Comments
Description
Transcript
2012.1.29.特別伝道礼拝説教 「死からの解放」
2012.1.29.特別伝道礼拝説教 「死からの解放」 聖書箇所 黙示録 21 章 1 節~4 節 ヨハネの福音書 3 章 16 節 神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかり ぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。 (黙示録 21:3,4) 中心聖句 序)死亡率 100% おはようございます。寒い中、ようこそ沖洲ほっとチャペルにお越し下さい ました。インフルエンザが大変な猛威をふるっているようですが、ご家族は大 丈夫でしょうか。どうぞ、ご自愛下さい。さて、今年最初の特別伝道礼拝のテ ーマは、日本人にとってはあまり触れたくない、むしろ避けて通りたい「死」 がテーマです。新年そうそうこんな題を選ぶなんて・・と思われた方も尐なく なかったかもしれません。しかし、 「鬼平犯科帳」の作品で有名な池波正太郎さ んの「男の作法」という本の中に次のような一節があります。『「人間は死ぬ」 という、この簡単な事実をできるだけ若い頃から意識することにある。…逆に 言えば、人間は死ぬんだということを忘れている限り、その人の一生はいたず らに空転することになる。』「死」とは、日本では、うとましいもの、縁起でも ないという考え方が一般的です。そして、避けてきた死が突然自分にやってく ると戸惑い、恐れ、怒り、人生の虚しさに襲われます。また、身近な者にやっ て来た時には、胸の中を引き裂かれるような容赦ない別離の悲しみとともに「あ あするんじゃなかった。もっとこうすればよかった。」といつまでも後悔や罪悪 感に縛られることもあります。 しかし、ある人がこう言いました。 「世の中には、いろいろな統計がある。だ が、世界に唯一絶対に間違いのない統計は、人間の死亡率 100%ということであ る。」遅かれ早かれ、誰にでも死は、必ず訪れます。神が定められている時に 100% やってきます。ですから、ぜひ今日ご一緒にこの「死」について考えたいと思 います。それは、今をよりよく生きることに繋がります。 1.私たちを待っているもの 「医科大の一角で、林立する、柩とともに、‘客’を待つ、葬儀社」という 5 行詩がかつて読売新聞に掲載されていました。埼玉県の西浦英子さんの詩です。 この 5 行詩の評価欄に「西浦さんの林立する柩の凄みに圧倒された。私たちは 明らかに待たれている。」とありました。この 5 行詩の光景は、亡くなった方々 を納める柩が、病院の一角に林立するように用意されている様子です。一見、 情け容赦なく柩が運ばれ、遺体が納められていきます。葬儀社は、丁寧な態度 を取りつつも仕事として処理していきます。やむをえないことですが、遺族に とってはいたたまれない光景です。そして、評価欄にある通り「私たちは明ら かに待たれている」のです。誰にもいずれその日が来るからです。 しかし、ここにお集まりの愛するみなさん、私たちを待っているのは、柩を 用意している葬儀社だけではありません。イエス・キリストは、弟子たちとと もに過ごした最後の夜、弟子たちに言われました。 「あなたがたは心を騒がして はなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住 まいがたくさんあります。…あなたがたのために、わたしは場所を備えに行く のです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたが たをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所にあなたがたをもおらせるため です。」 (ヨハネ 14:1~3)私たちを待っているものは、キリストによって備えら れている神の国、私たちのための永遠の住まいであることを知っていただきた いのです。この住まいと訳されている言葉は、英語ではマンションです。日本 語では、マンションというとアパートとあまり変わらないような小さな2LDK なんかもマンションと呼んでいますが、本来英語のマンションというのは、プ ールやバスケットコートが付いたような大大大邸宅のことです。イエス様は、 そんな大邸宅を私たちのために用意して待ってくれているのです。もしかする と今現実の地上の生活では、どうして私ばかりこんなに苦しい目にあうのだろ うかと理不尽な苦しみの真っただ中におられる方もあるかもしれません。でも、 私たちを待ってくれている神の住まい、そこは、地上でのどんな苦難や不条理 も解決されて余りある素晴らしい場所です。今日の中心聖句ご覧下さい。 「神ご 自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。 もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」(黙示録 21:3,4) 天国では、神様ご自身が私たちの目の涙をぬぐい取って下さる。もはや死もなく、悲 しみ、叫び、苦しみもない。喜びと平安と感謝に満ちた生活が始まるのです。 一昨日、丁度このメッセージを作っている最中に訃報の電話が鳴りました。 親友のお母さんが突然亡くなって、お葬式が今日丁度今イマデヤ葵会館である とのことでした。もちろん、私は今日のお葬式に参列することはできませんか ら、夕べお通夜に行ってきました。親友に「あなた方は、心を騒がせないがよ いと仰って下さっていますよ。イエス様は、お母さんの住まいの用意ができた から、迎えに来て下さったのですね。今は、神様の下で安心して寛いでおられ ますよ。」と伝えましたらほんとに喜んでくれました。残念ながら、他の宗教で はそうは教えないんですね。死んだ後も苦しい苦しい曲がりくねった陰府の道 を歩かなければならないから、柩の中にもわらじと杖と悪者をやっつけるため の短刀とおにぎりまで入れるんですね。死んだ後まで頑張らなきゃいけないな んて可哀そうですよね。 濱 和弘先生と仰る牧師先生がご自身のお母さんの最後をお父さんから聞い て、お話下さいました。お母さんが亡くなる数日前、突然お母さんが何時間に もわたってずっと話続けたそうです。お母さんは、末期がんでモルヒネを打っ て痛みを抑えていましたから、何を言っているのかはよく分からなかったそう ですが、でも、とにかく楽しそうに話し、時には声を上げて笑う様子に、 「きっ と楽しいことだけ思い出して話しているんだろうなあ。」と思ったそうです。も ちろん、お母さんの人生にも楽しいことはあったでしょう。しかし、小さい頃 から苦労したこともあって辛く苦しいこともたくさんあっただろうと思うので す。むしろその方が多かったかもしれません。なのに最後の時に思い出したの は、楽しいことばかりだったようなのです。そして、濱先生は、 「彼らの目の涙 をすっかりぬぐい取ってくださる。」という聖書の言葉を思い出したそうです。 お母さんは、クリスチャンでしたが、お世辞にも立派なクリスチャンとは言え なかったそうです。でも、亡くなる 1 カ月前に濱先生に「神様に全部お詫びし た。」と仰ったそうです。自分の罪を神様に全部お詫びし、悔い改めた母に神様 は、楽しい思い出だけを思い起こさせ、最後の時を迎えさせて下さった、これ は、神様からの母への最後のプレゼントのようです。と仰り、それは、神が神 を信じる者の目の涙をすっかりぬぐい取ってくださり、喜びに満ち溢れた天国 に迎え入れてくれるという約束の確かな証拠のように思えます。と話してくれ ました。 また、半田文雄さんと仰る方は、胃がんと肝硬変のため末期状態で、大阪市 東淀川区にある淀川キリスト教病院へ入院しました。当時病院付属の牧師をし ていた窪寺先生は、いつものように患者さんの部屋を巡回しました。その牧師 に向かって半田さんは、目を吊り上げて「神は必要ない!」と叫びました。な ぜなら、27 年前の 6 月、当時生後 10 カ月だった半田さんの長男がペニシリンの ショック死を遂げたからです。半田さんは「長男の死とともに、私の心から神 も仏も消えました。」と当時を振り返っていました。「あの時は神はいない。神 がいるならなぜあんなにむごいことを息子にしたのか。」と思ったそうです。そ の目には涙がにじんでいました。しかし、このことを通して奥さんは、教会に 通いクリスチャンになりました。そして、その奥さんの勧めもあって、半田さ んは淀川キリスト教病院に入院したのです。 「昨日は、言葉が過ぎました。」と翌日、半田さんは深々と牧師に頭を下げま した。やがて彼は聖書を読み始め、別人のようになっていったそうです。病院 のチャペルの礼拝にも、毎朝のように奥さんに支えられて出席しました。やが てキリストを受け入れ、洗礼を受けました。「み道が見える」「あなた、それが 天国の道よ。」「うん。」これが奥さんとかわした最後の言葉でした。 2.私たちは、愛されている では、喜びに満ちた天国に入るためには、どうすればいいのでしょうか?今 日の2つめの中心聖句をご覧下さい。聖書の中の聖書、聖書の中の真珠と呼ば れている聖句です。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を 愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のい のちを持つためである。」(ヨハネの福音書 3:16)世と言うところにぜひご自分 の名前を入れてお読み下さい。私たちは、 「万物の創り主である神」によって愛 されているのです。でも、先ほどの半田さんのように神様に愛されているなん てとても思えないと仰る方もおられるかもしれません。私もその一人でした。 小学 5 年生で、愛する父が突然死んだ時、私は神様なんていないと思いました。 神様がいるなら、こんなにむごいことなんて起こる訳がないと思いました。し かし、私は不思議な導きで、天地宇宙を創られた神様が私を愛してくれている ことを知りました。もちろん、ここに来られているみなさん、間違いなく神様 に愛されているのです。ちょっと御隣の人に言って下さい。 「あなたは、神様に 愛されています。」と。 では、神様は私たちをどれほどに愛していて下さるのでしょうか。このくら いでしょうか?それともこのくらいでしょうか?それは、この聖句にあるよう に「実に、そのひとり子をお与えになったほど」なのです。神のひとり子イエ ス・キリストは、クリスマスの日、寒い暗い汚い家畜小屋で生まれました。30 歳になった時、公の活動を始め、 3 年半 12 人の弟子たちと寝食をともにしまし た。しかし、弟子の一人のイスカリオテのユダに裏切られ、最も信頼していた ペテロからは、「イエスなんて人は、全然知らない。神に誓ってもいい。」など と言われ、最後は十字架に架けられて、無残な死に方をしました。でも、それ が神様の救いの計画でした。 愛するみなさん、もし、自分のかけがえのないひとり子が、臭い家畜小屋の 飼い葉おけの中に生まれることを知っていたら、親はどのような気持ちになる でしょうか。我が子が、信頼していた弟子によって金で売られ、 「あんな人は知 らない。」などと裏切られていく姿をどのようにして眺めていればよいのでしょ うか。ましてや、十字架の上で「我が神我が神、どうしてわたしをお見捨てに なったのですか。」との我が子の悲痛な叫びをじっとこらえねばならない親の気 持ちはどうでしょうか。ある牧師は、自分の子どもを交通事故で失った時、 「神 様、私の命を取っても結構です。子どもを返して下さい。」と道路で泣き叫びま した。そして、その時神様が、私たちの罪の身代わりにひとり子イエス様を十 字架に釘付けされたお心がどれほどのものか痛いほどに感じたそうです。この 神様の愛は、私たちが「ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つた め」です。神様のおこころは、私たちが一人も滅びないで、すべての人が永遠 のいのちを得ることです。 3.罪と死から解放されて 本来、私たちは、神のさばきと滅びを受けるべき罪人ではないでしょうか。 法律で裁かれるような罪は犯していなくても毎日毎日心の中で、周りの人を憎 んだり妬んだり、見下したりしています。また、どこまでも自己中心的です。 自分が思った通りにならないとすぐにかっとなります。そんな罪人の私たちに、 滅びではなく、天国への道・永遠のいのちが与えられているのです。そのため の条件は、この聖句にあるように「御子を信じる」ということです。神様が、 私たち人間に聖くあることとか、完全であることとか、愛に欠けがないように という条件を求められたら、誰が永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょ うか。また、毎日善行を積むとか、全財産を捧げると言うことを求められたな ら、それに応えることができるでしょうか。 神様は、キリストの十字架の死と復活によって、私たちの救いを完成して下 さったのです。私たちはこの事実を信じ、感謝して受け止めることによって、 つまり信仰によって永遠のいのちを頂くことができるのです。 今日ここにお集まり下さったみなさん、あなたの前に 2 つの道が用意されて います。1つは、永遠のいのちに繋がる天国への道です。それは、目の涙がす っかりぬぐい取られ、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない、罪と死 からの解放の道、永遠のいのちの道です。もう 1 つは、滅びの道裁きの道です。 あなたは、どちらを選ばれるでしょうか?神様は、ばちを当てる恐い神ではな く、何とかして私たちを救いたいと願って下さっている愛の方です。ぜひ、イ エス様を信じ、罪と死から解放されて下さい。お祈りします。