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師イエズス修道女会・修道誓願宣立記念ミサ 説教

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師イエズス修道女会・修道誓願宣立記念ミサ 説教
師イエズス修道女会・修道誓願宣立記念ミサ
説教
2012年4月22日 師イエズス修道女会八王子修道院にて
修道誓願宣立60周年者
シスターマリア・ステッラ 土居わか
修道誓願宣立50周年者
シスターマリア・カリタス 山野節子
シスターマリア・パオリーナ 丹野英子
シスターマリア・ルーチェ 前川フサエ
修道誓願宣立25周年者
シスターマリア・クレーリア 春山茂子
シスターマリア・ジュディッタ 徳野愛美
第一朗読 ホセア2・16,21-22
第二朗読 フィリピ3・8-14
福音朗読 ヨハネ15・9-17
きょう復活節第三主日、師イエズス会のシスター6人のかたがたの
修道誓願宣立記念ミサをお献げしております。ミサのなかでただい
ま、修道誓願宣立を記念する五人姉妹たちによる誓願更新が行われ、
姉妹たちは、師イエズス会創立者である福者ヤコブ・アルベリオー
ネ神父の生きた道を歩み、その霊性に従って歩む、という誓願を新
たにしました。
福者ヤコブ・アルベリオーネ神父の示した道とは、「 道
真理
命
である師イエスに弟子として従い、三位一体の神を賛美し、あます
ところなく自分自身を神に奉献する」という道であります。
主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたし
を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(ヨハネ14・
6)といわれました。イエスは、全生涯をもって、とくに十字架上の
死と復活をもって、天の父への道を示しました。
イエスは、病気の人、体の不自由な人をいやし、また悪霊にとりつ
かれた人から悪霊を追放し、神の国がすでに来ていることを示され
ました。社会で差別され軽蔑されている人々の友となり、また安息
日にいやしを行い、律法学者やファリサイ人の怒りを引き起こしま
した。神の愛を徹底的に生きるイエスはやがて敵対者から憎まれ排
斥され、十字架につけられてしまいます。
イエスは十字架上で屈辱的で無残な最期を遂げましたが、父である
神はイエスを三日目に復活させました。復活したイエスは弟子たち
のところに現れました。復活したイエスに出会った弟子たちの証言
に基づいてわたしたちの教会が誕生したのです。
復活とは弟子たちがまったく予想しなかった出来事です。
「復活したイエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平
和があるように』と言われました。」( ルカ24・36
参照)
この体験が弟子たちに大きな喜びを与えました。
十字架の出来事に際して弟子たちは大きな恐れに襲われ、イエスを
裏切り、イエスを見捨てて逃げてしまったのです。そのイエスが弟
子たちに現れて、平和を宣言したのです。それは「弟子たちを赦す」
という宣言でありました。
裏切られ見捨てられ、孤独と苦悩の中で死んで行かなければならな
かったイエスが、弟子たちを受け入れ、赦し、いやしたのです。弟
子たちは生前のイエスの教えを思い出したに違いありません。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。こ
れがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以
上に大きな愛はない。」(ヨハネ15・12-13)
弟子たちは自分たちのためにイエスが十字架にかかり、自分たちを
救うために復活されたことを理解しました。
弟子たちは復活したイエスに出会って、イエスの言葉の意味を理解
しました。イエスの十字架と復活は弟子たちを赦し救うためでした。
わたしたちキリストはみな、先生であるイエスの示した道を歩むよ
う、招かれています。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさ
い。」(ヨハネ15・12)
友を愛するとは、友を赦すことであり、受け入れることであり、友
のために苦しむことであります。
わたしたちは本能的に、苦しみから逃れ、厭なことを避けようとし
ます。しかしイエスは「 敵を愛し、自分を迫害する者のために祈り
なさい」( マタイ5・44)
と教え自ら実行しました。
日本の社会は「無縁社会」と呼ばれ、人の絆が弱くなり、あるいは
切れてしまっている状態にあると言われています。昨年3月11日に起
こった東日本大震災はあらためて人間の絆が大切であることを思い
起こさせました。
イエスの弟子であるわたしたち教会は、主イエスの示した絆、すな
わち互いに愛し合うという絆を大切にし、より深くしていかなけれ
ばなりません。
きょうはこの絆の愛を深めていただけますよう、ご一緒に祈りましょ
う。
コンベンツアル聖フランシスコ修道会司祭叙
階式説教
2012年4月21日 赤羽教会にて
受階者 フランシスコ・ザビエル チャン・ヴァン・ホァイ
第一朗読 エレミヤ1・4-9
第二朗読 エフェソ4・1-7,11-13
福音朗読 ヨハネ15・9-17
コンベンツアル聖フランシスコ修道会のフランシスコ・ザビエル
チャン・ヴァン・ホァイさんの司祭叙階式に際して一言申し上げま
す。
「神は愛です」とわたしたちは堅く堅く信じています。それでも人
生のあゆみのなかでこの信仰がゆさぶられることがあることも否定
できません。
昨年の3月11日に起こった東日本大震災もそのような信仰の試練の
機会となりました。少なくない人が、神様がいるのならどうして罪
もない人々が命を落とし、あるいは苦しまなければならないのか、
と疑問に思ったかもしれません。
しかし、この悲劇の中で、人の心を打つ出来事、神の愛を告げ知ら
せるような出来事も報道されました。
宮城県のある防災放送担当の職員は、到来する津波の危険を知らせ、
人々に大至急避難するよう叫び続けながら、自らの命を落としてし
まいました。この方は結婚を間近に控えていた若い女性であったと
のことです。
また、宮城県にある水産加工会社の専務さんは、中国の大連から来
ていた研修生20名を高台に避難させた後、自分は津波に飲み込ま
れてしまいました。
人は、自分の命をかけて人の命を救うという素晴らしい愛の行為を
行うことができるのです。
ヴェトナムでコンベンツアル聖フランシスコ修道会に入会されたフ
ランシスコ・ザビエル チャン・ヴァン・ホァイさんは2003年に来
日され、日本で会員の養成を受け、本日2012年4月21日、司祭叙階の
日を迎えました。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。こ
れがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以
上に大きな愛はない」(ヨハネ15・12、13)
とイエスは言われまし
た。
チャン・ヴァン・ホァイさんは修道会会員として、また司祭として、
この愛、主イエスによって示された愛、主イエスが生涯をかけて実
行された愛、十字架と復活によって示された愛、を伝え生きるため
に司祭に叙階されます。
わたしたちキリスト教徒はイエス・キリストによって示された愛を
知りました。それは友のために苦しみ、命すら献げる愛であります。
人は本性から言って、自分の楽しみ、自分の利益、自分の評判をほ
かの人よりも大切にしてしまう、という自己中心な傾向を持ってい
ます。しかし、他方、自分を捨てて家族、友人、隣人のために尽く
すという素晴らしい生き方を示すことがあります。
わたしたちが今日人間として無事に成長出来たのは、両親を始めと
する多くのかたがたのおかげ、多くの方々の無私の愛のおかげです。
愛とは「人のために苦しむ力」「人のために自分を捧げること」で
はないでしょうか。
そのような愛は神から来ると思います。
「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなた
がたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていること
になる」(ヨハネ15・10)
とイエスは言っています。
わたしたちがイエスの教えてくれた愛を実行するときに、人々は神
の存在を認めてくれることでしょう。
現代の荒れ野ともいうべき現代社会の中でわたしたちは、希望の光、
生きる喜び、人生の意味を伝え証ししなければなりません。
今年の10月11日より『信仰年』が始まります。『信仰年』は信仰を
学び直し信仰を深める年です。50年前に第二ヴァチカン公会議は開
かれ、世界の教会で刷新が行われました。『信仰年』は公会議の精
神をより深く学ぶ時であります。
ただし、教えを学ぶだけでは足りません。神の愛を日々実行するが
大切です。
この叙階式に与るわたしたちが、より深い神の愛を知り実行するこ
とが出来ますよう、祈りましょう。
立川教会堅信式説教(復活節第二主日)
2012年4月15日 復活節第二主日 立川教会にて
第一朗読 使徒言行録4
32-35
第二朗読 一ヨハネ5・1-6
福音朗読 ヨハネ20・19-31
復活したイエスが弟子たちに現れたとき、十二使徒の一人トマスは
居合わせなかったので、イエスが復活した、ということを疑ってい
ました。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、ま
た、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じ
ない。」(ヨハネ20・25)
これは徹底的に疑う態度です。このときから「トマス」は、疑い深
い人の代名詞となりました。
しかし復活の八日目に再びイエスが弟子たちの間に現れたのでした。
トマスは感激して「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20・28)
と
叫びました。
確かにイエスの墓は空でありましたが、イエスの復活の場面を目撃
したものは誰もいないのです。
どうして弟子たちは復活を信じたのかといえば、彼らは復活したイ
エスに出会ったからです。
復活したイエスに出会う最初の人となる栄誉をうけたのはマグダラ
のマリアでした。それから他の弟子たちのところにイエスが現れま
した。
弟子たちはイエスの復活の証人となったのです。
教会はイエスの復活を信じる神の民であります。
わたしたちがどのようにしてキリスト信者になったのか、と振り返っ
てみれば、イエスの復活を見たから信じたのではありません。復活
したイエスに出会った人の証言を信じて信者になったのです。わた
したちは復活を信じた人々を信じて信者になったのです。
東日本大震災の起こった今の世界で、神を信じるとは容易なことで
はありません。それでもわたしたちは神を信じ、主であるイエスを
信じています。
実はわたしたちが「見ないで信じた幸いな人」に該当しているので
はないか、と思います。わたしたちはマグダラのマリアや使徒たち
のように、復活したイエスに出会ったわけではありません。復活を
信じた人たちの証言を信じて信者になったのです。
わたくし自身、カトリック信者になるときに、ひとつの問題に遭遇
しました。それは、迷信と信仰とはどう違うのかという問題でした。
根拠があって信じることが信仰であり、根拠がなくて信じることが
迷信です。そして神を信じ、イエスを信じるための最大の根拠・理
由は、「イエスの復活」という出来事のうちにあります。復活を信
じて生きた人々の証言にわたしたちは信仰の根拠を見出します。
「見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20・29)
これは実に大切なことです。信じるとはまさに見ないで信じる、と
いうことです。見ているなら信じる必要はありません。誰も神を見
た人はいません。イエス・キリスト は、ご自分の生涯、特に死と復
活によって、父である神の愛を証ししました。
イエスは、「 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな
愛はない」( ヨハネ15・13)
と言われ、十字架にかかり、十字架の上
で自分を迫害する者のためにゆるしを祈りながら最期を遂げたので
した。
この様子を目撃した人がイエスの復活を体験し、イエスがまことに
神の子である、と信じたのです。
イエス はだれであるのか は 初めの教会の時代、大きな議論とな
りました。ニケアの公会議(325年)で集まった司教たちは次のよう
に宣言しました。
「わたしは信じます。主であるイエス・キリスト を。主は神からの
神、光からの光、まことの神からのまことの神です。」
信仰とは教会において一緒に学ぶことであり、深めることであり、
支えあい助けあうことです。
使徒たちは聖霊を受けて勇敢に信仰を宣言し、殉教しました。きょ
う堅信を受けられる皆さんは、復活の信仰を力強く宣言し、証しを
していただくために、使徒たちの受けた聖霊の恵と同じ恵を受ける
のであります。
いまは信じることが難しい時代だと言われています。
ことし、2012年10月11日より『信仰年』が始まります。現代世界で
どのようにして福音を信じ、信仰を伝えるのか、という課題はすべ
ての信者の課題です。そのためにはぜひ第二ヴァチカン公会議の教
えを学んでくださるようお願いします。
麻布教会ミサ説教(復活の主日・堅信式)
2012年4月8日 麻布教会にて
第一朗読 使徒言行録10・34a、37-43
第二朗読 コロサイ3・1-4
福音朗読 ヨハネ20・1-9
今日のヨハネの福音は、イエスが十字架で死んで三日目の出来事を
伝えています。
マグダラのマリアが、イエスが葬られた墓に行ってみると、墓の入
り口の石が取り除けられてあり、墓のなかにはイエスのなきがらは
見当たらなかった、と告げています。これは、復活の出来事自体の
目撃者の報告ではありません。聖書は復活したイエスに出会った
人々の証言を伝えています。わたしたちはこの証言を信じています。
きょうの第一朗読では使徒ペトロが確信に満ちた証言を行っていま
す。
「イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられてい
る人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だった
からです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエル
サレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけ
て殺してしまいましたが、 神はこのイエスを三日目に復活させ、
人々の前に現してくださいました。 しかし、それは民全体に対して
ではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中
から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。」
(使徒10
38-41)
ペトロは十二使徒のかしらにたてられ、ローマで殉教しました。
教会は復活を信じる神の民、そして、聖霊を受け、聖霊に導かれた
神の民であります。2千年の教会のあゆみの中で、必要に応じて全
司教の会議である公会議を開催されました。ちょうど50年前の1962
には第二ヴァチカン公会議が開かれました。第二ヴァチカン公会議
開催五十周年を記念して教皇ベネディクト十六世は今年の10日11日
から翌年の11月24日を『信仰年』とする、と宣言しました。
第二ヴァチカン公会議の教えのなかで特に『教会憲章』と『現代世
界憲章』が大切です。
『教会憲章』は「Lumen gentium (諸国民の光)」という言葉で始
まります。
「キリストは諸国民の光であるから、聖霊において参集したこの聖
なる教会会議は、すべての被造物に福音を告げることによって、教
会の面上に輝くキリストの光をもってすべての人を照らすことを切
に望む。」(1項)
教会の使命は、主イエスより光を受けてその光によってこの世界を
照らすことであります。東日本大震災から一年、日本社会は復興へ
の険しい道を歩んでおります。復活のキリストの光を受けて人々の
心に光を灯すことができますよう、今日は特に祈りましょう。
『現代世界憲章』では、現代世界における教会の使命が述べられて
います。『現代世界憲章』はGaudium et spes(喜びと希望)という
言葉で始まっています。
「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に貧しい人々とすべて
苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲
しみと苦しみでもある。真に人間的な事 がらで、キリストの弟子た
ちの心に反響を呼び起こさないものは一つもない」
教会は世界の現状に深い関心を寄せ、人々の悲しみ喜びに深い共感
をもち、その問題解決のために力を尽くすよう召されています。わ
たしたちが、熱意と喜びをもってこの責任を果たすことができます
よう祈りましょう。
今日堅信の秘跡を受けられる皆さん、皆さんはきょう、聖霊の七つ
の賜物を受けられます。それは、「知恵と理解、判断と勇気、神を
知る恵み、神を愛し神を敬う心」です。この賜物を受けて、現代日
本社会の中で喜んで信者の務めを果たすことができますよう、祈り
ましょう。
復活祭メッセージ
主の平和が皆さんとともに。
カトリック東京大司教区の皆さん、主のご復活のお喜びを申し上げ
ます。
復活徹夜祭では多くの方々が洗礼をお受けになりました。心からお
祝い申し上げます。
皆さんは、キリストの十字架と復活の過ぎ越しの神秘に与かり、古
い人に死んで新しい人に生まれ変わりました。古い人とは、罪に支
配される罪の奴隷、という意味であり、新しい人とは神の命を受け
た人、聖霊によって新たに生まれた人、という意味であります。
使徒パウロの言葉を深く心に刻みましょう。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生
きることにもなると信じます。」( ローマ6・8)
教会の使命は、主キリストの復活の証人となる、ということです。
きょうのミサの第一朗読では、使徒ペトロが力強く主の復活を証言
し、イエスが罪と死に打ち勝たれたことを宣言しています。
いま、わたしたち日本の教会は、東日本大震災で苦しむ人々と共に
歩んでいます。 願わくは、わたしたち教会が、復活された主キリストから光を受け、
キリストの光をもって人々を照らし、人々を慰め励ますことができ
ますように。
そのためにより深い信仰のうちに歩むことができますよう、聖霊の
導きを切に祈りましょう。
教皇ベネディクト十六世は第二ヴァチカン公会議開催五十周年を記
念して、本年10月11日より始まる『信仰年』を宣言されました。
第二ヴァチカン公会議の精神を学びながら、わたしたちの信仰を深
めてくださるよう、聖霊の導きを祈りましょう。
父と子と聖霊の祝福が皆さんの上に豊に注がれますように。
2012年4月8日 復活祭
復活徹夜祭説教
2012年4月7日 東京カテドラル関口教会にて
第一朗読 創世記1・1,26-31a
第三朗読 出エジプト14・15-15・1a
第七朗読 エゼキエル36・16-17a,18-28
使徒書の朗読 ローマ6・3-11
福音朗読 マルコ16・1-7
復活徹夜祭は一年の典礼の中で、最も豊かな典礼です。
復活徹夜祭のミサのなかで洗礼式がおこなわれますのできょうは洗
礼についてお話します。
復活徹夜祭のミサでは出エジプト記15章が必ず読まれなければなり
ません。エジプトで奴隷であったイスラエルの民は紅海を渡りエジ
プトから脱出し、エジプトでの隷属から解放されました。この出来
事はあらかじめキリスト者の洗礼の意味を示していると考えられま
す。
元来、洗礼は、実際に体が水の中に沈められ、体が水の中から引き
上げられるという儀式でありました。水に沈められるとは死ぬこと
を意味し、引き上げられる、とは新たに生きる、ということを現し
ています。
洗礼は「死から命へ」の過ぎ越しの神秘を現す秘跡です。それはキ
リストの十字架と復活の神秘に与かることによって、古い自分に死
んで新しい命に生まれ変わることです。
古い人とは、罪に支配される人、罪の奴隷、という意味であり、新
しい人とは神の命を受けた人、聖霊によって新たに生まれた人、を
指しています。きょうの朗読で使徒パウロは教えています。
「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、
罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであ
ると知っています。 死んだ者は、罪から解放されています。 わたし
たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きること
にもなると信じます。」( ローマ6・6-8)
エゼキエルの預言36章では、主なる神はイスラエルの民に「新しい
心」「新しい霊」を与える、と預言しています。
「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を
置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与え
る。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って
歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」(エゼキエ
ル36・26-27)
今日の典礼の第一部は光の祭儀です。闇の中に復活のキリストの光
がともりました。わたしたちはその光を受けて神の命に与るものと
されます。死から命へ、闇から光への神秘がきょうの典礼のテーマ
です。わたしたちが日々、死から命へ、闇から光への神秘を生きる
ことができますよう、ご一緒に祈りましょう。
聖香油のミサ説教
2012年4月7日 東京カテドラル関口教会にて
第一朗読 創世記1・1,26-31a
第三朗読 出エジプト14・15-15・1a
第七朗読 エゼキエル36・16-17a,18-28
使徒書の朗読 ローマ6・3-11
福音朗読 マルコ16・1-7
復活徹夜祭は一年の典礼の中で、最も豊かな典礼です。
復活徹夜祭のミサのなかで洗礼式がおこなわれますのできょうは洗
礼についてお話します。
復活徹夜祭のミサでは出エジプト記15章が必ず読まれなければなり
ません。エジプトで奴隷であったイスラエルの民は紅海を渡りエジ
プトから脱出し、エジプトでの隷属から解放されました。この出来
事はあらかじめキリスト者の洗礼の意味を示していると考えられま
す。
元来、洗礼は、実際に体が水の中に沈められ、体が水の中から引き
上げられるという儀式でありました。水に沈められるとは死ぬこと
を意味し、引き上げられる、とは新たに生きる、ということを現し
ています。
洗礼は「死から命へ」の過ぎ越しの神秘を現す秘跡です。それはキ
リストの十字架と復活の神秘に与かることによって、古い自分に死
んで新しい命に生まれ変わることです。
古い人とは、罪に支配される人、罪の奴隷、という意味であり、新
しい人とは神の命を受けた人、聖霊によって新たに生まれた人、を
指しています。きょうの朗読で使徒パウロは教えています。
「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、
罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであ
ると知っています。 死んだ者は、罪から解放されています。 わたし
たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きること
にもなると信じます。」( ローマ6・6-8)
エゼキエルの預言36章では、主なる神はイスラエルの民に「新しい
心」「新しい霊」を与える、と預言しています。
「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を
置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与え
る。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って
歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」(エゼキエ
ル36・26-27)
今日の典礼の第一部は光の祭儀です。闇の中に復活のキリストの光
がともりました。わたしたちはその光を受けて神の命に与るものと
されます。死から命へ、闇から光への神秘がきょうの典礼のテーマ
です。わたしたちが日々、死から命へ、闇から光への神秘を生きる
ことができますよう、ご一緒に祈りましょう。
受難の主日説教
2012年4月1日 関口教会にて
第一朗読 イザヤ50・4-7
第二朗読 フィリピ2・6-11
福音朗読 マルコ15・1-39
きょうは受難の主日、イエスのエルサレム入場を記念すると共に、
主イエスの受難を深く黙想する日であります。
イエスは神と等しい方でありながら人間と同じ者となり、僕の姿を
とられました。ご自身、まったく罪と関わりのない方でしたが、わ
たしたちのために、わたしたちの罪の結果である呪いをお受けになっ
たのです。
今日読まれたマルコ福音書によれば、十字架上のイエス大声で叫ん
で言われました。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
マルコによれば、その意味は、「わが神、わが神、なぜわたしをお
見捨てになったのですか」という意味です。(マルコ15・34)
罪とは、神から離れている状態です。イエスは、ご自身罪をおかさ
れなかったにもかかわらず、十字架の上で、父である神から見捨て
られ、神から離される、という苦悩を体験しました。さまざまな苦
しみ、心身の苦しみのなかで、神から見捨てられる苦しみがもっと
も残酷な苦しみです。
神の沈黙を嘆く言葉です。愛する独り子イエスの受難の時、父は沈
黙したままでした。「神の沈黙」をテーマにした『沈黙』という著
名な小説があります。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」は、
本日の答唱詩編である詩編22編の冒頭の言葉です。
「わたしの力である神よ、今すぐにわたしを助けにきてください。」
(詩編22
20)
「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすみません。御顔を
隠すことなく
助けを求める叫びを聞いてくださいます。」(詩編22
25)
この詩編は、苦悩の中でなお神への信頼を告白しています。
「イエスは大声を出して息を引き取られた。」( マルコ15・37)
イエスは何と言われたのでしょうか?ルカによれば「 父よ、わたし
の霊を御手にゆだねます」( ルカ23・46)
と言って息を引き取られま
した。
この様子を見ていた異邦人の百人隊長は強い印象を受けました。
「 本当に、この人は神の子だった。」
神の独り子は神から見捨てられる程の思いまで体験されたのです。
それは、わたしたが「神が沈黙しているのではないか」というべき
場面に遭遇した時に、信仰を新たにし、信仰を深くするよう励ます
ためではなかったでしょうか。
今年の10月11日は第二ヴァチカン公会議が開始して五十周年の日で
す。この日を期して、『信仰年』が始まります。『信仰年』を迎え
るに当たりわたしたちの信仰を深めてくださるよう祈りましょう。
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