仕事をしてきた
よそ
までの道筋を整え廃止を実現させ
ぎつけた。
20
報告書とを紹介し、法を見直すう
て は 難 し い 問 題 で あ っ た。
「法律
たのか、約1時間にわたって講演
講演する長田浩志氏
事者に向きあって仕事をすること
31
日(木)に、 の資料館はとても大事な仕事をし
2
24
70
長田氏は次に、報告書が取りま
とめられてから廃止に至るまでの
「らい予防法」廃止を担当した
長田浩志氏が講演
えで当時どのような課題が存在し、 審査よりも先に全患協に説明した
7月
28
第93号(季刊)
国立ハンセン病資料館
2016年10月1日
代まで
館長の講義では誰もが差別者に
なり得る可能性について参加者へ
講義、館内見学であった。
やすことも考えたい。また今回い
だった。今後は開催する回数を増
が、主催者が想像する以上の反響
いただいた。受付締切り後の申込
今子ども達に伝えたいことは「命
付けないで、自分のこととしてわ
の成田先生のお話で「他所事で片
のセミナーに参加しました。最初
増改築)の建物で、熊本市の登録
よって厚生労働副大
挙後の内閣改造に
( 火 ) に、 参 議 院 選
題への取り組みについてご自身の
て語りつつ、今後のハンセン病問
力元厚労大臣の温かな人柄につい
で足をとめた古屋副大臣は、坂口
一方、国賠訴訟の写真パネルの前
念・目的、収蔵資料の特徴につい
て説明した。続いて2階常設展示
室 に お い て 平 沢 保 治 運 営 委 員 が、
過去の療養所での生活実態、生き
抜いてきた証である展示物の解説、
さらに将来を担う子どもたちに未
来志向で行う資料館の啓発活動の
意義について、要所で解説した。
安倍首相夫人、古屋副大臣とも
に、平沢委員の語りや黒尾部長の
説明に熱心に耳を傾け、ときに質
問、驚きや感想の言葉を発しなが
ら、許された時間一杯資料館に滞
との会話において安倍夫人は、「こ
お二人の視察は終始なごやかな
雰囲気のなかで行われ、平沢委員
在された。
うに勧めますね。」と述べられた。
臣に就任した古屋範
日
7月 日(木)に、 の資料館はとても大事な仕事をし
安倍昭恵内閣総理大
ていますね。主人にも訪問するよ
子 副 大 臣 が、 相 次 い
意欲を語られた。
まず黒尾学芸部長
が、 1 階 展 示 室 エ ン
の来館となった。
フの出迎えをうけて
とした資料館スタッ
成田稔館長をはじめ
堂 で の 献 花 の 後 に、
園 の 施 設 見 学、 納 骨
お 二 人 と も に、 公
用車による多磨全生
た。
で資料館を訪問され
臣 夫 人 が、 8 月
28
トランスで資料館の設置経緯と理
安倍内閣総理大臣夫人、古屋厚生労働副大臣が
資料館を視察
最 後 に、「 誰 も が 差 別 す る 側、
代
「一日という長い研修でしたが、
館長の成田さんのはじめの言葉か
ら、とても衝撃的で、心に突き刺
さりました。差別について考える
時、差別される側と、する側の構
図ができる。大切なのは自分の目
や耳で真実を知り、想像力をもっ
て考えること、その先にできる事
を行動に移すことであり、このセ
ミナーに参加した一人としての役
代女性)
目なのではないかと感じました。
」
(
30
是非フィールドワークもよろしく
お願いします。」( 代男性)
活躍ください。」( 代男性)
「平沢保治さんの力強いお話に
感動しました。これからも長くご
女性)
い、とても参考になった。」(
「 改 め て 生 き て い く 勇 気、 自 分
の立場を考える時間を与えてもら
40
えで当時どのような課題が存在し、 審査よりも先に全患協に説明した
問題の歴史と資料館のあゆみ」と
いうテーマで講義を行った。
代から
の問いかけから始まり、それぞれ
ただいたご意見やご感想を参考に、
とこころの大切さ」であり、啓発
かってほしい」という言葉で、生
合 っ て い き た い で す。 次 は セ ミ
60
「 ハ ン セ ン 病 と 人 権」
夏期セミナーを終えて
時
「ハンセン
去 る 8 月 日( 金 )
病と人権」夏期セミナーを当館映
像ホールで開催した。時間は
展示見学では、長時間に渡った
プログラムにも関わらず、疲れも
見せず熱心に見学する参加者の様
時 分までで、一一八名の
方々に参加していただいた。今年
子が見られた。
から
は対象を一般として広く参加を呼
にも関わらず、
2 回 目 と な る 今 年 は、 当 館 の
ホームページのみの広報であった
ミナーの幕を閉じた。
びかけた。実際には参加者の七割
の関心の高さがうかがえた。
本年度の内容は成田稔館長の講
義、ガイダンス映像視聴、語り部
の平沢保治さんのお話、学芸員ら
が内面に持つ差別意識について考
内容をより充実させていきたい。
幅広い年齢層の方々から申込みを
えて欲しいと訴えた。その後、ガ
「 今 度、 自 校 の 生 徒 を 連 れ て 見
学しようと思い、その前に自分自
みもあり、残念ながらお断りした
イダンス映像「ハンセン病を知っ
最後に参加者の声をいくつか紹
介したい。
歳で全生園に入所
活動の担い手となる子ども達への
ナ ー に 生 徒 を 連 れ て き た い で す。
りました。私も生徒と一緒に向き
教育が何よりも重要であるとした。 徒に伝えるべきメッセージが決ま
期待を語った。またそのためには
してからの半生を振り返りながら、 身でもしっかり勉強しようと今回
いただいた。
ン病と人権」というテーマでお話
り部の平沢保治さんから「ハンセ
ていますか」の視聴をはさみ、語
によるハンセン病医学・歴史等の
80
は教員で占められ、学校現場から
見学後は黒尾和久学芸部長より
代表者に修了証書を手渡し、本セ
25
午後からは、儀同政一社会啓発
課長が「ハンセン病医学」につい
3
10
40
10
19
14
視察を終えた安倍昭恵首相夫人を囲んで
坂口元大臣の写真パネルの前で語る古屋副大臣
16
て、金貴粉学芸員が「ハンセン病
30
第93号(季刊)
国立ハンセン病資料館
2016年10月1日
7機能は、一般的に博
画書」が定める当館の
「 ハ ン セ ン 病 資 料 館
の拡充にかかる基本計
などです。こうした価値を認める
示す価値や、人の熱意を示す価値
す価値や、人々の意識や考え方を
す。それは当時の生活の様子を示
条及びハンセ
国立ハンセン病療養所における
歴史的建造物保存事業は、ハンセ
全生園・和光園で
補修の事前調査実施
認するサンプルを採るなど、補修
をチェックし、部材の健全性を確
る専門業者が、傷みの激しい部分
もとで、補修工事の設計を担当す
学芸部長が調査に立ち会った。
来る 月 日(火)国立療養所
邑久光明園(岡山県瀬戸内市)に、
日に実施され、当
物 館 の 機 能 と さ れ る、
からこそ、博物館は市場価値のな
園
ン病問題対策協議会における確認
社会交流会館がオープンする。
が9月7日と
収集・保管、調査・研
い資料をも収集するのです。
事項に基づいている。目的は
工事に必要な情報を入念に収集し
資料でも、必ず価値を持っていま
究、公開・教育に対応
当館が収集しているのは、こう
した市場価値とは別の価値を持っ
た。昨年度分も含めて、この現地
歴史的建造物保全、一歩前進?
するものです。つまり
ている資料がほとんどです。例え
に現存する、ハンセン病隔離政策
館の事業との関連も深いこと、検
討会委員でもあることから、黒尾
収集を取り上げます。
いて紹介しました。今回は資料の
の内、前回は主に資料の保管につ
博物館です。こうした当館の機能
当館が資料収集の方針を、古くな
入所者が存在したことや、療養所
「歴史的建造物の保存等検討会」
はこの目的の達成に向け、基本的
病対策の歴史に関する普及啓発を
する価値を持っています。
実施し、患者・回復者の名誉回復
とはいえ、常に新たな発見があ
るくらい、資料の価値は様々です。 を図ることである。
で懸命に生きてきたことを証立て
年度から開催し
な 考 え 方 等 の 整 理 を 行 う た め に、
活用してハンセン病及びハンセン
物・史跡・資料を保存し、それを
り戻さなければならない。それと
を確実にこなし、事業の遅れを取
うべきだが、今は一つ一つの事業
本格的な保存事業へのつなぎと言
を 保 つ、 い わ ば 対 症 療 法 で あ る。
補修工事自体はあくまでも倒壊
の危機にある歴史的建造物の現状
実施に結び付けてほしい。
調査の成果を速やかな補修工事の
ことが盛り込まれた。この方針に
権教育の場としての整備を図る」
そのための基本目標のなかに「人
成することが目的として掲げられ、
かで、新たな地域社会づくりを醸
の検討が重ねられてきた。そのな
構想をすすめる会・岡山」が発足
現地調査は、建築史の専門家で
ある藤岡洋保検討会委員の指揮の
邑久光明園の
社会交流会館が
オープン
当館は、定められた機
の歴史や実態を後世に伝える建造
通 常 博 物 館 の 資 料 収 集 は、 購
入・寄贈・寄託・借用・複製・採
くてもハンセン病に関係するもの
健康局長が平成
ン病問題基本法第
能からも、また実際に
作 業 の 道 具、 作 品、 文 書 な ど は、
行ってきた活動からも、 ば 療 養 所 に 残 っ て い る 生 活 用 具、
二〇一〇年、瀬戸内市長を会長
とする「ハンセン病療養所の将来
集などの方法で行われます。美術
であれば、何でも集めると広く設
もとづき、地域住民・ボランティ
き人類の財産を集め残している」
よ く 大 げ さ だ と 笑 わ れ な が ら、
それでも博物館は「未来に残すべ
業の遅れが今年度の対策協議会で
の事前調査にとどまっており、事
が、昨年度分は工事見積りのため
ところが順次行われるはずの工事
オープンの当日には、開館セレ
モニーが予定されている。
訪れる人たちを出迎える。
メートル)が置かれ、交流会館を
みょたん」
( 高 さ・ 直 径 と も 約 1
交流会館の正面には、光明園の
イメージキャラクターである「こ
課の職員が行う。
者に対する展示の案内などは福祉
ている。資料の展示と保管、来館
の収蔵庫、『楓』誌の編集室となっ
者自治会の事務室、2階は資料等
社会交流会館が整備された。
ア・ 学 生 等 と の 交 流 の 場 と し て、
こ と を 意 識 す べ き と 言 わ れ ま す。
も問題視された。
その方法について、本質的な議論
並行して、歴史的建造物・史跡・
した価値にしか目を向けなくなる
古すなどして今や市場価値が失わ
当館が収集している資料は、まさ
を深めていく必要があるだろう。
資料を保存する基本的な考え方や
これは前提として、いわゆる市場
保存対象候補となり得る歴史的建
ことを避けるためです。
造物の内、特に傷みの激しい6件
またこれまで資料収集は、入所
者や療養所からの申し出を受けて、 について、現状維持を目途とした
れている場合は、このような入手
にこうした財産です。捨ててしま
そうした状況下で、全生園旧図
書館と和光園旧納骨堂の現地調査
建物は2階建て。1階は資料展
示スペース、交流スペース、入所
年 度 に は、
価値(相場)が存在しているから
補修工事を3か年で行う決定をし
て い る 会 議 だ。 平 成
ら、作品を借りたり、無償で譲り
多くの場合無償で寄贈していただ
です。もちろん作家やその遺族か
受ける場合もあります。
島愛生園回春寮、2年目多磨全生
園旧図書館と奄美和光園旧納骨堂、
贈に加えて、複製を作り各園と共
有する方法も必要になるでしょう。 3年目星塚敬愛園旧納骨堂と栗生
た。1年目菊池恵楓園監禁室と長
一方民俗・考古系の博物館では、 いてきました。各園で社会交流会
農具や生活用具を持ち主からも
館の建設が進む今後は、従来の寄
らったり、拾ったりする方法も用
います。元々は販売価格や材料費
方法も可能になります。
う前に、ぜひ一言ご相談くださる
楽泉園青年会館という具合である。
ここで一つ注意しておきたいの
は、市場価値がなければ資料には
ことを強くお願いします。
などがあったのでしょうが、使い
し、ハンセン病療養所の将来構想
館や歴史系の博物館では、美術作
定しているのは、あらかじめ想定
18
品や武具や古文書などを、お金を
10
23
払 っ て 買 い 取 る 場 合 が あ り ま す。
13
18
価値がないという誤解です。鑑定
4
その
資料館
の 現場から 2
していくらと値がつかないような
全生園旧図書館外壁の状態を確認する
藤岡委員(右)
27
24
第93号(季刊)
国立ハンセン病資料館
2016年10月1日
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