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人権・同和問題啓発資料 №21

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人権・同和問題啓発資料 №21
人権・同和問題啓発資料
しあわせに生きる
№27
三木市立総合隣保館
-は
じ
め
に―
このたび、総合隣保館がこの一年間に取り組んできました人権啓
発活動の一端を冊子にまとめました。
この 冊 子 に は 、 本 年 度 の 文 化 祭 に お い て 、「今、あらためて人権
について考える」と題した、部落解放・人権研究所所長の友永健三
さんのご講演内容、そして人権フォーラムで、人権・同和問題の解
決に取り組んでおられる方々に発表していただいた人権・同和問題
に対する熱い思いや実践を掲載しています。
この冊子を、ひとりでも多くの方々に読んでいただくことにより、
人権を大切にする気運が高まり、人権尊重のまちづくりの輪が広が
っていくことを願ってやみません。
発刊に あ た り ま し て 、 講 師、発 表者の方々のあたたかいご理解、
ご協力のもとに、この啓発冊子ができあがりましたことを心から感
謝申しあげます。
平成21年3月
三木市立総合隣保館
目
次
第1部(第25回総合隣保館文化祭記念講演)
Ⅰ 今、あらためて人権について考える………………………… 1
部落解放・人権研究所所長
友 永 健 三
第2部(人権フォーラム -私のひとこと-から)
Ⅰ
ダウン症の子の父親として…………………………………… 37
解放同盟支部員
Ⅱ
私と手話………………………………………………………… 46
手話サークル「みき」
Ⅲ
女性、障がい者、部落
帆 先 日 登 美
3つの差別の中に思う事 ……… 50
解放同盟支部員
Ⅳ
橋 本 裕 二
嶋 田 千 津 子
今、思うこと…………………………………………………… 55
解放同盟支部員
木 多 た え 子
第1部(第25回総合隣保館文化祭記念講演)
今、あらためて人権について考える
― 世界人権宣言60周年にあたって ―
部落解放・人権研究所所長 友 永 健 三
皆さん、おはようございます。今紹介いただきました友永と申します。皆さ
ん方もご存知だと思いますが、12 月 4 日から 10 日までというのは、人権週
間なんですね。この人権週間というのは、なぜ作られたかといいますと、今日
皆さんにお話します世界人権宣言を記念して作られた週間なんです。今日のテ
ーマは世界人権宣言を中心にお話したいと思っています。
今からお話します内容は、前の画面と皆さんにお配りしているものは同じも
のですので、どちらか見ていただいたらいいと思います。今年は、今申しあげ
ました世界人権宣言が出されまして、ちょうど 60 周年ということで節目の年
にあたっております。7つ切り口を作りまして、世界人権宣言が語りかけてい
る内容について皆さんと一緒に考えてみたいというのが今日のお話の主旨で
す。
〈平和なくして人権なし 人権なくして平和なし〉
まず一番目は、「平和なくして人権なし、人権なくして平和なし」という言
葉がありますけれども、平和と人権の関係について考えてみようということな
んです。世界人権宣言というのは、皆さん方のお手元の資料で見ていただきま
すと、後ろから2枚目の資料ですね、そこから世界人権宣言を入れています。
(資料①)前文がありまして、1 条から 30 条までの条文なんです。この前文
のところから取り出した一部が、今皆さんにご覧いただいているところでして、
こういうことを言っています。「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平
等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及
び平和の基礎であるので…」という言葉から始まっています。ここで大事な点
は、人権ということを守ることが世界の平和の基礎であると言っている点に注
目していただきたいんです。次の段落のところで、「人権の無視及び軽侮が人
類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし…」ということを言っています。
- 1 -
これが一番目のテーマであります人権と平和の関係を考える手がかりなんで
す。説明いたしますと、世界人権宣言というのは、1948 年 12 月 10 日、
昭和で言いますと 23 年になりますかね。国連の第3回目の総会で採択された
んですけれども、これは第二次世界大戦、日本では太平洋戦争と呼んでいます
けれども、世界的な戦争でしたので第二次世界大戦と呼ばれていますね、これ
の反省のなかから人権という名前の付いた宣言が採択されたんです。なぜ第二
次世界大戦の反省が人権という名前の付いた宣言を生み出したのか調べてい
きますと、二つ理由があるんです。
ひとつの理由は、第二次世界大戦で一体何人の人が亡くなったのかというこ
となんですけれども、いろんな本を読みますと、5 千万人から 6 千万人の人
が亡くなっているんです。
今日本の人口は 1 億 2 千万人程度だと思いますが、
日本の人口の半分にも及ぶ人が前の戦争で亡くなったんですね。ですから、よ
く「戦争こそ最大の人権侵害である」という言葉があります。戦争になったら、
人権も何もなくなってしまうわけです。この反省の中から、人権宣言が採択さ
れたということがひとつの理由として考えられます。
しかし、多くの人が亡くなったということだけでしたら、私は平和宣言だと
思うんです。あるいは、戦争をやめようという宣言になったと思います。しか
し、国連が採択したのは、あくまでも人権宣言です。そうすると二つ目の理由
がとても重要な理由になってくるわけですけど、単に多くの人が殺されたとい
うだけではなく、残虐な形で、むごたらしい形で殺されたという問題がありま
す。
ひとつの具体的な例を皆さんに見ていただいた方がわかりやすいので、ここ
に 2 枚の写真を取り上げてみたいと思います。皆さん方から見て左側の写真
がありますけれども、これは生きておられたときの写真なんです。現物はどこ
にあるかといいますと、ヨーロッパの中央部にある国でオーストリア、首都は
ウイーンで、そのウイーンから南の方へ車で 2 時間ほど走りますとマウトハ
ウゼンという町があります。ここに強制収容所があったんです。現在、資料館
として一般公開されておりまして、誰でも見ることができるんです。私もたま
たまここに行く機会があって、いろんなものを見てきたんです。そのときに、
この 2 枚の写真には本当に驚いたんです。なぜかといいいますと、この方は
- 2 -
生きておられたときは、学校の先生だったんです。オランダで学校の先生をし
ておられたんです。オランダは、ご存知のようにナチスの占領下に入ったんで
す。日本で一番よく知られておりますのは、アンネフランクという女性が捕ら
えられて、最後は殺されてしまいましたけれども、彼女はオランダのアムステ
ルダムというところで隠家に息を潜めて生活していたんです。そのときに日記
を書いたんですけれども、それが日本の子どもたちの長く教科書に「アンネフ
ランクの日記」ということで載っていたんです。この方も、オランダでナチス
に捕まってしまったんですけれども、なぜ捕まったかといいますと、この方は
身体障がい者であったからなんです。私は、ナチスがユダヤ人を虐殺したとい
うのは本もありますし、テレビでも番組があって知っていましたけれども、実
はこの写真を見るまでは身体障がい者も犠牲になったことは知らなかったん
です。この方は最後にどうなったかというと、右の写真を見ていただいたらわ
かりますけれども、殺されまして骨の標本にされてしまったんです。実にひど
いことをしたということです。
問題は日本との関係で、アジアの問題なんですけれども資料の 6 ページを
見ていただきたいんです。これは、日本と中国と韓国の近現代史を研究してい
る研究者が共通の教科書を作ろうではないかということで作業をやりまして、
とりあえずひとつの成果として 2005 年に「未来をひらく歴史 東アジア三
国の近現代史」という本が出ているんです。これを読みまして、コラム元日本
兵の証言というのに、これは非常に貴重な証言なので、ひとりでも多くの人に
知ってもらった方がいいと思って使わせていただいたんですが、これの二つ目
の段落のところを見ていただきたいと思います。
「私たちは教育によって中国人は人間以下の人種だと教え込まれ、中国人を殺
そうが豚や鶏を殺すのと同じでべつに罪にもならないし、殺すことは天皇のた
め、日本の国のためになると思っていました。1941 年 9 月頃、山西省北部
の抗日根拠地に掃討作戦に行きました。八路軍がいるという情報が入ると、そ
の部落に進撃します。すると八路軍は逃げますから、逃げたあとの部落に入っ
て、金や物資、医療などを略奪し、隠れている女性を探して、何人かの兵隊で
輪かんしてしまうのです。強かんや輪かんのあとは殺すのが通例でした。
」と
言ってますね。そしてちょっと飛びますが、
- 3 -
「私は、私を含めた日本軍兵士が中国で殺した罪のないたくさんの人々のこと、
強かんや輪かんをして殺したり、辱めたりした女性たちのことを思うと、夜も
眠れない気持ちになります。私たちの犯した罪の重さや被害者の苦しみは消え
ることはありませんが、日本の国としての誠心誠意の謝罪や償いがあれば、少
しは私たちの心の重みも楽になります。近藤さんは『命のかぎり戦争の事実を
語っていきたい』と全国で証言活動をつづけています。
」
と書いているんですね。私が読みましたところの最初の部分に、第二次世界大
戦の反省が、なぜ人権という名前の宣言を生み出したのかという理由が表され
ていると思います。
「私たちは教育によって中国人は人間以下だと教え込まれ
て、中国人を殺そうが、豚や鶏を殺すのと同じでべつに罪にもならないし・・・」
という箇所です。つまり、人間が人間に対してなぜこんなひどいことをしてし
まったのかというと、ここには差別という問題があったわけです。人権という
ものを軽く考える、ないがしろにするという風潮があったんです。ですから、
あのような被害をもたらした戦争というものを防ぐためには、平和というもの
を 100 回繰り返して叫んでも平和はやってこないんですね。差別をなくして
人権を守れば、こういうことを防ぐことができるわけです。ですから、国連が
採択したのは平和宣言ではなく人権宣言であったということです。差別をなく
し人権を守ることが恒久平和、恒久平和というのは戦争が一切ない状態ですね、
を実現することに通じるという考え方が世界人権宣言の基本的な理念である
ということが言えると思うんです。
この観点から、今の世界とか日本を見たときにどうかということなんですけ
れども、残念ながら世界ではまだ戦争が続いているんです。イラク戦争、アフ
ガニスタンの戦争とか、アフリカのいくつかの地域で民族戦争がいまだに続い
ているんです。それで、多くの人が亡くなってるわけです。
日本ではどうかということなんですけれども、皆さんもこの新聞記事はご覧
になったことがあると思います。田母神さんという航空自衛隊のトップですね、
航空幕僚長という役職があるんですが、この方が懸賞論文がありまして、その
懸賞論文に応募して当たったんです。懸賞が 300 万円というかなり高額な懸
賞金ですけど、これはインターネットで取れるんです。私もこれ読みましたけ
ど、本当に驚きました。近藤さんと全く逆の考え方ですね。「日本は前の戦争
- 4 -
で基本的に何も悪いことはしていない、いろいろと批判されるのは濡れ衣だ」
というんです。感謝はしてもらうことはあっても、言われるほど悪いことはや
っていないということを書いておられるんです。
内容から見ても私は驚きましたけども、もうひとつ考えなければいけない点
は、この方は自衛隊のトップなんです、幹部なんです。前の戦争で、日本が戦
争に入っていったときのことを考えていくと、いわゆる軍部が独走してしまっ
たんです。それで政治家の言うことを聞かなくなってしまったんです。それで
あのような戦争になってしまって、日本が敗戦して大変な被害を日本も受けた
んですけれども、そういうことを繰り返さないために文民統制という言葉があ
ります。いわゆる軍人が勝手に計画を作って作戦行動をやってはいけないわけ
であって、やはり文民、軍人ではない内閣の指示に従って行動しなければいけ
ないという大原則です。
前の戦争については、村山総理大臣のときに村山談話を出したんです。それ
は、やっぱり前の戦争では周辺のアジアの諸国に対して日本は大変な被害を与
えて、全く申し訳ないと思っている、再びこういうことがないために全力を挙
げたいと思っているということで、はっきりと謝罪の意思を示されたんです。
これが内閣の意思なんです。ですから、文民統制ということでいくならば、そ
の考え方に自衛隊の幹部の方は従ってもらわないと大変なことになるんです。
しかし、全く逆のことを公然と文章にして書かれて、これは当然問題になりま
して、皆さんご存知のように更迭されましたですね。国会でも証人という形で、
どういうことでこうなったのかという追求がありましたけれども、新聞報道な
どを見ていきますと単にこの方が個人的にやっただけでなく、かなり組織だっ
て応募していたというのもわかってきましたし、この方は幹部を育てるために
自衛隊の中に学校があるんですが、ここの校長先生をしておられたんです。で
すから、どういう教育が自衛隊の中で行われているかということが問われてく
るという非常に大きな問題が出てきたんです。私は今回の問題は、非常に大き
な問題だと思っているんですが、第二次世界大戦の反省ということをしっかり
とやって、再び日本がそういうまちがいを犯さないようにしていかなければい
けないということが再び問われているんじゃないかと思っているんです。これ
が一番目の問題点です。
- 5 -
〈 法の支配によって人権を守ることが大切 〉
2 番目ですが、法の支配によって人権を守ることが大切だということなんで
す。これは、どういうことから言えるかということですが、世界人権宣言の前
文の中に「人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることが
ないようにするためには、法の支配によって人権を保護することが肝要である
ので…」という文章があります。これは非常に大事なことで、ひどい人権侵害
を受けたり、ひどい差別を受けたときに、やはり法律に基づいて被害が救済さ
れるということがなかったら、人間はあまりにもひどい人権侵害とか、あまり
にもひどい差別を受けたら、がまんできないんです。そうすると、法律によっ
て保護されてない場合は、実力で抗議するしかないんです。そういうことにな
らないためには、法律をきちっと整備して、こういう差別を受けた場合には、
こういう方法がある、あるいは人権侵害を受けた場合にはこういう方法で救済
されるということで、法律とか制度を整備する必要があるということを世界人
権宣言は言っているんです。
では、具体的にどういう手立てを講じてきたかということですが、皆さん方
のお手元の資料でいきますと、7 ページをご覧になっていただきたいと思いま
す。ここに国連が中心となって作った人権関係諸条約の一覧を入れています。
(資料②)世界人権宣言というのは、非常に重要なものですけれども1条から
30条までの条文しかありませんし、宣言という言葉に代表されていますよう
に言いっぱなしなんです。世界人権宣言に書かれたことが守られていない場合
はどうするのかといいましても、特に書いてないんです。宣言というのは、決
意の表明ですから、皆さんこういうふうにしましょうと言っているだけであっ
て、言ったことが守られていなかったらどうするかということは書いてないん
です。その欠陥を補うためにどうしたかというと、条約を作っていったんです。
世界人権宣言の考え方を基礎にして、ひとつひとつの人権侵害、あるいは差別
ごとに条約を作って、そして実際に差別や人権侵害がなくなるようにしようと
いうことで努力してきたわけです。国連だけでも、30 の条約があるんです。
この中で皆さん方もご存知のものといいますと、一番目から四番目までの条約
をあわせて、ここに書きました国際人権規約と言います。国際人権規約という
- 6 -
のは、四つの条約を合わせて呼ぶ呼び方なんです。その中には社会権を主に書
いたものとか自由権を主に書いたものとかがあるんです。それからこの一覧表
からいきますと五番目に書いていますのが人種差別撤廃条約です。少し下にい
きまして、8番目ですかね、女性差別撤廃条約、それからずっと下にいきまし
て 24 番目、子どもの権利条約ですね。最近、一番新しく国連が作りましたの
が「障害者権利条約」ですね。この表は非常に貴重な表ですので、またお帰り
になってゆっくりご覧になっていただきたいんです。
この一覧表の見方を説明しておきますと、一番左側の番号は便宜上つけたも
ので、条約に番号がついているわけではありません。次に名称と書いています
ね、これは条約の名前です。採択年月日という欄がありますが、これは国連総
会でこういう条約を作ろうということを議論して最後は採択するんですが、国
連総会で承認された日ということです。それから発効年月日と書いていますね、
これはどういうことかといいますと、具体的に言った方がわかりやすいので、
1 番目の条約を見てください。経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規
約という条約がありますけれども、この条約の場合は、35 の国が入ったなら
ば、国際的な条約として実際に効き目を発揮するということが書かれてあるん
です。その 35 の国がそろったのが 1976 年 1 月 3 日であるということなん
です。国際的に条約として効力を発揮した、発効といいますけれども、効力を
発揮したということです。一番右端の欄がありますね、これは日本が入ってい
るかどうかという欄です。黒い丸がついているところは日本が入っている条約
です。括弧の中はいつ入ったかということです。問題は、この黒い丸の数が
12 しかないんです。全体で 30 あるんですよ、30 の条約があるにもかかわ
らず、日本が入っている条約は 12 しかないんです。半分が 15 ですね、とい
うことは半分も入っていないということです。高等学校の試験で半分以下だっ
たら欠点で、もう一度試験を受けないといけないんです。ですから日本は経済
的には発展した国だけれども、人権の面では遅れているのではないかという批
判が国際的にはあるということをお聞きになったことがあると思いますけど、
その理由のひとつはこの表にあるんです。この表で見る限り、日本はあまりに
熱心ではないといわざるを得ないです。
いずれにしても、二つ目の問題点は、人権を守って差別をなくすためには、
- 7 -
やっぱり法律というものをきっちりと整備して、そして差別があった場合、人
権侵害があった場合には、その法律に基づいて救済が図られていくという、そ
ういうシステムを作っていかなくてはいけないという考え方です。これは非常
に大事な考え方で、まず国連が実行しているわけです。そして、ご覧のように
条約を作っているということです。
ところが、条約を作った、あるいは条約に入っただけで守られるかというと、
そんなに簡単なものではないですね。条約を作るということの次に、国連が力
を入れていることは、後で説明しますが、知ってもらうということです。もう
ひとつは、守られているかどうかということを絶えず調べて、守られていなか
ったら守りなさいということを働きかけるということに力を入れているんで
す。これを実施というんです。そのやり方が、ここに書きました国連人権理事
会での普遍的定期審査と書いてますね。これは 2006 年から始まった新しい
やり方で、あまり知られていないですけど、これは非常に大事な人権を守るた
めの仕組みなんです。国連人権理事会というのは何かというと、国連総会の下
に作られている組織です。47 の国が選挙で選ばれます。今、国連に入ってい
る国の数は 192 です。192 の国の中から立候補しまして選挙で選ばれます。
日本は手を上げて選ばれました。だから日本は国連の人権理事会の構成メンバ
ー国です。この国連人権理事会が何をするのかということですが、ひとつの大
きな仕事として国連に入っております国を、その国の中で人権が守られている
かどうかということを4年に1回審査するんです。この国連人権理事会自体が、
国連に入っている国が本当に人権を守っているかどうかということを審査す
るんです。192 の国を一度に審査できませんので、まず人権理事会になって
いる国から審査しようということになったんです。今年の 5 月に日本の人権
状況が審査されたわけです。その結果はあとで紹介しますけれどもね。ここは
よくやっているけれども、ここは問題があるから改めなさいと日本に対して
27 項目の勧告が出たんです。人権理事会を作って、そこが人権を守っている
かどうかということを審査するやり方です。
二つ目の大きなやり方は、条約の監視委員会というのがあります。つまり、
条約に入った国がその条約を守っているかどうかを監視するんです。どのよう
にして監視するかというと、報告書を出してもらうんです。その報告書を専門
- 8 -
の人たちが調べます。具体的に言いますと、7 ページの一覧表の一番目の経済
的、社会的及び文化的権利に関する国際規約がありますね、日本はこの条約に
入っておりますけれども、この条約の場合、5 年に一度、その国がこの条約を
守っているかどうかということで報告書を出してもらうんです。その出された
報告書を、この 1 番目の条約に入っております国の中から個人の資格で、専
門家の人が選挙で 18 人選ばれます。その 18 人の専門家の人たちが、提出さ
れてきた報告書を審査するわけです。ただし、自分の国の報告書の審査にはか
かわれないことになっています。たまたまこの委員会には、日本からは委員は
出ておりませんけれども、たとえば、この委員会の委員に選ばれていたとした
ら、日本の報告書は日本の人が調べたらいけないんです。自分の国をひいきす
るということになってはいけないので、自国の報告書の審査にはかかわれない
わけです。他の国の専門家の人が審査するという、そういうシステムなんです。
それで、ここはよくやっているけど、ここは問題だということで勧告が出てく
るわけです。だから、条約に入ったらおしまいではなくて、守っているかどう
かということを調べられるということです。
それから、一番下に書いていますが、個人からの通報というのがありますね。
これは、実は日本は認めてないので日本ではほとんど知られていないですけれ
ども、非常に大事な制度なんです。ちょっと紹介しますと、7 ページの条約一
覧表の 3 番目の条約を見てください。
「市民的及び政治的権利に関する国際規
約の選択議定書」と書いてますね。これは 111 の国が入っていると書いてあ
るんですが、これはどういう条約であるかといいますと、2 番目の「市民的及
び政治的権利に関する国際規約」という条約があります。これは主として、自
由権を定めた条約なんですが、この2番目の条約に入っております国で、なお
かつ 3 番目の条約に入った国の場合は、個人であったとしても、たった一人
であったとしても、自由権規約、2 番目の条約が守られていないと思った場合、
直接国連に個人が訴えることができるんです。その訴えを自由権規約の委員会
が調べるわけです。それで、明らかに自由権規約に違反していると思われたら、
自由権規約の委員会が、こういうふうに改めたらどうですかということで意見
を公表するわけです。そういう救済の方法です。条約を作ったらおしまいでは
なくて、条約が守られるための工夫をやっているということがこれでわかって
- 9 -
いただけると思います。
それで入った国、たとえば日本国内で何が求められるかというと、国内法整
備をしないといけないという問題があります。皆さん方がご存知の例をひとつ
あげますと、この一覧表でいきますと 8 番目の「女性差別撤廃条約」に日本
が入りましたけれども、「女性差別撤廃条約」に入ったときにどんな問題が起
こったかといいますと、「国籍法」を変えたんです。なぜ変えたかといいます
と、日本の最高裁判所の判例、それから政府の見解、専門家の見解で憲法が最
高の法律なんです。日本国内の最高の法律は憲法が最高で、憲法に違反する条
約には入れないんです。その次に条約が順番としてきます。そして 3 番目に
個々の法律がくるわけです。この上下関係が大事なんです。だから、条約の方
が個々の法律よりも優先するわけです。国籍を決める法律は「国籍法」という
んですが、これは個々の法律ですから「女性差別撤廃条約」とどちらが強いか
といいますと条約の方が強いんです。
「女性差別撤廃条約」というのは、女性
を差別してはいけないという条約です。
ところが、それまでの日本の「国籍法」は父親の国籍を子どもの国籍にする
という考え方をしていたんです。これは父系血統、父親の血統を優先するとい
うのが日本の「国籍法」の考え方です。ところが、アメリカは日本の「国籍法」
と違う考え方なんです。アメリカは生まれた国で国籍を取るという考え方なん
です。これは出生地主義と言います。その結果、沖縄で大問題が起こったんで
す。なぜかというと、父親はアメリカの軍人で、母親が日本の国籍を持ってい
る女性である、その間に子どもが生まれたんです。そうすると、アメリカは生
まれた国で国籍を取るわけですから、日本で取らないといけないんです。とこ
ろが、日本の「国籍法」は父親の血統が優先なのでアメリカで取ってくれとな
るわけです。その結果、国籍のない子どもたちが生まれたんです。国籍が取れ
ない。そういう矛盾も生まれてきたんです。「女性差別撤廃条約」に入るとき
に、問題になったわけです。父親の血統を優先するという考え方は、「女性差
別撤廃条約」に違反するのではないかということになりまして、最終的にどう
したかというと、「国籍法」を変えたんです。それで、子どもが確か18歳だ
ったと思いますが、18 歳になった段階でどちらかの国籍を選んだらいいとい
うことにしたんです。
- 10 -
それともうひとつ、これもよく新聞とかテレビで取り上げるのでお聞きにな
ったことがあると思いますが、雇用面において女性差別をしてはいけないとい
う考え方が「女性差別撤廃条約」にあったんです。しかし、日本の国内の法律
で、雇用面で女性を差別してはいけないという法律がなかったんです。そこで、
「男女雇用機会均等法」という法律を作りました。このような形で日本が経験
したことを思い出していただいたらわかりますけれども、条約に入っただけで
はだめで、条約の中身を踏まえて日本の国内法を変えなければいけないという
問題があるんです。これが国内法整備です。
二つ目、裁判所での救済ということです。この点で大事なことは、日本が入
りました条約は、日本の国内法になります。国内法になるというのはどういう
意味かといいますと、日本の法律をまとめているものを「六法全書」といいま
すが、その六法全書に載るということです。ですから、日本が入った条約は今
12 ありますけれども、この 12 の条約は「六法全書」に載っています。載っ
ているということは、裁判でも使えるということになるわけです。現に、日本
が入りました条約を元に裁判が起こっています。ですから、日本が入りました
条約を日本の国内法として考えて、その条約に定められている権利が侵害され
ている場合は、裁判で訴えることができるんです。
三つ目、これは今我々が国に対して求め続けているテーマです。つまり、裁
判所で救済するというのは最後の手段なんですけれども、皆さん方もご存知の
ように裁判というのはお金がかかるんです。裁判はただではできないです。か
なりお金がかかります。それから時間がかかるんですね。裁判というのは、や
っぱり何年かかかるのが普通です。すぐに結論出してくれないんですね。それ
から裁判に訴えた人が、なぜ訴えたのかということで立証しないといけないん
です。これは大変なことなんです。ですから、通常どういうことが起こるかと
いいますと、「泣き寝入り」が起こるんです。お金もかかるし、裁判に訴えて
もいつ結論が出るかわからないし、しかも訴えた側が非常に厳密な形で、こう
いう形で法律に違反しているという立証をしないといけない。それだったら我
慢するということで、「泣き寝入り」しているんですね。裁判が持っているこ
のような限界を補うのが、人権委員会による救済ということなんです。日本は
まだないですが、そういうものを作ろうと今議論しているんです。
- 11 -
人権委員会というのはどういうものかといいますと、行政委員会なんです。
皆さん方のご存知の例で言いますと、労働委員会というのをお聞きになったこ
とがあると思います。不当労働行為があった場合、これは地方労働委員会と中
央労働委員会があるんですね。兵庫県だったら兵庫県の労働委員会があって、
そこでどうしてもうまくいかなかったら、中央労働委員会があるんですが、こ
れは行政委員会です。裁判所ではないんですね。この行政委員会の非常に大き
な特徴は、基本的には無料です。それと、あまり時間をかけないんです。裁判
所ほど時間をかけないです。長くても 1 年以内とかね。短期間で一定の結論
を出して、訴えた内容について解決策を示す。そういうシステムを持っている
ものです。ですから条約に入っただけではだめであって、国内で国内法を整備
するということと、その条約を使って裁判所で救済が図られるということと、
裁判というのはお金もかかり、時間もかかるということがありますので、行政
委員会、人権委員会を作って、そこが無料で短期間で相談に乗って一定の解決
策を示すという、この三つが必要なんです。
具体的に、今私が言いましたことから日本にどういう課題があるかというこ
とを申しあげますと、1 番目は締結した条約を受けた国内法整備をしないとい
けないということです。「女性差別撤廃条約」のように国内法を作った条約も
あるし、作っていない条約もあるんです。それから裁判所で条約をもっと活用
するということが大事です。裁判所でもっと条約を活用しようと思ったら、裁
判官が条約を知っていないといけないんです。だけど、日本が作った条約を勉
強している裁判官はあまり多くないです。だから、裁判官に日本が入った条約
をもっと勉強してもらうということが大事です。それから、さきほど言いまし
たように日本ではまだありませんが、人権委員会を早く作ってもらいたいとい
うことです。それから国連が出した勧告、日本の人権状況のこの点は改めた方
がいいですよという勧告がありますから、それを守っていかないといけないと
いうことです。それから日本は個人からの訴えを認めた条約については、一切
入ってないんです。
たとえば、7 ページの一覧表を見ていただきたいんですが、さきほど3番目
の 111 入っている条約があるといいましたね、そこは日本のところに黒丸が
付いてないですね。だから、日本の場合は個人からの訴えというのはできない
- 12 -
んです。それから、9 番目の条約を見てください。この条約は何かといいます
と「女性差別撤廃条約」、これに入っている国で「女性差別撤廃条約に関する
条約の選択議定書」に入っている国の場合は、個人でも訴えられるんです。
「女
性差別撤廃条約」に入っているけれども守られていないという場合は、9 番目
の条約に入っている国の場合は訴えることができるんです。ところが、日本は
これにも入ってないんです。ということは、日本は一貫して個人からの訴えを
認めてないんです。
111 も入っているのに、なぜ日本が入ってないのか、皆さん方もなぜ入っ
てないのかという疑問が当然出てくると思います。その理由は、日本は地裁、
高裁、最高裁ということで 3 回裁判所で争うことができる。それで最高裁の
決定が最高だと、それ以上のものはいらないという理由なんです。それが入ら
ない理由です。ところが、最高裁判所で決定が出ても人権規約が守られていな
いと思った場合は、この 3 番目の条約を使ったら訴えることができます。最
高裁判所よりまだ上のものができるじゃないかというのが日本が入らない理
由なんです。最高でなくなってしまうわけです。しかし、この理由はなぜおか
しいかといいますと、111 の国が入っていますね。そしたら、この 111 の
国に最高裁判所がないのかというとすべてあるんです。そしたら最高裁判所が
ある国がなぜ入っているかというと、この人権規約委員会が意見を出しますけ
れども、その意見は裁判所の判決ではないということです。専門家の助言とい
うことです。人権規約委員会がこういう訴えが来て、こうしたらどうですかと
意見を出しますが、それは助言なんです。裁判所の決定というのは拘束力があ
りますね。そいう拘束力を持ったものではありません。専門家としてこういう
ように考えているけれども、検討したらどうですかという助言なんです。だか
ら、その助言を受け入れるかどうかという最終的な判断は当然裁判所に任され
ているし、その国の政府に任されているんです。専門家の助言だったら耳を傾
けてもいいのではないかということで、認めているのが 111 の国です。当然
日本も、専門家の意見に耳を傾けるという国際社会に開かれた姿勢を取れなく
もないと思うんです。今のところ、残念ながらそういう決断を政府はしていま
せんので、個人からの訴えを認めた条約には入っていないということです。
それから、一覧表をご覧になっておわかりのように、日本が入っていない条
- 13 -
約はたくさんありますので、できるだけ早く入った方がいいということです。
これだけの課題があるわけです。この中で、ひとつだけ新しい仕組みで先ほど
説明しますと言ったことについて述べますと、この国連の勧告の履行を書いた
資料③ですね、これを説明しておきます。8 ページ、9 ページをご覧ください。
この 8 ページ、9 ページは、新しくできた国連の人権理事会が 4 年に 1 度、
国連に入っている国の人権を審査して勧告を出すんです。人権理事会に選ばれ
た国からまず審査しようじゃないかということで、日本が審査されたんです。
その結果をまとめた文章が 8 ページから 9 ページです。これをご覧になって
おわかりいただけると思いますが、今年の 5 月 9 日に日本が果たして人権を
守っているか国かということで審査があったんです。そして、5 月 14 日に
26 項目の勧告が出たわけです。この普遍的定期審査というやり方は、勧告が
出たら必ずすべてをそのまま認めないといけないというわけではなくて、たと
えば日本の場合ですと、日本政府の考え方を言うことができるんです。「この
勧告は受け入れます、改めるために努力します。この勧告は意見が違いますか
ら受け入れられません」ということを言うことができるんです。その日本政府
の見解が示されたのは、6 月 12 日なんです。国連人権理事会が 26 の勧告を
出しましたけれども、最終的に日本政府が受け入れを決めたのは 17 なんです。
17 の勧告については、勧告を受け入れて努力しますと約束したんです。とい
うことは、9 つの勧告については拒否したんです。
受け入れますと約束したのはどういうものかといいますと、それは 8 ペー
ジの左側の文章の下から 6 行目に、
「受け入れた勧告には・・・」と書いていま
すね。
「パリ原則に沿った人権機関を設置すること」これは何かといいますと、
さきほど言いました人権委員会を日本でも作りますということなんです。
「女
性を差別するすべての法規定を廃止し女性に対する差別に関する対策を継続
すること」これは日本政府は受け入れたんです。それから、「マイノリティに
属する女性が直面する問題に取り組む」このマイノリティに属する女性は誰か
というと、たとえば被差別部落の女性とか、在日コリアンの女性とか、アイヌ
の女性という意味なんです。だから、被差別部落の女性が直面する問題に日本
が取り組むということが約束されたわけです。こういった点が受け入れた項目
の中に入っているということです。
- 14 -
では、受け入れなかった項目は何かということですが、9 つあるんですが、
それは今皆さんに見ていただいている 8 ページの右の文章の下から 15 行目
に「受け入れられなかった勧告」と書いてますね。
ひとつは何かといいますと、差別を禁止する法律を作る必要があるんです。
しかし、日本政府は差別を禁止する法律は必要ないということで拒否したんで
す。日本国憲法第 14 条で差別を禁止しているので、それ以上のものはいらな
いということで受け入れなかったんです。
それから次の説明との関係がありますので、9 ページをご覧になってくださ
い。9 ページも左と右に文章が分かれていますね。左の文章の下から 11 行目
に死刑廃止というのがありますね。これは今非常に大きな問題になってきてい
ますので、あとで詳しくふれたいと思いますけれども、今国際社会は死刑廃止
の方に流れています。137 の国で、今死刑をやっていません。しかし、皆さ
んがご存知のように日本は死刑制度があるんですね。昨日もNHKで裁判員制
度の特集をやっていましたけど、死刑判決を出すか出さないかということで裁
判員が模擬裁判やっていました。だから、皆さん方も裁判員に選ばれた方は、
裁判員というのは重い罪の裁判だけにかかわるので、当然死刑という判決にか
かわることになるわけです。一審だけかかわるんですけれども、死刑という問
題は真剣に考えていかないと、今までは裁判官が判決を出していましたけれど
も、これからは我々もその裁判に参加しなくてはいけないということになって
きているんです。だから、自分自身が死刑という問題にどういう考え方を持つ
かということが問われてくることになるんです。国際社会は廃止の方向なんで
す。日本政府は必要だという考え方なんです。ご覧いただいている資料には、
「死刑の廃止に及んでは、日本は死刑執行停止措置の承認も死刑廃止も検討す
る立場にはないと、真っ向から勧告に反対する姿勢を示したばかりか、報告書
採択から一週間も経たない 6 月 17 日に、法務省は 3 名の死刑確定囚の死刑
を執行している。
」と書いていますね。最近、死刑の執行が増えているんです。
国際社会は死刑廃止という形で、死刑を廃止した国が今どんどん増えていって
いるんです。日本だけが逆の方向でいっているわけです。なぜ死刑制度に問題
があるかというと、あとで説明しますが、人権理事会の普遍的定期審査という
ものが日本に対してどういう議論をやったかということを今皆さんに紹介し
- 15 -
たんです。
〈 知られない権利は守られない 〉
続きまして 3 番目、知られない権利は守られないという点です。人権とい
うことを考えるときにいくつか大事な格言ですね、ことわざがあるんですが、
一番大事な格言はこれなんです。「知られない権利は守られない」という言葉
があるんです。これはどういうことかといいますと、これが人権であると知ら
ない人があるとしますね、その人が人権を奪われていたとしても、奪われてい
ることすらわからないです。考えてみると、これほどの悲劇はないですね。人
類が長い間努力して、こういうものを人権として確立しようと、ひとつひとつ
人権を闘い取ってきたんです。闘いなしに確立された人権というのはひとつも
ないんです。今我々が人権と呼んでいるものの中身は、本当に多くの人たちの
苦労の結晶なんです。それが、たとえば世界人権宣言だったら 1 条から 30
条までに書いてあるんです。
ところが、私の経験からしまして、「世界人権宣言を知っていますか?手を
上げてください」というと、だいたい 7 割から 8 割の人が手を上げます。質
問を変えて、「世界人権宣言を読んだことありますか?」と聞くんです。そし
たらどれくらいの人の手が上がると思いますか?1 割から 2 割ですよ。大阪
市大の学生でも、関西学院大学の学生でも、「世界人権宣言を読んだことあり
ますか?」と聞いたら、手が上がるのは 1 割か 2 割です。読んでいなかった
ら、何が人権かということがわからないんです。わからないから、奪われてい
ることすらわからないんです。ですから、人権というのはどこから始まるかと
いうと、知ることから始まるんです。これが人権だということを知るところか
ら始まるわけです。皆さん自身の人権を守るためにも、何が人権かということ
を知らなかったら守れないんです。
そういうことがありますので、世界人権宣言の前文にこういう文章があるん
です。「社会の各個人及び各機関は、この世界人権宣言を常に念頭に置きなが
ら、加盟国自身の人民の間にも、また加盟国の管轄下にある地域の人民の間に
も、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること」と書
いてますね。だから、人権というものは教えられなかったらわからないですね。
だから、「学校で教えないといけない」と私はずっと言い続けているんですけ
- 16 -
どね。世界人権宣言とか、日本が入りました条約は学校で教えないといけない
んです。教えられなかったら、誰も知らないです。12 の条約に日本は入って
いるんですけれども、果たしてどの程度の人が中身を知っているかというとほ
とんど知らないんです。なぜそんなことが起こるかというと、この考え方が守
られてないんです。指導及び教育によって、学校教育とか社会教育、家庭教育、
そういうものによって促進されなければいけないということを言っています。
これは非常に大事ですね。日本の場合は、幸い人権教育、啓発については法律
ができております。国連は人権教育の世界プログラムということで人権教育に
力を入れております。
今日は時間の関係がありますので、先ほど部落解放基本法を作る実行委員会
の結成総会に呼んでいただいたと紹介いただいたので申し上げたいんですが、
まだ部落解放基本法はできておりませんが、部落解放基本法に盛り込んでおり
ました教育、啓発の部分ですね、これは法律ができたんです。その点を皆さん
に見ていただきたいと思います。10 ページをご覧ください。2000 年 12 月
6 日に「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」が公布、施行されて、法
律として実行されているんですが、これが部落解放基本法を作ってもらいたい
という運動が作りだした法律なんです。
(資料③)
大事なところを紹介しておきますと、第 1 条の目的、これは何のためにこ
の法律を作ったかということを書いているところで大事なんです。一番大事な
ポイントは、「社会的身分、門地、人種、信条又は性別による不当な差別の発
生等の人権侵害の現状その他人権の擁護に関する内外の情勢にかんがみて」と
いうところなんです。この社会的身分、門地というのは何かというと、憲法の
解説を読んでいただいたら、典型的な事例として部落問題と書いているんです。
ということは、この「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」は、部落差
別をはじめとした差別、人権侵害、これをなくすためには教育、啓発が大事な
んです。それで作ったということを言っているわけです。ただし、この「社会
的身分、門地、人種、信条又は性別」という表現は、なぜこういう表現がでて
きたかというと日本国憲法の第 14 条を使っているわけです。日本国憲法の第
14 条は差別を禁止した条文なんです。ところが、日本国憲法の第14条は人
種から始まっているんです。
「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」とな
- 17 -
っているんです。ということは、「社会的身分又は門地」という部分が前にき
ているんです。なぜ前にきたのか、それは部落解放基本法を作ってもらいたい
という運動がこの法律を作り出したからです。部落問題を解決するためには、
教育、啓発が大事だと、しかし、せっかく法律を作るんだったら部落差別をは
じめあらゆる差別をなくした方がいいんじゃないかということで広げたんで
す。それでこういう表現になっているんです。これがひとつのポイントです。
続いて大事な点は第3条です。大事な点は人権教育、啓発はどこでやるのか
という問題です。「学校、地域、家庭、職域その他の様々な場」と書いてます
ね。ということは、あらゆる場所でやらないといけないということです。しか
し、特に大事なところはどこか、学校なんですね。地域社会、社会教育ですね。
家庭教育、それから職域が入っていますね。この職域が日本の現状から考えた
ら大事なんです。この職域というのは何かというと、民間企業の中でもやる必
要があるということです。もうひとつ大事な点が第 3 条にありまして、人権
教育の中身です。人権教育の中身で教えなければいけないことは、人権尊重の
理念に対する理解を深める。たとえば、私は今日皆さんに平和と人権というも
のは切り離せないんですよ、本当の平和を作ろうと思ったら差別をなくして人
権を守らなかったらいけないから世界人権宣言を作ったんですよと言いまし
たですね。こういう考え方が人権尊重の理念ということなんです。人権尊重の
理念というとわかりにくいですが、人権を尊重することがなぜ大切なのかとい
う中身のことなんです。だから、少なくとも人権を教えるときには、人権と平
和の関係は教えなければだめですね。それで初めて人権教育になるわけです。
次は、「これを体得することができるよう」という文章が、特に「体得」と
いう言葉があります。これは、今までの同和教育を反省する中から入ったんで
す。今までの同和教育の最大の欠陥は、頭ではわかっているけれども、行動に
表れないという問題ですね。部落差別がいいか悪いかとたずねると、皆「悪い」
と言うんです。しかし、自分の子どもが部落の人と結婚するということになる
と反対するわけです。これでは、いつまで経っても部落差別はなくならないん
です。頭で理解したことが行動になって初めて効果が表れるんです。その頭で
理解したことが、行動となって表れるということを「体得」という言葉で表し
たわけです。
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それで第 4 条が国の責務です。第 5 条が地方公共団体の責務、それと第 6
条が国民の責務です。具体的にこの法律ができて何が変わったかといいますと、
計画が作られました。2002 年 3 月に「人権教育及び人権啓発の推進に関す
る基本計画」というのを政府が作っています。計画を作るだけでしたら計画倒
れになるので、年次報告を作ろうということになりまして、第 8 条に年次報
告と入っていますね。この第 8 条が入ったおかげで、これまで 7 冊の『人権
教育・啓発白書』を発行しています。このため、どういうことを政府がやって
きたかというのがわかるわけです。ここはいいから継続してもらいたい、ここ
は改めてほしいということで、我々が指摘できるようになっています。あとは、
自治体がやることに対して政府は財政的な支援をすることができるという項
目も入ったんです。これが「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」です。
ぜひ、この法律を活用していろんなところで人権教育、啓発をやってもらいた
いと思います。その中に、必ず世界人権宣言の考え方とか日本が入りました条
約の考え方を入れていく必要があるということです。それから、三木市は条例
をもっておられますね。人権尊重のまちづくり条例をもっておられますので、
この三木市の条例を実行するために教育、啓発というのは大きな柱になります。
〈 すべての人間は尊厳と権利とについて平等である 〉
次は 4 番目の切り口です。すべての人間は尊厳と権利とについて平等であ
るということです。世界人権宣言は 1 条から 30 条までの条文で成り立って
いますけれども、第 1 条では人間の尊厳ということを言っています。人間と
いうのは、存在すること自体尊いものなんです。大事な点がありまして、
「す
べての人間は生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平
等である。人間は理性と良心とを授けられており、互いに同包の精神をもって
行動しなければならない」これが第 1 条なんです。この第 1 条で注意してい
ただきたいのは、人間の平等というのは何かというと、尊厳と権利、それにつ
いて平等だと言っているんです。平等という言葉をよく誤解している人があっ
て、みんなが同じようになることが平等だと思っている人があるようですけど、
それとは違うんです。個性は全部違うんです。人間の個性の違いというのは、
誰も否定できないんです。世界人権宣言は、そんなことを否定していないです。
- 19 -
人間は一人一人個性をもっているということは認めているわけです。しかし、
生きておること自体がもっている尊い価値、これは同じだというんです。
それから法律で定められた権利、これについては誰であっても等しく認めら
れなければいけないと言っています。その面に限って平等だといっているんで
すよ。同じ人間にならないといけないといっているわけではないですよ。尊厳
と権利について平等であるということです。
第 2 条では、
「すべての人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上そ
の他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに
類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべて
の権利と自由とを享有することができる。」と規定しています。この規定を踏
まえるならば、考えることができるあらゆる差別を否定して、この世界人権宣
言で認められている権利を認められなければいけないということです。という
ことは、1 条から 30 条まである世界人権宣言の中で、一番最初と二番目とい
うのは大事ですね。この一番最初と二番目に言っていることは、差別を否定し
ているということです。その上で、3条以下で具体的な人権について語ってい
るんです。これがひとつのポイントですね。
そこで、差別という問題について、部落問題に限って一番新しい状況を皆さ
んに報告しておきたいと思いまして、14 ページをご覧ください。部落差別を
取り巻く情勢の特徴と書いていますね。今、どういう特徴があるかということ
ですけれども、ひとつは特別措置法がなくなったということです。これは非常
に大きな影響を与えています。1969 年 7 月に同和対策事業特別措置法とい
う法律ができまして、途中、名前がいくらか変わりましたけれども、2002
年 3 月まで特別措置法が続いてきたわけです。33 年間続いてきたわけです。
しかし、2002 年 4 月以降は特別措置法がなくなりまして、基本的には特別
措置というのはなくなってきています。これが部落に対してどういう影響を与
えているかは無視できないんです。
二つ目の特徴ですね、これは格差社会、日本は今格差社会に入りましたね。
格差社会というのは、正確な表現ではないということが出てきます。なぜかと
いうと、貧困に注目すべきだという意見が出てきているんです。格差というの
は差が広がることだけですから、差が広がった結果、新しい貧困が日本に生ま
- 20 -
れてきているんです。これが部落にどんな影響を与えるかというのは無視でき
ないんです。そういった今まで部落を取り巻いていた状況と違う状況があると
いうことなんです。
そこで、私は今年の 5 月の連休にいろんな資料を読んでみまして、お配り
した資料にも書いたんですが 14 ページの上、鳥取県の同和地区生活実態把握
等調査結果がありますね、これを見ていただきたいと思います。残念ながら、
本当は国が実態調査をやったら一番いいと思うんですが、国は 1993 年から
全国の部落の実態調査をやってないんです。しかし、鳥取県は県の部落を全部
調べたんです。2005 年の 7 月です。そうすると、ご覧のように生活保護を
受けて暮らしている人の比率が最近になるにしたがって増えているというこ
とがわかってきたんです。それからどういう形で働いているかということを調
べていきますと、やはり不安定な臨時雇いであるとか、日雇いで働いている人
が増えています。それから年間収入ですね、収入がどれくらいあるかというこ
とを調べていきますと、やはり収入が減っている人、少ない収入しかない人が
増えているんです。ですから、この鳥取県の生活実態調査を担当した鳥取大学
の名誉教授ですけど、國歳先生という方がおられて、この方は、
「現代日本は
格差社会だといわれている。たしかに、2006 年の国民生活基礎調査が明示
したごとく、富裕階層と生活困苦層に二分されているのであろう。しかし、部
落の場合には、生活困苦層に集中していることは明らかである。
」と指摘して
おられます。だから、特別措置法がなくなって、おまけに格差社会になってき
て貧困ということが問題になってきている、そういう情勢の中で、部落の生活
実態が再び後退してきているということが鳥取県の事例で出ているというこ
とです。これがすべてにあてはまるかどうかは、国の調査がありませんのでそ
こまでは言えませんけれども、少なくとも鳥取県の調査ではそういう点が指摘
されているのを見ていただきたいんです。
それから 15 ページ、意識の問題です。部落問題に対してどういう意識の状
況になっているかということです。2005 年の 8 月から 9 月にかけまして、
大阪府が人権問題に関する府民の意識調査をやっています。これは県レベルで
非常に新しい調査結果ですので、またじっくりと読んでいただきたいんです。
ひとつだけ特徴的なデータを紹介しますと、16 ページを見てください。これ
- 21 -
は折れ線グラフですね、世間の人たちが部落に対してどういうイメージを描い
ているのかということを聞いた調査結果なんです。左側に書いている選択肢
「上品な」からはじまって「働きもの」まであります。これはプラスイメージ、
いい面で部落に対するイメージをもっている項目です。右側は、
「下品な」か
ら「なまけもの」まであります。これはマイナスイメージ、悪いイメージで部
落をとらえているということなんです。回答した人を合計しましてグラフにし
ていきますと、ご覧のようなグラフができたんですが、左にいくにしたがって
プラスイメージが強くなるんです。右に行くにしたがってマイナスイメージが
強くなるんです。一番左のプラスイメージが多い点線で書いているグラフあり
ますね、このグラフはいつの調査結果であったかというと、1995 年にやっ
たときの調査結果なんです。真ん中の実線があって、空白があって実線がある
グラフ、この真ん中のグラフは 2000 年の調査です。太い線で実線だけのグ
ラフが右端にあります。これが 2005 年の調査なんです。ということは、ひ
とことで言いますと最近になるにしたがって、大阪府民の部落に対するイメー
ジは悪くなっているということなんです。これは非常に深刻な問題です。この
調査結果だけでなくて、他の項目についても、後退しているものが増えていま
す。それは、元の 15 ページに戻っていただきまして、結婚差別と関係してい
る項目でありますとか、いろいろ書いていますので見ていただいたらいいんで
すが、これをどういうふうに分析したらいいのかというのが大事ですので、
15 ページの下の文章のところを見ていただきたいんです。この大阪の意識調
査をまとめた際に、大阪大学名誉教授の元木先生という方が責任者でかかわら
れたんですけれども、こういう文章があるんです。「今回の調査で、一般に人
権に関わる法律や施策等の認知状況は広まり、人権についての関心や意識は高
まってきていることが伺えるが、同和問題に対するイメージや態度、忌避意識、
差別解消に対する意識などは、むしろ後退しているように見える結果が記され
ている。…このことは、…同和問題解決推進審議会委員の中で、法失効後『同
和問題は終わった』とするような状況が府内に見られるのを危惧する声があが
ったことを裏付けることもできる」と書かれていますね。これはどういうこと
かというと、私もこの意見なんですが、2002 年 3 月に特別措置法がなくな
ったために、部落問題が解決したと思っている人が多いんです。学校で部落問
- 22 -
題を教えなくなっているんです。あるいは、市民啓発でいろいろ講座をやって
いますけれども、講座のテーマを見たときに部落問題のテーマがあまり取り上
げられなくなってしまっているんです。そうするとどういうことが起こるかと
いうと、部落問題について積極的な教育、啓発が弱っているわけですから、否
定的なものだけが残ってしまっているわけです。あるいは、それだけが広まっ
てしまっているわけです。それは皆さん方の地元ではどうなのかということは、
地元で意識調査をされていますのでそれを分析していただいたらいいんです
が、少なくとも大阪府がやった調査の結果ではそういうのが出てきていますの
で、黄色の信号というんですか、これはやっぱり注意ですね。部落問題が学校
できっちり教えられているのかどうか、市民に対する研修の中で部落問題が柱
の中できっちり位置づいているのかどうかということが、これはやっぱり監視
する必要があると思います。それを弱めてしまうと、後退したものになってく
る恐れがあるということです。
続いて差別事件です。17 ページをご覧になっていただきたいと思います。
今、いろいろと深刻な差別事件がありますけれども、行政書士などによる戸籍
謄本などの不正入手、それから部落地名総監という問題がこの5年間くらいを
見たときに一番大きな問題のひとつだということです。この問題を考えるため
の手がかりなんですけれども、17 ページをご覧ください。下から 5~6 行目
のところから非常に大事なことが書いてあるんですが、2005 年に大阪府の
調査をやりましたときに、世間の人たちは、何でもって部落の人だと見ている
かどうかということを聞いたんです。これはアメリカの黒人に対する差別と日
本の部落差別の違いです。外見上わからないんです。外見上、誰が部落の人か
わからないのに、なぜ世間の人たちは結婚差別をしたり、就職差別をしたりす
るのか、これは大きな謎ですね。それを聞いたわけです。どうしてあの人を部
落の人だと判断しているのか聞いたんです。本人が現在同和地区に住んでいる
と答えた人が 50.3%、本人の本籍地が同和地区にあると答えた人が 38.3%、
本人の出生地が同和地区であると答えた人が 36.6%、父母あるいは祖父母
が同和地区に住んでいると答えた人が 29.1%、父母あるいは祖父母の本籍
地が同和地区であると答えた人が 27.5%という結果が出てきたんです。つ
まり、世間の人たちは、この人が部落の人だということを何でもって判断して
- 23 -
いるかというと、部落に住んでる、あるいはそこの出身である、生まれたとか、
親きょうだいとかが部落に住んでいる、あるいは本籍が部落であるということ
で判断していることがわかってきたんです。これは非常に重要なポイントです
ね。
そこで次のページを見てください。図が入っていますね。つまり、結婚差別
とか就職差別がなぜ起こってくるかというと、結婚するときに相手の人が部落
の人かどうか調べるわけです。なかなかそんな簡単に調べられないので、興信
所とか探偵社という調査業者に頼むわけです。NHKが 3 年ほど前でしたか
同和行政の特集をやっていましたね、80 分、あの中に結婚にあたって調査会
社に依頼することをテーマにあげて、実際に調査会社にNHKのアナウンサー
がインタビューしていました。どのくらい、今でも結婚とかそういうときに調
査の依頼があるんですかというと、「あります」と言うてましたね。値段はど
れくらい取るんですかと聞いたたら、70 万円と言うてました。誰が頼むんで
すかと聞いたら、医師とか弁護士が多いですと言うてました。その頼まれた興
信所、探偵社がどうするかいうと、役所へ行くわけです。そして、その人の戸
籍謄本と住民票を手に入れるわけです。しかし、これは違反ですね。興信所、
探偵社が他人の戸籍謄本とかを手に入れることはできません。できないのにど
うしてやるかというと、委任状をでっち上げるんです。本人から頼まれました
言うて委任状をもっていくわけです。これが発覚したのは名古屋の興信所が見
つかったんです。警察に捕まったんです。警察が踏み込んだら、その興信所に
ハンコが 1,500 本あった言うんです。1,500 本いうたら、ちょっとしたハン
コ屋さんよりたくさんあることになります。だから、大量に委任状をでっち上
げて取っていたんです。それは明らかな法律違反ですので、別の方法を取る調
査会社があるんです。どうするかというと、仕事上、どうしても戸籍謄本など
をよく取り扱う業種というのが 8 つあるんです。弁護士、行政書士、司法書
士、家屋調査士とか、この 8 つの仕事に従事している人は、財産分けとかい
うようなことについて仕事上かかわっていくので戸籍謄本を取ることが多い
んです。それで、今までこの 8 つの仕事に従事している人から申請があった
ら、役所はほぼフリーパス、わかりましたということで自動的に戸籍謄本を出
していたんです。そこに目をつけて、兵庫県の宝塚市の行政書士がやったんで
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す。兵庫県の宝塚市にある行政書士が、行政書士だけでは食べていけないので、
電話帳を繰って大阪の調査会社に他人の戸籍謄本を取りますよということで
注文を取ったわけです。これは見つかってしまったんです。その人だけでも全
国で 640 通でしたかね、佐賀県を除くあらゆる都道府県から取っていたんで
す。それが直接調査業者から特定の8業種へ矢印がありますね、特定の 8 業
種から区市町村役場と書いている矢印ですね。ただでは取ってないんですね。
お金儲けのために取っているわけですから、一通 5 千円とか 3 千円とか取る
んです。兵庫県の宝塚市の行政書士だけでなくて、全国的にやっているのがわ
かったんです。大阪でも発覚したし、名古屋でも東京でも発覚したんです。最
近では三重でも発覚しました。いずれにしても、戸籍謄本と住民票を取るわけ
です。
ところが、皆さんご存知のように戸籍謄本とか住民票に住所は書いてありま
すよ、だけど部落であるかどうかというのは書いてないんです。そこで、この
調査会社にとって部落地名総鑑というのが必要になってくるんです。部落地名
総鑑というのは、部落の名前と所在地が書いてあるんです。取ってきた戸籍謄
本の現住所、本籍地がわかりますから、部落地名総鑑と照らし合わせるわけで
す。それで判断するわけです。ここで皆さんにひとつだけ強調しておきたいこ
とは、今、部落の人口は日本の人口の 1%くらいです。1%と考えたら、どう
いうことが起こるかというと、100 件依頼あって報告に行くとしますね、そ
うすると 1 件だけこの人は部落でしたということを報告に行くわけです。99
件はどういう報告がいくかといいますと、この人は部落の人ではありませんで
したという報告がいくわけです。これは表面化しないですよね。だけど、この
人は部落の人ではありませんでしたという報告も差別ですよ。1 件だけが部落
の人でしたということで報告に行って、それが破談になる。破談になった人で
も表ざたにしたくない人が多いでしょ。だから、表面化してくるのはほんとに
実際に生じている差別の中で一部だけです。実際、もっと差別しているわけで
す。そういう問題として見ていただきたいんです。それがこの 5 年間で明ら
かになってきているんです。
〈 人権は自由権、社会権などの具体的な権利から構成されていて不可分 〉
- 25 -
5 番目、人権は自由権、社会権などの具体的な権利から構成されていて不可
分、不可分というのは分けることができないということです。世界人権宣言の
条文を見ていただいたらわかりますけれども、第 3 条から第 21 条までは自
由権、
第 22 条から第 27 条までは社会権が入っています。
社会権というのは、
働く権利とか教育を受ける権利、社会保障を受ける権利とかね、これを社会権
といいます。つまり、人権ということを考えるときに、もうひとつ大事な点は、
具体的な権利からできあがったまとまりが人権なんです。
それで、日本の現状を見たときに、皆さん方が裁判員になる可能性がありま
すので、ぜひ注意して聞いていただきたいんです。自由権との関係で、日本の
一番大きな問題は死刑の問題なんです。それと、冤罪があとを絶たないという
ことが問題なんですけど、この死刑の問題だけ説明しておかないといけないの
で、今から説明します。皆さん方の中でも、死刑賛成だという方はおられると
思うんですね。日本の世論調査では、7 割から 8 割が賛成なんです。なぜ死
刑賛成論が起こってくるかというと、悪質な犯罪を防止するという説があるん
です。死刑という刑があるから、こんなことをしたら死刑になってしまうとい
うことで、犯罪を思いとどまらせているんだという考え方です。しかし、これ
は全く立証できないんです。なぜ立証できないかというと、死刑を廃止してい
る国は今 137 あります。日本政府のインターネット見たら、141 と書いて
いますけど、少なくとも 137 という国があります。そしたら、死刑を廃止し
ている国で日本以上の悪質な犯罪が起こっていて、日本は死刑制度を持ってい
ますので悪質な犯罪が少ないかというと、絶対にそんなことは言えない。死刑
制度を持っている日本でも悪質な犯罪が起こっています。だから、それは論拠
にはならない。
二つ目、世論は死刑を支持しているというんです。政府はこれで国連に説明
しているんです。国連がどう言っているかといいますと、人権は世論で判断し
たらまちがいが起こる。何が正しくて何がまちがっているかという人権の基準
で判断しないとだめなんです。特に少数者の問題、たとえば部落問題というの
は世論で判断したら絶対部落の人口が少ないですから無理ですよね。しかも、
世論調査自体にも問題があるんです。
皆さん方のお手元の 19 ページに団藤重光さんという方がお書きになった
- 26 -
ものと、菊田先生、これは元明治大学の先生、団藤先生は元東大の先生で、こ
の人は大学で刑法を勉強した人だったら知らない人がいないくらい有名な方
です。最高裁の裁判官もされたんです。この方が死刑廃止論なんです。なぜか
というと、
「死刑で誤判があった場合、取り返しがつかない」と書いておられ
ますね。人間が裁判をするわけですから、絶対まちがいを起こさないという保
証はないという点です。なお、この 19 ページに世論調査のやり方に問題があ
ると言っておられますね。
それから三つ目の死刑擁護論者の論拠は、肉親の感情というのがあるんです。
この点の説得は困難ですけど、むごたらしい形で自分の肉親を殺された人は、
すべて相手を死刑にしてほしいということでもないんです。「私は死刑にして
ほしいとは言わない。またもう一人命を奪うということはやってほしくない」
という人もあるんです。
これは大事なデータで皆さんに見ていただきたいんですが、あらゆる犯罪に
対して死刑を廃止している国は今 92 あるんです。ヨーロッパはほとんど廃止
ですね。通常の犯罪に対してのみ死刑を廃止している国が 10、事実上の死刑
廃止国、死刑はあるけれども事実上はやめている国ですね、それが 35 ありま
す。残している国が 60 です。この結果、法律上、事実上死刑を廃止している
国が 137 あるんです。137 も廃止しているんです。日本は少ない 60 に残
っているんです。
死刑がなぜ問題かということを言いますと、人間が人間を裁く上で誤りは避
けられないということです。死刑を執行してしまってから真犯人が出てきたら
どうなるか、どうしようもないですね。
二つ目、死刑自体が人権規約等が禁止している残虐な刑なんです。死刑とい
うのは絞首刑、日本は絞首刑なんです。絞首刑というのは首吊り状態になるな
んです。自分が立っている床が開いてしまって、ロープで首吊り状態になるん
です。フランスという国は、今死刑を廃止しましたけど、フランスはギロチン、
ギロチンというのは上から刃物が降りてくるんですね。上から刃物が降りてく
るわけですから首が飛んでしまうわけです。だからマリーアントワネットとか、
ルイ何世でしたか、そのギロチンで死刑になったんです。どんな形でやったと
しても死刑は残虐な刑ですね。
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それから三つ目ですね。独裁者は死刑制度を使って政敵を葬り去ってきた歴
史があるんです。一番有名なのはスターリンですね。あの人は、何人の人を殺
したかわからない、何十万、少なくとも何十万、多く数える人は何百万殺した
という人もありますけどね。どうして殺していったかというと、自分が国家で
すから自分に対して反対意見を言った人は全部国家反逆罪なんです。国家反逆
罪の最高刑が死刑なんです。それで葬り去ってきたわけです。
もうひとつ大きな問題は、個人に責任を取らせることによって問題が解決し
たとして、事件を産み出してきた社会や政治の責任を問うことができなくなる
という問題があると思うんです。たとえば、皆さん方が覚えておられる例で、
秋葉原事件というのがありましたですね。秋葉原で無差別殺人事件が起こりま
したが、あの犯行を起こした彼の置かれている状況を見たら、家庭でも孤立し
ていたんです。職場でも孤立していたんです。地域社会でも孤立していたんで
す。メールでも孤立していたんです。それでああいう犯行を犯してしまってい
るんです。ですから、ああいう犯罪を防ぐ方法というのは、彼を死刑にするこ
とによって、果たして再び同様の事件を起こすことを食い止めることができる
かというと、できませんね。やっぱり家庭での人間関係のあり方とか、職場で
の人間関係のあり方、地域社会での人間関係のあり方を考えていかなかったら、
支え合う環境を作っていかなかったら、いくらでもああいう問題は起こってく
る恐れがあるんです。そういうところに、目がいかなくなってしまう恐れがあ
るんです。死刑をやって、一件落着になってしまう恐れがあるんです。
私は死刑廃止論ですけど、死刑廃止論者はすべての刑を廃止せよとは言って
ないんです。ほかの刑は適用しないといけないんです。今日本では無期懲役と
いうのがありますね。菊田先生は、終身刑を提唱しているんです。死刑を廃止
する代わりに、一生刑務所から出さないという刑を作ったらいいという考え方
なんです。これもひとつの選択肢だと思います。死刑廃止ということを、一度
皆さんにも考えていただきたいと思います。
社会権が守られていないという問題、これは新聞、テレビが大きく取り上げ
ていますので、説明は省略しますが、一番大きな問題は、自殺者が 3 万人を
超しているということです。新聞でもこういう形で出ているんです。毎年 3
万人ですよ、10 年続いているんです。
日本社会というのは異常な社会ですね。
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いくつか大事な点があるんですが、ひとつだけ強調させていただきたいと思
いまして資料に入れましたのは、教育への公的助成の増額、奨学金制度の充実
とありますね、これは日本は非常に遅れているんです。高校、大学に子どもさ
んを行かせておられる方は、教育費が大変なんです。それで皆さん方のお手元
の資料でいきますと、22 ページと 23 ページに帝京大学でしたか、三輪先生
の文章を入れていますからぜひ読んでいただきたいんです。国際人権規約では
高校、大学についても徐々に無償化をするべきだという項目があって、日本は
これに入ってないんですけれども、三輪先生のものを見ますと、フィンランド、
今世界の教育で一番注目されているのがフィンランドなんです。日本も学力調
査をやっていますけれども、世界的に学力調査というのがありまして、その調
査で一番高い結果を上げているのがフィンランドなんです。フィンランドの教
育というのは今注目されていますけれども、フィンランドは大学も無償です。
奨学金も出ますので、奨学金で生活できますね。親の立場から見ると、非常に
助かるんです。そういう教育費の問題も入れていますので、ぜひ読んでいただ
きたいと思います。
〈 21世紀の今日、国家はもとより、自治体や企業、労働組合やNGOな
どが力を合わせて世界人権宣言の実現をめざすことが必要 〉
まとめに入っていきますけれども、20世紀と21世紀の大きな違いなんで
すが、20 世紀は国家が中心の世紀だったんです。今 21 世紀に入っておりま
すけれども、21 世紀の大きな特徴は国家の役割はなくなりはしませんけれど
も、国際機関の役割が大きくなってくるということです。たとえば、国連の役
割が大きくなってきます。それからヨーロッパが非常にわかりやすい例ですけ
れども、国家連合ですね、EUというのはヨーロッパ連合ですね、ヨーロッパ
の国が集まって共通の行動をやっていくんです。こういうことが、これから進
んでいきます。国内においては、自治体、学校、企業、労働組合、NGOとか
NPO、宗教団体とか、マスメディアとか、一人一人の役割が大きくなってく
るんです。皆さん方は一人一人ですね、個人であると同時にどこかに属してお
られると思うんです。だから皆さん方がどのくらいがんばるかということが、
かなり人権について影響を与えることができるんです。少なくとも 20 世紀よ
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りは影響を与えることができるんです。ここがひとつのポイントだと思います。
それから、日本で今人権を考えることの意義ですね、これも大事な問題なの
で押さえておきたいと思うんですが、戦前の日本の特徴というのは「お国のた
めに」という考え方でできていたんです。だから、戦前の教科書を見たら、最
初に[お国のために役立つ立派な人間になりましょう]ということが教科書に
書かれてあったんです。ですから、個々の人間は国家のために存在していたん
です。ですから、東京が空襲を受けたり、大阪が空襲を受けるということにな
ってきたときに、学生が動員されまして、行きの燃料だけ積んでんもらって特
攻隊というのが起こりましたけども、神風特攻隊というのが起こったのはこの
考え方で教育されたからです。
さすがに今はそれはありませんけれども、戦後の日本は「お国」というとこ
ろに「会社」が入ったんです。日本人とは何かいうたら、会社人間なんです。
あるいは、企業戦士ですね。この結果、どういう現象が起こっているかいうと、
企業の中から起こっている問題は過労死です。過労死というのは働きすぎて
40 代、50 代の方が突然心臓麻痺や脳いっ血で倒れて亡くなってしまうんで
す。これは会社のために人間があるから起こってくるんです。
それから、つい先日、事故米問題が起こりましたね。いわゆる食料用でない
糊とかを作るために、問題がある米は工業用に使うので値段が安いでしょ。そ
れを食料用として高い値段で売っていたわけです。どうしてこんなことが起こ
るのか、それは人間よりも会社の利益が優先されているためです。だから、日
本という国で人権を考えるのがなぜ大事かというと、国家とか自治体とか企業
というものが何のために存在しているかいうたら、人々の幸せのために存在し
ているということを再確認することに役立つということなんです。この「人々
の幸せのために、国家とか自治体とか企業が存在しているんですよ」という考
え方が人権の考え方なんです。だから、今この時点で人権を考えるということ
は日本の国にとって非常に大事なことだと思います。
最後に、エレノア・ルーズベルトさんという方がおられまして、この人が世
界人権宣言 10 周年のときに演説をされたんです。なぜこの方を皆さんに紹介
したかというと、実は世界大恐慌が起こったときに、今も恐慌が起こりつつあ
りますが、あのときにアメリカを立て直すために生まれた大統領がフランクリ
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ン・ルーズベルト大統領でしたね。そのお連れ合いなんです。ルーズベルト大
統領は早く亡くなってしまったんですけれども、彼女はその後も活躍しまして、
世界人権宣言を国連が採択するときの会議の議長役をやったんです。そこで
10 周年のときに演説されまして、次のように言われたんです。
「普遍的人権とは、結局どこから始まるものなのでしょうか。それは身近な小
さい場所、それも、あまり近くて小さいので、どんな世界地図にも載っていな
い場所から始まるのです。しかし、この小さな場所こそ、一人ひとりの人間に
とっての世界なのです。自分が暮らす地域、自分が通う学校、そして自分が働
く工場や農場やオフイス、一人ひとりの男女、そして子どもは、このような場
所で差別のない平等な正義、平等な機会、平等な尊厳を求めています。そこで
人権が意味を持たなければ、ほかの場所でもほとんど意味を持ちません。身近
なところで人権を擁護する積極的な市民活動がなければ、より広い世界での進
歩など到底、期待できないのです。
」
と演説されたんです。この言葉を、そっくり今日お越しの皆さんにも差しあげ
たいんです。ぜひ皆さん方が自分自身の人権、まわりの人権を守るためにさら
に活動を強めていっていただくことに私の話が何か役に立てばいいなと思っ
て話を終わらせていただきます。
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第2部 人権フォーラム
ー 私のひとこと ー から
(平成20年10月24日(金)総合隣保館にて)
Ⅰ ダウン症の子の父親として
解放同盟支部員
橋 本 裕 二
この人権フォーラムでは話を聞く方で、まさか自分が発表する側にまわると
は思ってもいませんでした。これといった活動や運動などをやっているわけで
はないので、発表者になることをためらいました。でも天使といわれているダ
ウン症の子どもを持つ父親として、何か伝わることがあればと、思いきって話
をすることにしました。取り留めのない内容ですがしばらくの間、聞いていた
だけたらと思います。
子どもの名前は直樹といいます。現在特別支援学校の高等部 3 年で、元気
に通っています。家族は夫婦と直樹、姉と弟の 5 人です。
直樹が生まれたのは 1991 年(平成 3 年)です。父親孝行なのか偶然にも
この子の姉と同じ日曜日に生まれ、仕事を休むことなく立ち会うことができま
した。また看護師さんの勧めで、考えてもいなかった分娩にも立ち会うことが
できました。何をしていいのか分からず、苦しみながら頑張る妻への励ましの
言葉をかけるぐらいがやっとで、ただおろおろとしていたように思います。そ
ういう状態だったので、分娩室に入ってからどれくらい経ったのかわかりませ
んが、でもそんなに長くかからず産まれたと思い起します。
産まれた瞬間は感動もので、涙腺がゆるんだのを思い出します。ただ次に産
声が聞こえるかと心配していました。すぐに聞こえなかったのですが、先生が
手早く吸引して産声が上がり「ホッ」としたのを思い出します。なにはともあ
れ産婦人科で、無事に産まれました。母乳を飲むのが弱く量が少ないのが気に
なるぐらいで、通常どおり母子共に退院し、妻の実家でしばらく過ごさせるこ
とにしました。
退院して間もない頃、仕事で関東の方へ出張に行くことになり、子どもと数
日間は会えないことになりました。でもある夜、出張先のホテルに妻(子ども
にとっては母親なので、以降は母親といいます)から泣き声で電話がありまし
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た。子どもに異変が起きたので、すぐに帰ってきて欲しいということでした。
内容は、母乳の飲む量が少なく、黄症が出たり元気がないので産婦人科に連れ
て行き、そこで小児科の受診を勧められたそうです。その小児科の先生から「子
どもの血を入れ替える必要があり、親の血が必要」と聞いて、びっくりして電
話してきたということでした。私も何が何だか分からず、客先に了解を得て直
ぐに帰りました。不安をかかえながらの帰路は、どうなってしまうのだろうと
悪いことばかりが頭に浮かんできました。
病院に行くと、窓越しに保育器の中に赤ちゃんがうつ伏せで眠っているのを
見ました。小さい手は包帯でぐるぐると巻かれ、そこから点滴の管がみえるだ
けの状態でしたので、とてもかわいそうに思いました。
しばらくして入室が許可され、保育器の手袋を通してですが、わが子にふれ
ることができました。すやすや眠っているのを見て、ちょっと安心しました。
先生から「甲状腺の刺激ホルモンの量が多いので注目していますが、急いで血
を入れ替えなくてもいいだろう」との説明だったので、ホッとしました。それ
でしばらくは経過をみていくことになりました。
子どもが入院していても、親として何もできませんでした。苦しいときの何
とかでお参りに行きました。そこで百度参りをやっている人を見かけ、私もや
ってみようと思い見様見まねでやりました。また願掛けには、何かを断つのが
いいと思い、1 年間は酒とタバコを断ってみることにしました。このおかげで、
結果的にタバコをやめることができ、今では子どもに感謝しています。病院に
行く度にお参りをつづけ、その甲斐もあって、子どもの状態は良好になってい
き明るい気持ちになっていきました。
やがて点滴がとれ、子どもの状態も安定したころ、先生から「ダウン症候群」
と告げられました。私自身初めて耳にする病名で、その時はどういう病気なの
かと思いました。母親の方は看護師の経験もあり、その病気を知っているよう
だったので、後で詳しく教えてもらいました。「ダウン症」とはご存じの方も
多いと思いますが、少し述べますと、細胞の中には遺伝情報として染色体をも
っているそうです。ダウン症の大半は、染色体の 21 番目が 1 本多く 3 本あ
るそうです。遺伝子の異常で起こる症状ですが、多くは親からの遺伝で起こる
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ものではないとのことです。ダウン症とは発見者の名前をとって呼ばれている
そうです。染色体の異常の中でも軽度のため正常に産まれることができるそう
で、日本の統計では約 1,000 人に 1 人の出生率だそうです。ただダウン症に
は合併症も多く、先天性心疾患が約 3 割の確率で起こるそうです。
私自身最近になるまで忘れていたのですが、わが子の場合も先生から血液が
逆流していると説明をうけていたそうで、この時点では緊急性がないのと、自
然に治癒する場合もあるということで、経過を見ることになっていました。そ
の病院を退院後も、しばらくは三木市民病院で定期的に検査を受けていました
が、経過観察ということで安心していました。ダウン症の特徴は一般的に、知
的な発達が遅れ、筋肉の緊張が低下していて運動能力が低いと言われています。
障がい者や健常者でも同じですが、人それぞれに個人差があるので、ダウン症
といってもひとくくりではなく、いろいろな個性や能力を持っています。大学
に行った人もいるそうで、子どもの能力を伸ばしてやるのが親の務めであり、
がんばろうと思いました。でも、今振り返ってみると日常の生活に追われるだ
けで、もっといいやり方があったのではないかと悔やんだりもします。
退院して自宅に帰ると、子どもの世話は母親まかせとなり、私は仕事中心の
生活に戻りました。親二人共、三木市出身ではなかったので、周りの状況があ
まり分からず、またダウン症の子どもが近くにいて情報が得れるかどうかも分
かりませんでした。母親が、保健師さんの勧めてくださった「ワン・ツー・ス
リーの会(小学入学前までの障がい児の親が集まる会)」に入るというので賛
成しました。それから三木市民病院の先生から教わった、県立塚口病院でやっ
ている機能訓練の見学に行きました。歩けるようになるまでの子どもが対象で
した。見学に行くと、十数名の子ども達や保護者が、先生や看護師さんの指導
の元、「わいわい」言いながら楽しそうにやっておられました。それを見て専
門家の指導を仰ぐのもいいと思い、喜んで通院することにしました。
ある日、そこで使用していたイスがあって、「家でもあるといいですね」と
言われ作ってみました。われながらできはいいと思っていたのですが、子ども
はおもちゃの方がいいらしく、そのイスはあまり活躍しなかったように思いま
す。
39
またしばらくして、加古川に「つつじ療育園」があることを知り夫婦で見学
に行きました。そこも歩けるようになるまでの子どもを対象に入園することが
できるということで、入園を希望し通うことができました。
毎日の通園となるので、母親には負担がかかったと思います。母親には親ど
うしの交流ができ、子どもに対してできることが見えてきたのか、生き生きし
ていたように思います。また私も安心して仕事をすることができました。
塚口病院へ月 1 回の通院や、つつじ療育園への通園、ワン・ツー・スリー
の会などへの参加など、また姉は隣の保育所に通っていましたので、母親にと
っては多忙な日々となっていました。そういう状態を続けるのはどうかと悩み、
色々考えた末、思い切って勤めていた会社に相談しました。自宅で仕事をでき
るように、退職して外注で仕事をさせてもらえないかという内容でした。私の
やっていた仕事は電気関係で、自動制御の設計でした。自宅でもできる内容が
幸いしたのか、会社も事情を分かってくれて、了承してくれました。先のこと
を考えると、何の保障もないという不安は残りましたが、自分でも考えていな
かった自営業者となり、会社に束縛されない時間を持つことができました。
それから数年後に、思ってもない事件が起こりました。実はその会社がバブ
ルの影響で倒産してしまったのです。しかし、私にとってその影響は少ないも
ので済みました。これも子どもの導きなのか、今でも不思議な思いで、幸いな
道をたどることができたと思っています。
自営業はいいことばかりではありません。束縛されない時間を持つことがで
きても、仕事は待ってくれませんし、仕事以外で使った時間は夜に取り戻すこ
とになります。時には夜更けになったり、徹夜することもありました。また家
でできる仕事は半分くらいで、後の半分は装置メーカでの試運転調整や、客先
での運転立会などがあり、後半の仕事になると自由が効きにくくなります。
最近子どもが近寄らなく、また避ける動作も見受けるので、母親に聞いてみ
ると、仕事でのストレスを子どもにぶつけているのを見たことがあると聞いて、
そんなことがあったのかと反省しています。子どもは知的な発達の遅れがある
ためか、幼稚なところが今でもあります。その分純粋な気持ちで行動したり、
人の心を敏感に察したりすることができるみたいで、ちょっとした言葉使いや
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顔付きで判断されてしまします。
中学生になるぐらいまではたぶん週毎だったと思いますが、母親モードと父
親モードが入れ替わっていたのを、今では懐かしく思い出します。母親モード
の時は、私が何をしても近寄ってくれず、その逆で父親モードになると笑顔で
ダッコを要求したり、私にまとわりついたりして離れようとはしませんでした。
この時は不思議なことに母親の方には近寄りたがりませんでした。この父親モ
ードは私にとって、とても嬉しくなんと愛らしいのかと思っていました。も
う!仕事の疲れもとんでしまっていたように思います。
最近ではこのモードはなく、私が「おはよう」とあいさつしてもあえて無視
を装ったり、避けるような仕草をとることが目立つようになってきました。こ
れも成長の証で、同性で父親を意識しているのかと思っていましたが、それと
なく母親に聞いてみると、「それだけではないと思う」と言う冷たい返事です。
前述のように、子どもが近寄りがたい存在だと察知しているのではと、暗に言
いたいようです。でもズルイやり方ですが、
「DVD を借りにいこうか」とか「焼
き肉にいくよ」などというと、スーと寄ってきます。また出張などで家にいな
い時は、母親に「お父さんは」と聞くそうで、ちょっと嬉しくなります。
この子もやがて歩けるようになって、つつじ療育園などは卒園となりました。
でも、その後の機能訓練的な施設が近くにないので、どうしたものかと悩みま
した。夫婦で相談して保育所、幼稚園、小学校に通わせることにしました。団
体生活になじめるかどうか不安はありましたが、多く休むことなく元気に通学
できました。同世代の子どもとふれあって刺激を受けることによって、色々な
ことができたり、しようという意欲が出てきたと感じました。例えばサッカー
や野球です。筋力の緊張が弱いために運動が苦手です。それなのに友だちがや
っている姿を見て、その中に入っていきたくなったみたいで、すごい進歩だと
感じました。また、友だちも直樹のペースに合わせて招きいれてくれていると
聞いて嬉しかったです。私も、たまに公園に行って付き合ったのを思い出しま
す。サッカーはゆるくボールをけるだけですが、喜んでボールを追いかけてい
ました。野球はバッターが好きで、守るのはいやがっていました。ゆるい球を
投げて、バットに当たるのは 10 球に 1 回ぐらい、前に飛ぶのはまだ少ないで
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すが、前に転がると喜び、1 塁に走るまねをしていました。その仕草を見てい
るのはほんとうに楽しかったです。
確か小学 6 年生の時だったと思いますが、運動会で組み体操があったとき
の話です。予行演習でできていると聞いていましたが、演技が始まるまではう
まくできるか不安でした。また、何も無理なことはしなくてもいいとまで内心
では思っていました。でも、実際に始まってみると、クラスメートが助けてく
れながら演技をする姿をビデオカメラを撮影しながら見て感動しました。直樹
が自主的にだったらやろうとしないことも、周りの子どもたちに刺激されなが
らやろうとし、またクラスメートも快く受け入れてくれて一つの形を作ってい
くすばらしさです。この経験はこの時にしかできないことで、本当に小学校に
通学できたことがよかったと今でも思います。現在は、弟の運動会に行くと、
綱引きが好きで、但し自分がするのはいやみたいですが、デジカメで写真を撮
りたがります。また、自分たちがやっていた写真を大きく印刷して、それを枕
元に置いて何日も眺めていました。聞いても教えてくれませんが、皆が力を合
わせている姿がいいのではと思っています。
話は前後しますが、産まれて直ぐに入院してからは、1 回を除いては大きな
病気もせずに現在まで過ごせています。この子は運がいいと思い、親としてう
れしい限りです。ただ 1 回、小学 2 年生の時に、入院する病気にかかりまし
た。元気がなく食欲もなくなり、おう吐をするので、初めはカゼくらいだと思
っていたのですが、いっこうに良くならないので、病院で入院して治療しても
らうことになりました。しかし、おう吐をした後しばらくは元気になるのです
が、食事をとり 1 日ぐらいたつとまた元気が無くなりおう吐を繰り返すばか
りで、2 週間たっても改善しませんでした。子どもに聞いても、
「いたい」と
か「気分が悪い」とかの言葉すら返ってきません。実は小学生のころは、会話
は単語がいえるぐらいでした。それも私たちにとっては発音が悪く聞き取りに
くいのです。だからこの時も、何をうったえたいのか理解することができず歯
がゆさを感じました。でもこのままではいけないと思い、こども病院に転院を
お願いしました。そこで足に症状がでたのを先生が診てくれて、病名が告げら
れました。その治療方針が決まり一安心をすることができました。
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入院中にクラスの皆さんから、手作りの品や手紙などのお見舞いをもらいま
した。その中にカセットテープがありました。担任の先生とクラス全員の声の
メッセージでした。このメッセージを子どもが大変喜び、何度も聞いていまし
た。よほどうれしかったのでしょうか、退院してからもよく聞いていました。
最近も聞いているのを見かけることがありました。クラスメートのことを懐か
しく思っているのでしょう。
それと、今も小学校の卒業アルバムを枕元に置いています。それも全員の顔
が映っているページを開いています。なぜと聞いても「なんでも」というぐら
いで答えてはくれませんが、病気になったのは大変だったけど、この子にとっ
て小学校生活は本当に思い出に残る体験ができたのだと思います。わか草を担
当してくださった先生を始め、多くのかかわってくれた先生、そして何よりク
ラスメートの人たちに感謝しています。
小さい時からスイミングスクールへ通わせました。一番大きな理由は、顔に
水がかかるのが嫌で、頭を洗うのが大変だったから、水をこわがらなくなれば
との思いからです。コーチの熱心な指導のおかげで、やがて顔がつけられるよ
うになり、チヨットだけですが潜れるようになりました。それから長い時間は
かかりましたが、だんだんと泳げるようになっていきました。好きなのは平泳
ぎです。25m を泳げるようになった時は感動もので、水面に沈んだ頭が、息
継ぎで上がってくるのですが、それをひょいひょいとやっている姿をみて、何
ともいえない嬉しい気持ちになりました。
兵庫国体後、のじぎく大会がありましたが、その予選会に出るチャンスがあ
ったので申し込みました。50m 平泳ぎで、順位やタイムはよくありませんで
したが、黙々と泳ぐ姿にうれしくなりました。本人は緊張していたみたいです
が、泳ぎ終わって笑顔で帰ってきました。のじぎく大会があったおかげで、い
い思い出ができてよかったです。
現在は、いなみの特別支援学校に電車とバスを乗り継いで自力通学していま
す。これも小学校と中学部の時に、バス通学ができたことの蓄積だと思ってい
ます。最近まで、自宅から恵比須駅までは、自転車で通っていました。最初の
頃は心配で並走していましたが、一人で通学もできるようになりました。普段
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と違うことが起こると、失敗もしますが、元気に通っている姿に喜びを感じま
す。こんなことができるなら一般就労もできるのではと思っていましたが、職
業能力開発に行くチャンスがあり、そこでの評価をみると、やはり無理をさせ
ない方がいいと思うようになりました。
高等部では同級生の人数が多いのがよかったのか、環境が変わり色々な刺激
を受けて、目に見えて成長できたと思っています。学校にはクラブ活動があり、
サッカー部に入っています。ここでも友だちができて楽しくやっているみたい
です。
特にうれしいのは、言葉がたくさん出るようになったことです。友だちとの
会話が楽しくできるのが、その大きな理由だと思います。以前、言語訓練に通
っていました。先生に指導されている時間は、大きな口をあけて言葉がはっき
りしているのですが、家に帰ると普段の聞き取りにくい発音に戻ってしまいま
した。親が「こういう風に大きく口をあけてゆっくりしゃべって」と言っても
聞いてくれません。それが最近では、聞き取りにくい言葉もありますが、2、
3 の単語を並べて話せるようになったのです。それまでは成行きが分かってい
なければ、母親に通訳をしてもらわないと理解できないことが大半でした。こ
こに来て、今までとは違うコミュニケーションができるようになったことを、
本当に喜んでいます。
これからの課題は就労です。高等部も残すところ、あと半年を切っています。
一般就労は難しいので、やはり作業所(授産施設)の就労とした方がいいので
はないかと考えていますが、実際は詳しく分かっていません。母親が熱心にや
ってくれているので、それにまかせているのが現状です。今月末に実習がある
ので、それで決めることになりますが、多くの選択肢がないのが実際です。
これから先心配なのが、もし親がいなくなったら、この子が不自由なく暮し
ていけるのかということです。自立支援法ができて、一般社会に出そうと考え
てくれていますが、その受け皿や制度が整っていないから、色々な問題が起こ
っているのだろうと思います。障がい者の中には、援助がなければ今の社会の
仕組みの中で、暮らすことができない人がいます。直樹もこの一人だと思って
います。働く意欲というか意味が分かっていないのに、無理なことはしても長
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続きはしません。でも働くことは大切なことですから、そこには支援員さんが
必要になります。この支援員さんを充実させることが、大切なことの一つだと
思います。また、周りの人が障がい者に対して理解してもらえることが大切だ
と思っています。
私自身、反省する点が多々あります。その一つが、昔働いていた工場に自閉
症の人が、障がい者の雇用促進で入社してこられたのだと思うのですが、半年
も働いたのでしょうか、いつの間にか顔を見なくなってしまったのです。その
時は自閉症のことも知らなく、ちょっと変わった人だと思っていましたので、
あいさつぐらいしかした記憶がありません。今思うともっと積極的に関わった
り、会社全体で理解しようとして、仕事が続けられる形にできなかったのかと
反省しています。その人や家族の期待をくじいてしまったのではと、今になっ
てその気持ちがわかるようになるなんて、とてもはずかしい限りです。
他の子どもと比べてはいけないと思っても、やはり気になります。年齢が増
すにつれ、できることの差が次第に開いていくのを実感すると、寂しさや不安
が起こります。でも、子どもをみていると成長しているのがわかるし、愛らし
さはいいようもありません。本当にこの子を授かって幸せに感じています。何
もできない私を補うために、産まれてきてくれたのか、私にとって無くてはな
らない存在です。よくよく考えてみると、普段の生活では直樹を特別扱いして
いる分けでなく、姉、弟と同様に接しています。親にとって子どもを育てるの
は、どの子も同じだと思います。兄弟げんかもするし、どこにでもある光景が、
幸せだと感じています。この幸せが、いつまでも続けばと願っています。
最後になりますが、いろいろ振り返る機会を与えてくださった隣保館の方々
に感謝します。また、この退屈な話を聞いてくださった皆様に感謝して発表を
終わりたいと思います。どうもありがとうございました。
45
(平成20年10月24日(金)総合隣保館にて)
Ⅱ 私と手話
手話サークル「みき」
帆 先 日 登 美
こんばんは。手話サークル「みき」の帆先日登美です。よろしくお願いしま
す。
手話サークル「みき」は今年 30 周年を迎えました。昭和 53 年 4 月 1 日
に誕生しています。
その間いろいろな方から温かいご支援、ご協力を頂きましたことに、先ずこ
こでお礼を申しあげたいと思います。
私が手話を始めたキッカケは、当時『星の金貨』や『愛しているといってく
れ』など聞こえない人が主人公のテレビドラマが流行っていて、私もやってみ
よう!と思って初級講習会に申し込みました。それまで聞こえない人を見たこ
とも無く、もちろん手話を見たこともありませんでした。全く『ゼロ』からの
スタートです。初級講習会が終わり、手話サークル「みき」に入ったのが平成
6 年 10 月です。
そして次の年、阪神淡路大震災が起こりました。聞こえないということは見
た目には分かりませんが、情報が届かないんです。聞くという当たり前のこと
が困難なのです。神戸でも約 100 人の聞こえない人が何らかの被害を受けら
れたそうですが、手話がまだまだできない私はそちらの応援には行くことがで
きず、とりあえず三木で救援物資の仕分けのボランティアに参加しました。手
話サークルに入って、はじめてのボランティアでした。
手話サークルは、夜の部と昼の部がありましてそれぞれ福祉会館で活動して
います。私は昼の部への参加が中心なのですが、初めの頃は夜の部にも通って
いまして、サークルが終わったあと日付が変る時間までファミレスでお茶を飲
みながら雑談するのが普通でした。私にもお誘いがかかり、「楽しいよ。勉強
にもなるし、一度行ってみたら。」などと言われ、ついて行きました。私の席
は聞こえない人 2 人、ベテランの手話のできる人 2 人、私の 5 人でした。多
分日常会話をされていたんだと思いますが、私にはさっぱり分かりません。顔
を交互に見ているだけです。時々簡単な通訳はしていただけても、会話の全て
46
を理解することができず、寂しい思いをしました。その場にいて、本当に楽し
くなかったのです。
その時、初めて聞こえる人たちの中での聞こえない人の立場が分かりました。
何を話しているのか分からない。人の顔色で判断できるものではありません。
笑っていても、何がおかしいのか分かりません。その場に居て、こんな辛いこ
とはないと思います。聞こえない人たちは、ニコニコして見ておられます。も
っと「何言ってるの?」「分からない。」と言ってもらってもいいと思います。
そんな思いから、今日まで手話と関わってきました。
手話技術はまだまだですが、サークルに入ってたくさんの人たちと出会うこ
とができ、ボランティアにもいろいろ参加させてもらいました。小学校に行っ
て聞こえない人の生活について話をしたり、手話を教えたり、中央公民館芸能
発表会で通訳をしたり、障がい者スポーツ大会のお手伝いをしたり、手話劇を
したり、金物まつりに参加したり、普通の主婦ではなかなか経験できないこと
も経験することができました。どちらかと言えば引っ込み思案の私が、人の前
に立ったりするのは考えられないことでした。今、こうしてお話をさせていた
だいていることも以前ではありえないことですから、ボランティアを通して自
分を変えられたことは、私の人生においても大変プラスになっているように思
います。
しかし、手話を勉強していても、知らない人に話しかけるとなると大変戸惑
ってしまいます。
3 年前の夏に石垣島に旅行に行きましたが、最終日は朝から強い台風が停滞
しており、飛行機が飛ばず、3 日間足止め状態でした。1 日目に狭い空港の中
で手話をしている夫婦を見つけましたが、私は声をかけることができずじっと
見ているだけでした。小学校に入るか入らないかの男の子二人は聞こえるよう
で少し手話をしていましたが、まだ通訳をするという感じではありませんでし
た。台風や飛行機の情報についてのアナウンスがあるたびに「大変だろう。困
っているだろう」と思い話しかけたかったのですが、なかなか話しかけられま
せん。奥さんが何度も空港の窓口に足を運び、身振りや書いたりして話をされ
ていました。それでもまだ話しかける勇気がありませんでした。
2 日目も、やっぱりその家族は空港に来られました。昼過ぎまでためらいま
したが、勇気を振り絞って声をかけました。「聞こえない方ですか?私手話を
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勉強しています。」気さくな方たちで、笑顔で話を続けてくださいました。東
京から来られていたようで、世間話などをしながらアナウンスがあると通訳ら
しきことをしました。本当に楽しい時間でした。夕方になって、やっと飛行機
が飛ぶことになり彼らは障がい者枠で優先的に帰ることができました。「あり
がとう。助かりました。手話できる人がいて本当に良かった。」と言ってもら
いました。小さなボランティアですが、私にとってもいい経験、いい勉強にな
りました。でも、後から思うと簡単なことなのに、話しかけるのにどうして一
日半もかかってしまったのだろうと後悔しています。前日一日の彼らの不安を
思うと、迷っていた自分が腹立たしいです。今度こういうことがあったら、迷
わずに進みたいと思います。
ボランティアって手話ではこうします。「一緒に歩いていく」これでボラン
ティアです。こちらからしてあげるのではなく、お互いに一緒に進むことなん
です。聞こえない人と接しながら、自分が成長できるって素晴らしいと思いま
す。できることでいいんです。無理しなくてもいいんです。難しく考えなくて
いいんです。自分もひとつ成長できると思えば、楽に入っていけるはずです。
あと頑張ったのは、特別養護老人ホーム「淡路ふくろうの郷」の建設に向け
ていろいろな場所で募金活動をしたことです。淡路ふくろうの郷は、聞こえな
い人に配慮のある老人ホームで、全国で 5 つ目、兵庫県では初めての施設です。
兵庫県下の聴覚障がい者協会と手話サークルが一丸となって進めてきました。
聞こえない人たちが、老後を楽しく暮らすために手話のできるスタッフをおく
などして、コミュニケーションにも困らないようになっています。みんなの頑
張りの甲斐があり、平成 18 年 4 月に開所となりました。三木からも 3 人の
聞こえない人が入所されていて、老後を満喫されています。7 月に訪問させて
もらいましたが、楽しそうで生き生きとした表情でした。やっぱりコミュニケ
ーションって大切ですよね。
聞こえない人にとっては、手話が言葉なんです。日本人は日本語が言語であ
るのと同じで、聞こえない人には手話が言語なんです。
家族も変ったと思います。小さい頃からサークルの行事などに連れて行って
いた子どもたちも手話はできませんが、ある程度の理解はしていると親として
信じています。主人も、よく出かける私を見守ってくれています。先日もろう
あ者と健聴者でつくる人形劇団デフパペットシアター「ひとみの人形劇」を一
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緒に見に行きました。手話は知りませんが、声のない人形劇を見て内容はよく
分かったといっていました。ずっと以前なら、一緒に行ってはくれなかったと
思います。家族の協力があるからこそ続けてこられたのです。そのことには大
変感謝しています。
現在手話通訳設置事業で、三木市役所には手話通訳者が常勤でいます。また
手話通訳派遣制度により、聞こえない人が病院や学校、講演などで困らないよ
うに通訳をつけることができます。今日も手話通訳がついていますが、これも
三木市の手話通訳派遣事業を利用して手話通訳が派遣されています。手話サー
クル 30 年のなかで、先輩方とろうあ協会の方々の活動で実現したことです。
また、こちらのスクリーンに文字が映し出されています。要約筆記といいます
が、要約筆記も今年 4 月から派遣事業が始まりました。でも、まだまだ聞こえ
ない人の知る権利、聞く権利は完全ではないですし、平等な社会参加について
も完全ではないのです。
今後は要約筆記の方々とも協力し合って、聞こえない人の権利をよりいっそ
う守ることにも努めていきたいと思っております。
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(平成20年10月24日(金)総合隣保館にて)
Ⅲ 女性、障がい者、部落
3つの差別の中に思う事
解放同盟支部員
嶋 田 千 津 子
こんばんは。題が少し大きいんですけれども、女性、障がい者、部落
3つの差別対象になっているところを私が持っているんです。
私はA町で生まれました。今は合併していますが、そこでちょうど終
戦前に生まれました。女性としてというのは、女性差別は私自身受けて
いるんでしょうけれども、まだ気がついておりません。私が一番気がつ
くのは、障がい者です。小さい頃に、2歳の頃に熱で骨が腐る病気にな
って障がい者になったんですけれども、いつも8月の終戦のテレビ放送
がある頃になると、母が生きていた頃は、私によく言っていました。ち
ょうど終戦後でしたので、お医者さんがいなくて、病院に入院はしてい
るんですけれども、手術をしてもらえません。そのままの状態をただ保
っているだけ、いいお医者さんは皆、軍医さんで行っていますので、だ
か ら そ の 軍 医 さ ん が 帰 っ て く る ま で2 年 間 ほ ど 病 院 で 入 院 し た っ き り
なんです。やっと帰ってきて、手術をしてもらいましたけども、そのと
きはもう腐っている骨も広がって、8センチほど取っていますので、右
足が8センチほど短くなっています。
その後、なかなかリハビリができませんので、幼稚園行くのも小学校
の低学年の間は父や母が自転車で送り迎えをしてくれたりして、学校へ
行った記憶があります。小学校の上級生になって、やっと自分一人で学
校に行けるようになると、今度は少し意地悪の子どももいますので、ま
ねをされたり、悲しい思いもいっぱいしました。そういうこともあって、
障がい者については、自分が死にたいなと思うときもあったし、一人に
なりたいなぁとか、もういろんなことを考えたりしました。そして、中
学校に行く頃になると、人の前で歩くのがとっても勇気がいるんですね。
廊下でみんな話して固まっているでしょ、その前を歩くということは、
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私は女性でもありますので、もうなんか歩けないんです。だから人のい
ないところを遠回りしたりして、教室に行ったことも覚えています。
それと、初めて私が部落差別に出会ったのは、中学校3年生の1学期
の終わり頃です。A町には、二つの部落があります。小学校の頃は、二
つの小学校がありまして、それが中学校でひとつの学校になります。そ
の中学校に二つの部落があります。そこで中学校3年生のときに、私ら
の頃だったら高校に行く子、就職する子が、大体クラスの半分くらいで
社会人になる子が多かったんです。そのためもあって、中学校の校長先
生がとても同和教育に熱心な方だったようで、その二つの部落の子ども
を1学期の最後の日だったと思うんですけど、ひとつの教室に集まって、
部落の歴史を勉強したんです。そのときに初めて自分が部落出身だなと
いうことがわかったんですけど、私はまだまだ障がい者の方が重くって、
部落差別のことに無頓着ではないんですけど、重く感じていなかったん
です。
でも、自分の結婚のときに同じ会社の人と結婚したんですけど、その
ときに同じ会社の人は「あんたが付き合っている人、怖いとこの人やか
らやめときよ」と言われたんですね。初め、私は「怖いとこの人ってど
この人なんやろ?」と思っていたんですけど、家に帰って尋ねると、「怖
いとこの人は、部落の人のことを言うとんやで」と、そこでまた初めて
自分でわかったんです。そのときに、主人もそのことを言おうかなとし
ていたみたいで、いつ言ってくれるんかなと思っても、なかなか言わな
かったんですけど、最後は言ってくれたんです。そしたら、「私も同じ
とこよ」と言ったら、「はぁ、ホッとした」って言うてました。
それで何とか結婚はできたんですけど、今度は自分の子どもの長男の
ときに、やはり結婚差別を受けました。息子と息子の友だちとが、大分
その女の子のお家にお父さんの説得に行ったみたいで、初めの頃は「た
だ反対している、反対している」と言いながら聞いてくれていたんです
けど、だんだん玄関払いになってしまったりして、とうとう女の子が我
慢できなくなって、私とこの家に来てしまいました。こんなん放ってお
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かれへんと思って、女の子と一緒に実家へ行ったんです。そしたらお父
さんとお母さんが出てこられて、「お母さんは外におってください」と
言われるんです。自分の娘だけ中に入って、2時間くらいだったと思う
んですけど、嫁が泣いたりしているんですけど行けないし、私は夏の暑
いときだったんですが、ずっと外で待っていたんです。そしたら、2時
間ほどしてやっと「中に入ってください」と言われて、それも玄関で待
っていましたのに、玄関から入るんかなと思っていましたら、「いや、
こちらからです」言うて、台所から入りました。何でかなと思いながら、
言われるままに裏口から入ったんですけど、入ったら「どないしても連
れて帰るんやったら、もうこの子は勘当や」って言われるんです。「自
分の可愛い娘を勘当なんて…」と思ったんですけど、お父さんに「部落
差別って歴史が作ってきたものですよ」って、私自分の持っている限り
のことを言ったと思うんです。そしたら、お父さんは「わかっています。
私も会社で同和教育の係をしていますので」と言われたんです。自分が
同和教育を推進している係になっていても、「私とこにかかってきたの
は違いますねん」と言われるんです。
そのときに、それやったら市民研修や住民研修、企業研修をしてもら
っても、何も役に立ってないのかなと思って、そんな人ばかりではない
でしょうけど、そのときになんかすごい憤りを感じて、同じ人間なのに
どうしてなんやろなと。「そしたら私一人帰ります」と言ったら、嫁が
「一緒に帰る」と言うんです。「『一緒に帰ったら勘当や』とお父さん
が言うてるんやで」と言ったら、「うん、それでもいい」と言ったんで
す。向こうのお父さんが、「今までこうして反対してるから、解放同盟
で糾弾するんと違うのか」と言われるから、「嫁が可愛いから糾弾なん
かしませんよ」と言って、そのまま一緒に帰ってきてしまったんです。
帰る前に「連れて帰る以上は、結婚式を挙げてちゃんとさせますので、
そのときは案内を差しあげますから」と言って帰ってきたんです。
結婚式の日も決まって連絡を入れたんですけど、参加してもらえずに
妹さん一人に参加してもらって結婚式を挙げました。それで孫ができる
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頃に息子が「このまま孫を見ない言うんやったら、嫁さんがかわいそう
やから、ぼくら外へ出るわ」と言って県住にいるんですけど、それでも
なかなか来てくれなくて、こうして男の子ができましたと電話しても、
来てくれないんです。それでも、やっぱり嫁は初孫やし、見せたいなと
いう気持ちもあったんでしょう。向こうのお父さんの妹さんにお膳立て
をしてもらって、飲み屋で偶然に出会ったようにして会ったんです。そ
のときに、神戸で会ってから何日かしてから県住に来るようになって、
私らが行っていると帰ってんです。車が止まってたらね。だから行き違
いばっかりです。こんなことしとってもだめだと息子といろいろ話して
た ん で す け ど 、「 あ ん た ら 二 人 で 一 生 懸 命 お 父 さ ん を 説 得 し た ら ど
う?」って言ったんです。そしたら「説得しよういうても出会ってくれ
ないから、なかなかそんなんできひんわ」と言いながらも、妹さんとか
お父さんの姉妹さんで一生懸命になってくれる方がおられて、その人が
中に入って、「ともかくお宅のお父さんとお母さんに謝りたいから、一
緒に出会いましょう」ということで、県住で出会ったんです。謝っても
らって済むのかなと思うんですけど「いろいろぼくも勉強しました」と
いうことだったので、今のところはしてるんですけど、それから、今度
は「お母さん、子どもが小学校行くようになったら帰るからね」と聞い
ていたのが、帰るんじゃなくてお嫁さんの方に行ってしまいました。お
父 さ ん が 娘 二 人 で 妹 が 出 て し ま っ たの で 見 て ほ し い と い う こ と で 行 っ
てしまったんですけど、今は何とか行き来をしているんですけど、いろ
んな形で、いろんな悲しい思いをする、それが部落差別やと思います。
それと最後に、私言いたいんですけど、私は女性に生まれようと思っ
て女性に生まれたわけではないし、病気になろうと思って障がい者にな
ったわけでもないし、部落に生まれようと思って部落に生まれたわけで
はありません。自分の意思で選んだものはひとつもありません。それで
差別されるのは不当やと思います。
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(平成20年10月28日(火)総合隣保館にて)
Ⅳ 今、思うこと
解放同盟支部員 木 多 た え 子
私は、神戸市西区というところで生まれ育ちました。私が生まれ育ったとこ
ろは神戸市ということもあってか、小学校、中学校と同和教育はなく、部落差
別があるということも知らずに育ちました。
高校は三木市内の高校に通いました。その高校には「解放研」という部活が
あったと思います。その頃は、どんな活動をしているのかさえわかっていない
ほど無知な私でした。そんな無知なまま月日が経っていきました。
そして、今の主人と出会い、お付き合いをすることになりました。当然、親
にはお付き合いが知れることになります。母から最初に聞かれたのは、「どこ
の人、住所は?」という言葉でした。私は「Aやで」と母に答えました。数日
後、母はこわばった顔で、「あっちの人やないの。絶対付き合ったらあかん」
と言われ、私はあ然としてしまいました。「あっちの人って何?何言ってんの
お母さん。どういう意味?」何も知らない私は、母が言っていることがわかり
ませんでした。同じ日本に生まれたのに、それぞれの地域で違いがあるなんて、
私の頭の中では整理がつかず、おまけに怒りに変わっていきました。
私たちの付き合いは続いていきましたが、母の反対は賛成には変わりません
でした。母から「親戚に顔向けできひん。親戚の子が結婚できひんかったらど
うするの」とも言われ、日々、親と対立する日が続きましたが、親戚の子の助
言や、主人の兄や姉が家に訪ねてきてくれて、話もしてくれ、結婚することが
できました。
結婚し、子どもができて、私たちはA地区に住むことになりました。B保育
所に子どもを預けた時に、保育を守る会に入り、そこから初めて私の部落差別
の勉強が始まり、差別がある事実、そして私たちが結婚するときに反対にあっ
ていたこと、それが部落差別であったことを知りました。そして子どもが小学
校、中学校のときは、教育事業がありました。私は、子どもをとおして勉強さ
せていただくことになりました。勉強をしていく中で、部落差別がつくられた
ものであること、そして差別によって傷つき、悲しみ、苦しんでいる人がいる
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ことを知りました。婦人会に入っても、研修や講演会があり、私はそのたびに
勉強の機会を持つことができました。
私は自分で選んでAにお嫁に来ましたが、Aに生まれ育った方は、「何でこ
んな所に生まれたんやろ?」と、Aに生まれたことをうらみに思ったり、あき
らめの気持ちをもったりした人もいたのではないでしょうか?
私はAに住んで、たくさんのことを学びました。もし、主人と出会うことが
なかったら、Aに住むこともなかったかも知れませんし、同和教育を受けるこ
ともなかったかも知れません。無知なまま世間の言葉に流され、知らない間に
人を傷つけてしまっていたかも知れません。無知であることは、罪であると思
います。そして、人を傷つけると自分自身も傷つけることになるということも
勉強の中で感じることができました。私にとって、Aという場所は自分自身の
魂を磨き、成長させてくれたとても大切な場所です。Aに住むことになったの
も、偶然なことではなく、自分自身のためにも誰かのために役立つことができ
るため、住まわせてもらっているのではないかと、今は思います。私の周りの
人たちは、とてもすてきな人たちでいっぱいです。近所を散歩すると、たくさ
んの方が声をかけてくださるし、私はこの場所がとても好きです。母のことも、
私のことを心配するあまり反対したんだろうなと今は思うようになりました。
出会いもまた偶然ではないと思います。私たちはたくさんの方に支えられて
生きることができています。苦しみや困難に出会った人は、より以上に人の苦
しみがわかると思います。自分がしてもらったように、出会った方にやさしく
声かけして感謝の思いでお返ししていけたらと思います。
これからもAに住み続けると思いますが、堂々とAに住んでいることを言え
ます。それを笑う人や陰で差別する言葉を言う人がいるかも知れません。でも、
そんなこと関係ないんです。私はAやこの三木の町が大好きです。それだけで
いいんです。人に何と言われようと、この町が好きです。私たちが住むこの町
をみなさんと一緒に愛し続けていきたいと思います。今、私が一番願っている
ことです。
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三 木 市 人 権 尊 重 のまちづくり条 例 (抜 粋 )
す べ て の 人 間 は 、生 ま れ な が ら に し て 自 由 で あ り 、か つ 、尊 厳
と 権 利 に つ い て 平 等 で あ り 、個 人 と し て 尊 重 さ れ 、基 本 的 人 権 の
享有が保障されなければならない。
しかし、現実社会においては同和問題、女性、子供、高齢者、
障 害 者 、在 日 外 国 人 等 、人 権 に 関 す る 問 題 が 存 在 し て お り 、そ の
解決に向けた積極的な取組が強く求められている。
真に一人一人の人権が尊重される明るく住みよい社会をつく
るためには、私たち一人一人が、人権に関する問題を共に考え、
理 解 し 、そ の 解 決 の た め に 協 力 し 合 う こ と が 何 よ り も 重 要 で あ り 、
そ の こ と が「 人 権 と い う 普 遍 的 文 化 」の 更 な る 進 展 に つ な が る も
のであると思料する。
よ っ て 、私 た ち 三 木 市 民 は 、世 界 人 権 宣 言 及 び 日 本 国 憲 法 の 理
念 の 下 、す べ て の 人 の 人 権 が 尊 重 さ れ 、明 る く 住 み よ い ま ち 、三
木市をつくるため、この条例を制定する。
(目 的 )
第 1 条 こ の 条 例 は 、あ ら ゆ る 人 権 に 関 す る 問 題 の 解 決 へ の 取 組
を 推 進 し 、人 権 が 尊 重 さ れ る 明 る く 住 み よ い 社 会 の 実 現 を 図 る
ことを目的とする。
(市 と 市 民 の 役 割 )
第 2 条 三 木 市 (以 下 「 市 」 と い う 。 )は 、 市 民 一 人 一 人 の 人 権 が
尊 重 さ れ る 社 会 の 実 現 を 目 指 し 、効 果 的 な 人 権 教 育 と 人 権 啓 発
の 推 進 を 図 る と と も に 、 人 権 尊 重 に 関 す る 施 策 (以 下 「 人 権 施
策 」 と い う 。 )を 積 極 的 に 推 進 す る 。
2
市 民 は 、相 互 に 基 本 的 人 権 を 尊 重 す る と と も に 、自 ら が 人 権
尊 重 の ま ち づ く り の 担 い 手 で あ る こ と を 認 識 し 、人 権 意 識 の 向
上に努める。
附 則
(施行期日)
1 こ の 条 例 は 、 平 成 1 3 年1月1日か ら 施 行 す る 。
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差別を許さない市民宣言
わたしたちは、何よりも「自由と平等」をねがうものであり、日本国憲法も基本的人権を
保障することを明らかにしています。しかし、わたしたちの日々の生活の中で、今なお許すことの
できない差別が人々を傷つけ、苦しめているのです。
昭和40年の「同和対策審議会答申」や昭和44年制定の「同和対策事業特別措置法」は、
同和問題解消へのとるべき筋道を明らかにしました。
わたしたちは、行政と力を合わせ、教育や対策事業をすすめて問題の完全解消に努めてきました
が、ここでさらに同和問題を完全になくするために、おとなもこどもも一人残らず一丸となって、
人権を尊重するまち―三木市をめざして、次の事柄を力強くすすめます。
1
同和問題を正しく知るため、すすんで学習します。
2
差別をなくするために、差別を許さない市民の輪をひろげます。
わたしたちは、この宣言のもとに新たな決意をもって、明るく心豊かな「差別を許さない三木市」
を築いていきましょう。
(昭和 51 年 1 月 24 日制定)
人権・同和問題啓発資料
平成 21 年 3 月
編 集 ・ 発 行
しあわせに生きる №27
発行
三木市立総合隣保館
〒673-0501
三木市志染町吉田 823 番地
TEL
(0794) 82 - 8388
FAX
(0794) 82 - 8658
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