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歴史・文化Bグループ
どこか懐かしき 古民家を訪ねて 平成 27 年 2 月 行田市民大学第 6 期生 歴史・文化B;グループ『のぼう』 グループリーダー;清田 耕三 サブリーダー;佐野 メンバー;加藤 泉 桜井 邦夫 佐瀬 和行 嶋田 茂 小西 澄 笹木 夏江 正昭 関根 良一 1. はじめに 『古代のロマンと歴史の街』を謳う我が行田市に於いて、さきたま古墳群や忍城等の歴史学的資産 は数多くのメディアを通じて紹介され、その価値観を容易に伺い知ることができます。 また、文化を理解するための民俗学的資産は『郷土博物館の陳列品』や『文化財指定の歴史的建造 物』等で多々紹介されています。 しかし、市内に普通に存在する『古民家』を語る日常的な資料は少なく、何処で紹介されているの か?知る人は少ないと思われます。 そのような中にあって、古民家は木造であるが故に、年々減少して行く現実に危機感を抱き私達「歴 史・文化 B グループ」は、研究テーマとしてこの『古民家』を取り上げ、 第 1 章 市内の古民家実態調査 ① 大正以前の古民家を実態調査する。 ② 平成 6 年度の古民家実態調査との経年変化を確認する。 ③ 現存する古民家の情報を収集し、資料として残す。 第 2 章 古民家の住まいと年中行事 ① 古民家を訪ね建物内部や庭園等の調査 ② 正月大晦日のミソカッパレまでの行事調査 第 3 章 付言事項(活動記録) ① 研究課題の検討とまとめ ② 外部講師による講座 ③ 荒木公民館「歴史講座」 以上をまとめることにより、僅かでも市民の皆様にお役に立てればと考えて活動しました。 -1- 第 1 章 市内の古民家実態調査と分析 1.古民家の文化財について (1) 古民家について 古民家と云われると『合掌造り(白川郷・五箇山)』 『曲屋(遠野)』 『室町時代に建てられたとさ れる「箱木千年家」 』等の茅葺屋根の旧家や埼玉県では小江戸と云われる『川越の蔵の町』を思い 浮かべるのではないでしょうか? 白 川 郷 岩手県遠野 兵庫県神戸市北区「箱木千年家」 古民家とは、民家のうち、特に建造されてから時を経たものをいう。どの時代に建てられたも のか、あるいは建造され何年を経たものを指すかの定義はないが、通常は戦前以前のもの、特に 大正以前のものをさす場合が多い。また、その建築方式が釘などを使わない伝統的日本建築で建 てられた建物を特定することが多い。 最近の日本では、こうした伝統的軸組工法の合理性、耐久性が見直されつつあり、取り壊され る寸前の古民家を再生する試みなども多く行われています。背景には、伝統的町並みの喪失、環 境問題、日本人のアイデンティティーなどの問題意識が、最近になって日本人にようやく芽生え て来たことがあります。 屋根は、本来は主に茅葺が多いが、草葺などもあります。最近はその上にトタンを貼ったもの や、葺き替えて作られた、瓦葺、瓦棒葺、トタン葺などが多くなっています。しかし、老朽化や 住人の高齢化に伴い取り壊される建築が多くなっています。 古民家に使われている木材は、現在のハウスメーカーに代表される安易な方法とは異なり、い わゆる適材適所が採用され、腐りやすい部分には欅、栗、檜などが使用され、梁には強度の高い 松、内装には杉などの目に優しく木目の美しい木材や、調湿効果に優れた素材が使い分けられて います。このため、メンテナンスさえ怠らなければ、200 年から 300 年は持つように作られている。 (2) 文化財保護法における古民家 ① 『文化財保護法』の制定の契機 昭和 24 年 1 月 26 日の法隆寺金堂の火災により、法隆寺金堂壁画が焼損した。これをきっかけ に、従前の史跡名勝天然記念物保護法(大正 8 年法律 44 号)、国宝保存法(昭和 4 年法律 17 号) 、 重要美術品等の保存に関する法律(昭和 8 年法律 43 号)などを本法に吸収して、総合的な法律と して、議員立法により本法が制定されました。 ② 『文化財保護法』の目的 文化財保護法(昭和 25 年 5 月 30 日法律第 214 号)は、文化財の保存・活用と、国民の文化的 向上を目的とする日本の法律であります。この法律では、有形・無形の文化財を分類し、その重 要性を考慮して、国の場合は文部科学大臣または文化庁長官、都道府県の場合は都道府県知事、 市町村の場合は市町村長による指定、選択、選定、認定あるいは登録により、文化財の保護のた -2- めの経費の一部を公費で負担することができます。 ③ 『文化財保護法』の構成 第一章 総則(1 - 4 条) 第二章 削除 第三章 有形文化財 ・第一節 重要文化財 第一款指定(27 – 29 条) 第二款 管理(30 - 34 条) 第三款 保護(34 条の 2 - 47 条) 第四款 公開(47 条の 2 - 53 条) 第五款 調査(54・55 条) 第六款 雑則(56 条) ・第二節 登録有形文化財(57 - 69 条) ・第三節 重要文化財及び登録有形文化財以外の有形文化財(70 条) 第四章 無形文化財(71 - 77 条) 第五章 民俗文化財(78 - 91 条) 第六章 埋蔵文化財(92 - 108 条) 第七章 史跡名勝天然記念物(109 - 133 条) 第八章 重要文化的景観(134 - 141 条) 第九章 伝統的建造物群保存地区(142 - 146 条) 第十章 文化財の保存技術の保護(147 - 152 条) 第十一章 文化審議会への諮問(153 条) 第十二章 第一節 補則聴聞、意見の聴取及び不服申立て(154 - 161 条) 第二節 国に関する特例(162 - 181 条) 第三節 地方公共団体及び教育委員会(182 - 192 条) 第十三章 罰則(193 - 203 条) ④ 文化財保護法の一部を改正する法律(文化財登録制度の導入) 平成8年10月1日に施行された文化財保護法の一部を改正する法律によって、保存及び活用に ついての措置が特に必要とされる文化財建造物を、文部科学大臣が文化財登録原簿に登録する「文 化財登録制度」が導入されました。 この登録制度は、近年の国土開発や都市計画の進展、生活様式の変化等により、社会的評価を受 けるもので、まもなく消滅の危機に晒されている多種多様かつ大量の近代等の文化財建造物を後世 に幅広く継承していくために作られたものです。これは届出制と指導・助言・勧告を基本とする緩 やかな保護措置を講じる制度であり、従来の指定制度(重要なものを厳選し、許可制等の強い規制 と手厚い保護を行うもの)を補完するものです ⑤ 文化財保護強化月間 毎年11月1日から7日までの1週間は「文化財保護強調週間」です。この期間中には、都道 府県や市町村の教育委員会を中心に、文化財に親しむことを目的とした文化財の公開や史跡めぐ り、芸能発表会などの様々な行事が開催されます。 -3- 文化財は国民共有の貴重な財産です。皆様の身近なところでも関連行事は行われていますので、 この機会を利用してぜひ様々な行事に参加し、日本の歴史や文化に触れてみませんか! 行田市では、平成 26 年 10 月 31 日(金)『近代化遺跡めぐり』・同年 11 月 19 日『古代史跡・文 化財めぐり』が実施され、参加された方もいたのではないでしょうか? 足袋をはいて足袋蔵を旅しよう 文化庁のポスター 第 51 回文化財保護強化週間(文化庁ホームページより) (写真提供:行田市教育委員会) 古代史跡・文化財めぐりに参加して H26 年 11 月 19 日 八幡山古墳にて ⑥ 埼玉県内の国指定重要文化財(古民家関係;文化庁ホームページより) 平山住宅 高麗家住宅 旧高橋家住宅 小野家住宅 旧新井家住宅 大沢家住宅 ⑥大沢家住 宅 -4- ⑦ 内田家住宅 和井田家住宅 吉田家住宅 行田市国登録有形文化財(行田市ホームページより) 旧小川忠次郎商店 十万石ふくさや 武蔵野銀行行田支店 旧荒井八郎商店 高澤家住宅 大澤家住宅旧文庫蔵 ③ 浮き城のまち景観賞受賞古民家 浮き城のまち景観賞委員会は、建築物や自然景観、街並みなど、行田市内に数多く存在する景 観資源を掘り起こすことにより、行田の魅力を市内外に向けて広く発信するとともに、景観ま ちづくりへの意識を高め、美しい景観づくりに寄与することを目的とする「浮き城のまち景観 賞」の被表彰者を決定するため、審査を行っています。 平成 18 年度を初回として、前記の趣旨に従い受賞されたものの中で、古民家に関わるものは 以下のとおりです。 第1回 満る岡 第1回 -5- 高澤邸 第2回 栗原医院 第2回 第3回 割役庄屋表門、 横田酒造 第3回 彩 々 亭 中門 第4回 忠次郎蔵 第4回 武蔵野銀行行田支店 第 5 回 内田家長屋門 ※ 上記写真は行田市ホームページより 2.行田市文化財保護課からの古民家調査のアドバイス(平成 26 年 7 月 22 日) A、古民家は個人のものであるため、調査に際しては困難が予測される。 B、平成 6 年文化財保護課が実施したことがあり、荒木地区および下忍地区に古民家が多く存 在していたことを記憶している。 C、古民家の年数的な定義はないが、平成 17 年 3 月 28 日付、「登録有形文化財登録基準」文 科省告示第 44 号によると、 a,原則として、50 年を経過したもの b,国土の歴史的景観に寄与しているもの c,再現することが容易でないもの D、文化財の重要度は、「国指定→県指定→市町村指定→国登録」の有形文化財の順による。 (国登録有形文化財は改修基準が緩やかある。指定の場合は改修が難しい) E、今年度、行田市として、古民家の実態調査を考えている。 3.行田市文化財保護課における古民家の調査状況 H6年度行田市文化財年報 (1) 古民家の調査に至る経緯 【文化財保護課に再確認】 「保護法の精神により自発的な調査、または文化庁の通達による」 (2) 平成 6 年度の調査実績の分析 平成 26 年 9 月 25 日、文化財保護課より、行田市文化財年報がある ことを教えて頂き、その中に『古民家の実態調査結果一覧表』が掲載 -6- されていました。そのデータに基づき、分析した結果が下表-「地区別・種類別・年代別・破損状 況別分析表」の通りです。 地区別・種類別・年代別・破損状況別分析表 種類 地区 箇所 住宅 物置 建てられた時代 平成6年の現状 平成6年の現状 二階建 一階建 全壊・ 良好 半壊 取り 空家 不明 金属 金属 瓦葺 瓦葺 藁・萱 使用 板葺 板葺 壊し き き 葺き 門・そ 江戸 明治 大正 不明 の他 き 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 北河原 酒巻 斎条 須加 白川戸 小見 荒木 谷郷 宮本 長野 持田 矢場 旭町 城西 忍 行田 若小玉 小針 下須戸 前谷 駒形 門井 棚田 下忍 堤根 樋上 埼玉 野 計 7 4 3 4 1 1 18 1 4 14 6 2 3 5 1 7 2 2 2 1 1 2 1 21 13 1 14 3 144 7 3 3 4 1 12 1 4 9 5 2 3 5 1 7 2 1 2 1 1 2 1 9 7 1 12 3 109 3 1 1 1 6 3 3 2 1 2 1 3 3 1 1 1 1 11 9 1 2 1 1 1 3 4 1 4 3 4 3 4 1 1 7 1 1 1 1 1 2 1 1 12 6 2 30 2 1 1 2 1 14 10 7 1 10 3 3 5 17 82 38 7 7 4 3 4 1 1 18 1 4 14 6 2 3 5 1 7 2 2 2 1 1 2 1 21 13 1 14 3 144 -7- 3 4 3 2 1 3 1 1 13 3 1 3 1 14 6 2 3 4 1 7 2 1 2 1 1 2 1 21 13 1 14 3 129 8 1 6 1 1 2 1 4 き 1 1 2 1 1 1 2 12 1 3 10 1 2 2 1 1 1 6 2 1 2 1 1 2 1 20 7 0 6 2 6 97 3 1 3 1 3 5 1 1 1 2 1 1 1 1 3 1 1 3 4 1 9 18 3 9 11 表-平成 6 年度古民家実態調査結果の分析 分 析 内 容 備 古民家は下忍、荒木、埼玉、堤根、長野で 80 棟 地 すべて周辺地域、以前は村として存続していた。 区 市街地の民家は少ない。時代ともに取り壊しされた。建物更新が早い。 別 考 80/144=56%占めている。 住宅として使用されていたのは 109 棟(76%)、物置等は少ない。ちなみに上記の 5 地区 は 49 棟(45%) 建築された時代は明治期が 82 棟(57%)古民家を建ててから100年以上経過して いる。 年 平成 26 年の現状はどうか? 代 荒木地区の現地調査結果により多くの古民家が建替、またはリフォームを行っているた 別 用 めと想定する。ただし、荒木地区は比較的当時のまま居住している家屋が見られた。 物置、納屋等は手入れが行き届かず、放置されている現状であった。 建物で居住・物置等として使用されているものは129棟 129/139=93%(門等は 除いた) 途 平成 6 年では93%の建物が何らかで使用されていた。(門、長屋門等は除く) 別 構 造 別 そ 木造瓦葺き(2 階・平屋)115 棟 =13% 111/139=80% 木造金属板葺き(2 階・平屋)18/139 10/139=7% 藁葺き、萱葺きが持田、埼玉、城西、斎条地区に 10 棟残っていた。 建物、屋根構造は瓦葺きが大部分をしめている。裕福な家が多かったことも想定される。 古民家を管理していくなかで屋根補修、葺替等で苦労している様子が見られる。また、 広大な家屋に対する維持費(補修費用、税金)で苦慮している様子が伺える。 の 他 4.荒木地区の歴史と古民家調査 前記の分結果より、①古民家が多く存在していること、また、②日光脇街道の宿場町として栄えた こと、さらに③地区で歴史の勉強会を実施しているほど郷土の歴史に強い関心を示している等を勘案 して『荒木地区』とし、平成 26 年 10 月 2 日荒木地区連合自治会長のご案内の下、家屋調査を実施し ました。 (1) 荒木地区の歴史的な出来事の推移 先ず、荒木地区の歴史的な出来事の理解を深めた上で、家屋調査を行うべきと考え、地元の『荒 木公民館「歴史講座」 』にも参加しました。 (平成 26 年 9 月・11 月平成 27 年 1 月の第 2 日曜日= 3 回) ① 古墳時代 愛宕神社古墳は、近年まで古墳と思われていたが、行田市文化財保護課の道路部発掘調査の結 -8- 果により、古墳でないことが分かった。 愛宕神社古墳 参考;浅間塚古墳(須加) ② 鎌倉時代 宝治元年(1247 年) 聖徳太子の立像(現存最古の作例) 西阿弥陀仏(毛利孝光)が両親、兄の菩薩を弔うために建立した。荒木村出身で親鸞(浄土真 宗の開祖)の高弟源海が、聖徳太子の信仰を盛んにした故。 天州寺聖徳太子堂 聖徳太子立像 ③ 戦国時代 A,寛正 6 年(1465 年)、荒木要害(小さな城)に小山常陸介らが籠城して古河公方勢を撃退し、 将軍足利義政より武功をたたえる書状が存在する。また。文正元年(1466 年)以降、荒木要害 は史料上確認できなくなる。 B,荒木四郎長善 伝えによると、先祖荒木兵庫頭は伊勢新九郎長氏(北条早雲;生 1456 年が有力視されてい る)と共に関東へ下った七人のうちの一人で、子孫荒木越前のとき、荒木村に住んで忍城主成 田下総守に属し、80 貫文で処遇されていたことは成田分限帳にも載っています。その子兵衛 尉(はじめは四郎と云う)長善は、天正十八年(1590)下総守氏長と共に小田原城に籠って討 ち死にしました。その後、忍城も落ちたので長善の館も破却されました。村内にある長善沼 はその館趾と云われ、長善の遺腹の子を村民らが養って、長じて八左衛門と名乗り、氏を北 岡と改めたと云う。この八左衛門は天洲寺を開基し、これより子孫が荒木村に土着し、今の 益次郎に至ると云う。しかし旧記など無く、ただ言い伝えだけなので、それが確かかどうか 分らない。(増補忍名所図会より) -9- 長 小 田 原 城 天 洲 寺 本 善 沼 堂 ④ 江戸時代から現在まで(地図や航空写真による集落の状況) 荒木地区は、明治 16 年に作成された迅速図を見ますと、現在の地形および街並みが形成されて いることが判明します。 明治 16 年 10 月 迅速図 (日本地図センターより購入) 江戸時代 (増補忍名所図会より) 昭和 22 年 11 月米軍航空写真 平成 26 年度航空写真 (国土地理院ホームぺージ) (YAHOO地図) -10- 荒木は昭和 22 年に市町村合併により行田市に編入しています。その頃の写真を『行田市史・資 料編・民俗資料集2(転載)』から見る事ができ、以下に示します。 昭和時代の荒木地区の街並み 荒木の昭和 20 年以前の写真 -13- 初代の荒木郵便局(昭和 5 年) 旧上町会館(昭和初期か?) -11- 荒木一座の団員(昭和 20 年初期) (2) 古民家の現地調査 ① 件名の実態報告 平成 26 年 10 月 2 日午前 10 時、荒木地区連合自治会長のご案内の下、グループ員 4 名が行田市 文化財年報『古民家の実態調査結果一覧表』に基づき、荒木地区 18 ヶ所の古民家を実態調査しま した。 その調査に際し、荒木地区連合自治会長の同行の下、古民家所有者のご協力を賜り、順調に調 査を完了することができました。その結果を下表『行田市荒木の古民家実態調査結果表』にまと め、その家屋の調査写真を掲載しました。また、調査中に所有者から聞き取りした内容を『古民 家調査時の主な聞き取り内容』に記載しましたので、是非、一読して戴きたいと思います。 行田市荒木の古民家実態調査結果表 No. 名 称 築 年 代 様 式 H6年時の現状 H6年時の状況 H26時の現状 H26年時の状況 現在はアパートが建ってい 半壊状態。外壁は土壁。 る。 1 A家住宅 明治時代 木造2階瓦葺 現在は空き家 2 B家農作業所 明治時代 木造2階瓦葺 現在は納谷とし 壁は土壁。半壊状態。 て使用 現在は納谷として使用 壁は土壁。半壊状態。 3 C家納屋 明治時代 木造2階瓦葺 物置として使用 破損著しい。 物置として使用 破損著しい。側面に傾きがみられる。 4 C家納屋 大正時代 木造2階瓦葺 物置として使用 保存状態は良好 物置として使用 保存状態は良好 5 D家住宅 江戸時代 木造平屋鉄板葺 部分的に修理・改造を施 現在も住宅とし している。藁葺の上に鉄 て使用 板を葺く。 現在も住宅(休憩所?)として 部分的に修理・改造を施している。藁 使用 葺の上に鉄板を葺く。 6 E家住宅 大正時代 木造2階瓦葺 現在は空き家 現在は夢知無恥(商店)に建 て替えられている。 7 F家住宅 大正時代 木造2階瓦葺 現在も住宅とし 保存状態は良好 て使用 現在も住宅として使用 保存状態は良好 8 G家住宅 明治時代 木造2階瓦葺 作業所、物置と 当初は蚕室として建てら して使用 れたとのこと 現在 幸望庵 デイサービスと して使用されている。 正面外観はリフォームしきれい。 9 H家納谷 明治時代 木造平屋瓦葺 納谷として使用 保存状態は良好。 納谷として使用 保存状態は良好。 状態は不良 保存状態は良好。内部を 現在も住宅とし 現在は新築住宅になってい 木造平屋鉄板葺 一部改造している。藁葺 て使用 る。 の上を鉄板で覆う。 10 I家住宅 江戸時代 11 J家住宅 明治時代 木造2階瓦葺 現在も住宅とし 保存状態は良好。2階は て使用 物置として使用。 住宅は建て替え?/納谷残存 納谷は壁が一部崩れている。 12 K家住宅 明治時代 木造2階瓦葺 現在も住宅とし 保存状態は良好。 て使用 現在も住宅として使用 保存状態は良好。(アルミサッシ使用、 側面一部鉄板張り。) 13 K家住宅 明治時代 木造2階瓦葺 物置として使用 保存状態は良好。 現在納谷として使用 屋根、壁は一部崩れている。 現在も住宅とし 木造平屋鉄板葺 保存状態は不良 て使用 現在も住宅として使用 保存状態は不良 現在も物置として使用 保存状態は良好 14 M家住宅 明治時代 15 N家住宅 大正時代 木造2階瓦葺 現在は物置とし て使用 16 N家納谷 明治時代 木造平屋瓦葺 納谷として使用 建築当初は藁葺き。状態 納谷として使用 はやや良好。 17 O家住宅 江戸時代 木造平屋瓦葺 納谷として使用 明治15年に大修理を施し 現在当時の建物は存在しな ている。 い。 18 P家住宅 明治時代 木造2階瓦葺 現在も住宅とし 保存状態は普通。 て使用 主な古民家調査写真 -12- 現在も住宅として使用 建築当初は藁葺き。状態はやや良 好。 保存状態は普通。 古民家調査時の主な聞き取り内容 ・ 築 200 年経過した住宅という母屋を案内されて、内部を見ると「柱や梁」がしっかりしている ことに驚いてしまった。また、現在も住居として使用しているという。 ・ 昨年、母屋は建替済みで想像することのみであったが、ご主人のご好意により母屋の裏にある 100 年以上経過した土蔵を見せて戴いた。また、母屋の解体時に「青石塔婆」が出て来たことか ら、屋敷の「お稲荷さま」と一緒に祀ったという。 ・ 明治時代の建物だろうか? 2 年前、母屋をリフォームし、福祉施設(ディーサービス)として、 活用しているという。部屋は6DKで「機能訓練室」が 3 室、「事務室」が 1 室となっていた。 また、2階にも部屋があるという。 ・ 昭和末期、母屋は建替えたという。西側には昔の母屋と思われる納屋が 1 棟と物置が 1 棟、さ らに土蔵が建ち並び、維持管理が行われて綺麗な佇まいであった。 ② 「前回調査」と「経年変化・消失」の分析 荒木地区の 20 年間の古民家の推移は、下記のグラフのとおりであります。 ・母屋は、H6 年度に比較して6棟、減少率 50%でありました。 ・納屋の1棟増加したのは、母屋が納屋として使用されたことによります。 ・農作業所は、変更なく使用されていました。 グラフ-古民家の推移 棟数 12 12 10 8 6 6 5 6 H6年度 H26年度 4 1 2 1 0 母屋 納屋 農作業所 5.行田市内の古民家の有効利用事例 (1) ディーサービス(幸望庵の例;峯川邸・小林邸) 昨今、ディーサービス介護施設が各地域に造られて運営されていますが、(株)サンハート様は回 想療法として古民家等を活用したディーサービスを行田・熊谷・鴻巣市等で営業しています。そ の中に行田市荒木・堤根の古民家を活用して営業している例を以下に記します。 ① 『和みの幸望庵』行田市荒木 2043-2 『和みの幸望庵』は、明治時代に築造された峯川邸(平屋部)の多室を活用し、3室の機能訓 練・食堂・休憩室等が機能的に配置されています。 -13- 『和みの幸望庵』の峯川邸 調査時、 『峯川邸の介護施設に改修した間取り図』を 見せて戴くと、部屋数の多さに驚きました。 この部屋はディーサービス施設として合理的に使用 目的に合わせ配置されていた。 ② 『愛の幸望庵』行田市堤根 1069-1 『愛の幸望庵』の小林邸は、明治時代の古民家で太い大黒柱・梁で築造されて、昭和中期まで 養蚕を 2 階で行っていたと云う。1 階 6 間をディーサービス業務に活用されています。 小林邸『愛の幸望庵』 平成 26 年 11 月 28 日写真撮影し、平成 27 年 16 日写真および原稿を確認して戴いた。 (2)飲食店(蔵の蕎麦屋・十万石・高澤記念館) 旧小川忠次郎商店・十万石「ふさや」 ・高澤家「高澤記念館」は多くのお客様がご来店になり、営 業している状況を以下の写真に示す。 蕎麦屋『旧小川忠次郎商店』 平成 26 年 11 月 19 日 写真撮影 古代史跡・文化財めぐり;昼食 十万石『ふくさや』 平成 26 年 11 月 19 日 店長様の御了解を得て写真撮影 -14- 高澤家「高澤記念館」 平成 27 年 1 月 11 日 写真撮影 (3) さきたま古墳公園の古民家の保存状況 さきたま古墳公園の敷地内には、遠藤家と山﨑家の2棟の古民家が建つていますが、山﨑家 の茅葺屋根は一部損傷している状態であります。 遠藤家;幸手市 山﨑家:行田市佐間 近々、解体される計画があるという (4) 古民家のリフォームによる活用事例 建築現場にて、大野建設(株)より設計思想を確認してみると、 ① 原則として、古材を使用する。ただし、劣化材に限っては部分的に新材を使用した。 ② 旧家の1階屋根は瓦葺であったが、建物の景観に合せて金属製の屋根にした。 ③ 建物は 120 年間耐える構造であることを確認してリフォーム工事を行った。 ④ 室内は快適な生活を送れるようにバリアフリーとした。(お住みになる方が60歳超) I家 (明治30年前後の建物) N家 (明治時代) 平成 26 年 11 月 7 日、茅葺屋根の葺 き替えは職人さんが千葉県松戸市か ら 3~4 人/日を投入し休日は雨天のみ で約 1 ヶ月半の工期で竣工しました。 また、茅は渡良瀬遊水地のものとのこ リフォーム工事 K家 (江戸時代) 古民家は、左側の建物が江戸時代に建 てられたもので、数年前に外装を修復した ものと思われる。 また、敷地内には子供のものと思われる 新築の建物があります とでした。 -15- O家 (明治時代) ご主人によると、明治 43 年大洪水 の際は、床の間ぎりぎりの所まで水 が来たとのこと。小屋には和船が軒 下にあり、昔は和船に乗り鴨を銃で 撃つ、鴨狩りを行っていたという。 第 2 章 懐かしき『古民家の住まい』と『年中行事』 第 1 章では、行田市における古民家が『何処にどのように現存しているか?』巡回調査した結果を列 記して来ました。 第 2 章では、行田市の一般的な古民家の敷地内に母屋・納屋・庭園等の付属建物がどのように配置さ れて活用されていたか? また、郷土の年中行事を調査し、記述することにします。 Ⅰ.懐かしき古民家の住まい 1、建物の配置 行田市は、 「市街地の商業」と「郊外の農業」とに大別されて家の造りが異なっていると思われま す。市街地は城下町のなごりを見ることができ、足袋蔵を忍ばせる街並みとなっています。 一方、郊外は稲作や養蚕を主な家計としていたと思われる家の造りを見ることができ、古民家の 敷地内の建物の例として下記に示します。 郊外の古民家(農家例) 行田市史 資料編 民俗資料集 庄屋風な農家 1・2から図を転載 一般的な農家 2、主な形の母屋 行田市内の郊外における古民家の屋根は、以下の写真ように「寄棟造り」「越屋根造り」「切妻造 り」に大別される。行田市内の茅葺屋根は3棟が今でも住んでおられることを確認しています。 越屋根や切妻屋根は養蚕業の進展と相まって建てられたものと考えられます。また、鉄板屋根の下 は茅葺材となっています。 寄 棟 造 平成 26 年 10 月 り(屋 根) どこか懐かしき風景 平成 26 年 7 月 -16- 越 屋 根 造 り 切 平成 27 年 1 月 妻 造 り (屋 根) 平成 26 年 11 月 3、門 門とは、敷地と外部を区切る塀や垣に通行のために開かれた出入り口のこと。外構の一種で、正 面口のことは、特に正門と呼ばれます。門の脇に門柱、門番、門の扉を門扉(もんぴ)とそれぞれ 呼ばれます。門は門扉持ち閂(かんぬき)や南京錠などで施錠したり、入退場の制限をする機能を 持っていることが多く、これらの機能を持たずに単に門柱が通路の両脇に設置されているだけのも のや、古来の中国などに見られる屋根と門柱のみの牌坊(はいぼう)、トンネル状のアーチ構造を持 つだけのもの(凱旋門や韓国の祟礼門など)であっても門と呼ばれることがあります。 「門」という漢字は本来、門柱と両開きの門扉を描いた象形文字であるが、次第に門扉を持たな いものであっても境界の境に建てられた出入り口であれば『門』と云うようになりました。 行田市内にある門を所有者の御了解を得て写真撮影したものを以下に示します。 (平成 27 年 1 月) 長 屋 門 と 塀 棟 平成 26 年 8 月 平成 27 年 1 月 冠木門 (かぶきもん)風 平成 27 年 1 月 門 石 の 門 平成 27 年 1 月 -17- 平成 27 年 1 月 4、庭 園 明治時代の東京では江戸時代の大名屋敷とそれに付随する庭園が次々と壊され、この現状を目の 前にして小沢圭次郎は職務の余暇として古い庭園の記録と資料収集を行っており、退職してからは さらに庭園研究に励み、1915(大正 4)年『明治庭園記』を発表するに至り、収集した資料は 800 余巻 に及んだといわれています。小沢は単なる庭園史の研究家でなく自らも日本庭園を作庭し、天王寺 公園や伊勢内宮・外宮の外苑、栗林公園の修景のほか、ロンドンで開催された日英博覧会に出展さ れた日本庭園、また自身の故郷三重県桑名市では 1928 年に松平定信百年祭に伴い造られた九華公園 などの作品があります。また庭園研究のほか、漢学への造詣が深く、漢詩文集『晩成堂詩草』15 巻 を書いています。 その小沢と激しい論争を展開した美術史出身の文学博士横井時冬は「園芸考」「本阿弥光悦」「小 堀遠州」などを著しました。 明治後半期の東京に数多く建てられた新興ブルジョアジーたちの大邸宅庭園の様子は近藤正一 『名園五十種』にも紹介されています。同書で折衷式の庭の様子がよくわかり、渋沢栄一の邸宅愛 依村荘は広大な敷地の中に日本家屋と洋館が建ち並び、洋風と和風の庭園、また茶室と茶庭を兼ね 備えていることがわかります。また京都武者小路一門の茶匠で造園家の磯谷宗庸設計の三菱深川親 睦園日本庭園内の洋館はジョサイア・コンドルが手がけたが、コンドルはこの後和風住居や庭園と 洋館・洋風庭園を並存した旧岩崎邸庭園や三井網町別邸、旧諸戸清六邸、旧古河庭園(和風の部分 は小川治兵衛作)などを手がけてられています。 (1) 行田市の一般的な庭園 行田市にも、豪農家や豪商による日本庭園が作られているものと思われます。その一つが彩々 亭の庭園ではないでしょうか! この庭園は池や築山があり、それを囲むように松をはじめとす る樹木、石に苔が生し、見事な調和を醸し出す日本庭園と言えると思います。 皆さんも、一度は彩々亭を訪れて日本庭園を眺めながら食事や飲食を召された方もいるのでは ないでしょうか? また、一般的な民家の庭園を以下に紹介する。 彩 々 亭 の 庭 園 平成 27 年 1 月、支配人のご了解を得て写真撮影 -18- 複写不可 (2)平成 5 年度行田市文化財年報よる庭園 埼玉県教育委員会では、庭園が近年の開発や改築行為により次々にその姿を消して行く状況に有 ることから、各行政機関に調査する旨の通達を発した。平成 5 年度行田市教育委員会は古民家の庭 園を実態調査しました。その結果と現時点の状況を以下に示します。 平成 5 年度行田市文化財年報の庭園件名一覧表による実態調査結果 No 1 2 3 4 5 6 7 名称 A邸 農家 B邸 農家 C邸 農家 D邸 町屋 E邸 病院 F邸 農家 G邸 農家 8 9 H邸 町屋 I邸 作庭時期 大正初期 10 11 農家 K邸 農家 池(水あり) 築山 明治後期 明治後期 石造物 石灯籠 2 明治初期 木魁 は板塀・門があった。 手水鉢 木、檜 埋められている。 ず 赤松 2、もち 面積 30 ㎡程度の庭園であるが、 同左の状況 の木 2、伽藍 どの木も樹齢 100 年以上の古木 1、躑躅 で、よく手入れがされている。 松、楓、木 面積 80 坪。右方は築山風になっ 魁、ヒマラ ており、護岸石組が成されてい ヤ杉など る。 赤松、五葉 面積 200 ㎡。大正~昭和初期にか 松、伽藍、 けての隆盛期に造園したが、現在 檜葉など は開業しておらず、維持管理困難 朝鮮松、も 広すぎるため、手入れが困難との ちの木、紅 こと。 池(水なし) 石組み 石灯籠 築山、石組 石灯籠 2、 築山、石組 石灯籠 2、 手水鉢 築山、石組 石灯籠 同左の状況 同左の状況 築山、石組 面積 49 ㎡。盛土の上に築庭され、 不在につき、調査でき 石灯籠 3 木魁 2、他 み かつては池の水を灌漑に利用し ず ていた、 石組み 池(水あり) 築山、流れ 石組み 江戸時代 同左の状況 葉、檜葉 池(水あり) - たが後に二坪の池を作る。かつて 築山 み 明治末期 同左の状況 不在につき、調査でき 池(水なし) - 面積 45 ㎡。当初は枯山水であっ H27 年 1 月調査結果 作庭当時は池があったが、現在は み 大正時代 要(H6 年度調査内容) 松、のちの 池(水なし) 明治中期 桐、赤松、 概 石灯籠 み 昭和初期 植栽 石組み 池(水なし) 農家 J邸 形式 石灯籠 2 石灯籠 2 手水鉢 置き石、高 石灯籠 2 低木を配置 手水鉢 築山、石組 石灯籠 5、 み、 松、もちの 面積 20 坪前後。盛土の上に築庭、 2011 年東日本大震災 木、銀杏、 松を植えて石灯籠等を配置。 後、母屋・庭園を解体 垂れ檜葉、 面積 200 坪前後、やや高台の作庭 ほとんど手入れがされ 銀杏、椿な されており、かつては茶室があっ ていない ど た。 高木5、 低木 10 手水鉢 多数 築山・池などないが、置き石の間 母屋・庭園もなし に様々な高低木が配置されてい る 面積 45 ㎡、築山に灯籠、記念碑、 母屋・庭園もなし 歌碑が配される。 ※平成 5 年度行田市教育委員会が実態調査した2件名は、満願寺聖天院鶏羅窟庭園(野)・嶺雲寺庭園(小 見)であるため、説明は割愛することにします。 -19- 平成 27 年 1 月 14 日、以下の写真は訪問調査時了解を得て写真撮影しました。 A 邸 C 邸 D 邸 F 邸 -20- 5、市内の古民家 (1) 旧小川忠次郎店 旧小川忠次郎店舗は、足袋の原料を商っていた店舗及び母屋として昭和 4 年(1929 年)頃に完成し、 行田の足袋産業隆盛期を象徴する近代化遺産であります。蓮華寺通りに東面して店蔵の店舗が建ち、 その西側に母屋が接続する構造で、店舗部分は切妻造、土蔵造の 2 階建、また、母屋部分は寄棟造、2 階建で北面と西面の壁を漆喰(しっくい)で塗り込めた行田特有の防火的なつくりとなっています。 内部 1 階は店舗南側を土間のミセとし、北側に帳場、主屋部分のナカノマ、オクへと縦 1 列に並べる 間取りで、2 階に格式の高い座敷を設けている。こうした構造は明治・大正期の行田の店蔵型町屋に共 通しています。 なお、現在の建物は市の補助を受けて行田商工会議所によって整備され、NPO 法人「忠次郎蔵」の事 務所及び催事施設、そば・うどん専門店として活用されています。 この建物は、『川越市;小江戸の蔵造り(総漆喰)』または行田市内の『十万石まんじゅう“ふくさ や本店”の蔵造り』とは異なる造りとなっています。 平成 27 年 1 月 6 日、蕎麦屋の店長さまの許可を得て、写真撮影すると共に、店員の男性の案内で 2 階も撮影させて戴きました。 旧小川忠次郎店 十万石まんじゅう 北側;裏面より撮影 南側;正面を撮影 -21- ふくさや本店 1階間取り図 間取り図は、「行田市史 玄関の土間 資料編民俗 資料集2」を転載 神 ケヤキの梁 金庫と仏壇(位牌なし) 棚 1 階 床 の 間 2 2階間取り図 -22- 階 床 の 間(書院作り風) 2 階 欄 間 コメント この小川忠次郎邸は、1 代で築き上げたもので あると云う。当時の足袋関係の商売がいかに繁盛 していたことを物語る事例ではないでしょうか! また、梁の材質や床の間の造り等は一般家屋で は見られない豪華なものが使われています。 (2) 彩々亭(旧荒井八郎商店) この建物は、水城公園の東側に位置し、「穂国足袋(ほこくたび)」などの商標で知られた荒 井八郎商店の創業者荒井八郎氏が建設したもので、現在は和牛懐石「彩々亭」の店舗となってい ます。 事務所兼住宅、大広間棟、洋館の 3 棟が雁行型(がんこうがた)に並び、東手前の事務所兼住 宅は、昭和元年(1926)築、木造 2 階建で、寄棟造、建築面積 213 平方メートルに及び、屋根に 緑釉瓦(りょくゆうがわら)を葺き、2 階をモルタルで仕上げ、1 階にスクラッチタイルを貼り、 外観に変化を与えています。中央の大広間棟は、昭和 7 年(1932)築、木造平屋建の桟瓦葺です。 庭園を望む南側に 10 畳 2 室、その控えとして北側に 4 畳 2 室を配し、四周に縁を廻しています。 トコに欅の一枚板、落掛(おちがかり)に黒柿を使うなど贅をつくした内装になっています。西 奥の洋館は、昭和 10 年(1935)築、木造 3 階建の洋館で、屋根を緑釉瓦で葺き、外壁はモルタル 仕上げです。欠円形の飾り庇のタイル貼を 3 連格子窓の上に設けるなど、アクセントを付けてい ます。3 階は四方に窓を開く望楼(ぼうろう)になっています。 また、荒井氏は行田足袋被服工業組合理事長や全国足袋工業組合連合会理事など足袋業界の要 職を歴任すると共に、戦後参議院議員に当選するなど政治家としても活躍されました。その当時 これらの建物が荒井八郎氏の迎賓館的な役割を果たしており、氏と交流のある政財界をはじめ多 くの人々が訪れ、「足袋御殿」とも呼ばれていました。戦前の行田を代表する木造洋風建築であ ると言えます。 なお、平成 27 年 1 月 6 日、支配人さまの許可を戴いて写真撮影を行った。 西側;洋館(3 階建) 中央;大広間棟 東手前;事務所兼住宅棟 複写不可 -23- 西側の洋館;3 階(桜の間) 大広間棟;1 階大広間 西側の洋館 3 階建 大 広 間 棟 事務所兼住宅棟;2 階(蘭の間) 事務所兼住宅棟 1 階洋間「桔梗の間」 ・2 和室造りでありますが、テー 1 階は、 「松の間」「竹の間」「富 階和室「紫陽花の間」の各 ブルが配置されています。これ 士の間」の和室でテ-ブル席となっ 階 1 室づつ設けられていま は高齢者に対する配慮と思われ ています。2 階は写真の(蘭の間) す。 ます。 があり、隣りに「桐の間」の和室 で和卓になっています。 複写不可 (3) 高澤家住宅 高澤家は、1660 年より居住しており、江戸時代末の豪農の様相を知る建築物として歴史的価値 が高い建物であります。建物群は敷地中央北寄りに配される主屋を起点とし、母屋西側に内廊で 接続する離れ(明治 30 年頃)があります。母屋南面となる敷地端には長屋門が配され、母屋北側 には土蔵、南東側には篠屋と称する納屋が位置しています。母屋は木造 2 階建ての切妻造りで、2 階には蚕室があり、換気、光彩のための越屋根(総やぐら)が設置されています。同年代に建てら れたと考えられる長屋門には「安政六年(1859)己未吉日高澤磯右ヱ門建立」の棟札があることか ら、江戸後期に建てられたと思われます。また、平成 17 年度に行田市の第 1 回「浮き城のまち景 観賞」を受賞し、さらに、平成 19 年 5 月 15 日付「国登録文化財」に指定されています。現在は 染色と陶芸の工房ギャラリー兼住宅として使用されています。 また、明治時代末から昭和初期の当主であった高澤氏俊徳は、長野村長、埼玉県議会議員長を 務め、長野信用組合の設立、酒巻導水路の建設、小針沼の干拓などを行い、この地域の発展にご尽 力されました。 なお、滝沢布沙様の御好意で建屋内を説明して戴き、平成 27 年 1 月に写真を撮影しました。 長 屋 門 母 屋 -24- 母屋の入口 入口を入り中戸 床 の 間 アガリハナ 仏 間 土 間 洋式の便座 このトイレは明治または大正時代に作 られたもので、日光田母沢御用邸と同じ 形であるという 庭の草木や花で設えた生花と 足踏みミシン 記念の杯 手動ミシン 戦時中の国防婦人会のタスキ カフェの入口 店 内 -25- 篠屋と称する納屋 離 れ 正一位稲荷大明神 中庭(池があった所) 中庭への門 中庭に懐かしいリヤカー 離れの窓ガラスは“手漉き”で作られた貴重なものであると、ものつくり大学横山先生が言われていたという。 昔は、近くの川から水を引いて池があったという。また、中庭の面積は 300~400 坪はあろうか? 誠に広く、昔は芝 生を植えていたというが、戦後の農地解放により広大な土地を手放すことになり、生活が苦しくなったことから芝生を売 り、書物や陶器などの骨董品も手放したという。(この家に御住みの元市民大学一期生であった滝沢布沙様より) (4) 養蚕農家であった I 家住宅 I 家は、下記の家相絵図に記載されているとおり、明治 45 年 4 月作成された家相図(S=1/100) を見せて戴くと、建物の方向と配置は“風水陰陽方位学”により決めていることが分かりました。 また、I 家は越屋根を持つ養蚕を 4 回/年行い、換気が良く良質な繭を生産することが出来たと いう。 「家相絵図」や「家の中」の写真は了解を得て撮影しています。 I 家の家相絵図 平成 27 年 1 月 -26- 明治 20 年 2 月 12 日(日) 第 4,206 号の郵便報知新聞を見せて戴くと共に、20 年前にも読売新聞社 がI家へ取材に訪れた時の記事が掲載(人指し指の先)され、大事に保管されていました。 ※ご主人の誕生時、踏まれることにより元気な子に育つようにと入口に臍のうを埋めたという ここが開き2階へ桑を運び入れる 鶏の寝床=木材で作られている さきたま古墳公園の遠藤家と形・材質が異なる I家の伝説 Ⅰ家では、先祖代々“胡瓜(きゅうり)”を作らないことになっていた。 ところが、60 年前のことで御主人がまだ子供の頃の話である。I家の番頭さん(奉公人;仮名=小林さ ん)が家の者でないことから“I家の土地”に小林さんが胡瓜を植えると、小林さんが高熱を出し、医 者に診てもらうが一向に熱が下がらない。1 週間ないし 10 日経った日に御主人の御婆様が畑の胡瓜を引 っこ抜くと、何と小林さんの熱が見る見るうちに下がったという。 この出来事があってからは、胡瓜を栽培することをしなくなったという。ただし、他人が作った胡瓜 を喰うことは問題ないという。 -27- (5) 古い農家N家住宅 N家は、元禄年間に分家し、現在の御主人が十一代目であるという。現建物は、築造された年 代を“床の間の板裏に嘉永 2 年”と書かれている大変古い家であります。その建築時には強風対策 として“曲がり屋”の 2 階建て(3 間×3 間くらい)が母屋の裏に張り出していたという。昭和 33 年 頃、母屋の屋根を茅葺で葺き替えて、その後、鉄板で屋根を覆ったという。 入口脇の軒下には和船がある。この船は洪水の時に田畑の見廻りや使用人の家に醤油や味噌を運 んだという。母屋と切り離して、“井戸”と“五右衛門風呂”の小屋があったという。 また、作業小屋の土壁が一部補修されている。これは“明治 43 年大洪水の傷跡”であるという。 土間から屋根裏を見上げたもの 1 階の天井と梁 平成 27 年 1 月 参 考 - 明治 43 年大洪水の概要 明治 43 年(1910 年)8 月 11 日に日本に接近した台風は房総半島をかすめて太平洋上へぬけたが、こ の影響で日本各地に大雨が降った。関東では 2 日より連日降り続けた雨が 9 日に豪雨となり、10 日に は暴風雨となった。利根川・荒川の両河川の水量が増加、午後 1 時には酒巻の水量が十五尺五寸を示し、 午後 5 時には中条村堤防から越水、11 日の午後 11 時に堤防を越えて大氾濫、濁流は忍町全域にまで達 したという。その後高地は 1 日で減水したが、低地では 1 週間以上も水が引かなかったという。 『天変地異 ―災害の日本史― 行田市郷土博物館』より転載 明治 43 年大洪水による埼玉県内災害状況 死 者 圧死 北足立 入 間 比 企 秩 父 児 玉 大 里 北埼玉 南埼玉 北葛飾 合 計 2 65 7 10 1 85 住宅の被害 溺死 24 32 40 10 9 58 51 6 9 239 全潰 42 107 157 51 17 88 136 24 5 627 半潰 31 68 42 56 39 71 213 13 15 548 非住宅の被害 破損 流出 2 ,1 6 3 3 ,9 6 8 3 ,1 2 2 168 310 620 3 ,3 1 4 460 1 ,7 9 5 1 5 ,9 2 0 48 111 171 86 66 254 309 6 1 1 ,0 5 2 全潰 64 147 131 20 23 69 129 27 6 616 半潰 42 48 39 27 37 66 110 42 12 423 483 2 ,6 9 7 1 ,1 2 6 133 237 554 2 ,2 6 1 272 1 ,1 6 6 8 ,9 2 9 『埼玉県水害誌p-57~58』 -28- 住家浸水 破損 流出 床上 2 ,6 2 3 3 ,3 3 0 429 2 ,0 9 9 2 ,1 6 1 3 ,2 8 6 3 ,0 1 7 5 ,5 4 8 2 ,7 3 9 2 5 ,2 3 2 1 1 ,3 4 3 4 ,8 9 2 5 ,0 4 5 294 1 ,8 8 3 8 ,1 5 4 1 3 ,0 0 9 9 ,2 7 5 5 ,4 1 1 5 9 ,3 0 6 床下 2,623 3,330 429 2,099 2,161 3,286 3,017 5,548 2,739 25,232 県立熊谷図書館所蔵より作成 北埼玉郡の災害状況 人 災 死者 行方不明 成田村 南河原村 北河原村 星河村 星宮村 持田村 太井村 下忍村 忍村 長野村 荒木村 須加村 埼玉村 太田村 合 計 家屋被害 半壊 流失 倒壊 浸水 282 6 2 12 3 3 1 3 3 4 37 423 275 20 14 410 11 15 418 259 1 150 1 1 1 461 4 19 21 1,605 37 400 7 480 12 2 1 12 1 332 1 30 4 9 3 24 44 71 623 803 132 『郡報:第 5 号「北埼玉郡役所、1910 年 8 月 25 日(明治 43 年)」』行田市郷土博物館所蔵 6 ,9 2 1 「長谷川宏家文書」 1044 より作成 忍商報(明治 43 年 9 月 5 日) 行田市郷土博物館所蔵 「長谷川宏家文書 1044 より」 炊き出しの風景 倒壊した家 被災地における炊き出し(撮影場所不明) 天変地異-災害の日本史- 行田郷土博物館 大水害の状況を撮影したもの(撮影場所不明) P-23 より転載 -29- Ⅱ、年 中 行 事 1、平成 4 年度文化財年報 行田市における祭・年中行事は、行田市教育員会が調査しました『平成 4 年度文化財年報;行田市 の祭・行事』に詳細に記されていますが、この項では、年中行事の家庭等で実施している行事を記 すことにします。 なお、 『平成 4 年度文化財年報;行田市の祭・行事』および『行田市史 行田の民俗』を参考とし、 同執筆者の宮本先生の「”古民家のすまい“についてのミニ講座」のご教授等を参考にまとめました。 古民家における年中行事表 『平成 4 年度文化財年報;行田市の祭・行事』より作成 行 事 内 容 正月とは本来、その年の豊穣〔ほうじょう〕を司る歳神様〔とし 正 月 1月1日 ~7 日 がみさま〕をお迎えする行事であり、1 月の別名。現在は、1 月 1 日 から 1 月 3 日までを三が日、1 月 7 日までを松の内、あるいは松七日 と呼び、この期間を「正月」と言う。 小正月 1 月 14 日 ~15 日 全国的には豊作祈願の行事が行われているが、埼玉地区ではモノ ツクリといい、コナラの木にいろいろ形の団子を刺し、土間、蔵、 俵、氏神様にお供えする。 季節の分かれ目の意味で、元々は「立春」「立夏」 「立秋」「立冬」 節 分 2月3日 のそれぞれの前日をさしていた。 節分が特に立春の前日をさすよう になった由来は、冬から春になる時期を一年の境とし、現在の大晦 日と同じように考えられていたためです。 初 午 2 月 3 日午後 お稲荷様の祭日で、屋敷稲荷と呼ばれる屋敷神にお供え物をする。 赤飯、腐豆、油揚げなどをお供えるもの。 埼玉地区では、特に長女の誕生を祝って行うことが多く、座敷に 雛祭り 3月3日 嫁の実家から贈られた内裏雛などを飾り、蓬の菱餅、桃の花などを 供え、親戚一同で祝う。 端午の 節句 七 夕 菖蒲と蓬を束にして軒にさし、庭先には鯉のぼりや武者のぼりを 5月5日 子供の成長を祝う。また、菖蒲湯に入って家族の健康を祝う。 7月7日 8 月 13 日 お 盆 ~16 日 埼玉地区では特に、マコモで作った雄と雌の馬(魔除けの馬とよば れる)を蔵や入口に吊り下げたりする。 13 日の午前中に先祖を盆棚を作り、夕方に家族全員で先祖を迎え る。先祖は 3 日泊まるといい、この間親戚などがお参りに来る。16 日夕方にはお土産団子を供え、家族全員で先祖を送る。 文机に団子 15 個、里芋 5 個、すすきを載せて飾り、お月見をする。 十五夜 夏祭り 立て、座敷には武者人形や座敷のぼりを飾り、柏餅を作って供え、 「この日に天気が良いと米の出来が良い」という言い伝えがある。 地区ごと 自治会・児童会ので、御神輿・山車が繰り出し、盛大に行われた。 11 月 20 日夜、恵比寿・大黒様をチョウバに文机を出し、それに飾 えびす講 11 月 20 日 り付けて行う。灯明、新米を炊いたご飯、里芋入りのけんちん汁。 生の尾頭付きの秋刀魚、御神酒、お金を入れた枡を供える。 -30- 備 考 2、家庭等で実施している年中行事 私たちは、それぞれの思い思いに生きていますが、実は私たちの一生には人間である故に辿ら ねばならないことがあります。まず、この世に生を授かり産まれてきます。そして色々なこと学 び、結婚することや病に苛まれること、やがて死を迎えることなどの『冠婚葬祭』があります。 むかしは、この冠婚葬祭は各家で執り行われていましたが、現在は各家で執り行われることが 少なくなりました。 ここでは、 『行田市史 資料編 民俗資料集』を手がかりに、以下の年間行事をまとめる事にし ます。 (1) 正 月 12 月の暮れになると「注連縄作り」や「餅搗き」を行い、正月の準備が始まり、神棚におそ ない(供餅)や注連縄を飾ります。 餅 荒木 搗 注 き 昭和 30 年頃か? 長野新田 「行田市史 連 縄 飾 り 平成 17 年 1 月 行田の民俗 佐間 平成 19 年 1 月 ~くらしの成り立ちと移り変わり~」より写真を転載 (2) 小正月 小正月(こしょうがつ)とは、正月 15 日の行事であり、または 14 日から 16 日までの 3 日間、 または、14 日の日没から 15 日の日没から、または、望(満月)の日、または、元日から 15 日 までの 15 日間ともされる。中国式の太陰太陽暦が導入される以前、望の日を月初めとしていた ことの名残りと考えられています。 行田市内の行事は、 『行田市史 行田の民俗 ~くらしの成り立ちと移り変わり~ 』より引 用して示します。 まゆ玉作り 神棚にまゆ玉を飾る 市内 昭和 56 年 1 月 下忍公民館 「行田市史 転載 -31- おたき焼き(ドンドン焼き) 平成 10 年 1 月 行田の民俗 荒木 平成 23 年 1 月 ~くらしの成り立ちと移り変わり~」より (3) 節 分 節分は、雑節の一つで、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分 とは「季節を分ける」ことをも意味しています。江戸時代以降は特に立春(毎年 2 月 4 日ごろ) の前日を指す場合が多い。この場合、節切月日の大晦日にあたり、立春の前日の節分、および その日に行われる伝統的な行事について述べます。大寒の最後の日であるため、寒さはこの日が ピークになります。一般的には「福は内、鬼は外」と声を出しながら福豆(炒り大豆)を撒いて、 年齢の数だけ(もしくは 1 つ多く)豆を食べる厄除けを行う。また、邪気除けの柊鰯(ひいらぎ いわし)などを飾ります。これらは、地方や神社などによって異なることもあります。 ヤッカカシのお供え 皿尾 「行田市史 行田の民俗 平成 26 年 2 月 平成 27 年 2 月 ~くらしの成り立ちと移り変わり~」より転載 行田市内のある家では、豆撒きを自宅で行った後、お寺に行き豆を撒いて自宅に戻り、福茶を 入れるという。その福茶の入れ方は、急須に豆を入れ⇒御茶⇒御湯の順となり、まず、床の間や 神棚等に供えてから家族で福茶を戴くという。 なお、床の間や神棚に供える茶碗は決められた以下のものを使うという。 左側;床の間用 右側;神棚用 平成 27 年 2 月 (4) 初 午 初午は、2 月の最初の午の日。稲荷社の祭であり、初午祭に初午詣(福詣)する参詣者が訪れ、 これを雑節の一つとすることがあります。旧暦で行う事もあり、その場合は 3 月となる事もあり ます。 初午は、その年の豊作祈願が原型で、それに稲荷信仰が結びついたものであります。4 月初めの 巳の日の菜の花祭りの夜と初午のいずれかに雨が降らないと火に祟られるとか、初午の早い年は 火事が多いとかいう俗信もあります。行田市内ではスミツカレ(スミツカリ)を作ります。 平成 27 年 1 月 20 日、真名板のある家のスミツカレのレシピーは「大豆を煎り、大根を鬼おろ しで摩り下ろし、甘辛く煮込んだもの」と“東の国だより”を見ながら説明して戴きました。 -32- 初午の赤飯とスミツカレ 初午例祭 新町 「行田市史 稲荷神社 平成 18 年 3 月 行田の民俗 ~くらしの成り立ちと移り変わり~」より写真を転載 (5) 雛祭り 雛祭り(ひなまつり)は女子のすこやかな成長を祈る節句の年中行事で、ひいなあそびとも いう。 雛 飾 り 平成 27 年 2 月 10 日 「行田市史 行田の民俗 有職雛(明治時代);公卿(くぎょう)の装束を有職故実(ゆうそ ~くらしの成り立ちと移り変わり~」 くこじつ)に基づき、正しく人形化されているのが特徴の雛人形で より写真を転載 す。「親王雛」「高倉雛」「山科雛」とも云われます。 この雛は、市内のある家で「初節句の祝いの品」として贈られ たという。『行田市郷土博物館展示;許可申請後、写真撮影した』 (6) 端午の節句 端午は五節句の一。端午の節句、菖蒲の節句とも呼ばれます。日本では端午の節句に男子の 日本では端午の節句に男子の健やかな成長を祈願し各種の行事 を行う風習があり、現在ではグレゴリオ暦(新暦)の 5 月 5 日に 行われ、国民の祝日「こどもの日」になっています。少ないなが ら旧暦や月遅れの 6 月 5 日に行う地域もあります。 男の節句とされていたので昔は鎧や兜はお父さんや、おじい ちゃんが飾るのが習わしでしたが、現在では特にこだわる必要 はないそうです。4 月中旬までには飾りの準備を終わらせ当日か 前日の晩には両家両親や知人を招き、縁起物のご馳走でもてなします。 (7) 七夕祭り 日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う 乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会(お盆)などが習合したものと考えられ ています。そもそも七夕は棚幡とも書きましたが、現在でもお盆行事の一部でもあり、笹は 精霊(祖先の霊)が宿る依代であります。 -33- 行田市内では昭和 40 年前後までは各地区で盛んに“マコモのウマ”を作っていたが、沼地が 無くなり、マコモが取れなくなったことや生活様式の変化により、マコモのウマを作る人がい なくなり、今ではマコモのウマを作る家はなくなったものと思われます。 七 夕 の マ コ モ の ウ マ 野 門井 平成 21 年 8 月 昭和 44 年 8 月 旧荒木村の七夕 「行田市史 行田の民俗 ~くらしの成り立ちと移り変わり~」より図・写真を転載 (8) お 盆 「盂蘭盆」の省略形として「盆」 (一般に「お盆」)と呼ばれる。盆とは文字どおり、本来は霊に する供物を置く容器を意味するため、供物を供え祀られる精霊の呼称となり、盂蘭盆と混同され て習合したともいう説もあります。現在でも精霊をボンサマと呼ぶ地域があります。中華文化で は道教を中心として旧暦の七月を「鬼月」とする慣習があり、旧暦の七月朔日に地獄の蓋が開き、 七月十五日の中元節には地獄の蓋が閉じるという考え方は道教の影響を受けていると考えられま す。台湾や香港、華南を中心に現在でも中元節は先祖崇拝の行事として盛大に祝われています。 行田市真名板の M 家では、迎え盆の数日前に田んぼの泥を大相撲の土俵の形に作り。そこに竹 送り盆の祭壇 筒を 2 本立てると云う。迎え盆は御寺へ車で行き、自宅の近くの土の祭壇にご先祖を迎えて線香 をそなえ、その後、縁側まで迎える。そこには“タライ”があり、ご先祖さまに足を洗って戴く よう提燈をタライにかざすという。その後、縁側から盆棚へご先祖を招き入れると云う。 迎え盆の祭壇 「行田市史 行田の民俗 ~くらしの成り立ちと 移り変わり~」図を転載 より転載 -34- 盆 棚 と お そ な え (盆棚:間口 9 尺×高 9 尺×奥行 3 尺) 平成 27 年 1 月写真を見せて戴く 「行田市史 行田の民俗 ~くらしの成り立ちと移り変わり~」 より図・写真を転載 (9)十五夜 「十五夜」は、中秋の名月を鑑賞する他、これから始まる収穫期を前にして、収穫を感謝す る初穂祭としての意味あいがありました。9 月頃に収穫される「芋」をお供えすることから「芋 の名月」とも呼ばれています。現在では、満月のように丸い月見団子と魔除けの力があるとさ れたススキを伴えるのが一般的な「十五夜スタイル」です。また、地方によってはこの日だけ は、他人の畑の作物を無断で取っても良いとか、子どもがお月見のお供え物を盗んで良いとす る風習もありました。 「行田市史 行田の民俗 ~くらしの成り立ちと移り変わり~」より図・写真を転載 -35- (10) えびす講 神無月(旧暦 10 月)に出雲に赴かない「留守神」とされたえびす神(夷、戎、胡、蛭子、恵 比須、恵比寿、恵美須)ないしかまど神を祀り、1 年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは 商売繁盛を祈願する。地方や社寺によっては、旧暦の 10 月 20 日であったり、秋と春(1 月 20 日) の 2 回開催したり、十日えびすとして 1 月 10 日や 1 月 15 日とその前後などに行うこともありま す。えびす祭やえべっさんとも言われます。えびすを主祭神とするえびす神社のみならず、摂末 社として祀っている社寺でも行われています。 えびす講の白米飯とけんちん 汁 野 平成 21 年 行田市史 行田の民俗 ~くらしの成り立ちと移り変わり~」より 写真を転載 (11) 年越しのミソカッパライ 年中行事『初午のスミツカレ・七夕のマコモのウマ・お盆の土の祭壇』について、聞き取り 調査をすべく、埼玉公民館へ出掛けると、H 様に応対して戴き、色々と説明を受けました。その 後、行田市独特の『ミソカッパライ』があることを教えて戴き調べて見ると、以下の通りです、 暮れの 31 日を年越し、大晦日という。この日の晩には、手打ちそばを作って食べるという家が多い。 このほか、そばではなく、白いご飯を作って食べるという家もある。 また、晩飯を食べた後、一年間の厄祓いである『ミソカッパライ』をおこなうことは市域全体でおこ なわれている。これは「マカジメ」でいただいた小さな幣である『ミソカッパライ』を使って、家人の 頭の上を祓い、このミソカッパライの具を敷地の入口の角などに立てるという行事である。 -36- 平成 27 年 1 月 平成 27 年 1 月 斎条のご幣を撮影 長野のご幣を撮影 -37- Ⅲ、付言事項(活動記録) 1、 私たちの研究活動等の記録 -38- グループ員の役割 ・グループリーダー;清田 ・サブリーダー兼カメラマン:佐野 ・書 ・会 記:桜井、佐瀬 ・渉 外 係:関根、加藤 荒木地区の古民家調査 計;笹木 ・雑 用 係;嶋田、小西 庭 園 調 査 発表会の最終打合せ 平成 27 年 2 月 12 日 PM VIVA 行田和室 プロジェクター借用料込み 使用料:AM=300 円、PM=500 円 -39- 2、外部講師による講座 島田鈴代先生による「荒木村の歴史」および行田市史の執筆であった宮本先生による「古民家の 住まい」の講座を以下のとおり実施しました。 島田鈴代先生による『荒木村の歴史』の講座 1、実施期日 平成 26 年 11 月 22 日(土)10 時 00 分~12 時 00 分 2、実施場所 荒木公民館 2 階会議室 3、参 加 者 グループ員8名、地元の手島氏 4、講義内容 (1) 日光裏街道(箕田追分~行田宿~荒木宿~新郷宿~川俣関所) ・街道に沿って、旧跡を説明して戴いた。 ・荒木宿の個別家業を詳細に説明して戴いた。 (2) 日光火の番街道(大芦橋~間の宿「吹上宿」~行田宿) (3) 馬車鉄道 ・行田馬車鉄道『忍馬車鉄道』 (行田町~JR吹上駅) ・鉄道馬車(荒木交差点付近~東行田) (4) 荒木宿にまつわる話 ・地名(鎌倉時代;新木村と名乗ったか?→手島家の祖先等 8 名住吉神社で磔「はりつけ」) ・郷地;郷士(ごうし)が住んでいた場所;見沼中校門の東 ・大名主(荒木地区では、北岡家・木元家等7軒が豪農であった) ・行人様;生入定=生き仏 ・公会堂別名上宿会館;繭の検査 ・清酒醸造=地下水が酒に会う良質な水(北岡家) ・荒木の瓦屋=多いのは良質な粘土がある 島田先生の懇切丁寧な講義 -40- 宮本先生による“古民家の住まい”についてのミニ講座 1.実施期日 平成 27 年 1 月 8 日(木)13:15~16:00 2.実施場所 ① 机 上 講 義 行田市教育文化センター みらい ③ フィールド学習 さきたま古墳公園内古民家 遠藤家の見学 3.講 師 4.参 加 者 宮本 八恵子氏 グループ員 第 2 学習室 (所沢市文化財保護委員 民俗・民具研究) 7名 5.講座内容 (1) 古民家の調査方法 ① 観察の視点 母屋等建物やお稲荷様等屋敷神の配置と屋敷外の山・川や道路・田畑等を観察し、なぜ、この 地に人が住み始めたのか?などの視点で調査する。 A;屋敷がどのような立地の中で建てられているか? B;生活するために必要な水はどのように入手しているのか?(沢・川・井戸など) C;どのような理由で建てられた家なのか?を聞き出す。(農作業の特性や商いの特性) D;食べて生きて行くための耕地が「何処に」「どのように家の周りに存在するのか?」を調べる。 E;日あたり状況により、建物の向きが決まって来る。 F;方角により、屋敷神様や門の位置が決められている。 【八王子市滝山城 中世の丘陵地の事例を説明された】 -41- ② データの記録方法 古民家等の建物を観察した結果を記録する場合、宮本先生は『方眼紙』を利用され、ひと枡 を 3 尺、ふた枡を1間(けん)で間取りを記録しておく。 【宮本先生から戴いた質問に対する回答資料-参照】 (2) 八王子市◎◎村上富・中富・下富の台地(丘陵地)に作られたムラの事例説明 ムラに配置されている①道路、②雑木山、③1 反ごとに配分されている敷地、④水の確保は井戸 (中富;3 ヶ所、下富:2ヶ所=深さ 80~100m)によるものや溜池によるもの、⑤雑木山から燃料 を確保、⑥食べ物の確保のための田畑等を教室の白板に記して説明して戴いた。 一区画;1反の敷地 下富の共同井戸 中富の共同井戸 (3) 母屋の部屋の配置や入り口 ① 部屋の名称 ・デエ:床の間のある部屋、・チョウバ;商いをする部屋 ② 出入り口 ・ドバグチ(表入口)、セトグチ(カッテグチ) (4) 玄関 ・式台は幕末から一般民家にも建てられるようになった (5) お盆時に土で作られる祭壇 ・土の祭壇は「タガタの特性」と宮本先生は思われていたがグループ員との質疑で「オカガタ」で ある行田市袋でも作られていたことが分かった。 (6) 聞き取り時の留意点 ・実体験した人に話して戴く、この時、こちら側の意見や要求事項を出来るだけ話さず、好きなだ け話して戴く。また、知識人の話はあてにならない時がある。 (埼玉県大利根町「千代さんの一日の動線」 の事例で説明を受けた) -42- さきたま古墳公園内遠藤家の見学 さきたま史跡の博物館の許可を得て、遠藤家の座敷に上がる事が出来ました。 -43- さきたま古墳公園内遠藤家の見学後の記念写真 -44- 荒木公民館 歴史講座 受講記録 1.講座テーマ 荒木の歴史『長善沼をめぐる生業・・伝承・記憶から迫る』 2.講 久保 康顕 氏(行田市文化財保護課市史編纂担当) 師 3.受 講 日 時 平成26年9月21日10時一11時30分 4.受 講 場 所 荒木公民館 5.受 講 者 荒木地区有志、歴史・文化B 3名 6.講義内容 ・歴史学と民俗学 分析対象の違いと理由 理想は相互補完の関係 ① 長善沼 以下の資料に記述あり ・「新編武蔵国風土記稿」 ・「忍名所図会」 ・「増補忍名所図会」 ・「成田記」 ・「天測寺所蔵縁起」 ※奇妙な形の堀 ②行田周辺のかつての土地利用の様子 掘上田(ぼりあげだ)がよく見られる ③掘上田(堀田据付田) ・水際堤(みずよけてい) ・付廻堀(つけまわしぼり) ・申落堀(なかおとしぼり) ・ホツツケ(据付)、掘潰れ ・長善沼落 ④長善沼の農作業 ・水門闘 ・南北方向での高低差 ・水門開 ・沼地乾燥刈り取り ・ヘリマキ ⑤カイポリ ・水を落とした後、掘潰れに残った魚を捕る(食文化) ・掘潰れを浚う(カイポリ)‥泥も同時に耕作面へ(肥料) -45- ・所有区分 ・水位管理 「長善沼堀上田」の現地見学 荒木公民館「歴史講座」 1.期 日 平成 26 年 11 月 9 日(日) 8 時 50 分~11 時 30 分 2.集合場所 荒木公民館 3.講座内容 長善沼現地見学 4.講 久保 康顕 先生 師 5.見学コース 1 階会議室 (北沼⇒堀上田;荒木四郎長善の館跡?⇒不廻堀・耕作面⇒関根落) 北 堀 堀 上 田 当日配布された資料 -46- 小見観音 眞観寺 生観音菩薩甲午歳大開帳の見学会 1、期 日 平成 26 年 11 月 23 日(日) 9:20 集合 2、場 所 小見眞観寺観音堂 3、参 加 者 6名 -47- 荒木公民館 1.講座テーマ お伊勢まいりと村 2.受 講 日 時 平成 27 年 1 月 18 日 3.受 講 場 所 荒木公民館 4.講 久保 康顕 先生 師 歴史講座 受講記録 5.講 義 内 容 (1) 伊勢大々講(いせだいだいだいこう)→ 荒木天満宮の石灯篭に銘あり ・荒木地区からも伊勢参りが行われていたことがわかる」 (2) 江戸時代前の伊勢まいりは、天皇の国家祭祀行為 「私幣の禁」(個人の祈願はNG)であった 一般人は熊野詣が主流で「先達」により案内(荒木での円ゾウ坊という山伏) (3) 参宮のかっての様子 → 宗教行為が濃厚 ・道中日記を書き留め、後日清書した(次に行く人の参考書となる) ・御師(おんし)宅を訪ね、ここでお神楽を奉納する → 伊勢大々講 ・御師は下級神主で伊勢には 400 軒余り存在 → ここに行くことが参宮で内宮へは行けなかった (4) 行田市に残る数多くの参宮絵馬 ・道中、宇治山田、御師宅が絵馬に表現されている ・参詣時の自分達の姿を絵馬に描かせていた (5) 御師と手代の活躍 ・御師の役割り → 檀那場(テリトリー)の管理 地域毎に決まった御師宅にしか行けなった(明治 4 年廃止) ・手代の存在 → 御師の活動の実働部隊 毎年冬場に檀廻り(だんまわり) → お礼、土産、伊勢暦を配布 (6) 御師・手代と村 ・大量の荷物(お祓い、土産、伊勢暦)輸送の実態 ・檀廻りの実態 → 村から人馬の提供を受ける 受 講 風 景 -48- 8、おわりに 私たちの研究課題テーマの選定に際しては、紆余曲折があり『観光ガイドを目指して』を6月の 時点で決定し、1ヶ月も経過しない時点で『古民家』が過去に研究課題テーマに取り上げられてい ないことから、『古民家』を研究テーマとすることにしました。 しかしながら、我々には、専門的な建築知識もなく、どの建物が江戸・明治・大正時代ものか? 判別する知識もなく、古民家をどのような切り口で研究すればよいのか?雲を掴む思いでした。さ らに、古民家の所有者とどのように接触できるのか?悩み事が重く圧し掛かってきました。 その問題を解決して戴けたのは、行田市文化財保護課より『行田市文化財年報;古民家の実態調 査結果一覧表』を提示して戴いたことです。これで古民家の断定ができ、既存の古民家を巡回出来 ると肩の荷が少し軽くなり、調査を開始する事が出来ました。 また、荒木地区の歴史については、行田市史編纂担当および荒木地区の家屋調査に同行して戴い た荒木地区連合・自治会長様、はじめ、荒木地区の歴史勉強会に参加させてくださった荒木公民館 歴史講座の皆様や地元歴史研究者からのご教授等多くの方の支援を受けながら、何とか研究課題を まとめ上げる事が出来ました事に対して、皆々様に深く感謝申し上げます。 今回の研究課題レポートの仕上がり内容はとも角、この研修を通じて、 『真摯に取り組めば、おの ずと廻りの皆様から助言を戴ける』と云う事や『いろいろ調査して行くと知識が深まり感心・興味 心が強くなり、さらに色んな事を知りたくなる』、そして、『やがては、またひとつ“大きな生き甲 斐”を発見したような気になりました。また、 『物事に精通されている方が歴史的なものと向き合っ ている時、「恋人にでも逢ったかのような顔」になっている』そんな人をよく見掛けます。 私たちもそのような顔をして重要文化財を見学出来たらいいなと思う今日この頃であります。 最後にこの研究課題レポートが、僅かでも皆様に役立つものとなればと思う次第であります。 追 記 私たちは、 「どこか懐かしき古民家を訪ねて」という研究テーマを掲げて、H6年度行田市文化財年 報『古民家の実態調査一覧表』を基にし、144 棟および南河原地区の古民家を見て回わったことは記載 していませんが、その巡回調査の中には“改築されて住まわれている家”および“他の用途とし活用 されている家”ならびに“昔のままの懐かしい家”または新しく建替えられてしまった家”があるこ とは前記のとおりであります。 ところが、古民家調査の途上には、以下のように静かに佇む空家があるということも事実でありま す。 -49- それらの家をじっと見ていると、どこか懐かしい遠い昔を思い起こしてしまい、その“郷愁”は、次 第に“あの家はどんな人が、どんな思いを持って生活していたのだろうか?”と脳裏をモノクロ映像が 過(よぎ)ったりし、以下の詩が出来上がってしまいました。 その思いを一読して戴ければ幸いと思います。 希 望 に 満 ち る 顔 が あ っ た よ ね 立 ち 続 け て い よ う 空 っ 風 に あ お ら れ て も 新 年 の あ い さ つ を 交 わ す 台 風 に 飛 ば さ れ ず 家 族 一 同 が 顔 を 合 わ せ 柱 が 傾 き か け て も 雑 煮 を 作 り 神 棚 に 進 ぜ 風 呂 場 で か ら だ を 清 め た 後 そ し て 新 年 を 迎 え 松 吉 じ い さ ん が だ 思 か 壁 い ら が 出 剥 を が 閉 れ じ て 込 も め て 注 そ 連 親 の 縄 顔 戚 後 を が 一 作 そ 族 あ り ず こ に 皆 き は 粥 あ 願 を っ い 喰 た を い よ 込 ね め る 今 し ば 誰 こ ら も 懐 の く 住 ん か 家 し を 立 で く 見 ち い 思 て 続 な っ け い て み よ け く ん う れ ど れ な る が か も し れ な い 土 間 で 餅 を 搗 き 十 二 月 の 暮 れ に は 思 い 返 せ ば そ ず ん 見 ~ な 続 と 家 族 け て こ の 来 の 顔 た 家 を の で だ よ 何 ね 年 も 何 十 年 も 誰 も 訪 れ る 人 も い な い よ ね 収 穫 の 喜 び を 味 わ う 顔 が あ っ た よ ね 空 家 に な っ て し ま っ た み ん な で 頬 張 り さ く ら ち ゃ ん は 神 戸 へ 嫁 ぎ 正 志 君 は 名 古 屋 へ 就 職 し 今 は だ れ も い な い 秋 は 稲 刈 り や 果 物 が 稔 り (この詩は、フィクションであるため写真の古民家とは関係ありません) -50- こ の 家 は 歯 を 食 い 縛 る 顔 が あ っ た よ ね 三 年 前 に 他 界 し て し ま っ た よ ね 菊 ば あ ち ゃ ん が 後 を 追 う よ う に 夏 の 田 働 植 き え や 働 草 き 取 働 喰 り き う に 続 た け め 親 に 戚 同 士 生 き る た め に 助 あ い 松 吉 じ い ち ゃ ん が 天 国 に 旅 立 ち い ま で も 覚 え て い る よ ね グ ル | プ ・ の ぼ 帰 ら ぬ 人 を 待 つ 古 民 家 う 作 爽 や か な 顔 が あ っ た よ ね お 茶 を 呑 み 一 服 し て い る 家 族 み ん な で 野 ら 仕 事 に 精 を 出 し 春 に な る と 田 畑 も 緑 に 色 づ き ご指導・協力戴いた方々 行田市教育委員会 文化財保護課長 中島 洋一 様 様 同 上 市史編纂担当 久保 康顕 同 上 市史編纂委員 宮本 八恵子 荒木公民館の関係皆様、 荒木地区連合自治会長 忍の行田の昔ばなし語り部の会長 永島 様(所沢市文化財保護委員) 健雄 尾澤 照男 様、 地元歴史研究家 島田 鈴代 様 古民家取材に協力戴いた皆様 参 考 文 献 ・平成4・5・6年度行田市文化財年報、 ・行田市史 資料編 民俗資料集2、 ・新編武蔵風土記稿、 ・行田市史 ・増補忍名所図会、 行田の民俗~くらしの成り立ちと移り変わり~、 ・埼玉県水害誌 ・「郡報」第 5 号(北埼玉郡役場:明治 43 年 8 月 25 日)1044 ・目で見る行田史 第2集 県立熊谷図書館所蔵、 行田市郷土博物館所蔵 行田の街なみと学校に掲載されている「埼玉営業便覧」 ・天変地変 -災害の日本史- 行田市郷土博物館 ・インターネット閲覧 8 行田市HP(ホームページ)、 文化庁HPなど -51- 様 参 考 資 料 平成 27 年 1 月 8 日、行田市中央公民館(みらい)第 2 学習室において『宮本先生のミニ講座』時に 私たちの質問に対して、貴重な回答を戴きました。その内容は各方面の人達にも参考になる事柄が記 述されていると思いますので、参考資料として添付する事にします。 宮本先生から戴いた質問に対する回答資料