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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅

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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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ビルマ人の生活における仏教
工藤, 成樹
東南アジア研究 (1964), 1(3): 2-10
1964
http://hdl.handle.net/2433/54829
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
論
文
ビル マ人 の 生 活 に お け る仏 教
工
藤
成
樹
ビル マ連邦 を構成 す る五十 以上 の種族 の中で, その約四分 の三 を 占め る ビル マ人 の大半 は,
所 謂小乗仏教 と呼 ばれ る南方 上座部 に属 す る仏教徒 で あ る。 イ ラワジ河流域 や下流 のデル タ,
及 び海岸沿 いに散在 し,主 と して農業 を生活手 段 とす る彼等 は,
個人 ,
社会 を問わず 日常生活全
般 にわた って仏教 と密接 に結 びつ き, それ に支配 されて い る。 しか し, こ うして仏教 と不可分の関係 にあ る慣 習 や年 中行 事,或 はそれ等 の根底 にあ る ビル マ人 の思考方 法 も,仏教教 義 の上
か らは きわめて変形 を受 け歪 曲 され,純粋性 を失 って い る。 印度渡来 の仏教 が, ビル マ人 の伝
統 や解釈 に よ って きわめて ビル マ化 されて い る。 あ るものは土俗信 仰で あ る Ani
mi
s
m と結合
ndu 的要素 を と り入れ, 更 には ビル マ伝来 の 占星術 や
し,他 の ものは太 陰九 遊星 とい った Hi
錬 金術,数方 陣 (
i
nns
) を入れ て, お よそ仏教 とか け離 れ た ものが仏教 の名 の下 に行 われて い
るのを見 る ことが出来 る。今 ここで,現在 の ビル マ人社会 に見 られ る年 中行 事や宗教 儀礼 の中
か ら,仏教 の こ うした歪 曲 され た姿 の実例 を幾 つ かあげて み よ う。
1.
ビル マ人 に とって一年 の中で きわめて吉 祥であ り神聖で あ る と考 え られ る 日が幾 つ かあ る。
ビル マ人 の現在 使 用 して い る太 陰暦 に よると,満月 を中に前半 の十五乃至十 四 日が 白月,後半
は黒月 と呼 ばれ,各一 ケ月 ご とに (
1
)Tago
o(
2)Kaz
un (
3)Nayun (
4)Waz
o(
5)Wagaung
(
6)Tawt
hal
i
n(
7)Thadi
nj
wo
t(
8)Taz
aungmo
ne (
9)Nat
aw (
1
0)Pyat
ho(
ll)Tabo
dwai
(
1
2)Tabo
ur
ngの名称 を与 え られ る。 ビル マ暦 の正月 Tago
oは四月 に相 当す るが,年 間太 陽暦
との差十一乃 至十二 日は閏年 を入れ, Wえz
oを二度重ね ることに よ って解 決 され る. Kaz
unの
o の満月 は仏 陀休 息 の始 ま る 日
満月 の 日は仏 陀降誕,成道,入書
聖柴 の 日と して尊崇 され, Waz
と して重 んぜ られ る とい うよ うに,各 月 とも満月 の 日は きわめて吉 祥神聖 な 日で あ るが, と り
z
o(
七 月), Thadi
nj
wo
t(
十 月), Taz
aungmo
ne (
十一月), Tabo
ung (
三 月) の満月
わ け Wa
は,誕 生 日,婚 礼 日, Shi
nbyu (
入門式) と並 んで重視 され る。 こ う した吉 祥 と考え られ る 日
や,或 は 時 な らぬ 大風 や 豊作 の後, 病 気 回復 の 祈願 の際 に 行 われ るのが Paya Ko
z
u Sum
Kywe で あ る。訳せ ば,尊崇 せ らる可 き九 神 -の供養 の意 で あ る。
Wえz
o か ら Thadi
nj
wo
t にかけて の 三 ケ月 は, 地上 にいた仏 陀 が雨 期 の到来 とともに, 休
- 2-
息 の為天 に上 り,兜率天 (
Tus
i
t
a) に滞在 す る期間 と伝 え られ, この間休息 の仏 陀をわず らわ
さない為旅行,結婚,転 宅等 は中止 され る。十月 の満月 の夜,再 び地上 に戻 る仏 陀 の道 を照す
為,万灯 を以て捧 げ る灯 の祭 り (
Li
ghtFe
s
t
i
val
)が行 われ るが, こ うした ビル マ年 中行事 の殆
ん どすべて は,元来仏教 にその起源 を持 って い るわ けで はな く,既 に存在 して いた民 間信 仰や
z
aungmo
neは民
祭礼 に後 か ら仏教 が結合 した もので あ る。誓 えば,第二 の灯 の祭 りで あ る Ta
族 神話 をその起源 と して お り,神話 に登場す る動物 の形 を真 似て踊 り,棉- の捧 げ もの と して
万灯 を以て夜空 を彩 り馬鹿祭 りを行 った。馬鹿祭 りとは, ジ ビューの実 を家 々に投 げつ け,餐
人 のその騒 ぎに気 を と られて い る暇に家財道具 を盗 み出 し, それ を思 い もよ らぬ所 に置いて お
く祭 りで あ る。女性 の下着 が翌朝村長 の家 の旗竿 の先 に高 々とひ るがえ って い る類 の祭 りなの
で馬鹿祭 りと名づ け られ た。仏教 の伝来 とともに,所 謂夏安居 の終 りと時期 的に一致す るこの
祭 りが,多少 の変容 を加 えて その まま仏教行事 の中に加え られて行 った。神 に捧 げ る灯火 はそ
の まま兜率天 よ り地上 に戻 る仏 陀の道 を臆す意 味 に解釈せ られ た。 この よ うに, ビル マ年 中行
事 にお け る民族信 仰 は仏教 との結合 に よ って益 々複雑 な様相 を呈 して来 るのであ る。
九 神崇拝 の儀式 は Saya (
節) と呼 ばれ る専 門職 に よって執 行せ られ るが,彼等 は仏教教団
にお け る比丘 や 沙弥 とは 全 く別 の俗人 の 職業祈繭師で あ る。 彼等 が式場 に持参す る Kya
ung
巳が執行 され るが, この仏壇 の上 は 仏 陀の像 を
Saung と名づ け られ る 特殊 な仏壇 を 中心 に祭扉
中心 に,八方 を取 囲む八 阿羅 漢及 び八 Gyo
s(
天体) か ら構成 されて い る。 仏 陀は東面 し, 周
囲 の諸像即 ち阿羅 漢や天体像 はすべて 仏陀 の方 を向 き, 東 か ら南 まわ りに, Kunt
i
nnyaと 太
a と火星, Thar
r
i
po
t
e
t
ar
ar と水星, Upal
iと土星 ,Ar
nandarと木星,Gawunpat
i
陰, Raywat
と黒星 (
Rahu)一 月 や太 陽 の上 に重 な った時 にのみ見 られ,蝕 の原 因 と考 え られ る星 -Maun-
ggal
an と金星,Rahul
ar と太 陽が配 置せ られ る。八 阿羅 漢 の配 置につ いて は, Ananda 即 ち
nandarは,釈尊在世 中常 に傍 に侍 した ことか ら東面す る仏陀 の背後西 に毘かれ
ビル マ靴 で Ar
るとい った理 由があ るが,詳細 は 1
859年 に書 かれ た MaungdaungSayadaw の解説 に よ り理 論
づ け られ る.一方 Gyo
sの配 置につ いて は, 印度教 的 占星術 や宇宙観 の伝統 を蹟 襲 して い ると
伝 え られ る。
式 は師 に よる宇宙万有 の Nat
sの招請 を以て始 ま り,次で仏 陀,八 阿羅 漢,天体 の招 請が こ
tは ビル マ特有 の Ani
mi
s
m 信 仰 の対象で,現在 で も,特 に辺境 山獄 地帯 の 少
れ に続 く。 Na
数民族 の問で盛 んに信奉せ られて い る。 ラ ングー ンの如 き比較 的近代 化 され た町 中で も,大樹
tを祭 る小 さな岡を見 か け ることがあ る。 Natは 自然物 や個人,或 は社会
の下 にその樹 の Na
組織や国家 とい った ものに まで住 みつ き, それ等 を支配 す る霊魂 で あ ると信ぜ られ るもので あ
る。 その支配 地域 や支配権 を認 め る者- 具体 的には米 や果 実 を捧 げ る行為 に よ って表 わ され る
- に対 して は保護 を与 え幸 運 を招 いて くれ るが,一端無視せ られ る と逆 にその者 に危 害 を加え
不幸 を招 くと考 え られて い る。九 神崇拝 の式 に招 かれ る宇宙 の Nat
s とは この よ う な も の で
- 3-
あ るが, この場合 は現在 ビル マに広 く流布 して い る三 十六 乃至三 十七 Nat
s,とは全 く 別 種 の
二十 八 Nat
s
,即 ち五 大 (地水 火風 空), 三 守 護 (
Naga,Gar
o
n等), 天 宮 守護 , 弛守 護, 家守
sで あ る。
護 ,八 星辰守護 ,一般 の計二 十八 Nat
この よ うに, 数 多 くの礼拝対 象及 び その 内容 の異 質性 か ら して, それ が ビル マ仏教徒 の もっ
と も普通 の 日常行 事 の一 つで あ りなが ら, 純粋 に仏教 起源 の もの とは云 い難 い。仏教徒 の儀式
にお いて, 印度教 的星辰 の神 々や ビル マ的 Natが, 仏 陀 や 阿羅 漢 とともに帝
巳ら れ 供 養 せ ら
れ,更 に また九 神崇 拝 式 に結 びつ いて い る Nat信 仰 が, ビル マ一 般 に流布 す る普 遍 的 な 姿 と
形 式 内容 を異 に して い る点 で ,単 に ビル マ仏教 と印度教 が結合 した とい う以上 の別 な要素 が そ
の 中 に見 られ るので あ る。
Kyee
t
heLayDatSayadaw (
ofKye
et
he,Shwe
daung,Pr
o
ne) が 1
87
2年 に 書 いた 記 録 に
ngo
o 王朝 の Bayi
nnaung (1
551-81) の チ ェ ンマ イ攻 略以後
よれ ば, この儀式 の風習 は Tau
の こ とで あ る とい う。即 ち外 国王 で あ る彼及 び彼 に代 って チ ェ ンマ イを統 治 した末子 Nawr
ah-
t
as
aw を喜 こぼせ る為, その地 にいた タイの僧 が その地方 に広 く 伝 わ って いた 印度教 的九 星
礼拝 の風習 に仏 陀及 び阿羅 漢 を加 えて 紹介 し, これ が Nawr
aht
as
aw を通 して Taungo
oの ビ
ル マ王室 か ら全土 にひ ろが った とい う。
仏 と Nat
s と天体 を ともに礼拝 す る とい う敬 慶 な どル マ仏教徒 の行 為 は,我 々に とって は ま
ことに不 可解 な矛盾 で あ るか も しれ ないが,未 来 にお け る阿羅 漢果 とい うす ぐれ た徳 を希 求す
る行 為 と,現在 の場 に あ って直 接何 等 かの現世 利益 を求 め よ うと願 う心 は互 に異 な った動機 か
ら発 し, そ こに統一 を求 め る必 要 は全 くない と考 え る ビル マ人 に と って は, それ は何等 の矛盾
で もな く, 従 って一 考 を要 す る問題 とは な り得 ない。仏 陀 や 阿羅 漢 は尊崇せ られ るが, Nat
s
や星辰 は現世 利益 を祈願 す る対 象 で あ る とい うのが ビル マ仏教徒 の解 釈 で あ る。
2.
ビル マ人 は一 生 の問 に十 二 の儀式 を経験 す る。 それ は 「俗 界 の祝 福」 と称 す る以下 の十二 の
10)を行 わず, 女 の場合 はq
掴 ミな いので総 計十二 とな る
体 験 と葬式 で あ るが, 男 は (
(
1
) Gabbhavas
aMahgal
a 妊娠 中の安産 祈願 式
(
2) Vi
j
at
aMahgal
a 誕生式
(
3) Si
r
o
dakaMahgal
a 最初 の洗 髪式
(
4) Ke
s
ac
c
he
danaMal
l
gal
a 最初 の剃 髪 式
(
5) Dol
akar
aT
l
aMahgal
a 揺寵 に入れ る式
(
6) Namakar
aMahgal
a 命 名式
(
7) Dus
s
agal
I
aMaI
旭al
a 着衣 式
(
8) Åhar
apar
i
bho
gaMahgal
a 最初 の食 事 (
米 飯)
(
9) Ci
l
akar
aqaMahgal
a 結 髪式
- 4-
(
1
0) KaI叩aVi
j
j
hanaMahgal
a 穿 孔式 (
女子)
(
ll
) Sama
ne
r
apabbaj
j
aMahgal
a 入仏門式 (
男子)
(
1
2) AvahanaMa
hgal
a 結婚 式 (男子)
Vi
vahanaMahgal
a
′
′
女子)
(
これ等 ほ別 に社会 生活上 強制 され るとい った類 の もので はないが,子供 が次第 に成長 し,礼
会人 と して成人 して行 く過程 に あ って,親 の子 に対す る望 ま しき義務 と して,現在 に至 るまで
1
0)
KalIT
J
aVi
j
j
hanaMahgal
a即 ち耳 に穴 を穿 つ式 は女
伝統 的に維持 せ られて来て い るO中で も(
l
l
)Samal
I
e
r
apabbaj
j
aMahgal
a 即 ち仏 門に入 る式 は男子 に とって もっとも
子 に とって, また(
重要 な もの と して尊 重せ られて来 た。
パ ー リ語 Samal
l
e
r
a(
沙弥) ・Pabbaj
j
a (入 る)・Mahgal
a(
祝 福) の名が示す通 り, この儀
式 は ビル マ- の仏教伝 来以後 に出現 した純仏教 的な ものに思 われ るか も しれ ない。 しか し,パ
罪悪 よ り遠 ざけ,善事 を行 わ しめ,
ー リ経典 中親 が子 に対 して 為 さね ば な らない五つの義務 (
技能 を 訓練せ しめ, 適 当な る妻 女 を迎 え, 時機 に応 じて 家督 を 譲渡す る) を述 べ た 有名 な
Si
ngal
ovadaSut
t
a(
南伝 大蔵経 vo
1
.8,p.
25
2) 中に こ うした全 く 同一形式 の 仏道入門式 につ
いて の記述 は見 当 らない し,他 の経典 戒律 中に も発見 出来 ない。 ただ南伝律戒 の大 品 ・小 品 と
Khandhaka) といわれ,仏教僧団 (
僧伽) の団体規定 であ るが この[
函こ
称す る部 分 は軽度分 (
upas
ampada) の規定 があ り,比丘 た らん と す る
教団 の儀式 と して重要 とされ る進具 の作法 (
者 はそれ に相 応 しい学 力 が試験 され,次 で俗服 で市 中を行列 し,授戒堂 に於て具足戒 が授 け ら
れ, この時 自四掲磨 (び ゃ くしこん ま) の作法 に よって僧伽 の比丘達 の意見 を求 め,その許可
を要す ると述 べ られて い るこ とや, また ビル マに伝 わ る仏伝 (ビガ ンデー氏緬旬仏伝 p.
23
4)に
よ って,釈尊 の一 子羅喉 羅 (
Rahul
a)が前世 におけ る善 良 な性情 と行情 の報 酬 として,八才 の
時沙弥 にな る ことを許 され た とい う伝説,更 にまた ア シ ョカ王 の時,王 の弟 Ti
s
s
aが仏門に帰
依 し剃髪 した時,王宮 か ら式 場 まで華麗 な行列 が行 われ た とい う記述 を土台 に して, その上 に
ビル マ的解釈 が加 わ って 出来上 って 来 た ものであ ろ う。
沙弥 はいわ ば見 習 僧 で あ る。 二二七戒 の厳守 を要求せ られ る禁欲的な比丘
(
po
nj
e
e一大光)
と違 い,外見 は比丘 同様 に剃髪 し黄 衣 をま とって いて も,彼等 には僅 か十戒 が要求せ られ るに
過 ぎない。敬 鹿 な どル マ仏 教徒 は 日常生活 において は常に五戒 を保 ち,新 月,満 月及 びその中
hDay には八戒 (
Upo
s
at
ha) を守 るが,沙弥 の十戒
間 の八 日目,即 ち一 ケ月 に四 回 の Sabbat
は こ うした八戒 に近 く, 比丘戒 には は るかに及 ばない。 従 って沙弥 は外見上僧形 ではあ っ て
も, それ は俗 界 の延長 に しかす ぎず ,羅喉 確 の故事 に習 い八才 を中心 に五才 か ら十五才 にかけ
て行 われ るこの入 門式 は,形 式 的 に も内容 的に も,本来 あ る可 き筈 の宗教 的意味 よ りも,む し
ろ社会 的 意味 に その重 きが置 かれて い る。
近代の ビル マにおいて ,特 にその農村にあ って,僧に
最ま子供達 に対す る初等教育 の場 を提供
- 5-
して来 た。 子供達 は少年 期 の四 ,五年 を村 の僧 院 (
Kyaung) において生徒 (
Kyaungt
has
)と
して過 し, 読 み書 きや経典 の暗詞 に 日を送 る。 ビル マ語 では, 僧院 と 学 校 は と も に 同 語
(
Kyaung) で表 わ され る。 こ うした寺小屋教 育の全過程 を了え ると直 ちに ビル マ語 で Shi
nbyu
と呼 ばれ る入門式 を受 け, 引 き続 いて一 ケ月 か ら三 ケ月 の沙弥生活 を送 る。 そ して一般社会人
と して社会 に出発 して行 くので あ る。従 って Shi
nbyuは学 校教 育 の最後 を飾 る卒業式 であ り,
nbyu を受
更 にまたそれ が成 人一結婚 - と連続 す る第二 の人生-の出発点 で もあ る。 普通 Shi
2
)
三帰依文 の暗記 と正 しい発音 ,(
3
)
長老 の許可 と黄衣 の授与
け る為 の条件 と して は,(
1
)
剃髪 ,(
の三 があげ られ るが, それ は先 づ形 を整 え,儀式 を受 け るに充分 な知力 と徳力 を備 え ることを
意 味 し, それ は その まま寺小屋教 育 において求め られ る最終 目的で もあ る。教 育の成果 がその
nbyu へ の条 件 とされ るわ けであ る。
まま Shi
Shi
nbyu を受 け る子 供 は ビル マ王 朝時代 の王子 の服装 をす る。嘗て一般 人 に して王族 の服装
Shi
nbyuに限 って これ を許 さ
を為す ものは死 罪 を以て 罰せ られ るのが王朝時代 の例であ ったが ,
れ た。仏教 的観 点 か らいえば,王 子 シ ッダ ック太子 に よって仏道 が継承せ られ た との故事をふ
まえて,仏 門 に入 る者 にか くの如 き服装 を させ た とい う説 明 も当然認 め られ るであ ろ うが, し
n が僧 を意 味す ると同時に 口語 では王 の義 を持 ち,byu 即 ちな ることを加
か しビル マ語 の Shi
えて 出来 た語 であ る ことか ら考 えて , そ こに ビル マ的解釈 の加わ る余地が あ るよ うに思 え る。
1
287-1
531
) において Shi
ns
awbu が Pe
gu の女王 とな って七年 ,彼
シ ャ ン族 治下 の ビル マ (
ai
ng の二人 の僧 の執れ かを 世 継 ぎ と して選
女 が退 位 を希 望 した時,王 位 の 継承者 と して Tal
e
di(
1
47
2-9
2) が還俗 して Shi
ns
awbu の娘 を要 り
ぶ ことにな り,結局 その 中の一 人 Dammaz
Pe
gu の王 とな った とい う史 実 か ら, Shi
nbyu を王子 の服装 に よって行 う風習 が生 み出 され た
もの と思 われ る (
G.
E.Har
ve
y ビル マ史一五十嵐訳 pp.
9
219
3)oShi
nbyu をす ませれ ば,僧 門
に列せ られ るとともに王 位継承 権 を も併せ持 つ成人 と して社会 的に認 め られ たか らに他 な らな
い。
MiMiKhai
ng の Bur
me
s
eFami
l
y に よると Shi
nbyu の一 切.
の義 務 を了え里 に帰 って来 た
男 に対 し, それ を待 ちかね た よ うに村 の娘達 が 自己の存在 を認 め させ よ うと努力す る ことが述
べ られて い る。 Shi
nbyu 当 日僧 院 か ら式 場 に向 う美 々 しい行列 の中に KwnSaung と呼 ばれ
nbyu を受 け る ことが
る村 の未婚 の美 女連 が加 わ る ことに な って い るが, こ うした現象 は Shi
結婚適齢 と して の成人 と して社 会 的 に認 め られ る ことを裏書 きす るのでは なか ろ うか。 もっと
もタイでは美 女 が入門式 の行 列 に加 わ るのは シッダ ック太 子 が修行 中魔 の誘 惑 と して美女 が 出
nbyu は一種 の 元服 であ り成人
現 した との伝 説 を擬 して い る と説 明せ られ る。 以上 の如 く Shi
式 を意 味 し,単 に見習僧 と して沙弥 にな るとい った現象 の裏 に非 常 に大 きい社会 的意 味 を持 っ
て い ると考 え られ る。
次 に, きわめて仏教 的で あ る筈 の この儀式 に多 くの非仏教 的,或 は前仏教 的要素 が結 びつ い
- 6-
て い る ことに触れて み よ うO先 づ先 に述 べた ビル マ民族信仰で あ る Natとの関連 で あ るo Nat
は, 印度教 の神 々が その発生 や機能 の別 に応 じて種 々の階層 を産 み名称 を作 り出 し て 来 た 如
く,独得 のパ ンテオ ンを形成 して い る。 自然物 であ る樹木 や石 の Natが その発生 に おいて も
っとも古 く,次 で個人 や村落守護 の Natが現れ, か くして多数 の Natが出現す るに及 んで,
それ等 を統一 し支配す る民族 Natが現れ ,Natパ ンテオ ンの最上位 を 占め るに至 った。 それ は
マ ンダ レーの南 にあ る死火 山 Mt
.Po
pa の大 山王主 (
Lo
r
doft
heGr
e
atMo
nt
u
ai
n)とその妹 ,
黄金 の顔 (
Ladyoft
heGo
l
de
nFac
e
) の二 人 であ る。
村 の守護神 で あ る Nat の岡は村 の東 の入 口に置かれ た。
しか し Paga
n 王朝 を 創 め た
Anawr
aht
a王 (
1
0
44-77) の仏教奨励 に よ り各 地で 造寺造塔 が盛 んにな り土俗信 仰が 弾圧 さ
れ た折 ,村 の守護 Nat もその支配す る東 の入 口を追 われ, 僧 院や Pa
go
da にその場所 を譲 っ
た。 しか し Nat信 仰を捨 て きれ ない民衆 に よって, Natの両は次第 に村 の西 の門 の所 に再建
せ られて行 った。 こ うして仏寺仏塔 は東 に,Natは西 に と定着 し,現在 で も都市農村 を問わず
各 家は仏壇 を東側 に安 置す る習慣 が残 されて い る。 ともあれ Sl
l
i
nbyu 式 当 日の夕刻 , 子供 は
Naトs
hi
n) に参詣 し,Natに 顔 見 世
村 の西門に把 られ るこ うした村落守護 の Natのい る岡(
(
Nat
s
ho
wi
ngce
r
e
mo
ny) を行 い,新 しい人生- の保護 と幸せ を祈 り,無 事式 の終 了 を報告 す
るのは ま ことに奇妙 な風習 といわね ばな らない。
Shi
nbyl
lと Nat との結 びつ きは また別 の面 に も見 られ る。 式 の七 日前 か ら子供 は親元 を離
れ, 長老 の 指導 の下 に僧 院 において 生活す ることに な って い るが, これ は石 料 (
St
o
ne-f
ee
)
や寝室料 (
Be
dc
hambe
r
-f
e
e) と関係 があ る。両者 とも婚礼 に関す る ビル マ社会一般 に行 われ
る慣 習 であ るが,婚礼 の夜新夫妻 の寝室 に向 って石 を投 げ る村 の青年達 に花 嫁 の両親 か ら支払
わ され るのが前者 であ り, また寝室 に入 ろ うとす る花 婿 を入 口に糸 を張 って通 させ まい とす る
村 の 乙女達 に花 婿 白身か ら支払 われ る金 が後者 であ る。Shi
nbyu を受 け よ うとす る子 供達 は,
この習慣 と同様 に,式 の直前村人 に さ らわれ, それ を と り戻す為 に両親 が金 を払 ったが, この
nbyu を妨害す る為 Natが子供 の上 に 種
風習 と Nat信 仰 が結 びつ き,式 の前 には子供 の Shi
々の災厄 を及 ぼす と信ぜ られ, それ を妨 げ る為七 日間 の僧 院生活 を送 らねばな らない と理解せ
られ るに至 った。
Naga) が礼拝 され る。 ビル マの Na
ga 信 仰は印
上 ビル マの一部 では Natの代 りに龍神 (
度 のそれ や中国 の龍信 仰 ときわめて類似 して い るが, 果 して これ が ビル マ 固有 の ものであ る
ga
か,或 はマニプールや雲南 か ら伝 来 した ものかは明 らかではない。 ともか くビル マ人 は Na
を半獣半霊魂 の もの と認 め, 蛇 と同一視す ることは ない。従 って南 印度 の一部 にあ る よ う に
舵,特 に コブ ラを神聖視す るとい った ことは皆無 で あ る。 ビル マ史 の語 るところに よれ ば,八
kr
ama 王朝 が諸部族 の内紛 のために滅 び, ブ ロームを脱
世紀 ブ ロー ムにあ った Pyu 族 の Vi
した Pyu 族 の避難者 がパ ガ ンに走 った頃, パ ガ ンには既 に仏教 が行 われて いたが, これは陸
- 7-
路北 印度 か ら伝 来 した もので, その教 師達 は Ar
iと呼 ばれて いた。 彼 等 は仏僧 とい うよ り既
に印度教 の影響 を受 け秘教 化 して いた密教 的 な もの といわれ, 蛇 を崇拝 し多 くの女神 を妻 とす
る仏 を柁 った. 今 日ビル マに残 って い る Na
ga の像 や Naga 信 仰は こ うした Ar
iの名残 り
で あ る といわれ る。
Anawr
aht
a 王 の Nat信 仰圧 迫 の折, 元 来村 の西 にあ って東 の Nat とともに村落守護 の役
ga が, Natの西 へ の移住 とともに次第 に忘 れ去 られて来 たが,上 ビル マ
割 を果 して来 た N畠
ga 信 仰が残 り, それ が Shi
nbyu と結 びつ いて い る ことは,Anawr
aDt
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の一 部 に今 なお Na
改革 の影響 を受 けない古 い地域 が上 ビル マに残 され て い るとともに,上 ビル マが海路南 印度 よ
りター トンに伝 来 した南方 上座部系統 の仏教 と違 った別 な陸路伝 来 の仏教文 化 圏に属 して い る
証左 にな るのではなかろ うか。
Nat
s
hi
n や Naga に顔 見世 を行 った子供 は,次 で先祖 の墓 に礼拝 をす る。 これ は子孫 の一
員 と して,先 祖 の為 した過去 の善行 や その徳 をわか ち与 え られ ん ことを祈 り, 更 に また,彼 が
nbyu とい うす ぐれ た徳 の結果 を 彼等 に もわか ち与 え る意 味 を 持 って い
現在 行 いつつ あ る Shi
る。 ビル マ仏教 の説 くところに よれ ば,死 とは長 い輪廻 の流れ において,現在 の生 の単 な る終
りを告 げ るにす ぎず, その人 の無始 時来 の業 の結果 が残 る限 り永遠 に輪廻転生 を続 けな けれ ば
な らない。従 って,先 祖のお蔭 に よ って 自分 が この世 に生 を受 けた と考 え ることは不可能 であ
る。先 祖 とは あ る意 味 において 自己の投影 に しかす ぎない。 生 の終結 (
Cut
iCi
t
t
a) は直 ちに
新 しい生へ の出発 (
Pat
i
s
andhiCi
t
t
a) に連続 す る。親 と子 の結 びつ きは, 自己の業 の相 互 の
結果 と して の単 な る仮 の宿 りに しかす ぎない。先祖 を礼拝 し,先祖 に祈願 を こめ るとい うこと
nbyuにお け るか くの如 き墓地
は ビル マ仏 教 の原則 と相容 れ ない行為 でなけれ ば な らない。Shi
参詣 の習慣 は, 中国的 な祖先崇拝思想 の ビル マ的変容 であ る との説 が表れ るの もきわめて 当然
の ことで あ る。
Shi
nbyu は通常 ビル マ暦 の第十一 月 (
Tabaung), 即 ち二月 か ら三 月 にか けて挙行せ られ る
のを原 則 とす る。 これ は両親 に とって きわめて多額 の経済 出費 を強い られ るので,農 閑期 で収
獲直後 の比較 的経済 的にゆ と りのあ る時期 が好 まれ た為 で あ る。多額 の経済 負担 か ら 逃 れ る
為, 同 じ年頃 の子 を持つ親 が共 同で式 を行 うことも決 して珍 らしい ことでは ない。仏教伝 来以
baung の月 は感謝祭 の行 われ る月 で もあ った。 Tabaung の
前 の ビル マでは,収獲直後 の Ta
満月 の夜,農家 の主 婦達 は手 に手 に果 実 や菓子 を携 え, 豊穣 の女神 Po
nmakyi に礼拝 を行
い,豊 作の恵 みに感謝 し,来 る可 き年 の豊 かな実 りを祈 願 した。 この女神 は 巨大 な胸 と豊 かな
腹 を持 ち,信 ず る者 には豊 か な実 りを約 束す る土地 を教 えて くれ ると信 じ られ た。 この Po
n一
nbyl
ユの行 われ る 時期 が ともに Taba
ung の月 であ った為両者 は次
makyi信 仰 の祭典 と Shi
nmakyiが登場す るとい う奇妙 な現象 が出現 す るよ うに な っ
第 に混交 し,仏 門 に入 る式 に Po
た。Shi
nbyu の行列 が村 をね り歩 く時,子供達 がはやす歌 (
Sho) の中に 「野 に うるおい あれ
- 8-
か し, 流れ に,母 の胸 に,妹 の胸 に うるお い あれ か し」 とあ るが, ここに い う母 の胸 に,妹 の
胸 に とは Po
nmakyiの 巨大 な胸 を指 す もの に他 な らないo米 作 につ きものの水 の豊 か さを祈
nbyu とい う仏 門 に入 る式 に来 る可 き年 の 豊作を祈 る歌が使 われ るのは ま
った歌 で あ るが, Shi
ことに奇 妙 な現象 で あ る。
式 は先 づ一年 前 に両 親 か ら村 中に予告 され ,二 ケ月前 に 占尺術 師 の忠告 を入れて , も っとも
吉 祥 な 口が正式 に決定 発表 され る。式 のセ ロ前 か ら子 供 が僧 院 に時 を過す 問, 両親 は村人 の協
力 に よ り式 当 日供 養 され る食 事 や贈 物 の準 備 ,及 び 当 日使 用 され る新 米 の脱穀 が村 の 乙女達 に
よ って上半 月 (白月) の夕方 戸外 で Ma
ungSo
ng を伴 奏 に行 われ る。 Maung とは脱穀 に使 わ
れ る器 具 の名称 で あ るO この脱穀 作業 と平 行 して, Apy0gyiと称 す る村 の老 女 に よ る葉巻煙
草 の製 造 が行 われ る。 これ は参 列者 - の土 産 と して使 用せ られ る。 式 場 は普 通天 幕 または簡単
な小 屋 が設 営 され , 当 日は Byo とい う音楽 を伴奏 に子 供 を 僧 院 か ら式 場 に移す 行列 を以て 幕
が切 って落 され る。 行 列 は, 仏典 や仏 陀 の衣 と称 す る品を先頭 に, 次 で僧 侶 - の贈物 , 美 女
料 , 父 母ニ
ー 父 は子 供 の寝 只 を持 ち,母 は僧 と して所 持 を許 され る八 種 の 日用 品, 即ち大 衣 , 上
著衣 ,下 著衣 の三 衣 と鉢 ,針 ,液 水嚢 ,描,剃 刀 を頭 上 に して- , 馬 または象 に乗 った本 人 ,
本 人 の友 人達一 彼 等 は Rahu と呼 ばれ る詩 を 口 々に詞 す る一 最後 に音楽 を演奏 す る群 が続 く。
行 列 が式 場 に到 着 す る と参 列者 全員 に よ る会食 が行 われ , 次 で 三 時 か ら 剃 髪式 , 僧 に よ る
Par
i
t
t
a 経 文読言
乱 黄 衣 の授与着 用 と続 く。 式後 子 供 が村 の Nat
s
hi
n 及 び先祖 の基 地 に参 詣
す る ことは先 に述 べ た通 りで あ る。
nbyu は仏教 の重 要 な行事 で あ り, 印度 的要素 を 中心 にふ まえて構 成 せ
以上述 べ た如 く,Shi
られて は い るが, しか しそ こにはか な り農耕 民族 と して の変 容 や 申国文 化 の影 響, 更 に また ビ
ル マ民族 の土俗 信 仰 で あ る Natや Naga が混全 と結 び合 されて い るのを見 る ことが 出来 , そ
nbyu に
こに ま ことに ビル マ的 な儀式 が生 れ, 発 展 し, 現在 に及 ん で い るので あ る。 また Shi
見 られ る宗教性 よ り社会 的意 味 の重要 さは, Shi
nbyu の後二十 才 で初 めて許 され る沙弥 か ら比
丘 に な る第二 の得 通式 に も見 られ, この式 の社会 的意 味 の重 さ と土 着信 仰 との結合 の度合 は,
け っ して Shi
nbyu に勝 る とも劣 らぬ ものが あ る。 この第二 の得 道式 に あ って は, 比丘 とな っ
た証拠 と して 身体 に入墨 を施す例 が多 いo 比丘 に な る ことは,一 生 を禁 欲生 活 と聖 な る世 界 に
満足す る ことで あ り, 勇気 と 男性 らしさの大 い な る試 練 で もあ る。 これ を 証す る しる Lと し
て,装 飾 の意 味 を兼 ねて 入墨 が行 われ るわ けで あ るが, この時 肉体 に切 りこまれ た入墨 は, ビ
ル マ人 に とって装 飾 以上 の何 物 かで,特 に あ る種 の魔 力や吉 兆 が ひ そん で い る と考 え られ る。
ga や猫等 が よろ こぼれ, 時 には無意 味 な児術 的 マ ー ク も用 い
この為 入墨 の 模 様 と して は Na
られ る。
Dr.Maung Maung は その著 Law andCus
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o
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n Bur
maandt
heBur
me
s
eFami
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y の巾
で 「近代特 権 階級 ,民 主主 義概 念, 法 や政 治形 態 にお け る英 国流 の理 念 と実 際, 占星 術,伝統
- 9-
的慣 習 と概念 ,仏教 倫理, これ等すべて が混全一体 とな って奇妙 な統合 を為 して い るのが ビル
マで あ る」 (
p.
11
6) と述 べて い るが, これ は単 に政治 や法 の世 界 にのみ限定 さるべ き定義 では
な く, ビル マ文化全般 にわた って, 特 に純仏教 的 と見 られ る Shi
nbyu 式 や, 或 は印度教 と仏
教 の混合形態 と一見 考 え られ る九 神崇拝式 にお いて も云 い得 る ことで あ る。 こ うした ビ ル マ人
の生活 に働 く仏教 の複雑 な不純性 は, それ が印度教 的神秘性 や Natの素朴 な 自然崇韓 と それ
に帰 因す る光術 的傾 向の占め る割合 が多 いだけに, や や もす ると秘教 的神秘主義 に陥 りやす い
傾 きが あ る。
ビ
ル マ仏教 が現在 の ビル マ人 の 心 に生 きて働 く姿 の 裏 には, 常 に錬金術 や 占星
術,或 は手 相人相術 の類 か ら I
nns と称す る文字 や数字 に よる方 陣に よ り人 の 命運 や吉 凶を左
右 しよ うとす る Bur
me
s
eOc
c
ul
tSc
i
e
nce が存在 して い る。 I
nns はパ ー リ語 の Ari
ka 或 は
Ar
i
ga,即 ち印,肢 ,
部分 を意 味す る言葉 を語 源 と し,文字 を入れ る為 の欄や区切 りを持 った表
を意味 して い る。 I
nns の発 明利用 は恐 らくビル マの こ うした 0c
c
ul
tSci
e
nc
e の中で も っと
も古 い もので,舵,且 葉, 陶片,金 銀箔 の上 に書 かれ た神秘 的表象 が病 気 の治癒 か ら他 人 に対
す る呪 の成就 まで, きわめて不思議 な力 を有 す ると考 え られて い る。 ビル マ仏教 の主 柱 であ る
所 謂小乗禅 が,心 の統 一 と無 常,苦 ,無我 の三苦 の体得 に よる悟 りの道 とい う本来 の 目的を離
れ, やや もす ると座禅 者 の不可思議 な力 の実現 を強調 し, その応用 と して催 眠術等 の方 向に走
ろ うとす るの も, や は りこ うした ビル マ仏教 の持 って い る性 向の表現 ではなか ろ うか。
1
948年一 月六 日に予定 されて いた ビル マ共和 国独立式典 は,時 の政府 が 占星術師 に相談 した
結果 その忠言 を入れて,二 日早 く一 月四 日の午前 四時半 に行 われ る ことにな った のは有名 な事
実 で あ るが, ビル マ人 の生活 や思 考 か ら仏教 を取 り除 くことが出来 ないの と同様 に, こ うした
占星術 や 方 陣を彼 等 か ら 除 くことも 不可能 であ る。 1
963年 一月 に 発表 され た BSPP の哲学
(
The Phi
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phy oft
heBur
maSo
ci
al
i
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tPr
o
gr
ammePar
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y) は ネ- ウ イン現政府 の 急進社
会 主義 の理 論 とな るもので あ るが, その第三項 に ビル マ社会 主義 の世 界観 が述 べ られて い る。
それ に よる と, 世 界 は 三 つ-
物質界 , 動物界, 現象界-
か ら 成 立 ち, その中 物質界
(
Okas
al
oka) は地水 火風 か ら出来 て お り,現 象界 (
Sankhar
al
o
ka)は心 と物質 の事象 の時間 と
空間 にお け る連続性 に あ って表 し出 され る 自然 の全過程 と定 義せ られて い る。 こ うした世 界観
Ci
t
t
a)
は五世紀前 後 に成立 したパ ー リ三蔵 の阿毘達磨 に見 られ るもの と同一 で あ る。 即 ち心 (
と物質 (
Rupa)を対比 させ,両者 の瞬間 的生成 消滅 の連続 性 の中に世 界 を見,物質 界 を構成す
る二十八 の色 の組 み合 せ の基礎 とな るものは地水火 風 の四大 (
Mahabht
l
t
a)で あ る との説 と何
等相違 しない。 急 進社会主義 と 阿毘 達磨形 而上学 との結合 とい う 一見不可能 な 組 み合 せ も,
Dr
.MaungMaung の定義 を借 りるまで もな く, それ が ビル マ とい う場 において は混 全一体 と
な って共 存 して い るのであ る。 こ うしたすべて を包括 す る共 存性 の中に ビル マ人 の生活 が成立
して い る。 .
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