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<今月の納豆の味>ダイジェスト

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<今月の納豆の味>ダイジェスト
みと納豆
生活の発見会
水戸集談会
<今月の納豆の味>ダイジェスト
H29 年 3 月号(No.315)
●-私の森田人間学 #37-「安心の人生を送るために(4)」、山中和己相談役、発見誌 3 月号、P.33~34
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・「あるがまま」が森田理論の神髄
「森田理論の神髄」。これをひとことで言い表すと、「あるがまま」ということばに尽きる。それ以
外のなにものでもない。「あるがままにある」というのが、森田理論のすべてである。
・苦悩があるのに、「あるがまま」?
一方、いま「神経質のとらわれ」に深く悩んでいる段階では、どうであろう。
「あるがまま」という指針を受け入れることはできない。到底、承服も納得も、不可能だ。だいたい、
「あるがまま」「そのまま」などと言われても、初めはまったく困ってしまうに違いない。
なにしろ、森田理論は、世間常識や社会通念とは異なっている。だから最初は、当然「こんなに悩
んでいるのに、そんなバカな!それはないだろう」、あるいは、「いったい何のことやら、よくわから
ない・・・・」などと思うのが普通である。
しかし、それでも、「あるがまま」
「そのまま」ということが、悩みを解決するカギになるのだ。
なぜそれが、大事なのか?その「なぜ」を学んでいくのが、森田理論の集談学習である。(略)
「神経質のとらわれ」について解き明かした森田理論に、まず触れてみることが先決である。
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「あるがまま」について、水戸集談会の創設者のお一人の先輩が、昔、言っておられたことばを思い
出します。
;
「『あるがままであるしかない』、と言われたが、一方で、『あるがままにあろうとしたら、
それはもはや、あるがままではない』とも言う、それでは、どうすればいいのか、まったくわからない。」
私も、同様に、
「あるがまま」が大事そうなのはわかるが、自分のものとするのは、至難の業のような
気がしていました。今の自分が思いどおりになれないから悩んでいるのに、「そのままでよい」と言われ
ても、承認も、納得もできません、簡単には。「悟り」の境地に近づかない限り、そう簡単に手に入るも
のでもない気がしてしまいます。しかし、それでも、
『「あるがまま」
「そのまま」ということが、悩みを
解決するカギ』、『それがなぜ大事なのかを学ぶのが、森田理論の集談学習』、
『まず触れてみることが先
決』だとのこと、難しそうと思いつつも、まず、触れてみることから始めましょう。 (K)
H29 年 2 月号(No.314)
●支部委員・学習委員による学習会シリーズ「総括(まとめ)のしかた」、発見誌 2 月号、P.42~49
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森田理論学習にあたっては、いつも自分の場合はどうなのだろうと照らし合わせながら学習するこ
とが大切になります。ある程度学習が進んだら、これから述べる項目に従って「まとめ」をしてみまし
ょう。…略…
「まとめ」は一回したら終わりというのではなく、節目、節目で行うことが大切です。…略…
5 認識の誤りについて、自分の陥りやすい認識の誤りについてまとめてみてください。その中でも
最大の認識の誤りは「かくあるべし」です。自分の「かくあるべし」はどんなものがありますか。「か
くあるべし」が神経症の苦悩の発生と生き方にどんな影響を与えていたと思われますか。森田理論学習
の中で分かったことなどをまとめてみてください。
認識の誤りを学習していろいろと気がつくところがあった。私の場合、欠点や弱点があると、もう人
前には出てゆけない。もう人前で堂々と生きていくことは難しい。ちょっとしたわずかな欠点や弱点が
自分のすべての人格に拡大して悲観的に考えてしまうところがある。仕事でも、誰でもするような小さ
なミスや失敗をした時、すぐに「もう自分の人生は終わったも同然だ」と考えてしまう。…略… ちょ
っとしたトラブルを人生の一大事として大げさに考える。そんなことがたび重なるのでいつも憂うつで
ある。神経が休まらない。気分変調性障害のような状態だ。
自分の最大の「かくあるべし」は、欠点や弱点のない完璧な人間でなくてはならないと思っているこ
とである。やることなすことはミスや失敗はただの一回でも許せない。常に完璧で間違いのない理想を
追い求めている。そこから落ちこぼれることは絶対に人は認めてくれないので、最大限の注意を払わな
くてはならない。…略… 私の「かくあるべし」は、空に少しの雲もかかっていない、日本晴れの青空
を求めているようなものだ。考えてみれば、一年を通してもそんな日はめったにない。反対に雲が多く、
どんよりとした空、雨が降ったり、雷が鳴ったりする時の方が目立つ。私の心の中はいつも台風並みの
暴風雨が一年中吹き荒れているのだから心が休まることはなかったのだ。
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上記のような「かくあるべし」思い当たる方もおられるのではないでしょうか。私もこの方とまった
く同じ「かくあるべし」があります。何事も大げさに考え、ちょっとしたトラブルはこの世の一大事。
いつも不安で憂うつです。不可能なことをどこまでも追い求めています。
「かくあるべし」は根強いで
すが、歳と共にちょっとずつゆるくなってきているようには思います。ですが、まだまだ強いです。一
生このままかもしれませんが、多少自覚している分、今はこんなもんだと思うことにします。(M)
H29 年 1 月号(No.313)
●特別対談(北西先生、市川理事長、田邊監事) 前編、発見誌 1 月号、P.2~
「足りない何かを求める若者 寄り添い成長させることが 発見会が担う大切な活動」
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・北西先生;発見会に若い世代がいないというのは、私からすれば必然です。(略) 発見会は、そうい
う現代の時代感覚から受け止めることを始めないと、戦略からズレてしまうのではないでしょうか。
・北西先生;大くくりのクラシカルな神経質者が減って、多様な神経症が多数になった今でも、私のク
リニックには著書などを通して森田療法を求める方が来られます。それでも、森田療法を最初から前
面に押し出した導入は難しいです。
・北西先生;大切なのは、「過剰だ」と言ってあげることです。力が入り過ぎている、一生懸命やろう
として空回りしている・・・と。(略) しかし、ベテランさんたちは、行動モデル全盛の「まずは行
動だ!動け!」の時代に回復したので、成功した結果だけを伝えたがるんでしょう。(略) 最初に「行
動モデルが有効!」と言われても、それは困惑して終わりになってしまいますよ。
・市川理事長;おっしゃる通り、集談会は「学習運動」という形で展開してきたので、何かというと、
すぐ「森田」にあてはめ、教えようとするところがあります。
・田邊監事;正直、寄り添って歩むということは、あまりできていないかもしれません。
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行動モデル(=実践)が最重要はそのとおりなのですが、そればかりを強調し過ぎた考え方を最初から
取り上げていると、若者には困惑を与える場合が多く、そういった「現代の若者の時代感覚」を受け止
めることが大事とのお話です。
発見誌H28年9月号の山中先生の記事(P.21)に、「はじめから基準が高すぎないか。既にやりすぎでは
ないかと思う。『森田』とは、すなわち『実践』
。そう理解しているように思われる。はたして『実践』
=『森田』、そう簡単に結論づけてしまっていいのだろうか。ちょっと疑問に感ずる。
」
「『実践』という
概念にふりまわされて立往生している状態を<実践症候群>と呼んでいる」と述べておられます。
集談会に来られた方々が、森田の良さを学んで少しでも楽な気持ちになれるためには、ただ単純に、
「行動/実践」ばかりを前面に押し出さないようにするなど、皆でよく考えながら、話し合いながら、
やっていく必要がありますね。(K)
H28 年 12 月号(No.312)
●特別寄稿;
「初一念」および「純な心」について、岩田真理氏、発見誌 12 月号 P.34~44
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いくら行動して仕事ができるようになっても、まだまだ不全感に悩まされるというかたもいます。ず
っと劣等感にさいなまれたまま、必死に実践を続けていくけれど、何か苦しい。でも森田療法では「苦
しいまま、あるがまま」と言われる。これが森田の回復ということなのだろうか、というかたです。つ
まりこれは、自身の感情部分を抑圧し、「かくあるべし」を持ち続けたまま、ただただ実践した結果起
こることのように、私には思えたのです。感情は無視するべきものでも、抑えつけるべきものでもなく、
ただそこにあるもの。しかし、神経質症状を持つ方は、自身の感情に恐怖を持っています。自分の感情
が自分を破壊してしまうと思うほどの恐怖です。…略…
誰かが大切にしているお皿を落として割ってしまった。そのときのハッとした感覚、…中略…「何と
かできないだろうか」と皿をとりあげてみたりする。これが「純な心」です。自分の心はお皿のほうに
ある。ところがすぐに…中略…「どう後始末をしよう」「この不注意を誰かに見咎められるのではない
か」と第二念、三念が湧いてくる。そうすると心はお皿を割ったときの、「純な心」から遠く離れてい
ってしまうのです。森田正馬は、この最初の「純な心」「初一念」に気づこうと言っているのです。そ
してそこにとどまるということを言っています。なぜなら神経症の症状は、この「第二念」から起こっ
てくることが多いからです。…略…
自分の素直な心を打ち消す二念、三念が湧いてくるのはなぜでしょうか。それは、自分のなかに根強
い「こうでなくてはならない」
「こうであってはならない」という「かくあるべし」
(思想の矛盾)があ
るからです。…略…森田正馬が自身の治療で、神経質の人に体得してもらおうとしていたのは、ただ「行
動」できるようになるだけではなく、複雑な状況・環境のなかでも、その状況を観察し、自分の感じか
ら学び、判断し、臨機応変に行動できることだったのだと思います。…略…そのような自分の基盤にな
るのが「感情の自然」を受け入れる、つまり「純な心」に気づくことです。そして自分の感じを信じる
ことです。感情と行動は別物なのですから、感じただけで窮地に陥ることはあり得ない。自分の感情は
自分を壊さないと信じることです。…中略…感情にまかせておけば、理性でいちいち予防策を講じなく
ても、心は臨機応変に状況に対応してくれるのです。
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喜怒哀楽を表に出すのが苦手で、「ポーカーフェイス」とか「クール」などと言われてきましたが、
特に怒りの感情はほとんど出しません。それは「こんなことで怒ってはみっともない」というかくある
べしが強いからです。純な心を無視し、かくあるべしで動いているため、いつまでも苦しく、自分を信
用できません。かくあるべしを緩め、純な心を大事にしたいです。(M)
H28 年 11 月号(No.311)
●「世界一ありふれた答え」
,谷川直子 著,
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・「失敗することはいけないことですか?」 思いもかけない質問に、私は Y 先生の顔を見てしまう。
ああそうだ。たしかに私は多くの人に向かって失敗を恐れるなと言ってきた。失敗はいけないことで
はないと。それなのに自分のことになると、失敗は避けるべきものだった。なぜなら失敗するという
ことは人の期待を裏切ることだからだ。人の期待を裏切るなんてできない。私は期待に応えられる人
間でいたいし、じっさいにそうだった。
・承認欲求(他人からほめてもらえることを期待して行動すること)が強いと、ほめられなかったり批判
されたときに、すごく自分はダメだって思ってしまうんだって。
・同じだからこそ、人は違いにこだわるのだ。すべての人の共通点は生きていること。K も S も私も T
も生きているという点で同じなのだ。違いなどない。 ほんとに陳腐でありきたりのそのことになか
なか気づかなかったのは、個性的であれ、人とは違うことをしろと言われ続けて、それが重要なこと
なのだと思い込んでいたからだ。自分が取るに足りない存在であることを認めるのは、思いのほかむ
ずかしい。
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ウツ病で人生のどん底状態の二人(離婚して自分を見失った女とピアノを弾けなくなった男)が出会
い、完璧な、特別な人にならなくてはならないと目指す必要はないことを知って、自由になっていく様
子を描いた、一般書籍からの引用です。この本、読みだしたら、途中でやめられず、一気に読んでしま
いました。感動しました。
人とは違う立派な、特別な人間になることを目指している人は多いと思います。それだけを一途に考
え過ぎると、頭の中で完璧だけを追い求め、失敗を怖れ、他人の評価に依存してしまい、生きづらくな
ります。
苦しみぬいて到達した答えは、ありふれたことだったと主人公は言っています。
『みんな完璧じゃない。ね、みんな同じなのよ。特別じゃなくていいの。それを感じることができれ
ばあなたは自由になれる』
(K)
H28 年 10 月号(No.310)
●-理事会シリーズ-「不安神経症とこれからの私」,MN 氏,発見誌 10 月号,P.40~
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悩みを過去形で語れるようになりましたが、現在も後遺症の「めまい」や時々「緊張感」がでる時が
あります。しかし「これも私の特徴」だと受け入れられるようになりました。薬も量は減りましたが、
未だに毎日服用しています。これらについてよくよく考えてみると、格闘していた時期と現在との間に
症状と思える内容は本質的に大きな相違は無い事に気付きます。「症状」として嫌がっていた時は、こ
れらの状況になると緊張感が走ったり、呼吸が乱れたりしますので、薬を増やさざるを得ません。今の
様に「これも私の特徴の一つ、一生付き合う」と割り切っていると、一過性で済み、何ら支障は出ませ
ん。これが受け入れて治る、森田療法そのものの治り方だと実感しています。…(略)…
森田療法は症状を取ることでは無く、
「受け入れる」治療法であることは充分承知しました。頭では
分かりました。しかし、中々「治す」ことから心が移行しないのです。先輩達からも或いは医師からも
「受け入れましょう」と散々に言われました。それでも頭の隅に「症状を取り去る行程表」ができ上が
っていて、頑なにそれに向かって進もうとしていた部分があったように思います。これが「性格特徴」
にある執着性或いは完全慾というもののなせる技かも知れません。私はこのように素直に森田理論を受
け入れなかったために、症状を長引かせてしまいました。そして、ありとあらゆる治療法を試みました。
…(中略)…でも、このように「治そう」としている間は治りませんでした。これは治った今だから言
えることだと思います。
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自分のことを振り返ってみると、森田の劣等生ではあっても、ある程度まではよくなりました。しか
し、長く学習しているのに、そこから先には進めない状態がずいぶんと続いています。まだ「受け入れ
る」ことはできていません。やはり「治したい」という思いがどうしてもとれません。良い加減(こん
なものだ)ができず、
「もっともっとよくならなくちゃ」「完全に治っていない」と。これは、神経質の
欲張りと完全欲がマイナスに働いているからなのでしょう。以前、発見誌の新年号の川柳に「神経症 治
ってみれば ただの人」という句がありましたが、これが真実かもしれませんね。望み過ぎるのも考え
ものですね。
(M)
H28 年 9 月号(No.309)
●「現代の神経症と森田療法~現代を生き抜いていくために~」,比嘉千賀先生,東関東一日学習会(土浦)
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・森田療法によるこころの回復
その 5.《ねばならない》⇒《事実唯真》を知る
・《ねばならない》こと(とらわれ)
*(例)人前で話す時に堂々としていなければならない。とちったり、口ごもったり、赤面したりす
るのは恥かしい。
*《ねばならない》は一種の理想の旗。⇒学習や教育やしつけの中でもこの弊害が生じている。「こ
うあるべきだ」という理想。
・《事実唯真》人のこころの動きの真実を知る
*大勢の人の前で話す時には当然緊張し、ドギマギする。緊張して声が引きつることもある。失敗
することもある(これが事実)。⇒緊張し、顔は赤いまま《あるがまま》に、話すべきことをどうにか話
すことに努めると、いつの間にか気にならなくなる。
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比嘉先生は、さまざまな悩みや生きづらさは、精神的なとらわれや認識のしかたや、生き方の無理か
ら起因することが多く、そのとらわれの悪循環から脱して、心があるがままで自由な境地になり、生き
がいを感じ、「生の欲望」を発揮して自己実現に向かって生活できるようになることを、森田療法がめざ
すもの、としておられます。
教育やしつけの中で普通に言われている「こうあるべき」という理想を、『いつでもどこでも理想的で
あらねばならない』と思い違えて、無理矢理自分に課することで悪循環に陥っている状態を「とらわれ」
と言っています。その反対に、
『理想は理想、事実ではないこと。理想は千差万別』であり、一方、『事
実はひとつ』であることを知ることが大事と言っています。自分はそういう思い違いをしていたのかど
うかをよく考え、もしそうであったなら、まず、理想はさておき、事実を最優先にして、やるべきこと
をどうにか努めているうちに、いつの間にか気にならなくなっているのですね。(K)
H28 年 8 月号(No.308)
●-支部委員、学習委員による学習会シリーズ III-「『感情の法則』
」,発見誌 8 月号,P.46~
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人間らしさや幸福感には感情という要素が必須です。感情の法則は幸福になる可能性を持っていると
いってもいいのではないでしょうか。神経症の我々は不安などマイナスの感情を繰り返し養成してきま
した。こんどは感情の法則を応用し、逆にプラスの感情を育成すべきだと思います。プラスの感情を育
成して幸福感を増大しましょう。…略…
感情の法則第四「感情はその刺激が継続して起こるときと、注意をこれに集中するときに、ますます
強くなるものである」…略…
この法則をよく言い表した例として「鳥籠の賭け」という話があります。二人の青年が鳥を飼うか、
飼わないで賭けをしようということになりました。一人は「鳥なんかまったく興味ないから飼うことは
絶対にない。飼わないほうに賭ける」といいました。他の一人は「あなたは必ず鳥を飼うようになる、
それに賭ける」ということになりました。ただ一つだけ、玄関に鳥籠をつるすという条件が付いていま
した。もちろん鳥籠の中には鳥はいません。賭けは成立しスタートしました。鳥を飼わないほうに賭け
た青年は鳥籠を受け取り、玄関につけました。それから毎日家を出るとき鳥籠が目に入ります、帰宅し
た時、また目に入ります。そうして数週間経過して青年は賭けの相手にこう言いました。
「賭けは私の
負けだ。お金は払おう。鳥をどうしても飼いたくなった」何があったのでしょう。それは毎日、空の鳥
籠を見ているとだんだん鳥がいないのが不自然に思われてきたのです。この鳥籠に好きな鳥を飼ったら
いい、などと想像するようになりました。最後に鳥を飼うことを決意しました。相手にお金を払い嬉々
として鳥を飼ったのです。これは毎日毎日、空の鳥籠を見ることによって意識が刺激されて鳥を飼うと
いう行動につながったのです。
もし達成したい目標があれば応用可能です。毎日目標が目に見えるようにしておく、例えば紙に書いて
貼っておくなど感情を刺激することがその達成を助けるでしょう。
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「うまくいかない、○○を直さなければ」と日々修正することばかり考えていると、マイナスの感情
に支配され、だんだんと気力もなくなってきてウツ状態になってきます。先日テレビで、脳出血で半身
不随になった60代の男性がある方法で奇跡的に半身不随を克服したストーリーを見ました。病室で落ち
込んでいた男性に見舞いの友人が「手足はどこも悪くないのに」と言った言葉にハッとなり、独自に脳
のリハビリを始めたのです。まずは手の指に「動け!動け!」と毎日毎日強く念じ続けているうちに動
くようになり、最終的に動かなくなった半身が動くようになったのです。脳に別な新しい回路ができた
のです。新しい習慣を育成していくことも大事だと思います。神経質は充分に頑張っているのですから、
幸せになってもいいのです。(M)
H28 年 7 月号(No.307)
●-体験記-「『愛』に目覚める~対人恐怖~」
,S.N.氏,発見誌 7 月号,P.26
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昔の私は、他の人たちが楽しそうに話している会話の中に入っていけない自分、快活にふるまえない自
分を、「こんな自分ではだめだ」と否定していました。しかし、楽しそうに話すことよりも、快活にふ
るまうことよりも、もっと自分にとって大切なことがあった、ということに気付きました。そして、自
分が大切にしたいと思っているその本心のままに生きようと、考え方が変わりました。
何事にも真面目に誠実に、真摯に向き合おうとするこの自分のままで、自分ができることを周りの人
に真心を込めてしてあげるとき、話はできなくても人の話を一生懸命に聞いてあげるとき、そして、そ
のことによって周りの人が喜ぶ姿を見るときに本当の喜びを感じることができます。
「できない」自分を「できる」自分に変えようと無理な努力をするのではなく、できない自分
のままで、他の人のために自分が今できることを一生懸命にやって人が喜んでくれること。それ
が、私たちが本当に求めていたことではなかったでしょうか。
(略) 対人恐怖の苦しさは、「人に合わせよう」と頑張っている私たちに対して、「もっとあな
たらしく生きなさい」という神様からのメッセージだと思います。
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いつでも、どこでも、誰とでも、明朗・快活にふるまい、毎日、毎日が楽しく、充実したものでな
ければならない、という変な理想主義にとらわれ、そして、そのとらわれがあること自体にも、長い間、
気づけませんでした。楽しい会話に入っていけない自分、ちっとも快活にできない自分を、
「ダメだ、
ダメだ」と、否定することも多く、「できる自分」にすぐ変わろうと考えているばかりで、いつまで経
っても、「できない自分」のままでした。
自分にとってほんとうに大事なことは、何だろう。
「このままの自分」って、どんな自分なのだろう。
周りの人が喜んでくれる、今自分ができることは、何だろう。そんなことを少しずつ考えながら、日々
を過ごしていると、いつの間にか、「自分らしく」生きている、周りの人たちと心からの付合いができ
ている、それでいて、無理のない努力も自然にできている、そんなふうになれそうですね。(K)
H28 年 6 月号(No.306)
●-名文発掘プロジェクト-「森田療法の神髄(2)」,水谷啓二先生,発見誌 6 月号,P.12~17
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森田先生は、私どもの日常の人間関係においても非常に大事なポイントを教えておられます。人間関係
におきまして<ある人が虫が好かない><どうもあの人は嫌いだ>とか誰でも感ずることがあるわけ
です。そういう場合にですね“人を憎んではいけない”あるいは“人を愛さなければならない”という
ふうに考えがちなものなんです。とくに、神経質者にはその傾向があります。ところがそれは、やはり
理想主義のとらわれでありまして、こういう妬ましい、嫌いだ、とかいう感情は<そのままの心><そ
のままにある>よりほかにないんです。<そのまま>でいいんです。あいつ憎らしい奴だと・あいつう
らめしい奴だと・あいつ嫌な奴だと・その感情をけっして自分でなくしようとしたり、歪めようとした
り、良い心と入れ替えようとしたりしてはいけない。そのままでいいんだ・そのままであればいい・そ
れが人間のいつわらざる心の姿なんだ――と。(略)ですから人間の感情――これを自由にしておくん
です。理想主義とか修養主義、あるいは治療主義とかいった余計なものでしばらない。そうしていると、
いつとはなしに、相手に、
“すまない”
“気の毒だ”
“申しわけない”とか、というような感じが起こり
まして、ひとりでに相手の良いところが発見されるようになってくるものであります。ここに私、対人
恐怖が好転する秘訣があるんじゃないかと思います。すなわち<嫌いだ>という感じを背景にして人を
見ますと、悪いところばっかり見えてくるわけです。<嫌いだ>という感情を背景にして人を見てごら
んなさい。相手の良いところは一つも目につかなくて、欠点ばかりほじくるようなものの見方になって
まいります。だけども、そういう<嫌いだ>という感じが起こったときには、それはそれで仕方がない
から、もう自由奔放にしておきます。そして、きょうお互いにやらなくちゃならない仕事があるわけで
すから、それをちゃんとやってゆきます。その間に心は一転する……
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私は母親を反面教師にしています。自分の都合だけで人のことは考えない、がさつ、極度のひねくれ
者、人のアラ探しばかりする、
、、と、母親の悪いところはどんどん出てきますが(まあ、人のことはあ
まり言えませんが)良いところは考えても幾つかしか思い浮かびません。母親が嫌いですが「親孝行を
しなければならない」
「良い娘でいなければ」と思うと苦しくなります。確かに自分の心のままに嫌っ
ていると、何だか母親がかわいそうになってくることがあります。そんな時にする親孝行は、本物の親
孝行なのかもしれません。(M)
H28 年 5 月号(No.305)
●-名文発掘プロジェクト-「森田療法の神髄(1)」,水谷啓二先生,発見誌 5 月号,P.12~17
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森田療法をべつの名前で「自覚療法」と申すのであります。…(略)…今ここに、生きて呼吸して
いる、その自分の本心というものをごまかすことをしないで、そのままに正しく知り<あるがままにあ
る><そのままにある>ということであります。お互いに、恥ずかしいときは恥ずかしいですね。腹立
たしいときには腹立たしい。悲しいときに悲しい。うれしいときにはうれしい。こわいときにはこわい
……。それを良いとか悪いとかいわない。いったって始まらない。そういうふうに、折に触れて起こっ
てくるところの感情は、どうしようもないことです。ですから、仮にその感情などが顔色に出たり、あ
るいは現実にどもったり、実際にふるえたりいたしましても、仕方がない。それはそのときに起こった
現象なんだから、そのままにあるということなんであります。ところが、しいて猫を被って---私など
は大へん臆病者で、これ以上に臆病な人間はあまりいないと思うんですけれども---たとえば、これを
臆病でないかのようなふりをしたり、また私など訥弁中の訥弁でありますが、それを雄弁家のふりをし
たりするとかですね。そういう余計なことはもう止そう!あるがままに生きよう!そうしてやっている
と、ものごとは一ばんうまくゆくものなんだ、ということを体験的にわかる。頭でわかるんじゃないで
すよ。みずから体験的に、あるいは実行を通してわかることであります。
人びとの中には、自分を立派そうに見せかけたり、また修養に励んだりして、なにか偉い人間になろ
うというふうなムリな努力をなさる方もあるようです。しかしどうも、そういうことは私どもの柄に合
いません。もともとはなはだ臆病で、はなはだ平凡で、はなはだあたりまえで、しかもはなはだ欲が深
い。それがわれわれの持ち前だろうと思うんです。その持ち前のままで生かそうじゃないか、持ち前の
ままで生きようじゃないか、そのほかにありようがないではないか---ということです。ですから、自
分の、現在の心のうごきというものについて、あんまり是非善悪をいわないで、そのままに受け容れて
ゆくことが大切であります。
*******************************************************************************************
空想好きも手伝って、大そう立派な理想の自分がいます。その理想の自分が「これじゃダメだね、こ
んなんじゃ私にはなれないよ」と毎日現実の自分に語りかけます。日々自分に語るメッセージがその人
をつくる、と何かで読んだことがあります。毎日ダメ出しばかり受けているのですから、卑屈になって
自信を無くし、ますます理想の自分からは遠ざかる一方です。そもそも、理想の自分にはなれない、そ
れは不可能だと気づいているのに、なぜムダな努力を止められないのか、それは、気づいてはいても納
得はしていない(ひょっとして不可能を可能にできるかも)、現実の自分をなかなか受け入れられない
からなのかもしれません。でも、自分以外の何物にもなれないのだから今の自分を活かして生きる、こ
れが幸せへの一番の近道なのですね。(M)
H28 年 4 月号(No.304)
●-学習会シリーズ VII-「私の森田療法の人間観」
,下丸子懇談会/T 学習委員,発見誌 4 月号,P.74
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流れに乗って生きている実感が持てるようになるには、心の不安・葛藤、悩みは“そのまま”にして
おいて、心のコントロールをしないことです。ただあるがままにしていていいのです。(略)
まずは素直に“ありのままの自分”や“等身大の自分”をじっくり観察してみてください。“今
を生きる”とは、このありのままの自分でいるしかありません。
森田療法は、理想の自己像(非現実的・観念的で、我執が作りだした虚像)に近づくための“人間
成長理論”ではないと考えます。そうであれば、あくまでも今のままの自分(現実自己)で、葛藤を
繰返しながらも、一歩一歩前進するしかありません。「今ここ」を意識していきましょう。(略)
ところで、悩み・不安の中身は人によって微妙に違いますので、そのへんの差異分析は慎重を
期する必要があります。偏った考えに陥らないためにも、集談会への参加はぜひ続けてほしいと
思います。
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「あるがまま」は、森田療法を特徴付けることばのひとつとして有名ですが、「『あるがままになろ
うとしたら、あるがままではない』と言うんだから、難しいよね」と、ずっと昔、集談会の大先輩が言
っておられたことを、鮮明に覚えています。私も同感で、『ただあるがままにしていればいい。あるが
ままの自分でいるしかない(治そうと思ってはいけない)』と言われても、「何のこと?全然わからない」
状態が長い期間ありました。その経験から言えば、
「ありのままの、等身大の、自分をじっくり観察で
きるようになる」には、時間のかかる人が少なからずいるのも現実ではないかと思います。
『森田療法は、“かくあるべし”の虚像の理想の自己に近づくための“人間成長理論”ではない』も、
今なら、納得できますが、以前は、森田理論を学習して、行動を積み重ねなければ、理想の自分になれ
るはずもない、と思い込んでいました。そうではなく、葛藤を繰り返してしまいやすい現実の自分のま
まで、一歩一歩前進するしかなく、それが、「今、ここに生きる」ということなのですね。
そして、一人だけで色々と考えていると、人間の心理は微妙で、些細なことで偏った考え方に陥る可
能性が高いので、そうならないためにも、集談会に継続して参加することは大事なこと、という意見に
も共感を覚えました。(K)
H28 年 3 月号(No.303)
●名文発掘プロジェクト、「神経症の教えるもの(3)」長谷川洋三先生,発見誌 3 月号,P.2~9
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100%完全な睡眠、常にすっきりした頭の状態が、ともに現実にはあり得ない観念的な理想であるこ
とが、神経症になるときにはわかっていないのであります。そして、その「欠陥」あるいは「弱点」を、
社会生活を送るうえでの致命的な弱点のように思いこむのであります。高良先生は、こうした心のから
くりを、部分的弱点の絶対視と名づけて、つぎのように述べております。「完全な人間などあるはずが
ないのです。人間はそれぞれ身体的あるいは精神的な弱点とか、いろいろの心配事を持ち、不安を感じ
たりしているのです。普通人は、そのあるがままの弱点なり、気がかり事を認め、そのことを人間とし
てやむを得ないことと心得、それが自分の全体を左右するほど大きな障害になるとは思っていません。
自分は頭痛のしやすい、頭の重くなりやすいたちである、自分ははにかみやである、自分は数学が苦手
である、自分は気の小さい小心者である…(略)…などというようなことを認めても、それが自分の致
命的な弱点とは受けとらず、自分の努力によって、それぐらいの欠点はカバーできるくらいに心得てい
ます。ところがある種の人々は、以上のような事がらを、何か絶対的のもののように思いこんで、それ
らを自分の生活にとって致命的な障害のように取り扱うのであります。」
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●体験記「自分自身を理解していく喜び」、発見誌 3 月号、P.17~25
ある発見会の先輩に「あなたは幸せになっていい。あなたは幸せになるための努力をしなきゃだめだ」
と言われて、私は全世界から波のようなものが押し寄せてくるような衝撃を受けました。私は今まで、
他人に合わせ、他人から認められるように生きてきました。自分のため、自分の幸せのために生きてき
たことなんてなかったのです。
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自分のことを振り返ってみますと、常に弱点やできなかったことに目が向いています。できているこ
とは当たり前で特に関心はなく、無意識に弱点、できないこと探しをしています。発見誌、集談会で「完
璧はあり得ない」と何度も見聞きしているにもかかわらず、知らず知らずのうちに完璧を求めている自
分がいます。
「○○がある限り、人から認めてはもらえない」という思い込みも強いです。ちょっと注意
されただけで全人格を否定された気にもなります。人が笑顔ならばホッとし、それ以外ならビクビクで
す。これって、自分の人生の主人公は自分なのに、他人の言動に振り回されてばかり、まったく損な生
きかたです。人生もそうそう長くない歳なので、そろそろこういう生きかたを卒業したいものです。自
分も幸せにならなくっちゃ!(M)
H28 年 2 月号(No.302)
●理論ではない,巻頭言, U 支部委員,発見誌 2 月号,P.1
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森田先生は「私の療法は理論や理屈ではない」と言っています。理論から入る発見会方式では、往々
にして頭でっかちになりがちです。よく集談会で耳にする言葉は「私は森田はもう十分に勉強し、
理解した。でも実践できない」です。
これって、本当に「森田を理解した」ことになるでしょうか?水に入らずに水泳の理論だけ勉
強して「私は森田を理解した」と言える?そんな感じでしょうか(略)
「実践課題」として、例えば乗物恐怖の人が「短い距離でも乗物に乗ることを実践する」。こ
れって、森田療法?(略)
森田では「布団上げをする」等、一見症状とは関係のないことを実践するのです。症状を直接
テーマにしない。それがなぜ症状克服のきっかけになるのか?集談会で一緒に勉強していきまし
ょう!!(注:練習のためでなく、「必要があって乗物に乗る」。同じ行為でも、これなら森田療法で
す)。
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「理論学習と実践」を車の両輪に例え、理論学習をしっかりして、正しい認識を持って、如何なるマ
イナスの感情等が起ころうとも、とにかく自分が定めた実践課題を実行すること、これを継続するのが
森田療法のすべて、実践できないのは努力不足のせいと、長い間、思い込んでいました。森田療法は、
神経質症を治すための療法なのに、『治そうと思ってはいけない』のは何故なのか、全然わかりません
でした。でも、この理解・思い込みが、森田の言う「思想の矛盾」そのものであったと知った後、
「森
田療法は、理論や理屈ではない」の意味がようやく少しはわかってきた気がします。
頭でっかちになると、『森田理論=治すために、正しい理論を学んで行動しなければならない」と誤
解してしまい、実践課題が「思想の矛盾」となる本末転倒に陥る可能性も高いように思います。
「『布団上げをする』等の、
『症状』とは直接関係のないことを実践するのが森田療法、このことを
一緒に学習していく場が集談会である」との指摘に共感を覚えました。これが遠回りのように見えて、
実は、森田療法をほんとうに、幅広く、神経質に生まれたことで不当に悩んでいる(その事実を否定し
て悩みを増幅している)人たちに、より多く活用していただくために重要なことと思えます。(K)
H28 年 1 月号(No.301)
●欲望と不安、集談会メンバーによる学習会シリーズ IV、発見誌1月号、P.72~82
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ここで森田を今一度探ってみると、こんな表現があります、「森田が治すのは神経質症である。神経
質症とは、不安という本来人間が持つ当たり前の感情を異常な事だと錯覚し、それを排除しようと試み
るあまり、社会的な行動が後退し、日常的な活動が出来なくなっている状態や、症状を無くそうという
思いに拘泥し、心の中で常に症状の強弱を推し量りながら物事を選択する、という思想の矛盾に陥って
しまっている状態を指す。この状態を治すのだと。誰もが持ち得る不安という感情から生まれてくる症
状の除去などどうでも良い。」…(略)…森田はあくまでも、症状とは不安という自分では制御できな
い感情をいじくりまわした結果現れたものであり、病気ではない、病気ではないのだから、そもそも治
す必要がない、治さなければいけないのは、症状を病気だと思い、色々といじくりまわした結果、現実
に照らし合わせたとき、傍から見ておかしな行動を取っている状態だ。…(略)…そして、みなさんは
知っているはずです。あらゆる薬や治療法を試したが、症状が無くならないことを。…(略)…
再入会して痛感した事があります。そしてそれは森田を学ぶ全ての方にお伝えしたい。
森田が治すのは神経症を神経質にすることだけ。症を質に置き換えるだけ。それは症状に悩まないよ
うにするだけ。症状をなくすことではない。症状はあってもそれを除去することに悩まされなければ良
い。では、どうすれば悩まなくなるか?答えは一つ。
「不安とともに生き抜くという覚悟」だけをもつこと。「生きていく限り、常に不安である」という
現実から目を背けないこと。
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「何とか症状を無くしたい」と悪戦苦闘してきましたが、いつの頃からか「症状は無くならないんだ」
と気づき始めました。ひどくガッカリしましたが、
「症状はあっても振り回されなければ良い。症状を
持ちながらも何とかやっていければ、それで良いんだ。症状を問題にしない態度を身につけたい」と思
うようになりました。欲望が大きければ不安も大きい。どうでもよければ不安などおきません。「より
よく生きたい」をはじめ様々な欲望がある限り、不安からは逃れられません。そして、神経質は欲望も
大きく、とにかく過敏で傷つきやすいのです。このことをよく自覚して、粘り強くやっていきたいです
ね。(M)
H27 年 12 月号(No.300)
●感情の法則-集談会メンバーによる学習会シリーズ III-発見誌 12 月号、P.60~
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森田療法と「感情」
かつては私もそうでした。森田イコール行動という解釈をしていて、
あるがままになすべきをなすと、
念仏のように唱えながら対応したものです。ともかくやってみる。つらくてもムチを打ちながら
でもなすべきことをなしていく。こういう十分ではない理解であっても、社会生活が縮小し追い
詰められた状況を抜け出していくには効果を発揮していきます。(略)ところがこの「森田は、行動」
というとらえ方をすると、新たなかくあるべしを生み出し、いつか壁に突き当たることになるか
もしれません。行動することが大事ですとインプットすると、いつの間にか「行動しなければな
らない」と変換してしまうところが、神経症者のやっかいなところです。
(略)横一列で皆がいっしょではなく、いろいろな感じがあるほうが自然だと思います。とはいえ、
I さんにもいつか感情の扱いを無視できない段階がくると思います。
(略)つまり行動することは大事なことですが、なすべきをなすだけでは楽にならない人も大勢い
るし、森田療法を理解するうえで感情を抜きには考えられないということです。
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「感情の法則」を学ぶ前に、発見会活動の中で主流の「行動」だけを最優先し、もう一方の柱である「感
情」をおろそかにすると、新たな問題が生ずる事実を述べた、非常に根幹的な内容と思います。
「『森田=行動』の解釈は『行動しなければならない』という新たなかくあるべしを生み出し、壁に
突き当たる」は、まさに自分が通ってきた道そのもので、大いに賛同します。
森田理論の学習法を考える時、様々な場面に応じて、多様な対応を要する森田療法は、初めての人に
は難解なので、森田理論のうちの「行動」に特化して取り上げ、マニュアル化することを目指したのが「旧
要点」で、このマニュアル的な「行動森田」に沿って努力し、元気になった人が多数おられて、発見会の
初期には、問題なく受け入れられ、そして、今も主流であり続けています。しかし、時代と共に、
「行
動」だけでは楽にならない(あるいは逆に自分を責める材料にしてしまう)人も大勢いることもわかって
きて、「感情」を抜きにはできないと考える人も多くなって、「新要点」ができました。
現に悩める人達にとって、「行動」と「感情」のどちらか一方を優先すべきとかの二者択一論ではなく、
両者の重要性をしっかり把握し、森田をより効果的に活かすために、どのようにバランス良く伝えてい
くのが大事なのかを、皆の英知を集めて模索していく時期が、今なのではないでしょうか。(K)
H27 年 11 月号(No.299)
●自己中心からの解放-高良武久先生-名文発掘プロジェクト、発見誌 11 月号、P.2~16
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神経症のかたがたの自己中心は、人に迷惑をかけても自分の利益を図ろうというような、積極
的な利己主義とは、ちょっと違うのであります。同じ自己中心といっても神経質の場合にはもっ
と消極的で、自分を守るということに懸命になっておるような自己中心であります。まあ、結果
として家の人たちに迷惑をかけるということはありますけれども、反社会的になるということは、
あまりないのであります。自分を守ることだけに関心が深いものですからして、自分のことにば
かりにかまけておって、非常に狭いところに閉鎖されているような生活をしておりますから、非
社会的にはなるようです。…(中略)…
自分の心身の状態というものも、完全欲の強い神経質の人から見ると、いろいろな欠陥があると
思われます。もちろん客観的に見れば、そうたいしたことではないのですが、当人は非常に重大
な欠陥があるように思う。いつも自分の心身のコンディションを詮索して、どこか悪いところは
ないかというような、不安の目で自分を見ておる。自己の測定器みたいになっておるわけであり
ます。これが神経質な人の自己中心的な態度・あり方であります。
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人間誰しも保身はするものであろうと思いますが、神経質はそれが強すぎるのですね。ひたすら自分
を守ることに一生懸命で、反社会的ではないのに非社会的になってしまう。考えてみると、本当にもっ
たいない気がします。
病気で障害を持つようになりリハビリ中の患者と治療する医者のお話です。医者は「ずいぶん治ってき
た」と言うのですが、患者は「まだまだ治っていない」と言います。医者は悪くなった部分を見て「こ
れだけ治った」言うのですが、患者は悪くなる前の状態から見ると「まだまだ治っていない」となるの
です。どこに視点を置くかでまったく違ってくるのですね。視点を良いこと(良いところ)探しに向け
るか、悪いこと(悪いところ)探しに向けるかで大きく違ってきますね。「今日はこんな良いことがあ
った」「あれとこれができた」
「自分はけっこう頑張っているな」良いこと(良いところ)探し、一緒に
始めてみませんか?(M)
H27 年 10 月号(No.298)
したがって
●心は万境に随って転ず-神経質の性格の陶冶,高良武久先生,発見誌 10 月号、P.14~15-
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「心は万境に随って転ず」という昔の言葉があります。心は万境に随って転ず、外界の変化に随っ
て、自分が変化しなければ順応できない。(中略)
われわれの身辺には、さまざまの事件が起こっています。地震、雷、火事、その他、交通事故
もあるし、泥棒もいるだろうし、経済的不安もあるだろうし、人間関係の複雑な事情もある。さ
まざまの不安、苦痛というものがあって、われわれは自分が変化して、順応していかなければな
らない。自分の主義をもって、すべてを律してゆこうとしたならば、矛盾は、非常に激化します。
(中略)神経質の陶冶というものは、自分が「こうあるべきだ」ということでなくて、「こうである」
という現実に従って、自分が変化して順応していく。もちろん、自分の「こうでありたい」という理想
というものは、あってもさしつかえないが、誤った理想主義、いわゆる完全主義、あるいは、「こうあ
るべきだ」ということにいつもとらわれて「こうである」現実に順応できないという態度では、神経質
の陶冶はできないわけであります。
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この記事は、昭和48年(1973年)1月の新春懇話会での高良先生の講話です。42年前も今も、地震、雷、
火事、交通事故、泥棒、経済的不安、人間関係の複雑な事情など、いつの時代も不安や苦悩の種は尽き
ないのだな、というのが第一印象でした(以前は4番目にあった、
「親父」は消えてしまいましたが・・・)。
そして、神経質傾向の強い人は、「完全欲が非常に強い」、「こうであるべきだ」という考えにとらわれ
ている、というところにも、「そうそう、まさにそのとおり」と、大いに共感しました。
最近、思うのですが、自分の養育環境の中でずっと言われ続けてきたことや、自分が経験したことの
中で強く感じてきたこと等については、それらの内容に関して、誰でも「こうあるべきだ。これこそが
ベスト。(その裏返しで)他のことは採るに足らぬもの」という態度が身に付いてしまうのですね。特に
神経質の人は、自分の経験してきたことだけから、
「こうあるべきだ」と思い込む傾向がとても強く、
外界の変化に伴い、変化しなければ順応できない状況下でも、自分の過去の経験だけを最優先させ、い
つまでも「こうあるべきだ」を強調し続けて、「こうである」現実に目を向け、変化・順応していく必
要性を感じないでいるのは「教条主義」、問題の解決は遠のくばかりの「思想の矛盾」でもあると感じ
ました。このことは、問題を抱えている場合、個人だけでなく、組織にもあてはまるのではないかと感
じました。皆さまは、いかが思われるでしょうか。(K)
H27 年 9 月号(No.297)
●体験記「適応不安障害とうつのなかで子どもを育てて…」-I.E.さん-、発見誌 9 月号 P.24~32
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ひとつ大きな転機となったのは、「初一念ノート」でした。感じることを感じるままに感じてよいと
いう森田の教えから、いい感情も悪い感情もそのままに書き付けるというのが「初一念ノート」です。
母としてこうでなければならない。子どもにはこういうふうに接するべきだという、勝手に描いた理
想像に縛られて、がちがちだった自分の心に気づくようになった私は、本当は自分がどんなことを感じ
ているのかということを探し始めました。
今まではふと湧くさまざまな感情を、それが自分にとって忌まわしい感情だと反射的に見ないふりを
し、ふたをしていたようです。そういうぼんやりした感情に、言葉をはめてみるという作業は簡単では
ありませんでした。
しかし、言葉にすることで、存在感をもって私の前に現れてきました。最初のうちは自分でも驚くほ
ど、恐ろしいような感情が言葉になって出てきました。こうして本心をあらいざらい吐き出したあとは、
感情がさーっと流れ出し、こだわっていたことがつまらないことだと感じることを、何度も経験しまし
た。
そういう経験から、自分がいかに清く正しく生きようとしていたのかに気づかされました。そしてい
い感情だけでは生きていけない、私は生身の人間なのだから、いい感情も嫌な感情も等しく持ち合わせ
ていていいんだと、わかりました。それを勝手にいい悪いと振り分けることも、大事な私の感情だとわ
かりました。
それからの自分は少し悪い人間になったかもしれません。心のなかでなら平気で毒づくようになりま
した。しかし、何だかそれまでより人間らしくなった感じがしました。人の欠点が見えても、そういう
ことってあるよねと、人を許せるようになりました。心が前よりずっと自由になりました。
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自分のことを振り返ってみますと、自分にとって好ましくない感情は、長年のクセで条件反射的に排
除しようとしてしまいます。どんな時も清く正しく生きたいという思いが強すぎるのだと思います。か
なり窮屈です。良い感情だけ感じることは不可能ですし、嫌な感情もフタをしたり排除しようとしない
で、両方とも等しくしっかり感じてあげれば自然と流れていくのですね。この体験を積み重ねることが
大事なんですね。(M)
H27 年 8 月号(No.296)
●治らずに治った / 治すことを忘れる-現代に生きる森田のことば II******************************************************************************************
不眠でも、赤面恐怖でも、なんでもこれを治そうと思う間は、どうしても治らぬ。治すことを断
念し、治すことを忘れたら治る。これを私は「思想の矛盾」として説明してあることはみなさん
のご承知のとおりです。-森田のことば II、P.102 (第五巻、P.318 上段)-
それは「神経質(症)は治すことをやめたら治る」ということばにとらわれたもので、しかも自分
で、それにとらわれているということに気のつかぬものです。神経質(者)が、不眠なり強迫観念な
りを治したい、苦しいことが楽になりたい、それは当然のことである。しかし、一度これは病気
でないから、治すべきはずのものではないということを知れば、これを度外視して普通の人のよ
うに働く。そのうちに、仕事に心を奪われて、治そうとすることを忘れる。そうして治るのであ
る。
この関係に対して、荒巻君は、まず初めに、「治そうとする気を捨てねばならぬ」ということ
ばにとらわれて、我々の「苦痛を楽にしたい」という当然の人情に反抗して、自然の心を失うか
ら、既に初めのうちから、治療日数が長くなる。-森田のことば II、P.103 (第五巻、P.185)-
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コペルニクス的発想であり、森田療法の真髄と言えるのが、上の「不眠や赤面恐怖は、病気でないの
だから、治そうとしたら逆に治らぬ。治そうという気持ちは脇に置いて、普通に働いているうちに、治
そうとすることを忘れて、そうして治る」ということを説明している部分です。
「治そう」とし過ぎた悪循環の結果、逆に強固になってしまった"症状"を抱えている時に、「治す必
要はない、治そうとしたら逆効果」と言われても、
「こんなに苦しくて、一杯支障があるのに治そうと
してはいけない、なんて意味不明。本人が治そうと努力しないで治るわけがない。森田療法は治すため
の療法だろう。」という理屈が先に立つばかりで、真の意味に思い至ることができませんでした。
改めて考えてみると、"症状"が少しでもある間は、普通に働くことはできず、最優先で"症状"を完全
になくすことにしか目を向けられず、そうなった状態を「治る」と思い込んでいたための気がします。
森田のことばの「治そう」は「"症状"だけを完全に取り去ろう」で、自分が"症状"と考えていること
は、実は、元々、人間が生きていく上で必要な自然に湧きあがる不安感や恐怖感なのだから、それだけ
を排除しようとしても不可能だよ、ただ共存していくだけでいい、と教えているのですね。(K)
H27 年 7 月号(No.295)
●名文発掘プロジェクト「不安を生かす」-長谷川洋三先生-発見誌 7 月号、P.2~9
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欲望と不安とは形と影で一つなんです。ところが私たちはこの不安はあってはならないとし、不愉快
だからと邪魔者扱いし、影を取り除こうとするわけです。辻先生の言葉を借りれば「不可能を可能にし
よう」ということで、「生の欲望」が強ければ強いほど、この不安が強いわけです。……(略)……
不安を通じて、自分が本当は何を望んでいるかということを自覚することが大事ですよね。自分が何
を望んでいるかということがわかれば、今度はその方向への努力はどうしたらいいのかということが、
おのずとわかってきます。……(中略)……
新しい職に就いたならば、そこの新しい仕事を早くマスターして、あるいはそこで働いている人たち
の気心をよく知って、調和をとってやっていくしかありません。しかし、気心が知れるのには、ある一
定の期間が必要です。ところが神経質な人は欲望が強いので、一刻も早く気軽にじょうだんを言ったり、
おしゃべりをしたりする仲になりたいと思うのです。しかし、それは不可能なことなのです。気心が知
れるまではできないんです。だからそこで用心をしながら、失礼なことのないように、不作法なことを
しないように、気を付けて人と接触していくことです。同じ職場で働くわけですから、一年たち、二年
たちますと自然に気心が知れてくる。こちらが真面目に努力をしていけば、必ずそこで私たちは信頼さ
れます。信頼感が生まれると、すでに人間関係はよくなってきているわけで、信頼のないところにいい
人間関係はありえないですね。信頼がつちかわれるまで時間がかかるし、時間をかけなくてはいけませ
ん。
一緒に仕事をしている人たちが、休み時間になると楽しそうに雑談を交わしているけれど、私はそこ
に入っていけないという人がいます。入っていけないのは、最初は当然なのです。
そういうふうに問題がはっきりしてきますと、いたずらに焦ったり、劣等感に陥るということもなく
なります。
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神経質の欲張りで、何事もすぐ結果が欲しくて、時間をかけることや待つことが苦手です。人間関係
もしかり、知り合ってすぐに親しくなれないと「この人とは合わない」などと思ってしまいます。しか
も早く仲良くなりたくて、やりくりなどしてしまい、逆効果になるばかりか自分を苦しめてしまうこと
もあります。以前のことですが、気に入られたくて毎日お菓子を配っていたら、私は単に「お菓子をく
れる人」になってしまい、金銭的にも毎日違うお菓子を持っていくのが大変で苦痛になってしまったこ
ともありました。本当に待つことが苦手なのです。
「良い人間関係を築くのには時間がかかる、時間を
かけなくてはならない」ということを、今一度心に刻みたいと思います。(M)
H27 年 6 月号(No.294)
●学習会シリーズ I 「神経症の成り立ち」-W さん-発見誌 6 月号、P.36~
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私には、いろいろな場面で、その時々の理想像というものがあって、自分をそれにあてはめようとも
がいていました。つまりは、「何々であるべきだ」という理想(思想)に対して、実際にはそうはなれな
い自分に悩んでいた(思想の矛盾)のです。(中略)
「W 君てさぁ、こっちから話さないと何もしゃべらないんだね」、(略)「もうだめだ、彼に完全に見
透かされた。もう僕のことは嫌いになったろう、もう話してくれないだろう」
(中略)何かボロが出てしまい、自分の理想像がもろくも崩れてしまった瞬間、焦りと惨めさで、頭の
中はパニック状態になり、もうだめだ、と思い込んでしまいました(実際には相手は大してどうとも思
っていないことがほとんどだと思いますが)。
こうなると、もうその失敗のことが頭から離れず、そのことでその人から軽蔑されてしまったのでは
ないか、と思い込み、その人とは再び会いたくない気持ちになって、その人を避けたりしているうちに、
ますますその失敗のことが頭から離れなくなり(精神交互作用)、ああ自分はダメな人間だ、と落ち込ん
だものでした。
恥かしい、いたたまれない、緊張感、あせり、不安といった感情・感覚は、誰にとっても嫌なもの。
嫌だなぁ、で止めておけばよいのですが、もう何とか排斥しよう、これさえなければ、とその嫌な感
情を悪玉にあげて、闘ってしまった。(略)
同じような経験をしても、精神交互作用のワナに陥り神経質症の深みにはまっていくか、もしくは苦
手は苦手だけれどただそれだけのことで、それ以上にふくらまないかの分かれ道は、これらのことを、
人間の心理として当然のことと受け止めるか、もしくは、あってはならない異常なこと、と思い込んで
しまうかの違いなのだろうと思います。
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いろんな場面における自分なりの理想像があって、それにむりやり自分をあてはめようとし、相手か
ら何かしてもらうのを待ち、その消極さを指摘されると自分はもうだめだ、と思い込んでしまうことな
ど、我がことのようです。そしてイヤだなぁという感情を悪者にして、これさえなければ、自分の理想
を達成できるという、大きな誤解をしていたことも一緒です。嫌な感情も人間の心理として当然のこと
であり、相手は大したことだとは思っていないという事実を知ることが大事ですね。(K)
H27 年 5 月号(No.293)
●再録シリーズ-「あるがまま」について、長谷川洋三先生 発見誌 5 月号 P.50~59
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「あるがまま」の態度とは、一口でいえば、不安や恐怖、その神経質の症状は、そのあるがままに受
け入れて、なすべきことをなしてゆくという態度である。…(略)…神経質のいろいろな症状は、もと
もと、不安や恐怖と同様に、健康な人ならばだれにもある心理的、生理的な現象であって、本来治すべ
きものでもなく、また治し得るものでもないのである。健康な心身における自然現象であって、私たち
の意のままになるものではないのである。その、あるがままにあるよりほかないのであり、むしろ不安
や恐怖に学んで用心し、対策を練ってビクビクしながらそろそろと進むといったぐあいに、素直にその
事実に従うのが、自然の法則にかなった態度である。森田先生は、これを、「自然に服従」という言葉
で教えている。また、森田先生は、「感情の法則」の第一で「感情はそのまま放任すれば自然に消失す
る」と指摘しているが、この「放任」とあるがままに受けいれるとうことは、同じ態度なのである。…
(略)…まず、
「症状」を、感情や気分を、そのまま「受けいれよう」あるいは「放任しよう」とつと
めることである。しかし、受容し、放任しようと努力すれば努力するほど、受容もできなければ放任も
できない。「症状」が強くなって、苦悩は深まるばかりである。ますます、なすべきをなすという実行
にふみきれない。…(略)…受けいれようとする努力、放任しようとするはからいが、自然に反した態
度であり、「あるがまま」からほど遠いものであること、かえって症状を強化するだけのものであるこ
とは、はっきりした。ではどうすれば「あるがまま」になれるのか。
それは、なすべきをなすことである。実行である。…(略)…「あるがまま」の実現は、なによりも
まず「なすべきをなす」にあるのであり、この実行によって、「症状」に抵抗しないで受けいれる態度
が、自然に生まれるのである。…(略)…「あるがまま」は、なすべきをなす実践が主導し、あるがま
まに受けいれる態度が自然に随伴するものといってよい。感情は私たちの意のままにならないが、行動
は意志で左右できる。私たちの努力を、このなすべきをなす実践に振り向ければよいのである。しかし、
この実践も、ただがむしゃらに行動すればよいというものではない。不安に学び、事実に即して、用心
しながら、実行することである。このとき、防衛機能としての不安もよく活かされるのである。
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何となく漠然としていた「あるがまま」がよくわかりました。これまでは、受け入れることを主体と
考えていましたが、逆だったんですね。「実践が主導、受け入れる態度が随伴」さっそく、軌道修正で
す。(M)
H27 年 4 月号(No.292)
●「私はいったい、何を恐れていたのだろう」-C. カレンさん-発見誌 4 月号、P.33~
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「基準型学習会」に参加し、(略)「よい評価だけを受けたい・みんなに認められたい」という強い欲
求を心の底に持っていることがわかりました。
私が恐れていたこと、一番怖かったことは「他人の目ではなく、自分への評価が下がること」だとい
うことに気付きました。自分への評価が気になるがゆえに、(中略)些細なことでもマイナスにとらえる
と、体や声はガタガタ震え、「失敗した」という思いにとらわれてしまい、さらにこのせいで相手に不
快を感じさせた私は「なんてダメな人間だ」と自分を責め続ける悪循環を繰り返していました。
「気になっても手の届かないことにとらわれているより、それを手放してあきらめる。もっと大切な
のは、できたこと、頑張ったこと等に目を向け、自分をほめて受け入れること」を意識するよう心がけ
ました。
また、私はこれまで自分という人間を大切にしてこなかったので、自分の欲求に鈍くなっていました。
判断するものさしの中心が他人の思惑や評価になっていたのを自分に取り戻すため、「自分はどうした
いのか、どう感じているのか」という気持ちをキャッチし、自分を優先して中心に持ってくる経験を積
む努力もしました。
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筆者は、入会してたった2年ですが、基準型学習会に参加して、心の底にある、自分への周囲の高評
価への強い欲求と、それに基く「常に高い評価を受け続けなければ、自分の存在価値はない」と思い込
み、些細なことでも、「失敗した。相手を不快にした。ダメ人間だ」と自己否定を繰り返していたこと、
正当な自己評価ができず他人の評価に一喜一憂していたこと、等に気付けたそうです。この自覚が、短
期間でできるかどうかは個人差が大きいと思いますが、とにかく素晴らしいことですね。
この自分自身に対する、正当な・客観的な気付きを得られれば、しめたもの、その後は、
「まったく
失敗のない完璧人間」にとらわれていただけの生き方から、「頑張った自分を褒めること」や「自分の
気持ち・欲求、感じをしっかり捕まえること」、「(よい意味の)自分中心の経験を積むこと」などを心が
け、「あるがままの自然な自分の姿を見せてしまう方が、かえって受け入れてもらえる」と実感してい
るそうです。発見会の森田学習を支援する制度(基準型学習会)をフル活用して、短期間に、森田の真髄
を自分のものにした模範ケースではないか、と思いました。改めて、すばらしいことです。(K)
H27 年 3 月号(No.291)
●「人生の転機や危機…その時、我々はどう乗り越えるか?」、岩木久満子医師、発見誌 3 月号 P.2~
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森田療法の「感情の法則」のなかで私が特に大事だと思うのはここにあげた二つです。一つは「受け
入れられない感情やなくしたい感情は長く心にとどまる」です。二つ目は、「どのような感情であって
も、放置すればいずれ流れて消える」というものです。たとえば、
「うれしい」とか「楽しい」という
気持ちは、受け入れられない感情ではないからしっかり感じることができるので、あまり長く心にとど
まらないですよね。一方、「怒り」とか「悲しみ」という気持ち、
「不安」もそうですけれども、これら
はどちらかと言えばやっぱり受け入れがたいので、どうしても長引いてしまって苦しくなります。この
「いかに感情や思考を放っておくか」がとても大事なところであろうと思います。…(略)…自分の感
情や思考をそのままみつめ、それは自分という人間だから起こる当たり前のものだとして、むしろなく
さないようにする、ということを繰り返していくと、たとえば「つくづく自分という人間はケチ臭い人
間なんだな。ああ、恥ずかしい」などと、自分自身や現実を深く見つめるようになります。…(略)…
まず大事なことですが、「健康な気分の状態」とは、いつも良い気分でいることではない、ということ
です。たとえば不安になること自体が不健康というわけではない、ということですね。健康な状態とは、
「喜怒哀楽の感情が次々起こっては消える状態」を指します。…(略)…そこで早く感情の滞りを流し
てラクになるミソ、コツのようなものとして、「感情をいかに放置するか」についてお話ししたいと思
います。…(略)…一番やりやすいのは、「目的本位」という言葉に代表されるように、何か現実に必
要な行動ややりたいことをするというやり方です。けれども、ぐるぐる考え込んでしまってそんな余裕
がない、というかたもおられるので、そういうかたにはとりあえず「突き詰めない」ことを勧めます。
突き詰めないで、途中まで考えて疲れたらストップさせるということも放置に対する方法の一つになる
と思います。あとは浮かんだまま、そのままにしておく、「浮かばせておく」というやり方もあります。
…(略)…また、過度の反省心から感じている“ダメな自分”の姿を避けずに徹底的に味わうとか感じ
るなどということを徹底的に実践するのも、放置と同じことであろうと思います。
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自分にとって不快な感情があると、長年のクセで条件反射的に取り除こうとやりくりしてしまいま
す。そうすることで、よけい苦しくなり長引くことがわかっていても、です。まずは「突き詰めない」
を始めてみようと思います。そして「健康な気分の状態」とは、いつも良い気分でいることではない、
不安になること自体が不健康ではない、
「喜怒哀楽の感情が次々と起こっては消える状態」だというこ
とを、よく覚えておきたいですね。(M)
H27 年 2 月号(No.290)
●「自覚」-「現代に生きる森田のことば II」、P.189、「第五巻」P.601)より
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親鸞聖人は「自分は悪人、罪人である」と決めた。ソクラテスは「自分は何も知らない。ただ、
何も知らないことを知っている」と言った。その自覚・自認だけでよい。
ちょっと思い違えて「だから善人にならなくてはならない」「知者にならなければ・・・」と
いうことになると、脱線して迷路に陥ることになる。ここが「思想の矛盾」を理解しない人には、
ちょっと難しいところである。
その考え方は、事や物にあたって、絶えずあれも知りたい、これもやりたいという向上一路の
心の働きはなくなって、他人から、知者・善人と思われたい、先生の前で、悠然と見せかけたい
というふうに、いたずらにごまかしと照れ隠しに終始するようになるからである。
この「正しく自覚・認識さえすれば、そのままでよい」ということは、体験しなければ、単な
る理屈では、決してわからない。ここの治療法で、素直に規定どおりに実行しさえすれば、成績
の良い人は、40 日以内で、体験できることで、容易といえば、はなはだ容易なことである。
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ここで重要なことは、自覚することと、その自覚・自認だけでよい、という二点ですね。
この二点とも、それらが自分に欠けていた、気づけなかったことを知り、自分のものにできる
ようになるには、人それぞれではあっても、長い年月を要することが多いのではないでしょうか。
「自分は、悪人・罪人である」とか、「自分は何も知らない人」だという「自覚」を得るために、
いろんな本を読んだり、人の話を聞いたり、行動・体験しても、自分にピタッと合うものに巡り
合って、「そうだったのか」と思えるまでには、時間がかかる場合が多いようです。
「幸せになるためには、適切な目的を持つこと」、逆に「不幸になる目的は、誰にも好かれよう
とすること」(加藤諦三)だそうです。好かれようとすると、「傷ついた自分の神経症的自尊心をど
う癒すか、からの出発のため、現実の自分を無視することが始まり、実際の自分では傷ついた神
経症的自尊心を癒せず、実際の自分を許せなくなり、人を愛したり、適切な目的を持つよりも『こ
の人が自分をどう思うか』に関心がいってしまう」との説は、私にはピタッときました。そして、
自分自身を嫌っていることを抑圧していたことが、「自覚・自認」ができなかった大きな原因と思
えてきました。この次は、森田の活用として、「だからどうこうでなければならぬ」を捨てる体験
を積んでいきたいですね。(K)
H27 年 1 月号(No.289)
●学習部会員による学習会シリーズⅦ、
「森田療法の人間観」
、発見誌1月号 P.44~52
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森田先生は、神経症を治すために、私たちに自然に服従することを求めています。…(略)…不安に
なるのは、周囲の状況や自分の状態によって、自然にそうなるのですから、不安のままでいることが自
然に服従することです。そして、自然に服従しているなかで、できることがあるなら、それをしていく
ことで、不安がなくなることはあるかもしれません。それに対して、不安はあってはいけないものだと
考え、何とか不安をなくそうともがくことは、自然に逆らうことになり、ますます不安を大きなものに
してしまいます。…(略)…森田先生は、自然は人間の力の及ばないもので、人間は、その自然の一部
であるという事実を認めて、その事実を受け入れていたのだと思います。そのような、人間の力ではど
うしようもないものには、服従することが最も賢明な道だと、森田先生は私たちに示してくれたのです。
さらに、自然に服従した生き方をした時、私たちは、不安はあってもいい、恐れはあってもいいと、あ
るがままの自然を受け入れますので、自然に反抗して苦しむことがありません。そのような葛藤から自
由になると、自分のなかにある欲望にも気づきやすくなります。
●「症状森田」から「生涯森田」へ、<森田を学び直して>、発見誌1月号 P.68~75
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いくら森田的な生き方を学んでも、自分の知能指数が上がるわけではないだろう?もって生まれた素
質以上の人間にはなれっこないじゃないか?ということです。…(略)…つまり、私は治りが悪いので
はないのだ。私一個人を見た場合、できの悪いこの姿こそが治った姿なのだ、実は治っていながら、そ
の姿に満足できていないだけなのだということをふと思ったのです。表現をかえれば、いわば軽自動車
は軽自動車の性能で完成しているわけです。ところが、軽自動車なのに普通車の性能でなければならな
いというのが私の悩みだったのではないのかというとらえ方です。
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上の二つの文章で大きなヒントをもらいました。なるほど、人間も自然の一部と考えると、これはい
くら頑固な自分でも太刀打ちできません。そして、今の自分が気に入らなくて、それを症状のせいにし
ていた部分も大いにあるなーと思いました。(M)
H26 年 12 月号(No.288)
●「まえがき」-『流れと動きの森田療法』(岩田 真理著,白揚社,2012 年 4 月) p.16, 17
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実践行動主体で自己変革を図っていこうとすると、結果として、現実的な成功に重点がおかれること
になります。現実社会のなかでは、どんなに努力して成功しても上には上がいるのです。人と比べて、
人の評価で生きていれば、いつまでたっても自分が「よくやった」と思えなくて当然です。
しかし「純な心」で、どんな感情も価値判断することなく受け入れられるようになると、日々の小さ
な達成感や喜びも実感できるようになり、それが結果的に自分自身に安住できる道となるのです。
(略) 森田正馬の著作のなかには、ほんとうに多くの概念、多くの方法がちりばめられています。そ
れは脱言語であると同時に、脱論理であるという側面を持ち合わせています。そのような概念、方法を
語り、伝えていくとき、時としてその伝える人の価値観のようなものが、混入していくことがあります。
もともと「かくあるべし」が強く、そのことがもとで神経質症になった人だとすると、「そのかくある
べし」が抜けきらぬまま、それが森田療法だと後輩に解説してしまうこともあるような気がするのです。
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著者は、「森田療法(理論)を学習するとき、人の心は一定のコースに沿って変化していくわけではな
く、その人の世界と響きあったときには、どの時点でも、大きな変化をもたらす可能性がある。入院療
法の「絶対臥褥」で変化し、感銘を受けた人は、それこそが森田の核心と思い、作業で変化した人は、
行動実践こそが森田だと言う。集談会で「自分だけでなかった」と安堵した人は、その共感が変化のき
っかけになる。「純な心」で森田を理解できたと思う人もいる。このように、それぞれの人の森田療法が
あっていい」とも言っています。
私の場合、実践課題を立ててそれを達成する努力をすればするほど、自己評価が低下していきました。
「森田=行動実践」との一面的な思い込みから、行動を阻害する感情を目の敵にして抑圧し、すぐに満点
の行動や結果を得られないことを理由に、自分を責めていたのです。また、他人(後輩)にも同様でした。
各人各様の「これこそが自分にとっての森田の核心だ」があって当然だ、と思えてきました(K)
H26 年 11 月号(No.287)
●学習部会員による学習会シリーズ V「行動の原則」 -SK 氏、発見誌 11 月号、 p.30
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(6)100%完全な行動はあり得ない
私たちは、完全を求めます。そのために随分と悩ませられる局面に出会います。結果は誰にもわかり
ませんから、やれるだけやってみるとの態度で臨むことが、大事なことと思います。
以前、読んだ長谷川洋三先生の『森田式精神健康法』に、これに関する次のような文章があります。
『失敗しても、くよくよと後悔しない。自分なりにベストを尽くしたという自覚があるからである。む
しろ、失敗の事実のなかから、どこがまずかったのか、どこに誤りがあったのかを虚心に検討して、教
訓を引き出すことができる。
失敗して、くよくよ後悔するのは、失敗などあるべきでないとする完全主義的な思い上がりがあるか
らである。完全とか不完全とかは観念の産物であって、事実とは無縁である。事実は事実そのままであ
り、私たちが勝手に観念的な尺度ではかっているだけである。「完全な人間」もいなければ「完全な行
動」もないのである。自分はいまある自分でしかない。自分なりにベストを尽くす以外にない。
どんなに緻密、周到な計画をたてて用心深く行動したからといって、必ず成功するとは限らない。む
しろ計画通りにゆかないこと、失敗することがあって当たりまえである。
「人事を尽くして天命を待つ」
のみである。そこにおのずから、捨身の態度が生まれる。』
私も失敗すると、くよくよして落ち込み、思い悩みます。長谷川先生の言われるような「完璧主義的」
思い上がりが強いのだと思います。60 点主義を念頭に「迷ったら前に」と心に決め、進めていければ
よいと思います。
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誰かが失敗すると「またひとつ勉強になったね。次回で挽回だね。」などと言っていますが、自分の
ことはこれには当てはまりません。「失敗した」ということにうろたえ、失敗した自分をいつまでも責
め、失敗から教訓を引き出す方面への考えはごくわずか。人は失敗してもいいと思いつつ、自分だけは
失敗などあり得ない・してはならないという思考は、ほんとに思い上がりですね。「完全」は観念の産
物、どこまでいっても(どこまでやっても)キリがないですね。「完全」はない、あるのは自分なりに
ベストを尽くすこと!
考えてみれば、恥をかく場や泥水を被るような場を極力避けてきました。とにかくそういう状況にま
ったく慣れていないのです。誰でも恥をかくのはイヤなものですが、恥をかいてみれば、案外たいした
ことはないのかもしれません。わざわざ進んで恥をかくことはないですが、もしそういう場になったら、
今度は避けたり逃げたりしないで流れに乗ってみようと思います。別の景色が見えてくるかもしれませ
ん。(M)
H26 年 10 月号(No.286)
●特別寄稿「心の事実を自覚すること」-A I 氏、発見誌 10 月号、 p.43~
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私を苦しめていた思想の矛盾・かくあるべしの解決方法は、ただ自分の心を自覚する、そしてそれを
取り除こう・矯正しようとするのではなく、心の自然にお任せする、ということでした。(中略)
日々の生活のなかで、心の揺れ動く場面が多々あります。そのたびに、その感情に気づき・味わい、
そのような心の揺れの後ろにどんな「かくあるべし」があるのかを探り、自覚していく。その結果、ひ
とつひとつの「かくあるべし」から自由になっていく、また少し「自然な自分」に戻っていく、死ぬま
でその繰返し。それがこれからの、私にとっての森田学習だと思っています。
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「本態と療法」に、「もっとも大切なのは、患者の病的心理に通ずることと、その診断が確実でな
ければならないことである。
「ただ恐怖せよ」という一言で、どれもこれも一律にやるわけにはいかな
い」(新版 p.278)、森田の活用は、各人各様にそれぞれ臨機応変である必要性が説かれています。
筆者は、「自分にとっての森田学習とは?」を探求し続け、ついに「もう何かを目指そうとせずとも、
それこそ ありのままでいいと感じられ、心底ホッとできた」そうです、すばらしいですねぇ。
最初は「不安のまま、目的本位に実践」を心がけ、一時的「絶好調」を得られましたが、自分への叱咤
激励が過ぎて、へばってしまいました。その反省から、自分の気に入らない感情の抑圧に気づき、嫌な
感情もそのまま素直に感じるようにしたことで、少しは楽になれました。しかし、「かくあるべし」の
とらわれの解放には至りません。次に認知行動療法に活路を求めますが、「理屈では解決できないほど
根深いもの」と思い知らされたそうです。そこで諦めることなく、森田を読み返して、「自覚の深さ」
の記述を参考に、上の引用のように、自分の嫌な感情から逃れる努力をやめ、そのまま受け止め、嫌な
気持ちの原因となる事実を確認することを重ねて、ついに自然に任せる境地に達しました。その経緯を
順序だって、詳細に、とても平易に示されており、非常に参考になる内容と思いました。(K)
H26 年 9 月号(No.285)
●学習部会員による学習会シリーズⅢ「感情の法則」、発見誌 9 月号、P.20~30
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感情は、そのままに放任し、またはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、
ひと昇りひと降りして、ついに消失するものである。
この法則は、感情は起こるままに放っておけば、強くなったり弱くなったりしながら自然になくなっ
てしまうものだということですね。すなわち湧き出た感情は自然現象で、自分の力ではどうにもならな
いので放って置くということが鍵になると思います。ただ、神経質症に陥っている人にとって気をつけ
なければならないことは、せっかくの法則をことばのみにとらわれないようにしなければ、ということ
です。…(略)…
症状が出そうな状況だと当然、不安や恐怖の感情が襲ってきますが、この苦痛の感情を取り除こうと
いうのが本音ですから、この法則の「放任」ということばにとらわれ、放任することによって苦痛を取
り除こうと他のことに目を逸らしながら、苦痛がなくなったかどうかと自分の内面ばかり見つめている
という本末転倒の行為をしておりました。…(略)…
放任するというのは、頭の中でのやり繰りではなく物理的に放って置くことであって、症状や苦痛の
感情はそのままにすることですが、神経質症の人にとって最も適切なのは目の前の必要な事柄に着手
し、目的が達成するように努力するという以外に感情を放任することはできないと思います。
感情は同一の感覚に慣れるに従って、にぶくなり不感となるものである。
症状が出ても我慢していやいやながらでも必要なことをやっていれば、その症状の感覚は次第に鈍く
なり、耐え難かった症状も、やがて耐えることができる程度のものに変わってくるものだと思います。
…(略)…
従って症状の感覚に耐えて慣れるということも、森田では大切になってくると思いますが、症状を軽く
するために耐えるのではなく、どうにもならないことなので耐えるしかない、というのが本筋であるこ
とはいうまでもありません。
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感情は自然現象、コントロールはできない・症状を忘れるための気晴らしの行動はしない・症状を治
すためだけの行動はしない・本当に必要な行動をする。これをしっかり覚えておきましょう。(M)
H26 年 8 月号(No.284)
●-新版 「神経質の本態と療法」-第二編 神経質の療法 第一 緒言
p.89
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病気の治療は、診断によってはじめて定まるものである。病気の本態、症状の病理を明らかにするこ
とができないで治療を施したのでは、測り知れないほどの重い罪を犯すことになるのは、いうまでもな
い。神経質の診断には、まず一般の器質的疾患を除外し、種々の精神病および他の変質性素質から起こ
るものと鑑別し、かつ他の症状との合併関係を探り、(中略)
したがって療法は、その病気の本性および状態に応じ常に臨機応変であって、模型に拘泥するようで
あってはならない。あるいは、対症療法にかかずらわって、いわゆる角を矯めて牛を殺すようなことは
戒めなければならない。
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「角を矯めて牛を殺す」は、曲がった牛の角をまっすぐにする(=矯める)ために叩いたり引っぱった
りすると、牛は弱って死んでしまうことから、わずかな欠点を直そうとして、かえって全体をだめにし
てしまうことだそうですが、神経質症状の本態をしっかりと見極めず、短絡的に、この症状を取ろうと
するだけの、型にはまった努力を戒めておられます。神経質症の本態は、多くの人に共通する根本的な
部分と、各個人の素質や養育環境で大きな影響を受けた、百人百様の個性的な部分が共存しています。
共通的な部分に対しては、対症療法的に一定の対処法が存在し、森田では、「思想の矛盾」=「症状を
取り去ろうとする努力の継続しなければ、この苦悩を克服できないと思い込んでいたことが、実はまっ
たくの逆効果」、および「精神交互作用」=「この努力は自然に逆らうもので、成果は得られないため、
失敗することにより、益々何とかしなければの気持ちが強まり、反自然の努力と失敗・落込みをを繰り
返す悪循環」という事実があったことを知り、理屈偏重から、まずは行動を起こし、そこで感じたこと
を大事にしよう、等を基本に、環境(場面)に応じて臨機応変に、と言っています。
加えて、自分自身に個有の本態を知る、それは「自覚・自欺」の森田のことばに通じますが、自身の
症状発生のメカニズム=本態を認識していないことが多いので、まずその気づきを出発点とし、次に、
何を恐れているのか、自分自身に問いかけてみるのも、いいかもしれません。(K)
H26 年 7 月号(No.283)
●-わたしの森田人間学㉑-「なおる」とはどういうことか(4)、山中和己相談役、 発見誌 7 月号 p.44
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..
「森田」に学んで生活していけば、どうなるか……。とうぜんそこには、それなりに自分自身やもの
..
ごとについての、発見や気づきがおきてくるにちがいない。ひとこと、ことわっておきたい。どうにか
でも職場に勤務しているひとや主婦のかたなどは、それだけでりっぱである。なぜなら、苦しみがあり
生活がしづらいなか、なんとかやることをやっているひとがほとんどだから。それは、まぎれもない事
実だ。つまり、それらひとたちは、ふつう、「森田」で求められているふだんの実行は、いちおう基本
的にできているはずである。では、いま述べたことと「なおる」ということは、どういうふうに関係し
ているのだろうか。ズバリ結論からいおう。この「学習・生活・気づき」のサイクルをとおして、自分
は「病気・異常でも、なんでもなかった……」ということがはっきりとわかれば、とらわれの解決であ
る。といっても、いっぺんにわかる必要はない--。自分には、いつでも不安やこだわりはある。いっぽ
う、まがりなりにも日常生活がすすめられる、つづけられている。そういう状況であれば、まさにそれ
が「なおった」状態だ。一般的には、それ以外に「たちなおり」のすがたはない、ともいえる。いった
ん、なるべく不安と手をつないでみる。まずはそれが、不安へのもっとも確実な対処法となるだろう。
つまるところ、不安・恐怖はあってもよいのだ。というよりも、不安・恐怖をなくすことはできないし、
なくしてはいけないのである。いいかえれば、「生きているかぎり大なり小なり、つねに不安はつきも
の」ということ。それがすこしでもわかれば、上出来である。
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「今日は症状が出てしまったからまだまだだ」とか「不安が強くて逃げてしまったからダメだ」など
と、ついクセでマイナス点ばかり見てしまいますが、「何とか日常生活は送れている」という事実はあ
ります。思い切って「なおった」と言ってみましょうか。「症状がまったく出ない状態」「不安がまった
くない状態」を望んでも、それはありえないのですね。失敗したっていい(間違わない人などいません)
できないことがあるのは当然(誰でも得意分野・苦手分野があります)世の中で唯一無二という価値の
ある自分の存在「こんな時もあるさ」と責めないで、許して、「なかなか頑張っているね」と時には褒
めて、大切にしてあげましょう。(M)
H26 年 6 月号(No.282)
●-藤田千尋先生の世界-「生きる」
、ドキュメンタリー映画監督 野中 剛氏、 発見誌 6 月号 p.34
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森田療法は、自分の納得できないものを取り除いてしまうという療法ではなく、そんな心の受け止め
方、心の姿勢を変えていくことを促す療法です。
ですから、まず最初に気づいた時の受け止め方、「これがあるからダメなんだ」という受け止め方が、
自分にとって誤りであったということに疑問を持たなければなりません。気づかなければなりません。
そして、自分本来のあるがままの行動を通して「不安があってもいいんだ。いや、不安があってもや
るしかないんだ。なぜなら、自分の求めているのは、自分を向上発展させたいんだから。こうする他は
ない」という第二の気づきが生まれてくるのです。
それは自分の生活、生きかた全体を通して見なければ、なかなか気づかないことです。(中略)
そして、症状を持ったままでも、やりたいことがなんとかできている、そんな自分に気づいた時、「あ
ぁ、取り去ることはないんだ」、そう実感するのです。気にする自分を否定するのではなく、気にする
という長所を育ててあげるのです。
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著者の野中さんは、水戸集談会でも所有している森田療法ビデオの「常盤台神経科」等の映画監督で
すが、森田の要点を簡潔に示した、とてもわかりやすい記事ですね。
『「自分の心身に起きた不都合」に打ち勝とうとしたり、取り除くことにエネルギーを使ってしまい、
症状さえなければ生活はよくなる、という誤った認識で生活し、行動した』結果、もともと症状でない
ものも症状にしてしまっていた。この原因は「この不都合があるからダメ」という受け止め方にあった
ことに気づくことが出発点で、不都合を取り除くための行動から自分本来のあるがままの行動に変える
ことによって、「(例えば)対人恐怖感は今も残っているけれど、やりたいことがなんとかできているな」
と思えるようになることが治癒の第1歩、と言っています。
やはり、自分にとっての「不都合」の本態を正確に把握せずに治すことばかり考えていると、「森田
理論を使って不都合を取り除こう」という大きな過ちに陥りかねないので、要注意ですね。(K)
H26 年 5 月号(No.281)
●再録シリーズ「対人関係の根本問題」 長谷川洋三先生 発見誌 5 月号 P.46
とくに神経質の人は、ほかの人はみんなテキパキと決断して行動しているのに、自分だけが、ああで
もない、こうでもないと思い悩んで行動に移れない、行動に移ってもなおビクビクハラハラしている、
なんという情けない人間であろう、と思いがちである。ほかの人については、選択と決断の結果である
行動しか見ない。内面の迷い、悩み、不安、おそれといったものは、見えない。ところが自分について
は、内面の迷いや悩みや不安が、視野いっぱいにひろがって、そのこまかなひだも見逃さない。半面、
自分の行動は、ほとんど見えないのである。
●現代に生きる森田正馬のことばⅡ P.165~166
そして、それに対して、自分の頭の気分や、心の働き具合を測量することをやめるに要する第一の心
構えは、どうすればよいかと申せば、まず、自分は、良きも悪きも、持って生まれたこれだけのものと
見きりをつけることで、たとえば人みな、男ぶりなり、近視眼なり、……中略……それを自分の持ち前
として、常にさほどの悲観もせず、やっていくようなものです。……中略……またたとえば、山に登る
にも、息はきれ、足は痛む。人により、多少の強弱はあっても、これを自分の力一杯と考え、悲観もせ
ずに登山の快を得るも同様です。もしこれを少し疲労すれば、「アア自分は弱い。人は平気である」と
か、いちいち比較して、人を羨み呪うときに、はじめて神経質の症状となるので、あなたが、「頭がボ
ーッとし、気がイライラする」といわれるのも、実は人の見かけばかりを見て、他の人は、勉強しても
少しも自分のようなことはないと誤った自己中心的な勝手な判断をするからであります。くわしくただ
せば、人も自分も、けっしてさほどの差別はなく、苦しいことは誰も苦しいものということをご承知に
ならなければなりません。
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相手の長所と自分の短所を比べて劣等感をいっそう強くして、周りの人が皆自分より偉く思えて、異
常に気を遣ってしまう時があります。あまりにへりくだった言動になるので、卑屈になり、結果、より
気まずい雰囲気になってしまいます。
「人も自分も決してさほどの差別はなく、苦しいことは誰も苦し
いもの」ほんとにそうですね。そして自分の内面ばかり見ないで、行動面(できたこと)に目を向けて、
たまには自分を褒めてあげましょう。自分に優しくしてあげることで良循環が生まれ、人にも優しくで
きることと思います。
(M)
H26 年 4 月号(No.280)
●自分は気の小さい見栄坊である-全集 第五巻- p.76 上段、 p.77 上段
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今のような岡上君の場合、自分は正しいことを言わなければならぬ、男らしく大胆でなくてはいけな
い、とかいう奮発心を、思いきって捨ててしまえばよいかと思います。自分は対人恐怖、すなわち恥か
しがりやで、正々堂々とやっていけるような大胆者ではない、気の小さい見栄坊であるという風に、自
分自身になりきってしまえば、行くべきところへも楽に行かれるようになる。もしあのようなこと(君
はどうして就職が遅れたのか)を問われたら、自然に頭を掻いて、口ごもりて、言うべきことも言えず、
言葉を濁して、その場をつくろうのであります。これがすなわち赤裸々なる自分を投げ出すので、我々
は真を言おうとしてかえって虚勢を張り、虚偽になることが多い。(略)
これは決して理論で治すのではない。ちょっとした心のはずみであって、つまり「コツ」であるから、
実行しなければ、決してわかるものではありません。(略)
岡上君は今も私の言ったことに対して、自分の腑に落ちるまで、その理由を考え、その結果を推測し
ているのであります。すなわち、これは決して従順とは言えない。どこまでも自分の知識を標準とす
るのであって、これでは決して自分の知識以上のことを体験することはできません。心機一転するこ
とができない理由がここにあるのであります。
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「対人恐怖で、人一倍の恥かしがりやで、正々堂々と大胆にやることなどとてもできない、小心な見
栄っ張りの自分自身になりきる。困った時には自然に頭を掻いて、口ごもり、言うべきを言えずに、言
葉を濁し、その場を繕う」などの「あるがまま」の具体例と、「森田理論を自分の腑に落ちるまで理解
し、推測するのは、実行・体験を遠ざける逆効果になる」との注意が述べられています。
...
ここで重要な「奮発心を捨てる」ですが、「そんな情けない自分でいいはずがない。常に、理想的で
あり続けなければ、自分の存在価値はない」と無意識のうちに、心の奥底で小心な自分を否定している
...
場合、あるがままを妨害するこの奮発心の存在自体に気づきにくいので、要注意です。
...
奮発心が強過ぎないかに注意を払ったうえで、ほんとうの自分自身になりきって実行する体験の積み
重ねに努めたいものです。(K)
H26 年 3 月号(No.279)
●森田を支えに生きてきて-「症状森田」から「生涯森田」へ-T.Y.さん- 発見誌 3 月号、P.60~
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「しんどい」という体のサインが出たときは、ゆっくり休息をとるようにしています。
以前は、しんどくて、ぼんやりしている自分を、なまけ者でダメな人間だと自分を苦しめつつ横にな
っていましたが、今では、早く元気になるためにゆっくり休まなくては……と、自分をいたわれるよう
になりました。
自分が考えている理想の体力(耐力)と、現実の自分は、随分とかけ離れていることに気づかされます。
このように感じるのは、小さいころから、人間は毎日、元気に生き生きと働かなくてはいけない、なま
け者はダメな人間だという「かくあるべし」を自分のなかに持っていたからでした。……中略……
理想の自分と現実の自分を知ることは、
等身大の自分に近づけていくために、とても大切なことです。
それに私は、調子の良い時の自分が本当の自分で、調子の悪い自分は本当の自分ではないと思いたがり、
できない自分をなかなか受け入れられませんでした。
しかし、できない自分も、自分だと認められるようになり、落ち込みの波がだんだんと小さくなって
いったように思います。
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旅行などに行くと、観光スポットを駆け足で回り、ガイドブックに載っているおいしいものをならん
で食べ、名産品を買い……といったふうで、帰宅した時は「ひどく疲れた、もうしばらくは行きたくな
い」がほとんどです。
「旅行は気分転換なのだから、楽しまなくてはならない」という「かくあるべし」
で義務的に動くため、思想の矛盾になってしまいます。
歳を重ね、若い時には何でもなくできていたことに少し時間がかかるようになってきました。これが
なかなか認められず、若い時の絶好調の自分と比べて自己嫌悪。等身大の自分を大切に、今の自分にで
きることを精一杯やっていけたらいいなと思います。(M)
H26 年 2 月号(No.278)
●上手に断り 上手に頼む ~ アサーション -伊東 眞行先生-
-誌上メンタルヘルスセミナー「セルフケアプログラム」- 発見誌 2 月号、P.9~
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対人的な表現の仕方の以下の三つのタイプがあります。
①攻撃的(アグレッシブ)タイプ=自分の気持ちや相手の反応・意図を確かめて表現するのでなく、頭ご
なしに相手を責めたり、皮肉を言って間接的に相手を責める。
②非主張的(ノンアサーティブ)タイプ=相手の反応を勝手に予測し、自分の気持ちを抑え、十分に自分
の気持ちを表現できない。
③上手な自己表現(アサーティブ)タイプ=相手を尊重しつつ、自分の気持ちも大切にして、自分の気持
ちを過不足なく伝えることができる。
(例)帰宅しようとしている時、同僚から、突然「自宅まで送って欲しい」と言われたとき;
①攻撃的:「人の都合も聞かずに勝手なことを言われても困るよ」
⇒頭ごなしに断る、嫌味を言って断る⇒相手に嫌な思いをさせ、好かれず、孤立、摩擦を生ずる
②非主張的;「えっ?ああ、いいよ。じゃあ、車で待ってるから・・・・」にこやかに。
⇒嫌われないよう、相手の期待に沿わなければ⇒イイコ傾向で、自分の気持ちを抑え、ストレスに。
③上手な自己表現;
「悪いけれど、今日は帰りに寄る所があるんだ。ごめん。また、都合がつけば
い
つでも送るよ」
⇒丁寧、かつ率直に断り、補足提案も⇒言いたいことを伝えられ、相手を不愉快にさせない。
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つい数年前、どなたかが集談会の中で、アサーションの話題を提供する場面があったとき、「ここは
森田理論を学習する場だよ。森田以外の話を何で、堂々とできるのかなぁ」と少し苦々しく思い、内容
はほとんど聞いていませんでした。最近、ようやくこれが「かくあるべし」の偏った思い込みだとわか
りました。発見誌にも、森田以外のことは、その要点だけでさえ具体的内容が載ることはあまりなかっ
たような気がしますが、これも時代に合わせた新しい流れのひとつなのかもしれませんね。
私の場合、ここで紹介されたアサーションと認知行動療法の「自動思考」は、興味深く、もっと詳細を
知りたくなりました。アサーションで言えば、タイプ①か②だけでしたので、「タイプ③を練習して身
に付ければ、過剰適応やそれに伴うストレスを軽減できる」のメッセージは、励みになります。
大事なのは、森田を基本としながらも、無用な垣根は低くして、集談会を訪れた人が今までの窮屈な
生き方に気づくことができ、少しでも楽に、生きやすくなれればいい、ですね。
(K)
H26 年 1 月号(No.277)
●ただ自覚すればよい-「私流・森田の読み方」-発見誌1月号、P.26, 27
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私が若いころからずっととらわれ続けてきた「かくあるべし」に、「このままでいいのか」
「もっと意
味のある、充実した生き方があるのではないか」という思いがあります。発見会に入り、対人のとらわ
れからは脱しても、このとらわれは根が深いらしく、ごく最近までずっと苦しめられてきました。
……中略……でも、解決の道がありました。それが、森田先生の言われる「自覚」です。自分の心の事
実をただ自覚すればよいのです。自分が気分本位であるということを認めよ、と言っています。さらに
は、目的本位・事実本位になろうと思う必要はない、ただ認めるだけでよい、とも言っているのです。
そこで、私もやってみました。かくあるべしが自分を責めているときに、その嫌な感情はしっかり感
じたうえで、「今、自分が、そのようなかくあるべしに苦しんでいる」という事実を自覚するのです。
……中略……空虚感が襲ってきても「自分は『意味のある生き方』をしなければいけないと思っている。
だから今が空しいんだ」と自分の心を見ているうちに、「人生の意味」という抽象的な観念にあまりと
らわれなくなり、何気ない日々の生活を楽しめるようになってきました。
心の事実をただ自覚することにより「かくあるべし」の観念が弱まっていく、心にはそんな不思議な働
きがあるようなのです。
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「今日は近所の人とは和やかに話ができたけど、スーパーで久しぶりに会った同級生とはぎこちなく
て、私はいつまでたってもダメだなー。同級生は変に思っただろうか?次回は昔話でもして笑顔で別
れなければ。」→「今日は時間に余裕があったので、近所の人と和やかに話ができたけど、スーパーで
久しぶりに会った同級生とは何だかぎこちなくなってしまった。もともとちょっと苦手な人だし、急
いでいたので笑顔も出なかった。不全感が残る。私はどんな時でもどんな人とでも、にこやかに話を
しなければという不可能なことを思っているのだな。」何だか気持ちが少し落ち着いてきました。
(M)
H25 年 12 月号(No.276)
●まず、がんばっている自分を認めてください-「新・苦しみの最中にある人へ」(17)前編-発見誌12月号、P.20より
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あなたは「失敗やまちがいはしてはいけない」「期待どおりに子どもも育てなくてはいけない」と思っ
てきました。それを『失敗したりまちがえてもいい(失敗はするものだ)』『ものごとは期待どおりには
いかない(子育てほど期待どおりにいかないものはない)』と読み替えてみたらどうでしょう。
「 」内は、あなたが親から刷り込まれた強迫観念であり、森田療法流にいえば"思想の矛盾"です。
要するに、まちがった「~すべし」「~であるべき」観念です。子どもも悩みながら一生懸命生きてい
ます。あなたの理想のように元気はつらつで、ばりばり仕事にまい進している子どもではないでしょう
が、ありのままの子どもを見守りましょう。(略)
あなたの批判の目を息子さんは痛いほど感じています。心配でしょうが、今はそれが息子さんの精一
杯なのかもしれません。息子さんもこのままでいいとは思っていないはずです。「この子なりにがんば
っているんだ」と思って、今のあるがままの息子さんを見守り、受け入れてみたらどうでしょうか。い
つか息子さんが自分らしい自己実現を果たしたいと思って行動する時がくることでしょう。
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「 」内の「~すべし」の強迫観念は、悩み・苦しみながらも一生懸命に生きている子どものありのま
まを否認し、親が理想と思い込んだことを押し付けようとする、森田でいう"思想の矛盾"の原動力と
なります。この親からの否認を子どもは痛いほど感じ、自信をなくし、苦しみをさらに強める結果を
招いています。子どものためにと思ってこれまで必死にやってきたことが逆効果であったことを認め、
今のありのままの子どもをただ見守り、受け入れてあげることが、子どもの自分らしい生き方を取り
戻すために最善だと言っています。そうするためには、勇気と時間が必要で、容易でないため、
「理解
はしたが、できない」とつい言いがちです。しかし、覚悟を持ってやるしかありませんね。
「~すべし」の強迫観念はまちがいということに中々気づけなかったのは、親から刷り込まれたこと
が大きな要因でしょう。子どもの実際の能力とは無関係の、刷り込みに基く「あるがままの自分は価
値のない人間」を心の奥底で漠然と感じているのに、この漠然感を意識下では否認しようとするため
に、「~すべし」の完全無欠を要求する心理は強くならざるを得なかった気がします。(K)
H25 年 11 月号(No.275)
●自分で治そうとするほど、ますます悪くなる-私流・森田の読み方- 発見誌11月号 P.15 より
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集談会に結構頻繁にこられるかたで、森田の理論はかなり理解され頭ではわかっておられますが、実
際行動面では不安・恐怖あるいは苦痛を取り除いて、すっきりしてからでないと、何もできないとおっ
しゃるかたがいます。いつも思うのですが、この時点が一番大事なポイントで、ここで不安・恐怖ある
いは苦痛と向き合う姿勢、それらを味わって不安・恐怖・苦痛に成りきってゆく態度が取れるかどうか
が、逃げるか踏みとどまれるかの境ではないでしょうか。ここのところができないと、森田を十年やっ
ても二十年やっても、決して治らぬとなるのでしょうね。
●「あるがまま」と「純な心」-はっ犬くんのもう一度読みたい学習会シリーズ-11月号 P.36~37 より
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森田療法は感情に働きかける療法だと言いましたが、恐怖突入もやはり自分の感情としっかりと向き
合うことだと思います。自分が嫌だなと思う気持ちに正面から向き合い、避けていた感情に浸かってみ
ること。今までできなかったことをやってみることで、その感情を見つめ、自分が何を恐れ、どんな感
じを持つ自分を認めたくないのかを、しっかりと知ることです。……中略…… 会社で、休憩時間に人
の輪に入れないとき、黙っているだけでも良いからその場にいてみましょう。その耐えられないなんと
もいえない重苦しい気持ちをとおして、実はいつも和やかに話ができて、気まずさを感じることもまっ
たくないことを望んでいることに気づくと思います。そしてなにより、その気持ちと向き合うことで、
自分はこんなに人と話がしたいんだという、内に秘めたエネルギーに気づくことでしょう。……中略…
… 感じをおろそかにした目的本位や、行動面だけでの恐怖突入では、この気持ちの流れや、気づきの
チャンスを逃してしまいます。
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「行動することで症状はある程度楽になった。でも、そこで止まってしまって、今ひとつ前へ進めな
い」私を含め、このような方が多いように思います。不快な感情はやっぱり避けたい、でも、自分を
知るためには(前へ進むためには)その嫌な感情と正面から向き合い、しっかり見つめ、浸かって味
わってみることがとても大事なのですね。その正体を知れば、後は自然と展開していくのでしょう。
(M)
H25 年 10 月号(No.274)
●自然をめぐる日本人と欧米人 -「甘え理論と森田療法」(第二回)-発見誌 10 月号、P.4 より
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欧米では、自然に対しては、信頼してはいけないもの、自分の本性とか感情とか外界の自然とかそう
いうものは信頼してはいけないというか、そういうものと思われていて、だから「甘え」そのものが受
け入れられないというかわからないのかなと。(略)
「自然=ネイチャー」というのは、欧米人にとっては、「人間に向かってくるもの」「克服すべきも
の」、そういうとらえかただから、とても「自然に服従する」なんていう発想はわからないのではない
かなと思うわけです。(略)
自然との関わりかたには、服従する関わりかたもあるし征服する関わりかたもあるということか
ら、日本人の習性は服従するほうに傾きがちなのだろう、そのところと甘えというのは密接につながっ
ている気がします。
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今、中国や韓国の反日感情は高まっていて、仲が悪い状態が残念ながらしばらく続きそうですが、
昔は中国や朝鮮半島から仏教、儒教その他多くの思想が日本に伝わり、国境を越えて東洋圏の文化が
形成されていたのだと思います。そんな農耕民族に仕分けされる東洋圏の人々と狩猟民族と言われる
欧米人とは、自然に対する考え方がまったく正反対というのは、
「同じ人間なのだから、根本的なとこ
ろは同じ」と思っていた自分にとっては、意外な感じがしました。森田理論は、禅や悟りの世界にも
通じていて、万人に当てはまる真理と思っていましたが、そういうことではないのですねぇ。
個人的に自身を振り返ると、東洋人なのに、「自然まかせは堕落そのもの。人は努力し、頑張った結
果としての成功こそが大事。そうできないのは努力不足」の欧米的考え方だったのか、今後、自分に
は東洋人らしく、「自然に服従する生き方」こそがふさわしい生き方かな、と感じました。(K)
H25 年 9 月号(No.273)
●友達と仲良しになれぬこと -現代に生きる森田正馬のことばⅡ-P.171~172(第Ⅳ巻 P.446)
「第三十六回 形外会」<昭和八年八月八日>
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たとえ友達でも、兄弟でも、自分の心に、心配があり、悲観があるときは、笑顔をするのも、話をし
かけられるのも、イヤなものです。これは人情、誰でも同様です。これを神経質の人は、「これではな
らぬ。朗らかにならなければいけない。大胆に愉快に、人に接しなければならぬ」と、われとわが心を
撓め直そうとするのが、「思想の矛盾」で、この心から、はじめは、さほどでもなかった悲観が、しだ
いしだいに増悪して、ほとんど本物の卑屈欝憂のようになってしまうのです。
こんなときに、普通の人は、どうするかといえば、ずいぶん心には、イヤな苦しい悲観や、何かがあっ
ても、「会釈笑い」といって、強いて愛嬌を作り、人と話を合わせて、お世辞もいっているのであって、
それでいつとはなしに社交的な調和がとれ、自分も人も情によって、心が引き立てられるものです。そ
れを、自分一人の心の中を撓め直そうとして、がんばるから、ついには、人にも変人として、嫌われる
ようになることは、当然であります。
すなわちこれも、少々苦しくとも、ただ人並に、交際していけばよいのです。あなたが、ずっと小児
のときのことを思い出してごらんなさい。幼な心でさえも、人に対して、イヤイヤながら、笑顔をした
り、人の仕事の手伝いをしたり、愛嬌をいって、人に好かれたいと思ったことがあるにちがいありませ
ん。それは、まだ心が単純で、神経質のヒネクレた思想が、発達しなかったときだからです。
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いつの頃からか雑談がとても苦手になり、1対1だとわりと大丈夫なのですが(苦手な人でない限
り)それ以上だとけっこう愛想笑いが多くなっています。職場は8月9月と1年で1番忙しい時期で、
その期間だけ働いている人も何人かいます。女性の職場なので、子供・孫・夫の話で盛り上がってい
ます。そのどれもと無縁の私はひたすら聞き役です。うなずいたり、相槌を打ったり、自分から話は
しないけれども、それでその場に参加しているのだと思います。皆それぞれ好きな話をして、人の話
はあまり聞いていないようなので、私のようにひたすら聞き役の人はけっこう喜ばれるようです。彼
女たちはとにかく自然体です。今話したい事を話す、それなりの気遣いを持ちつつ大いに喜怒哀楽を
表現しています。「無口で何を考えているかわからない」という立ち位置の私は、毎日彼女たちを逞し
いなー、羨ましいなーと思いながら、キツイながらも何とか輪の中に入っています。(M)
H25 年 8 月号(No.272)
●自分で治そうとすればするほど、ますます悪くなる -森田全集第五巻-P.38
「第三十六回 形外会」<昭和八年八月八日>
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この会へ出席する人の心掛けは、何か精神修養に関する話、面白い話を聞きたい、という考えならば
よいけれども、自分の病気を治すことばかり聞きたいと思ってくるのが最も悪い。この神経質の病気は、
自分で治そうとするほど、ますます悪くなるものである。
ここで対人恐怖などで、自分の病気が治らないと主張する人は、いつまでたっても、決して治る時節
はこない。その人は、いくら仕事ができるようになっても、演説ができても、決してよくなったとはい
わない。いつまでも、人前で恥ずかしい、思うことがスラスラといえないとかいい張る。それは夏は暑
い、冬は寒いと同様に、いつまでたっても、どうすることもできないということに気がつかないのであ
る。
神経質の症状の治ると治らないとの境は、苦痛をなくしよう、逃れようとする間は、十年でも二十
年でも決して治らぬが、苦痛はこれをどうすることもできぬ、仕方がないと知り分け、往生した時は、
その日から治るのである。すなわち「逃げようとする」か「踏みとどまる」かが、治ると治らぬとの境であ
る。
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発見会入会後、「症状を治癒あるいは軽快させるためには、森田(発見会)ではどうすればいいのだろ
う。自分で治すことに専念しよう」と考え、「理論学習と行動は車の両輪」等を学び、行動せよと努め
ましたが、直ちにそうできない自分に対し、「学習不足、強い意志・やる気不足」ととらえ、自分を責
めて、追いこんでいました。そんな中、上の3行目までの文を最初に読んだとき、
「『森田療法』なの
に治そうとするなとは、何とわけのわからないこと言ってるんだろう」と思ってしまいました。
振り返ると、自分の目標は「森田理論を学ぶことによって苦痛をなくし、それから行動しよう」とな
っていたこと、これこそが「自分で治そうとすること」そのものと思えてきました。「治そうとする」
=「(普通にある)苦痛をなくしようとする」で、人前での緊張や不安をどうしようとするのではなく、
いま自分に求められていること、自分がほんとうにやりたいことを忘れぬことが大事なのですね。(K)
H25 年 7 月号(No.271)
●完全欲-神経質の性格特徴-、K.O.氏、発見誌 7 月号 P.28 より
「はっ犬くんのもう一度読みたい学習会シリーズ」第 2 回<2009 年 2 月号>
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完全主義者であり、理想主義者でもあります。理想を高く持つ人です。現実を無視した姿を追い求め
ます。「かくあるべし」という理想と、「かくある」現実のなかで振り回されます。自分の実際の姿と
矛盾が生じ、自責のため苦しみます。いつも達成感がなく、劣等感にさいなまれます。
私もできないことばかりに振り回されたようです。周囲の思惑が気になり、内心はいつでも人に認めら
れたいと思っています。人からちょっと注意されますと、それがいつも頭から離れません。自尊心が大
変強いこともわかりました。……中略……これらの性格特徴は、神経質特有のものではなく、誰にでも
ありうるものです。ただ、私たち神経質者は、これらの特徴を強く持っている傾向があります。これは
変えようがありません。誰もが一度は「なぜ、自分だけがこんなに苦しむの?」とか、「なぜ、周囲の
人はわかってくれないの?」と思ったことでしょう。……中略……
北西憲二先生は「原因探しに意味があるのか」と言われます。原因を探る必要はないことはわかりまし
た。しかし、快復に向けて自分なりにこの性格特徴を自覚することは大事だと思います。
私は発症する前後、特に自分の性格や行動に悩みました。人に対しても厳しい見方をしていました。森
田で、今まで片面から見ていた性格を、両面から、そして多面的に見ることを学びました。この両面観
は悩んでいる者にとって救いです。今まで本当に気づきませんでした。一方向からばかり見て、自分も
周囲も否定的にみていたのかもしれません。
案外、人は神経質者が苦しんでいる時も、そうでない時も、その人の全体像で見ているのではないで
しょうか。長所、短所各々あるのが人間だと、わかっているのでしょう。
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いちいち自分に当てはまるので妙に感心してしまいます。長い間症状を取り去る方法や、少しでも
楽になるやり方などにばかり目を向けてきましたが、症状のメカニズムやこうして「神経質の性格特
徴」を知ること、自覚などがいかに大事なのかがようやくわかってきました。結局それが快復への近
道なのですね。
私も人を見るときは長所と短所を含めて全体像で見ています。ですが自分を見るときは、短所ばかり
に目がいき、何だか短所だらけの人間のような気がしてしまいます。人は私のことを全体像で見てく
れていると思うと、ありがたい気持ちになります。「だからきっとこのままの自分でいいんだ」と、そ
う思える日がいつかきっとやって来るような気がします。(M)
H25 年 6 月号(No.270)
●森田療法の目ざすところ-神経症の成り立ち-、Y.N.氏、発見誌 6 月号 P.35 より
「はっ犬くんのもう一度読みたい学習会シリーズ」第 1 回<2005 年 7 月号>
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心身が健康な状態のとき、人は神経質な特性を生活に役にたて、計画性を持ち、こつこつと努力を
したり、人とあまり波を立てず、会社でも気配りでそつなくこなしていきます。それは神経質特性が
うまく外向きに流れているときで、長所を発揮でき、順調にすごします。でも、あるきっかけでその
特性が全部自分の内側に向いてしまうと、「思想の矛盾」や「(精神)交互作用」を生み、自分をしばり
はじめます。
精神には「拮抗」があり、不安として生まれてきた裏の本来の欲望は何なのか、「思想の矛盾」の
何を矛盾して理解していたのか、「精神交互作用」の何にとらわれていたのかという“心のメカニズ
ム”に気がつけば、絡まった糸はほどけていきます。
そして、「思想の矛盾」や「精神交互作用」によって、必要以上に過大になっていた「不安」が感
情や行動の見直しによって、日常的な「不安」に戻っていく、それが森田療法における治癒なのです。
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最後の2行は、水戸集談会HPのトップページに、「森田理論=このような悩みは実は病気ではなく、必要
以上にこれをなくそうとした結果、導き出された過剰な不安・恐怖であり、これをただの単純な不安に戻してい
けば良いとしています」と書いていることと同じですね。
ものごとはすべて、その事案の生じた原因、こじれた理由や経過を調査、検討し、客観的事実を把
握したうえで、最適な対策を実行することにより、事態の改善が図れます。現在の不自然に苦しい状
態がどういう理由・原因で発生したのか(=本態) をまず知ることが出発点です。「症状だけをなくした
い、不安から逃れたい」という偏った努力を必死にやり続け、益々苦しい状態を自ら招いていた事実
を知ること、神経質な特性をうまく外向きに流し、この長所を発揮しながら毎日を過ごすためにも、
今、水戸集談会の自主学習の「神経質の本態と療法」も参考にしながら、自分自身の「思想の矛盾」
の矛盾点や「交互作用」のとらわれは何か、を自問自答し、絡んだ糸をほどいていきましょう。(K)
H25 年 5 月号(No.269)
●森田とともに生きる-二度目の落ち込みを体験して-Y.F.氏、発見誌 5 月号 P.42~53
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年齢的に身体機能も低下・喪失して来ています。たとえば、廊下を歩いていて、けつまづく。相手の
名前がなかなか思い出せない。電話を取っても一度で内容を聞き取れません。何度か聞き直します。
(中略)そこで、これらの事実を客観的に分析してみることにしました。そうすると、人生で絶好調であ
った時の自分を基準に、これを維持しようと無意識のうちに「かくあるべし」を大いに発揮していたこ
とに気づきました。
森田先生は全集五巻の中で、「私は自ら私の日常の事を顧みるに、不機嫌の時は、目下の人に対して
は、容易に笑わないで、ツンツンしているが、それでも目上の人に対しては、容易にツンツンはしない
で、相当に会釈笑いを捧げているのである。それは私が目下の者には、少々排斥され、悪く思われても
意に介しないが、目上の人には、よく思われ、快くしてもらわなければ、なんとなく心細いからであり
ます。これが私の心の事実に対する自覚であります」
これに対して出席者から「目上の人にはへつらって頭を下げ、目下の者には不機嫌でいるという事は、
修養という事と反対ではないでしょうか、それでは人間に道徳などという事がなくなりはしないでしょ
うか」との質問に対して「私はただ私の心の事実を白状しているだけです。私は善悪を論じるのではな
い。私はただ事実を正しく観察、研究する科学者になりたいと念じているだけの者です。で、君の日常
は目下の人には頭を低くし、目上の人には不機嫌でいますか。人がおのおのその自分の心の事実を認め
うるようになる事を自覚といい……」と言われています。肩書がないのに尊敬されたいとか、加齢にも
かかわらず身体的機能が衰えていないと思い込むのは、気分に左右された主観的な事実であります。上
下社会で肩書がなくなれば頭を下げられないのも当然であり、人の心の事実であります。
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「人生で絶好調であった時の自分を基準に、これを維持しようと無意識のうちに『かくあるべし』を
大いに発揮していたことに気づきました」という箇所に、私もまさにこれをやっていると思いました。
私は体力を使う仕事をしていますが、職場の10歳下の元気な同僚を見て「私は先輩なのだから彼女以上
にキビキビと動かなくてはならない」とかなり無理をしていました。いくら疲れていても「できるはず、
やらなくては」と。若い頃似合っていた洋服をいつか着ようと取っておきましたが、いざ着てみると、
何だかチグハグです。まさに「気分に左右された主観的な事実」です。事あるごとに気分本位な上司に
当たられ、すっかりトラウマとなり上司が大嫌いです。これは私の「心の事実」です。上司の顔を見る
のも苦痛ですが、たまには顔を引きつらせながらもお世辞を言い愛想笑いもします。「このままでは仕
事に差し支える、少しでも上司の良いところを見つけ改善しなくては」と思うと苦しくなるので「心の
事実は否定しない」に限りますね。(M)
H25 年 4 月号(No.268)
●頑張りすぎる-変わらなくてもいい・あなたらしくいられる 50 のヒント-竹内 郁深
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どうしても手が抜けなくて、張り切ってしまう。完璧に仕上げないと気がすまないし、いい加減が
許せない。頑張ること自体、悪いことではない。
問題なのは、それで自分が疲れてしまうことだ。心が病んでしまうこともある。決めたはずの本人
が、自分の約束を守れず心を壊してしまう。人から強要されたのでもなく、自分で頑張り過ぎて頑張
れなくなるのだ。
ここで考え直した方がいいのは、何のために完璧にするかだ。完璧にしないといらつくのはわかる。
パーフェクトにできるならそうすればいいが、できないのにしようとするから、心がついていけなく
なるのだ。自分の処理能力を超えて、無理をしている。
頑張るより、自分の能力を見極めることが先ではないか。能力を見極めず、自分を追い込むのは、
自分がわかっていないのである。
自分の能力と相談しながら努力することが、本当の意味で頑張ることではないだろうか。自分の能
力を無視して、頭だけで突き進むから、オーバーヒートしてしまうのだ。能力と相談することが頑張
りすぎないこつである。
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森田で良く言われる、「かくあるべし」の弊害や「自覚」の大切さを、具体的に言っていると思いま
す、いかがでしょう? 「完璧でないと気がすまない、いい加減が許せない」というより、
「何でも完
璧にできなければ、生きている価値がない」という極端に偏った思い込みと「自分はどこまでならで
きて、どこからができないか」がわかっていない「無自覚」が一緒になったときに、頑張れば頑張る
ほど、逆に自分を追い込んでしまう「頑張り過ぎ」状態になるのですね。
「完璧以外は無価値」と「す
ぐ理想どおりできないのは努力不足のせい」という偏った理屈を、自分の身の程をわきまえずに長い
間強要し続けていたら、うまくいかないことが多くて「疲れて、病んでしまう」のも当然ですね。
「自分はたったこれだけの人間だから、完璧でなくても、たまには人に笑われても仕方ない」と自
分の欠点・弱点はあるがままに、自分の能力と相談しながら努力する気持ち、大切ですね。(K)
H25 年 3 月号(No.267)
●「集談会の新しい枠組みを求めて--体験知の響き合う集談会へ--」、発見誌 3 月号 P.64~68
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いま当時の私を振り返ると、強い自己否定感が「感覚を拠り所にして行動する」という行動パター
ンを身につけることができなかった最大の要因であったような気がします。
人間というものは、自己否定感が強くなり、生きる自信を失ってくると、それにともない感覚・感性
というものに対する信頼も弱まってきます。そのため私はガス栓などの確認を<視覚>だけに頼れなく
なり、「もう確実に閉まっている。大丈夫だ」と考えながらやるようになってしまったのです。
このようにして私は次第に「感覚レベルで行う確認行為」ができなくなり、その後も長く確認障害で
悩まされることになりました。
生命には、その保存本能として見事なまでの「安全弁」が組み込まれています。胃のムカムカ感・疲
労感だけでなく「神経症」も心の安全弁の一つと考えていいでしょう。私の場合、意識の心と無意識の
心とのバランスを取るために「強迫神経症」という症状となって、もともと身体に組み込まれている「心
のバランス機能」が作動したということがわかります。
まさに症状即治療、「その症状それ自体が治療」なのです。そういえば高熱が出ても「熱こそ治療で
ある」として、すぐには熱を取ってはいけないといわれていますが、あれと同じことです。
考えてみると、本来確認行為というものは身体レベル(無意識)で行うもので、それが私の場合意識レ
ベルで行うようになり、そのため常に「閉まっていないのでは?」という反対観念の抵抗とぶつかるよ
うになったのです。
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特に「人間というものは、自己否定感が強くなり、生きる自信を失ってくると、それにともない感覚・
感性というものに対する信頼も弱まってきます」の文章にはハッとさせられます。私も少し確認行為の
症状があります。調子の良い時は、水道の蛇口が「閉まっている」と「身体レベル(無意識)」で確認
できるのですが、さて調子の悪い時は、蛇口を何度も閉め直してみたり、手をかざして水が出ていない
か確かめてみたり…一瞬では「閉まっている・水は出ていない」とわかるのですが、それが信頼できな
くて(拮抗作用のセットで出てくる反対観念の「閉まっていない」が強く出てしまう)何度も確認して
います。
日常生活は「身体レベル(無意識)」で行うことが多いものですね。完璧主義・思想の矛盾などはあり
ますが、まずは自分の感覚・感性を大事にしたいですね。(M)
H25 年 2 月号(No.266)
●生きることと死ぬこと-森田療法-大原 健士郎、発見誌 2 月号 P.7
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「生の欲望」=生きる欲望というのを分析していきますと、長生きをしたい、病気になりたくない、
あるいは人に認められたい、人に褒められたい、出世をして名声を博したい、いい家に住みたい、勉強
していいお嫁さんをもらいたい、知識を深めたい、あるいはまた向上発展をしたい、もろもろの人間と
しての欲望があるわけですね。皆さんもお持ちだろうと思います。その欲望に沿って建設的な生活をし
ているのが健康人だというわけです。
その精神的なエネルギーが何らかのきっかけで挫折して、自分自身のほうに向いてくると、これは精
神的なエネルギーが、同じ精神的なエネルギーでありながら方向が違うことによって非建設的になる。
仕事、勉強、そういったものすべてにそっぽを向いて、自分の心身の変化、そういったことだけにとら
われてくる。それが神経症だというわけです。
自分の心身に注意が向いていた、そういった精神的なエネルギーの向きを変えてやる。これが森田療
法の基本的な姿勢なんですね。
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「生の欲望」の多くの具体例が挙げられていますが、これらのすべてがそのまま自分に当てはまる気
がします。皆さんも同じで、ここに例示されたような「生の欲望」がとても強いのでしょうね。
『「生の欲望」に沿って建設的に生活しているのが健康人、何らかの理由で精神的エネルギーが自分
の本来の目的や周囲の人々へではなく、自分自身のほうに向いてきて非建設的になり、自分の心身の変
化だけにとらわれてしまったのが神経症である。この精神的なエネルギー=注意が自分の心身だけに向
いている現状を自覚し、その向きを変えてやるのが森田療法の基本姿勢』との説明に納得です。この基
本姿勢をまず十分に把握し、認識しておかないと、一生懸命に"理論学習"したつもりが「思想の矛盾」
につながっている可能性もあることに要注意!ですね。(K)
H25 年 1 月号(No.265)
◇体験記-私の「森田」の学び方-Y さん、発見誌1月号 P.40~45
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三宮と梅田の原著の会(森田全集第五巻を読む会)で、私の森田観は劇的に変化していきます。まず、
「恐怖突入」ということばのとらえかたが変わりました。……中略……そして私は、この「恐怖突入」
を入口として森田を学んでいくという方法は自分に合わないと判断し、それをやめました。
人一倍「努力、行動」にこだわり、そこが症状の要にもなっていた私には、かくあるべしを意識せず
に自然と行動する、ということがどうしてもできなかったからです。かくあるべしをもとに行動しよう
としても、それは、ますますかくあるべしを増やす結果にしかなりませんでした。……中略……
結局、私は生まれてからずっと言われ続け、自分でも自分に言い続けてきた「努力をしなければなら
ない」という「ことばのとらえかた」が間違っていたのです。逆に、常に世間的価値観に対して感じて
いた私の違和感の方が間違っていなかったと、ようやく心の底から納得することができたのです。そう、
すべて反対のことでした。ずっと「なんで自分が思いどおりにならないんだろう」と思っていたことが、
あたりまえの事実だったこと。つまり、ずっと「症状だ、治さなければ」と憎んで恨み続けてきたもの
こそが、私を森田に出会わせ、導いてくれたこと。世間の価値観ではなく、その憎んで恨んでいたもの
こそが私の本来の自分だったこと。そして、ずっと思い焦がれ、必死に自分にムチ打って「努力しなけ
れば」と自分を責め続けてまで生きたかった、確固たる安全で完璧な世界など、この世の中には存在し
ないということ、などなどです。
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症状がきつくて何も手につかないときでも、無理やり簡単な行動(掃除など)をすると、自然に気持
ちが流れて少し楽になったりします。行動はやはり大事と思うと同時に、いくら行動しても苦しさが取
れなかったり、逆に苦しくなるのは「かくあるべし」に基づいた行動をしているからなのですね。まだ
まだ「自分で思い描く確固たる安全で完璧な世界」を求めて「自分をムチ打っている」自分がいます。
「物事は常に変化している」「確固たる安全で完璧な世界などこの世の中にはない」いつになったら納
得できることやら。(M)
H24 年 12 月号(No.264)
●はっ犬君のはっけん森田⑦-森田療法の人間観-N.K,氏、発見誌 12 月号 P.46~
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私は次のことばをわが脳にしつこく言い聞かせることにしました。言い聞かせを重ねることで自分を
追い込み、「かくあるべしの自分」と真っ向勝負する修行らしきものをすることにしたのです。
「自分はこの程度の人間であるから、時には人に馬鹿にされたり嫌われたりしても、望ましいことで
はないが、やむを得ない」 (中略)
すると次第に(中略)、この程度の人間なのかと嘆くみじめな気持ちが、そんな自分で生きていくしか
ないのだという覚悟に変わっていきました。
そして 3、4 年経ちますと、「かくあるべしの自分」はそれまでどおりに現れてくるものの、おとな
しくなってきました。それは、私の中に「ほんとうの自分」がしっかりと根付いてきたからだと思われ
ます。「かくあるべしの自分」は隅に引き下がるようになったのです。
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筆者のKさんは、水戸集談会OBで、特別な親しみを感じますが、それだけでなく、この記事は、森田
を実践する中で、うまくいかない部分があるのはなぜかを熟考し、「かくあるべしの自分」を制御する
すべを得たという内容で、読み応えがありました。H22/2に水戸に派遣講師で来られた時の講話内容に
近いですが、独力で真っ向勝負を挑んでの勝利、わかりやすく、改めてすごいなと感じました。
「かくあるべし」について、『幼時に「あるがままの自分」を受け入れられなかった人の心の奥底の
無意識下に潜んでいるのが「完璧な、立派な人でなければ落伍者」という事実に反する思い込み(=「か
くあるべし」)で、これが「あるがままの自分」であることを禁止するので、いつまでも大きな葛藤、
強い不全感に襲われる。この解決のためには、意識して事実を繰り返し言い聞かせることが大事』と
いう説に、最近共感しました。K さんの「真っ向勝負」の内容は、結果的にこの説とほぼ同じで、「頭
の中の恐怖突入」等はとても参考と励みになりました。(K)
H24 年 11 月号(No.263)
◇はっ犬君のはっけん森田 PART2⑥;
「あるがまま」と「純な心」-N.O.さん、発見誌 11 月号、 P.41~42
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恐怖突入で私は精神交互作用つまり症状は克服できました。なんと言っても「行動」の力は大きい。
症状部分の克服にはとても効果的です。「行動」は、行動できるタイプの方には効果的なのですが
落とし穴があります。行動が精神交互作用を破壊し、症状部分がなくなり、治ったと勘違いしてし
まうところです。「かくあるべし」の部分は自覚なくしっかり残っているので、この「かくあるべ
し」が自分の身体に負担をかけます。またまわりの人にも「かくあるべし」を求めるので、まわり
の人に負担をかけ、その迷惑にも気づきません。(中略)
自分の考えを中心としてものごとに接するのではなく、ものごとに視点をおき、ものごとから発
せられる「感じ」にうながされて行動していきます。「考え」には加減がありませんから暴走しま
すが、ものごとはこの微妙な加減を教えてくれます。そして、ここではじめて知識が使われてその
行動の効果を上げます。知識は道具なのです。
「あるがままとは、感情はそのままになすべきをなす」ということばも「かくあるべし」からと
らえると「なすべき」は「何が何でも前進」となって暴走してしまいますが、「ものごと」「事実」
からうながされた「なすべき」は場合によっては「逃げる」「休む」「手を抜く」「放っておく」
もあるわけです。
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自分では少しは「かくあるべし」がとれてきたかなと思っていたのですが、文章を読んでまだま
だがんじがらめになっていることがわかりました。「何が何でも前進」で「逃げる」「休む」「手を
抜く」「放っておく」はご法度の状態です。いくら行動しても苦しいのはこのせいなのですね。な
るほど普段何気なくしている家の掃除も「ものごとに視点をおき、ものごとから発せられる『感じ』
にうながされて」すると、さらにキレイになりそうです。早速、洗面所の鏡を磨きます。(M)
《お知らせ》
H24 年 10 月号はレクレーションのため、休刊です。
H24 年 9 月号(No.262)
●自信とはどんなものか、
「現代に生きる森田のことば II」P.208(第五巻 P.606)
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たとえば高跳びのとき、気おくれがしてやれなくなる。そのときに、自信とか、その他いろいろ
の自分の心の態度をきめる、とかいうはからいごとに迷わずに、私は「静かに自分自身を見つめよ」
といいます。そうすると、自分がもう少し上達したい、ちょっとでも余計に跳びたいという欲望が
あるかないかを見定めることができます。もし欲望がなければ楽なものです。気おくれも何もいら
ない。ただやめさえすればよい。しかし、まだ欲望の強いときには、(中略) ツイツイ欲望に駆ら
れて手を出してみるというふうで、それでもやめずに続けていさえすれば、ついには上達して、自
信も出てくるようになる。
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「自信というものは、冷静に己を見つめ、謙虚に反省しなければうまれない。大きな故障者も
出ていない中でのつまづきは、かえって『このメンバーで戦うんだ』と一体感を呼び起こした」。
これはセ・リーグ制覇後の原監督の手記です。この後半を、「病気でもない中でのつまづきは、『こ
のままの自分でやるだ』と自覚が芽生えた」に置き換えると、森田のことばと同じですね。
森田の教えは「静かに自分自身を見つめること」なのに、正しい理論と強い心の態度で努力する
ことが森田の真髄と長い間、カン違いしていました。何をどうしたいのか、自分の本心をよく見つ
めること、その欲望に素直に従っていれば、すぐにうまくできなくても、自然に続けていくことが
でき、いつのまにか上達して、自信が持てるようになるのですね。また、「己を見つめ、謙虚に反
省する」と、自分自身のあるがままの実態を自覚できていないことや、自分自身の中に『成功し続
けなければ受け入れられない』という、根拠のない、事実に反した強い思い込みのあることがわか
ってきます。なるほど、そのとおりだと素直に思えました。(K)
H24 年 8 月号(No.261)
◇巻頭言 森田という方程式-H.K.さん、発見誌 8 月号 P.1
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集談会に少し参加しただけで、ここでは期待したような効果がでないという早計な判断により、せっかく出会
った集談会から去っていく人が後を絶たない。そういう人たちには自分を成長させる「過程」という時間が抜け
落ちている。スポーツでもなんでも、いま輝いている人には、なんの変化も見えない、同じことの繰り返しという
地道な過程が必ずある。とらわれから解放されていく道にも同じことがいえる。
森田を語るとき、生の欲望という力を抜きには語れない。それは、つらさを抱えるあなたのなかにもある。だ
から、日々同じ景色しか見えなくても、あきらめないで、いまという時間のなかに楽しいことやうれしいことを見
つけながら、生の欲望を前向きに生かしていれば、その過程で自分らしさや生きているということを必ず実感で
きるようになっていく。それが森田という方程式。
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☆体操の個人総合で金メダルを取った内村航平選手がテレビのインタビューで「自分は練習したことし
かできない。日々同じことをひたすら反復してきた」というようなことを言っていました。
私もすぐに効果が出ないとイヤになってしまうタイプです。何事もそう簡単にはいかないとわかって
はいるつもりでも、大きな期待を持ってしまいます。確かに「過程」という時間が抜け落ちてしまいま
すね。この過程という時間が一番大事だということを心に刻み、行きつ戻りつ、泣いたり笑ったりしな
がらあきらめないでやっていこうと思います。集談会に見えた方にもこのことを伝えていきたいと思い
ます。(M)
H24 年 7 月号(No.260)
自分で自分を受け入れられない-加藤 諦三-、
「気が軽くなる生き方」P.41
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“こわい”という感情をもつのがあたりまえの時でも、私はその感情と戦い、それを克服しなければ
とあせった。そのこわいという自然の感情を認めることは、そのまま、自分が臆病でダメな男と認めら
れることであったからである。そこで私は、自然の感情を否定し、常にそれと戦わねばならなかったの
である。そんな私にとって、森田療法の“あるがまま”というのは良くわかる。と同時に、そうなれな
いのが神経質な人間ではないか、という気がしてならない。つまり、幼児の頃から、あるがままである
ことを禁止されて育った人間が神経質者なのである。(略)
自分に不可能なことを要求したのは誰か、そして脅迫したのは誰か。その人への心理的依存から脱出
することができれば、駆け足の遅い自分を受け入れられるし、記憶力の悪い自分に劣等感を持つことも
ない。
そして、そのような自信を得た時、本来自分に備わっている能力は存分に開花する。
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森田療法の「あるがまま」の重要性はとても良くわかる、しかし、それだけではすぐにあるがまま
になれないのが神経質者ではないか、との説を唱える加藤諦三先生の著書からの引用です。
長い間の「思想の矛盾」(不可能の努力)に気づいた後、逃げ・甘えを自覚し、行動を心がけます。し
かし、ある事案が片付いて、少しでも時間的余裕ができると、ほっとくつろぐのでなく、なぜか不安
感・不全感が湧いてくることがあります。また、家族関係や地域関係等でまったく問題ないと、はた
からは見えるのに、ご自分は「全然ダメ、もっと立派な親・人にならねばと思っているが、そうなれ
ない。それでは周りに迷惑かけてしまうので、なるべく一人で過ごしている」という方もおられまし
た。理想的・完璧な自分であり続けることを要求しているのですね。こんな人達には、自分がなぜ、
こんなにも自然感情に反抗してしまうのか、自分自身の「あるがまま」を認められないのか、その理
由を知ることが大事という説も「一理あるな」と思いました。皆さんはどう思われますか? (K)
H24 年 6 月号(No.259)
◇森田源流シリーズ -自分を強く主張できない- 発見誌 6 月号 P.46~51
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「私は情の薄い人間です」と言われること、さてさてよいところへ気がつかれました。実にこれが、素直な忠良
の人となり、あるいは悟りの開かれる元となることであります。親鸞聖人は、「自分は悪人であり・罪人である。
人を訓戒したり・教えたりする力はない」と悟られました。
しかしここが、左すれば、迷いとなり・神経質の煩悶となり、右すれば、悟りとなり、神経質の全治となる別れ
途に立つところであります。
まず迷いの元は、「自分は薄情……人に馬鹿にされる」という風に、自分の天性持前を悲観し・恨み・呪う心
から、之を取りつくろい・直そうとし・さらに人が自分を思いやってくれぬのを恨むという風にもなることです。
これに反して、悟りの道は、親鸞のように、自分は薄情ものと、そのまま信じ・肯定し、仕方がないから、でき
ぬながらも、人を思いやり・人に情をかける修養を積むことを心がけるより外にないことを知ることであります。
たとえば、自分は薄情であるから、番頭のよくできるのを、羨み・そねむでなく、番頭もそれ相当に、努力苦心
があるのであろうと、思いやる工夫とその思いやりの練習を積むこととの心がけをするようなものです。
上述の両面の心は、ちょっとご理解が難しいかもしれませんから、さらに一例を挙げれば、自分は醜男・貧
乏である場合、好男子ぶり・金持ちぶることのないように、素直にへりくだればよい・と同様であります。
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☆私は発見会に入会して今年で 18 年になります。自分は〇〇だと少しずつですが自覚もできるように
なってきたように思います。森田先生は「ただ自覚するだけでよい」とおっしゃっていますが、「自分
は冷たい人間だとようやくわかった。これではいけない。思いやりのある人間にならなければ」とすぐ
直そうと思ってしまいます。何につけてもそうで、その結果思想の矛盾となってアタフタしている状態
です。あまりにも高い理想の自分を思い描くクセは、早々直るものではありません。
仕事のできる人を見れば「あの人は元々頭が良くて賢く、私とは違う」と、その人の努力や苦心など
には思い至りません。本心はうらやましく自分もレベルアップしたいのです。それならそれなりの努力
なり工夫なり行動すればいいのですが、いつも頭の中でグルグル考えるだけに終始し、挙句の果ては「親
がこの程度なのだから、自分にはできなくても当然だ」と、ひねくれた考えをおこし、ますます迷いは
深まります。
こうして考えてみると、まだまだ上辺だけの自覚しかできていないのだと思いました。あまり難し
く考えないで、素直に自分の心を見つめてみようと思います。(M)
H24 年 5 月号(No.258)
死ぬまで苦しんでもいいじゃありませんか-S M さん-、発見誌 5 月号 P.18
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当時、強迫性障害に苦しんでいたときで、(佐古純一郎)先生に「こんな僕にも生きる意味はあります
か」と問いました。(略)しかし、柔和だった先生の顔つきが眼光鋭くなりました。先生はテーブルを
じっと見つめ「君に生きる意味があるかどうか、俺にはわからん」と呟かれました。先生の言葉の意味
が呑み込めずにいると、「では聞くが、お前は俺が死ねと言ったら死ぬのか」とも言われました。先生
は自分の生きる意味までも人に依存した安易な姿勢を叱られたのです。(略)
五十歳に近い今、私には先生の仰った意味がよくわかります。やはり、症状がつらかろうが苦しかろ
うが、自分の力で自分の生きる意味を見出ださなければならないのです。その答えは周囲との関わりに
あるのです。自己にとらわれるばかりでなく、他者の存在に目を向け、愛情を注いでゆくことだと私は
考えます。
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落ち込んだときは、
「こんなもんじゃ生きている意味ないなぁ」と多かれ少なかれ、誰でも思うこと
があるでしょう。でも、とらわれが強く、本来の自分を見つけられずにいるときは、少し違っていて、
「こんなに小さなことを気にして、何もできない自分はどうしようもないダメなやつ。何とかすぐに、
今の自分とは正反対の強い明るい人に変わらねば」と考えて、益々不安が強くなって、自信を持てな
くて、「こんなダメな自分に生きる意味はありますか?(優しいことばや安易な解決法を待ってます)」
と他人に依存するだけになりやすいようです。
やはり、いつまでも他人に依存しているだけでは何も変わることはなく、自分の力で自分の生きる意
味を見出そうとしなければ、自分が甘えていること、逃げていること、経験不足なこと等に気づけない
のですね。解決法は、
「周囲との関わりにある。自己にとらわれるばかりでなく、他者の存在に目を向
け、愛情を注いでゆくこと」、これに尽きるように思います。 (K)
H24 年 4 月号(No.257)
◇反対観念に苦しめられて-S.S.さん、発見誌「中高年のひろば」、4 月号 P.63~
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自分は、駅のホームにいる人を突き落とすようなことがあってはたいへんだと、加害恐怖症に苦しんでいまし
た。その苦しみのなかでも、精神拮抗作用にともなう反対観念が自分の意思と関係なく、脳裏にわきあがってく
ることに手を焼いていました。
ほかの人の手の届かないところまで下がったり、ポケットに両手を入れたりして、自己防衛をしているにもか
かわらず、反対観念である「人を線路につき落としたような想念」が脳裏に浮かびあがってくるので、何度も人
が線路に落ちていないことを確認していました。
自分が望むことと真逆の想念が、自分の意思に反してつぎつぎと浮かび上がるので、脳裏で何度もうち消し
ていました。罪悪感に悩まされるので必死になって打ち消そうとしていましたが、結果は逆に、イヤな想念が燃
え盛ってくるので困り果てていました。
そんなときに、森田先生の人間はある考えが浮かぶと反対の考えが同時に浮かぶという「反対観念」がある
ことを知ったことで、精神的に救われました。自分は反対観念を恐れて、それを必死になって打ち消そうと不可
解な努力をしていたんだと、自覚することでラクになりました。
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私も以前は加害恐怖に悩まされていました。包丁で人を刺してしまうのではないか、ペットをベラン
ダから落としてしまうのではないか、今にも事を起こしそうな心理状態が恐ろしく、包丁を見ることも
できませんでしたし、ベランダには近寄れませんでした。
でもこれは、そうなっては大変だという気持ちの裏返しあることがわかって救われました。ペットを
愛しいと思う気持ちが強ければ反対観念も強いということ、決して実行に現れるものではないというこ
とが理解でき楽になりました。ある考えが浮かぶと反対観念はセットで出てくる、反対観念ばかりに目
を向けてそれを恐れていたために症状となっていたのですね。このことを頭の隅に置いておけば、イヤ
な観念がわいてきてもあわてなくてすみますね。(M)
H24 年 3 月号(No.256)
私の“森田的生活”と とらわれからの解放-K.K さん-、発見誌 H16 年 7 月号 P.37~
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自分自身とつき合うことが第一歩
私のつたない森田的試みは、最初は、「何も考えないで、淡々と行動する」であったが、小さな工夫
や、小さな挑戦が加わり、模索をする過程自体が、楽しく幸せであると思えるようになった。最近は、
子どもとの会話が楽しくて、家事はそっちのけになってしまう時も、実は多い。仕事と仕事の合間にあ
る、揺らぎのような、そんな時間が今は一番大切だ。もっともっと楽しくしたい。幸せになりたい。子
どもにも幸せになってほしい。そんな欲が出てきた。そんな欲を私は持っていてよいのだ、と思った。
私は複雑な神経の人間でも何でもなく、ただの考えの足りない、浅はかな人間だ。
長い間、自分を嫌っていた。しかし、甘やかすのではなく、突き放すのでもなく、人というより、まず、
自分とつき合っていくことが、森田療法で定義される対人恐怖から抜け出す一歩目なのではないだろう
か。「つらいね。逃げたいね。でも、ここで逃げたらどうなるの? やらなきゃだめだよ。もうちょっ
と、もうちょっと、がんばろうよ」。私は自分自身と対話するようになった。
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少し古い発見誌に載っていた、先月講師の K.K 委員の体験記です。「何も考えずに、とにかく動く、
行動する」を半年間くらい徹底したら、とらわれのどん底から徐々に本来の自分に変わっていったそ
うです。長谷川先生の「行動によって性格は変わる」の模範例のようですね。
同時に、対人関係よりもまずは自分とつき合っていくことを大事にすることで、対人恐怖から抜け出
す第一歩になることにも気づかれたそうです。この自分との対話は、それまで「こんな弱い、情けない
自分ではダメだ、すぐ治さねば」と突き放し、自己否定することから、「自分は逃げたいと感じやすい
人、弱い人を認め、できる範囲をがんばろうよ」という「自覚に基づいた身の丈の努力」にあたるので
すね。先月の講話とともに、行動・体験を通して初めて見えてくるものがあること、そのままの自分と
素直に向き合うことの重要性を、元気一杯の K 委員を間近にして実感しました。(K)
H24 年 2 月号(No.255)
体の声を聴く-H,N,氏-第 29 回日本森田療法学会での発表より②-発見誌 2 月号 P.64~66
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そして私は、症状の“歩きにともなう微妙な揺れ”と向き合うために、歩き中心のチラシ配りの仕事
で再就職しました。
三年目の暑い夏のことです。バテ気味でふらつきが強くなって「やっぱり、ふらつきはなくならない」
と落胆してしまいました。でも数日後、トボトボ上る階段で、ふらつくと同時に倒れまいとして足腰に
力が入って支えてくれるのを感じて、発症以来、はじめて力強い自分(感覚)を発見したのです。救わ
れたと思いました。
私はあきらめ気分になっていたために、微小のブレ感覚から瞬時に、浮かび上がる「弱い自分」とい
う強迫観念から「なんとかしよう」と、意志力でもって「足腰に力を入れる(作為))というこれまでの『一
連の条件反射的な感知と動作の神経回路』への注意が薄れていたのです。このことによって、無作為の
自然な動きと力強さを取り戻し、これまでの対応が間違ったはからいであることがわかったのです。
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私は「事故をおこすのではないか」という運転恐怖から、本当に必要に迫られた時以外は運転するこ
とを避けています。乗っていないので、運転するのがますます怖くなるという悪循環がもう長い間続い
ています。
しかし、乗ったときは、体が条件反射的に危険を察知し、それなりに安全運転をしているのだと思い
ます。そのことはあまり頭にありませんでした。体が自然にやってくれている、もっと自分のからだを
信じてみようと思いました。(M)
H24 年 1 月号(No.254)
森田療法の人間観-はっ犬君のはっけん森田 7 より-山中 和己相談役、発見誌 12 月号 P.31~
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~対人恐怖にとらわれているひとが,いきなり人とうまく交際しようとしてもできにくいし,結果
としてたいてい失敗におわります。
(中略)どうしてか?いわゆる対人恐怖のひとは,とらわれた初期
から,自己内省性による劣等感にさいなまれる。そのため理知面に混乱がおきやすくなって,「観念的
な独断」におちいってしまう。いったん,とらわれたときには,すでに対人関係における感じ方・と
らえ方がゆがんでしまっているのです。そんな状態で,ムリに人とかかわろうとすると,ますます「思
想の矛盾(かくあるべし」をつよめてしまいます。
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対人恐怖の悩みをもつ自分は何となくこの文章が目に留まりました。
主に職場の人間関係で人の思惑が気になり,いい人と思われたいという気持ちが強く,その反面,人
に対する欲求も強く,
「あの人は立場上こうあるべきだ」とか,「なぜ,あの人はこういうことに気づか
ないのか?イライラする」など葛藤や不満が募ることが時々あります。また,自分のとってしまった行
動に,いつまでも「本当にこれでよかったのか?」,
「ああすべきではなかったのか?」など考え続ける
時があります。気をつけないと思い込みが強いことがあり,何か起こってから思い込みから取った行動
を反省することがあります。
対人関係における感じ方・とらえ方がゆがんでいるかどうかは自分ではわかりにくいと思います。自
信がない時は,客観的にみるためには誰かに相談するしかないのでしょうね。観念的な独断にならない
よう気をつけたいものです。(S)
H23 年 12 月号(No.253)
森田療法の人間観-はっ犬君のはっけん森田 7 より-山中 和己相談役、発見誌 12 月号 P.28~
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「治してはいけない」ということ
そこでまず、森田理論を学ばれるときに、基本的に踏まえておいてもらいたいことがあります。これ
はきわめて大事なことです。
ひとくちにいって、森田療法はもともと世界でただひとつの「治さない療法」なのです。だから真髄
のところを、「あるがまま」とも「そのまま」ともいいます。「治そうとしたら十年、二十年かかって
も治らない」というのが、森田正馬先生のことばです。(略)
わかりやすくいえば、森田先生は「自覚」といわれていますが、そのひと自身の「たしかな事実への
気づき」をうながすこと。これが森田教育(再教育)の中心課題になります。
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「治そうとしたら 10 年、20 年かかっても治らない」という森田先生のことば、初めて聞いたとき、
まったく理解できませんでした。「治したい、何とか強くなりたい」と思って努力する人たちのために、
森田療法・理論があるのではないか?自分で治そうとしないでいたら、ただの怠惰のひとではないか?
いつまで経っても治らないのは、治そうという気持ちが弱いせい、理論学習が不足しているせい、努
力しているつもりでもまだまだ努力が足りないせい等々、ずっと錯覚していました。
最近、ようやく少しわかってきたのは、この治そうという努力こそが「思想の矛盾(=不可能の努力)」
に直結しやすく、ますます悪循環を繰り返すための負のエネルギーになりやすいこと、このことを最
初にきちんと習得していたかどうかで、その後の行き着く先は正反対になりかねない大事なこと、等
です。「治そう」ではなく、「自覚」なのですね。4 月号の伊藤先生の「逃げている自分、甘えている
自分を自覚することから始めよう」と思っていると、そのとおりだったことが見え始めました。(K)
H23 年 11 月号(No.252)
【女性の生き方の多様性とメンタルヘルス】-発見誌 11 月号 P.2~11 より
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森田は、「自然に服従し、境遇に柔順であれ」とし、事実はそのまま受けとめ、周囲の境遇に応じて
工夫する必要性を述べています。それは、変えられないものはそのまま受けとめ、変えられるものにエ
ネルギーを注ぐことを意味します。つまり、変えられるものと変えられないもの、できることとできな
いことを「分けること」、そして不可能な努力はあきらめる必要があるのです。……中略……
相手に自分の思いを伝え、話し合うことは必要ですが、それはお互いの理解を深めるためのものであ
り、相手を思いどおりに変えることではありません。そして実際、他者や環境を思いどおりに動かすこ
とは不可能なのです。
それゆえ、この行き詰まりから脱して、自らの願望(縦糸)と、自分に関わるもの(横糸)との調和
を図るためには、事実を事実として認めることが必要です。
具体的には、相手や環境はすぐには変えられない事実として認め、そのなかで自分の願望に少しでも
近づくためにできることを具体的に探索することが重要でしょう。
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我が家は荷物が異常に多く、ベストセラーになっている「人生がときめく片づけの魔法」を読んだの
をきっかけに家を少しでもスッキリ片づけようと思い立ちました。同級生もこの本を読んで片づけの真
っ最中だという話を聞き、ますますやる気になりました。最初は自分の部屋から始めて、まあまあ片づ
き使いやすくなり、気分も爽快。その次は…と思ったところで問題発生。というのは、家の荷物の大半
は母親の物。「使わない物は少し処分して使いやすくしましょう」といくら言っても「どこも傷んでい
ない物は処分する必要はない」と言い張って、まったく協力してもらえません。しまいには怒り出す始
末。物があふれタンスや戸棚の中はぎっしりで何がどこにあるのかもわからない状態でもいいと言うの
です。物が無い時代を生きてきた 77 歳の母親は使おうが使うまいが「持っている」というだけで満足
のようです。家をスッキリさせたいと思っているのはどうも私だけで、母親はそうではないということ
がよくわかりました。母親を変えることは不可能です。母親にしてみれば私は「自分の思い通りにしよ
うとしているとんでもないヤツ」なのかもしれません。一つ屋根の下にいると日々いろいろなことがあ
ります。高齢の母親を優先してあげようという気持ちと、何かあると大騒ぎする母親が面倒で自分さえ
我慢すれば丸く収まるという気持ち、我慢することが多いですが、あまり我慢が続くとストレスがたま
り、冷たい対応やウツ状態を引き起こします。そこで折り合いが大事なんですね。(M)
H23 年 10 月号(No.251)
随想「負うた子に・・・・・」-M.N.氏- 発見誌 9 月号 P.64~66 より
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○ かこ
かこにはぜったいいけない
タイムマシンってないし
かこにいけるどうぐもない
かこがわるいなら
みらいでいいことをすればよい
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これは N 氏のお孫さんが書かれた詩とのことです。私は子どもの頃に性格が悪く(今も本質は変わっ
ていませんが)、イジメをしたり,好きな女の子に酷い態度をとったりしていました。思い出すたびに、
本当に自分は沢山の人を傷つけてきたと自己嫌悪になっています。しかし、この詩を読んだ時に救われ
た思いがしました。ああ、そっか、これから人のためになることなどをして償えばいいのかと。傷つけ
た方々には何かの機会があれば謝りたいなとも思っています。
忙しさから「つんどく」状態だった発見誌も通勤途中の電車の中で少しずつ読み進めてきて、やっと
10 月号の途中まで追いつきました。つんどく状態がプレッシャーになっていたので、ホっとしています。
(S)
H23 年 9 月号(No.250)
「逃げてる人よ」 -「小樽の人よ」の替え歌
作曲:鶴岡雅義
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1
2
3
逃げたい気持ちが ままならぬ
森田で学んだ 思想の矛盾
逃げたい気持ちは ままならぬ
わたしの心は 悲しく弱い
すぐにはわからぬ 大事な意味よ 不安は必要 人間だから
本当の自分を そのまま出さず
理屈に合わせようと 心を操作
迷いつくした 月日の後に
ああ 強いフリして きたけれど ああ そんな思いが がんばりが ああ 少し気づけた 僕だから
変われはしない 強い人には
自分を見失う 原因と言う
もうすぐなれそう 本当の自分に
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今月は、少し遊びの気分も入れて、替え歌を作ってみました。原曲は、東京ロマンチカ(ボーカル;
三条 正人)が歌って流行った「小樽の人よ」です。原詞の出だしの「逢いたい気持ちがままならぬ」
が印象的でした。「逢いたい」を「逃げたい」にしたら面白いのではないかと思ってやってみたら、意
外と簡単に 3 番までできました。
「逃げてはいけない」は普遍的真理です。でも、「弱いから逃げてしまう=弱い気持ち・自分が諸悪
の根源」と考えだすと、「弱気の否定、強い人への変身願望」⇒「正しい理屈、立派な理屈に合わせる
努力・強い精神力を持ち続けて対処しようとする努力」というようなパターンにはまる場合もありま
す。すると、ちょっとでも弱気が生ずることを否定し、それをごまかし、強いフリをするだけで、立
派な理屈に現実の不甲斐ない自分をムリヤリ合わせる必要があると誤解してしまいます。
そうです、これこそ典型的な「思想の矛盾」ですよね。本当に紙一重の差で、とても誤解しやすい
のですが、「逃げたらいかん」自体はそのとおりなので、自分の今のこの努力こそが唯一の救われる道
と一途に思い込んでしまうと、この誤解に自分で気づくのは中々容易ではなく、強い自責の念につな
がるように思います。お互いに気をつけたいものです。(K)
H23 年 8 月号(No.249)
【森田療法の伝道者 水谷啓二と共に 4】「逃げずに」 発見誌 8 月号 p.36~40 より
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私ども神経質者は、たいへん自己中心的で、他人のことなどあまり考えない人間です。つまり他人
に対して心の冷たい人間であり、極端にいえば悪人なのです。人に嫌われても仕方のない人間なので
す。まずそのことを、お互いにはっきり認めようではありませんか。そして、そこから再出発しまし
ょう。
私どもは自己中心的で、人に迷惑をかけることの多い人間です。したがって人に嫌われても仕方あ
りません。しかし人に嫌われるのはつらいことだし、多くの人から嫌われる一方で、好かれるという
ことがなければ、生きていくのに困りますね。好かれたいということも、私どもの心の事実でありま
すから、それも素直に認めることにしましょう。
そうすると、人に好かれるためにはどうすればいいのかということを、具体的に考えるようになり
ます。そして好かれるためには、少々苦しくても、また恥ずかしくても仕事を真面目にやって職場の
役に立つということと、まわりの人々にできるだけ親切にすること、つまり他人の幸福に寄与するこ
とが必要だ、ということがわかってくるはずです。
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自分ははたして善人?悪人?この頃は、自分は善人でもあるし、悪人でもあるということがようやく
わかってきました。そして人は誰でもそうであることも。
以前は自分は悪人であるはずはない、人にも善人と何とかわかってほしいという気持ちが強く、そのた
めかなり無理をしていました。善人と思われたところでただの自己満足に過ぎません。そのためになん
と多くの無駄な時間を費やしてきたことでしょう。最近は少しずつですが「良く思われたい気持ちはい
っぱいでそれを持ちながら、どう思われようと物事がスムーズに進むことを優先する」ということがで
きるようになってきたように思います。そして善人とか悪人ではない自然体の自分をわかってほしいと
思うようになりました。またそれと平行して自然体の他人を受け入れてみたいと思うようにもなりまし
た。(M)
H23 年 7 月号(No.248)
■とらわれはとらわれるほかに致し方ない-心の事実 - T.I 氏- 発見誌 4 月号 p.24~より
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~ 人生はただ無為に生きるだけでも大変なことなのです。一生に誇るべきことをなしとげた人は、謙
虚に感謝すればよい。もしできなくても恥じることはない。生きることそのものが大変なことです。
五十年、六十年生きたという人は、もうそれだけでもほめてあげてもいい。どんな人生であっても、
それなりに一生懸命、必死に生き続けてきたことに違いないのです ~(五木寛之氏のことばより)
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これを読んだ瞬間,ほっとするものがありました。
最近,また鬱気味となり,1 日の中で気力が低下する時間が何回か出てくるようになってしまいまし
た。心身がだるくて辛いなと思っていたので,生きるとは大変であるという言葉が身に染みました。
4~6月にかけて仕事が忙しい状態が続き,それが一段落した頃,何だか燃え尽きたという感じがし
ました。反動が来たのかもしれません。やっと抗不安薬の服薬から解放されると喜んでいた矢先に、急
に気力が低下し、がっかりしました。2年前だったら、もっと気力があったはずとも思い、今の忙しい
部署に自分の存在は不適格なのではと自己否定が始まってしまいました。仕事が休みの日でも心身がだ
るく、子供には申し訳ないのですが,育児が負担と感じてしまいます。今後も、この状態が続くかもし
れないと思うと仕事に行きたくなくなります。1年に2回も療養休暇を取ると,味をしめて,逃げ癖が
ついてしまったようです。気分本位なのか、鬱状態なのか、自分でもわからない時もあります。2度の
療養休暇を経験してから自分の心の状態に過敏になってしまったのかもしれません。
振り返ってみると、10 年くらい前から、自分はオーバーペースで仕事に取り組んできたのかもしれ
ません。自分のキャパシティー以上にがむしゃらに頑張ってきた気がします。この鬱は、そんな自分に
警告を出しているのでしょうか。
ずっと読む時間がとれず,とんどく状態だった本達を、今、遅れを取り戻すかのように読んでいます。
発見誌もその1つです。昨年 11 月号から溜まっていました。やっと 4 月号まで追いつきました。(S)
H23 年 6 月号(No.247)
「かくあるべき自分」から「自然な自分」へ -「神経症の成り立ち」A.I 氏- 発見誌 6 月号 p.24~より
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「緊張する」はただ緊張する、「溶け込めなくて惨めだ」と感じるときはただ惨めに感じている、
気分が落ち込んでいるときはただ落ち込んでいる。心をやりくりせずに、ただそれに任せていると、
心は次から次へと自然のままに流れていく。その結果、頭で考えた生きかたでなく(「あるべき自
分」を求めることが逆に私を苦しめてきたのです)、まわりの自然、自分の自然に沿った生き方に
なっていくのだと思います。
私は「人間は夢や生きがいを持たなければならない」という頭でっかちな理想を持っていました。
それが「思想の矛盾」を生みました。でも、その根底には「よく生きたいという、やむにやまれぬ
欲求が横たわっているのです。これは否定すべくもない厳然とした私の事実です。
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筆者は「自然に起こる感情を取り除こうとしない」、
「症状にではなく目前の必要なことに注意を向け
る」の 2 点を学び、実践していくうちに症状に悩まされることが少なくなったそうです。そしてマイナ
スの感情も素直にそのまま感じることの大切さに気づいて、それを繰り返すうちに自分を責めることが
少なくなり、ラクになったそうです。さらに、神経症とは別ものと思っていた抑うつ感や空虚感が沸き
上がってきたときも、それを排除しようとするのをやめ、自分の内にある、何ともいえない嫌~な気持
ちをしっかり味わおうと覚悟を決め、逃げたい気持ちがあってもそのままにして、実践を繰り返してみ
たところ、抑うつ感も驚くほどに変化していったそうです。
私の場合、誰かが「森田を長年勉強してきたのに落ち込んでしまった」と言えば、「違う、違う。森
田は落ち込まなくなるものじゃなく、たまには落ち込むのが自然だと言ってるんですよ」と、よく知っ
たかぶりをしていました。しかし、自分のこととなると、理屈だけでラクになろう、心を外に向けるこ
とによって忘れようとしているために「あ、惨め感が湧いてきた、落ち込みだ」と感じたその瞬間、条
件反射的に「こんなマイナス感情はすぐ消し去ろう」としているのが現状です。
頭でっかちな自分が勝手に決めた不可能な理想に合わせようとするのではなく、「ただ嫌な感情をそ
のままに感じ、味わっている」ことが大事なのですね。(K)
H23 年 5 月号(No.246)
再録シリーズ「強い心―本当の強さとは―」発見誌 3 月号 p.40~48 より
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p.46 神経質者は完全欲が強い。完全欲が強いということは、一面、欲求水準が高いということであり、決して
真の劣等者には起こり得ないことである。だが、神経質者においては、これがしばしば幼児性と結合すると完
全欲は正しい機能を果たさなくなる。たとえば、人に対して不用意なことばを口にしてしまった。仕事のうえで一
つ失敗をする。すると「もう自分はダメだ」というふうに、自分のすべてを否定してしまうのである。また神経質者
は、一歩一歩の着実な積み重ねの努力なしに、しばしば結果を手に入れようとする。当然のことながら、思うよ
うにことが運ばない。すると、自分はダメだとたやすく絶望する。そして、失敗の不快感だけをやりくりしてとり除
こうとする。こうして「はからい」によって悪智から悪智へとマイナスの循環がはじまってゆくのである。
p.47 武者小路実篤は「なにも書くことがないと思っても、机の前にすわり、原稿用紙をひろげてペンを持つと
なにか書けるものだ。だから、とにかく机の前にすわるのだ」といっていたが、これは彼が体験から得た知恵だ
ろうと思う。とにかく、すわりこんだまま容易に行動に入ろうとせず、そのため、かえってこれから果たそうとする
ことが大きく重くのしかかり、いよいよ手が出せなくなってしまうという傾向を多分に持つ神経質者の覚えておく
べきことである。
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文章を読んで自分の現状がよくわかった気がします。仕事でちょっとした失敗をすると自分を全否定
してひどく凹んだり、失敗そのものよりもとにかく不快感を取り除こうとやりくりし、さらに泥沼化の
繰り返しです。失敗から学ぶことも多いし、失敗して初めてわかるのに、その大事なことを忘れて、不
快感ばかりが気になります。これは幼児性からきていることだったのですね。
座って考え込んでばかりが多いですが、これが不安をさらに大きくし手が出せなくなってしまう原因
だということもよくわかりました。よく自覚して、できるところから手を出してみようと思います。(M)
(お知らせ)
H23 年 3 月、4 月の「みと納豆」各号は大震災、レクレーションのため、休刊です。
H23 年 2 月号(No.245)
そのままでええんやで -体験記「二度の休職を乗り越えて」- 発見誌 2 月号 p.9~16 より
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「そのままそのまま,そのままでええんやで」というこのことばは、私の心に響きました。
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体験記を書かれた方は,同僚の視線や思惑が気になり,うつ状態に陥り,二度の療養休暇をとってい
ます。
皮肉にも,私も昨年の 7 月に半月ほど,そして今回 1 ヵ月間の療養休暇をとっています。診断は鬱病
です。原因は,現在の仕事に馴染めないこと,係長というポジションをこなすことに自信がなく将来に
強い不安を感じたこと(対人恐怖的心理から指示がなかなかできす,自分で仕事を抱えてしまい,仕事
が滞ることが少なくなかった),自分の理解力・判断力・リーダーシップに自信がないこと(自分の存
在が現在の部署に迷惑をかけると思った),上司との人間関係などと思っています。
「そのままでええんやで」。まさに「あるがままの自分でいいんだよ」ということを言っているのだ
と思います。
1 年の間に二度も療養休暇を取っている情けない自分。本当はもっと頑張れたのかもしれないのに逃
げてしまったのではという後ろめたさが強い状況です。新年度からは降格して,以前の慣れた部署に移
動させていただくことになりそうです。復職するときは強烈な不安が襲ってくると思いますが,「その
ままでええんやで」の姿勢で立ち直っていくしかないのでしょうね。(S)
H23 年 1 月号(No.244)
努力をはばむもの -「努力即幸福について」長谷川 洋三 先生- 発見誌 1 月号 p.53~より
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取越し苦労ばかりして、積極的行動に出られないという悩みの根本は、取越し苦労なしに積極的
な行動に出たいというところにあるのではないか。いやな思いや心配をしないで、積極的行動に出
、 、 、 、
たいのだが、それができない、というところにあるのではないか。らくらくと努力したいというの
と同じである。無理な注文というものだ。(略)積極的行動について、絶対的な安全成功の絶対保障
などあるものではない。(略)日頃しなれた行動にだって、そんな保障はない。大体、明日のいのち
の保障すらないのである。(略)
すべては不可能なことを可能にしようという誤った考え方であり、誤った努力である。いわゆる
、 、 、 、
「悪智」であり、「悪智」に基くはからいである。これによって、どれほど私たち人間に備わった
自然の能力の発揮が妨害されていることであろう。私たちの学習の第一の標的は、この「悪智」の
打破になければならない。
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再録シリーズで、29 年前、1982 年 10 月号に掲載された記事だそうです。
「努力即幸福」の努力をは
ばむものは「私たちの内部にひそむ、内なる自然に対する反逆=感情を意のままに、不安を自信に変え
よう。性格も善いところだけの人になろう」であり、その例として、上の引用部のほか、"あるがまま"
は理解したのに"あるがまま"になれない悩みについても解説されています。これらのことは、一番最初
に学習し、既に十分承知している基本のはずですが、「それでもなお、ちょっと油断をすると、内なる
自然に逆らいがちである」と述べておられます。
私の場合は「ちょっとした油断」というよりも、"あるがまま"等のことばを知っただけで、森田理論と
いう理屈を強く意識し続ければ、楽々と実践課題に沿った行動を積極的に継続し続ける能力がでてくる
と誤解していました。このことに気づくのに長い時間がかかりました。この誤解や油断を補うために、
集談会に集う仲間が、「不可能を可能にしようとする努力と気づかずに、ついついやり続けていない
か?」との森田の基本にかかわる問いかけの大切さを認識し、気がついたらお互いにそっと言ってあげ
られるような場になればいいな、と思います。(K)
H22 年 12 月号(No.243)
「愛する」ということ-発見誌 12 月号 P.46~52 より
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・「愛するということは抽象的な観念なのではなく、具体的に相手に何かを「してやる」ことであり、相手のために
「自分を投げかける」ことなのである。
・そして人一倍「愛したい」「愛されたい」と考え、世界との相互性を求めようとする。それにもかかわらず、神経
症の人々は自己の内に必要以上に目が向き、求めるのとは裏腹に、世界から遠ざかってしまう。
・このように神経質の人は一般に、自分の症状への執着は非常に強いが、具体的な物事や人への配慮は非
常に少ないか、あるいはあっても症状を理由にして表現しないのである。この場合、いくらその人に相手を思い
やる気持ちがあったとしても、具体的な行為によって示さなければ「何もしなかった」という事実が残るだけであ
る。
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「こんなことを言ったら、変に思われないだろうか?気分を害さないだろうか?嫌われるのでは?」
いつもこう考えてしまい、結局言わないでしまうことが多々あります。あるいはモジモジしているうち
にタイミングを逃してしまったり。いつも注意が自分に向いているのです(相手のために憎まれ役のでき
る人はすごいと思います)。
表現することは苦手で下手、これは仕方ないとしても、せっかくの相手を思いやる気持ちを無駄にし
ないように、相手に伝わるように、表現してみようと思います。表現といっても、構えたり大げさに考
える必要はありませんよね。できることから始めればいいのですから。たとえば、道で会った知らない
人にも余裕があれば挨拶してみる、小さい子供には笑顔で接する、いつも連絡をもらう友人にはこちら
から連絡してみる、、
、いろいろ浮かんできました。何だかできそうな気がしてきました。(M)
H22 年 11 月号(No.242)
思想の矛盾につながる不可能の努力-K 氏 発見誌 11 月号 P29 より
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(前略)“理論学習で正しい知識を得て,感情には目もくれず,不安のままに,とにかく実践・行動
しなければならない”というのが森田の教えだととらえました。(中略)“感情の法則を唱えること
で,不安を静め,弱気を去って行動しよう”とした「不可能の努力」でした。
「正しい知識」と「強
い意志の力」を使って,不安感をなくし,楽に行動しようという努力でしたから思いどおりにならな
いのは当然です。(中略)「(思想の矛盾)と不可能の努力は,まさに森田の出発点であり,基本・神
髄ではないかと思います。
(中略)自然に湧きあがるさまざまな感情に対して,恐怖・不安やその他
異常と思う感覚を否定,排除しようとする努力も「不可能の努力」です。
(中略)
「行動にも二通りあ
り,①能動的に自分から勇気をつけてやる,②受動的にやむを得ずやる。①が軽快,②が根治。①は
悪知,思想の矛盾につながることがある」。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「思想の矛盾」とは難解な表現ですが,K 氏が言うように「不可能の努力」と考えるとわかりやす
くなると思います。
私は今年の4月に部署が代わってから,慣れない業務や厳しく相性の合わない上司が原因の不安で
仕事に行きたくないと思う日が多くなりましたが,
「不安だけど,とにかく頑張って行くぞ」と自分
を奮い立たせるより,「嫌だなぁ。仕事に行きたくないなぁ。でも仕方なしに行くかぁ」と思いなが
ら,しかめっ面で歩きながら仕事に行き,嫌な気分のまま仕事をしているうちにいつの間にか何とか
仕事に集中しています。(S)
H22 年 10 月号(No.241)
うつ病とうつ状態-「現代の仕事とうつ病」 市川 光洋 先生 -発見誌 9 月号 p.7~8 より
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森田先生の最初の著作『神経衰弱及神経質療法』を見ると、いろいろなケースが出てくる。その
中で、(略)いわゆる神経質症ではなくて本当の神経衰弱のケースがあるんですね。
その人は女性で琴のお師匠さんで、毎日 12 時間以上弟子に稽古をつけて、さらに家事もしてい
るという、ものすごく働く人だったのですね。やっぱり働き過ぎて参っちゃって調子悪くなってい
る、この人は休ませなくちゃいかん、休んだらよくなったというのが書いてあるんですね。
ですから森田先生は、今で言ううつ病と神経症とは臨床的な区別をしているわけですね。神経衰
弱といったけれども、あの頃はアメリカで神経衰弱というのが言われて、これはかなりうつ病と神
経症が混じって入っているんですが、いわゆる休養とか刺激を避けて、ゆっくり回復しなくちゃい
かんようなものも実は入っている。それはきっちり区別していたんですね。
ですから、うつ病とうつ状態というのはしっかりと区別しないと、治療法を間違えてしまうとい
うことです。
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「うつ病」と「うつ状態」、表面的にちょっと見ただけではまったく同じように見えてしまいますが、
これらへの対処法は、まったく正反対にする必要があるということです。
この見極めは、本当に難しいことだと思います。良かれと思って、森田の「成すべきを成す」などの
助言や励ましをうつ病の人に対してやってしまったら、まったくの逆効果となります。逆に、森田神経
質の人に、休養や安静、服薬だけを言っていたら、いつまで経っても治らないばかりか、悪化を招きま
す。こんなことを言うと怒られるかもしれませんが、私の少ない経験から言うならば、心療内科等の看
板を掲げたお医者さんでも、この見極めは、中々容易ではなく、そういう診断が出たからといって、そ
のまま鵜呑みにするわけにはいかないよう場合も多いように思います。
そういう意味で、市川先生のこのお話は非常に貴重なものと思います。これらをよく理解して、身近
な人からの相談を受けたときには、少なくとも正反対の助言はしないように気をつけたいものです。(K)
H22 年 9 月号(No.240)
不即不離(現代に生きる森田正馬のことば II、P140~141 より)
神経質者の考え方、あるいは精神修養の誤ったものは、その怖いという心を否定・圧迫し、一方
には近づきたいという心に、いたずらにむち打ち、勇気をつけようとして、無理な努力を工夫し、
その結果は、かえって精神の働きが萎縮し、片寄ったものになってしまう。怖くないように思おう
とするから、いたずらに虚勢を張ってかたくなになり、強いて近づこうとするから、相手の迷惑な
どにも、少しも気がつかず、図々しくなって、しまうのである。
これに反して、両方の心が相対立しているときには、相手に接近してもくっつききりに即しない、
すなわち不即の状態で、相手の喜ぶときには、近づき、相手の迷惑のときには、ちょっとその場を
はずすなどである。また一方には、怖いために、離れていても、離れきりには、ならないで、ちょ
っと相手の話し声がするとか、暇なときがあるとかいうことを、きわめて微妙に見つけて、ただち
にその近辺に近づいていくというふうに、不離の状態になる。つまり即するでもなく、離れるでも
なく、常にそのかけひきが、自由自在で、きわめて適切な働きができるのである。
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☆家の母は来客があるとわかると、早くから茶菓子を用意し、茶の間にデンと待ち構えています。付き
っきりで応対しないと失礼にあたると思い込んでいるようで、来客もさぞかし疲れることと思います。
私も極端なところがあり、人と微妙な距離がなかなかとれず、くっつきっぱなし、離れっぱなしが多い
です。
家には外猫がいるのですが(1年位前から軒下に住みついています)とても警戒心が強く(人間に相
当いじめられたという印象)エサをあげながらも、なかなか近づけませんでしたが、発見会の猫の好き
な方から「森田でいうところの“不即不離”でやっていれば向こうから近づいてきますよ」と教えても
らい、様子を伺いました。それまではかまい過ぎていたようです。今は遊んでほしいときのサインがわ
かるようになり、それ以外はただ見守っています。忘れないのは「おはよう」「ただいま」の声かけで
す。「ニャッ」とかわいい声で応えてくれます。
外猫に「不即不離」を学んでいます。それを人間に応用できるかどうかは、自信ありませんが、、、(M)
H22 年 8 月号(No.239)
不安常住(M.H 理事、発見誌 8 月号、 巻頭言 p. 1 より)
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「不安はとれないし,とる必要もない」,「不安をもつたままでも十分やつていける」ことが実感
できるようになっていった。確かに不安は嫌な感情だが,不安に学ぶことも多い。(中略)このごろは,
もしかしたら不安はなくてはならないものなのかもしれない,と思う気持ちが強くなってきた。不安
があるから事前に準備や努力をするし,死の恐怖があるからこそ「今を精一杯生きよう」という気持
ちになれるのだ。
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本田正樹理事は以前水戸集談会へ講話に来ていただいたことがあり,心に残る話をしていただき,とて
も印象に残っている方です。
私も「もしかしたら不安はなくてはならないものなのかもしれない」と思えるようになりたいもので
す。しかし,今の私は毎日「今日も無事一日仕事をこなせるのだろうか」などの強い不安が一杯で,「不
安はなくてはならないものなのかもしれない」と思える日はまだまだ先のようです。
でも,順調に仕事をしていた頃を思い出すと,確かに仕事に対する不安はいつもありましたが,それにより
いろいろ対策を考え,実行して成果を上げてきたのは紛れもない事実です。嫌な感情ではありましたが排
除しようとはしていなかつたと思います。それが「不安常住」の状態だったのでしょうね。(S)
H22 年 7 月号(No.238)
恐怖突入(「かくあるべし」は虚偽(森田正馬) K.Y 相談役 発見誌 7 月号 p.25~27 より)
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内向性の強い対人恐怖者などでは、恐怖突入に立ち向かおうと、始め、その人なりに果敢に挑戦
を繰り返す・・・・が、やがて疲れはてて挫折する。そういう人たちもまた多いにちがいない。ま
ぎれもなく私もそのひとりだった。(略)
(ある仲間の方の)体験記には、「『恐怖突入』しようとすればするほど、恐怖の壁は高くなった」
「森田への不信感がつのり、疲労困憊した」とつづっておられる。
では、そこからどのようにたちなおられたのか。ご本人の表現によれば「『恐怖突入』という名
の大きな壁は、あえて破る必要なし」ということばに学ばれ、みずから気づかれた。するとこころ
の落ち着きをとりもどす・・・・。その結果、「しかたなしに、やむをえず」という姿勢でとりく
むようになり、まもなく電車に乗れるようになっていかれた。もちろん、運転室にも同乗できる。
こうして優秀な社員として、ずっと職務をまっとうされたのである。(略)
「昭和七年頃から森田先生は『恐怖突入』を言わなくなりました。(略)・・・・先生は、『恐怖突入』
は意志の力が入るから遠回りになることに気づいたのです」
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「恐怖突入」については、森田理論の基本中の基本であって、恐怖に負けず、逃げずに実践を積み重ね
ていかねばならない、すぐできなくても挑戦を繰り返すしかない、とずーっと思ってきました。
しかし、『本態と療法』にも、上の引用の下 2 行にもあるように、「恐怖突入」を金科玉条にすること
は、意志の力が入ってきて、逆効果になる場合もあるから要注意、と森田先生は考えておられたという
ことですね。
この体験記の方は、電車の運転乗務の時に、自分めがけて前方から枕木がたばになって飛んでくるよ
うな恐怖感に襲われていて、「恐怖突入」の涙ぐましい努力の結果は恐怖感の増大だったそうです。この
後、「恐怖突入しなければならない」というとらわれに気づかれ、余裕を取り戻し、「仕方なく」の姿勢で
取り組むようになって立ち直られたそうです。自分も「『恐怖突入』しようとすればするほど、恐怖の
壁は高くなった」気がします。うわべだけの知識に基く思い込みは悪智につながるのですね。(K)
H22 年 6 月号(No.237)
自然に服従し、境遇に従順なれ(現代に生きる森田正馬のことばⅡ P84~85 より)
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なお「毛嫌い」ということについて、最も簡単なことがらで、たとえば、彼の顔の長たらしくカン高
い声が気に食わないとかいうことでも、強いて自分の心に反抗せず、そのままに毛嫌いしていれば、し
だいにその不快な感じに慣れて、気にとめなくなり、また一方には、その人の良所を発見して、眼もと
が可愛らしいとか、気合がよいとかいうふうに、その人が好きになってくることが多い。 …………
兄弟・家族とか、同級生とかいうものは、その境遇上、しかたなしに、一緒にいて、自然に「境遇に
従柔」ということになっているために、少々性格が違いあるいは気に食わないことが多くあっても、な
んとはなしに親しみができ、相離れるのが心苦しくなるとかいうことも、みな自然に従うということの
結果であります。親から押しつけられた愛情のないような夫婦でも、素直な心で、いやいやながら我慢
して年月を経るあいだには、自然に愛情の育ってくるものである。
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☆両親は見合い結婚です。母の話によると見合い時初めて父の顔を見た以外、結婚式まで 1 度も会うこ
とはなかったので、どんな顔なのか忘れてしまったそうです。好きでも嫌いでもなく、親のすすめるま
まに結婚して 50 数年、いつも「失敗した」と言って父に悪態をついていますが、自分の心のままに生
きているから、今までも続き、これからも続いていくのでしょう。
私は現在の仕事を始めて約 1 年近くが経ちますが、上司との関係がうまくいかず悩んでいました。上
司に対する不信感が強いのです。理不尽なことを言われ、自分勝手でズルイ人だという感じが消えませ
んでした。このままでは仕事に差し障りがあると思い、上司の良い面を探すようにしてみましたが、な
かなかうまくいきませんでした。どこかで信頼し合える理想の関係を求めていて、上司を好きにならな
ければとやりくりしていたのだと思います。もう嫌いなままでいいからこのままやってみようと思った
頃から、少しずつ変わってきたように思います。最近は上司の良い面が自然に見えてくるようになりま
した。私にけっこう気を遣ってくれているのがわかったり、あまり仕事をしない人かと思っていたのが、
知らないところでやっているのに気づいたり、
「けっこういい人なのかもしれない」と思えてきました。
(M)
H22 年 5 月号(No.236)
ひきこもりと思春期(発見誌 5 月号 81~91 ページより)
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「あなたがそうやって元気で生きてくれればそれだけでいいんだよ。この家にずっといていいんだよ。
外に出たくなければ出なくていい,ずっといていいよ」
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生活の発見会の協力医である比嘉千賀先生が書かれた,ひきこもりの方への対応と治療に関する文章の
一部です。少しずつ親子関係がほどけてきた時期に,子が親に「おれ,外に出て働かなくちゃならない
んだろ?」と聞いてきたことに対する親の回答が上記の内容なのですが,とにかく子の現状をあるがま
まに受け入れ,家族の中では安心していいんだということを訴えたところ,その後,子はだいぶほぐれ
ていったとのことです。
ありのままの自分を受け入れてもらえたことが,子が回復していく原動力になったではないかと思いま
す。心の悩みには共通することかと思います。
私の従兄も高校を卒業してから「ひきこもり」となってしまい,現在 50 歳くらいになると思いま
す。進路に関して親子で確執があったことが原因と聞いています。子供の頃は一緒に遊んだこともあり,
明るい性格の従兄だったと記憶していますが,それ以来全く話をしていない状態です。また,自分の長
男も気がかなり弱い性格で,今後の小学校生活などに適応できるのか心配になることがあります。ひき
こもりは自分にとっても他人事ではない問題です。
(S)
H22 年 4 月号(No.235)
心の事実(現代に生きる森田のことば II p.70[IV p.49]より)
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患者「根治法」を読んで、理屈はわかりますが、実行ができません。
先生 あなたのいうことは、結局、本を読んでも、対人恐怖が治らないということでしょう。それは、
夏は暑いという理屈はわかったが、どうしても、涼しいと思うことができないというのと同様です。
暑いのはどうしたって暑い、人前では恥ずかしい、きまりが悪い、それはわれわれの心身の事実であ
るから、どうすることもできない。どう思えばよいかということはない。こらえてもこらえなくても、
思っても思わなくとも、暑いことに相違はない。また、たとえば急に発熱して、四十度になったとす
る。苦しい。どうしたって、苦しいことに相違はない。これをどう考えればよいかとか、理屈を言え
ば言うほど、ますます苦しくなるばかりである。
患者 あきらめるんですね。
先生 あきらめることはできない。あきらめることができれば、苦痛でもなければ欲望でもない。
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「森田を長い間勉強してきたのに、落ち込んでしまった」、「思想の矛盾とは知らずに長年やっていたこ
とに気付けたのに、相変わらず苦しいまま」等々、集談会の中でもよく聞きますね。つまり、「森田の
理論学習で大事なことを学んで、そのとおりの努力を一生懸命やっているはずなのに、なぜ安楽になれ
ないの?どうすればいいの?」と考え出すと、「森田ってなんて難解なんだろう、どうしたらいいのかわ
からない」となってしまいます。
森田先生の答えは、単純・明快です。『どう思えば良いかと、理屈で心身の事実を自分の思いどおり
に変えようと無理な努力をすればするほど、益々苦しくなるのは当然のこと』
落ち込む時は誰でも落ち込むようにできている、「思想の矛盾にならないように注意しなければなら
ない」と理屈を基準にして(心身の事実を無視して)頑張れば頑張るほど、益々苦しくなるだけ。
つまり、「理屈がわかったから、それに忠実に従って努力しなければ!」という思考自体が、既に「思
想の矛盾」そのものってことですよね。理屈で自分の心を縛るから苦しいのです。逆に、「理屈だけの
万策をいくら尽くしても、どうにも仕方がない」と思えた時が本当の自分を知ることなのです。(K)
H22 年 3 月号(No.234)
発見会春秋「森田を学んで」(発見誌 2 月号 P.57~より)
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P57 何をやったか思い出せないくらい身体が瞬間的に動いていかないと試合に勝てないしまともな
剣道にはなりません。ことばにすると相手がこうやってきたからこうだ、と頭で考えると確かにそう
なのですが、実際には根本的に違うことなのですね。それをごっちゃ混ぜにして、身体で覚えなけれ
ばならないことを頭で理解して頭で治していこうとするのは、非常に間違っているわけです。
P59 「歯茎を強くしたいのなら三回やったほうがいいよ」と歯医者からいわれて、最初は嫌だった
のですが昼食後もやるようになったのですね。最初の一ヵ月ぐらい面倒くさいなと思いつつ続けてい
るうちに、身体で覚えてしまうとこんどはやらないと気持ちが悪い。だから必要なことを身体に覚え
させて脳に伝える、そういう関係が大事になってくると思います。
P59~60 睡眠なんかでも、以前は次の日に重要な仕事があるときなど、眠らなければならないと思
ってイライラしてなかなか眠れなかったのですが、それでも休んだりしないでともかく会社に行って
その仕事をやる、そういう体験を繰り返すと、なんとかなるなということを身体が覚えてくれて、睡
眠でいらいらすることもなくなりました。
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☆私は運転恐怖です。「事故を起こすのではないか。死亡事故など起こしたら大変なことになる。年老
いた両親だけでは生活できない。今死ぬわけにはいかない」などの予期恐怖が強くなかなか車に乗れま
せん。普段の買物などは自転車で済ませていますが、荷物の多いときや親戚に親を連れて行く時などは
車が必要になります。しばらく乗らないでバッテリーを上げてしまったことが 2 度あるので、バッテリ
ーが上がらない程度に意を決して乗るのですが、乗ったら乗ったで「タイヤが何かに当たったような気
がするが、ひょっとして人をひいてしまったのではないか」などをはじめ様々な強い恐怖が襲ってきま
す。「こんなに苦しいのならまた当分は乗りたくない」となっていつまで経っても同じことの繰り返し
です。
文章を読んで、頭で何とかしようと思ってもどうにもならないということがよくわかりました。「問
題なく普通に乗れている。大丈夫」ということを身体が覚えてくれるまで、苦しいけれど「車に乗る」
という体験を積み重ねることが大事なのですね。「大丈夫だよ」と脳に伝えられるまで、焦らず長期戦で
やっていこうと思います。そしてある程度自分を信じてあげることも大事なのですね。
(M)
H22 年 2 月号(No.233)
「もうこのままの私で生きていくより仕方がないと覚悟して弱くなりきったとき,考えかたが明らかに
変化してきました」 (発見誌 2 月号 P.27「
「なりきる」の二つの側面」より)
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私が今月号の「生活の発見」で一番心に留まったのは,この部分でした。
約 14 年前,今までの私の人生の中で一番どん底の時期でした。その頃の私は,職場でのコミュニケ
ーションのことで悩んでいました。誰とでも気軽に話せて,誰とでも会話が盛り上がれる人間になりた
い,そういう自分を目指していました。しかし,現実は,緊張しながら人に話しかけ,面白みの無い会
話しかできない自分がいて,理想との大きな違いにもがいていました。うつ状態になり,生きていく希
望がなく,やっとの思いで職場に出勤していました。集談会の皆さんや家族に何度も同じ愚痴を言って
迷惑をかけ,ドクターショッピングや内観,アダルトチルドレンの家族機能研究所などに通いながら辿
り着いた思いが,「今の自分は嫌で嫌で仕方が無いけれど,この自分から出発するしかない」というも
のでした。自己受容と言えるのかどうか疑わしかったですが,そこから少しずつ少しずつ好転してきた
と思っています。今でも自分のことを好きとは言えませんが否定はしなくなってきたと思います。神経
質で良かったと思える日は,いつになるかわかりませんが。(S)
H22 年 1 月号(No.232)
・短所を直さなくていいからとにかく動いてみよう(「まじめで不器用な自分を誇りなさい」 p.89/和田秀樹 より)
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(赤面症の人に)でも、「赤くなってもいいから出てみよう」と自分を元気付け、一歩踏み出すとすべ
て変わってきます。なぜなら、たとえ赤くなったとしても、人前に出て話すことができるんだと気付く
からです。劣等感や不安が消えなくても、言い方を換えれば性格はそのままでも行動は変えられるのだ
と気がつくのです。したがって、森田療法では「性格を変えよう」とは言いません。
まじめな人に当てはめるなら、プラス面もマイナス面もそのままでいいから、行動や態度を変えるこ
とで今までとは違う自分に出会えると教えます。たとえばまじめな人が思い悩むと、どうしてもマイナ
ス面だけが表れてきます。弱点や欠点だけが気になって劣等感に包まれてしまう。自分が他人にどう思
われているか気になる。気になることがいつも心を占めていて、行動がしだいに消極的になってくる。
(略)でもこういった悪循環から抜け出そうと思うなら、考えてばかりいてもやっぱりダメなのです。苦
しくてもとにかく一歩踏み出してみることです。踏み出すことができればマイナス面を忘れます。自分
の欠点が気になっても、悩みや不安があっても、行動さえできるなら何も問題ないからです。
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今月は、原著や発見誌からではなく、森田が専門ではない精神科医の本の中で見つけた森田理論を
引用した解説の一部です。「劣等感や不安があっても、性格はそのままでも、ちょっと勇気を出して、
なすべきをなす」ことの重要性をわかりやすく書いてあります。
頭の中で考えているばかりだと、どんどんマイナス面が強くなり消極的になって、それが更にマイ
ナス面を強化するという悪循環になる。そんな時、「不安をなくそう、強い性格に変えよう」ではな
く、苦しいままにとにかく一歩踏み出してみることによって、自分がマイナスと思い込んでいたこと
が、実は全然そうではなかったという事実を実感すること、不安があっても行動ができれば問題ない
という事実を体験していくことによって、まじめな自分の良さ、プラス面を引き出していけるという
ことを、易しく、わかりやすく説明していると感じました。
(K)
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