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台湾のまち

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台湾のまち
70
人と歴史が交錯する、
台湾のまち
私は長年勤めた神戸市役所で、19
台湾社会は、国民党の一党支配、国
95 年阪神・淡路大震災に遭遇し、住
連脱退、民主化、民進党政権誕生と
宅復興に5 年間従事した。退職間近
目まぐるしい変遷をたどり、今年 3回
の1999 年、今度は台湾で大地震が起
目の政権交代で女性総統が誕生した。
こった。阪神の経験を伝えるため、
九州ほどの面積に2,300 万人が暮らす
台湾営建署の招きで台湾に赴いた縁
台湾は、多様な出自を持つ人と歴史
で、その後15 年にわたり頻繁に台湾
が目まぐるしく交錯しながら、今も
を訪れることになった。本稿では、
熱を帯びた島でありつづけている。
その間に見聞した「台湾のまち」の
いくつかを紹介したい。多様な人と
シラヤ族の伝統が残る村
歴史が交錯するところに台湾のまち
──吉貝耍の夜祭
の魅力がある。少しディープな台湾
15 頭ほどの屠られた豚がひれ伏す
案内になればと思う。
るように、村の聖なる場「大公廨」
台湾には元々ほぼ全土に原住民族
の前に並べられている。ここは台南
が居住していたが(注)、1600 年ごろ
市東山区東河村の吉貝耍部落
(Kabua
を起点に対岸の中国福建省や広東省
Sua)で、今夜行われるシラヤ族伝
から漢民族(客家人を含む)が徐々
統の「夜祭」の準備をしているとこ
に移住してきた。その結果、平地には
ろだ。
漢人社会が形成され、山地の原住民
シラヤ族のようにもともと平地部
族社会(高山族)と併存する状態が
分に居住していた原住民族は、移住
続いた。1895 年日清戦争に勝利した
してきた漢民族と同化し、そのアイ
日本が、以後 50 年間にわたり植民地
デンティティはほとんど失われてし
として台湾全土を領有したが、1945
まった。しかし、ここ吉貝耍部落(約
年の敗戦で台湾は中国に返還された。
360 戸)は、今もシラヤ族人が 6 割を
一方、中国大陸では国共内戦が激
占め、シラヤ族の歴史を物語る数少
しくなり、劣勢となった蒋介石の国
ない村の一つである。村民たちもシ
民党や軍隊は台湾に逃れる。1949 年
ラヤ伝統文化を再興しようと活動し
中華人民共和国が成立し、中華民国
ており、今日はその大イベントの夜
政府は台北に移った。この前後に政
祭なのだ。
府関係者や軍属など多くの人たちが
祭りが始まるまでの間、部落を散
大陸から台湾に移住したが(外省人)
、
策してみた。あたり一帯広がる嘉南
元々の台湾居住者(本省人)と大き
平野の中にある集落には、漢民族の
な軋轢が生じることになった。その後
伝統形式三合院の民家が建ち並んで
神戸・被災地市民交流会 代表
垂水英司
シラヤ族伝統の夜祭(台南の吉貝耍部落)
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家とまちなみ 73〈2016.3〉
哈瑪星─時空旅図─Map of Hamasen(社団法人高雄市打狗文史再興会)
眷村とアートの出会い。寳蔵厳国際芸術村
おり、一般の漢民族村落と変わると
哈瑪星には、今なお日本統治時代
だった。眷村といっても特殊な事例
ころがない。
「大公廨」に戻るとそろ
の建築物が約 20 棟残っている。こう
で、1960 年代から退役軍人などの外
そろ祭りが始まるところだ。地元小
した歴史建築物やまちに関心を寄せ
省人が無許可の住宅を建て始め、自
学校の生徒が輪になって踊る、大公
る若い人たちが、4 年前から「社団
然発生的に密集した集落が形成され
廨に供えられた檳榔や花の飾り物に
法人高雄市打狗文史再興会」を立ち
た。一時取り壊しが決まったが、反
向かって口に含んだ酒を3回吹きか
上げ、歴史や文化を切り口に街を再
発する住民などの運動が展開され、
ける、広場に並べられた豚に一つひ
興しようと取り組みを始めた。最近、
最終的に台北市は国際芸術村と歴史
とつ白い布をかぶせるなど、見たこ
私たち神戸のまちづくりグループで
集落を結合させたまちづくりを決断
との無いような儀式が、断続的に、
彼らの拠点を訪ねた。空き家を活用
した。今、7 つの「芸術家工房」が
しかも、いつ終わるとも知れず延々
した事務所には、古い写真や資料、
あり、内外のアーティストがここに
と執り行われる。
地域の案内マップなどが所狭しと並
駐在して創作している。クネクネと
吉貝耍で過ごした一日、シラヤ族
べられ、手づくりのまちの博物館と
した狭い坂道や階段を歩いていると
が漢民族と融合していった歴史、台
いった趣だ。日本時代の建築修復ワ
工房やアート作品に突き当たる。一
湾の原風景の一つに触れる思いであ
ークショップなどにも取り組んでお
度訪ねてみる価値のあるまちだと思
った。もう5 年前のことだが、今もそ
り、これからの活動の発展が楽しみだ。
う。
外省人のまち「眷村」
以上、三つの台湾のまちをご案内
大都市高雄のルーツ・哈瑪星
──アートとの出会い
した。日本の伝建地区のように古い
──歴史建築を活用
1945 年から1950 年くらいの間に、
建物が軒を接しているというわけでは
台湾第 2の大都市高雄の建設が本
大陸から台湾に移住してきた外省人
ないが、多様な人々と歴史が今も雑
格的に始まったのは日本統治時代で
はおよそ 200 万人ともいわれる。彼ら
多なまちなみの中で息づいている。そ
ある。港湾整備に乗り出した日本当
の住宅を確保することが如何に困難
こに不思議な魅力を感じるのである。
局は、航路をつくるため浚渫した泥
だったか容易に想像できる。日本が
土を利用して、埋立地を造成した。
遺留した宿舎や土地などに、大量の
この地を「哈 瑪 星 」と称するのは、
住宅を政府や民間が急ごしらえで建
商港、漁港と漁市場を結ぶ 2 本の臨
設した。これが「眷 村」といわれる
海鉄道「濱線」が通っていたことに
コミュニティだ。時が経ち、多くの
由来する。そして、多数の港関連の
眷村が姿を消した今、歴史の証拠が
商店、倉庫、運送、銀行、旧高雄駅、
消え去ることを惜しむ声が出始めて
旧市庁舎、旅館、料亭などが立地し、
いる。
高雄市の政治経済中心として繁栄を
台北市中正区に寳蔵厳観音亭とい
極めた。しかし、その後は市の中心
うお寺がある。その裏の小高いとこ
が次第に東に移ったため、現在では
ろに、びっしりと小さな住宅が這い
取り残された地域になっている。
上がっているが、ここは嘗ての眷村
の時の印象が鮮やかによみがえる。
ハ マ セン
ハ
マ セン
けん そん
注:漢民族が台湾に移住する以前から先住
していた人たちの呼称については、「先
住民」を用いる場合もあるが、ここで
は台湾で用いられている「原住民」「原
住民族」の表記をそのまま使用した。
垂水英司(たるみ・えいじ)
神戸・被災地市民交流会 代表。
1963年京都大学建築学科卒業。神
戸市役所に勤務、1995年から5年間
阪神・淡路大震災の復興に携わる。
元兵庫県建築士会会長。現在、被災
地市民交流会で台湾の被災地との交
流を続ける。
家とまちなみ 73〈2016.3〉
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