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「知る」は多義的か?

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「知る」は多義的か?
「知る」は多義的か?
飯田 隆
1983 年;1987 年改訂
英語圏(特にアメリカ)のいわゆる「知識論 theory of knowledge」は、い
まや、
「ゲッティアロロジー Gettierology」1 と化してしまった感さえあるが、
それでも、教科書風の書物を繙くならば、その多くが、
「know」の異なる意味
を区別することから始めていることに気付くであろう。たとえば、こうした
書物の代表的なもののひとつ 2 では、
「know」を含む十個の例文が挙げられた
あと、次のように述べられている。
「これらは、
『know』という語の異なる用
法(use)のうちのごく僅かなものに過ぎない。この語の意味(meaning)が、
これらの文のいくつかで異なっていることは、容易にわかるであろう。」3 —
このあと、この本の著者は、いとも無造作に「know」の三つの意味(sense4 )
を取り出してみせる。
このような手続きが疑わしく思えるのは、語の用法(use)の多様性から、
その語の異なる意味(sense)を区別するに至る過程が、どのような原則に従っ
ているのかが明らかでないことによる。十個の用例から、どうやって、三つの
異なる意味が見いだされたのだろうか。異なる意味が三つに限定されたとい
うことは、異なる用法から必ずしも異なる意味を推論できないことを示唆し
ているように見える。しかし、それならば、何が言えれば、意味の相違を結
論できるのか。また、次のような疑問も生じる。結局のところ、与えられて
いるデータは、語「know」を含む十個の文である。それらの文の意味が異な
ることは、たしかに、英語を理解している限り、誰にでも判る。しかし、そう
した文の意味の相違を、これらの文すべてに共通して現れている語「know」
が異なる意味をもつ、といった仮説によって説明しようなどとは、誰も考え
ないだろう。十個の文に共通には現れていない要素によって、これらの文の
意味の相違を説明する方が、より自然であると思えるはずである。文全体の
意味の相違から、そこに現れる語の意味の相違を推論する、といった手続き
がここで取られていない以上、著者は、読者が語「know」が各々の文でどの
ような意味をもっているかを直ちに見て取れると、期待しているのであろう。
しかし、こうした期待は、過大なものであるように思われる。忘れてはなら
ないことは、文は語のリストではないということでなかったか。つまり、文
は、語からできているが、それは、語がある一定の仕方で結合されることに
よるのである。こうした語の結合の仕方を、文の「構造」と呼ぶことにしよ
1
う。まったく同じ語からできている文でも、その構造が異なることによって
異なる意味をもちうることは、明らかであろう。このことを思い出すならば、
さまざまな文における語「know」の用法の相違を説明するものとして、その
語の意味の相違とは別の仮説もあることが判るだろう。すなわち、語「know」
が埋め込まれている構造の相違という仮説である。この仮説を採用するなら
ば、語「know」が意味を異にすると考える必要はない。しかし、問題なのは、
これら二つの仮説のどちらを取るかは、それほど容易に決定できることでは
ないという点にある。つまり、文全体の意味が理解されているとしても、言
語の標準的な使い手に、語の用法の相違が、その語の意味の相違によるもの
なのか、それとも、その語が埋め込まれている構造の相違によるものなのか
を、直ちに判定できるような能力を期待するのは、無理なことなのである。
こうした考察から引き出される教訓は明らかであろう。すなわち、ある語
の多義性を確立するためには、語の意味についての理論が不可欠なのである。
ところが、不幸にして、われわれは「know」の多義性といった個々の問題を
解決するのにすぐに使えるような仕上げられた理論を、語の意味について所
有してはいない。哲学的な伝統が現在のわれわれに遺しているものは、そう
した理論のおおまかな輪郭のスケッチに過ぎない。しかも、そのスケッチで
さえ、異論なしに受け入れられているとは、決して言えないものである。し
かし、何もないよりはまだましと言うものではないだろうか。ここで行おう
とすることは、このスケッチを受け入れたうえで、語の多義性に関わるひと
つの具体的問題を扱いながら、語の多義性一般の考察のために必要な範囲で、
もとのスケッチをいくぶんでも具体化しようと試みることである。小論の表
題の示すものが、ここで扱われる具体的問題である。この問題が選ばれた理
由は自明(?)であろう 4a が、一言だけ断っておくべきであろう。それは、
ここで扱われるのが、日本語の動詞「知る」4b であって、英語の「know」や、
その他の言語における「知る」に翻訳上対応する語ではないということであ
る。語の多義性に関わる問題ほど、実際の言語使用に密着して考察されねば
ならない問題はあるまい。
(しかし、このような限定は、分析の結果の一般性
を損なうことを意味しない。むしろ、分析の概念的性格は、たとえその分析
がある具体的な言語に即して行われようとも、分析の結果の一般性を保証す
ると思われる。)
文の意味と語の意味
まずは、言語の理解についての伝統的なモデルのいくつかの特徴を思い出
すことから始めよう 5 。このモデルは、ある言語を自分の言語とする人々の
個々の言語行為が、どのような種類のどのような内容をもつものであるかを、
トリビアルでない仕方で特定するような理論はどのような形を取るか、とい
う考察から導かれたものである。個々の言語行為は、主張であったり疑問で
2
あったり命令であったりという形で、いくつかの種類に分類されるが、そう
した言語行為の内容を示すものは、常に、文である。つまり、文が、言語行為
の単位である。そして、言語的意味の第一義的な担い手も文である。文以外
の言語的要素の意味は、それが現れる文の意味への寄与としてのみ特徴づけ
られるのである。
(言うまでもなく、これは、フレーゲのスローガン「語は命
題(Satz)という脈絡においてのみ意味(Bedeutung)をもつ」のひとつの
解釈に他ならない。ところで、言語の使い手は、個々の文の意味をひとつひ
とつ覚えているから個々の文を理解するのではない。このことは、これまで
に出会ったことのない文を、作ったり、理解したりできることからも明らか
である。だが、このことをより決定的に示すものは、ひとつの言語において
可能な文は無限個あるということである。言語の使い手が個々の文の意味を
ひとつひとつ覚えているとすることは、言語の使い手に、単に潜在的なもの
にとどまらない無限の能力を仮定することである。言語理解のモデルは、そ
れが有限的な形で述べられないならば、何らの説明力ももちえないであろう
6
。したがって、文の意味は、有限個の要素から有限的な手続きによって引き
出されるものでなくてはならない。ここから、異なる文を通じて共通である
ような語の意味を措定する必要が生ずるのである。つまり、文の意味は、そ
の構成要素である語の意味と、それらの語が結合される一定の仕方(=文の
構造)の意味的寄与とから決定されるのである。有限性の条件が、文の意味
を決定する要素の全体が有限であることを要求することは、言うまでもない。
さて、こうした概略的スケッチから、われわれは、語の多義性に関する何
らかの知見を得ることができるだろうか。これまでに述べたことからいえる
のは、ある語 W が多義的であるとは、その語が現れるさまざまな文の意味
を与えるためには、音声的に同一である W の出現 7 に対して相異なる意味
を指定する必要があるときである、ということであろう。この定義は、一見、
実質を欠いているかのように見えるが、決してそうではない。こうした定義
だけからでも、われわれは、実質的な問題に解決を与えることができるので
ある。その問題とは、たとえば、「私」「ここ」といったような代名詞を多義
的な語とするべきだろうか、という問題である。こうした語を「多義的」と
呼ぶ人は、その根拠を次のような点に求める。たとえば、
(1) 私は、きのう、ここにいた。
という文は、だれによって発言されるか、また、いつ、どこで発言されるか
によって、真とも偽ともなりうる。こうした事態を説明するためには、たと
えば、語「私」は、それがだれによって発言されるかによって、意味を異に
すると考えるべきである。—だが、このように考えることは許されない。と
いうのは、その場合、
「私」は、無限に多くの異なる意味をもちうることにな
る (8) からである。これは、明らかに、有限性の条件に反する。この例から、
われわれは、語の多義性についての第一の教訓を得ることができる。すなわ
3
ち、ある語に多義性を帰することから、その語が無限に多くの相異なる意味
をもちうるという結論が導かれるならば、そうした多義性の仮定は不当なも
のである。
ところで、(1) のような文が提起する問題は、われわれが考察してきたよう
な言語理解のモデルの手直しを迫ることも事実である。それは、言語におけ
る指示的慣行(demonstrative convention)を、このモデルのなかに編入する
ことの必要性を明らかにするものである。代名詞のような語の存在は、ある
特定の発言における文の意味が、それを構成する語の意味とその文の構造と
だけからでは決定されないことを示している。つまり、これらに加えて、そ
の発言のコンテキストから得られる情報も、文の意味の決定には必要なので
ある。代名詞のような指示語、あるいは、時制のような指示的要素の理解は、
こうした発言のコンテキストから必要な情報を取り出す手続きを、言語の使
い手が所有していることを前提とする。もちろん、こうした手続きを言語理
解のモデルに編入することが可能であるためには、その結果が有限性の条件
と抵触しないことを必要とするが、その実現可能性に関して悲観すべき理由
はないと思われる。よって、以下では、こうした指示的慣行は、言語理解の
モデルのなかにしかるべき位置を占めていると考える。
文法的カテゴリーと語の多義性
文は、語が一定の仕方で結合されたものであり、この結合の仕方を、われ
われは、その文の「構造」と呼んだ。この構造を明示するために必要なもの
が、文法的カテゴリーの概念である。多くの文に共通して現れる要素の観察
から、語の概念が生ずる(もちろん、その過程には理論的考察が不可欠であ
り、したがって、
「語」は理論的概念である)が、そのときに同時に観察でき
ることは、一群の語は、それが現れる文の文法性(grammaticalness)を損な
わずに置換可能である、という事実である。文法性を保存しつつ相互に置換
可能であるような語のクラスを決定することが、語の文法的カテゴリーへの
分類である。語を、名詞・形容詞・動詞などに区分することは、こうした分
類の一例である。
ところで、文の構造を問題にするとき考慮されねばならない、もうひとつ
の重要な点は、文が語の並列によって構成されているわけではない、という
ことである。つまり、ひとつの文には、一群の語からなる句(それは、それ自
体、文でもありうる)が順次形成されて行くという段階が隠されているので
ある。このような文のいわば「垂直的」構造を明示することは、ある場合に
は、決定的な重要性をもつ 9 つまり、文法的カテゴリーの概念は、個々の語
のレベルから、それよりも上位のレベルである句のレベルにまで拡張されね
ばならない。こうしたカテゴリーを生成するためには、いくつかの基礎的カ
テゴリーを取る必要がある。ふつう、文と名詞がこうした基礎的カテゴリー
4
として取られ、それぞれ、「s」および「n」という指標(index)が与えられ
る 10 。この二つの基礎的カテゴリーから他のカテゴリーは、次のようにして
生成される。たとえば、「s/nn」は、二つの名詞と結合して文を形成するよ
うな句の指標であり、「s/s」は、ひとつの文と結合して新たな文を形成する
ような句の指標である、といった具合である。
このような考察が、われわれの問題である語の多義性に対してもつ連関は、
次の原則にある。すなわち、
語 W が二つ以上の文法的カテゴリーに属するとき、W は多義的
であり、異なる文法的カテゴリーを指定されるような W の二つ
の出現は、その意味を異にする。
この原則を、われわれは、
「多義性の文法的基準」と呼ぶことにしたい。この
原則が妥当だと思われるのは、文法的カテゴリーが文の構造の記述の手段で
あり、文法的カテゴリーを異にする語は、その語が現れる文の意味への寄与
の仕方が異なる、と考えられるからである。(語の意味とは、それが現れる
文の意味への寄与であった。)この原則に従うならば、たとえば、「ある人が
言った」の「ある」と、
「金がある」の「ある」とは、ふつう異なる文法的カ
テゴリーに属すると考えられるので、意味を異にする。
多義性の文法的基準は、それが適用される言語の文法が確立されていると
きには、きわめて有用である。しかしながら、現実には、その適用が困難で
ある場合が多い。そうした困難を見ることから、われわれの選んだ具体的問
題の考察を始めることにしよう。
次の二つの文を考える。
(2) 私は、後藤君のお母さんを知っている。
(3) 井下君は、田中君が岡山に行ったことを知っている。
この二つの文の「知っている」の意味が同じであるかどうかは、よく論議され
てきた問題である。この問題の決着をつけるために、次のような仕方で文法
的基準が使われることがある。つまり、(2) は、
「名詞+は+名詞+を+知って
いる」という構造をもっているのに対して、(3) は、「名詞+は+文+こと+
を+知っている」という構造をもっている。したがって、(2) の「知っている」
は、二つの名詞と結合されて文を作る語である(その文法的カテゴリーは、
s/nn である)のに対して、(3) の「知っている」は、ひとつの名詞とひとつの
文と結合されて新たな文を作る語である(その文法的カテゴリーは、s/ns で
ある)から、「知っている」の (2) と (3) における出現は、文法的カテゴリー
を異にする。よって、(2) と (3) とでは、「知っている」の意味は異なる。
このような議論の難点は、(3) が (2) と同じ文法的構造をもっているとする
ような分析も可能な点にある。すなわち、「文+こと → 名詞」というような
規則を仮定すれば(言い換えれば、
「こと」を n/s というカテゴリーに属する
5
語であると仮定すれば)、(3) は、(2) とまったく同じ「名詞+は+名詞+を+
知っている」という構造をもっていると言える 11 。(3) の分析として、いった
いどちらを採用すべきであろうか。この問題は、純粋に文法的な手段だけで
解決できるとは思えないが、その決定の際に考慮されるべき事柄として、次
の三点を挙げておく。
(i) 「文+こと+を+知っている」において、
「文+こと」は、しばしば、文
を含まない名詞に置き換えることができる。たとえば、
(4) この生徒は、ピタゴラスの定理を知っている。
といった文がその例であり、これは、(3) の「知っている」を、(2) と同じく、
s/nn というカテゴリーに属する、とすべきひとつの理由となりうるように思
える。
(ii) しかし、「名詞+こと+を+知っている」と「文+こと+を+知ってい
る」との間には、可能な文法的変形の点で相違がある。たとえば、
(2′ ) 私は、後藤君のお母さんを少し知っている。
とは言えるが、
(3′ ) *井下君は、田中君が岡山に行ったことを少し知っている。
とは言えない 12 。
(iii) 次の文、
(5) かれがパーティに来ると知っていたならば、ぼくも出席した
のに。
といった文に見られる「文+と+知っている」という構造で、
「文+と」とい
う句は、名詞のはたらきをもつと考える代わりに、副詞のはたらきをもつ、
と考えられないだろうか。そして、
「文+こと+を」と「文+と」の両方の形
をともに説明するためには、両者における「知る」は、カテゴリー s/ns に
属すると考えるのが、もっとも簡単なやり方ではあるまいか 13 。
しかし、こうした示唆が何らかの価値をもつとしても、(3) の二つの可能な
分析のどちらを取るべきかは、最終的には、日本語の文法の全体にわたる考
察によって決定する他はなく、文法理論の現状は、そうした決定を許すとは
思えない。多義性の文法的基準の難点は、まさに、その点にある。われわれ
は、適用がより容易であるような多義性の基準を探すべきであろう。しかし、
そうした探索に取り掛かる前に、われわれがこれまで考察してきた言語理解
のモデルをもう少し規定する必要がある。それは、ひとつの重大な選択を要
求する。
6
真理条件と主張可能性
言語理解のモデルのここまでの記述で強調されてきたことは、語の意味と
文の意味との間に一定の関係があるということであった。しかし、語の意味を
規定する文の意味をどのように考えるべきかについては、何も言われてこな
かった。いまや、文の意味とは何であるか、という問いに答える必要がある。
すでに述べられたように、ある言語の理解は、その言語を使ってなされる
言語行為が、どのような種類のどのような内容をもつものであるかの理解を
含む。すなわち、ある言語行為が、主張であるのか、疑問であるのか、命令で
あるのか、が理解でき、そうした種類の言語行為のポイントが何であるかを
理解しているだけでなく、その言語行為において、何が、主張されたり、問
われたり、命令されているかをも理解できなくてはならない。伝統的な言語
理解のモデルは、こうした言語行為の内容に関して、二つのきわめて大きな
テーゼを立てる。(i) 言語行為の内容の指定に際して、理論的に優先的な位置
を占めるのは、典型的に主張に使われるような平叙文である。疑問や命令の
ような言語行為に使われる文の意味の理解は、何らかの仕方で、ある平叙文
の意味の理解を前提する。(ii) 平叙文の意味とは、その真理条件である。
これらのテーゼのいずれもが、きわめて強力な攻撃にさらされてきたこと
は、周知の事実である。そうした攻撃の多くに対してこれらのテーゼを擁護
するなどということは、もちろん、ここでは問題にならない。(i)、(ii) とも
に、それらを採用すべき一定の理由があることを指摘するにとどめる。
(i) その種類を異にするような言語行為の間に、ある連関が存在することは
疑いえない。何が問われて、何が答えられたのか、また、何が命令され、何
がその理由として述べられたのか、これらの間には、一定の連関がある。言
語行為の種類の各々に対して、それに固有の文の意味があるとすることは、
こうした連関を説明することを不可能とするであろう。むしろ、いかなる種
類の言語行為であろうとも、その内容を統一的に記述できるようなレベルの
理論が存在しなくてはならない。こうした言語行為の内容の統一的な記述を
可能にすると思われるのが、平叙文の、他の種類の文に対してもつ位置であ
る。問いの内容は、それがどのような可能な答を予想するかによって特徴づ
けられるし、命令の内容は、それが従われた場合とはどのようなものである
かを記述することによって特徴づけられる。そして、こうした特徴づけに使
われるのは、平叙文なのである。
(ii) このテーゼは、(i) にくらべて、その弁護がより困難である。というの
は、(i) の否定は、その代案として、言語理解の理論そのものの断念しか残さ
ないように思える 14 のに対して、(ii) に関しては、無視することのできない
別の選択の可能性が存在するからである。それは、平叙文の意味を何らかの
主張可能性の条件(assertability condition)と見なすことであり、論理実証
主義者の意味の検証理論と直観主義数学にまず現れ、現在ではダメットをそ
7
の強力な擁護者としてもつ考えである 15 。実のところ、現在の筆者には、何
らかの原理的考察に基づいて両者の間の選択を行うことはできない。それに
もかかわらず、ここで (ii) を言語理解のモデルに組み入れるのは、次のよう
ないわば便宜的な理由による。(a) 文の意味を真理条件と見なす言語理解の
モデルは、他の種類のモデルとくらべるならば、その全体的構造がよりよく
見きわめられていると言える。(b) 真理の概念を意味論の中心に据えること
は、何が本来の意味論 16 に属しているのかの決定を容易にする、という利点
をもつ。これは、何らかの主張可能性の条件を文の意味と見なす場合に失わ
れることが多い利点である。特に、われわれの当面の問題である多義性に関
しては、文の真理性にかかわる限りの事柄として、語の意味を捉えることに
より、語の意味を不当に増殖させるという危険から免れることができる 17 。
語の多義か構造的多義か?
語の意味が、それが現れる文の意味への寄与であり、文の意味が、その真
理条件であるならば、語の多義性の基準として、さしあたって次のようなも
のを立てることができるように思われる。
(I) 語 W が現れている文 S が、二通りの解釈を許し、一方の解
釈のもとでは S は真であるが、他方の解釈のもとでは S は
偽である。
(II) 文 S の構造を示す文法的分析は、ただ一通りである。
これら二つの条件を満足するような語 W は、多義的である。
この基準(これを「多義性の意味論的基準」と呼ぼう)に関しては、二つ
の点で問題があるが、それを検討する前に、具体的な例を挙げておこう。
(6) 呉服町は知っています。
日本語の多くの文に見られると同じく、この文は明示的な主語を欠くが、
それは、発言のコンテキストと日本語の指示的要素を処理する機構によって、
A であると決定されたとしよう。(「呉服町」についても、同様にして、それ
がどの呉服町を指すのかが決定されているとする。)このような指示的要素の
存在に起因する真偽値の変動とは別に、(6) の真偽値は変わりうる。その理由
は、(6) には、二つの解釈が可能だと考えられることにある。すなわち、ひと
つの解釈によれば、(6) は、A が呉服町に行ったことがある、その写真を見た
ことがある、呉服町について何か人から聞いたことがある、あるいは、単に
「呉服町」という名前を聞いたことがある、といった場合に真である 18 。これ
に対して、(6) のもうひとつの解釈では、(6) が真であるのは、A が呉服町に
行こうと思えば行くことができ、また、その界隈の場所についても、必要が
8
生ずれば行くことができる、といった条件をある程度まで満たしている場合
である。したがって、A が、昔、呉服町に行ったことがあっても、そこへ行
くことも、また、その界隈での移動もままにならない(もちろん、外在的な
原因—たとえば、天変地異、交通機関の運行停止、A の身体障害、等は除く)
場合には、(6) は、第一の解釈では真であっても、第二の解釈では偽である。
つまり、(6) は、(I) の条件を満足している。ここで注意されねばならない
のは、(I) の条件を満足するかどうかは、語 W の適用の境界がはっきりして
いないということとは別問題である、ということである。適用の境界がはっ
きりしていないような語を「曖昧な語」と呼ぶならば、語の多義性は、語の
曖昧性とは異なる事柄である。特別に適用の境界をはっきりさせるために、
定義によって導入される語を除けば、大部分の語は曖昧であり、そうした語
が適用の境界の周辺で用いられているような文は、真偽いずれかに決めかね
る場合が多い。ここで問題となっているのは、このような場合ではない。つ
まり、(6) については、そのもとで確定的に真であるような解釈と、そのもと
で確定的に偽であるような解釈との、二つの解釈が可能である。
次に、(6) は、(II) の条件を満足しているだろうか。少なくとも、(6) が二
通りの文法的分析を許すようには思えない。では、(6) における「知る」は多
義的であると結論してよいだろうか。ここで、われわれは、多義性の意味論
的基準に関して、先に言及された二つの問題点のうちの第一のものを考察す
る必要がある。
一般に、(I) と (II) は、それだけでは、語 W が多義的であるための十分条
件ではない。というのは、(I) におけるような事態の原因が、W の多義性に
よるものではなく、S に現れている W 以外の語の多義性によることは、明ら
かに可能だからである。このような場合を排除するためには、次のような条
件が必要となろう。
(III) S に現れる、W 以外の語は、S において多義的に使われて
はいない。
しかし、(III) が満足されているかどうかを確かめるために、W の多義性あ
るいは一義性を使わなければならないとすれば、循環に陥ることは明らかで
ある。また、できるならば、W 以外の語についても、その多義性なり一義性
なりが確立されていることを前提としないで(III) の真偽を判定したい。そ
れは、究極的には、ひとつの言語全体の意味論をまって初めて可能であるし
かないのだが、次の (III′ ) が満足されていることを示すことは、(III) が満足
されていることの帰納的証拠として採用できるのではないかと思われる。
(III′ ) 語 W1 、W2 、. . . 、Wn が存在して、S における W を、W1 、
W2 、. . . 、Wn に置き換えて得られる文を、それぞれ S1 、S2 、. . . 、
Sn とするとき、各 Sk には、異なる解釈のもとでの真偽値の変動
はない 19 。
9
実は、(6) に関しては、こうした考察はむしろ不用と言ってもよいはずであ
る。というのは、(6) の解釈に必要な指示的要素の決定がすでになされている
という仮定のもとでは、(6) の真偽値の変動が語「知る」にある、ということ
は、ほとんど問題なく言えると思われるからである。よって、(6) のような例
は、
「知る」には少なくとも二つの意味を区別するべきである、という結論に
導くと思われる。[しかしながら、小論の最後では、(6) の真偽値の変動の原
因を語「知る」の多義性に帰する、このような議論が早計であるかもしれな
いことが示唆される。幸い、そうした考慮は、語「知る」に少なくとも二つ
の意味を区別すべきであるという結論そのものに影響を与えるものではない
19a
]。この二つの意味とは、それぞれ、きわめておおざっぱに言って、
「経験
したことがある」と「できる」といった具合いに特徴づけられるだろう。た
とえば、次の例において、(7) は前者の解釈が、(8) は後者の意味が自然な場
合であり、(9)・(10) は両方の解釈を許す場合であると考えられる 20 。
(7) あの人は貧乏を知っている。
(8) この子は、もう九々を知っている。
(9) あいつは、まだ、酒の味を知らない。
(10) かれは、金の価値を知らない。
ここで、議論の本筋からは外れるが、英語の「know how」と「できる」の
意味での「知る」との対応関係について、いくつかの観察をしておこう。
英語の「know how to V」という言い回しには、二種類の用法があること
が指摘されている 21 。
(a) John knows how to move about in a canoe.
(b) John knows how to run a projector.
(b) におけるような「know how to V」の用法は、(a) におけるそれから、次
のような含意関係が成立することによって区別される。
(X) If a does not know how to V, then a is unable to V.
そして、フランス語・ドイツ語・オランダ語における「know how to V」に
構造的に対応する表現には、(a) に対応する用法はあるが、(X) が正しいとさ
れるような (b) に対応する用法はない、ということである 22 。
(a)・(b) のような文に対応する日本語の文を探すならば、大体において、次
のような結論が得られるのではないかと思う(調査が不十分であることは、
当然、承知のうえで、ひとつの試案を出すのみである)。
(i) (b) と同じような含意をもつ日本語の表現は存在する。それは、一般に、
「. . . するのにはどうしたらいいのか知っている」という形の文になる。ただ
10
し、その否定形は、多くの場合、
「どうしたらいいのか知らない」よりも「ど
うしたらいいのかわからない」の方が自然であるが、否定形としてどちらを
採用しようとも、(X) と同様の含意関係が成立する。
(ii) (a) のような例に対応する日本語の文は、「know how to V」に対応す
る構文はもたない。
「知る」は使われるが、それは、
「. . . するやり方」
「. . . す
る仕方」「. . . 方」といった、動詞から派生した名詞を目的語として取る。た
とえば、
(11) あいつは、酒の飲み方を知っている。
(12) 今の若者は、お辞儀の仕方も知らない。
こうした文に関して、(X) に対応するような含意関係が成立しないことは明
らかである。酒の飲み方を知らないからといって、酒を飲めないわけではな
い。むしろ、酒の飲み方を知らない人の方が、酒の飲み方を知っている人より
も酒量は多い、ということは十分ありうる。(11)・(12) に現れる「知る」は、
たしかに、「できる」の意味で使われているが、「. . . する仕方を知っている」
が「. . . できる」と同じ意味ではないことは、今の例に見られるように、後者
から前者が論理的に帰結しないことから明らかである。つまり、「. . . する仕
方を知っている」は、
「ある一定の標準的な(?)仕方で. . . できる」といった
事柄を意味する。しかし、このことから、
「できる」の意味での「知る」をさ
らに細分化する必要がある、という結論は導かれないと思われる。たとえば、
(8) この子は、もう九々を知っている。
は、「この子は、もう九々ができる」から論理的に帰結すると考えられるが、
(11)・(12) について同様のことが言えない理由は、
「知る」の多義性に求めら
れるよりは、「. . . する仕方」という表現の方に求められるべきであろう。
回り道の気楽さをいいことに、はなはだ性急に過ぎる結論を、しかも結論
だけを書き連ねてしまったので、急いで議論の本筋に戻ることにしよう。語
の多義性の意味論的基準の第二の問題点は、条件 (II) が満足されていること
の立証が、時にはきわめて困難なことにある。文法的分析が二通りあるため
に、同一の文の真偽値も二通りある場合を、
「構造的多義」と呼ぶことにする
ならば、この問題は、語の多義と構造的多義との間の判定の困難、と言い換
えられる。これは、語の多義性の文法的基準がもっていた困難と同根のもの
である。結局のところ、より完全な文法の出現を待つよりないのかもしれな
いが、可能な範囲で個別的な分析をすることも無駄ではあるまい。次に考察
するのは、一見単純であるが、複雑な問題を抱えている例である。
その前に、条件 (I) の代わりに次のような条件も使えることを指摘してお
きたい(これに類似した条件は、実は、先ほどの「回り道」のなかですでに
登場していた)。
11
(I′ ) 語 W が現れている文 S が、二つの異なる解釈を許し、一方の
解釈のもとでは、 S から(必要ならば、他の前提と合わせて 23 )
S ′ が帰結するが、他方の解釈のもとでは、 S ′ は帰結しない。
さて、次の文を考えよう。
(13) どんな哲学科の学生でも、『テアイテトス』の著者を知って
いる。
この文には、二通りの解釈がある(そのどちらの解釈でも、(13) が真であると
望みたいものだが)。二通りの解釈の存在をはっきりと示すためには、(13) と
(14) 『テアイテトス』の著者は、
『メネクセヌス』の著者である。
とから、
(15) どんな哲学科の学生でも、『メネクセヌス』の著者を知って
いる。
が論理的に帰結するかどうかを考えればよい。(13) には、(15) が帰結する読
みと、(15) が帰結しない読みとの二つがあると思われる。(15) が帰結するよ
うに (13) を読むことは、(13) の真理条件を、哲学科の学生のすべてが、『テ
アイテトス』の著者であるプラトンに関して、その著作(の翻訳)を読んだ
ことがあったり、講義でその哲学について聞いたことがあったり、等々であ
る、と見なすことである。つまり、(6)(呉服町の例)の第一の解釈、
「『経験
したことがある』という意味の『知る』」と呼んだものに分類されるような読
みである。この読みでは、その真偽値は、プラトンがどのような名前で呼ば
れるかに影響されないのであるから、(13) と (14) とから (15) が論理的に帰
結すると考えられる。ところで、(15) を帰結しないような (13) の読み 24 で
は、(13) は、
(16) どんな哲学科の学生でも、『テアイテトス』の著者が誰であ
るかを知っている。
と同じ真理条件をもつ。(16) と (14) とから、(15) のこれに準じた読み、
(17) どんな哲学科の学生でも、『メネクセヌス』の著者が誰であ
るかを知っている。
が帰結しないことは、明らかであろう。
ところで、問題は、(13) のこうした二つの異なる読みが、
「知る」の多義性
によるのか、それとも、何らかの構造的多義によるのか、を決定することで
ある。
12
固有名や記述についての最近の議論を覚えている読者は、ここで使われてい
る「『テアイテトス』の著者」といった記述に多義性が隠されているのではな
いか、と疑うかもしれない。たとえば、記述名の指示的用法(referential use)
と帰属的用法(attributive use)の区別 25 (以下では、添え字「R」および
「A」によって区別する)が、ここで何らかの役割を果たしているのではない
か、と疑うかもしれない。しかし、第一に、この区別は、意味論(semantics)
の範囲に属するものではなく、むしろ、その外にある、と考える方が妥当で
ある 26 。第二に、この区別を考慮に入れたとしても、それは、ここでの問題
を若干複雑にするだけで、(13) が (16) のように読めることとは関係がない。
いま、この区別を考慮すると、(13) の (16) とは異なる読みは、さらに二つに
分かれることになる。それらを (13)R および (13)A とする。まず、これはど
ちらも、(13) を (16) のように読むことではない。((13)R は、(13) を発言す
る人が「『テアイテトス』の著者」という句で指示していると思っている特
定の人物に関して、その人物がすべての哲学科の学生に知られている人物で
あることを意味する。これに対して、(13)A は、(13) の発言者が「『テアイ
テトス』の著者」という句で何を指示していると思っているかとは関係なし
に、
「x は『テアイテトス』の著者である」という条件を満足する人物に関し
て、その人物がすべての哲学科の学生に知られている人物であることを意味
する。)また、(14) は、記述が二個現れることから、四通りの異なる読みが
可能となるが、(14) における「『テアイテトス』の著者」の読みが R である
ならば、(13)R から (15) が帰結し、A であるならば、(13)A から (15) が帰結
する 26a 。よって、記述は、この場合に限っては、問題を引き起こしている犯
人ではないのである。
記述にまだこだわる人は、もっと素朴に、「『テアイテトス』の著者」は、
(13) の第一の読みでは、ある人物を指しているが、(13) の第二の読みでは、
むしろ、その人物の名前を指している、と考えるかもしれない。しかし、こ
れは、問題を先に引き延ばすだけである。というのは、(13) の第二の読みと
して、(16) の代わりに、
(18) どんな哲学科の学生でも、『テアイテトス』の著者の名前を
知っている。
を採用しても、(18) には依然として二通りの読みが可能だからである。つま
り、(18) と (14) とから、
(19) どんな哲学科の学生でも、『メネクセヌス』の著者の名前を
知っている。
が帰結する読みと、帰結しない読みとがある。そして、(19) が帰結しない読
みは、(16) とパラレルに、
13
(20) どんな哲学科の学生でも、『テアイテトス』の著者の名前が
何であるかを知っている。
と同じ真理条件ともつ 26b 。
したがって、(13) の多義性は、そこに出現している記述によるものではな
い。(13) の可能な読みのひとつが、(16) のような書き換えによって明示され、
同様のことが (18) と (20) についても言えるということは、ここで二通りの
文法的分析が問題となっていることを示唆しているように思える。また、あ
る種の文法的変形に関して、それを許容すべきかどうかが (13) の二つの読み
において異なる、ということにも注目すべきである。たとえば、(13) の第一
の読みでは、
「知っている」の前に「よく」とか「少しは」といった語を付加
することができるが、(13) の第二の読みでは、それは許されない。こうした
考察から、(13) には構造的多義が存在すると結論してよさそうである。
ところで、(13) の構造的多義の要点は、ひとつの読みでの「知る」の目的
語は、文から派生した表現であるのに対して、もうひとつの読みでの「知る」
の目的語には、文からの派生は存在しない、ということにある。問題は、
「知
る」の目的語のこうした文法的相違が、
「知る」の多義性をも帰結するか、と
いう点にある。「知る」の文法的カテゴリーとして、s/nn と s/ns とを区別
する立場からは、こうした相違は「知る」の多義性を直ちに帰結するであろ
う。しかし、すでに見たように、これが唯一のオプションではない。「知る」
の文法的カテゴリーは、(13) のどちらの解釈においても s/nn であって、た
だ、片方の読みでは、その目的語が n/s という構造をもつ、とする立場も可
能なのである 27 。
こうした事情をはっきりさせるために、この節の初めで挙げた例を再び考
察しよう。
(6) 呉服町は知っています。
すでに述べたように、(6) には二通りの解釈があったが、これに第三の解釈が
あるということが、いま、問題になっているのである。つまり、(6) は、
(21) 呉服町がどこにあるかは知っています。
と同じ真理条件をもつ、と解釈することもできる。この第三の読みが、先に
考察した二つの読みのどちらとも異なることは、この読みにおいてのみ、
「呉
服町」の (6) における出現が透明でないことから明らかである。
問題は、
「呉服町に行ったことがある、等々」といった (6) の第一の読みと、
この第三の読みとで、
「知る」の意味は異なる、とすべきであろうかというこ
とである。異なるとする人々は、まず、それらの読みで「知る」の文法的カ
テゴリーは異なる、と主張する。しかし、これには、(6) の第一の読みの「知
る」の目的語がある場所を指すのに対して、(6) の第三の読みでは、それは、
14
ある命題なり事実なり文なりを指すという、
「知る」の目的語の相違に過ぎず、
「知る」そのものの意味が異なるとする必要はない、という主張が対立する。
こうした問題を解決するためには、語の多義性の判定という比較的単純な
問題設定から、さしあたって異なるとされた語の意味をどうやって与えるの
か、という定義の問題、さらには、ひとつの語がもつ異なる意味の間の関係
(ここでは、アリストテレス=オーエンの focal meaning の概念が重要な役
割を果たす)にまで、考察の範囲を広げざるをえまい。しかし、残念ながら、
そうした問題は、小論の範囲を超える事柄である 28 。
註
1. knowledge を justified true belief と定義することの欠陥を指摘した E. L.
Gettier の論文 “Is justified true belief knowledge?” (Analysis 23 (1963) 121–123)
の出現以降、急成長を遂げた分野を指す。この名称は、ある論文の脚注で見たもので
あるが、残念ながら、その著者も題名もいま覚えていない。
2. K. Lehrer, Knowledge, 1974, Clarendon Press.
3. Ibid . p.1.
4. 「sense」を「意義」と訳することは、
「多義性」という語との関連を明示すると
いう点ではすぐれている。だが、「文の意義」といった表現に、筆者はまだ抵抗を感
ずる。したがって、「文の意味」「語の意味」で統一した。
[補註(1987)
: この論文を書いて以来、
「文の意義」という表現に対する筆者の抵
抗感はだいぶ弱まったということを告白しなければならない。その理由のひとつは、
フレーゲの「Sinn」の訳語として「意義」を採用することが一般化し、筆者もそれに
従うことにしたことにある。しかしながら、この論文における用語法を変えることは
しなかった。フレーゲの「Sinn」のある解釈に従えば、それを、通常「文の意味」
「語
の意味」と言われるときの「意味」と同一視することが多くの場面で許されると考え
るためである。]
4a.[補註(1987)
: 小論が掲載された『哲学雑誌』770 号のテーマは、「知識と信
念」というものであった。]
4b.[補註(1987): 小論で考察されているのは、語「知る」の意味であるよりも
むしろ、語「知っている」の意味ではないかと言われた(野家啓一氏)。これはたし
かに正しい指摘である。実際、小論で取り上げられている例文を見ると、そこに現れ
るのは、「知る」であるよりは、「知っている」である。もしも「知っている」に多義
性があり、その多義性がすべて、「知る」に由来するのであれば、小論の問題設定は
いちおう許されよう。しかしながら、もしも「知る」ではなく「ている」の多義性が
「知っている」の多義性を結果しているのであれば、小論の問題設定はそもそも誤っ
ているということになる。詳細な議論は、別の機会に譲らなければならないが、とり
あえず現在のところ、次のように言えよう。日本語の「知る」は、英語の「know」と
違って、
「ている」のような接辞を伴わなければ、状態ではなく変化—知っていない状
態から知っている状態への変化—を指す。動詞に「ている」が続く形の表現は、おお
まかに言って、動詞の種類によって、(1) 動詞が表す出来事が進行中である状態を表
すか、あるいは、(2) 動詞が表す出来事の結果として生じた状態の存続を表す。
「知っ
ている」に複数の意味を想定するとしても、そうした異なる意味のすべてにおいて、
「知っている」が指す事態は (2) の種類であると考えられるので、「ている」が新たに
多義性を生み出すとは思えない。]
5. こうしたモデルの記述は、多くの場所に見いだされるが、次の二つがきわめて
啓発的である(特に、われわれの当面の問題である語の多義性に関しては、前者から
多大の示唆を得た)。D. Wiggins, “On sentence-sense, word-sense and difference
15
of word-sense. Towards a philosophical theory of dictionaries” in D. D. Steinberg
and L. A. Jakobovits (eds.), Semantics: An Interdisciplinary Reader in Philosophy, Linguistics and Psychology, 1971, Cambridge University Press, pp.14–34;
J. McDowell, “On the sense and reference of a proper name” Mind 86 (1977)
159–185.
6. 有限性を言語学習の可能性の条件として、同様の結論に至る議論もある(D.
Davidson, “Theories of meaning and learnable languages” in Y. Bar-Hillel (ed.),
Logic, Methodology and Philosophy of Science, 1965, North-Holland, pp.383–394)。
しかし、有限性が言語学習の可能性の条件であることは必ずしも自明ではないと、デイ
ヴィドソン自身、後に認めている(D. Davidson, “Radical interpretation” Dialectica
27 (1973) 313–328 at note 2)。
[補註(1987)
: この後者の論文のこの註は、もとの論文が論文集 Inquiries into
Truth and Interpretation (1984, Clarendon Press) に収められた際に削除されてい
る。このことが何を意味するのか、私には判断する能力がない。]
7. ふつう、音声的に同一であっても、語源が異なるような場合には、それらは
異なる語の出現であるとされる。つまり、同音異義語(homonym)と呼ばれるもの
が、この場合に当たる。ここでは、クワインになって、同音異義(homonymy)と多
義(ambiguity)とを区別しない(W. V. O. Quine, Word and Object, 1960, MIT
Press, §27)。
8. 厳密に言うならば、これは、人類が無限に長く存続しうるということを仮定しな
ければ言えない。しかし、こうした仮定の成否が、このような問題の決定を左右する
とは考え難い。また、同様の仮定のもとでは、多くの固有名詞も、それが複数個のも
のに対して使われるからといって、多義的であると結論すべきではない。たとえば、
「田中角栄」という名前をもつ人は複数であろう。しかし、その各々について、この名
前が異なる意味をもつと考えることはできない。なぜならば、(現実にはありそうも
ないが)これから生まれて来る男の子には、毎年、少なくとも一人は「田中角栄」と
名付けられる者がいる、ということは可能だからである。このような問題も、本文で
後述されているように、多義性としてではなく、言語の指示的慣行の一部として扱わ
れるべきである。
9. たとえば、フレーゲによる多重量化(multiple quantification)の問題の解決に
は、文の「垂直的」構造といった考えが決定的な役割を果たしたということは、多く
の人々によって指摘されている点である。
10. 文法的カテゴリーについてのこうした考え方の、きわめて要領のよい説明と
して次のものが挙げられる。Y. Bar-Hillel, “Syntactical and semantical categories”
in P. Edwards (ed.), The Encyclopedia of Philosophy, 1967, Macmillan, Vol.8,
pp.57–61.
11. 同様のことは、英語の「know」についても言える。「a knows that p」という
形の文において、
「know」は、単称名 a と文 p に作用するオペレータと考えることも
できれば、
「that p」を命題を指す単称名と考えて「know」を通常の二項述語と考える
こともできる。
(バージは、次の書評において、前者のような考え方を「the operator
approach」、後者を「the Fregean approach」と呼び、両者の優劣を詳しく論じてい
る。T. Burge, “Critical notice of Hintikka, The Intentions of Intentionality and
Other New Models for Modalities” Synthese 42 (1979) 315–334.)
12. 「よく」を付加する変形は、どちらの形でも可能である。また、(4) については、
(4′ ) この生徒は、ピタゴラスの定理を少し知っている。
という文も可能であるが、(4′ ) の「ピタゴラスの定理」を「直角三角形の斜辺の長さ
を a、他の二辺の長さを b、c とするとき、a2 = b2 + c2 であること」で置き換えて得
られる文は、文法的に正しいとは言えない。
13. 「文+こと+を+動詞」および「文+と+動詞」という構文が、双方ともに可
能か、それとも一方だけが可能か、という点は、いわゆる命題的態度(propostional
16
attitude)を表すと考えられる日本語の動詞を考察する際に、きわめて重要であると
思われる。たとえば、「知る」、「信じる」、「覚える」、「願う」、「望む」などは、双方
が可能な場合である。これに対して、
「考える」、
「思う」、
「感じる」などについては、
「文+こと+を」という形の構文は、特殊な場合にしか使われないように思われる。ま
た、この点できわめて特異であるのは、
「忘れる」であり、
「—ことを忘れた」とは言
えるが、「—と忘れた」とは言えない。こうした事実が何を意味するかは、ここで考
察する余裕がない。
[補註(1987)
: この註で言及されたような現象を評価することが、後の「知識論
のためのノート (I)」(1985)の出発点であった。]
14. 言語理解の理論の必要性を弁護しなければならないとすると、もちろん、話は
別である。そのときには、(i) の弁護の方が、より困難な企てとなろう。
15. M. Dummett, Truth and Other Enigmas, 1978, Harvard University Press.
16. 「本来の意味論」ということで、ここでは、syntax - semantics - pragmatics
という伝統的三分法(これはきわめて不十分なものでしかないが、われわれはまだそ
れに代わりうる分類を所有していない)の中間項を指している。
17. ある形の主張可能性の条件が文の意味とされるとき、
「必要以上に意味を増やして
はならない」という「オッカムの消しゴム Ockham’s eraser」がどれほど無視されること
になるかの実例として、次の書物は、きわめて教訓的である。N. Malcolm, Dreaming,
1959, Roudledge & Kegan Paul。(余計なことかもしれないが、「Ockham’s eraser」
という名称は、筆者の創案によるものではない。これについても、出典を記憶してい
ないのは残念である。)
18. おおざっぱに言って、この解釈のもとで (6) が真となるのは、呉服町から発す
る因果系列に A の経験が組み込まれており、A は、自分の経験の一部が呉服町から
発するものであることを、何らかの仕方で意識している(必ずしも「呉服町」という
名前のもとでである必要はない—(6) における「呉服町」の出現は、どちらの解釈で
も透明(transparent)である)場合である、という具合に言えるかと思う。しかし、
このような条件には多くの留保が必要であることは明らかである。ここでは、ひとつ
の分析の方向性を示唆しただけである。
19. ここで、n をどれだけ大きく取れるか、また、Wk がどれだけのヴァラエティ
に富んでいるか、といった点が、(III′ ) の (III) に対する支持率に影響するであろう。
19a. [補註(1987): 括弧内の部分は、今回書き足したものである。いったん発
表してしまった論文に不整合を発見することは、私の場合、しばしばであるが、これ
はその一例である。これだけの補足で済むかどうかは自信がないが、全面的に書き改
めるようりは、と思い、この程度にしておく。]
20. より正確には、(7)–(10) はすべて、理論的には両方の解釈を許す、と考えられ
ねばならない。(7) や (8) において、一方の解釈だけが「自然」だと思われるのは、
(7) や (8) が真となるのは、その解釈においてだけであるからである。また、同様に、
(9)・(10) だけが「両方の解釈を許す」と言われているのは、(9)・(10) が真となる場
合がどちらの解釈でもありうる、という意味である。
21. D.G.Brown, “Knowing how and knowing that, what” in O. P. Wood &
G. Pitcher (eds.), Ryle: A Collection of Critical Essays, 1970, Anchor Books,
pp.213–248. 本文の二つの例文も、この論文から借りたものである。
22. Ibid ., p.220.
23. ここで、他の前提に多義性が隠されていたならばどうなるか、と問われるだろ
う。そのときには、他の前提の可能な読みのすべてと組み合わせて S ′ が S から帰結
するかどうかを調べればよい。簡単のために、他の前提が T のみで、その二つの読み
を T1 、 T2 としよう。同様に、S の二つの読みを S1 、S2 とする。たとえば、 S1 –T1
という組合せからは S ′ が帰結するが、他の三通りの組合せからは S ′ が帰結しない場
合は、(I′ ) の条件を満足している。他方、S1 –T1 、S2 –T2 からは S ′ が帰結するが、他
からは S ′ が帰結しない場合は、(I′ ) は満足されず、多義性のテストには使えない。
17
24. この読みの方が自然であることは否めないが、(15) を帰結する読みも少なくと
も可能であることさえ言えるならば、読みの自然不自然は、論点に影響を与えないは
ずである。
25. K. S. Donnellan, “Reference and definite description” The Philosophical
Review 75 (1966) 281–304.
26. 註 16 参照。
26a. [補註(1987)
: たしかに、(13) と (14) において、R であるか A であるかに
関して、「『テアイテトス』の著者」の読みが異なるならば、(13) と (14) とから (15)
が帰結することはない。しかし、その理由は、(13) が (16) のように読まれることに
よって、(15) を帰結しなくなる理由とは、まったく関係がない。]
26b. [補註(1987)
: (18) に二通りの読みがあるというのは、多くの人に不思議
と思えたはずである。この点について説明を加えなかったのは、大変不親切であった
と反省している。「『テアイテトス』の著者の名前を知っている」という句の自然な読
みは、もちろん、
「『テアイテトス』の著者の名前が何であるかを知っている」である。
これとは異なるもうひとつの読みとは、
「『テアイテトス』の著者の名前そのもの、た
とえば、
『プラトン』という名前に出会ったことがある」といったものである。この読
みでは、
『テアイテトス』の著者の名前が何であるか答えることができることは、この
句があてはまるための必要条件ではない。これがきわめて不自然な読みであることは
たしかであるが、ありえないわけではない。類似の例として、ルイス・キャロルの『鏡
の国のアリス』第 8 章で、白の騎士がアリスに歌を歌って聞かせるときの二人のやり
取りを思いだして頂きたい。白の騎士は、まず、その歌の名前が「Haddock’s Eyes」
と呼ばれると言う。「それが歌の名前なのね」と言うアリスは、騎士から、「歌の名前
は『Haddock’s Eyes』と呼ばれるけれども、歌の名前そのものは『The Aged Aged
Man』なのだ」と、たしなめられるのである。]
27. 註 11 参照。
28. この論文で扱った題材の多くは、熊本大学文学部における筆者の講義(一九八
三年度前期)において論じたものである。講義題目も決まらないままに始まった講義
の試行錯誤につきあってくれた学生諸君と、この論文の草稿に関して貴重な意見助言
を寄せて頂いた諸氏に感謝する。
18
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