...

Page 1 金沢大学学術情報州ジトリ 金沢大学 Kanaraพa University

by user

on
Category: Documents
8

views

Report

Comments

Transcript

Page 1 金沢大学学術情報州ジトリ 金沢大学 Kanaraพa University
Title
シモーヌ・ヴェイユの社会的抑圧論 (5)
Author(s)
八木 , 正
Citation
金沢大学教養部論集. 人文科学篇 = Studies in Humanities by the
College of Liberal arts Kanazawa University, 16: 1-18
Issue Date
1974-03-10
Type
Departmental Bulletin Paper
Text version
publisher
URL
http://hdl.handle.net/2297/39616
Right
*KURAに登録されているコンテンツの著作権は,執筆者,出版社(学協会)などが有します。
*KURAに登録されているコンテンツの利用については,著作権法に規定されている私的使用や引用などの範囲内で行ってください。
*著作権法に規定されている私的使用や引用などの範囲を超える利用を行う場合には,著作権者の許諾を得てください。ただし,著作権者
から著作権等管理事業者(学術著作権協会,日本著作出版権管理システムなど)に権利委託されているコンテンツの利用手続については
,各著作権等管理事業者に確認してください。
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/
1
シモーヌ・ヴェイユの社会的抑圧論〔5〕
八 木
正
1ヴェイユの思想の特質
2社会的抑圧論の構造と展開
〔1〕初期革命論集から(以上12号)
〔2〕『抑圧と自由』
〔3〕『労働者の境遇j(『労働の条件』改め)(以上13号)
〔4〕ある転機一スペイン内乱
〔5〕『イーリアス,力の詩篇』ほか(以上14号)
〔6〕宗教的省察から
〔7〕『根をおろすこと』
(i)魂の希求するもの(以上15号)
(ii)根こぎとその克服(以上本号)
3〈社会的なるもの>の把握一デュルケムとの対比において
(「社会学的意義」改め)
(ii)根こぎとその克服
工場生活の体験のなかから凝結した,労働者の「不幸論」
工場生活の体験のなかから凝結した,労働者の「不幸論」の概要についてはすでに述べ
た。死の直前に書かれた「根こぎ論」は,このかつての「不幸論」の外延的拡大であり,
かつまた内容の体系的深化であると位置づけることができるように思われる。両者におい
て,基本的モチーフは明らかに同一であり,その間になんらの断絶も介在していないが,
ただ痛切な亡命体験のさなかにあって,国外から祖国の民衆へ想いを馳せるヴェイユの苦
悩にみちた眼は,必然的に労働者だけにとどまらず,農民,さらには受難の同胞全体をみ
ずからの視野のなかにおさめざるをえなくなった。
視野がこうして外延的に拡大しただけではない。期せずして綜合的視角から問題を展望
することを迫られた彼女は,すでにこの時期までに確固たる信念に高めていた,宗教的基
礎づけをもつ文明批評,より正確には,根源的な現代文明批判の見地から,徹底的に問題
の本質を問いつめ,そして「不幸論」と較べると,いっそう深く,具体的,かつ体系的に
論述を進めている。
さて,ヴェイユにとってそもそも「根づく」とは,いったいどういう意味をもっていた
2
八 木 正
のであろうか。本書第2部の冒頭において,-つぎのような意味づけと規定が与えられてい
ることにまず注目しておく必要があろう。
「根づくということは,おそらく人間の魂のもっとも重要な要〔欲〕求であると同時に,
もっとも無視されている要〔欲〕求である。これはまた,定義することがもっとも困難な
要〔欲〕求の一つである。人間は,過去のある種の富〔宝〕や未来への予感を生き生きと
保持している集団〔共同体](collectivit6)の存在に,現実的に,積極的に,かつ自然なか
たちで参加することを通じて根をおろすのである。自然なかたちの参加とは,場所,出生,
職業,境遇(entourage)によって,自動的におこなわれた参加をさす。人間はだれでも,い
くつもの根をおろす要〔欲〕求をいだいている。つまり,道徳的,知的,霊的生活のほと
んどすべてを,彼が自然なかたちで参加している環境を介して受け取ろうとする要〔欲〕
求をいだいているのである。」(63ページ,P.62)
ことさらに意識されることはないにせよ,たしかに人間はこのような意味での根づきの
欲求を基本的に,ほとんど本能的な形でもっていると考えられるし,また正常な時には,
この欲求は無理なく叶えられているはずのものでもあろう。このようにしてきわめて自然
に根づいている共同生活の状態から人びとを無理やりにひき剥がすものがあるとすれば,
それは,「力づく」という語が示すように,あの「力」以外のものでありうるはずがない。
このような想定なしには,ヴェイユがわざわざ「根づき」という比喰的ないしは象徴的な
言いまわしをしていることの意味がとらえがたくなるにちがいない。
事実,彼女は根こぎの基本的原因として,外国による軍事的征服と経済的支配を,そし
て国内的には,金銭と通俗教育というふたつの病毒をあげている(63-65ページ,PP.62
−63)。根こぎ現象を惹ぎおこすこれらの諸要因は,「軍事的な力」,「経済的な力」,および
「文化的な力」という,社会的勢力の三形態に該当する内容のものとみてよかろう。
このうち,軍事的抑圧については,当然のことながら,主にフランス国民に即して論ぜ
られ,金銭による根こぎと文化の剥奪については,労働者のぱあいにとくに熱をこめて分
析と提言がなされている。農民にかんしては,全般に彼らにたいする無関心から生じてい
る事態が問題にされ,また労働者のばあいと同じく,文化的な根こぎと労働の問題に焦点
があてられている。
最初に,金銭についてみれば,それは人間を堕落させ,滅ぼすきわめて危険な病毒であ
るといわねばならぬ(以下,64−65ページ,pp、62-63)。「金銭は,その侵入するところ,
いっさいの原動力を駆逐して金儲けの欲望をのさばらせ,もろもろの根を破壊する。この
欲望は,いとも容易に他のすべての原動力を打ち負かしてしまう。なぜならそれは,他の
原動力にくらべて,きわめて小さな注意力しか要求しないからである。数字より明瞭かつ
単純なものは存在しない。」
労働者は,この金銭の力に毒され,根を完全にもぎとられている存在である。彼女の表
シモーヌ・ヴエイユの社会的抑圧論〔5〕
3
現によれば,賃金労働者というのは,「一生涯,完全に金銭にしばられている(entibrement
etperp6tuellementsuspendueal'argent)」ものにほかならない。出来高払いの賃金制のた
めに金銭勘定に注意力を集中させられた彼らは,たとい自国にあっても,精神的な意味で
は安住の場所を得ない移民であり,「彼らは精神的に根こぎにされ,追放され,その後あら
ためて,いわばお情けで,働く肉体という資格で容認されているのである。失業は根こぎ
の二乗である。彼ら労働者は,工場のなかにも,住民のなかにも,彼らのためのものと称
されている党や労働組合のなかにも,娯楽の場所にも,そのところを得ていない。」
根こぎの第二の形態は,民衆からの文化の剥奪とそれを補填する授与的な通俗教育であ
る。現代技術文化の性格と卑俗な大衆教育に向けるヴェイユの批判は,まことにきびしい
(以下,65−67ページ,pp.63-65)。伝統との絆を断たれた近代文化は,「いちじるしく技
術の方向をめざし,技術によって影響を受け,きわめてプラグマチズムの色彩が濃く,専
門化によって極度に細分され,此岸の世界との接触も,彼岸の世界へ通じる道もまったく
有しないといった文化」でしかない。
しかるに,「今日,大衆教育と称されるものは,このように閉ざされ,堕落し,真理に無
関心な環境のなかでつくりあげられた,以上のごとぎ近代文化を採用することであり,ま
だかろうじて,そのなかに残っている純金のいっさいを排除してゆくこと(これが大衆化
と称されている作業なのだ)であり,まるで烏たちに餌をちびちび啄ませるように,勉学
意欲に燃えている不幸な人びとの記憶のなかに,残り津をそのままのかたちでのみ込ま
せることなのである。」
もっと後の方で述べていることだが,彼女の考えでは,むしろこれとは逆のことが必
要とされているのであり,たとえば文学作品についても,逆説なことではあるけれども,
「総じて二流ないしはそれ以下の作品は,選良たちによりふさわしいものであり,完全に
一流の作品は民衆によりふさわしい」(89ページ,p.95)とさえいえるのである。
ところで,これこそヴェイユ独自のすぐれた考察であると讃嘆せざるをえないのだが,か
かる根こぎは増殖して,人間社会をさらに腐蝕せしめる作用をもっていると,彼女は指摘
する。
「根こぎは,人間社会のずばぬけてもっとも危険な病患である。なぜなら,根こぎは増
殖してゆくからである。完全に根こぎにされた人間には,ほとんどつぎのどちらかの態度
しか許されない。すなわち,古代ローマ時代の奴隷たちの大部分とおなじように,死にほ
とんど等しい魂の無気力状態に陥るか,さもなければ,まだ根こぎにされていない者たち,
ないしは部分的にしか根こぎにされていない者たちを,しばしばこのうえなく暴力的な手
段によって,根こぎにすることをめざす活動に飛び込むかである。……根こぎにされたも
のは,他を根こぎにする。根をおろしているものは,他を根こぎにすることはない。(Quiest
d6racin6deracine・Quiestenracin6ned6racinepas.)」(67-68ページ,pp、66-67)
4
八 木 正
社会的抑圧の分析の際に問題とされた「革命」の意味内容についても,ここでは根こぎ
との関連において,ふたつの相容れない方向性として対比されている(68ページ,p.67)。
ふつう使われている意味での,したがってまた多くの活動家がそれにとらわれてしまって
いる「革命」の観念は,ヴェイユによれば,「労働者がすでに蒙っている根こぎの病を社会
全体に押しひろげること」にほかならない。これにたいして真の革命は,彼女の考え方か
らすれば,「労働者が社会に根をおろすことができるようなかたちで社会を変革すること」
でなければならない。このふたつの行動はまったく逆方向の行動であり,互いに結合する
ことはなく,まして前者が後者の前提となるというようなことは絶対にありえない。
根こぎの増殖は,国によって異なった形式をとる。ドイツでは,根こぎが「攻撃的な形
式」(laformeagressive)をとったのにたいし,フランスでは,それは「仮死状態と荘然自
失の形式」(celuidelal6thargieetdelastupeur)をとったのである(69ページ,pp.68)。
さて,ここでいま一度労働者固有の根こぎの問題にたちかえると,すでにその考えは後
期評論のなかで示されていたように(拙稿〔4〕’3ページ),彼女は基本的に「権利」の
観念を,その力を背景にした取引的発想のゆえに,しりぞけているのであるが,本書では,
労働者の権利要求は,実は彼らが陥っている根こぎの苦悩の表現にほかならないというと
らえかたがされている。それはつぎの考察によっている(72-74ページ,PP.73-74)。「労
働者の権利要求のなかに,彼らの不幸にたいする救済手段を求めることはできない。」とい
うのは,もっと具体的に言うと,基幹産業の国有化であれ,私有財産の禁止であれ,労働
組合に与えられている団体契約締結権であれ,職場代表権であれ,あるいは雇用の規制で
あれ,法律的処置をもってしては,プロレタリアたる条件(laconditionprolbtarienne)を
根絶することは不可能だからである。
ひとはむしろ労働者の権利要求のなかに,彼らの境遇における根こぎの苦しさの表現を
こそ看てとらなくてはならない。「彼らの権利要求(revendications)のなかに見出すこと
ができるものは,彼らの苦悩のしるし(lesignedeleurssouffrances)である。そもそも,
それら権利要求のすべて,ないしはそのほとんどすべては,根こぎの苦悩を表現している
のだ。彼らが雇用の規制や国有化をのぞむのは,完全なる根こぎ,すなわち失業の恐怖に
取り懸かれているからである。彼らが私有財産の廃止をのぞむのは,お情けで入らせても
らう亡命者のように職場に入れてもらうことに,もううんざりしているからである。……」
かくして彼女はつぎに「労働者の苦悩の具体的リスト」をあげる作業に進むが,そうす
るのは,あくまでもそれが「改善すべきことがらのリスト」の明確化につながるとの確信
に支えられているからである。ここには,労働者の苦悩にみちた境涯をただ客観的に,もっ
と強くいえば,ただ傍観者的に記述するという態度はゑじんもふられず,それとはまった
く逆に,いかにしてその境遇の抜本的変革を図るかに腐心して,きわめて具体的かつ明確
な方策が練られていることに注目しておかなくてはならない。
シモーヌ・ヴェイユの社会的抑圧論〔5〕
5
労働者の苦悩の源泉であり,したがって改革を要する問題の最初に彼女があげるのは,
学卒者の労働者生活への移行の際に受ける精神的打撃である。思いやりにあふれたつぎの
文章に目をとめていただきたい。
「まず第一に,十二歳から十三歳の小さな子供が学校を卒業してから工場にゆく際,彼
らが受ける打撃をなくさなければならない。労働者のなかには,このときの打撃がいつま
でもうずく傷口を残しさえしなければ,それだけで完全に幸福になりうる者もあるはずで
ある。……学校に行っているあいだ,子供は,よい生徒だろうと悪い生徒だろうと,その
存在を認められた人間であり,人びとは彼の能力を伸ばそうと努め,彼における最良の感
情に呼びかけてくれたのである。ところがたちまちにして,彼は機械の付属品,もの以下
ともいうべき存在になりさがる。そして彼が服従するかぎり,もっとも低劣な動機にうご
かされて服従していようと,相手はなんら意に介さない。大部分の労働者は,すぐなくと
げんうん
も人生のこの時期に,一種の内的眩量を伴った,もはや存在していないというこの印象を
受けたのである。..….こんなに早い時期に受けたこの最初の衝撃は,しばしば消すことの
できない痕跡をとどめるものだ。それは労働への愛を決定的に不可能にしてしまう。」(74
ページ,pp.74-75)
そのほかに改革を要する問題として,「労働時間中における注意力の管理法,怠惰や疲労
を克服するようにうながす刺激一今日では,これは恐怖と労賃にほかならなくなってし
まった−の性質,服従の性質,労働者に要求される自発性,熟達,反省などのあまりに
も貧弱な現状,思惟と感情とを介して企業の全体に参与することの不可能,彼らが生産す
る製品の価値や社会的有用性や目的にかんするしばしば完全なる無知,職場の生活と家族
の生活との完全なる離反など」(74-75ページ,p.75)が指摘される。これらの項目のそれ
ぞれが何を意味するかについては,われわれはさぎのヴェイユの工場生活論から明確に察
知することができるはずである。
以下,彼女は労働者の労働環境と精神文化の問題に焦点を絞って独自の考察を加えて行
く。まず,前者の問題である生産体制についてみると,そこには三種の要因,すなわち技
術的要因,経済的要因,および軍事的要因が働いているとみられる(以下,75−84ペー
ジ,pp.75-88)。このなかで彼女がとくに力をこめて論じているのは,労働者による技術習
得の問題である。
軍事的見地からの生産体制の問題については,彼女は,いかなる性質のものであれ,戦
争そのものを本質的に否定していたにもかかわらず,−そしてこれが彼女の根こぎ論に
おける悲劇的な矛盾となっていたように思われるのだカー現実に戦争の渦中にあって
は,その重要性を認めないわけにはいかなかった。とはいえ,戦争遂行上の要請から,労
働者を機械の付属品のように扱うことは,彼女の断じて容認するところではなかった。彼
女が軍事的見地から要求したのは,巨大な徒刑場のごとぎ工場を解体して,工場生産を分
6
八 木 正
散させることと,経験を積んだ熟練工のもとに,多くの婦人,少年,成年男子を編入して,
生産量の増加をはかることであった。
技術的見地からみた生産体制については,彼女は技術革新の成果にかなり楽観的な期待
を寄せるかのような記述をしている。しかし彼女は,自動機械の発達がいわば自動的に労
働者に幸福をもたらすとはけっして考えていなかった。かえって彼女が強調し,期待して
やまなかったのは,機械と労働者との間に自主的な労働関係がとり結ばれるような技術の
変革であり,その方向に向けての技術者の考え方の基本的な切りかえであった。
現在までに技術者が機械を考案するにあたって考慮に入れてきたことといえば,研究を
命じた企業の利潤を増大させることと消費者の利益に奉仕することであって,その機械を
動かすことになる労働者のことについては誰もが思いおよばなかった。「ところが実際に
は,指が切断されるとか,工場の階段に鮮血が流れるということは,いぜんとして日常茶
飯事なのである。……ひとは労働者の精神的満足のことなど考えようとしない(これを考
えるには,並大抵の想像力の努力ではとても足るまい)。だが,そればかりでなく,労働者
の肉体を傷つけないようにすることさえも考えようとはしないのだ。もし考えていたとし
たら,たとえば鉱山において,それにすがりついている人間を,八時間のあいだ休みなく
揺さぶりつづけるあの怖るべき圧搾空気の鑿岩機ではなく,別の機械を発明したはずであ
る。」
このような考えにもとづいて,彼女はあくまでも労働者にとって機械はどうあらねばな
らないかを構想する。この視角からすれば,機械は三つの特質を備える必要がある。第一
に,機械は筋肉,神経,ある器官を消耗させることなく,また肉を切り裂いたりすること
なく,操作されうるものでなければならない。第二に,失業の一般的危険に関連して,生
産機械は総じて,注文の変化に即応できるよう,可能なかぎり順応性に富んだもの,つま
り汎用性をもったものでなければならない。第三に,機械は有能な熟練工の仕事に見合っ
たものでなければならない。それは,労働者の尊厳と精神的満足にとって欠くべからざる
ことなのである。
機械にたいするこのような要求は,「多角的に使用しうる,制御可能な自動式の機械」が
大幅に開発されるならば,かなりの程度充たされると彼女はみている。「この種の機械は,
機械にすがりつく人足という身分〔状態](l'etatdemaneuvresurmachine)を消滅させ
る」とさえ彼女は言う。しかし彼女が真に待望したのは,むしろこの種の自動制御機械の
出現を可能とする,技術者の意識そのものの根本的変革であったろう。
とはいえ,改めて言うまでもなく,技術者にたいする一方的な要求だけで,労働状況に
かかわるすべての問題が解決されるわけではない。どうしても必要となるのは,とりわけ
て若い労働者にたいする技術養成である。高度な技術を習得することによってのみ,労働
者は家畜の地位から人間に救い出されることができるのである。そればかりではない。労
シモーヌ・ヴェイユの社会的抑圧論〔5〕
7
働者の大部分が高度の技術を有し,考案と独創の才を示し,自己の製品と機械とに責任を
もつべきだとされるようになると,それはもはや「新しい型の工業組織」への移行を意味
することになるだろう。その理想的な新システムの構想は,後にまとめて明示されるので,
ここではひとまず保留しておこう。
ヴエイユが労働者の技術習得に劣らず重視している問題は,ほかならぬ労働者の文化へ
の参与である。さぎに彼女は根こぎのひとつの要因として民衆からの文化の剥奪をあげて
いた。それを受けて,この箇所では,民衆の文化への接近を妨げる三つの障害が指摘され
ている(以下,84−91ページ,pp.88-97)。
障害の第一は,労働者には知的努力にさくための時間が不足し,疲労のために努力を集
中するエネルギーが欠けていることである。しかしこのことは,「真理はその純粋さの度合
に応じて魂を照射するのであって,いかなる種類の量にも左右されない」とみる彼女の見
解からすれば,決定的な障害とはなりえない。
第二の障害は,労働者という境遇(laconditionouvriもre)には,それに対応する固有の
感受性の傾向があって,それが知識人中心の文化をゑずからとは異質のものとして受けつ
けがたくしていることである。
このような状況のなかで必要となるのは,文化の通俗化(lavulgarisation)の試みでは
なくて,魏案(latraduction)への努力である。ヴェイユはこの両者をまったく別種のもの
とみなして,その差異をきわめて重要視している。雛案というのは,パスカルの表現を借
りて言い換えると,「心情に感じられるようにすることのできる言葉を通じて,労働者とい
う境遇によって形づくられた感受性を有する人たちのために,(知識人の文化に含まれてい
る,すでにしてあまりにも貧弱すぎる)それらの真理を十全なるかたちで表現してやるこ
と」である。約言すれば,銃案というのは,ヴェイユの用いる意味あいでは,真理の置換
にほかならないのであるが,いかに彼女がこの意義を重視しているかは,つぎの逆説的表
現一「置換は,それが真理か否かを識別する公準の一つである。置換されえないものは
真理ではない。」一によってもうかがい知ることができよう。
あまつさえ彼女は,この置換への努力が文化それ自体を蘇生せしめるとさえ言い放つ。
「文化を民衆に伝達するために適した置換の形式が探究されるならば,その探究は民衆に
とって救いになろうが,はるかそれ以上に文化自体にとって救いとなるであろう。また文
化にとって,かぎりなく貴重な刺激剤となるであろう。そうなれば文化は,それが現在閉
じこめられているがごとき,息ができないほど閉ざされた雰囲気から抜け出すであろう。
また,専門家たちの独占物ではなくなるだろう。」
労働者の文化的障害の第三は,労働者の隷従である。初期の頃以来,思惟が,ただそれ
の承が個人の社会への隷従から個人による社会の統御へと向かう転換のモメントになると
いう考えかた(拙稿〔2〕24ページ)をヴェイユはけっして変えていない。ところが労働
8
八 木 正
者の条件のもとでは,通常思惟する力は奪われている。「思惟は,それが実際に行使される
とぎ,その本質上,自由なる主権者である。思惟する存在として,一時間か二時間のあい
だ自由なる主権者であり,一日の残りはすべて奴隷であるということは,まさにその身を
八裂きにされるような苦痛であって,それから脱れ出るために,思惟の至高の形態を放棄
しないことはほとんど不可能である。」
ただしこの障害は,労働者と知識人との接近さえはかられるならば消滅しうるものであ
ると承られ,大戦のさなか,知識人が否応なく隷従の状態に投げこまれ,労働者と混じり
合っていた当時の状況のもとでは,障害を克服する条件は有利に展開しているとの見方が
披歴されている。
労働者の根こぎとその克服をめく・る以上のごとぎ考察をヴェイユみずからがまとめて,
つぎのような重要な帰結を導いている。「要約するなら,なによりもまず根こぎという現象
によって定義されるプロレタリアの現状を打破する道は,労働者がおのれのところにあり,
かつ,おのれのところにあると感じるがごとぎ生産施設と精神文化とを確立する努力に帰
一する。」(91ページ,p.97)
こうしていよいよヴェイユは,「労働者をふたたび根づかせるための計画」(これはさき
に「新しい型の工業組織」と表現していたものにあたる)を要約的に提示するにいたる。
これをさらに箇条書きに整理してみると,およそつぎのようになるだろう(92-96ペー
ジ,pp.98-104)。
(1)大工場は解体し,大企業は多数の小工場(田園に分散し,1名ないし数名の労働
者からなる)に直結した一つの組立工場となる。輪番制で労働者が定期的に組立工場へ働
きに行くが,労働は半日だけとし,あとは中央工場に隣接する労働大学で,互いの友情を
深め合ったり,技術や教養を磨くことにあてる。この時期は,あたかも祝祭日のような日々
となる。
(2)機械は企業体ではなく,分散した小工場の所有するところとなるが,それらの小
工場自体,個人的ないし集団的に労働者たちの所有に帰する。そのほかに各労働者は,結
婚の際に,住宅と若干の土地の所有を,「知性と一般教養とを確認するための試験を伴った,
困難な技術的テストに合格すること」を条件として,国家によって認められる。これら三
つの所有物は,相続による讓渡,売却,その他どんな方法であれ,手離すことができない。
労働者が死亡すると,それらは国家に返還されて,妻子の生活は従前どおり保証されるか,
あるいは妻に労働能力のあるばあいは,夫の所有物を受け継ぐ・ことが許される。
(3)これらを下付する財源は,企業体の利潤からの直接税,あるいは製品の売却から
の間接税に求める。管理は,政府公務員,企業主,労働組合員,国会の代表者より構成さ
れる,行政委員会がこれにあたる。労働者および企業主の職業的無能力が明らかになった
ばあい,所有権は裁判所によって徹回される。
シモーヌ・ヴェイユの社会的抑圧論〔5〕
9
(4)小工場主になることを希望する労働者は,職業団体の審査によって認可を得る。
その際,2∼3台の機械を購入する便宜が与えられる。
(5)試験に不合格の労働者は,賃金生活者の身分にとどまり,小工場で個人経営の労
働者の助手になるか,あるいは組立工場の人足となるかであるが,それはごく少数で,大
部分は公共事業や商業に不可欠の労働者ないしは書記の仕事に就く。そしてかれらは,年
令の制限なしに,くりかえし受験が許され,また何度でも実業学校で数カ月の無料講習を
受けることができる。
(6)結婚年令に達する以前の若い労働者は,常に修業中の者とみなされる。少年期に
は,学校での学業と父親の手助けをする労働とが並行して行われる。青年期には,国内巡
歴旅行や個人経営の労働者,協同組合小工場,組立工場,もしくは各種青年団体のもとで
の合宿労働による研修(以上のものはいっさい無料)が進められる。
少年期における学業と労働の並存について若干補足すると,これらの小製作所はけっし
て兵営であってはならず,労働者は自分の働いている場所をしばしば妻子に見せてやれる
ようでなければならぬとされる。子どもたちは,就学年令から,放課後に父親の仕事場を
訪ね,仕事を習い覚えるようにすべきである。そうすれば,「その仕事は,子供時代に受け
た驚嘆の念によって,一生のあいだ詩情に輝くことになるであろうし,一生のあいだ,最
初の体験の衝撃によって悪夢のような色彩をもつことはなくなるであろう。」(80ペー
ジ,p.83)かつて労働自体に詩がありさえすれば,労働者はもっとも神に近い位置にあ
るとみなしていたヴェイユの考えは,このような形の構想となってみごとに結実したので
ある。
いまの私には,ここに素描された将来の労働社会のありかたをめく・る構図を,たんなる
ユートピアとして一笑に付するか否かによって,実は労働や抑圧にかんするわれわれの探
究の実質そのものが問われ,いわば試されることになるように思われてならない。まこと
に,彼女がゑずから意義づけているように,上記の社会生活形態は,「資本主義的でも社会
主義的でもない」が,現実の社会主義の傾向とはちがって,それは「プロレタリアート的
境遇を解体させる」ものであり,「この道以外には,多種多様だが,ほとんどおなじように
怖ろしい不幸の諸形式のあいだでしか選択の余地がないことになろう。」どう控え目に考え
ても,ヴェイユの提示した労働組織の変革原理の正当性は疑えぬところであり,われわれ
は今日,この提言を真剣に検討し,さらにその実現に向けて研究を深めて行くべき義務を
負うていると,私は確信せざるをえない。
農民の根こぎは,労働者の根こぎほどはその病いが進行していないにせよ,大地が根こ
ぎにされた人たちによって耕やされているという矛盾を負うゆえに,よりスキヤンダラス
であり,同じように由々しい問題である(以下,97−101ページ,pp.104-109)。フランス
には農民と労働者との相互離反の不幸な歴史があり,「民衆」の名において常に主役となる
10
八 木 正
労働者のばあいとはちがって,「農民たちはきわめて気むずかしく,きわめて感じやすく,
人びとが自分たちのことを忘れているという想念につねに苦しんでいる」のであゐから,
彼ら農民に所属感情を与えるように配盧する必要があると,彼女は強調する。
農民の根こぎの重大な徴候のひとつに,農村の人口減少がある。それがもたらす破滅的
結果を彼女は指摘し,とりわけて,「過去の生活から断絶を強いられた」農民の労働者人口
への流入によって,労働者のプロレタリア化が阻止しがたくなるゆえに,この問題を除外
して労働者問題の解決はありえないことに注意をうながしている。ただしその際留意すべ
きは,農民たちは、「自分たちとはちがってこの社会のなかで,労働者たちだけがそのとこ
ろを得ている」という印象を抱いており,それほどに深い劣等感にとらわれているのであ
るから,労働者の精神的満足のことを考えれば考えるほど,農民の精神的満足にたいして
十分な配慮をめく・らす必要があるということである。
このような考えのもとに,彼女は農民の根づきのための方策をいくつか練っているが,
その過程で,農民特有の根こぎの原因について独得の考察をめく・らせている(以下,101
−108ページ,pp、109-118)。農民においては,根をおろす要求は「所有の渇望」(lasoifde
propri6t6)という形をとるが,これは彼らにとって「健全かつ自然なる渇望」であり,「こ
の線に沿った希望を彼らに与えるならば,かならずや彼らの心を惹きつけることができる」
との確信を彼女は抱く。しかしこれはむろんおざなりの術策として言われていることでは
なく,農民たちの所有の欲求を神聖なものとして,また正当なものとして認容した上での
主張なのである。しかもこのばあいの所有の欲求は,いうまでもなく耕地にたいしてのも
のにほかならないが,それを「遺産の分割にもとづく富としてではなく,断固として労働
の手段と承なすがごとぎ方法」によってのみ,農民の心を惹きつけることができると,彼
女は言う。
その反面,農民たちのばあいあまりにも大きな安定はかえって根こぎを結果するとい
う見方を彼女はとっている。農民の子弟が14才く・らいでひとり立ちの耕作を始めた当座
は,熱狂が彼らを包むが,それも数年を経ると醒めはじめ,後は変化に乏しい退屈な日々
がつづく。これを避けるためには,労働者のばあいと同様,自発的な国内巡歴旅行が必要
であるとされる。兵営は,これとはまったく逆に,若い農民にとって根こぎの怖るべき要
因であり,彼らの精神はここで深刻な腐敗を経験せざるをえなくなる。
この箇所で,ついでという形にすぎないのだが,ヴエイユが売春制度について触れてい
るのは興味深い。ヴェイユの論考は,人間社会の抑圧・愚行・悲惨の極致を主題としてい
るにもかかわらず,奇妙に人間の肉の臭いが稀薄であり,その社会的抑圧論においても女
性が蒙った歴史的抑圧についてはほとんど何の言及もなく,ましてや人間個人という抽象
の底にある男女の性的相剋が問題とされることは絶えて無かった。
売春行為そのものは,さすがに根こぎの極致ととらえられる。「売春は,二重感染という,
シモーヌ・ヴェイユの社会的抑圧論〔5〕
11
根こぎが有するかの特性の典型的な実例の一つである。職業的売春婦なる身分〔状況](la
situationdeprostitu6eprofessionnelle).は,根こぎの極限の段階をなす。そして,根こぎ
というこの病患にとって,一握りの売春婦は広汎な伝染力をもつ。」この文章にゑられるよ
うに,売春それ自体がもつ根こぎ性もさることながら,むしろそれがもつ根こぎの伝染力
の方に,彼女の注意は向けられている。したがって問題となるのは,売春制度であり,そ
の社会的影響にほかならなかった。
「国家がみずからすすんで若い農民と売春婦との接近をはかることに執心しているかぎ
り,健全な農民階級がありえないであろうということは明らかである。農民階級が健全で
ないかぎり,労働者階級もまた健全ではありえないし,国のその他の階級にかんしても同
様である。」ちなみに彼女は,公的な売春制度が軍隊や警察を腐敗せしめ,警察の腐敗は,
市民の軽侮を買うゆえに,民主主義の破壊につながるという考えを示している。
農民にとっても,精神文化の問題は重大である(↑iミ')。「精神の事象にかんするいっさいにつ
いて,農民たちは近代世界によって無残に根こぎにされてしまった。」農民にたいしては,
彼ら農民に適したやり方で,精神文化の魏案がなされなくてはならない。たとえば科学の
ばあい,労働者には当然力学が優先するが,農民にたいしては,植物と人間と大地との間
をめく・る「太陽エネルギーのすばらしい循環」が中核とならねばならない。「この循環の思
想は,それが農民の精神のなかに浸透するとぎ,労働を詩で包むことになろう。一般的に,
農村における教育はすべて,世界の美,自然の美にたいする感受性を増大させることを本
質的な目的とすべきである。」
農民の精神的根づきを図るための具体的方策としてヴェイユが提起するものは,すべて
農民の教育の問題とかかわっている。農民を精神的に根づかせる第一の条件は,農村にお
ける教師の職業が独自のものとなり,都会の教師とはちがった仕方で養成されること,そ
の第二は,農村の教師が農民というものをよく識っていて,彼らを軽蔑しないことだと言
う。すなわち,農村教師には,農民にかかわる民俗学,自然哲学,および文学を「偉大な
事象」として学ばせ,農家の手伝いも体験させて,農民にたいする愛を育てるべきだとす
るのである。
農民の精神的根づきとの関連において,当然子どもの精神形成にかかわる,宗教教育が
問題とされる。フランスの農村で宗教が日常生活から完全に遊離してしまっている現状に
たいして彼女はきびしく批判を加えるが,それは,教会の手に教育を委ねさせようがため
のものではなく,教育のなかに宗教の正当なる位置を回復せしめることの大切さを訴える
ものにほかならない。民衆の精神的糧としての「キリスト教的美」,これが民衆によって食
され,味われることを彼女は望んだのである。
真の民衆教育は,ヴェイユにあっては,究極的には労働の霊性ないしは労働の尊厳の確
立の問題に集約される(以下,111-116ページ,pp.122-129)。「かたや魂の霊的生活,か
12
八 木 正
たや物質的宇宙にかんするいっさいの科学的認識が,ともに労働という行為のほうをめざ
すとぎ,労働は人間の思考のなかで正当なる位置を占めることになる。労働は牢獄の一種
ではなく,この世界と他の世界との接触である。」「民衆教育の任務は,労働に思考を注入
することによって,それにより多くの尊厳を与えることであって,労働者を,あるとぎは
働き,あるとぎは思惟するといった隔壁をもつ存在にすることではない。」
したがっ工,ヴェイユが最終的に希求してやまなかった偉大なる文明は,凝縮して表現
すれば,結局「労働の霊性に基礎づけられた文明」(unecivilisationconstitueeparla
spiritualit6dutravail)にほかならなかった。「われわれの時代は,労働の霊性という基礎
のうえに文明を築きあげることを,その独自の使命,その天職としている。」「労働の霊性
によって基礎づけられた文明は,宇宙における人間の根づきの最高の段階であり,したがっ
て,ほとんど全面的な根こぎともいうべき,われわれの現在の状態の対極にあるものであ
る。かかる文明は,その本性上,われわれの苦悩に対応する憧‘│景である。」この想念こそ,
ヴエイユが生涯の最後にたどりついた極点であって,この極みからわれわれは逆に,彼女
が全身全霊を傾けて構築してきた全思想体系をふりかえって照射する必要があるように思
われるのである。
国民の根こぎについては,彼女は多くの頁を割いている。世界大戦の巨大な奔流のなか
に祖国が呑ゑこまれてしまうという苛酷な現実を眼前にした彼女にとっては,この問題の
解明は,やむにやまれぬ熱情を注ぐべき作業であり,使命であったにちがいない。この考
察のなかにも,われわれが社会学的見地から入念に検討してしかるべき重要な命題が見出
される。それは彼女の祖国愛にかんする分析である。
彼女の考えによれば,現代という時代は,国民的・国家的な結合が他のすべての集団的
きずなにとって代わった時代であると規定することができる。「すでにひさしい以前から,
国民だけが,個人にたいする集団の主要なる使命とされるものを構成する役割,つまり現
在を通じて過去と未来とのあいだの関係を確立するという役割を果たすようになってい
る。この意味において,国民は現在の世界に存在する唯一の集団であるということができ
る。」(117ページ,pp.129-130)これと較べれば,家族も存在しないに等しいし,職業集
団もものの数ではない。村落,都市,郡,州,地方などといった小さな地理的単位もまた
同様である。
ところが,これはまさに悲劇的としか言いようがないのであるが,「まさに国民のみが存
続しているこの時代において,われわれは,国民の瞬時にしてめくるめく解体に立ち合っ
たのである。そのためわれわれは,荘然自失の状態に陥り,この問題にかんして反省する
ことさえ極度に困難になっているほどである。」(118ページ,p、131)
この後にフランス人の愛国心の歴史についての記述がつづくが,その個々の事柄はわれ
われの当面の関心事ではない。重要なのは,これらの考察からヴェイユが引き出している
シモーヌ・ヴェイユの社会的抑圧論〔5〕
13
国家の本質にかんする命題である。初期の論稿のなかにすでに国家への言及は承られたが,
精神論的な思索を経た今,それはいっそう苦渋にみちた表現をとっている。
「国家とは,愛されることのできない冷酷な存在である。だが,それは愛されうるいっ
さいのものを殺し,破壊する。われわれは国家を愛さざるをえない。国家しか存在しない
のだ。これこそ,現代に生きるわれわれに与えられた精神的苦悶である。」(132ページ,p.
1
4
8
)
しかしながら,以前に少し触れたように(拙稿〔4〕8ページ,注(1)),彼女は,たとえ
IfR.M.マッキーバーがそうしたように,社会学的見地からの概念上の区別をくつに意図
していたわけではないが,ゑずからの思想に照らして,国家(l'Etat)と国(lepays)とを明
確に分け,真の愛徳の対象となりうるのは後者であるとの見解を示している。したがって,
つぎのような表現がとられることにもなる。「国家の発達はその国を疲弊させてしまう。国
家はその国の精神的精髄を貧り,それによって生き,肥えふとり,ついにはその糧が尽き
てしまうにいたる。すると,その国は飢えによって衰弱状態に陥ることになるのだ。」(137
ページ,P.154)
国家が滅ぼす実在はこれに尽きない。つぎのような言句がみられる。「国家は,地域的に
自己より小さいもののすべてを精神的に圧殺してしまったが,それと同時に,地域上の国
境を,思想を閉じこめるための牢獄の壁に変えてしまった。……」(140ページ,P.158)「国
家はまた,公的生活の外側で忠実〔誠](lafid61it6)にたいする指針を与えていたいっさい
の結びつきを滅ぼしてしまった。……」(141ページ,P.159)
同業組合,社会階級,宗教など,忠誠の対象とみられていたものすべてが,今やその資
格を喪失してしまった。「こんなわけで,忠実〔誠〕がすがりつくものとしては,国家以外
にはなにもなくなってしまった。1940年まで,忠実〔誠〕が国家にたいして拒否されなかっ
たのはこのためである。けだし人間は,忠実〔誠〕のない人間生活はなにか嫌悪すべきも
のであることを感じているのである。……人間はまた,犠牲のために生まれたということ
を感じている。ただし,民衆の想像力のなかには,軍事的犠牲,すなわち国家に棒げられ
る犠牲以外の犠牲の形式は存在しないのである。」(144-145ページ,p.164)
その一方で,国家は主権者としての民衆を事実上否定する存在であるがゆえに,民衆に
は非人間的で,狂暴で,官僚的で,かつ警察的なものとして本能的に知覚され,憎悪もさ
れてきた。「かくして,われわれは奇妙な現象を目撃することになった。」と,ヴェイユは
書いている。「すなわち,憎悪と反撰と愚弄と軽蔑と恐怖との対象である国家が,祖国なる
名のもとに,完全なる忠実〔誠〕,全面的な献身,すべてに優先する犠牲を要求し,しかも
1914年から1918年にいたるあいだ,すべての期待をうわまわる度合においてそれらを獲
得したのである。国家は,この世界における絶対的価値として,すなわち偶像崇拝の対象
として示現し,また,かかるものとして受容され,奉仕され,怖るべき多数の人間の犠牲
14
八 木 正
によって崇敬された。愛のない偶像崇拝一一これ以上に奇怪で悲しいものがあるだろう
か?」(145ページ,p.165)
しかしながら,国家にかんするヴェイユの論稿は,他の主題のばあいと同様に,たんな
る事実分析だけにはとどまってはいない。超本性的基準からゑて,現時点ではたすべき義
務を明確に指示すること,この一点に向けて,彼女の思念はひたすら凝結してゆく。この
後につづく種々の議論をすべて捨象して,問題を極度に単純化していえば,それでは結局,
ヴェイユは祖国愛を根底から否認して,超本性的義務への帰服だけをもっぱら呼びかけた
のであろうか。けっしてそうではなかった。祖国の崩壊という未曾有の危機を眼前にして,
安閑と神への祈りを説くことは,彼女のよくなしうるところではなかった。当時の状況の
なかで,彼女が何より怖れたのは,祖国の民衆が精神的無気力に沈承こむことであった。
「祖国は一つの事実であり,かかるものとして,さまざまな外的条件や偶然にしたがう
ものであるが,それにもかかわらず,危急存亡の場合にそれを救う義務は,やはり無条件的
な義務なのである。だが言うまでもなく,実際には祖国の実在性がひしひしと感じられれ
ば感じられるほど,それだけ国民の熱意も烈しいものになる。」(184ページ,p.213)
ここで語られる祖国愛は,強大な国家に寄せる熱愛ではなく,受難にあえぐ祖国への憐
れ承(lacompassionpourlapatrie)にほかならない。「うるわしく類稀なもの,脆弱で滅
びやすいものにたいするこの悲痛な情愛は,国家的偉大さにたいする感情とは別に,やは
り熱烈なる感情である。この感情に充たされているエネルギーは完全に純粋なものである。
かつ,きわめて強力なものである。……弱さへの想いは,力への想いと同様,愛を燃えあ
がらせることができる。だがそれは,まったく別の純粋さを有する炎なのだ。脆弱さへの
憐れみは,かならず真の美への愛と結びついている。なぜなら,真に美しい事物は永遠の
存在を保証されるべきなのに,実際にはそうではないということをわれわれは痛烈に感じ
ているからである。」(188-189ページ,pp.218-219)「国家的偉大さへの自負(l'orgueilde
lagrandeur)が,その本性上,排他的で転換不能であるのにくらべて,憐れゑは,その本
性上,普遍的なものである。」(191ページ,p.222)
しかしこの憐れみは,いかに危急存亡の瀬戸際にあるとはいえ,祖国を単純に美化した
り,その悪業の数々を合理化したり,免罪したりすることを含んではいない。比類のない
宗教的美しさにゑちた,つぎの文章はこのことを告げている。「かかる愛は,この国の過去,
現在,およびその欲望のなかに含まれている不正義,残虐,誤謬,虚言,犯罪,恥辱を,
隠し立てたり,言い落としたりすることなく,目でしっかりとそれらを見すえるが,その
ことによって減じられることはない。ただそれを見すえることによって,よく多く苦しむ
だけである。憐れみにとっては,相手がおかした罪ですら遠ざかる理由にはならず,逆に,
その有罪性ではなく,その恥辱をこそともに頒ちあうために近づいてゆく理由となるので
ある。人間のかずかずの罪も,キリストの憐れゑを減じることはなかった。そのように憐
シモーヌ・ヴェイユの社会的抑圧論〔5〕
15
れみは,善と悪とを目でしっかりと見すえ,その両者のなかに愛する理由を発見するのだ。
これこそ,この世における真実で正しい唯一の愛である。」(189-190ページ,P.220)
このような考えから,「憐れみに根ざした愛国心」(unpatriotismeinspir6parlacom
passion)への訴えかけがなされるのであるが,彼女がそうするのは,実際には,祖国の不
幸にたいする憐れみが,国民相互の連携をつくりだす友愛の原動力となりうるであろうと
いう見通しに拠っているからなのである。しかも,真に祖国の運命にたいする憐れみの念
を抱きうる階級は,下層の民衆以外にはないと,彼女はいささかのためらいもなく断言す
る。むろんこの社会層が国家の栄光にあやかろうとして,国家的偉大さという「興奮剤」
に狂う可能性の存することは,彼女も十分認めている。しかし,それは社会の混乱期にし
か興奮剤として作用しえないもので,安定期には,無名の民衆がその対極たる栄光に志向
することはありえないとされる。
「これとは逆に,祖国が,うるわしく,かけ替えのない存在として,だが,不完全なも
のであると同時にきわめて脆弱な,つねに危険にさらされている存在として,したがって,
いつくしみ,守ってやらなければならない存在として示されるならば,彼らは当然のこと
ながら,他の社会階級以上に祖国を身近なものに感じるだろう。なぜなら,民衆のみが,
おそらく,いっさいの認識のなかでもっとも重要であるべき,不幸の現実にたいする認識
を独占しているからである。またこれゆえに,その不幸から匿まわれるに値するものがい
かに貴重であるか,各人はいかにそれらを大切に保護してやる義務を負っているかを,彼
ら民衆はより痛切に感じ取っているからである。」(193ページ,pp.224-225)
愛国心を説いて,これほどまでに,現実に深く根ざしながら,格調のきわめて高い考察
をめく・らせている論説は,ほかにその例を見いだしうるであろうか。とはいいながら,危
急の祖国にたいするほとばしるような熱い想いが,崇高な宗教的祈念と一体となり,さら
に不幸認識における民衆の卓越した能力に期待を寄せてゆく,彼女の思念の流れは,私に
はむしろこの上なく痛ましく感ぜられる・この主張が,行動者としてのそれではなく,い
わばひとまずは安穏な傍観者たる立場からの表白にすぎないことに,彼女は他の誰よりも
みずからに向けてはげしく鞭をふるいつづけたにちがいないからである。そしてこのこと
が,ついには彼女の死にざままでも規定したように思われてならないのである(雄2)。
この後,第3部「根づき」において,上述の思想に立脚した具体的指示の数々がいよい
よ展開されることになるが,その背景や実際的意義について論ずる余裕はもはやない。そ
れに,本書の各部の性格づけをさきに一応与えたものの,実際には,第2部において改革
案のほとんどすべてが論じつくされており,第3部の後半にいたっては,かえって原理的
な省察の比重が高くなっている。冗長にすぎる引用をこれ以上重ねないために,このあた
りで後は,ヴェイユの最後の到達点とさきに述べた,労働の霊性の確立の問題に限って言
及するだけにとどめよう。
16
八 木 正
同意にもとづく服従の美徳について,ヴエイユは宗教的省察のなかでもまた本書におい
てもくりかえし説いているが,肉体労働への同意(脈3)こそは,その最も完全なる形態である
と,本書の最後尾(初版刊行後,発見された)に規定されている。「すすんで同意された肉
体労働(letravailphySiqueconsenti)は,すすんで同意された死についで,服従の美徳の
もっとも完全なる形態である。」(316ページ,p.372)
この言葉は,単純な意味での労働の讃美から発せられたものではない。かえってヴェイ
ユによれば,労働は,死と同様に,罪に陥った人間にたいして神が選んだ刑罰であり,同
意によってそれを受容することにより,人間は神への服従という最高善のなかに移行する
ことができるのである(320ページ,p.377)。神への服従という意味において,「肉体労働
は毎日の死」でもある。今や,労働の本質は,つぎのように解されなくてはならない。「労
働するとは,おのれ自身の存在を,魂と肉体ともども物質の循環のなかに置き,物質の断
片が一つの状態から他の状態へ移行する際の仲介者となり,その道具となることである。」
(320ページ,p、378)
しかし,そうであるがゆえに,現実の労働は,人間にとって苦患にふちたものとなって
現われる。「労働は人間の本性に無理を強制する。ある場合には,自己を消費しようとのぞ
ゑながら,そのはけ口を見出せないほどの若々しい活力の横溢がある。しかしある場合は,
疲労困鯨があるのだ。そのとぎ意志は,きわめて苦しい緊張という代償を払って,肉体的
エネルギーの不足をたえず補わなければならない。思惟をあらいかたに惹ぎ寄せる数多く
の気遣いや憂悶や不安,数多くの欲望や好奇心が存在する。単調さが厭悪感をつのらせる。
時間がほとんど耐えがたい重みをかけてくる。……」(321ページ,pp.378-379)
それにもかかわらず,労働者は,ゑずからがどんな状態にあろうとも,毎朝,そして一
生を通じて,かかる労働に同意を与えつづけてゆかなくてはならない。労働への同意とい
うこの行為が,人間に求められている服従の最も完全なる形態であるとすれば,その他の
人間の活動一部下の指揮,技術的計画の立案芸術,科学,哲学など−はすべて,霊
的な意味では,肉体労働の下位に位置することになろう。かくてヴェイユは,本書の最後
をつぎのような象徴的な言葉でもって結んでいる。「よく秩序立てられた社会生活のなかで
肉体労働が占めるべき位置を決定することは容易である。肉体労働は社会生活の霊的中心
でなければならない。」(322ページ,p.380)
神への服従の受容,これこそが絶対の善であり,ただこれによってのゑ,〈社会的なるも
の>がもつ悪から逃れうるのだという,ヴェイユの断言が本書全体から重々しく響いてく
るように私には思われる。そしてこのことは,別言すれば,超本性的な「愛」によっ
ての糸,邪悪な社会的「力」の跳りょうを克服しうるのだというふうに,表現すること
が許されるのではなかろうか。ヴェイユの生涯にわたる思索と行動のすべてをこのように
縮約したい思いに,私は今なおとらわれつづけているのである。
シモーヌ・ヴエイユの社会的抑圧論〔5〕
17
注
(1)いささか唐突にきこえるかもしれないが,私はごく最近になって,ヴェイユと同質の精神の輝きを,ほ
かならぬ宮沢賢治にゑいだすことができた。科学に精通し,詩情を愛し,究極の宇宙に超越者をみてそれ
をはげしく希求するその資質において,また人間の労働を美でもって包もうとするその志向において,
ヴェイユと賢治は同質であると,私は考える。賢治のつぎの詩句に接したとき,私は思わず驚きの声をあ
げたものである。ちなみに,両者の相似性に気づく機縁を私に与えてくれたのは,佐藤勝治『宮沢賢治入
門一宗教詩人宮沢賢治とその批判」(1974,十字屋書店)という本である。
「農民芸術概論綱要」から
農民芸術の興隆
何故われらの芸術がいま起らねばならないか
曾ってわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行きわれらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃やせ
ここにはわれら不断の潔く美しい創造がある
都人よ来ってわれらに交はれ世界よ他意なきわれらを容れよ
農民芸術の本質
・・何がわれらの芸術の心臓をなすものであるか
もとより農民芸術も美を本質とするであろう
われらは新たな美を創る美学は絶えず移動する
「美」の語さへ減するまでにそれは果なく拡がるであろう
岐路と邪路とをわれらは譽めねばならぬ
農民芸術とは宇宙感情の地人個性と通ずる具体的なる表現である
そは直観と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造である
そば常に実生活を肯定しこれを一層深化し高くせんとする
そは人生と自然とを不断の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし
巨大な演劇舞踊として観照享受することを教へる
そは人人の精神を交通せしめその感情を社会化し遂に一切を究境地にまで導かんとする
かくてわれらの芸術は新興文化の基礎である
(2)ヴエイユの最期の状況を伝え,その意味を考えさせられる好著が,最近相次いで日本で刊行された。
田辺保『純粋さのぎわみの死一さいどのシモーヌ・ヴェイユ』(1978,北洋社)
J.カボー(山崎庸一郎訳)『シモーヌ・ヴェーユ最後の日々」(1978,承すず書房,原著は1967年刊行)
S.ペトルマン(田辺保訳)『詳伝シモーヌ・ウエイユII」(1978,勁草書房,原著1973年)
18
八 木 正
ことに田辺氏の著作は,これまでヴェイユの研究書を関心の外に置いてきた(というより,そうする精
神的余裕を欠いていた)自分にたいして,痛烈な反省を強いるものであった。氏のヴェイユにかんする一
連の著作には,ほかにつぎのものがある。
田辺保『シモーヌ.ウエイユーその極限の愛の思想』(1968,講談社)
田辺保『奴隷の宗教一シモーヌ・ヴェイユとキリスト教』(1970,新教出版社)
後者には,〈「力」の詩>をめぐる考察が含まれている。
(3)この問題への言及をはじめ,ヴエイユの諸論稿に即して,鋭い考察を進めている注目すべき著作とし
て,つぎのものがある。
河野信子『シモーヌ.ウェイユと現代一究極の対原理』(1976,大和書房)
本篇で使用したテキストは,すべて下記の版に限られている。(「ページ」で前者の,「p」で後者の箇所
を表示した。)
『シモーヌ・ウエイユ著作集V根をもつこと』(山崎庸一郎訳,1967,春秋社)
SimoneWeil:L'enracinement.(1949,Gallimard,Collectionidees)
〔付記〕
予定では,今回で連載を終了し,本稿は一応の完結をみるはずであった。しかし,最終回を迎えた段階で,
筆者の構想に根本的な変更が生じたために,いま一度の継続を余儀なくされてしまった。
当初の計画では,3「社会学的意義」において,ヴェイユが提起した社会学的諸命題を整理し,それらを
あれこれの社会学説と比較対照しつつ,論評を加えるつもりであったが,どうもそれでは,ヴェイユの社会
的抑圧論の実質を鮮明に浮き彫りにするのが難しいように思われてきたので,3を表記のように,「<社会的
なるもの>の把握一デュルケムとの対比において」と改め,ただ一点,ヴェイユとデュルケムとの対比に焦
点を絞って論じたいと,思い定めるにいたった。そうするためには,デュルケムの社会学説について徹底的
に究明することが不可欠であり,またまったく想を新たにして問題ととりくむことが必要となったのであ
る
。
このようなわけで,連載が延びるにいたった事情について釈明するとともに,このことによって,多大な
ご迷惑をかけることになる論集委員会にたいして,心からお詫び申し上げたい。
(1978年10月26日記)
Fly UP