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008 F・リストと「ドイツ商人・工場主協会」

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008 F・リストと「ドイツ商人・工場主協会」
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Title
Author(s)
07 F・リストと「ドイツ商人・工場主協会」 <神奈川大学
創立五〇周年記念論文集>
諸田, 實; MOROTA, Minoru
Citation
Date
1979-11-10
Type
Book
Rights
publisher
KANAGAWA University Repository
F ・リス トと 「ドイツ商人 ・工場主協会」
F
・リ ス - と 「ド イ ツ商 人 ・工場 主協 会 」
はじ め に
「
協会 」 の設立 と そ の組織
一 連邦 議会 への請 願書
二
三 宮 廷歴訪 Ht中'南部 ドイ ツ
四 機 関紙 「
オ ルガ ン」 の発行
五 宮 廷歴訪 nt ベ ル- ンと ウ ィー ン
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は l八 l九年 の春 から翌 二〇年 の秋 にか け て約 一
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最初 は 「ド
の法律 顧問 とし て' ド イ ツの国民的商業
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euteund Fabrikanten)年半 の問'「ドイ ツ商 人 ・工場 主協会 」 (
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イ ツ商 工業 協会 」 (
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-貿易政 策を要求 し て文字 通り東 奔 西走 の精力 的 な活動 を続 けた。 この時期 は リ スト の生 涯 の中 で 「
初期 の商業
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政策 的 闘争期 」 と呼ば れ る時期 であ るが'同時 に' ヴ ユル ッテ ンベ ルク王 国 の下 級官 吏 か ら テ ユービ ンゲ ン大学
教授 へと いう' これま でのいわば 保 証された地位 を投げ う って 「
同時代 におけ る ドイ ツ最 大 の国民経済 学 者 」 へ
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と向 かわせた'「リ スト の生 涯 におけ るも っとも重大 な'も っとも驚 - べき方向 転換」が始 ま った時点 でもあ った。
この時期 の- スト の時論 の中 にはt のち の主著 ﹃
経済学 の国民的 体系﹄ の内容 の骨子 が部 分 的 にす でに表 わ れ て
おり、 また彼 の主張 は' ドイ ツの商業 -貿易政策 にかかわ る同時代 の多 - の時論 の中 で'視 野 の広 さと見透 し の
」
に加 入し た ドイ ツ各 地 の商 人 や工場 主と連 帯 し て
確 かさ にお いて 一頭地 を抜 くも のがあ ったと思 わ れる のであ るが' それ は それと し て' - スト の活 動 は 「
協 会」
の法律 顧問 と し て'「
協会 」の活 動計 画 に従 って'ま た 「
協会
進 め ら れ た のであ った。
この 「
協会 」を舞台 と し た - スト の活動 に ついては'全集第 一巻 の史料 と解 説 のほか にt と- にオ ル ス ハウゼ
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ンのくわし い研究 と付 録 の豊富 な史 料 とが残 され ているが、本稿 では これ ら の記録 に基づ いて' - ストに住吉州
を
しぼ ってこの 「
協会 」 の活動 の榔 略 を明 らか にし ようと思 う。
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30-
F ・リス トと 「ドイツ商人 ・工場主協会 」
「- スト全集 」 の第 1巻 は 「
政治 的 ・経 済的 改 革 を めぐ る闘争 二
八 一五- 二五年 」、そ の第 二分 冊 は 「
初期 の商 業 政策
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書店 ' 一九 六 七 年 )、小 林 昇 ﹃フ- 1ド- ッヒ ・- スト論考 ﹄ (
未 来 社 ' 一九六六年 ) があ る。
的論 稿と裁 判 記録 」 と 題 され ている。 こ の テ ・マにか んす る邦 語文献 には' 松 田智 雄 ﹃ドイ ツ資本 主義 の基 礎 研 究﹄(
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os)7.帝国 都市 ロイ ト- ンゲ ンの白襟 匠 の子とし て生 まれた - ストは'同市 がヴ ユル ッテ ンベ ルク王国 に編 入 され
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nd und Reifejahre t789-1825,)964,
〇月 テ ユービ ンゲ ン大 学 の新 設 の国家 経済 学部 に
た のち に,書 記 見習、郡書 記 、郡監督 官 '会 計官を 経 て' 一八 一七年 一
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5.青 年時
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( 掲書 に所収 )
'同 「
青 年 リ ストと ロイ ト- ンゲ ン」(﹃
小 林 昇経済 学 史著作 集﹄ Ⅶ
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国 家 行政 実務 担 当 の教 授 と し て就 任 し た。PG
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小林昇 「
青 年 - スト の伝 記的 諮問 撃
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未 来社 ' 一九七 八年 )'拙稿 「テ ユービ ンゲ ン雑 記日 」 (﹃
商 経 論叢 ﹄ 〓 - 三' 四
協 会 」時代 の- スト の活 動 に つい ては オ ルス
代 のリ スト の伝 記と し て現在 も っとも 詳 細 で正 確 なゲ 1- ンク の前 掲書 も '「
矧
ハウゼ ンの著書 の参 照を求 め て' き わめ て簡略 に扱 っている。
一 連邦 議会 への請 願 書
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ドイ ツ関税 同盟前史 におけ るも っとも重要な
「
- 形式 の点 でも内容 の点 でも天才的とも いう べきも ので
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ung)(「第 一の請願
文書 の 一つ」と いわれる 「
連邦議会 への請願書 」 (
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メツセ
書」
)は二 八 一九年 四月 〓 - 一四日 の間 に- ストによ って起草 され' 一四 日に フラ ンク フルトの復活祭 の大市
に集 ま っていた ドイ ツ各 地 の商 工業者 の有志 の集会 で承認され' 二〇 日に六八人 の署名 を添 え て連邦 議会事務局
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へ提出 され た。
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請 願書 の起草 と 提出 の経 緯 は次 の通 り であ る。 四月 初 め カ ウ フポ イ レ ンの綿 ・麻 織 物 輸 出 商 ヒ ン ツ ェル マン商
ch) は' イ タリ ア への輸 出 を 妨 げ る オ ー スト - アの関 税 引 上 げ と イギ - ス政 府 の措 置 に対
会 の エルヒ (
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す る報 復 を 訴 え た書 面 を ' 大市 の商 工業 者 に回 し て署名 を 集 め ようと し た。 こ の回 状 に ニ ュル ンベ ルク の商 人 シ
Schne己 の意 見 を加 え て' 連邦 議 会 宛 て の請願 書 を作 成 し ようと し て いた のであ った。 丁度
ュネ ル (
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〇 日か 一 一日 に フラ ンク フ ルト に着 いた - ストは' 到着
この時 ' テ ユー ビ ンゲ ン大 学 で第 三学 期 を 了 え て四月 一
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)'ゴ ー タ の ア ルノ ルデ ィ (E.W .Ar
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)' ニ ュルンベ ルク のパ ウ エル
後す ぐ 「
聡 明 で愛 国的 な商 人 だ と いう好 評を 聞 い.
て いた」 シ ュネ ルと会 い' プ ロイ セ ン関 税 法 に不 満 を 表 明 し て
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いるゲ ラ のヴ ェI バ ー (
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) など有 力 な商 人 も多 数 集 ま って いる ことを 知 り' さら に エルヒか ら請 願 書 作 成 のため
ライ ス (
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の回状 の ことを 聞 いた。
請 願書 は エルヒ の メ モし た回状 や シ ュネ ルら商 工業 者 の要 望 を参 考 に - スト の手 で執 筆 さ れ' 一四 日 に商 工業
メツセ
者有 志 の会 合 で草 案 ど う り 承 認 さ れ た。 一八 日 に開 か れ た有 志 の第 二回 会 合 の記 録 には'﹃四月 一四日当 地 の大 市
に参 集 し た ド イ ツの商 人 と 工場 主 た ち によ って' ド イ ツ内 部 の自 由 な 通 商 と隣 接 す る諸 外 国 に対 す る報 復 措 置 に
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つい て の高 貴 な る連邦 議 会 への 一通 の請 願 が決 議 さ れ た﹄ と 記 さ れ て いる。
-即
請 願 書 の内 容 はす でに明 ら か にさ れ て いる の で- わ し い説 明 は不 要 で
「
′あ ろう。 ド イ ツの商 工業 の萎 縮 し た現状
を記 し ' 反 対 論 に答 え' 前 年 に制 定 さ れ た プ ロイ セ ン関税 法 に触 れ て' 最 後 に' 一' ド イ ツ内部 の関 税 お よび 通
行税 の撤 廃 と、 二、 諸 外 国 に対 す る報 復 関 税 の設定 の二点 を 要 求 す る。 そし て、 中 ・南 部 ド イ ツ (
ザ ク セ ン' バ
イ エル ン' ヴ ユル ッテ ンベ ルク' ク ア ヘ ッセ ン' バ ーデ ン' ヘ ッセ ン- ダ ルム シ ュタ ットお よび ナ ッサウ) の六
八人 の商 人 と 工場 主 の署名 を 添 え て'「フラ ンク フ ルト ・ア ム ・マイ ンの全 ド イ ツ商 工業 協 会 の代 表 者 」 と し て の
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F ・リス トと 「ドイツ商人 ・工場主協会」
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リ スト によ って' 四月 二〇 日 に連邦 議 会 事 務 局 に提出 さ れ た。
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ens)であ った. イギ - ス製 品 の氾 濫を防
請 願 書 は五月 二四 日 に連 邦 議会 の総会 で採 りあげ ら れ た。 と ころが驚 いた こと に' こ の件 の報 告 者 に選ば れ た
のは ハノーバ ー王国 の代 表 マルテ ン ス
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いでド イ ツの製 造業 者 のため に国 内市 場 を 確 保 し' 必要 な報復措 置 を と る こと を要 求 し た請 願書 の報 告者 に' そ
の国 王 は イギ - ス国 王 であ り そ の国益 は イギ - スの国益 に合 致 す ると みられ て いた' ハノーバ ー王 国 の代 表者 が
選ば れ た のであ る。彼 の演 説 には ﹃ハノ ーバ ー の大臣 と いう より イギ - スの大 臣 の表 明 が見 られ る﹄ と いう バイ
エルン代表 の不満 と'﹃イギ- スの貿 易商 人 と ド イ ツ ・ハンザ と の争 いを エ-ザ ベ ス女 王 が - ユーペ ック市 長 に判
定 さ せ る に等 し い こと だ﹄﹃
彼 は ハノーバー経 由 で受 けと った ロンド ンか ら の指 令 に従 って行 動し た﹄ と いう 「オ
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ルガ ン」 の論 評 が、 こ の間 の事情 を 説 明 し て いる。
さ て' マルテ ン スは報 告 の第 一部 で 「
協 会 」 の形式 的 な資 格 を問 題 にし て些 細 な不備 を突 いた。協 会 は いかな
る国 によ っても ' フラ ンク フ ルト市 によ っても 承 認 され て いな いか ら'請願書 は単 に多 数 の民間人 の提出 物 と 見
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なされ る。 署名者 が全 ド イ ツ商 工業 者 と いう 一つの階 級 を代 表 す る権 威 を ど こからと った のか不明 であり 、個 々
の商 人 が署名 し た にす ぎ な い。 フラ ンク フ ルト人 も 入 って いな い。 - スト の不在 中 だ れ が協会 を代 表 す る のか。
第 二部 では請 願 書 の内 容 を論 評す る。第 一に国 内関税 の撤 廃 は神 聖 ロー マ帝 国 でも 困 難 であ った。 フラ ン スのよ
ぅ に革 命 と いう高 価 な犠 牲 を払 って これを 買 いと ろうと いう のか。 現在 のドイ ツは統 一国家 では なく 主権 国家 群
であ るから困 難 は い っそう大 き い。 関税 と 通行 税 が歳 入 の重 要 な部 分 を占 め る国 では財政 欠損 が生 じ て困 難 は倍
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加す る。第 二 に報 復 に基づ -共 同 の国 境 関 税 の設 定 も '諸 国 間 の通商 条約 が破 られ る こと を 考 えると困 難 である。
リ ストは六 月 〓 古口の協 会 員 の集会 で これ に応 え る演 説 を行 な い'「オ ルガ ン」 (二 月六 日号 ) に マルテ ン ス
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の報 告 と 並 べて掲 載 した 。 形 式 的 な 不備 を 改 め る ことを 約 束 し た う え で' ﹃国 内 関 税 の廃 止 は理論 的 には可 能 か
も し れ な いが﹄ と いう マルテ ン スに対 し て' 国 内 関 税 の存 在 こそ ド イ ツの商 工業 全体 の破 滅 の原 因 と反 論 し' 理
論的 に望 ま し い こと を いか にし て実 行 す るかt と - に' ど う す れば 財 政 収 入 の欠 損 を お こさ ず に国 内 関 税 を 撤廃
でき るか ' これ が解 決 す べき 課 題 だ と す る。 そし て'協 会 が領邦 政 府 を 通 さ ず 直 接 連邦 議 会 に請 願 し た 理由 は'
ド イ ツ諸邦 の商 人 を 結 集 し た協 会 のみが ドイ ツの商 業状 態 を 正 確 に判 断 し う るL t連 邦 議 会 こそ ド イ ツの商 業 の
全般 的 問 題 にか んす る最 初 にし て最 後 の審 査 機 関 であ るか ら と いう。
- スト の起 草 し た連邦 議 会 への請 願 書 は実 は これ だ け では な い。 彼 は八 月 二八 日付 シ ュネ ル宛 て の手 紙 で第 二
の請 願 書 提 出 の必要 を 主 張 し て いるが' それ は - ストが起 草 し、 九 月 二 二日 に フラ ンク フ ルト で開 か れ た協 会 の
拡大 運 営 委 員会 で承 認 さ れ' 九 月 二八 日 に連 邦 議 会 に提 出 さ れ た。 こ の請 願 書 も 力 強 い調 子 のも の で' 深 刻 化す
る ド イ ツ商 工業 の窮 状 を 指 摘 し '第 F
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の請 願 書 に関 説 し て後 述 す る宮 廷 歴 訪 成 果 を報 告 し ' 協 会 の主 張 が全 ドイ
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ツの要 望 に合 致 す る点 を 指 摘 し て いか。
- スト (
協 会 ) は政 治 的 分 裂状 態 の中 で全 ド イ ツの関 税制 度 と商 業 政 策 を 問 題 にL t 一国 中 心 でな く連 邦 議会
によ る続 一方 式 を 考 え て いた が ' 請 願 書 の提出 と いう最 初 の仕 事 によ って ド イ ツ経 済 史 に不 滅 の足 跡 を 残 す こと
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にな った。 し か し ' 連邦 議 会 にお け る請願書 の取扱 いか らも 明 ら か な よ う に' 協 会 の活 動 の前 途 に は いく た の困
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難 が予 想 さ れ て いた の であ った。
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7.紙数 の関係 で当 時 のドイ ツの政 治 的 、 経 済 的 状 況 の説 明 を省 略 す るが ' それ に つい ては '松 田智 雄
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F ・リス トと 「ドイツ商人 ・工場主協会 」
前掲書 '前編3'拙著 ﹃ドイ ツ関税 同盟 の成 立﹄ (
有斐 閣 ' 一九七 四年 )序論 お よび 第 一部 を参 照。
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i 形式的 には'請願書 は 「協会」設立 の決議以前 に起草'承認され'「協会」設立手続 の完了以前 に連 邦 議 会 に提 出 され
た。 しかし'請 願書 の提出 と 「
協会 」設立と は ドイ ツの国 民的商業 -貿 易政策 を要求 す る商 工業者 の不可分 の実 践 であり
よ いであ ろう。 - スト の義 兄ザ イボ ルト の主宰 す る ・
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請願書 が 「
協会 」 の全権 - ストによ って提出 され'「
協会 」の要求 とし て取扱 われ た点 か ら' 「
協会 」 の最初 の活 動と み て
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﹃テ ユービ ンゲ ンの- スト教授 から ドイ ツの商 人と 工場 主 の名 にお いて、本 日付 け でドイ ツ連邦 議会事務 局 に提出 され
資料 」日と し て収 録 され て いる。
松 田智 雄 、前掲書 、前編3第 三章 。請 願書 全文 の邦 訳 は前掲拙著 の巻末 に 「
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創造的 な業 績 」 であ る こと は明 らか であ る。 A・
料 を メ モし ただ け﹄と いう エルヒ自身 の言葉 と '請願書 の力強 い書 き方 や政治的精神 か ら み て'請願書 が 「リ スト自 身 の
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いことを詳細 に考 証 し ているoP.
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偶 然」 であ り' 「
意図的 」 なも のではな
対 し てゲ 1- ンクは' リ ストが こ の決定 的 な時期 に フラ ンク フルト に居 た のは 「
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a)と意見を交換 し ていた こと は確実 で' リ ストの到着 は必らずLも 「偶然」と は いえな い。 これに
事 前 に コ ッタ (Co
- 二〇 日 の間 にボ ンと ケ ルン へ旅行 し たが'プ ロイ セ ン領 ライ ン州 の自由 主義的商 工業者 と の連帯 の意図 が推 測 され る。
フラ ンク フルト行 き の動機 を - ストは' 二 研究 のためゲ ッチ ンゲ ン へ行 -途中 ' 二'私 用 でt と説明 し ているが、 エ
ルヒのいう よう に コブ レ ンツに ゴ ェレ ス (Goerr
es)を訪 ねる途中 だ ったtと オ ル ス ハウゼ ンは いう。起草後 四月 一五日
年 に ﹃関税 同 盟新 聞﹄ に発表 し た論説 (
全集 第 一巻所収 )があ る。
ヒ筋 の企 図 に対 す る反論 のほか に、 四月 一四日付 けと 二〇 日付 け の妻 への二通 の手 紙 (
全 集第 八巻所収 )お よび 一八 四六
こ の経緯 にか んす る- スト自身 の記録 と し ては' ﹃
国 民的体 系 ﹄序言 の、これを エルヒの功 績 に帰 そうと いう ライブ ツィ
請 願書 の全文 を掲載 Lt 二四日付 紙面 に- ストを そ の起草者 と報 じ て いる。P・
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た'関税 と通行 税 の撤廃 など に ついての請願 の受領 証﹄ (四月 二〇 日付 けtA ・ロ ットヴ ィ ット名)
マルテ ンスの報告 に つい てはt W
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協 会 」 結成 は自 由 人 の自 然 権 であ ると 主 張 す る。
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お よび フラ ンク フ ルト の弁 護士 ラ ップ (G.A.Rapp) の同 市 の協 会 代 表 への選出 は こ の約 束 の実 行
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二 「
協会 」 の設 立 と そ の組 織
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国 境 を こ え た 商 工 業 者 の結 集 は これ ま で に も 大 市 を 舞 台 に企 てら れ てき 畑 。 一八 一四 年 の ラ イ ブ ツ ィヒ の秋 の
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大 市 で は 河 川 の航 行 規 制 解 除 ' 破 滅 的 な商 業 封 鎖 の撤 廃 ' 運 河 網 や郵 便 と 度 量 衡 の統 一が 要 求 さ れ ' ゲ ラ のヴ ェ
メツセ
一七 年 の大 市 で繰 返 し 結 集 を 呼 び か け る 回 状 を 廻 し た 。 一九 年 四 月 の 「協 会 」 の設 立 は こう し た
- バ ー は 一六
動 き の延 長 線 上 にお こ った も のと 考 え ら れ る 。
「
協 会 」 の設 立 は有 志 と 相 談 し た う え で' 四月 一四 日 に請 願 書 の草 案 と と も に - スト か ら 提 案 さ れ た と 思 わ れ
る 2 , 一八 日 の会 合 で正 式 に決 議 さ れ た 。 こ の会 合 の記 録 は い,
禦 ﹃本 日 これ に続 い て,請 願 書 に署 名 し た 商 人 と
工場 主 た ち は コ- ヒ -店 「金 の馬 」 に参 集 L t 討 議 の のち 一致 し て次 の決 議 を 採 択 し た 。 1' ド イ ツの商 工業 を
ヘ ッ
振 興 す る 目 的 で恒 常 的 な 協 会 を 設 立 す る 。 二 ' 協 会 の事 業 の運 営 と 連 絡 のた め に 一つの委 員 会 が 選 ば れ る 。 委 員
会 は ラ イ ンラ ンド' プ ロイ セ ン' バ イ エ ル ン' ザ ク セ ン' ヴ ユル ッテ ン ベ ルク' ク ア ヘ ッセ ン' バ ー デ ン'
セ ン - ダ ル ム シ ュタ ット お よび ナ ッサ ウ の商 人 層 の 一人 づ つの代 表 か ら な る 。 三 ' 自 由 都 市 フラ ンク フ ルト、 -
ユー ペ ック' ハンブ ルク' ブ レ ー メ ンな ら び に ライ ブ ツ ィ ヒ' ハノ ー バ ー' ブ ラ ウ ン シ ュワ イ ヒ の商 人 層 は代 表
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36-
の要請 によ って委員会 に招請 され るも のとす る。 四'旅行途中 フラ ンク フルトで多 数会員 の求 め に応 じ て連邦議
会 への請願書 を起草 し た テ ユービ ンゲ ンの- スト教授 は'当地 へ帰 ったら協会 の運営を引受 けるよう に求 められ
る。 五'同人 は協会 の規約を起草 し て'速 やか に協会 に提出 し て討議と批准 を求 め るも のとす る。 さら に彼 は'
四月 二〇 日に ライ ン旅行 から帰 ってこの決議 を知 った - ストはそ の日に請願書 を連邦 議会 に提出 し' 二四日ま
でに 「
協会」 の塀的(
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en)を作成 した。規約 は二四日の総会 で決議されたが'前文 で 「ドイ ツ商 工業 協会」
cher Handets.und Ge
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n)を設立す る こと' この規約 は次 の総会 で正式 に決定 され るま で
(
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協会 」 は合法的 にド
の暫定的 なも のであ る ことを述 べ'「
協会 」の目的'組織'運営 などを定 めた (
全文 九条 ) 。 「
メツセ
イ ツ商 工業 の再興 に努 め る。春秋 の大市 に フラ ンク フルトで会議 を開-。 ドイ ツ各邦 の商人代表 からな る委員会
に運営を委任す る。委員会 は 一人 の学識あ る理事 (
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) の助 けを借 り て業務を処 理し'重要案件
メツセ
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は総会 で決議す る。秋 の大市 ま で暫定的 に代表 (
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バ ーデ ン)' ヴ ェ-バー (
ザ ク セ ン)、
スラー (ク ア ヘ ッセ ン)、 ハルト マン (
ヴ ユル ッテ ンベ ルク)t へ ロー ゼ (
ブ -デ ル ス (
ナ ッサウ'ダ ルムシ ュタ ット)を任命す る。
「
協会」 の設立 は内外 に大きな反響 を呼 んだ。各国大使 は この 「
出来事」を本国 に報告 したが' 四月 二六 日付
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ノ
5
けラ イブ ツィヒ発 の通信 は次 のよう に報 じ ている 。﹃フランクフルトに集 ま った商人層 が連邦 議会 に 一通 の請願書
を提出す る ことを決定 したと の知 らせは' 一般的賛成をも って受 けと られた。 フラ ンク フルトでこれが起きなけ
れば' この歩 みは当地 で起き た であ ろう。 だが事 が起き た以上'当地 に集 ま った全 ドイ ツ商 人 の加 入 は確実 と思
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メツセ
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協会」に加入 したと いわれ る 。
われ る。﹄果 し て'大市期 間中 に七〇〇-八〇〇名 の商 工業者 が 「
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37-
高位 の機 関 に対す る請願書 の提出 にかんし て必要 な手段を構ず る全権を委任 される。
﹄
F ・リス トと 「ドイツ商人 ・工場主協会 」
「
協 会 」 は組 織 と 規 約 を 整 え る ま も な く ' 各 国 政 府 や議 会 への陳 情 '各 地 の通 信 員 の募 集 ' 入 会 の呼 び か けt
と 「
熱 病 のよ う な 活 動 」 を 開 始 し た。 ヴ ェ- バ ーと ア ル ノ ルデ ィは 五 月 一日ゴ ー タ政 府 への陳情 書 の中 で'﹃避 け
が た い深 淵 に立 つド イ ツ工業 ﹄ を 救 う 早 道 と し て諸 国 首 脳 間 の ﹃
個 人 的 討 議 ﹄ を 勧 め 、 テ ユー- ンゲ ン三国 の商
人代 表 を ド レ スデ ン' カ ッセ ル、 ダ ルム シ ュタ ット' ナ ッサ ウ' バ ーデ ン、 シ ュト ゥ ツトガ ルト の宮 廷 へ派 遣 す
る こと を 説 いた 。「
大 公 は他 の諸 国 と こ の件 で交 渉 す る用意 が あ る」と のゴ ー タ政 府 の回 答 を え て'ヴ ェ- バ ーは
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7
六 日 に ライブ ツ ィヒ へ向 か った。
フラ ン スでは革 命 の中 で獲 得 さ れ た 国 内商
一方 ' 職務 外 の仕 事 を外 国 で許 可 な - 引 受 け た と し て 「
協 会 」 への協 力 を 責 め ら れ ' 教 授 辞 任 問 題 の渦 中 にあ
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った - スト は' 五 月 一五 日 バ ーデ ンの首 都 カ ー ル ス ルー 工に赴 いた が ' 早 - も 予 期 し な い効 果 が 現 わ れ た。 二 日
後 の フ ォ ン ・- 1 ベ ン シ ュタイ ン男 爵 の議 会 演 説 が それ であ る。 -
業 の自 由 に よ って民 衆 の力 が向 上 し た が' スペイ ンは数 百 年 来 の帝 国 諸 州 問 の交 易 の不幸 な 遮 断 によ って徐 々 に
衰 弱 し た 。 ア メ- カ は連 邦 国家 であ る が' 国 民 の幸 福 ' 安 全 ' 力 お よび 強 大 にか んす るす べ て の点 で統 一さ れ て
いる。 ド イ ツでは祖 国 統 一の期 待 は分 裂 に よ って失 な わ れ て いる。 そ し て演 説 は全 ド イ ツの交 易 の自 由 を 要 求 す
る フ ォ ン ・ロ ッツペ ック男 爵 の動 議 への全 面 的 支 持 を 表 明 し て終 った。 ま さし く ' - ストと 「
協 会 」 の運 動 の方
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1
9
向 と 一致 し て いる。「
協 会 」は中 部 ドイ ツに続 い て南 ド イ ツの バ ーデ ンにも 有 力 な 共 鳴 盤 を 見 出 し た の であ った。
代 表 者 にな った シ ュネ ルは 「
協 会 」 の通 信 員 組 織 を 確 立 す る た め に活 動 を 続 け ' ゴ ー タ の ア ル ノ ルデ ィの はか
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Vヴ ェ-バ ー の いと こ) のよ う な有 力 な協 力 者 を 獲 得 し た 。 「
協 会」
ニ ュル ンベ ルク の パ ウ エルライ ス (
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の活 動 と 運 営 を 協 議 す る た め 六 月 二 一
日 ニ ュル ンベ ルク で開 か れ た委 員 会 に は' シ ュネ ル' ヴ
ルライ スの ほか ' メ ルケ ル、 ツ ィ- ル' シ ャラ ー、 ク レ ット' ク ラ マIt シ ュテ ル ワー クな ど ニ ュル ンベ ルク の
1
38-
ー
のほか会 議 は次 のよ う な 重 要 な決 定 を し た 。﹃た だ ち にドイ ツの全 宮 廷 に商人 階 級 の代 表 を 派 遣 し てド イ ツの生 業
階級 の危険 な状 熊 を 略 述 さ せ' ド イ ツ語 君 主 の分 離 交 渉 によ って祖 国 を 食 料 不 足 か ら ま も る請 願 を 行 な う 。
﹄す な
わち 「
協 会 」 代 表 によ る宮 廷 歴 訪 であ る。 こ の決 議 の実 行 は シ ュネ ル' - スト' ヴ ェ- バ ー に 一任 さ れ た。 さら
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r A usschuB)が設 け ら れ' シ ュネ ルと - スト のほか シ ャラー' キ ル ヒ
にヴ ェI バ ー の発議 で小 委 員 会 (
ド ル フ ァー' ク ラ マIt ク レ ット' パ ウ エルライ ス (
会 計 責 任 者 ) が 任 命 さ れ た。 そ の ほか ' 支 援 を 求 め て フラ
ンク フ ルト市 参 事 会 に規 約 を 提出 す る こと '「
協 会 」の財 政 は自 発 的 寄 付 によ る こと を 決 定 し た。ニ ュ
ル ンベ ルク
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では ただ ち に募 金 が開 始 さ れ' 他 の都 市 へは小 委 員会 発 足 (
六 月 一六 日)後 に募 金 の要 請 が な さ れ
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こう し て四月 下 旬 に発 足 し た 「
協 会 」 は' 中 部 ' 南 部 ド イ ツに支 持 者 を 拡 げ てそ の組 織 化 に努 め 、 六 月 二 一
日
シ
ェ- バ ー の三人 は バ イ エル ン王 国 の首都 - ユン へン へ向 か って宮 廷 歴 訪 の遊 説 の旅 に出 発 し
の会 議 で宮 廷 歴 訪 と いう次 の活 動 方 針 を決 定 し た。 そし て' こ の決 定 に基 づ い て小 委 員会 発 足 の翌 一七 日 に'
ユネ ル ' - スト' ヴ
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四月 一四 日付 け の妻 への手紙 で- ストは ﹃
私 は ドイ ツ商 人 の 一つの協会 を設立 し '商 業 の自 由 にか んす る連 邦 議会 への
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た の であ った。「協 会 」 の活 動 の第 二幕 が始 ま った。
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請 願書 を 起草 し た。﹄ と 記し ている。 w
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こ の こと が後 の 「
協 会 」分 裂 の 一原 因 と な った
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有力 商 人 と ' こ の日到 着 し た - ストが出 席 し た。 こ の席 で- ストは マルテ ン スの報 告 への応 答 演 説 を し た が' そ
F ・リス トと 「ドイツ商人 ・工場 主協会 」
㈲
アダ ム ・- ユラーは ヴ ェ- バーを 通し てこ の ことを 知 り' 五月 二 二日 ﹃
私 は こ の出 来事 に貴方 の注意 を喚 起 しま す
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こと です 。協 会 は これ によ って、新 たな い っそう大き な期 待 と い っそう 確実 な信 頼 を獲得 しま し た。
﹄と 述 べて いる。
ア ルノ ルデ ィは ヴ ェ-バーの友 人 、︽
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の商 工業 者 層 にと っても っとも 嬉 し い知 ら せ は、 - スト教 授 が彼 の地位 を 辞任 し て専 心協 会 のため に つく そうと し ている
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f.シ ュネ ルは六 月 三 日付 け ア ルノ ルデ ィ宛 て の手 紙 で'﹃ドイツ
教 授 辞任 問 題 に ついては P.
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ページ、と - に注棚 と巻末 の資 料 臼を参照 。
- 1八〇
イ ツ工業 の敵対 者 」 と の論争 は頂点 に達す る。 こ の論争 に ついては'松 田智 雄 '前掲書 お よび 前 掲拙著 ' 1七 三 ・
「
協 会 」)と 「ド
の商 工業 者 の会 議 (
主宰 者 ブ ロス'書 記グ ルナ-) で 「
協 会 」 の主 張 は否定 され た。 翌 二〇年 に- スト (
0 月 の大市 都市
意 的 '同 調的態 度 は特 徴 的 であ るが' まも な- ' ここ でも 「
協会 」 の主張 に反対 す る声 があ が る。 同年 1
月 二 日 に メ ッテ ル ニヒに報 告 し た。 なお 、 こ の時点 で の フラ ンク フ ルト商 人 の静 観的態 度 に対 し て ライブ ツィヒ商 人 の好
・(
- こ のよう な悪 しき 先例 が許 され る でし ょう か。
﹄と いう付 言 と と も に'これを ゲ ン ツ FcG tz)に報 告 し 、 ゲ ン ツは六
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制
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発 表 し て有名 。 しか し彼 は六月 二 一
日 の会 議 には'旅費 を出 す か らと いう シ ュネ ルの強 い招 請 にも かか わら ず欠席 し た。
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そ の理由 は個 人的違 和感 と プ ロイ セ ンに対 す る態度 の相 違 であ ろう 。H・
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八月 1九 日 の委 員会 で- ストは欠席 のま ま書 記(
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)に指 名され た。 ただ し、九 月 五 日 の委員会 の記録 には﹃法
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3.小 委員会 は六月 1六 日 に第 7回 の会議を 開 いたが'実質 的活 動 は少 なか
った。
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ストを 正式 に法律 顧問 に任 命 し た のは八月 一九 日と し て いる点 か ら み て' こ の時 に法律 顧 問 への就 任 も決 めら れ' - スト
律 顧問 (
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)、書 記 (
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er)' オ ルガ ン編集者 とし ての- スト教授﹄ とあ り、 ゲ 1- ンクも協会 が-
〇月 一七 日 に法律 顧問就任 と引代 え に' 一'年俸 三〇〇〇グ ルデ ン' 二'
の意向 を打 診 す る こと にな った のであ ろう。 一
そ の他 協会 のため の出費 の補償 ' 三、機 関紙 「オ ルガ ン」 の純益 の坑 の提 供 、 と いう条件 が約 束 さ れ た。 しか し実 際 には
月に 一
〇〇〇 グ ルデ ン支払
翌年 七 月 ま で 「
協 会 」 のため の出費 以上 は 一文 も支払 われず ' 八月 に二〇〇〇 グ ルデ ン、 二 一
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40-
F ・リス トと 「ドイツ商人 ・工場主協会 」
クで'九月 二 二日に フラ ンク フルトで開かれ'九月 l四日に フラ ンク フルトで総会 が開かれ たc
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われた にすぎな い (一七 か月 で三〇〇〇グ ルデ ン)
。委員会 はそ の後 八月 二三 日と九月 五 日と 一
〇月 二三日に ニュルンベル
宮 廷 歴 訪 日 、中 '南 部 ド イ ツ
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三
「
協 会 」 は最 初 の仕事 と し て連邦 議会 へ請 願書 を提出 し たが'議会 の決 議 は 「
協会 」 の期 待 に反 す るも の であ
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った。連邦 議 会 は 三八 のド イ ツ諸邦 の代 表 によ って構 成 され'各 代 表 は本 国宮 廷 の訓令 に従 って いた から' 議会
を動 かす には諸邦 の宮 廷 を 説 得 し て' ド イ ツの商 工業 の現状 に ついて の認識 を 改 め' そ の救 済 のため に統 一的な
商業 関税政 策 に踏 みき ら せ る必要 があ った。 と - に' 諸邦 問 の個 別交 渉 によ って こ の点 の合 意 を拡 げ る こと は連
邦 議会 の討 議 に強 い影 響 を 及 ぼすも のと期 待 され た。す でに五月 にヴ ェ-バ ーと ア ルノ ルデ ィが中 部 ドイ ツのチ
ューリ ンゲ ン諸邦 に' - ストが バ ーデ ン公 国 に働 き か け て いるが' 宮 廷歴訪 が 「
協会 」 の運動方 針 と し て正式 に
決 定 さ れ た のは'前 述 のよう に六 月 一二 日 の会 議 にお いてであ った。
六 月 一七 日 に ニ ュルンベ ルクを 発 って宮 廷歴訪 の旅 に出 た シ ュネ ル、 - スト' ヴ ェI バー の l行 は'五〇時間
の旅 を終 え て 一九 日 バイ エル ン王 国 の首 都 - ユン へンに到着 し て 「
鷲 」旅館 に落 着 - と' ただ ち に 議会 と 政 府 に
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接 触 を始 め た。議 会 は 「
協 会 」 の運動 に理解 を 示 し たが' 国王 は - ストを ﹃
自 分 と意 見 の 一致す る議 員 に自 分 の
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原 則 を 知 ら せ て味 方 に引 入 れ よう と の意 図 をも って いるかも し れな い' とり わ け汝 滑 な人物 ﹄ と み て不信 を抱き
警視 総 監 に監視 を命 じ た。 〓付は - ユン へン滞在 中 ' 国王 '皇 太 子 を はじめ要路 の人 物 (ロイ ヒ テ ンベ ルク公、
-1
41-
-
彼 は - スト
政 府 は 請 願 さ れ た 措 置 を と る 用 意 がある。
た
、 内 相 テ ユー ル ハイ ム伯 な ど )と 会 見 し て いる。 ﹃
将 軍 ウ レ -デ侯 ' 前 蔵 相 モ ンジ ェラ ス伯 ' 外 相 レ ヒ ベ ルク伯 ' 自 由 派 の蔵 相 レ ル へン フ ェルト男
を自 宅 へ招 いた -
だし 政 治 的 理由 か ら イ ニシ ア テ ィブ を と る こと は拒 否 せざ るを え な い。
﹄これ が 大 方 の回 答 であ った。即効 は期 待
でき な い にし ても ' 指 導 者 に会 って 「
協 会 」 の意 図 を 伝 え た こと で満 足 せ ねば な るま い。 三〇 日 - ユン へンを 発
って ア ウ ク スブ ルク へ。 こ こ で取 引 所 を 訪 問 し ' 市 長 で商 業 界 の指 導 者 ク レ マIに面 会 ' ウ ルム経 由 で次 の目的
地 ヴ ユル ッテ ンベ ルク王 国 の首 都 シ ュト ゥ ツトガ ルト へ向 か った 。
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一行 は七 月 二 日 に シ ュト ゥ ツトガ ルト へ着 いた が ' - ストは' 五 日 に行 な わ れ る ヴ ユル ッテ ンベ ルク議 会 の選
挙 で彼 を 支 持 す る 選 挙 人 か ら の要 請 で ロイ ト - ンゲ ン へ帰 った。教 授 辞 任 問 題 で の国 王 と の不 仲 も 顧 慮 された であ
協 会 」 の通 信 員 で商 業 顧 問 官L ・ハルト マンの三人 は大 臣 フ ェルナ -ゲ ル
ろう 。 シ ュネ ル' ヴ ェ- バ ーそれ に 「
の尽 力 で国 王 に謁 見 L t 請 願 書 を 提 出 し て' バイ エル ン への交 渉 の働 き か け と ニ ュル ンベ ルク で の会 議 開 催 への
協 力 を 要 請 し た。
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請 願 書 は連 邦 議 会 への失 望 ' 諸 邦 問 の個 別 交 渉 への期 待 ' 対 英 報 復 措 置 の必 要 を 表 明 し て' ド イ ツの現 状 を次
のよ う に述 べる。 数 百 万 の移 民 が流 出 し '商 工業 者 は零落 L t 農 産 物 価 格 は低 落 L t 土 地 は荒 廃 し て いる。 この
状 態 が続 けば 羊 の放 牧 だ け にな ろう 。対 外 的 な 全 ド イ ツ商 業 制 度 の欠 如 と対 内 的 な 工業 の阻 止 と が 国 内 交 易 を 妨
げ ' 製 造 品 は高 価 で外 国 と の競 争 は 不 可 能 であ る。 ド イ ツ諸 邦 と の従 属 のな い通 商 関 係 に人 ら ねば 一小 邦 の繁 栄
はあ り え な い。 ヴ ユル ッテ ンベ ルク の農 業 の利 害 は自 国 の商 工業 ば か り でな - ' 近 隣 諸 国 の商 工業 の繁 栄 と も 結
び つい て いる。 スイ スの工業 が栄 え れば オ ー バ ー シ ュワ- ベ ン (
南 ド イ ツ) の穀 物 に対 す る需 要 が増 加 す る が'
スイ スの工業 が イギ - ス工業 のた め に衰 え れば 南 ド イ ツの穀 物 は 販 路 を 失 な い'農 耕 は衰 退 す る 。﹃こう し て至 る
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所 で,農 民 の繁 栄 は商 人 や 工場 主 の繁 栄 と手 を 携 え て いる 。
﹄そし て最 後 に'代 表 が バ イ エル ン宮 廷 か ら ﹃最 良
の保 証﹄ を 獲 得 し' ザ ク セ ン宮 廷 と バ ーデ ン政 府 の賛 成 を得 て いる こと を 述 、へ'﹃こ のような状 況 の下 で ド イ ツの
SeParaV
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gung)・はす で に十 分 に準 備 さ れ て いると いえ る でし ょう。﹄と 結 ん で いる0
諸君 主 の分 離 同 盟 (
国 王 は ﹃ド イ ツの商 業 階 級 の明白 な 困 窮 を 救 う ため に' ま た' こ の機 会 を利 用 し てド イ ツ民 族 全体 を 束 ね る紐
帯 を 固 く 結 ぶ た め に' 連 邦 構 成 員 が適 切 と 考 え る であ ろうあ ら ゆ る方 策 に手 を 差 し の べる﹄ 塁 息のあ る こと を言
明 し た。 一行 は こ の ほか ' 外 相 フ ォ ン ・ヴ ィ ンチ ンゲ ローデ' 内 相 フ ォ ン ・オ ット ー、 法 相 フ ォ ン ・マウヒャ-'
蔵 相 フ ォ ン ・ヴ ェ ッケ ル- ンら に会 見 し て いる。
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宮 廷 歴 訪 は続 け ら れ、 l行 は七 月 二 日 バ ーデ ン大 公国 の首 都 カ ー ル ス ルー 工に到 着 し た 。 バ ーデ ンは 五月半
し た。 カ ッセ ルと ゲ ラ では君 主 に謁 見 Lt そ の他 の宮 廷 では' ヴ ユル ッテ ンベ ルク国 王 へ提 出 し たも のと よ-似
こ のあ と二 行 はダ ルム シ ュタ ット' ヴ ィ- スパ ーデ ン、 カ ッセ ル' ゴ ー タ、 ワイ マ、ル' ゲ ラ の諸 宮 廷 を 歴訪
う t と 述 べ て いる。
あ る こと を 強 調 し' プ ロイ セ ン関 税 法 も ド イ ツ諸 邦 の個 別利 益 を ド イ ツの全 体 利 益 へ結 合 す る た め の手 段 であ ろ
相 ハルデ ンベ ルク宛 てに' ヴ ェ- バ ー の論 文 と 「オ ルガ ン」第 一号 を 添 付 し て' 協 会 代 表 の名 前 で手 紙 を送 った
)
5
協 会 」 の活 動 を 知 ら せ' そ れ が プ ロイ セ ン政 府 の意 向 に沿 ったも ので
の であ る 。 リ ストが執 筆 し た こ の手 紙 は 「
え て いる。ま た、「協 会 」が は じめ てプ ロイ セ ンと接 触 し た のも 当 地 滞 在 中 の こと であ った。 即ち' プ ロイ セ ン宰
にお い ても代 表 は大 公 閣 下 と 大 臣 諸 公 か ら期 待 に充 ち た約 束 を 獲 得 し た﹄と'「
協 会 」の機 関 紙 「オ ルガ ン」 は伝
通 信 員 の議 員 グ - 1 スバ ッハと とも に' 大 公 と議 会 に感 謝 状 を 提出 し今 後 の助 力 を 要 請 す る。﹃当 カールスルー 工
ば の- スト の訪 問 ' リ ー ベ ンシ ュ
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タイ ン男爵 の演 説 にみら れ る よう に 「協 会 」 に好 意 的 であ った。〓付は 「協 会 」
F ・リス トと 「ドイツ商人 ・工場主協会 」
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ュト ゥ レ- リ ッツ、 ヘ ッセ ン- ホ ムブ ル ク 、 ヴ ァ ルデ ック ' シ ュヴ ァ ル ツブ ル ク = ゾ ンダ ー
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た 請 願 書 を 提 出 し た 。 さ ら に 七 月 三 一日 に ' 今 回 訪 問 でき な か った 諸 邦 (オ ルデ ンブ ル ク ' メ ク レ ンブ ル ク = シ
ユヴ ェ- リ ン'
ス ハウ ゼ ン' - ルー ド ル シ ュタ ット ' - ッペ- デ ト モ ルト ' シ ャ ウ ムブ ルク - リ ッペ' ホ - エ ン ツ ォ レ ル ン-へ
ヒ ンゲ ン' = シグ マリ ンゲ ン' ロイ ス= グ ラ イ ツ' リ ヒ テ ン シ ュタ イ ン、 ザ ク セ ン - コブ ル ク ' - マイ ニンゲ ン'
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五 月 二 四 日 の会 議 で ﹃
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- ヒ ル ド ブ ル ク ス ハウ ゼ ン' ア ン ハ ルト = デ ッサ ウ 、 = ベ ル ンブ ル ク ' = ケ - テ ン)の宮 廷 に 請 願 書 を 送 付 した 。
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こ う し て' 中 ' 南 部 諸 邦 を 対 象 と す る 第 一次 の宮 廷 歴 訪 の旅 は 七 月 末 を も って 終 った 。
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び ' 全 集 第 八巻 所 収 の妻 宛 て の - スト の 二通 の手 紙 (
六 月 1九 日付 け と 六 月 二 二 日付 け ) を 参 照 。
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シ ュト ゥ ツトガ ルト で の活 動 に つい ては twe
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の ほか ' と く に七 月 五 日付 け の シ ュネ ルの報 告 と ヴ ユル ッテ ンベ ルク の内 閣 参 事 官 フ ォ ン ・ロー ザ I の メ モが - わ し い
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ルト マンは ハイ デ ン ハイ ム の綿 紡 績 工場 主 であ る が ' 兄 の アウダ スト は枢 密 顧 問 官 ' 農 業 協 会 会 長 で シ ュト ゥ ツト ガ ルト
よ る各 国 の財 政 欠 損 は完 全 に カバー可 能 であ る こと を 示 し て い る、と いう 。ち な み に'謁 見 に同 席 し た ルー ド ヴ ィ ッヒ ・ハ
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44-
l行 は各 宮 廷 か ら 「
協 会 」 に大 き な 関 心 を も って いると の返 答 を 得 た 。 ダ ルム シ ユタ ット の商 工業 者 の協 会 加 入 は 、同
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の通信 員 であ った 。 リ スト は 一八 一八年 に会 長 指 名 で農 業 協 会 の会 員 にな って い る。
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提 出 後 七 月 二五 日 に承 認 さ れ た 。
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隣 接 の スイ スでも ザ ンク ト ・ガ レ ンや バー ゼ ルの商 人 の問 で 「
協 会 」 への関 心 が高 ま った が 、 個 人 的 な加 入 や募 金 は妨
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市 の通 信 員 ツ ェプ - ツツ (
ダ ル ムシ ュタ ット近 郊 プ フ ンク シ ュタ ット の紡 糸 ・毛 布 ・フラ ンネ ル工場 の創 立 者 ) の陳 情 書
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ンク ト ・ガ レ ンの商 人 層 に加 入 を 要 請 し た 。 通 信 員 リ スト は ア- ラ ウ の へ ロー ゼ' バ ー ゼ ルのリ ボ ン工場 主 デ バ - I- ど
げ な いが ' スイ ス側 か ら 働 き か け は し な い' と いう のが ' 大 方 の態 度 であ った。「
協 会 」か ら は シ ュネ ルが 八 月 三 百 にザ
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45-
シ ョ ップ ' 同 じ - ライ ナ -- イ ゼ - ン、 ベ ル ンの銀 行 家 ツ ェ- ル レーダ -、 コン スタ ン ツの へ ロー ゼ' ローザ ン ヌの銀 行
ザ ンク ト ・ガ レ ンの商 人 マンゲ (ド イ ツの大 市 の定 期 的 訪 問 者 )'同 じ く マイ ヤー,同 じ く リ ス,
家 ド ゥ ・ムー ラ ン、 ヌー フシ ャテ ルの捺 染 工場 主 ド ゥ ・パ スキ ア' 同 じ - ポ ベ' シ ャ フ ハウ ゼ ンの製 塩 所 長 で商 人 の マン
チ ューリ ッヒ の エ スリ ンガ ーお よび ムラ ルトが 記 さ れ てお り ' 「オ ルガ ン 」の寄 付 金 - スト に よれ ば 'バ ー ゼ ルは 一五〇〇
ダ ッ ハ、 書 記 パ イ ア㌧
グ ルデ ン' ア- ラ ウは 七 七〇 グ ルデ ンを 寄 付 し て いる。H・P。01
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四 機 関紙 「オ ルガ ン」 の発 行
「
協会」 が組織 的 な活動 を開始す るに つれ て'世論 (
ドイ ツ各地 の商 工業者 ) への働 きかけ の点 でも'会員相
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協会 」 の機 関紙 に指定 された。 しかし' この新聞 は︽ Fr
彼 はさしあ たり妻 の兄 ザ イボ ルト の主宰す る ︽Ne
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互間 の連絡 や情報交換 の点 でも'機 関紙 の発行 が必要 にな った。誰 よりも これを痛感 し ていた のはリストである。
F ・リス トと 「ドイツ商人 ・工場主 協会 」
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︾ と並 ん で自 由 主義的新聞 の 一つであり'憲法体制 を と らな い国 々t と- にウ ィー ンでは当 局か
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ら革命 的 で危険 だと見 なされ ていた。「
協会 」が国民的 通商 政策 の実 現 に ついてドイ ツ諸邦 の賛成 を獲 得す るため
には'当然 '政 治的中 立を保 つ必要 があ ったか ら' そ の点 でこの新 聞 の利 用 は適当 でな か った。六月 に' おそら
-反 プ ロイ セ ン的 な論説を 理由 に この新 聞 が発行停止処分 を うけ ると'︽Ne
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えたが これも間も な-禁 止 され た。 一方、「
協 会 」を支 持 す る南 ドイ ツの商 人 層 の間 か らも独自 の機 関 紙 の発行 が
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要望 され て いた。 - ストは六月 二九 日付 け の妻 への手 紙 に記 し てい る。﹃ニ ュルンベ ルク、アウク スブ ルク'- ユ
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ン へンの商 人 層 は'私 が協 会 のため に独自 の刊行物 を編 集す る ことを望 ん で います。彼 ら は金銭 的負 担 の埋合 せ
をし てく れ ると いう のです 。﹄
〇 日に ︽ O rgan
機 関紙第 言方は 一八 一九年 七月 l
nd︾ の名称 で発行 され た。通例 週 1回'各 号 六 - 八 ページ' - ストは編 集発 行人 で所有者 でも あ った。第 言号の
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l面 には,﹃ドイ ツの商 人 ・工場 主階級 の利 益 に奉仕 す る﹄この新 聞 の内容 が予告 され て い聖 口 脇会 の活 動報
告'文書 と記録 。 nt商 人 ・工場 主 から の通商 問 題 にか んす る質問 '意 見'教 説'提案 な ど。新 製 品 の広告 と説
ド イ ツ諸邦 と連邦 議会 で決定 され た商 工業案件 の報 道 。 内'関係 記事 と紹介' 訂正'反駁 。恨'
明。 日'商 工業 にか んす る重要 論 説。諸列強 と の通商条約 の提案 。 四㌧大商 事会社 や製造企業 ' そ の支 店 設 立 の
提案 と計 画 。 喝
関係出 版物 の紹介 と 評価 。 ㈹'懸賞 問題' 入選作 の発表 。 伽'影響 あ る政治的 、自 然 的 事件 . 臼' 内外 の工学 的
」
(
オ ルスハウゼ ン)
化学 的、機械的発 明 の紹介 。 目' ドイ ツ商業 史 の抜 粋'商 人 ・工場 主 に関 心 の深 いす べて の問 題。 要 す る に'「語
のも っとも 良き意味 での宣 伝紙 であ って' - ストは彼 の計 画 をあ ら ゆ る点 でそ こで遂 行 し た
のであ った。
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表 1 「オルガ ン」の発行部数
表 2 「オルガ ン」 の定期予約購読者数
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第 言了には請 願 書 の提出 ' マルテ ン スの報 告 ' 宮 廷歴
訪など 「
協 会 」 の活 動 報 告 が掲 載 さ れ た が' 第 二号 (
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月 二 四 日付 け ) はt H t ア ルノ ルデ ィの請 願 書 の報 告 、
の通 知 。 佃 ' 代 表 のカ
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nt ザ ク セ ンの 一七 八人 の署名 を 付 し た請 願 書 ' フラ ン
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通商 同 盟 論 。 閃 '協 会 に対 す る ハンブ ルク の立 場 ' 同市
発 。 旧 ' 新 関 税 表 ' - ユン へン発 。 ㈹ ' オ ー スト - アの
通商 禁 止 に よ る損 害 ' オ ー バ ー シ ュワ- ベ ン発 。 ㈹ ' ネ
ベ ニウ スの ﹃イギ - スの現状 を 論 ず ﹄ の書 評 。 冊 ' 新 聞
の計 画 を ' 第 三号 (
八 月 七 日付 け ) はt H t 宮 廷 歴 訪 の
報 告 。 口 ' ア ルノ ルデ ィの請 願 書 の討議 の報 告 。 日 、 オ
バ ー シ ュワ- ベ ンの麻 織 物 取 引 ' 現地 の麻 織 物 商 の地
方 裁 判 所 への請 願 書 。 佃 、 ド イ ツと 共 同 の通商 利 害 ' ス
イ ス発 。 ㈲ ' 商 業 の自 由 の要 望 ' ク レ フ ェルト発 。 閃 '
ネ ベ ニウ スの書 評 の続 き 。 旧 '新 聞 の計 画t を 掲 載 し て
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発 行 部 数 は増 刷 分 を含 め て' メ ント ラ ー の計 算 によれば 前 貢 表 一の通 り であ る。平 均 し て二〇〇〇部 ' 先 細 り
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の傾向 が 見 ら れ る。 発 送 - ストが不完 全 な ため に購 読 者 の詳 細 は 不 明 であ る が' 表 二 はあ る程 度 の地 域的 分 布 を
伝 え て いる。 ド イ ツ諸 邦 政 府 と連 邦 議 会 大 使 には無 料 で送 付 し た 。創 刊 号 には予 約 代 価
は半 年 で三グ ルデ ン (シ ュト ゥ ツトガ ルトと ニ ュル ンベ ルク) と 記 さ れ て いる が' - ストと シ ュト ゥ ツトガ ルト
郵 便 局 と の発 送 契約 書 には'﹃シ ュト ゥ ツトガ ルトと ニ ュル ンベ ルク の読者 は 一部 三グ ルデ ン'両 市 か ら直 接 入手
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でき な い読 者 は 一部 三 ・四 五グ ルデ ンな いし 四グ ルデ ン﹄ と 明 記 さ れ て いた t と いう 。
機 関 紙 の編 集 は必 らず Lも 順 調 であ った わ け ではな い。 八月 一九 日 の委 員 会 では早 く も - スト の編 集 方 針 に批
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判 が で て' 第 四号 (
八月 二 一口付 ) の紙 面 では 「
協 会 の論 説 」 と 「編 集 の単 なる 個 人 的 仕 事 」 と が区 別 さ れ た。
九 月 五 日 の委 員 会 では、﹃オ ルガ ンの編 集 は慎 重 の上 にも慎 重 な 注意 と 十 分 な討 議 を 必 要 と し ﹄ ﹃
当 協 会 の純 粋 な
精神 と 目 的 が' 二義 的 な解 釈 を 可能 と す る よう な ・政 治 的 意 図 を 疑 わ せ る よ う な ・ド イ ツの平 和 を 危 う く す る よ
う な機 関 紙 に よ って妨 げ ら れ'挫 折 し てはな ら な い﹄ と いう 理由 か ら'協 会 の所有 に移 し ﹃小 委 員 会 の直 接 の監
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管 下 に﹄ 置 - こと にし た。 一 一月 六 日付 け の号 か ら は所 有 者 と し て協 会 の名 が明 記 さ れ た. し か し 翌 二〇 年 七 月
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(テ ユー ビンゲ ン大 学 教 授 )'ラ ウ (ハイ
一日 には ふた たび - スト の所 有 に移 った。 恐 ら-新 聞 発 行 が 予期 し た ほど の収 入 を協 会 にも た ら さ な か った か ら
であ ろう 。
紙 面 に は - スト の意向 が強 - 反映 し た が' 他 に協 力 者 と し て' ポ
デ ルベ ルク の国 民経 済 学 者 )'ゾ Iデ ン伯 (エア ラ ンゲ ンの国 民経 済 学 者 )'ク ルー ク (ライブ ツィヒ大 学 哲 学 教 授t
(
ゲ ッチ ンゲ ンの歴 史 家 )
'ネ ベ ニウ ス'ベ ン ツ ェンベ ルク (ライ ン地 方 の自 由 主 義 者 )
'ブ ル ンナ - (
関税問
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A ・- ユラ ー の反 対者 )'デ ィ ンク ラ ー (アウ ク スブ ルク の染 色 技 術 者 )
'ザ ルト - ウ ス ・フ ォ ン ・ワ ルタ ー ス ハウ
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F ・リス トと 「ドイツ商人 ・工場 主 協会 」
題 の専 門 家 )、ナ ウ (
宮 廷顧問)
、オ ット ー (バイ ロイ ト大 学 教 授 ) ら が援 助 し た と いわ れ' ラ ウ' ゾ -デ ン' オ
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ト ーは寄 稿 し て いる。﹃全 集 ﹄第 一巻 の序 文 によれば 、- スト の編 集 下 の 「
オ ルガ ン」 の発 展 には次 の三局 面 があ
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ったと いう。 日 、 請 願 書 ' 意 見書 ' 論 文 にお い て協 会 の目 標 を 叙 述 。 n t 協 会 の活 動 を弁 護 Lt 仲 継 貿 易 陣 営 と
論 争 。 日 ' 全 ド イ ツの統 一的 通商 政 策 の実 現 の見 込 みが な - な って以後 は'南 ド イ ツ通商 同 盟 の設 立 を 主 張 。後
述 のダ ルム シ ュタ ット会 議 か ら 帰 った - ストは 「オ ルガ ン」 を 通 じ て最 後 の活 動 を 続 け よう と し た が' これも み
と の合 併 計 画 を申 入 れ た が失 敗 に終 った 。 一月 二八 口付 け の号 に ﹃ヴ ユル
ず か ら の代 議 士 出 馬 問 題 のた め に不 可 能 と な った。 二 1年 一月 四 円 - ストは シ ュブ ラ I に対 し て 「オ ルガ ン」 と
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ッテ ンベ ルク議 会 選出 議 員 と し て の仕 事 のた め に- スト教 授 は こ の新 聞 の編 集 か ら当 分 退 - こと にな った﹄ と い
う 公 告 が載 り' ハンブ ルク の反 海 賊 協 会 か ら招 いた ク ライジ ンクが 六 月 三〇 日ま で編 集 を引 受 け た。 そし て' 六
月 三〇 日付 け の第 二五 号 (
通算 一
〇〇号 )を も って打 ち切 られ' シ ュト ゥ ツトガ ルト の 「ネ ッカ ー新 聞 」(︽Ne・
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F ・ゲ ン ツは メ ッテ ル ニヒ宛 て の手 紙 で、 こ の新 聞 を ﹃ド イ ツのも っと も 悪 ど い火 つけ新 聞 の 一つ﹄ と 呼 ん だ と いうし
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=付 け の妻 への手 紙 で ﹃ウ ィー ンでは協 会 の仕 事 に支 障 を 及 ぼ さ な いた め に、 ︹
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リ スト白 身 1八 二〇 年 二月 一八 E
の︺ 新 聞 な ど ま った - 知 ら な いと 言 わ ねば な ら な い﹄ と 記 し て い る o
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木 健次 郎 ﹃ドイ ツの職 人 ﹄ (
中 公新書 、 一九 七 七年 ) 四八 ページ。
期 にドイ ツの亡命 手 工業 者 が発行 し た雑 誌も発 行 部数 は 「せ いぜ い 一
〇〇〇部 な いし 二〇〇〇部 」 であ った、と いう。高
と推 測 さ れ るが' そ の主要部分 は'前掲 の拙著 三六七 ページ以下 に 「
資料 」日 と し て邦 訳 さ れ て いる。 ち な み に' 三月前
され た。 なお '右 の メ ッテ ル ニヒ への手 紙 は 1八 二〇 年 二月 7八 日付 け のも の ではな いか (
も し - は同年 五 月 〓 一
日付 )
〇〇〇部 づ つ無 料配 布
に つい て の- スト の書 簡 を掲載 し たため であ る。 これ ら両 号 は フラ ンク フルトと ライブ ツ ィヒ で 一
で ライブ ツィヒの商 人 層 の態度 に触 れ たため 、 ま た' 1四号 は ライブ ツィヒ の記録自体 と ライブ ツィヒ の仲 継貿 易 の利害
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口' ベ ル- ンと ウ ィー ン
五 宮 廷 歴訪
中 ' 南 部 ド イ ツの宮 廷 歴 訪 の旅 は 一応 の成 功 を 収 め た。 し かし ' 連 邦 諸 国 を 動 か す には プ ロイ セ ンと オ ー スト
- アと いう 二大 国 への働 き か け が ' ま た全 ド イ ツ商 工業 階 級 の結 集 に は ザ ク セ ンと ハンザ 諸 都 市 への働 き か け が
不 可 欠 であ る。 九 月 二 二日 フラ ンク フ ルト で開 か れ た拡 大 委 員 会 で' シ ュネ ルは第 二次 歴 訪 計 画 を 提 案 し て承 認
さ れ た。 ﹃
小 委 員 会 は ド イ ツの商 業 問 題 促 進 のた め ' ウ ィー ン' ベ ル- ン' ハノー バー' ブ ラ ウ ン シ ュワイ ヒ'ド レ
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スデ ンの諸 宮 廷 と自 由 都 市 へ代 表 を 派 遣 す る全 権 を 委 任 さ れ た 。
﹄ベ ル- ン へは結 局 ヴ ェ- バ ーと シ ュト ライ バ ー
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が シ ュネ ルに同行 す る こと と なり' 〓付は - スト の起草 し た 「プ ロイ セ ン国 王 への請 願 書 」 お よび ' ラウ教 授 の
紹介 状 を携 え て 二 月 二〇 日 ベ ルリ ンに到着 し た。
一行 は 二五 日 の出 発 ま で の間' 国 王 に謁 見 し て請 願書 を提 出 し' 政 府 首 脳 に協会 の考 えを力 説 し た。 ﹃
予期 し
て いな か っただ け に' ベ ルリ ンで の仕 事 に ついて私 は言 いようも な- 満 足 し て います 。 わ れ われ はプ ロイ セ ンと
いう強 力 な支 持 者 を獲 得 し た のです 。
﹄と シ ュネ ルが書 い て いる よう に' 一行 にと って ベ ル- ン訪 問 は予 想 以上 の
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nn) は' ラウ教 授 の紹介状 を持参 し た のに ﹃尊大 な態度 で﹄﹃ま
到着 の翌 日訪 ね た内 閣参 議 ホ フ マン (
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の訪 問 ﹄を勧 め ら れ た。彼 は 二度
る 一時 間苦 言ば かり し ゃべ った。
﹄こ の ﹃
冷 た い応 待 ﹄ に ﹃
勇 気 を失 った﹄ 一行 は' 宰 相 の官 房 ベ フ ェル (
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)
に温 かく 迎 え ら れ'﹃
博 識 の洞察 力 の深 い内 閣参 議 アイ ヒホ ルン
(F
erer)
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は通商 問 題 の指 導者
の会 見 で ﹃思 慮 深 い人 には明白 な事 柄 を 妨 げ る こと は でき な い。 そ のため に私 は常 に でき る限 り あ な た方 を助 け
よう。
﹄と 語 って'﹃〓付の友 人 か つ助 言 者 にな った。
﹄上 級 財政 顧 問 フ ェルバ ー
(
Bti'tow
) .
は l行 と 1時 間 き わめ て憩 憩 に会 談 Lt プ ロイ セ ンは大 規模 な発
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dt)は温和 な人 物 で詳細 に つい ては所 管外 と い
であ るが'協 会 への協 力 を約 束 し た。 内相 フ ンボ ルト (Huヨb
う ことだ った。商務 相 ビ ュー ロ ー
達 し た 工場 施 設 をも ち国 内 の競 争 を怖 れ な いと し て'協 会 の主 張す る全 ドイ ツの共 同商 業制 度 に強 い関 心を示 し
たが'所 管 外 の政 治的 障 害 を 心 配 し た。蔵 相 ク レヴ ィ ッツ (
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tN) は 一行 の話 を 注意 深 - 聞き ' 財 政 的 利 益
を 超 え た重要 案 件 ではあ るが ドイ ツ諸邦 の利 害 を共 同 の商業 制 度 に統 一す る こと の困 難 を 表 明し た。上 級財政顧
Ben) は 一途 に真 実 を求 め る卒直 な人物 で' プ ロイ セ ン関税 法 は主 に彼 の作 品 であ り'報 復
問 マア スセ ン (Maa
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51
成 功 と写 ったらし い。 ベ ル- ン滞在 中 の 一行 の行動 は シ ュネ ル (
お よび ヴ ェ- バ ー) の五通 の手 紙 と ヴ ェ- バ
1日■ー
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の ﹃ドイ ツ商 業 協 会 代 表 の ベ ル- ン派 遣 にか んす る内密 の報 告 ﹄ か ら' あ る程度 窺 わ れ る。
「ドイツ商人 ・工場主協会」
F・リス トと
のな い完 全 な貿 易 の自 由 の原 則 か ら出 発 し て'植 民地 産 品 や外 国産 ぶど う 酒 に対 す る関 税 に よ って工業 製 品 には
課税 せず に財 政 的 必要 を達 成 し' ただ プ ロイ セ ンの製 造 品 を多 少 優 遇 す る た め に のみ やす い関 税 を 課 し た ことを
説明 し た。 た し か に製造 業 者 は何 の保 護 も 受 けず ' 現行 関 税 表 の改善 にや ぶ さ か でな い。 マア スセ ンの見 解 は協
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会 の主 張 と 開 き が あ ったが ' 彼 は 一行 への協 力 を 約 束 し' 全 ド イ ツの関税 の商 人 階 級 への賃 貸 と いう提 案 を満 足
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コberg) は 一行 を 丁重 に迎 え' 全 般 的 な商 業 の自 由 は望 むと ころ
をも って聞 いた。 宰 相 ハルデ ンベ ルク (Ha
で請 願 書 の趣旨 の実 現 に協 力 を 約 束 し た が、 同時 に他 邦 か ら呼 び か け のあ る ま では現 行 制 度 を維 持 す る こと を明
)
4
らか にし て' 〓付にウィーン行 き を 強 く 勧 め た。大 国 オ ー スト - アに対 す る気 兼 ね であ ろ う か。 こ のほか民 間商 工
業 者 と も 会 見 L t ベ ル- ン地 区 の協 会 の通信 員 を 獲 得 し た。
)
5
二 月 二 四 日国 王 に謁 見 し て請 願 書 を提 出 し た 〓付は翌 二五 日早 朝 ベ ル- ンを 発 って帰 途 に ついた。 そし て同
じ 日 に' メ ッテ ル ニヒは官 邸 にお い て ウ ィー ン閣僚 会 議 を 開 いた。
宮 廷 歴 訪 は ウ ィー ン行 き で頂 点 に達 し た。 国 民 的 通商 政 策 を要 求 す る協 会 にと って' ド イ ツ連 邦 の盟 主 と 目 さ
れ た オ ー ストリ ア宮 廷 の賛 成 は要 求 実 現 の鍵 であ り' ま た ウ ィー ンの閣 僚 会 議 に出 席 中 の各 邦 代 表 に働 き か け る
機 会 も あ った か ら であ る。 シ ュネ ルか ら同行 を求 め ら れ た リ ストは'結 局 、 ﹃こ の瞬 間 は協 会 の大 目 的 (
全 ドイ ツ
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国 内 ︺ 関 税 の廃 止 ) にと って最高 に重 要 な の で応 諾 を 義務 と 考 え た﹄ の であ った。 一二月 二五' 二六 日 に ニ
ュル ンベ ルク へ着 いた リ ストは 三〇 日ま で ﹃五 日間家 か ら出 な い で﹄ - シ ュネ ルが ﹃
世 界 中 に賛 成 を 得 る であ
)
7
﹃ド イ ツの商 工業 状 態 にか んす る意 見書 ﹄ を執 筆 し た。 二人 は 一月 二 日 に出 発 し ﹃霜 ' 雨 '
ろう ﹄ と 考 え た ー
雪' 列嵐 そ し て悪路 ﹄ の中 を 三 日三晩 か か って五 日 の夕 方 六時 に ウ ィー ンに着 いた。 ヴ ェ- バ ーはゲ ラか ら直 行
し、 シ ュト ライ バ ーは未 着 であ った。
-1
52-
F ・リス トと 「ドイツ商人 ・」二
場 主協会 」
し か し ウ ィー ンの空 気 は厳 し か った 。 メ ッテ ル ニヒは会 議 の中 心 を 政 治 問 題 に限 定 し て協 会 の主 張 す る通 商 問
題を 連 邦 議 会 の枠 内 に封 じ こめ ' それ か ら は み でた 運 動 に革 命 運 動 の レ ッテ ルを貼 って弾 圧 し よ う と し た 。「オ ル
ガ ン」 の閲 覧禁 止 ' 協 会 代 表 の会 議 か ら の閉 め出 し 、 警 察 の徹 底 的 監視 な ど 。 商 業 協 会 の ロビ ー で閲 覧 に供 し た
オ ルガ ンは当 局 の手 で押 収 さ れ ' 次 の理 由 で閲 覧 禁 止 と さ れ た。﹃編 集 者 の大 胆 な革 命 的 言 辞 'ドイ ツ商 人 工場 主
協 会 の名 前 を 僧 称 す る ・正当 な権 威 に承 認 さ れ な い代 表 の不 遜 な う ぬ ぼ れ、 目 的 達 成 のた め にと った 不 法 手 段 '
﹄
こう し た新 聞 の普 及 が政 府 の措 置 を 足 伽 と 考 え る オ ー スト - ア商 人 層 の精 神 に及 ぼ す であ ろ う悪 影 響 ' 要 す る に
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上 述 の 一切 の傾 向 は こ の新 聞 の当 地 にお け る無 条 件 禁 止 に ふさ わ し い。 一月 l
O H メ ッテ ル ニヒは代 表 に会 議 の
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メ ンバ ーと 認 め な い旨 を 通 告 す る こと を 会 議 に提 案 し て' 代 表 の影 響 を 制 限 し よ う と し た。 そし て ﹃鋭 く 広 く 張
。
り め ぐ ら さ れ た 警 察 ﹄ に よ って代 表 の送 受 し た手 紙 はす べ て開 封 ' 検 閲 さ れ ' 代 表 の行 動 は こと ご と く 監視 され
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﹃四方 八方 か ら密 偵 に囲 ま れ 、 密 偵 の許 に宿 泊 さ せ ら れ ' 密 偵 の サ ー ビ スを 受 け た 。
て いた
こう し た状 況 の中 で代 表 は宮 廷 と 政 府 に請 願 を続 け た。 皇 帝 への第 一の請 願 書 は オースト-アの経 済 状 態 を 「
驚
- べき 正 確 さ 」 で記 し ' ド イ ツと の経 済 的 結 合 の有 利 を 説 き ' 皇 帝 が 国 内 関 税 の廃 止 と 共 同 の関 税 制 度 に賛 成 す
る よ う に訴 え た 。 三月 二 日提 出 の第 二 の請 願 書 は、 共 同 の関 税 制 度 が 確 立 す る ま で現 行 の輸 入 禁 止 制 度 を 存 続 す
る こと と 協 会 の主 張 に つい て関係 者 の意 見 を 求 め る こと を 提 案 し た 。 四月 二〇日提 出 の第 三 の請 願 書 は協 会 の主
張 の公 平 な 検 討 と 仲 継 商 人
への非 難 を 訴 え た 。 ま た メ ッテ ル ニヒ には 五 適 の手 紙 を 送 って仲 継 商 人 の主 張 を 批 判
)
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L t 協 会 の意 図 を 説 明 し た 。
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〇委 員 会 の メ ンバ ーにも 働 き か け た 。委
代 表 は 閣 僚 会 議 に出 席 中 の各 国 代 表 t と - に通商 問 題 を 討 議 す る第 一
員 会 に は 三 つの意 見 が あ った。 全 ド イ ツ通 商 制 度 の実 現 は 不 可能 で連 邦 規 約 第 一九 条 は拘 束 力 を も た な い こと を
1
53-
-
理由 に自 国 の関税 法 を擁 護 す るプ ロイ セ ン。 全 ド イ ツ通商 制 度 の実 現 のため に個 別交 渉 の継 続 を 考 え る中' 南 部
諸 邦 。 連 邦 議 会 の合 意 は商 業 と交 通 の容 易 化 のみ で国 内 関 税 の廃 止 ' 外 国 製 品 の輸 入制 限 ' 国内 産 品 の輸 出 は含
ま れ な いと 理解 す る自 由 都 市 。 二月 一日 ベ ルシ ュテ ットは代 表 に' 会 議 は順 調 で協 会 の要 求 は実 現 す るだ ろう と
楽 観 的 見 透 し を 伝 え た。 他 方 ' 商 工業 者 への働 き か け は効 果 を 表 わ し ' ウ ィー ンの工場 主 は皇帝 への意 見書 で協
会 の提 案 と 動 議 を支
持 L t 銀 行 家 ワイ セ ン フ ェラ It 工場 主 チ ーク ラ ー' 卸 商 人 ワイ ナら は協会 を援 助 し代 表 の
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ため に便 宜 を 図 った。
し か し '会 議 は容 易 に結 論 に達 し な か った 。 諸邦 間 の利 害 の相 違 のほか ' 仲 継 貿 易 陣 営 の巻 き か え し' メ ッテ
ル ニヒ の引 延 Lも 影響 し た。 閉幕前 日五月 二 三 日 の最 終 会 議 の記録 によ ると
t H t商 業 問 題 は継 続 取 扱 いとする。
)
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日 '協 会 の資 格 か ら み て請 願 書 は取 上 げ な いtと いう否 定 的 結 論 が出 さ れ た。 全 ド イ ツの国 民 的 通商 政 策 を と い
う協 会 の要 求 は実 現 し な か った が' し か し、会 議 と併 行 し て中 '南 部 諸 邦 の間 に独自 の協 定 を め ざ す 討 議 が進 め
ら れ た。 こ の動 き は 二 一
月 末 、 一月 初 め に始 ま り、 二月 九 日 に暫 定 協 定 に' そ の後 一旦事 態 は悪 化 し た が' 最終
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的 には 五月 1九 日 の分 離 協 定 Separ
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vert (「
協 約 」Punktat
ion)締 結 に漕 ぎ つけ' 南 ド イ ツ三国 、 ヽ
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ン' ナ ッサ ウ' ザ ク セ ン諸 公 国 の代 表 が 三か月 後 にダ ルム シ ュタ ット で以下 の七 項 を 討 議 す る こと にな った。H t
域 内 関税 の撤 廃 と共 同 国 境 関 税 の設 定 t O t 通行 税 と 舟 航 税 の共 同 規 制 ' 臼 ' 域 内 産 品 と自 国 品 の同 等 な取 扱 い
蜘 ' 関税 線 と税 関 の共 同 設 置 ' ㈲ ' 共 同 関 税 収 入 の面 積 ' 人 口別 配分 ' 閃 ' 協 定 発 効 の時 期 ' 旧 ' 同 盟脱 退 の手
続 。 - ストはダ ルム シ ュタ ット会 議 の成 功 に' 共 同 の通商 政 策 の 「前 段 階 」 と ⊥ て の分 離 同 盟 形 成 の最 後 の望 み
を か け た の であ る。
いま や協 会 の目標 は会 議 を成 功 さ せ'南 ド イ ツ通商 同 盟 1 全 ド イ ツ通商 同 盟 の形成 であ った が' こ の頃 す で に
-1
54--
ー ンか ら シ ュト ゥ ツトガ ルト へ帰 った - ストは八 月 二〇 日 に フラ ンク フ ルト へ発 つま で' 七 月 後 半 のカ ー ル ス ル
ー エ行 き の ほか執 筆 と 編 集 に追 わ れ て いた 。 オ ルガ ンは六 月 に七 回 ' 七 月 に 四回 ' 八 月 に四 回 発 行 さ れ ' 彼 は多
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く の論 説 を 発 表 し て いる。 そ の他 各 地 の通 信 員 や後 援 者 と の文 通 ' 輸 出 会 社 設 立 計 画 '「
祖 国 の工業)
後援協会 」
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ie )の設 立 への関与 な ど に没 頭 し た。
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会 議 は バ イ エル ンの ア レテ ィ ン' ヴ ユル ッテ ンベ ルク の ワ ンゲ ン ハイ ム' バ ーデ ンのネ ベ ニウ ス、 ヘ ッセ ン-
ダ ルム シ ュタ ット のデ ュ ・テ ィ ル' ザ ク セ ン諸 公 国 のボ イ スト' ナ ッサ ウ の - ユル マンが出 席 し て' 九 月 三 百
に開 幕 し た 。 し か し ' 一八 日 の第 三 回 会 議 で協 会 と 公 式 に接 触 し な い こと を 決 め ' - スト の望 み は断 た れ た 。各
国 代 表 も 五 月 一九 日 の協 定 の反 響 に驚 い
て通商 問 題 の取 扱 いに慎 重 にな り' ナ ッサ ウ代 表 を 通 し て巧 み に糸 を ひ
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く オ ー スト リ アの目 が背 後 で光 って いた 。 二大 国 オ ー スト - アと プ ロイ セ ン への対 抗 勢 力 と し て 「純 正 な る ドイ
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第 三 の ド イ ツ」結 集 の思 想F
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南 ド イ ツ手 稿 」 (
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た のは' ま さ に こ の時 期 であ った 。 こう し た状 況 に会 議 の前 途 を 悲 観 し た のか' 協 会 内 部 の溝 のた め か ' - スト
は 九 月 一六 日 にダ ル ム シ ュタ ットを 発 って帰 国 し た 。
会 議 は 一八 二三年 四月 二 日ま で 一九 回 の討 議 を垂 ね た が何 の成 果 も な -終 り ' 一方 ' 協 会 の指 導 者 の問 では'
「互 い の間 の闘 い」 が 始 ま った。 シ ュネ ルは代 表 を 解 任 さ れ ると協 会 の信 用 を 失 墜 す る意 見書 を 発 表 し ' パ ウ エ
ルライ スは自 分 の前 貸 金 の回 収 に異 常 な執 念 を 燃 やし た 。 - ストは オ ルガ ンを 最 後 の活 動 の場 と し て守 り続 け よ
う と し.
た が、 ヴ ユル ッテ ンベ ルク議 会 の仕 事 が それ を 許 さず ' 前 述 のよう に 一八 二 一年 一月 には編 集 を ク ラ イジ
ンク に譲 った。 し た が って' 協 会 を 舞 台 と す る - スト の活 動 は事 実 上 こ の頃 を も って終 ったと いう こと が でき る
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55-
協 会 内 部 に埋 め が た い溝 (- スト' ヴ ェI .バー対 シ ュネ ル' パ ウ エルライ ス) が生 じ て いた。 五 月 二 五 日 に ウ ィ
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であ ろう。
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部 の国 家 市 民 た る製 造 業 者 が全 人 民 を犠 牲 にし て冨 む のは許 さ れ な
い事 実 です 。 従 ってオ ー スト- アを 怖 れ て先 頭 に立 と う と はし ま せ んが 、喜 こん で参 加 す る の です 。
﹄ ﹃プ ロイ セ ンの 二品
二・
月 八 口付 け の手 紙 で シ ュネ ルは述 べて いる。 ﹃プ ロイセンは オ ー スト - アに完 全 に従 属 し て いま す 。 これ は紛 れ も な
い。 月 , ドイ ツの通 過商 業 と 大 市 が l挙 に潰 滅 す る であ ろう 。 佃 、 通過 手 数 料 の損 失 によ って国 は損 害 を蒙 る であ ろう。
需 品 を やす く 買 う機 会 を奪 う のは得 策 でな い。〓 二
協 会 の要 望 に対 す る彼 の反対 意 見 は自 由 貿 易 論 者 の主 張 を 要約 し て いる。 H t 製造 業 者 以外 の数 百 万 のド イ ツ人 か ら必
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す か ら 'あ な た方 は成 功 し ま す
官 の言 葉 を お伝 え し ます 。 皆 さ ん'勇 気 を出 し て進 ん でF さ い。 す ぐ に では な - ても 、 必 要 はあ な た方 と とも にあ る ので
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全 集 第 八巻 には ウ ィー ンか ら妻 に宛 てた リ スト の手 紙 が 一四通収 録 さ れ て いる。 そ のう ち 山l
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と 記 し て いる。
それ でお 前 に始 め て洗 いざ
ネ ルと ヴ ェ- バ ーが ニ ュル ンベ ルクま で持 参 し て投函 し た ので検 閲 を免 れ た。 - ストも ﹃-- ・
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こ のう ち 仲 継 商 業 を 批 判 し た 二月 一八 円付 け の手 紙 (
請 願 書 ) の中 心部 分 の
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拙 訳 は前 掲 拙 著 の巻 末 に資 料 と し て収 録 さ れ て いる 。 二月 初 め に在 ラ イ ブ ツ ィ ヒ' オ ー スト リ ア総 領 事 アダ ム ・,
,
'ユラ ー
が 突 然 帰 国 し ・ - スト は ,
,
,ユラ ーと 会 って・ 反 協 会 勢 力 の支 柱 だ と 感 じ た 。 これ が 二月 l八 目 の手 紙 (
請 願 書 ) 執 筆 の誘
第 一
〇 委 員 会 の メ ンバ ーは プ ロイ セ ンの ベ ル ンシ ュト ル フ、 バー デ ンの ベ ルシ ュテ ット' バイ エ ル ンの ツ ェント ナー'
因 であ り 、 前 述 用 の意 見書 も こ の時 一緒 に提 出 さ れ た。
る。
ルク セ ンブ ルク の フ ァルク 、 ザ ク セ ンの アイ ンジ ー デ ル、 四自 由 市 の ハ ッ ハ' オ ルデ ンブ ルク そ の他 の ベ ルク の七 名 であ
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ウ ィー ンで の訪 問 先 を 記 し た - スト の メ モは彼 の広 い活 動 を 示 し て い る。 r s
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3・ 彼 の手 紙 か ら 抜 粋 す ると ﹃ウ ィー ンの工場 主 と 商 人 が す で に大
部 分 わ れ わ れ に賛 成 を 表 明 し ま し た 。﹄ ﹃
私 の仕 事 はロ ト のと こ ろ絹 の靴 F を は い て訪 問 し て回 る こと です 。﹄ ﹃朝 五 時 に起
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き て 二 時 ま で仕 事 、 そ れ か ら苫 換 え て夕 方 丘 時 ま で訪 問 ' そ こ で や っと 昼 食 です 。﹄協 会 代 表 のう 沃 シ・
ー は l亘 l九 日帰 国 ' リ ス ト は残 留 ' シ ュト ラ イ バ ー は約 束 に背 い て残 った 。 二月 二丘 H の運 営 黍 崇 式は リ スト の行 動 や
工業 博 覧 会 計 画 のた め の借 金 な ど を め ぐ って大 荒 れ に な り ' パ ウ エ ルライ スは 「礼 儀 の範 囲 を 超 え た非 難 」 を リ スト に向
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に設 立 さ れ た が 、 国 産 品 (
南 ド イ ツ, ザ ク セ ン, スイ スを 含 む ) 愛 用 運 動 を 唱 え た も G
fの' 結 局 大 き 望 恩義 を も た な か っ
祖 国 の工業 後 援 協 会 」 は各 界 の著 名 人 を 集 め て 一八 二〇 年 シ ュト ゥ ツトガ ルト,
と な った 。 前 掲 拙 著 三〇 六 ページ 。な お '「
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た。む し ろ、 - スト の路線 と は別 の方 向 と考 え ら れ る 。
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政治 の視 界 は ウ ィー ンと ライブ ツィヒか ら湧 いた厚 い雲 に覆 われ て いた よう だ った 。
」HeP.
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「
南 ドイ ツ手稿 」 に ついては'松 田智 雄 '前掲 書 ・ 完 五 ページ以下を 参 照 。
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、ユラーは六 月 四 日と七 月 二四 日付 け の メ ッテ ル ニヒ宛 ての二 つの意
見書 で'南 ドイ ツ通商 同 盟計 画 を危 険 な秘密 運動 と み ていたC
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(
追 記 )筆者 は別稿 「
初 期 - スト の支 持基 盤 」 (
﹃
社会 経 済史 学﹄ 四五 - 二) で 「
協 会 」時代 の- スト の支 持 層 に関 す る 二
っの資 料 を紹介 し た。併 せ てお 読 み頂 ければ あ り が た い。
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