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第3回加賀ふるさと検定上級解答と解説
第3回加賀ふるさと検定 上級問題【正解及び解説編 上級問題【正解及び解説編】 正解及び解説編】 1 旧石器時代の終わり頃から縄文時代始め頃の遺跡 旧石器時代の終わり頃から縄文時代始め頃の遺跡と推定される( の遺跡と推定される( )からは、 斧形石器や槍先形尖頭器が出土している。 ①永井遺跡 ②塩浜海岸遺跡 ③橋立大野山遺跡 ④大堰宮遺跡 橋立町大野山で発 橋立町大野山で発見された斧形石器と槍先形尖頭器は、 見された斧形石器と槍先形尖頭器は、旧 石器と槍先形尖頭器は、旧石器時代の終わり頃か 石器時代の終わり頃から わり頃から縄文時代始め頃の遺物 と推定されています。橋立丘陵 と推定されています。橋立丘陵には、石川 橋立丘陵には、石川県内 には、石川県内でも最古級の遺跡が 県内でも最古級の遺跡が続 でも最古級の遺跡が続けて発 けて発見されており、今後、 見されており、今後、さらに貴 今後、さらに貴 重な遺跡が発 重な遺跡が発見される可能性があります。 見される可能性があります。【正解率 があります。【正解率89.6 【正解率89.6%】 89.6%】 2 出土した土器に 出土した土器には東海・近畿系や関東系が含まれ、石器では中京系の石斧や長野県 は東海・近畿系や関東系が含まれ、石器では中京系の石斧や長野県和田 長野県和田 峠の黒曜石の石刃もあり、 峠の黒曜石の石刃もあり、( ①横北遺跡 )は東西文化の接点であったことを示している。 )は東西文化の接点であったことを示している。 ②藤の木遺跡 ③打越遺跡 ④保賀遺跡 大聖寺川右岸の辺 大聖寺川右岸の辺りで発 りで発見された藤の木遺跡は、県内でも最多の 県内でも最多の縄 でも最多の縄文時代中期の土器が 文時代中期の土器が発見されています。 出土した土器は北陸特有の古府式土器や上山田式土器・大杉谷式土器のほか、東海・近畿系土器や、 出土した土器は北陸特有の古府式土器や上山田式土器・大杉谷式土器のほか、東海・近畿系土器や、関 式土器や上山田式土器・大杉谷式土器のほか、東海・近畿系土器や、関東系 土器があります。 土器があります。石器 があります。石器では中京系の石斧や、長野 石器では中京系の石斧や、長野県 では中京系の石斧や、長野県と群馬県 と群馬県の境にある和田峠産 の境にある和田峠産の 峠産の黒曜石で作られた刃物な 曜石で作られた刃物な どがあり、当地域が どがあり、当地域が縄 地域が縄文時代において 文時代において、 において、東西文化交流の接点 東西文化交流の接点であったことを示しています。 であったことを示しています。【正解率81.3 【正解率81.3%】 81.3%】 3 柴山出村遺跡から出土した柴山出村式土器は東北地方の影響が強く、 ( 柴山出村遺跡から出土した柴山出村式土器は東北地方の影響が強く、 )の 様式を色濃く残していると言われている。 ①縄文時代中期 ②縄文時代晩期 ③弥生時代前 弥生時代前期 時代前期 ④弥生時代中期 弥生時代中期 柴山出村遺跡は弥 柴山出村遺跡は弥生時代前期末の遺跡で、北陸では最も古い籾 生時代前期末の遺跡で、北陸では最も古い籾や県内最古の 県内最古の弥 最古の弥生土器が発 生土器が発見されました。 この遺跡から出土した土器は、柴山出村式土器 この遺跡から出土した土器は、柴山出村式土器と呼ばれ、 柴山出村式土器と呼ばれ、 東北地方の影響が強く、縄 東北地方の影響が強く、縄文時代晩 文時代晩期の様 期の様式を 残しています。【正解率 ています。【正解率33.3 【正解率33.3%】 33.3%】 くだたま 4 片山津玉造遺跡から発見された管 片山津玉造遺跡から発見された管玉の原石は、動橋川上流域で採取した緑色凝灰岩質の ( )とみられる。 けつがん あんざんがん かっせき けいがん ①頁岩 ②安山岩 ③滑石 ④珪岩 片山津玉造遺跡は、 片山津玉造遺跡は、4世紀から5世紀前半にかけての玉 玉造遺跡は、4世紀から5世紀前半にかけての玉造職人集 4世紀から5世紀前半にかけての玉造職人集団 造職人集団が住んでいた場所 が住んでいた場所と 場所と考えられています。 ここから ここからは、 からは、33 は、33 基の住居と工房を兼ねた竪 基の住居と工房を兼ねた竪穴式住居跡が 穴式住居跡が発 住居跡が発見され、首飾りなどの 見され、首飾りなどの装 りなどの装飾品に使う管玉や勾玉 飾品に使う管玉や勾玉 などの玉類が発見されました。ここで使用されていた原石の多くは などの玉類が発見されました。ここで使用されていた原石の多くは緑 ここで使用されていた原石の多くは緑色凝灰岩質の頁岩で、これらは動橋川 の上流で採取したものと考えられています。これらの の上流で採取したものと考えられています。これらの玉類は大和王 れらの玉類は大和王権 玉類は大和王権に送られ、さらに全国 に送られ、さらに全国の有力豪族に配 分されたと考えられています。 分されたと考えられています。【正解率 たと考えられています。【正解率39.6 【正解率39.6%】 39.6%】 5 加賀市の( )遺跡は、建造物の規模や墨書土器などの出土品から見て、飛鳥・ 奈良時代における郡の中心官庁か有力豪族の住居跡と考えられる。 ①加茂 ②西島 ③庄 ④七日市 昭和47 昭和47年に発掘調査された 47年に発掘調査された西島遺跡は、 年に発掘調査された西島遺跡は、奈良時代から平安時代にかけての遺跡で、柱跡からみる 西島遺跡は、奈良時代から平安時代にかけての遺跡で、柱跡からみる建造物の 奈良時代から平安時代にかけての遺跡で、柱跡からみる建造物の 規模が大きく、 規模が大きく、また、須恵器に墨で文字を書き込んだ 須恵器に墨で文字を書き込んだ墨書土器が 墨で文字を書き込んだ墨書土器が6 墨書土器が6点見つかるなど、一般住宅とは考え難く、 律令制下の郡の中心官庁 律令制下の郡の中心官庁である郡家 である郡家もしくは有力豪族などの住居として使われたものではないかと考えら れています。【正解率 れています。【正解率41.7 【正解率41.7%】 41.7%】 お お み さねやす 6 文永 10 年、熊坂庄をめぐって、 年、熊坂庄をめぐって、領家 って、領家である( 領家である( )と地頭の と地頭の大見実泰との間で争い との間で争い わよちゅうぶん が起きたが、鎌倉幕府は同庄を領家と地頭で土地を折半する「和与中分 が起きたが、鎌倉幕府は同庄を領家と地頭で土地を折半する「和与中分」とした。 」とした。 ①高辻家 ②園家 ③徳大寺家 ④中院家 鎌倉時代 鎌倉時代, 時代,荘園領主と地頭との 荘園領主と地頭との争 と地頭との争いを解決 いを解決するため, するため,土地を折 土地を折半し、相互 し、相互に 相互に侵犯しない 侵犯しないよ しないようにしました。 うにしました。 これを「 これを「下地中分」 下地中分」といいましたが、この下地中分をお互 といいましたが、この下地中分をお互いに、和解・示談 いに、和解・示談で行なうことを「 なうことを「和与中分」 中分」と いいます。江沼 いいます。江沼郡の 江沼郡の熊 郡の熊坂庄の地頭職をしていた の地頭職をしていた大見 していた大見実 大見実泰は、文永 は、文永 10 10 年(1273) 73)、この庄 、この庄の当時の領家 時の領家であ 領家であ った公家 った公家 の徳大寺家の預所(現地管 (現地管理者) 地管理者)と 理者)と争い、とうとう領家 い、とうとう領家と地頭とで土地を 領家と地頭とで土地を折 と地頭とで土地を折半するという条 するという条件で 示談としたので、 6.3%】 としたので、「 たので、「和与中分」 中分」となります。【正解率 となります。【正解率 56.3%】 7 北陸一円では、蓮如上人のもとで急速に浄土真宗が広まったが、その背景には浄土真宗 の本尊が( )の本地仏である阿弥陀如来であったことが )の本地仏である阿弥陀如来であったことが影響したと 地仏である阿弥陀如来であったことが影響したと考えられ 影響したと考えられ る。 ご ぜ ん がみね おおなんじがみね ①白山御前 ①白山御前 峰 ②白山 大 汝 峰 べっさん おやま ③白山別山 白山別山 ④立山雄山 立山雄山 北陸一円 北陸一円では蓮如 では蓮如上人のもとで 蓮如上人のもとで浄 上人のもとで浄土真宗が 真宗が急速に広まっていきましたが、 まっていきましたが、浄 いきましたが、浄土真宗の 真宗の本尊が白山大汝峰 山大汝峰の 汝峰の 本地仏でもある阿 ある阿弥陀如来であったことが考えられ、 であったことが考えられ、そうした うした背景もあり、 背景もあり、そ もあり、それまでこの地に広 れまでこの地に広まっていた 「白山 「白山信仰」と 信仰」と浄土真宗が、 真宗が、融 が、融和していったものと考えられます。白 和していったものと考えられます。白山信仰と 信仰と浄土真宗は、近世 真宗は、近世以降 は、近世以降も 以降も引き 継がれ、現在 がれ、現在も 現在も市内神社の5 神社の5割弱 の5割弱で 割弱で白山神を祀り、また、寺院 り、また、寺院では浄 では浄土真宗が 真宗が8割を上 8割を上回 を上回るなど、白 るなど、白山信仰 と浄土真宗は、 真宗は、当 は、当地の信仰 地の信仰心 信仰心の核となっています。【正解率 となっています。【正解率66.7 【正解率66.7%】 66.7%】 8 文明 18 年頃、江沼郡の門徒が蓮誓を山田坊に迎え、山田光教寺が成立したが、蓮誓は基 年頃、江沼郡の門徒が蓮誓を山田坊に迎え、山田光教寺が成立したが、蓮誓は基 盤強化のため、さらに( ①九谷 )坊や瀧 )坊や瀧野坊を創 野坊を創建した。 ②菅谷 ③黒瀬 ③黒瀬 ④南郷 蓮誓は、 蓮誓は、蓮如 は、蓮如の 蓮如の 4 男で、号 で、号を光闡坊と 光闡坊と称しました。蓮如 しました。蓮如が 蓮如が吉崎での 吉崎での布教 での布教を 布教を決意した時、 決意した時、越 した時、越前の門徒へ 前の門徒への 門徒への 人質として 人質として吉崎 として吉崎へ 吉崎へ送られたともいわれています。後に加賀 送られたともいわれています。後に加賀国山田 加賀国山田坊( 国山田坊(加賀市 坊(加賀市山田町 加賀市山田町) 山田町)に入って山田 って山田光教 山田光教寺を 光教寺を 建立しました。 「加州 建立しました。そ ました。その結果、 結果、蓮如の 蓮如の子どもである、蓮悟(若松本泉 どもである、蓮悟(若松本泉寺 蓮悟(若松本泉寺)、蓮綱(波佐谷 蓮綱(波佐谷松岡寺 松岡寺)と共に、 三ヶ寺 三ヶ寺体制」を築くこととなります。蓮 くこととなります。蓮誓はその後、基 の後、基盤強化のため、さらに九 強化のため、さらに九谷坊や瀧野坊を創建しまし た。【正解率 た。【正解率 20.8 20.8%】 .8%】 9 弘治元年、 弘治元年、越前の 倉宗滴が江沼郡に進撃 が江沼郡に進撃し、一 潰滅させようとしたが、このと せようとしたが、このと 年、越前の朝 越前の朝倉宗滴 進撃し、一揆勢 し、一揆勢を 揆勢を潰滅さ き、宗滴は( ①錦城山 錦城山 )の金吾ヶ城 )の金吾ヶ城に本 金吾ヶ城に本陣 に本陣を構えた。 ②朝日山 ③敷地山 ④観音山 観音山 弘治元年 弘治元年(1555) 555)越前の朝倉宗滴 前の朝倉宗滴が一 朝倉宗滴が一向 が一向一揆を潰滅さ 潰滅させようと、 せようと、加賀 うと、加賀に 加賀に大挙して侵入 して侵入し、ここに 侵入し、ここに1 し、ここに10 余年 にわたる加越抗 にわたる加越抗争 加越抗争が始まりました。江沼 が始まりました。江沼郡の一 江沼郡の一揆勢 郡の一揆勢は 揆勢は総力をあげ 力をあげて朝倉勢 朝倉勢の進撃を阻止し 阻止しようとしましたが うとしましたが 防ぎきれ 防ぎきれず きれずに江沼郡の一 江沼郡の一揆 郡の一揆勢の運命は 運命は風前の燈 前の燈となりましたが、敷 となりましたが、敷地山の金吾ヶ城に 金吾ヶ城に本陣を 本陣を構えていた総 えていた総大 将朝倉宗滴が 朝倉宗滴が発病し、朝倉勢 し、朝倉勢が 朝倉勢が急遽、 急遽、越前に引 前に引き上げ き上げたことで、事 たことで、事なきを得 なきを得ました。【正解率 ました。【正解率52 【正解率52.1 52.1%】 .1%】 こ 10 く たに い ろ え く じ ゃ く ず ひら ばち 大聖寺の本善 寺の本善寺に伝 寺に伝わる古九 わる古九谷色絵孔雀図平鉢は初期九谷焼の 九谷焼の伝世品と推 伝世品と推測 品と推測され、技法 され、技法 の特徴から 特徴から初 から初期( )の色絵陶 )の色絵陶器や明 絵陶器や明末 器や明末の色絵磁 の色絵磁器に 絵磁器に類似 器に類似することが 類似することが指摘 することが指摘されて 指摘されて いる。 ①有田焼 ①有田焼 ②瀬戸焼 ③京焼 ③京焼 ④美 濃 焼 1 加賀市指定文化 加賀市指定文化財 定文化財の「古九谷色絵孔雀図 谷色絵孔雀図平 絵孔雀図平鉢」は、口 は、口径 32.7 ㎝のやや深 のやや深めの大皿 めの大皿で、古九 で、古九谷窯創設に 創設に指 導的な 導的な役割を 役割を果たしたとされる後藤才次郎ゆ たしたとされる後藤才次郎ゆかりの寺 才次郎ゆかりの寺である かりの寺である大聖寺の である大聖寺の本善 大聖寺の本善寺に 本善寺に伝 寺に伝えられてきました。 えられてきました。特 ました。特徴と して紺青 して紺青が 紺青が空色かかった発 色かかった発色をし、呉 色をし、呉須の線描も 線描も、厚く上絵 く上絵付けする技法 けする技法などから、 技法などから、九 などから、九谷焼初期の伝 期の伝世品と 推測されており、 されており、初 おり、初期京焼 期京焼の色絵 の色絵陶器や中国 器や中国明末の色絵 の色絵磁器 に類似 に類似することが指摘 することが指摘されて 指摘されています。 されています。 この出題 この出題に関しては、本善 に関しては、本善寺が所 本善寺が所蔵 寺が所蔵する「 する「古九谷色絵孔雀図 谷色絵孔雀図平 絵孔雀図平鉢」が、京 鉢」が、京焼 が、京焼や中国色絵磁 や中国色絵磁器とも類 絵磁器とも類似 器とも類似性が あるという、故 あるという、故北出不二雄 北出不二雄先生などの 不二雄先生などの指摘 先生などの指摘もあり、 指摘もあり、加賀市教育委員会 もあり、加賀市教育委員会発 加賀市教育委員会発行の「加賀市の文化 「加賀市の文化財」 の文化財」や、当 財」や、当会議 や、当会議 所で作成 所で作成した「加賀市歴史 した「加賀市歴史文化 「加賀市歴史文化学習帳」 文化学習帳」で、この 学習帳」で、この説 で、この説を掲載したものであります。 掲載したものであります。 しかしながら、古九 しかしながら、古九谷は本来 谷は本来、有田 本来、有田(伊万里焼) 、有田(伊万里焼)との関 (伊万里焼)との関連 との関連性があるなかで、本善 性があるなかで、本善寺所 本善寺所蔵 寺所蔵古九谷が、京焼 谷が、京焼や 中国色絵磁 中国色絵磁器とも類 絵磁器とも類似 器とも類似性があると指摘 性があると指摘されたものであり、 指摘されたものであり、決 されたものであり、決して有田との関連 して有田との関連性を否 性を否定する意味 定する意味ではないと 意味ではないと いうことであります。そ いうことであります。そのために、選択肢 のために、選択肢に 選択肢に「有田焼」 有田焼」と 焼」と「京焼」の 焼」の両方があったことは、問題 方があったことは、問題としては 問題としては不 としては不 適当と判断 当と判断し、今 判断し、今回 し、今回の採点においては、「有田焼」 有田焼」と 焼」と「京焼」のい 焼」のいず のいずれも正解とさせ れも正解とさせていただくこととしま した。お した。お詫び申し上 詫び申し上げ し上げます。 【①と③の両方を正解とさせ 方を正解とさせていただきます】 としか あつら うのはないとおどし に ま い どうわらべ ぐ そ く 11 大聖寺藩 14 代藩主前田 藩主前田利鬯 元服の際に 誂 えたとされる卯花絲 えたとされる卯花絲 威 二枚胴 童 具足は、 前田利鬯の元服の 利鬯が 利鬯が藩主となる前、加賀 藩主となる前、加賀藩 となる前、加賀藩の( ①前田対馬守 ①前田対馬守 )家を相続 )家を相続していた頃に 相続していた頃に作 していた頃に作られたものである。 ②前田出雲守 ②前田出雲守 ③前田土佐守 ③前田土佐守 ④前田大和守 ④前田大和守 加賀市指定文化 加賀市指定文化財 定文化財の卯花絲威二枚胴童具足は、 卯花絲威二枚胴童具足は、大聖寺 は、大聖寺藩 大聖寺藩最後の藩主 最後の藩主、 藩主、第14 代前田利鬯 代前田利鬯が 利鬯が元服の際に誂え られたとされています。 られたとされています。具足 とされています。具足には、 具足には、吹返 には、吹返や 吹返や胸板には 胸板には家 には家紋の梅鉢が施されていますが、大聖寺家 されていますが、大聖寺家の棒梅鉢 棒梅鉢でな く、一般的 く、一般的な梅鉢紋であることから、利鬯 であることから、利鬯が大聖寺 利鬯が大聖寺藩主 が大聖寺藩主となる 藩主となる以 となる以前、加賀藩 前、加賀藩の前田土 加賀藩の前田土佐 の前田土佐守家を相続していた 頃に作られたもので、そ 頃に作られたもので、その工芸 の工芸技術の高さから金 さから金沢の「加賀藩御 「加賀藩御細工所」 工所」で製作されたのではないかと 作されたのではないかと考え のではないかと考え 【正解率64.6 64.6%】 られています。【正解率 られています。 【正解率 64.6 %】 深田町の「鏡 の「鏡の池」には、篠 」には、篠原の戦 原の戦いで斎 いで斎藤実盛 藤実盛が髪を染める際 める際に使ったとの伝承 ったとの伝承をも 伝承をも 12 つ和鏡が、( )製の容器に納 器に納められ、池 められ、池の底に安置 に安置されている。 ①凝灰岩 ② 粘土 ③銅 ④真鍮 ④真鍮 市内深田町の東側 田町の東側にある約 にある約12㎡の小さな池 さな池は「鏡の池」と呼ばれ、夏 と呼ばれ、夏の渇水期でも枯 期でも枯れることはなく、池 れることはなく、池 底に、平安時代後期から に、平安時代後期から鎌倉 平安時代後期から鎌倉時代のものとされる 鎌倉時代のものとされる鏡 時代のものとされる鏡が、凝灰岩製 灰岩製の容器に納 器に納められ安 められ安置されています。この 鏡は直径8.5 8.5㎝の銅製の和 銅製の和鏡 で、篠原の戦 原の戦いの際 いの際、斎藤実盛が髪を黒く染める際 める際に使った鏡 に使った鏡だとする伝 だとする伝承が の和鏡で、篠 あります。【正解率 あります。【正解率2 【正解率27.1%】 7.1%】 13 大聖寺藩では、14 では、 代藩主前田 藩主前田利鬯 生流の能楽普及に力を ため、現在でも 前田利鬯が 利鬯が宝生流の能楽普及 能楽普及に力を注 に力を注いだため、現在 現在でも毎 でも毎年 たかさご しょうじょう 正月2日のお ( 正月2日のお松囃子 2日のお松囃子に、 松囃子に、錦城能 に、錦城能楽会 錦城能楽会に 楽会により「高 り「高砂」 ) 「 猩 々 」の3番 」の3番が演じられて 演じられて いる。 ①「実盛 ①「実盛」 ②「安宅 ②「安宅」 ③「敦盛 ③「敦盛」 敦盛」 ④「東北」 大聖寺藩 大聖寺藩では14 では14 代藩主前田 藩主前田利鬯 前田利鬯が特に 利鬯が特に宝 が特に宝生流の能楽 生流の能楽普及に力を 普及に力を注 に力を注ぎ、弟子もこれを熱 もこれを熱心に守 心に守り伝えたた め、他 め、他地域では途 地域では途絶えた「 えた「謡初め」の行事が今 行事が今日 まで続けられてきました。現在 けられてきました。現在では 年正月2日に、 が今日まで続 現在では毎 では毎年正月2日 月2日に、利鬯 に、利鬯 公の遺影の前で錦 の遺影の前で錦城能楽会の人たち の人たちにより「高砂」「 高砂」「東北 」「東北」 東北」「猩々」 猩々」の3番が 3番が舞われ、そ われ、それぞれの間 れの間に狂言 や小舞が 小舞が演じられています。 演じられています。【正解率 られています。【正解率31.3 【正解率31.3%】 31.3%】 えんしょう し き じ ものぐるい 14 江沼郡出 江沼郡出身 身の天台宗の 天台宗の僧侶 宗の僧侶である 僧侶である 延 昌 の事績をもとに 事績をもとに創作 をもとに創作された 創作された謡曲『 された謡曲『敷 謡曲『敷地 物 狂 』は、 ( )の作 )の作と言われている。 ①観阿弥 ②世阿弥 2 ③金春禅竹 ④音阿弥 こんぱるぜんちく 世阿弥の娘婿に当たる 娘婿に当たる金 に当たる金春禅竹は室町時代の 町時代の猿楽師、能作 猿楽師、能作者 、能作者で、「敷地物 「敷地物狂 地物狂」の作者 の作者でもあります。「敷地 「敷地 物狂」は、江沼 は、江沼郡出 江沼郡出身 郡出身の天台宗 天台宗の僧侶である 僧侶である延昌 である延昌の 延昌の事績をもとに創 をもとに創作されたといわれる 作されたといわれる謡曲 といわれる謡曲で、 謡曲で、菅 で、菅生石部 生石部神 社が舞台となっています。 舞台となっています。【正解率 となっています。【正解率 14.5 14.5%】 15 音韻学者の明 ( 音韻学者の明覚 の明覚は、延暦 は、延暦寺で 延暦寺で学び 寺で学び、山代の 学び、山代の温泉 、山代の温泉寺に 温泉寺に隠棲 寺に隠棲し、 隠棲し、 )などの研究 )などの研究成 研究成果 を著して我 して我が国の50音字 の50音字の 0音字の配列に大きな影響を与えた。 配列に大きな影響を与えた。 くちずさみ くじゃくきょう お ん ぎ ①口 遊 ②孔雀 経 音義 しったんたいてい ③いろ ③いろは歌 ④悉 曇 大 底 明覚は、平安時代後期の僧 は、平安時代後期の僧で音韻学 音韻学者。「めいかく」 めいかく」とも読 とも読みます。天台 みます。天台宗 天台宗の延暦寺で学び、のち 、のち加賀山 加賀山 代温泉の温泉寺に隠 寺に隠棲して「温泉房」と号し「加州隠 「加州隠者」と称しました。悉曇学 悉曇学や梵字の発 字の発音などを研究 などを研究し、 研究し、 我が国の50 音字の配列 字の配列に大きな影響を与 に大きな影響を与えました。そ えました。その代表 の代表的な著作に『 作に『悉曇大 悉曇大底』があります。【正解 があります。【正解 率75.0%】 16 江沼郡赤尾 江沼郡赤尾を 点とした一向一揆の大将 の大将藤丸新介は、 丸新介は、朝 倉宗滴の南郷城侵攻で 南郷城侵攻で敗退した 敗退した 赤尾を拠点とした一向 は、朝倉宗滴 後、天正 10 年、柴田勝 ( 年、柴田勝家との戦 家との戦さで敗 さで敗れ、 ①魚 津 城 ②高岡城 ②高岡城 ③七尾城 ③七尾城 )において )において自 おいて自刃したとされる。 ④末森城 藤丸新介は、 丸新介は、江沼 は、江沼郡 江沼郡赤尾(現加賀市 赤尾(現加賀市山中 (現加賀市山中温 山中温泉滝町付近)を拠点とした一向 とした一向一揆の大将 の大将です。 です。天文24 年、 朝倉宗滴が 朝倉宗滴が江沼郡に 江沼郡に侵入 郡に侵入してきたとき、 侵入してきたとき、新介 してきたとき、新介は 新介は南郷城で黒瀬掃部丞らとともに 掃部丞らとともに迎 らとともに迎え撃ちましたが敗退 ましたが敗退。この 敗退。この あと新介 あと新介は 新介は赤尾を 赤尾を捨て横北に逃 北に逃れたと伝 れたと伝えられています。そ えられています。その後、新介 の後、新介は 新介は越後の上杉景 後の上杉景勝に仕え、魚 え、魚津城の 守備につきま 守備につきますが、 につきますが、天 すが、天正10 年、織 年、織田方の柴田勝 田方の柴田勝家に攻められ魚 められ魚津城で自刃したといわれています。【正解 刃したといわれています。【正解 率18.8%】 18.8%】 17 丹羽長 丹羽長秀の与力溝口秀勝 の与力溝口秀勝は、 溝口秀勝は、天正 は、天正 11 年に( )の大聖 )の大聖寺城主として江沼郡を 城主として江沼郡を統治 として江沼郡を統治 した。 ①4万 ①4万石余 ②5万 ②5万石余 ③6万 ③6万石余 ④7万 ④7万石余 戦国武将の溝口秀勝は、 秀勝は、尾張 は、尾張国 尾張国中島郡西溝 中島郡西溝口村(現愛知 (現愛知県 愛知県稲沢市) 稲沢市)の 市)の出身で、天 で、天正12 年、丹羽 年、丹羽長 丹羽長秀の与 力として、大聖寺城 大聖寺城4 万4000 石を与 石を与えられました。翌13 年に長秀が死去し、 死去し、堀秀政の 堀秀政の与力となりましたが、 引き続き大聖寺城 き大聖寺城を治めました。そ めました。その後、堀秀政 の後、堀秀政の 堀秀政の子秀治が春日山 春日山城に移ると、秀勝 ると、秀勝も 秀勝も6 万石を得 石を得て新発田 城に移りました。【正解率 りました。【正解率87. 【正解率87.5 87.5%】 げんば 18 小早川 小早川秀秋の家 秀秋の家老 の家老山口玄蕃は、慶長3年に7万 長3年に7万石の大聖 石の大聖寺城主として江沼郡を 城主として江沼郡を統治 として江沼郡を統治した。 統治した。 玄蕃は( 玄蕃は( ① 筑 前国 )の出身 )の出身で、茶 で、茶の湯や能楽に 能楽に通じる 通じる当時の文化人であった。 ②筑後国 ③大和国 ③大和国 ④山城国 ④山城国 堀秀治 堀秀治の春日山 春日山移動によ 動により、秀 り、秀吉の家来で、筑 で、筑前・筑後(福岡県)の領主であった 領主であった小早 であった小早川 小早川秀秋が北 秀秋が北庄 が北庄(福 井市)に 市)に入り、江沼 り、江沼郡も 江沼郡も支 郡も支配することになりました。大聖寺城 配することになりました。大聖寺城には秀秋 には秀秋の 秀秋の家来であった山 であった山口玄蕃頭 玄蕃頭宗永が 宗永が入 り江沼郡 江沼郡7万石の支 石の支配者として当 として当地を治 地を治めました。宗永 めました。宗永は山 宗永は山城 は山城国(京都府)の出身 の出身で、筑 で、筑前・筑 前・筑後の検 後の検地を 3 実施するなど理財の道に優れていました。また、千利休に茶の湯を 施するなど理財の道に優れていました。また、千利休に茶の湯を学 理財の道に優れていました。また、千利休に茶の湯を学んだり、能 んだり、能楽にも通ずる当 にも通ずる当時の文化人 時の文化人 でした。【正解率 でした。【正解率58.3 【正解率58.3%】 58.3%】 ながとも 19 大聖寺城代の初代、太田 大聖寺城代の初代、太田長知 太田長知は、慶長7年、加賀藩2代藩主前田利長の命により利長の ざんさつ 重臣( 重臣( )によって金沢城で斬殺 )によって金沢城で斬殺された。 ながひで ①横山長秀 ①横山長秀 ②近藤長広 ながちか ごん だ ゆ う ③横山長知 ③横山長知 ④小塚権 ④小塚権太夫 加賀藩2代藩主前田利長は、関 加賀藩2代藩主前田利長は、関ヶ原の戦 ヶ原の戦いで大聖寺城主山口玄蕃頭宗永を攻 いで大聖寺城主山口玄蕃頭宗永を攻め滅ぼしたことで、 大聖寺城主山口玄蕃頭宗永を攻め滅ぼしたことで、徳 め滅ぼしたことで、徳川家康 から、それまでの領地に加え、能美郡や江沼郡 から、それまでの領地に加え、能美郡や江沼郡を 江沼郡を新たに領有しました。そのため、 新たに領有しました。そのため、寛 領有しました。そのため、寛永16 年(1639 年(1639)に大 1639)に大 聖寺藩が成立するまでは 聖寺藩が成立するまでは、金沢 、金沢から派遣された太田長知や小塚 から派遣された太田長知や小塚権 田長知や小塚権太夫など 太夫などが などが城代として 城代として江沼郡を支配しまし として江沼郡を支配しまし た。慶長 た。慶長7 慶長7年、大聖寺城代の 年、大聖寺城代の初代 城代の初代太田長知は、 初代太田長知は、金沢城で横山長知に斬殺されていますが、この原因に、 太田長知は、金沢城で横山長知に斬殺されていますが、この原因に、親徳 金沢城で横山長知に斬殺されていますが、この原因に、親徳 川派の立場にあった横山長知と反徳川派寄りであったとされる太田長知の確執が考えられています。 川派の立場にあった横山長知と反徳川派寄りであったとされる太田長知の確執が考えられています。【正解 横山長知と反徳川派寄りであったとされる太田長知の確執が考えられています。【正解 率54.2%】 54.2%】 20 大聖寺藩祖前田利治は、承応2年に藩財政不足のため、家老の玉井市正をはじめ、家臣 ( )を加賀藩へ返還した。 ①14 人 ②24 人 ③34 人 ④44 人 大聖寺藩祖前田利治が初めて大聖寺に入部するとき、宗藩から連れてきた家臣の数は106 大聖寺藩祖前田利治が初めて大聖寺に入部するとき、宗藩から連れてきた家臣の数は106人と記録されて 106人と記録されて いますが、これは士分格のみの数で、このほかに徒や足軽、小者、陪臣などを含めるとこれよりもかなり多 いと考えられます。そのため、利治は いと考えられます。そのため、利治は、 利治は、14年後の 14年後の承 年後の承応2年(1653 2年(1653)に藩財政不足 1653)に藩財政不足を理由に、筆頭家老の玉井 )に藩財政不足を理由に、筆頭家老の玉井 市正貞直をはじめ家臣 市正貞直をはじめ家臣24 家臣24 人を加賀藩へ返しました。【正解率 人を加賀藩へ返しました。【正解率60.4 【正解率60.4%】 60.4%】 21 大聖寺藩初代藩主前田利治は九谷村・熊坂村に金山を、( )村に銀山を開発し た。また、木地師の保護や九谷焼の製造など殖産興業に努めた。 ①曽宇 ②片谷 ③塔尾 ④大土 「土田家文書」によれば、大聖寺藩祖 「土田家文書」によれば、大聖寺藩祖前田 藩祖前田利治は 前田利治は鉱山の開発に注目し、 利治は鉱山の開発に注目し、九谷や熊 鉱山の開発に注目し、九谷や熊坂 九谷や熊坂に金山を、曽 に金山を、曽宇に銀山 を発見したとあります。但し、実際に金や銀を産出したかどうかは不明です。また、『加賀江沼志稿』には 曽宇村の南約4キロに銅山があり、安政年間、大聖寺藩が採掘したと伝えています。 曽宇村の南約4キロに銅山があり、安政年間、大聖寺藩が採掘したと伝えています。【正解率 村の南約4キロに銅山があり、安政年間、大聖寺藩が採掘したと伝えています。【正解率72.9 【正解率72.9%】 72.9%】 22 大聖寺藩では、塩屋、小塩、瀬越、塩浜、片野村などで漁業が盛んであった。このうち、 塩屋村の猟船(漁船)数は、天保 15 年、領内で最も多い( ①15 艘 ②25 艘 ③35 艘 )であった。 ④45 艘 『加賀江沼志稿』によると、 『加賀江沼志稿』によると、江戸 によると、江戸時代、塩屋村の 江戸時代、塩屋村の猟 時代、塩屋村の猟船(漁船)の数 (漁船)の数は25艘と最も多く、これに小 25艘と最も多く、これに小塩 艘と最も多く、これに小塩村が13 村が13 艘、瀬 村が10 艘、塩浜 塩浜村が7艘、片野村が6艘などと 村が7艘、片野村が6艘などと続 艘、 瀬越村が 10 艘、 塩浜 村が7艘、片野村が6艘などと 続いていました。塩屋村の田畑は僅かであり、そ 【正解率27.1 27.1%】 のため、村の産業は廻船業や漁業が中心となっていました。【正解率 【正解率 27.1 %】 のため、村の産業は廻船業や漁業が中心となっていました。 23 柴山潟では、戦前まで「ツケ」という特殊漁法が行われていた。これは晩秋に( ) の枝を潟端に沈めて置き、早春にその回りに立網を張り、魚を獲る漁法であった の枝を潟端に沈めて置き、早春にその回りに立網を張り、魚を獲る漁法であった。 潟端に沈めて置き、早春にその回りに立網を張り、魚を獲る漁法であった。 ①マツ ②サクラ ③スギ ④クヌギ 柴山潟では、 柴山潟では、フナ、コイ、 ナマズ、テナガエビなどの ガエビなどの淡水魚 対象とした内水面 では、フナ、コイ、ウナギ フナ、コイ、ウナギ、 ウナギ、ナマズ、 などの淡水魚を 淡水魚を対象とした とした内水面漁業が 内水面漁業が行わ 漁業が行われて 行われて きました。特 ツケ」と称 」と称する特殊 する特殊漁 特殊漁法が行われていまし 行われていまし きました。特に、戦前までは、フナ に、戦前までは、フナ・ フナ・コイなどを コイなどを獲 などを獲るために、「 るために、「ツケ」と 4 た。これは た。これは晩 これは晩秋に桜の枝を潟端 を潟端に沈めて置 めて置き、早春 き、早春に 早春に、その回 、その回り張った立網 った立網を引き上げ、 上げ、中の魚 中の魚を獲るとい うもので、他 うもので、他では見られない漁法 では見られない漁法でした。【正解率 でした。【正解率64.6 【正解率64.6%】 64.6%】 24 大聖寺藩2代藩主前田利明は、寛文年間に、山城、( )の両国から茶の実を購入 し、領内の村々に配分した。 ①駿河 ②美濃 ③近江 ④大和 2代藩主前田 2代藩主前田利明は 藩主前田利明は寛 利明は寛文年中(1661 年中(1661~ 1661~72)に山城( 72)に山城(京都府 )に山城(京都府) 京都府)・近江( ・近江(滋 江(滋賀県)両国から 両国から茶の から茶の実 茶の実を購入し、 領内の村々 の村々に配分しました。茶役 に配分しました。茶役は、江戸後期では、串 では、串村が銀43 村が銀43 匁で最も多く、これに山代村が で最も多く、これに山代村が29 く、これに山代村が29 匁余、 保賀村が 賀村が25 匁余、片山津 、片山津村が18 村が18 匁余と続きました。打 きました。打越村は 越村は弘化元年(1844 年(1844)に宇治茶の 1844)に宇治茶の製法 )に宇治茶の製法を 製法を導入して 入して 以降、領 以降、領内 、領内第一の 第一の生産地となりました 地となりました。【正解率52.1 【正解率52.1%】 52.1%】 25 大聖寺藩の橋立・塩屋・瀬越村からは、多くの北前船主や船頭がでた。寛政8年の「船 道定法之記」には、橋立村に北前船主や船頭が( ①32 人 ②42 人 ③52 人 )いたと記されている。 ④62 人 大聖寺藩の橋 大聖寺藩の橋立村・ 立村・塩屋村・ 屋村・瀬越村では多くの北 越村では多くの北前船主が出ましたが、いずれも北 前船主が出ましたが、いずれも北前船の寄港 前船の寄港地ではあり ませんでした。橋 んでした。橋立村では、船主の一 立村では、船主の一部が近 部が近江商人のもとで船乗 人のもとで船乗りとなり、やがて独 りとなり、やがて独立して北 立して北前船主となっ た歴史があります。 歴史があります。橋 があります。橋立村の古 立村の古い記録『船道定法之 い記録『船道定法之記』を見ると、 定法之記』を見ると、寛 記』を見ると、寛政8年(1796 年(1796) 1796)に42 名もの船主や船 頭がいたと記されています。【正解率 頭がいたと記されています。【正解率62.5 【正解率62.5%】 62.5%】 26 大聖寺藩では、正徳2年に、農民が問屋や十村宅を打ちこわす 大聖寺藩では、正徳2年に、農民が問屋や十村宅を打ちこわす百姓一揆(正徳一揆)が 農民が問屋や十村宅を打ちこわす百姓一揆(正徳一揆)が 起こった。このとき、山代村の十村( ①堀野新四郎 )が打ちこわしに遭った。 ②河原屋安右衛門 ③和田半助 ④鹿野小四郎 正徳2年(1712 2年(1712) 1712)8 月、大聖寺藩領内 大聖寺藩領内に強風が 強風が吹き、作物 き、作物などに大きな 作物などに大きな損害 などに大きな損害がでましたが、 損害がでましたが、藩は年 がでましたが、藩は年貢米 藩は年貢米の 貢米の 取り立てを例 り立てを例年どお 年どおりとしました。これに不満 りとしました。これに不満をもった農民 をもった農民た 農民たちが、検 が、検分していた役 していた役人たち 人たちを襲い、庄 い、庄、山 代、山中などの問 代、山中などの問屋や十 屋や十村宅をつぎつぎと つぎつぎと打ち壊 打ち壊しました。このとき しました。このとき打ち壊 このとき打ち壊しに 打ち壊しに遭 しに遭った十 った十村宅というのは、 山代村の河 【正解率16.7%】 16.7%】 山代村の河原屋安右衛門宅 原屋安右衛門宅でした。 右衛門宅でした。【正解率 でした。【正解率16.7 27 参勤(参観)は江戸へ行くこと、交代(就封)は国元へ帰ることをいうが、大聖寺藩で は、藩政期 230 年の間に、参勤交代を合わせて( ①89 回 ②121 回 ③154 回 )実施した。 ④181 回 大聖寺藩の参 大聖寺藩の参勤交代 勤交代は、江戸 は、江戸に行く参勤(参観) 参観)89 例と国元に帰る交代(就 代(就封)92 例が記録に残 記録に残ってお ってお り、その合計 り、その合計は実に 名行列の人数 、ほとんどが250~ 程度でしたが、文政 合計は実に181回 は実に181回となります。 181回となります。大 となります。大名行列の人 の人数は、ほとんどが250 250~300 人程度でしたが、 でしたが、文政 5年(1822 【正解率79.2%】 79.2%】 年(1822)4 1822)4月 )4月の9代利之 代利之による交 による交代は、最大の 代は、最大の397 最大の397 人を従 人を従えて行わ えて行われました。 行われました。【正解率 れました。【正解率79.2 28 大聖寺藩では、文政8年の異国船打払令 大聖寺藩では、文政8年の異国船打払令を契機に塩屋・橋立・ 契機に塩屋・橋立・日末 に塩屋・橋立・日末の 日末の3ヶ所に 3ヶ所に御台場を 御台場を 築造した。塩屋御台場 造した。塩屋御台場には、 御台場には、嘉永3 には、嘉永3年( 嘉永3年(1850 年(1850)に大 1850)に大砲 )に大砲( ①1 挺 ②3 挺 ③5 挺 )が置かれたという。 ④7 挺 大聖寺藩は文政8 大聖寺藩は文政8年(1825 年(1825)のフ 事件に伴う「異 う「異国船打払令」の発 」の発令を契機に、塩 に、塩屋・橋立 ・橋立・ 1825)のフェートン )のフェートン号 ェートン号事件に 日末の 日末の3ヶ所に御台場を 御台場を築造 場を築造しました。 築造しました。嘉 しました。嘉永3年(1850 年(1850)には、 1850)には、塩 )には、塩屋御台場に大 場に大砲3挺、 砲3挺、橋立御台場に大 御台場に大砲 場に大砲 5挺、 5挺、日末御台場に大 日末御台場に大砲 かれた記録が残っています。【正解率 っています。【正解率66.7 【正解率66.7%】 66.7%】 場に大砲2挺が置かれた記録が残 5 29 大聖寺藩では、5 大聖寺藩では、5代利直 代利直の 42 ヶ年や2代利明の 33 ヶ年を除けば 年を除けば、 除けば、在任期間の 在任期間の短 期間の短い藩主 としみち が多かった。特に、13 が多かった。特に、13 代利行の在任期間は最も 在任期間は最も短 期間は最も短い( ①5ヶ月 ②8ヶ月 ②8ヶ月 ③11 ヶ月 )であった。 ④1年2ヵ月 年2ヵ月 大聖寺藩の第 大聖寺藩の第 13 代藩主前田利行 代藩主前田利行は、天保 は、天保 6 年加賀藩主 加賀藩主前田斉泰 前田斉泰の 斉泰の5男として金沢 として金沢で 金沢で生まれ、 まれ、安政 2 年、 兄で大聖寺藩主であった利 で大聖寺藩主であった利義が死去したため、 死去したため、急遽 したため、急遽、 急遽、その養子 その養子として 養子として跡 として跡を継ぐことにな 継ぐことになりました。とこ ことになりました。ところ りました。ところが 家督を継ぐ直前 継ぐ直前に金沢で 直前に金沢で死去 に金沢で死去し 死去しました。改易 ました。改易を 改易を免れるために、このことは幕府 れるために、このことは幕府に 幕府に隠し、家督 し、家督を相続した後の 5か月後に死去 後に死去したことにしました。 死去したことにしました。そのため表向 そのため表向きは、 表向きは、13 代利行 代利行の在位期間は 在位期間は 5 か月となっています。【正 解率 77.1%】 77.1%】 みことのり 30 明治4 明治4年7月 年7月には、廃 には、廃藩置県 藩置県の 詔 により大聖寺県 により大聖寺県が誕生した。大聖寺 誕生した。大聖寺県 した。大聖寺県は、同 は、同年、金 沢県に合併 に合併されたので、( されたので、( ①1ヶ月 ②4ヶ月 )間での廃県 )間での廃県となった。 廃県となった。 ③8ヶ月 ③8ヶ月 ④10 ヶ月 明治4年7月 明治4年7月、廃藩置県により、大聖寺藩は廃止 により、大聖寺藩は廃止され、新たに「 廃止され、新たに「大聖寺 され、新たに「大聖寺県 大聖寺県」が誕生しました。しかし、こ 誕生しました。しかし、こ の年の11 の年の11 月に、大聖寺県 大聖寺県は金沢県に合併されたので、 合併されたので、大聖寺 されたので、大聖寺県 大聖寺県が在ったのは、僅か4 ったのは、僅か4 ヶ月間のこととなり 間のこととなり ます。な ます。なお、金沢 、金沢県も明治5 も明治5 年2 月には石 には石川県と改称したので、これ以降 したので、これ以降、 以降、当地は石 地は石川県江沼郡となりまし 江沼郡となりまし た。【正解率 た。【正解率91.7 【正解率91.7%】 91.7%】 31 大聖寺藩は、明治3 大聖寺藩は、明治3年(1870 年(1870)に 1870)に浦上キリシタン )に浦上キリシタン 50 人を預 人を預かり、庄兵 かり、庄兵谷の 庄兵谷の鉄砲場 谷の鉄砲場の長屋 鉄砲場の長屋 に収容して 収容して仏教 して仏教への 仏教への改宗 への改宗を 改宗を迫った。このとき、改宗者 った。このとき、改宗者は( 改宗者は( ①12 人 ②18 人 ③35 人 )であったという。 ④42 人 明治政府 明治政府は、神 は、神道国家を進 家を進めるために、キリスト教 めるために、キリスト教の 国内布教を めず、明治元年4 月に、浦上 に、浦上(長 リスト教の国内布教 布教を認めず、明治元 浦上(長崎 (長崎) の信徒3300 人余りを全 りを全国20の諸藩に分け 藩に分けて配流 て配流しました。明治 しました。明治3 明治3年、大聖寺藩では、 年、大聖寺藩では、50 大聖寺藩では、50 人のキリシタン 人のキリシタン を預かり、大聖寺 かり、大聖寺庄兵衛 場の長屋に収容しました。藩では、御 しました。藩では、御預けキ 預けキリシタンた リシタンたちの改宗を迫 宗を迫るた 大聖寺庄兵衛谷の 庄兵衛谷の鉄 谷の鉄砲場の長屋に収 め、藩内 め、藩内の各真宗寺 各真宗寺院 宗寺院に説諭を命じましたが、 じましたが、結局 が、結局、 結局、50 人のうち 人のうち、5 人が病死 人が病死し、 病死し、残 し、残り45 人のうち 人のうち、改心 した者は18 した者は18 人であったと伝えています。 人であったと伝えています。【正解率 伝えています。【正解率93.8 【正解率93.8%】 93.8%】 32 明治政府 明治政府は、明治 11 年に太政官布告 年に太政官布告で天 官布告で天皇 で天皇の北陸 の北陸道・東海 道・東海道の 東海道の巡幸 道の巡幸を 巡幸を公布した。この 公布した。この巡 した。この巡 幸は右大臣岩倉具視 は右大臣岩倉具視や参 岩倉具視や参議 や参議大隈重信ら、総勢 ら、総勢( 総勢( ①182 人 ②346 人 ③567 人 )を従え )を従えて行われた。 従えて行われた。 ④798 人 明治天皇 明治天皇は 天皇は維新後の明治5 新後の明治5年から明治18 年から明治18年までの間に 18年までの間に計 年までの間に計6回にわたって日本国内 たって日本国内を 日本国内を巡幸されました。 巡幸されました。こ されました。こ れは民情 れは民情を 視察し、新政府 適否をさぐ り、あわせて 天皇統治権の浸透 るためといわれています。明治 れています。明治 民情を視察し、新政 し、新政府の適否をさ をさぐり、あわせ わせて天皇統治権の 治権の浸透を 浸透を図るためといわ 11年に 11年に行わ 年に行われた 行われた北陸 れた北陸道 北陸道・東海道の ・東海道の巡幸 道の巡幸は、 巡幸は、右 は、右大臣岩倉 大臣岩倉具視 岩倉具視 や参議大隈重信らを 隈重信らを従 らを従え、総 え、総勢798 人という空 人という空 前の人数 前の人数でした。 でした。【正解率 た。【正解率43.8 【正解率43.8%】 43.8%】 33 明治政 明治政府は明治4 は明治4年に文部省 年に文部省を 部省を設立し、同5 立し、同5年に 同5年に学制 年に学制を 学制を公布した。江 公布した。江沼郡 した。江沼郡大聖寺には、 沼郡大聖寺には、 錦城・京逵 城・京逵・ 京逵・有隣・( 有隣・( ①開 陽 ②旗 陽 )の4 )の4小学校が 学校が設立された。 ③得 知 ④新 知 石川県では明治 では明治6 年に区学校規則が 校規則が定められ、この規則 められ、この規則に 基づき、江沼郡では、大聖寺 ・京逵・有 明治6年に区 規則に基づき、 き、江沼郡では、大聖寺に 江沼郡では、大聖寺に錦城・京逵・有 隣・旗陽の ・旗陽の4校を設置したことをか 設置したことをかわ したことをかわきりに、郡全体 きりに、郡全体に 全体に21カ 21カ所の小学校 の小学校が設立されました。また、この後、 小学校 小学校が3カ所、巡回授 巡回授業所が7カ所、設置されるなど、 設置されるなど、明治13 明治13年 までに頻繁に 統廃合が繰り返されました。 13年頃までに頻繁 頻繁に統廃合が 6 【正解率47.9 【正解率47.9%】 47.9%】 34 昭和 23 年、福井県丸岡町付近を 県丸岡町付近を震源 近を震源とする 震源とする福 とする福井地震 井地震が起こった。このとき、江沼郡 江沼郡では、 沼郡では、 死者( 死者( )、負傷者 )、負傷者 451 人、住 人、住宅全壊 791 戸など、甚 戸など、甚大な被害 大な被害を 被害を受けた。 受けた。 ①18 人 ②39 人 ③68 人 ④87 人 昭和23 昭和23 年(1948 年(1948) 1948)6 月28 日の夕方、 夕方、福井県坂井市丸岡町 井市丸岡町付 丸岡町付近を震源とする 震源とするマ とするマグニチュー グニチュード7.1の 7.1の大地震 大地震 が発生しました。地震 地震の規模は極めて浅 めて浅い直下型 い直下型地 下型地震であったため、江沼郡内 江沼郡内でも死 でも死者39名 39名、負傷者 負傷者451名 451名、 住宅全壊 宅全壊791戸 791戸、半壊1231 戸と大きな被 大きな被害を出しました。【正解率 を出しました。【正解率18.8 【正解率18.8%】 18.8%】 35 大聖寺藩士 大聖寺藩士( )は、弘化 )は、弘化2年( 神社仏閣記、藩士 弘化2年(1845 2年(1845)に領内の地 1845)に領内の地誌 )に領内の地誌、神社仏閣記、藩 記、藩士の紀 行記、諸 行記、諸家の碑銘 家の碑銘などを 碑銘などを集 などを集めた『 めた『藩国見聞録』 藩国見聞録』を 見聞録』を著した。 ①小塚秀得 ①小塚秀得 ③奥村永世 ②塚谷沢右衛門 ④宮永理右衛門 宮永理右衛門 『藩国 『藩国見聞録』は弘 』は弘化2年(1845 化2年(1845)に 1845)に大聖寺藩士であった )に大聖寺藩士であった奥 大聖寺藩士であった奥村永世が著述したもので、領 著述したもので、領内 したもので、領内の地誌 の地誌、神社 仏閣記、藩士の旅 記、藩士の旅行記、諸 記、諸家の碑銘 家の碑銘などを 碑銘などを集 などを集めたものです。奥 ものです。奥村家は大聖寺藩の槍術師範 村家は大聖寺藩の槍術師範の家 槍術師範の家柄 の家柄であったが 永世は武術を 武術を好まず、歴史に関心が 歴史に関心が強 に関心が強く、山野を歩 山野を歩き、城跡 城跡を訪ねて由 訪ねて由来 て由来を書き留 を書き留めていたといいます。【正 解率22.9 解率22.9%】 22.9%】 36 馬嶋健吉 馬嶋健吉は、初め、金沢の 健吉は、初め、金沢の黒川良 は、初め、金沢の黒川良安に 黒川良安に学び 安に学び、さらに大坂の 学び、さらに大坂の緒方洪庵 、さらに大坂の緒方洪庵の 緒方洪庵の適々斎塾に入門、 斎塾に入門、 蘭学を 蘭学を修めた。その後 めた。その後、( たかし ①石川 嶂 )と共に渡欧し、 渡欧し、外科 し、外科・内 外科・内科 ・内科・眼科などを 眼科などを学 などを学んだ。 わたなべ う さぶろう たけのうちげんどう か し だ げんかく ②渡辺卯三郎 ③ 竹 内 玄同 ④ 樫 田玄 覚 馬嶋健吉 馬嶋健吉は 健吉は、大聖寺藩医 、大聖寺藩医であった馬嶋 であった馬嶋全 馬嶋全庵の長男 の長男。初め金沢 初め金沢の黒川良安の門 安の門下生となり、安政6年(1859 となり、安政6年(1859) 1859) に緒方洪庵の 緒方洪庵の適塾に入門 に入門、蘭学を修めました。その後、健吉 めました。その後、健吉は 健吉は石川嶂の支援 の支援を受けて渡欧し、外科 し、外科・ 外科・内科・ 眼科などを 眼科などを学 などを学びました。【正解率 ました。【正解率39.6 【正解率39.6%】 39.6%】 37 飛鳥井 飛鳥井清は、明治 10 年に旧 年に旧大聖寺藩士 大聖寺藩士の柿沢理平を 理平を工場長にして「加 工場長にして「加州松島社 長にして「加州松島社」を 州松島社」を創設 」を創設 し、鉛筆 し、鉛筆製造を めた。理平の 鉛筆製造を始 製造を始めた。理平 理平の墓は( ①全昌寺 全昌寺 ②久法寺 )境内にある。 ③宗寿寺 宗寿寺 ④実性院 ④実性院 大聖寺藩士柿 大聖寺藩士柿沢理平 沢理平は、もと山川家の次 は、もと山川家の次男でしたが、弘 でしたが、弘化4年に柿 年に柿沢家に養子 沢家に養子に入り、明治 養子に入り、明治期 に入り、明治期、大聖寺県 、大聖寺県 の権大属 の権大属や会計掛などを務 などを務めていました。明治10 めていました。明治10年、片谷村で 10年、片谷村で黒鉛 年、片谷村で黒鉛が発見されたことで、 黒鉛が発見されたことで、飛鳥 が発見されたことで、飛鳥井 飛鳥井清や瀧謙な 瀧謙な どに頼 どに頼まれて鉛 まれて鉛筆工場の職工 場の職工(の 職工(のち (のち工場長)を務 場長)を務めました。大聖寺寺山ノ下 めました。大聖寺寺山ノ下寺 ノ下寺院群の一つ、 一つ、久法寺には柿 には柿沢 理平の墓があり、その戒 があり、その戒名には「制鉛 には「制鉛院 制鉛院造筆日肇居士」と 肇居士」と刻 士」と刻まれています。【正解率 まれています。【正解率72.9 【正解率72.9%】 72.9%】 38 深田久弥は、 久弥は、昭 は、昭和8年に、小林 和8年に、小林秀雄らと( )を創刊 )を創刊し、「 創刊し、「呼ぶ冬 し、「呼ぶ冬山」「一家」 呼ぶ冬山」「一家」 「一昼夜 「一昼夜」「 昼夜」「街 」「街」などを発表 」などを発表した。 ①新思潮 ①新思潮 ② 改造 ③文芸 ③文芸春秋 ④文学界 ④文学界 大聖寺出身 大聖寺出身の作家、深 家、深田久弥は、大正 久弥は、大正15 は、大正15 年に東京帝 東京帝国大学文学部に入学 部に入学し、在学中、改造 中、改造社 改造社編集部に 編集部に勤 部に勤 務しました。昭和 しました。昭和5 昭和5 年『文 年『文芸春秋』 春秋』に「オ に「オロッコの娘 コの娘」を発 」を発表したことで、同 したことで、同年大学 年大学を中退し本格的に作家 活動に入りました。 活動に入りました。以 に入りました。以後、「 後、「津軽の野づ の野づら」「あすなろ ら」「あすなろう」などを発 う」などを発表 などを発表し作家として認 家として認められました。昭和 められました。昭和 8 年、小林秀雄、 林秀雄、川端康成ら 康成ら共に『文學界 『文學界』の 學界』の創刊 』の創刊に加 創刊に加わ に加わりました。【正解率 りました。【正解率31.3 【正解率31.3%】 31.3%】 7 39 大聖寺藩では、城下 大聖寺藩では、城下の西端に関所 端に関所、越前との国 関所、越前との国境 、越前との国境である吉崎 である吉崎村、 吉崎村、風 村、風谷村、( ) くちどめばんしょ を置き、往来 往来人を 人を監視 監視した。 などに口留 口留番所を置き、 往来 人を 監視 した。 などに ①橘 村 ②熊坂村 ④真砂村 真砂村 ③九谷村 大聖寺藩では城下町 大聖寺藩では城下町の 下町の西端に関所を設置しました。また、このほかに、 設置しました。また、このほかに、吉 しました。また、このほかに、吉崎村・風谷村・橘村に口留番 に口留番所 留番所 を置き、越前との往 き、越前との往来を監視しました。口 しました。口留番所 留番所とは、江戸時代、 とは、江戸時代、各藩が自 藩が自藩の境界 藩の境界や 境界や交通の要 通の要所などに設 などに設 置した番 【正解率60.4%】 60.4%】 した番所のことで、 のことで、関 で、関所の要件を満たさない小規 たさない小規模なものを なものを指しています。【正解率 しています。【正解率60.4 40 )は、鷹狩 )は、鷹狩りや 鷹狩りや遊芸 りや遊芸を 遊芸を好み、藩政をか 好み、藩政をかえ 、藩政をかえりみず、天明2年に加賀 みず、天明2年に加賀 大聖寺藩主( はるなが ゆうへい 藩主 11 代前田冶 代前田冶脩から金沢城幽閉 から金沢城幽閉を命じられた。 としあきら ① 4 代利 章 ②5代利道 としあき としたね ③ 6 代利 精 ④7代利 ④7代利物 大聖寺藩の 5 代藩主前田利道の次 代藩主前田利道の次男、前田利精 、前田利精は、兄 は、兄が早世したために、安永 7 年に大聖寺藩 6 代藩主と なりましたが、父 なりましたが、父が死去すると、 死去すると、遊郭 すると、遊郭に 遊郭に頻繁に通 頻繁に通ったり、 に通ったり、無 ったり、無法を繰り返すようになり、これら り返すようになり、これら一 り、これら一連の行 連の行動に 本家の加賀藩主 家の加賀藩主前田治 加賀藩主前田治脩 前田治脩も諫言し 諫言しましたが、 ましたが、利精 利精は聞く耳を持ちませんでした。このため治 このため治脩は、利精 利精を「心 疾」として金沢城に監禁 」として金沢城に監禁し、家 監禁し、家督 し、家督を利精の弟である利 である利物に継がせました。 ました。【正解率 39.6%】 39.6%】 41 江沼平野から m以下の 沼平野から続 野から続く海抜 100m以下 m以下の低地山間部 地山間部は( ①加賀砂丘 ①加賀砂丘 ②江沼丘陵 ②江沼丘陵 ③加賀台 ③加賀台地 )と呼ば )と呼ばれている。 呼ばれている。 ④ 白 山台 地 加賀市の地形 加賀市の地形は大きくは低 は大きくは低地、台地、丘陵山地の 丘陵山地の3つ 山地の3つに大 3つに大別 に大別されます。低地の中心は江沼平 地の中心は江沼平野です。また、 低地の北 地の北側は日本海に 日本海に面し、江沼砂丘 し、江沼砂丘と 砂丘と呼ばれています。 ばれています。台 ています。台地部分は、海 地部分は、海抜20~ 20~60 メートル ートルの緩やかな起 やかな起 伏をともなった段丘 をともなった段丘で、片野 段丘で、片野町 で、片野町から黒 から黒崎町・橋立 ・橋立町にかけ にかけての橋 ての橋立台地や大聖寺川や動 や大聖寺川や動橋川の中流 川の中流域付近 域付近で の河岸段丘となっています。 岸段丘となっています。一 となっています。一方、江沼平 、江沼平野や台 野や台地から続く、 地から続く、海 続く、海抜100 メートル ートル以下の低地山間部は「江沼 地山間部は「江沼 丘陵」 丘陵」と呼ばれるところ ばれるところで、なだらかな起伏 で、なだらかな起伏や 起伏や丘が続く丘陵地 丘陵地となっています。【正解率 となっています。【正解率77.1 【正解率77.1%】 77.1%】 42 日本列島の地 日本列島の地層 の地層で最も古 で最も古いとされる飛騨変成岩 いとされる飛騨変成岩の地 飛騨変成岩の地層 の地層が、加賀市の( )付近でも 見られる。 ①尼御前 尼御前岬 ②加佐ノ岬 ②加佐ノ岬 ③錦城山 ④山中温泉 ④山中温泉九谷 中温泉九谷 地層は、通常 、通常は、上 は、上に積もっているものが新しく、下 もっているものが新しく、下へ行くほど古 くほど古い地層 い地層になります。加賀市では大聖寺 川や動 川や動橋川の上流 川の上流にいくにしたがって 上流にいくにしたがって古 にいくにしたがって古い地層 い地層が見られる特 が見られる特徴があります。 があります。日本 す。日本に 日本における最も おける最も古 る最も古い地層であ る飛騨変成 騨変成岩地層は、当地では、大聖寺川の上流 は、当地では、大聖寺川の上流域 上流域である九谷地 である九谷地区 九谷地区に局部的に見られます。 に見られます。【正解率89.6 【正解率89.6%】 89.6%】 43 富士写 富士写ケ岳では、( )、キ 、キクザキイチゲなどのようなス イチゲなどのようなスプ などのようなスプリング リング・エフェメラ エフェメラ ルと呼ばれる春 呼ばれる春植 れる春植物が多く見 が多く見られる。 ①ニチニチソウ ニチニチソウ ② カ タク リ ③キンモ キンモクセイ ④サル ④サルスベリ 富士写ケ岳ではツツ ではツツジ ツツジの女王とよばれる 女王とよばれるシ とよばれるシャクナ ャクナゲが美しく、大型 が美しく、大型連休には登 連休には登山者で賑 山者で賑わいます。また、 います。また、 地表にはカ にはカタクリやキクザ やキクザキイ クザキイチゲ キイチゲのような チゲのような「ス 「スプリング リング・エフ ・エフェメラル」 メラル」とよばれる春 とよばれる春植物が見られます。 ニチニチソウやキ ニチニチソ ウやキン ウやキ ン モクセイ、 モクセ イ、サル イ、 サルス サル ス ベ リ はいずれも夏 はいずれも 夏 から秋 から 秋 にかけ にか け て 花 を つける つけ る 花木です。 花木 です。【正解率 です。 【正解率 85.4%】 85.4%】 8 )のような止水 )のような止水性 止水性のトンボを多く見 を多く見 44 加賀市には、ため池 ( 加賀市には、ため池が多く、そのため、 かける。 ①ハグロトン ハグロトンボ ②オニヤン オニヤンマ ③ギン ③ギンヤンマ ④ムカシ ムカシトンボ 止水性 止水性トンボ トンボとは、池 とは、池や湖、沼など水 、沼など水がほとんど流 がほとんど流れない場所 れない場所に生息するトン するトンボ トンボでその代表 でその代表がギン がギンヤンマ です。一 です。一方、流水性 流水性トンボ トンボとは、水 とは、水が常に流れている川や運 れている川や運河に生息するトン するトンボ トンボで、ハグ で、ハグロ ハグロトンボ トンボやオニヤ ンマ、ムカ 【正解率27.1%】 27.1%】 マ、ムカシトン ムカシトンボ シトンボなどがこれにあたります。【正解率 などがこれにあたります。【正解率27.1 45 加賀市内でも外来 加賀市内でも外来種 外来種の動物が多く生 が多く生息し、生 し、生態系に大きな 態系に大きな影響 に大きな影響を 影響を与えているが、私 ているが、私たち がよく見 がよく見かける( ①キジバト )も外来 )も外来種 外来種である。 ②カラスバト ラスバト ③ドバト ④アオバト 土鳩(ドバト ドバト)とは、学名 )とは、学名カワラバト カワラバトのことで、本 のことで、本来ヨー 来ヨーロッパ、中 ッパ、中央アジア 、中央アジア、 央アジア、北アフリカなどの乾燥 などの乾燥地 乾燥地 帯に生息する鳩 する鳩ですが、一説 ですが、一説には 一説には飛鳥 には飛鳥時代 飛鳥時代から 時代から平 から平安時代に、 安時代に、既 に、既に日本に 日本に入ってきたと伝えられる外来種 入ってきたと伝えられる外来種で、 外来種で、 国内で 国内で古くから生 くから生息している「ヤ している「ヤマバト」「キジバ 「キジバト ジバト」とは区 とは区別されています。 されています。【正解率 ます。【正解率 33.3%】 33.3%】 たらい 46 昭和 30 年頃から、当 から、当地方でも電気洗濯 でも電気洗濯機 電気洗濯機が普及し 普及し始めたが、それまでは、 盥 、洗濯板、 洗濯板、 )の3 )の3点が、娘 が、娘が他家に嫁ぐ際 家に嫁ぐ際の 嫁ぐ際の必需品となっていた。 必需品となっていた。 ( ② 干し 物 竿 ①洗濯箱 ③張り板 ③張り板 ④洗濯棒 戦後しばらく、電気洗濯 戦後しばらく、電気洗濯機 電気洗濯機が普及するまでには、主 普及するまでには、主婦 するまでには、主婦は、盥 は、盥(たらい)と洗濯板 (たらい)と洗濯板を 洗濯板を使って、手 って、手作業で洗濯 業で洗濯 をしました。また、洗濯 をしました。また、洗濯した 洗濯した着 した着物などは、糊 などは、糊をして板 をして板張りする「洗 りする「洗い張り」をしました。そのため、この時 代、「たらい 代、「たらい・ 「たらい・洗濯板・ 洗濯板・張り板」の3 」の3点は娘が他家に嫁 家に嫁ぐ際の必需品 際の必需品で 必需品でした。【正解率 した。【正解率75.0 【正解率75.0%】 75.0%】 47 戦後においても、農民や漁師など外 いても、農民や漁師など外で作業をする人々の多くは、麻 業をする人々の多くは、麻や木綿 や木綿を織り込んだ ( )と称 )と称する作 する作業着を着た。 ①サッ ①サックリ ②ハバキ ハバキ ③ハオリ ハオリ ④タンゼ タンゼン 木綿が 木綿が普及する 普及する以 する以前は、お 前は、おもに麻 もに麻から繊 から繊維をとって糸 をとって糸を作っていました。この麻 っていました。この麻を織って作 って作った作 った作業着を 当地では「サック 当地では「サックリ 」と称しています。麻 しています。麻の衣服は 衣服はゴワゴワして ゴワゴワして硬 いために、やがて木綿を んだ柔ら サックリ」と称 して硬いために、やがて木綿 木綿を織り込んだ柔 かいサック かいサックリ サックリも使いました。【正解率 いました。【正解率81.3 【正解率81.3%】 81.3%】 48 昭和 40 年頃までは、市内の多くの家では、夏 までは、市内の多くの家では、夏の夜、蚊に喰われないように、就寝 われないように、就寝の際は 部屋に( 屋に( ①蚊屋 )を吊 )を吊るして寝 るして寝ていた。 ていた。 ②蚊帳 ③蚊椰 ④蚊家 蚊帳(かや)は、 蚊帳(かや)は、麻 などを素材とした 程度の網目状に編んだ布 んだ布で、夏 で、夏、寝室にこの 寝室にこの蚊帳 って寝る (かや)は、麻などを素材 素材とした 1mm 程度の にこの蚊帳を 蚊帳を吊って寝 ことで、蚊 ことで、蚊などの虫 などの虫は通さず、 は通さず、窓を開け を開け放して寝 して寝ることができました。蚊帳 ことができました。蚊帳の 蚊帳の使用は古代にまで遡 代にまで遡り、エ り、エジ プトのクレオパト オパトラが愛用していたと 愛用していたといいます。 から伝来し、当初、貴族 、当初、貴族などが いていたそ していたといいます。日本 いいます。日本には 日本には中 には中国から伝来 貴族などが用 などが用いていたそ うですが、江戸時代 うですが、江戸時代以降 江戸時代以降、 以降、庶民にも普及 にも普及しました。 普及しました。【正解率 しました。【正解率 100.0%】 100.0%】 49 例年、4 年、 月に行われる大聖寺の桜祭 に行われる大聖寺の桜祭りは、 桜祭りは、( ①江沼神社 ①江沼神社 ②菅生石部神社 ③加賀神 ③加賀神明宮 )の春祭 )の春祭りである。 ④大原神社 ④大原神社 大聖寺の桜 大聖寺の桜祭りは、加賀神 りは、加賀神明宮の春祭りのことで、大聖寺の りのことで、大聖寺の全 大聖寺の全町が参加する大きな祭 加する大きな祭りです。毎 りです。毎年4 月15 9 日から17 から17 日までの3 までの3 日間をかけ 間をかけて行われます。 行われます。15 れます。15 日は「宵宮 は「宵宮」 宵宮」、16 日・17 日・17 日は「本 は「本祭」として行わ 」として行われて 行われて います。近 います。近年では4 年では4 月の第2 土曜・日曜 ・日曜に行われています。 行われています。【正解率 れています。【正解率91.7 【正解率91.7%】 91.7%】 50 加賀や越前などで古 加賀や越前などで古くから作 くから作られてきた、サトイモ られてきた、サトイモの トイモの茎を利用 を利用した郷 した郷土料理「ズイキ ズイキの 酢の物」は別名 」は別名( 別名( ①ツキ ①ツキ )とも呼ば )とも呼ばれる。 呼ばれる。 ②スコ ②スコ ③クズ ③クズ ④ズッコ ズイキとは、 ズイキとは、芋 は、芋の中心から出た茎 の中心から出た茎という意味 という意味で「 意味で「髄茎 で「髄茎」が 髄茎」が語 」が語源だという説 だという説があります。ズイキは があります。ズイキは平成14 年 に加賀野菜 に加賀野菜として認定 として認定されました。ズイキ 認定されました。ズイキの されました。ズイキの酢の物は、「ス は、「スコ」とも呼 コ」とも呼ばれ、食 ばれ、食物繊維・カ 維・カリウムも豊富で あり、慢 あり、慢性的な 性的な便秘や 便秘や高血圧 高血圧にも効 にも効果的だといわ だといわれています れています。【正解率87.5 【正解率87.5%】 87.5%】 51 山中温泉には、天 中温泉には、天然 には、天然記念物の大杉 の大杉が何本もあるが、このうち、菅 もあるが、このうち、菅谷町八幡神社 八幡神社の大 神社の大杉 の大杉は 別名「( ①二又 )大杉 )大杉」と呼ばれている。 呼ばれている。 ②三又 ③親子 ④天覧 ④天覧 山中温 山中温泉からお からおよそ1.5 よそ1.5㎞ 1.5㎞、大聖寺川の上流 、大聖寺川の上流域 上流域にむかったところ かったところ、菅谷町の八幡神 八幡神社境内 社境内にある大 にある大杉は、 幹周 7.3m 7.3m の大ス の大スギで、樹 ギで、樹齢は2,300 年と伝えられてきました。 年と伝えられてきました。地上3メ 上3メートル ートルのところ のところで3つに 3つに幹が分か れているために、別 れているために、別名「三又大 三又大スギ」とも呼 ギ」とも呼ばれています。【正解率 ばれています。【正解率62.5 【正解率62.5%】 62.5%】 52 山代温泉 ( 山代温泉の 温泉の薬王院 薬王院が所蔵するには、 )は、白 )は、白山五院の一つ の一つ大聖寺の後 大聖寺の後身、慈 光院にあったもので、白 にあったもので、白山信仰の遺品として 遺品として貴 として貴重なものである。 ①泰澄大師 泰澄大師尊像 大師尊像 ②五輪塔 五輪塔 ③木造十一面 ③木造十一面観音立像 ④阿弥陀如来 陀如来像 山代温 山代温泉薬王院が所蔵する「 する「木造十一面観 造十一面観音立像」は、もと白 」は、もと白山五院大聖寺の後身 大聖寺の後身、大聖寺慈光 大聖寺慈光院 慈光院の本尊 として祀 として祀られていましたが、 られていましたが、慶長 ましたが、慶長5 慶長5 年、大聖寺城主山口玄蕃頭宗永が前田利長に攻め滅ぼされた際に、池 、大聖寺城主山口玄蕃頭宗永が前田利長に攻め滅ぼされた際に、池の 中に投 中に投げ入れられ難 入れられ難を逃れ、明治維 明治維後、同 後、同じ白山五院の一つであった 一つであった薬 であった薬王院に移されました。十一面 されました。十一面観 十一面観音は 白山主峰 山主峰の御前峰の本地仏で、平 で、平安時代末期 安時代末期の 末期の白山信仰の遺品として貴 として貴重です。【正解率 です。【正解率91.7 【正解率91.7%】 91.7%】 53 加賀市が所 加賀市が所蔵する国指 する国指定の重要 定の重要有形民俗文化財「白 「白山麓の山村生 の山村生産用具及び民家」と「白 山麓の積雪期 積雪期用具」は、( ①山下久 ①山下久男 下久男 )から寄 )から寄付されたものである。 ②新家熊吉 ②新家熊吉 ③伊藤常次郎 常次郎 ④ 稲坂 謙 三 民具収集 民具収集家、伊藤 家、伊藤常次 伊藤常次郎 常次郎は、能美郡新丸 は、能美郡新丸村小原( 村小原(現小松市)出身 市)出身。郷里である小原が 郷里である小原がダ である小原がダム建設のため湖 のため湖底 に沈むと知り、民具 と知り、民具の 民具の収集に奔走し 奔走し、およそ3 よそ3万点の民具を 民具を集め体系的に整理しました。加賀市分校 理しました。加賀市分校町に居 住していた繋 点余りと民家1棟 棟を加賀市に寄 していた繋がりで、これらの民具お がりで、これらの民具およそ 民具およそ4,800点 よそ を加賀市に寄付しました。この膨 ました。この膨大な民具 大な民具 は、現 は、現在、加賀市中央 加賀市中央公園の 公園の歴史民俗広 歴史民俗広場の 俗広場の民 場の民俗収蔵庫に収められています。【正解率 められています。【正解率70.8 【正解率70.8%】 70.8%】 54 平成 22 年度の加賀市の産業別 の加賀市の産業別就業者 就業者の比率を 比率を見ると、飲食 ると、飲食・サ 飲食・サービ ・サービス業、 ービス業、旅館 ス業、旅館業などの 旅館業などの 第 3 次産業に従 産業に従事する人口 する人口はおよそ( ① 40 ② 50 )%を占めている。 ③ 60 ④ 70 平成22 年の国 年の国勢調査によれば、加賀市の産 によれば、加賀市の産業別就業者の比 業者の比率は、農 率は、農林水産業などの第 業などの第一次産業が3.1 業が3.1%、 3.1%、 建設・製造業を中心とした 設・製造業を中心とした第 業を中心とした第二次産業が35.1 業が35.1%、 35.1%、飲食店 %、飲食店や 飲食店やサービス業、 ービス業、運 業、運輸業などに従 業などに従事する第 する第三次産業は 60.0%となっています。 60.0%となっています。石 %となっています。石川県全体の 全体の数値と比較す 比較すると、第 ると、第三次産業の比 業の比率が大きいのが 率が大きいのが特 いのが特徴です。【正解 です。【正解 率47.9%】 47.9%】 10 55 平成 26 年度版の 度版の石川県統計 石川県統計によれ 統計によれば によれば、県全体 県全体の漁船総 の漁船総数は 4,745 隻となってお となっており、その うち加賀市は( ① 85 )隻を占めている。 ② 17 3 ③ 38 5 ④ 654 JF いしかわ いしかわの「平 の「平成26年 26年6月版統計」によると、 統計」によると、県 」によると、県全体の 全体の漁船総 漁船総数(動力船)4 船)4,745 隻に対し、加賀市は 173 隻となっています。その となっています。その内 その内訳は、3 は、3 トン未 トン未満が112 隻、3~5 トンが トンが44 隻、5~20 トンが トンが17 隻となっ 【正解率29.2 29.2%】 ています。【正解率 【正解率 29.2 %】 ています。 56 昭和 49 年に、塩屋、橋立、 ( )の3 「加賀市漁業協 )の3つの漁業協 の漁業協同組合が合併 合が合併し、 「加賀市漁業協 同組合」が誕生 合」が誕生したが、 誕生したが、現 したが、現在は石川県漁業 石川県漁業協 漁業協同組合加賀支 合加賀支所となっている。 ①片野 ② 篠原 ④黒崎 ③塩浜 当市におけ 市における漁業 おける漁業協 る漁業協同組合の歴史を見ると、もともと塩 を見ると、もともと塩屋・橋立 ・橋立・篠原の3 原の3 地区に漁協 に漁協が設置されていま 設置されていま したが、昭和 たが、昭和49 昭和49 年にこれら3 年にこれら3 漁協が合併し、新しく「加賀市漁業 合併し、新しく「加賀市漁業協 し、新しく「加賀市漁業協同組合」が誕生 」が誕生しました。その後、 誕生しました。その後、県 しました。その後、県 内各地の漁業協 地の漁業協同組合がさらに一本 がさらに一本化する 一本化する動 化する動きが出て、平成18 年9 月、石川県内の 県内の沿海27 漁協が合併し 合併し「石 「石 川県漁業協 漁業協同組合」が発 」が発足し、加賀市漁協 足し、加賀市漁協はその組 はその組織の中の「加賀支所 の中の「加賀支所」となりました。【正解率 」となりました。【正解率22.9 【正解率22.9%】 22.9%】 )かぼ )かぼちゃの生産がお 産がおこなわれてお こなわれており、JA り、JA かが 57 加賀市では、糖度 加賀市では、糖度の 糖度の高い( では、これを原料 では、これを原料とした焼酎 とした焼酎を商品化 商品化している。 あじへい ①小菊 ①小菊 ②さくら ③味 平 ④打木赤皮 ④打木赤皮 一般的に広く流通しているのが「黒 通しているのが「黒皮栗かぼ 皮栗かぼち かぼちゃ」で、味 」で、味平かぼち かぼちゃもこの品種 もこの品種の 品種の一つです。 一つです。果肉 です。果肉は 果肉は粉質 で、糖 で、糖化するデ 化するデンプンが多く、加熱 が多く、加熱すると甘味 すると甘味が 甘味が増してホ してホクホクとした食感 とした食感になります。かぼ 食感になります。かぼち になります。かぼちゃ本来の深 い甘みがあります。加賀市では、この みがあります。加賀市では、この糖 この糖度の高い「味 い「味平かぼち かぼちゃ」の生 」の生産に力を入れてお を入れており、お り、およそ 65 戸 余りの農家が約 37ha 37ha の畑地で栽培 地で栽培し、南加賀地 栽培し、南加賀地区 し、南加賀地区における おけるカボチャの カボチャの一大生産地となっています。 地となっています。【正解 す。【正解 率 93.8%】 93.8%】 58 加賀商 加賀商工会議所が 議所が設立されたのは、昭 立されたのは、昭和 44 年 4 月 1 日のことで、その初代会 のことで、その初代会頭には ( )が就いた。 ①新家熊吉 ①新家熊吉 ②吉田豊彦 ③矢田松太郎 ④山田泰 ④山田泰三 昭和43 昭和43 年12 月、商工会議所設立 所設立総会が開催 が開催され、初代会 され、初代会頭に新家熊吉 頭に新家熊吉、副会頭に山田泰 頭に山田泰三・吉田藤米・ 中越良 中越良隆の3 名が選任され、 選任され、翌 され、翌44 年4 月1 日、加賀商 、加賀商工会議所が正 議所が正式 が正式に発足しました。なお 発足しました。なお、当市の商 、当市の商工 会議所の 議所の歴史を 歴史を遡ると、明治13 ると、明治13年の「大聖寺 13年の「大聖寺商法 年の「大聖寺商法会 商法会議所」 議所」昭和22 昭和22年の「江沼 22年の「江沼商 年の「江沼商工会議所 工会議所」 議所」昭和33 昭和33年の「加賀 33年の「加賀 市商工連合会」などの変 」などの変遷が記録されています。【正解率 が記録されています。【正解率62.5 【正解率62.5%】 62.5%】 59 九谷焼 360 周年にあたる本 年にあたる本年 8 月、加賀市、小松 小松市、能美市の 3 市は、東京の 東京の( ) で「九谷の系譜展 で「九谷の系譜展」を開 系譜展」を開催 」を開催し、会 し、会期中には天皇 には天皇・皇后両陛下も鑑賞された。 鑑賞された。 ①出光美 出光美術館 ②ステー ②ステーシ テーションギャラリー ③森美術館 ④サン ④サントリー美術館 九谷焼 九谷焼 360 周年にあたる本 年にあたる本年 8 月から 9 月にかけ にかけて、加賀市 て、加賀市・ 賀市・小松市・能美市の 能美市の3市共催による「 による「交流す 交流す るやきもの 九谷焼 九谷焼の系譜と 系譜と展開」展 開」展」が東京 」が東京駅 東京駅の丸の内駅舎内 駅舎内にある「ステーシ にある「ステーショ ステーションギャラリー ャラリー」で開 リー」で開催 」で開催 されました。8 されました。8 月 31 日には、天皇皇 は、天皇皇后 天皇皇后両陛下がそろ がそろってご ってご来館され、吉 され、吉田屋窯 田屋窯の名品の一つ、九谷 一つ、九谷焼 、九谷焼美術館 所蔵の百合図平 合図平鉢などを熱 などを熱心にご鑑賞 心にご鑑賞され ご鑑賞されました。 されました。【正解率 ました。【正解率 47.9%】 47.9%】 11 よねはち 60 山中温泉の ( 中温泉の芸妓、初代米 、初代米八が、レコード盤 が、レコード盤で レコード盤で民謡「山中 「山中節」を出 」を出したのは、 ) のことであり、これ以 のことであり、これ以降、山中節が全国に広まったとされる。 ①大正 8 年 ②昭和 2 年 ③昭和 8 年 ④昭和 18 年 山中温泉 山中温泉の 温泉の芸妓、初代米 初代米八が、民 が、民謡「山中節 「山中節」をレ 」をレコード化して全国 化して全国に 全国に売り出したのは昭和 り出したのは昭和 2 年のことで よねはち した。米 した。米八の本名は 本名は安実清 安実清子(あんじつ・せいこ)で、福 で、福井県坂井郡金津 坂井郡金津町の出身 の出身の女性でした。 女性でした。米 でした。米八は、芸 は、芸事 が好きで、唄、三味線、 【正解率 91.7%】 三味線、踊り、義太夫など幅広 太夫など幅広く 幅広く身につけて、 つけて、北陸一の 北陸一の名妓と呼ばれました。 ばれました。 91.7%】 12