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「詩の散歩」 矢沢宰の詩の世界へ 一緒に出かけよう

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「詩の散歩」 矢沢宰の詩の世界へ 一緒に出かけよう
広報
2013
No.640
「詩の散歩」
矢沢宰の詩の世界へ
一緒に出かけよう
■目次 い の ち
●特集:生命の詩人 矢沢宰…………2〜7
●マイリンケ市訪問団報告…………8〜9
●民生委員 障害者週間 ほか……10 〜 11
●まちかどトピックス………………12 〜 13
●お知らせ広場………………………14 〜 25
●まちかどトピックス ほか……………26
や
ざ
わ
お
い の ち
さ
む
見附が生んだ 生命の詩人
矢沢宰
少年
光る砂漠
影をだいて
少年は魚をつる
青い目
ふるえる指先
少年は早く
魚をつりたい
「ぼくは矢沢宰の詩が好きでたまらない」
。
漫画家・やなせたかしさん(故人)が編集長を務めた
「詩とメルヘン」の中で、そう述べている。
歳という若さでこの世を去った、見附が誇る詩人、矢沢宰。
詩「少年」は、やなせさんが愛した矢沢宰の詩の一つだ。
矢沢宰は、
『一般の人にわかる詩、そしてそこから勇気と感動を……
そんな詩を私は作りたい』
(日記の一節)と願いながら、
その短い生涯を閉じるまで、詩を作り続けた。
今回の特集では、彼の生涯と詩、そして、矢沢宰が
私たちに残してくれた精神について考えてみたいと思う。
会う
文 芸 部 に 入 る。
―日記から―
中原中也の詩を読む。芥川全集を読む。現代詩の難解
なるものは、私は反対というか、自分としては嫌いだ。
現 代 詩 も い い、 で も も っ と み ん な に わ か る 詩 が い い。
(略)勉強している人ではなく、批評家ではない、一般
の人にわかる詩、そしてそこから勇気と感動を……そ
(昭和三十五年一月五日)
尾 高 校 文 芸 部 か ら は 遺 稿 集 「そ れ で
記 を つ づ っ た。 こ れ ら は 翌 年、 栃
宰 は、 死 と 向 き 合 う 苦 し み、 恐 怖
との闘いの中で500編もの詩と日
常に開けていて、誰でも自由に入れ
め切るのですが、矢沢くんはドアを
に入ると、たいていの人はドアを締
矢沢くんは、三条結核病院では個
室で闘病生活をしていました。個室
考えて生きていました
彼はずっと、どう生きるかを
んな詩を私は作りたい。
順 調 な 学 校 生 活 を 送 る 中、 高 校 2
年 生 の 2 月、 腎 結 核 が 再 発。 三 条 結
一人の人間として……
し て 答 辞 を 読 む が、 そ の 後 激 し い 血
核 病 院 に 再 入 院 す る。
小道がみえる……
尿 に 倒 れ、 直 ち に 県 立 三 条 結 核 病 院
療 養 生 活 を 繰 り 返 し、 1 年 遅 れ て
上 北 谷 小 学 校 を 卒 業。 卒 業 生 を 代 表
見附には、病気と闘いながら、
年のときを一人の人間として懸命に
日、 劇 症 肝 炎 を 発
小 児 科 に 入 院 す る。 こ こ で、 主 治 医
も 」、 主 治 医 だ っ た 吉 住 昭 さ ん な ど
谷 村 河 野 (現 ・ 見 附 市 河 野 町) に 引
き 揚 げ る。 戦 争 が 終 わ る と、 父 も 帰
大きな革命
め る。
昭 和 年 5 月、 病 院 付 属 の 三 条 養
護 学 校 中 学 部 に 通 い 始 め る。 翌 年 に
と し て 発 行 さ れ た。 昭 和
周郷 博
お茶の水女子大学教授
まったく新しい現代のものだ。
多くの詩人たちをも超えて、
大きく深い調べがあり、
君の詩は、伝説のように
子のうた 」欄で紹介すると、たちま
ち 全 国 的 な 反 響 を 呼 び 起 こ し た。
43
現 地 召 集 に か か り、 母 と 古 志 郡 上 北
は、中学部1年から3年に「特進」。
博 お 茶 の 水 女 子 大 学 教 授 (故 人) が
18 歳 吉住昭医師に合格報告へ
の歌を作詞したりしていましたね。
に 投 書 し た り、 生 徒 会「 わ か ば 会 」
学校に行ってからも、いい友人に
囲 ま れ、「 ポ プ ラ 」 と い う 学 校 新 聞
生きていました。
「詩人になりたい」と希望を持って
と自分の将来、どう生きるかを考え、
普通はないのでしょうが、彼はずっ
ね。重い病気で詩を書く余裕なんて
いと合わせ鏡をして見ていました
詩を書いていました。より広く見た
彼はベッドの上で安静にしている
間、 窓 か ら 見 え る 景 色 を 見 な が ら、
もたくさんの人がいましたね。
遊んでいました。彼の周りにはいつ
かの子どもたちが個室に入ってきて
寝ているときでも、入院しているほ
るようにしていました。だから彼が
還 す る。
2 年 間 で 中 学 部 を 卒 業 す る。 同 時 に
小学校卒業後、入院当時
有志の手からは遺稿詩集 光「る砂漠 」
年、 周 郷
上 北 谷 小 学 校 2 年 生 の と き、 家 の
そ ば の 神 社 で 遊 ん で い る と き に、 雪
「光る砂漠」の詩を毎日新聞の 母
「と
38
36
き た か っ た 県 立 栃 尾 高 校 に 入 学 し、
年、 宰 が 最 も 行
三 条 結 核 病 院 も 退 院 し、 5 年 ぶ り に
それから
歳 の 若 さ で こ の 世 を 去 る。
年3月
生き、その証を残した矢沢宰という
で 人 生 の 師 と な る 吉 住 昭 さ ん と、 詩
を書くきっかけになった看護師のT
さ ん に 出 会 う。 絶 対 安 静 の 日 が 続 く
遠間 保さん
の 上 を 真 っ 赤 に 染 め た 血 尿 で、 発 病
歳の秋から詩や日記を書き始
11
実 家 に 帰 る。 昭 和
中、
21 41
に 気 づ く。 腎 結 核 が 発 病 し、 右 腎 の
昭 和 年 5 月 7 日、 矢 沢 宰 は 中 国
江 蘇 省 で 生 ま れ る。 ま も な く、 父 が
少年
詩人がいた。
昭和
症 し、
21
2
2013.12 ●広報見附
2013.12 ●広報見附
3
19
摘 出 手 術 を 受 け る。
生後 100 日目
14
三条養護学校時代の担任
21
矢沢宰とやなせたかし
てそこから勇気と感動を……そんな
は な い、 一 般 の 人 に わ か る 詩、 そ し
漫画家・絵本作家で知られるやな
せ た か し さ ん (故 人) は、 詩 人 と し
詩 を 私 は 作 り た い。
昭
( 和 三 十 五 年 一 月 五 日)
て も 活 躍 し、 長 年、 詩 と 絵 と 漫 画 を
絵 本 形 式 で ま と め た 雑 誌 「詩 と メ ル
ヘン」の責任編集を務めていました。
ぼくの考えていることとまったく
そっくりそのままだ。ぼくは「詩と
こ の や な せ さ ん の 心 を、 矢 沢 宰 の 詩
は つ か ん で 離 し ま せ ん で し た。
に、 わ、 か、 る、 詩、を目指した。
んだけど、詩の広がりが非常に広い。
で、 し か も 難 し い 言 葉 は 一 つ も な い
な ん で す ね。 書 い て い る こ と は 単 純
持っていきたいぐらいよくできた詩
ル な ど が 展 示 さ れ て い ま す。 ま た、
依 頼 を 受 け て 書 い た 「少 年」 の パ ネ
て 描 い た 絵 や、 過 去 に 大 阪 の 高 校 の
で 矢 沢 宰 の 詩 「再 会」 を イ メ ー ジ し
現 在、 ネ ー ブ ル み つ け の 矢 沢 宰
コ ー ナ ー に は、 や な せ さ ん が 番 組 中
ぼくは矢沢宰の詩が好きでたまら
ない。 (一部抜粋)
そ し て 「詩 と メ ル ヘ ン」 で は 既 に
八 回 矢 沢 宰 の 詩 を 掲 載 し て い る。
メルヘン」を創刊する時、一、 般、 の、 人、
や な せ さ ん は、 平 成 6 年 に 放 送 さ
れ た、 N H K ‐ B S 系 列 の テ レ ビ 番
組 の 中 で、 矢 沢 宰 の ふ る さ と で あ る
上 北 谷 地 区 を 訪 れ た と き に は、 矢 沢
宰 の 詩 「少 年」 に つ い て こ う 語 っ て
い ま す。
「 も し ぼ く が、 日 本 の 現 代 詩 の 詩 集
「 青 い 目 」 と 書 い た こ と で、 色 彩 が
矢沢宰の描いたスケッチや毛糸絵を
を 選 ぶ と す れ ば、 こ の 詩 を ト ッ プ に
入 っ て、 ル ソ ー の 絵 を 見 る よ う な き
やなせさんに額装していただいたも
日㈰まで期間限定で公
れ い な 感 じ に な っ て い ま す」
月
開 し て い ま す。
の を、
ま た、 雑 誌 『詩 と メ ル ヘ ン』 の 矢
沢 宰 特 集 の 中 で、 日 記 の 一 節 を 引 用
き 方』 を 子 ど も た ち に 伝 え た い と い
継承していくのでなく、矢沢宰の『生
「 実 行 委 員 会 は、 た だ 矢 沢 宰 の 詩 を
語 っ て い る。
実行委員会と矢沢宰賞についてこう
同実行委員会顧問の渡辺金一さんは
会 ・ 1 9 9 8 年 の 矢 沢 宰」 も 上 演 さ
平 成 年 に は、 み つ け 演 劇 セ ミ
ナーが第1回の公演として、演劇「再
あ る。
れ た 際 に、 優 秀 賞 を 受 賞 し た も の で
市主催で合唱組曲の全国公募が行わ
れている。この曲は、平成6・7年に、
し、 次 の よ う に 述 べ て い ま す。
う 思 い で 活 動 を し て い ま す。 矢 沢 宰
れ た。 そ し て 今 年 も 「矢 沢 宰 生 命 の
ぜ ひ、 漫 画 家 ・ や な せ た か し と、
詩人・矢沢宰の共演をお楽しみくだ
賞 に つ い て も、 矢 沢 と 同 じ よ う に 子
詩 の 集 い」 の 中 で、 3 年 連 続 と な る
さ い。
どもたちが自分と向き合って詩を書
―矢沢宰の日記から―
勉 強 し て い る 人 で は な く、 批 評 家 で
私の中で……
風が
あなたのふるさとの風が
橋にこしかけて
あなたのくる日を待っている
【限定公開】
同セミナーによる矢沢宰をテーマに
チが飾ってあります。
く こ と を 通 し て、 価 値 を 見 出 し て も
イメージして描いたパネルやスケッ
し た 演 劇 が 上 演 さ れ て い る。
ほかにもやなせさんが矢沢宰の詩を
ら い た い と 続 け て き た も の で す」
パネル。ネーブルみつけには、この
象 者 を 拡 大 し た。 現 在 で は、 全 国 の
矢 沢 宰 賞 は、 創 設 当 初、 県 内 の 特
殊 学 校 を 対 象 に 詩 を 募 集 し、 年 々 対
現 在 も、 矢 沢 宰 の 詩 と 彼 の 生 き 方
は、 市 内 を は じ め、 全 国 各 地 で さ ま
うた
大 阪 市 立 聴 覚 特 別 支 援 学 校 中 学 部
3年 西田奈緒
「夏恋花火」 福島県立会津養護学校 高等部2年
本間優華
「家族」
「ドア」 見附市立見附中学校 2年 青木紫苑
栃 木 県 立 の ざ わ 特 別 支 援 学 校 高 等
部2年 小川斐花
「ぼくのあこがれ」 燕市立小池小学校 3年 竹田航汰
「ひこうき雲」
●奨励賞・ポプラ賞
「広い海」 見附市立見附中学校 2年 宮嶋和佳奈
●最優秀賞・ポプラ賞
回矢沢宰賞
私たち一人ひとりの中で、今もさま
ど か ら 作 品 を 募 っ て い る。 今 年 も、
いのち
月1日にアルカディアで開催され
回 「矢 沢 宰生 命 の 詩 の 集 い」
第
ざ ま な 形 と な り、 生 き 続 け て い る。
10
小 ・ 中 ・ 高 等 学 校、 特 別 支 援 学 校 な
矢 沢 宰 の 死 後、 彼 の 詩 と 精 神 は、
合 唱 曲、 演 劇 な ど 多 方 面 に 広 が り、
やなせたかしさん作 詩「少年」の
20
ざまな風が生み出されている。
昭 和 年 以 降、 矢 沢 宰 の 詩 集 や 日
記 は、 周 郷 博 教 授 を は じ め、 さ ま ざ
た、第
の中で、矢沢宰賞の表彰式が行われ、
矢沢宰の詩を朗読する場面(練習風景)
。
新 た な 詩 人 の 誕 生 を 祝 っ た。
ふるさとへの道~」
。主人公の女の子が
糸絵。やなせさんが額装した、この毛糸
絵と 2 枚のスケッチをネーブルみつけ
で期間限定で公開中(12 月 15 日㈰ま
で)。ぜひお見逃しなく!
やなせたかしさん
アンパンマンの作者で有名。やなせさんは、漫画家、絵本作家だけ
でなく、代表作「手のひらを太陽に」を生み出すなど、詩人として
も活躍。詩と絵と漫画を絵本形式でまとめた雑誌「詩とメルヘン」
を創刊し、長年、責任編集を行っていました。今年 10 月 13 日、
を願っています」(高野教諭)
の生きる力への道しるべとなること
の詩が、今、当校で学ぶ子どもたち
きっと見つけられると思います。彼
るはずです。自分の宝物になる詩が
春期の子どもたちの心の琴線に触れ
しまっていました。矢沢の詩は、思
に触れる機会がほとんどなくなって
いるのに、現在学校では矢沢宰の詩
「こんなに素晴らしい人が卒業生に
れればいいと思います」
(長澤教諭)
に少しでも矢沢の息吹が伝わってく
ば会』の歌を復活させ、子どもたち
それが最近、見つかりました。
『わか
な っ て、 楽 譜 の 行 方 も 不 明 で し た。
歌がいつからか学校で歌われなく
徒会『わかば会』のために作詞した
ループで調べています。矢沢宰が生
な い も の と し て、 改 め て 教 員 の グ
「矢沢宰の詩と生き方は掛け替えの
触れる機会を増やしたい
生 徒 た ち が、 先 輩 矢 沢 宰 に
心不全で死去されました。
長澤 忍教諭・高野伸子教諭
15
術大学教授(故人)によって合唱組曲
委員会が発足し、「矢沢宰賞」を創設。
みつけ演劇セミナーによる演劇「見附~
団 で 歌 わ れ る も の と な っ た。
年 の 回 忌 に は、 墓 地 に
昭和
詩 「風 が」 が 刻 ま れ た 墓 碑 が 建 て ら
平 成 5 年 6 月 に は、 矢 沢 宰 の 生 誕
周 年 を 前 に、 矢 沢 宰 記 念 事 業 実 行
「少 年」 の 詩 碑 が 建 て ら れ て い る。
う人々の協賛を得て大平森林公園に
文 芸 協 会 に よ り、 全 国 の 矢 沢 宰 を 慕
れ た。 ま た、 平 成 3 年 に は、 見 附 市
13
吉田特別支援学校(旧三条養護学校)
12
20
「光る砂漠」が作曲され、全国の合唱
年 に は、 萩 原 英 彦 東 京 芸
12
市 内 小 学 校 の 音 楽 祭 で は、 毎 年、
「一本のすじ雲」の全員合唱が行わ
る。 昭 和
まな人の手によって刊行されてい
43
46
54
4
2013.12 ●広報見附
2013.12 ●広報見附
5
50
やなせたかしさんが額装した矢沢宰の毛
帰 っ て み た い 入道雲
大男になって
またいだり
よじ登ったり
4. 矢沢宰の墓碑
3
今日は⋮⋮
今日は十二月三十一日。
記録的な大雪。
平野は雪に埋もれ。
ますます
家も木も雪に埋もれ。
病室のカベは増々白くなり。
おさむも埋もれてしまいそうです。
お母さん。
小道がみえる⋮⋮
小道がみえる
白い橋もみえる
みんな
6. 大平森林公園
6
思い出の風景だ
しか
矢沢宰のスケッチ ( 複製)の展示。宰は詩と日
記のほか、数冊のスケッチブックも残した。
2
こ
然し私がいない
ど
5. 上北谷公民館(旧上北谷小学校跡)
5
詩「少年」が刻まれた詩碑。平成 3 年に、全
国の矢沢宰を慕う人々から協賛を得て建立。
いっきにかけおりたりして
3. ネーブルみつけ 矢沢宰コーナー
1
13 回忌に建てられた。詩「風が」が刻まれて
いる。今も全国から矢沢宰を慕う多くの人が訪
れ、手を合わせる。
ふるさとへ帰りたい
「ふるさと」と
矢 沢 宰 の 詩 に は、
いう言葉が多く使われている。病室
のベットの上に横たわりながら、何
度も帰りたいと願った、ふるさと見
附。市内には、上北谷地区をはじめ、
矢沢宰のゆかりの地が存在する。
河野町の神社の近くに矢沢宰の生
家はある。そのほど近くには、宰の
墓があり、今も宰の詩を慕う人々が
全国から訪れる。市内には、ほかに
も大平森林公園や、ネーブルみつけ
など宰のゆかりの地がある。
上 北 谷 地 区 で は 、 今 年 度 、 宰のゆ
かりの地を結ぶウォーキングロード
の整備が予定されている。彼の愛し
たふるさとを歩きながら巡れば、新
たな発見があるかもしれない。
武器
ぼくは天才 少 年 で は な い か ら
ぼくの持っ て い る も の だ け を
ぼくにあう よ う に
つまみだせ ば い い の さ
するとそこ に 小 さ な 真 実 が 生 ま れ る
その小さな 真 実 を
恥かしがる こ と は な い の だ よ
その小さな 真 実 を
どっこいしょ! と背負って
旅をすれば い い の さ
あなたの 手
あなたの手 は
握りしめる と あ た た か く な る 手 だ
矢沢宰の詩や生涯について知ることができる。
関連資料・書籍なども展示。
4
私は何処へ行ったのだ?
今 か ら 年 前 の 3 月 日、 歳 と
い う 若 さ で 詩 人、 矢 沢 宰 は こ の 世 を
去 っ た。 宰 は 来 年 5 月、 生 誕
て く る。
年を
とふるさとがこれまでと違って見え
宰 が 愛 し た、 私 た ち の ふ る さ と 見
附。 彼 の 詩 を 知 れ ば 知 る ほ ど、 き っ
る。
くの人の心に勇気と感動を与えてい
時 を 越 え て 今 で も、 輝 き を 放 ち、 多
でみずみずしい詩の数々。これらは、
れ、 愛、 希 望、 自 然 を 歌 っ た、 純 粋
続 け た 精 神 の 力 強 さ。 生 命 力 に あ ふ
絶 望 の 直 前 に 身 を 置 き な が ら、 決
し て く じ け る こ と な く、 病 気 と 戦 い
迎 え る。
21
70
11
平成 9 年に取り付けられた体育館の側面に展
示された詩「少年」「武器」などの壁画。
そして私の愛は
地元の偉人 矢沢宰の生き方を学ぶ
上北谷小学校
矢沢宰の出身校である上北谷小学校では、毎年、6 年生が総合学習の時間に矢
沢宰について学んでいて、今年度は一学期からこの学習に取り組んでいる。写真
は、三条養護学校時代の担任だった遠間保さんからお話を聞いている様子。
6年担任の大滝みどり教諭は「矢沢宰の人生を学ぶことで、子どもたちは希望
を持つこと、あきらめないこと、努力することを学んでいます。また、普段は考
えない、生きること、生と死について真剣に向き合うことで、これからの人生、
今現在の生き方を考えるきっかけになっているようです」と話していた。
6 年生は、1月 29 日㈬、学校で行われる学習発表会で、矢沢宰について保護
者や地域の人に発表する予定だ。
48
2. 諏訪神社
矢沢宰が小学 2 年生のとき、雪の上で小便をし、
赤く染まったことで発病に気づいた場所。
6
2013.12 ●広報見附
2013.12 ●広報見附
7
あなたの手 は
あたためる と ひ よ こ が 生 ま れ る 手 だ
矢沢宰 ゆかりの地めぐり
1. 上北谷小学校
姉妹都市マイリンケ市を訪問
歓迎! 友好 年を祝い市民と交流
絶賛! 見附の防災の仕組みを紹介
月下旬、久住市長をはじめとした総勢 人の訪問団が、姉妹都市のブラジル・マイリンケ市を訪れました。
訪問団は、市民の力が支える見附市の防災の仕組みをマイリンケ市に伝える事業を中心に、今年で姉妹都市
提携 周年を迎えた記念式典に参加するなど、多面的な交流を行ってきました。
地 球 の 裏 側 の お 友 達 オ ラ シ オ・ ヒ ベ イ ロ 校
を訪問
市防災担当職員が見附市
の防災の取り組みを紹介す
る 講 演 を 行 い ま し た。 内 容
は、 見 附 市 の 防 災 ・ 減 災 の
仕 組 み、 防 災 訓 練 の 様 子、
消 防 団 活 動、 見 附 市 の 防 災
教 育 な ど 6 テ ー マ。 マ イ リ
ン ケ 市 の 関 係 職 員、 サ ン パ
ウ ロ 州 の 防 災 担 当、 軍 ・ 消
防・警察関係者や市民など
3 0 0 人 が 集 ま り ま し た。
講演後には活発な質疑もあ
り、 関 心 の 高 さ が う か が わ
れ ま し た。
コミュニティや市民の
力に支えられた見附の
防災のしくみを講演
防災
マイリンケ市内では急傾
斜 地 の 住 宅 立 地 が 多 く、 土
砂崩れと洪水の危険地帯が
確 認 さ れ て い ま す。 マ イ リ
ンケ市の担当者は訪問団に
地域の状況や市の防災対策
を 説 明 し、 そ れ に 対 す る 見
附市からのアドバイスに真
剣 に 耳 を 傾 け て い ま し た。
まず何よりも市民の防災意
識の醸成が大切であると意
見 が 一 致 し ま し た。
マイリンケ市の災害危
険地域を視察
マイリンケ市長、現地の日系人の方たちをはじめ、多くの市民から歓迎を受け、地球の反対側にも多くの
友人がいることを実感できた意義深い訪問となりました。
熱烈歓迎とおもてなし
見 附 市 の 訪 問 団 は、 歓 迎
式 典、 姉 妹 都 市 提 携 周 年
記 念 式 典 な ど に 参 列。 ど の
式典にも市民が多く集ま
り、 歓 迎 と お 祝 い ム ー ド で
盛 り 上 が っ て い ま し た。
ま た、 マ イ リ ン ケ 市 日 伯
文化協会主催の歓迎会に招
待 さ れ、 多 く の 日 系 人 の
方 々 か ら、 手 作 り の 料 理 で
熱烈なおもてなしを受けま
し た。 特 に 日 系 の 方 た ち と
はすぐに打ち解けることが
で き 、「 こ の 料 理 お い し い
で し ょ 」「 前 に 会 っ た ○ ○
さ ん は 元 気 ? 」「 今 度 は 見
附 に 来 て ね」 と 会 話 も 弾 ん
で い ま し た。
マイリンケ市を南北に走
る 「 AVENIDA MITSUKE
( 見 附 大 通 り )」 は 市 内 の 主
要 道 路 の 一 つ。 市 民 の 生 活
」が
の 一 部 に 「 MITSUKE
刻 ま れ て い ま し た。
ま た、 市 内 の 日 本 庭 園 で
は、 久 住 市 長 と マ イ リ ン ケ
市のメルギーゾ市長がムラ
サ キ イ ペ と サ ク ラ を 植 樹。
年前の訪問団が植えたパ
オブラジルの木も見つける
こ と が で き ま し た。
訪 問 団 は 「ま た、 木 の 成
長 を 見 に 来 た い ね」 と 友 好
の証しに感激しきりでした。
姉妹都市で見る友好の
証し
40
8
2013.12 ●広報見附
2013.12 ●広報見附
9
マイリンケ市民との交流の様子。久住市長(中央)の向かって左がメルギーゾ市長。
【訪問団メンバー】
・久住時男 市長
・久住裕一 市議会議長
・佐々木志津子 見附市国際交流協会会長代理(市
議会議員)
・公募参加者 6人(小林伸一議員、井上慶輔議員、
小泉勝議員ほか)
・市職員 5人(防災担当、消防、学校教育担当ほか)
ブラジルでは、2011 年に大規模な土砂災害が発生し
たことを機に防災対策に力を入れていて、マイリンケ市
が新しい防災対策を模索していたところ、偶然にも JICA
(国際協力機構)が、防災対策で一定の成果を上げていた
見附市を紹介したことで、両市間の防災協力事業につな
がりました。
今回の訪問では、災害危険地域の視察と防災対策の講
演を行い、「住民自身に災害リスクを認識してもらうこと
が必要」
「州から市に届く気象情報やリスク予想の情報を、
いかに住民に届けるかが課題」
「防災・減災にはコミュニ
ティや地域の力が不可欠」とアドバイスを行ってきまし
た。マイリンケ市の防災担当職員からは「マイリンケ市
の防災体制は見附市には全然及ばない。見附から学び、
市民が参加する防災体制を構築したい」とコメントがあ
りました。
来年は6月15日㈰に実施する見附市防災訓練の視察
に、マイリンケ市から多くの市民が訪れることになって
います。地球の反対側という一番遠い距離にありますが、
心は近く、熱い交流が続いていくことになります。
40
名木野小学校と姉妹校で
あ る オ ラ シ オ・ヒ ベ イ ロ 校 。
久しぶりの見附市との交流
と い う こ と も あ り、 多 く の
児童や地域の人たちが出迎
え て く れ ま し た。 互 い に、
児 童 が 描 い た 絵 画 や 書、 学
校の様子がわかる写真など
を 交 換 し、 カ シ ミ ー ロ 校 長
は 「ぜ ひ、 ま た 名 木 野 小 学
校と交流をしたいですね」
と 抱 負 を 語 っ て い ま し た。
「防災」でつながる見附市とマイリンケ市
「MAYRINK BOUSAI
2013」 と 名 付 け ら れ
た講演会は質疑などを
合わせて9時間に及び
ました。
14
40
交流
「Avenida Mitsuke(見附大通り)
」の前で記念撮影
姉妹校同士のプレゼント交換が行われました
マイリンケ市役所での歓迎式典
オラシオ・ヒベイロ校の子どもたち
災害リスクが高い急傾斜地を視察
10
40
Fly UP