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Page 1 文化学園リポジトリ Academic Repository of BUNKA GAKUEN

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Page 1 文化学園リポジトリ Academic Repository of BUNKA GAKUEN
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L'uomo vogue (ルオモ・ヴォーグ) Milano : Conde Nast,
1968-
矢島,みゆき
文化女子大学図書館所蔵服飾関連雑誌解題・目録 (200509) pp.208-210
2005-09-30
http://hdl.handle.net/10457/1831
Rights
http://dspace.bunka.ac.jp/dspace
1.,uomo vogue(ルオモ・ヴォーグ)
Milano:Cond6 Nast,1968一
1968年に第1号がfil行された「ルオモ・ヴォーグ」誌は、1892年に創F|1された「ヴォーグ」アメリ
カ版の企画意図をくんで作られた、「ヴォーグ」イタリア版の男性読者層を対象に企画されたもので
ある,「ヴォーグ」とは「動く波」、すなわち「流行」という意味を持つ単語である. ’方、「ウォモ」
はイタリア語で「男性」を意昧するcすなわち、誌名の意昧するところは「男性の間での流行」で
ある。
出版元のコンデ・ナスト社は、アメリカで「ヴォーグ」誌を編集するにあたって、他の雑誌が常
に売tl数に焦点を定めた作り方を通例としていたのに対して、年収や文化層によって読者層を絞る
「クラスマガジン」の考え方を導入した。こうした「ヴォーグ」アメリカ版を土台に、イタリア独自
の「ヴォーグ」誌を企画し世に出したのが、フラヴィオ・ルッキー二(Flavio Lucchini)である。ア
メリカとは全く社会の価値観もファッションについての脈絡も異なるイタリアを念頭に、同氏は
「ヴォーグ」イタリア版に続けて「ルオモ・ヴォーグ」を創刊する。
「ルオモ・ヴォーグ」も「ヴォーグ」イタリア版同様に、服のみについて語る雑誌ではなく“ラ
イフスタイル”を語る雑誌であることは、ページをめくれば一目瞭然である.当初より、編集ペー
ジには人物に焦点をあてた企画が目立つ。しかも、人物はあらゆる分野の知識文化人や優れた才能
を持つスポーツマンやアーティストなど、多岐にわたる。必ずしもファッションにかかわる人物と
は限らない。セシル・ビートン(Cecil Beaton)、カプッチ(Capucci)、ルチアーノ・バルベーラ
(Luciano Barbera)、ウォルター・アルビー二(Walter Albini)、モラヴィア(Moravia)等々。鐸々た
る人物の人生をインタビューと写真で構成している。カメラマンも、カルロ・オルシ(Carlo Orsi)、
オリヴィエロ・トスカー二(Oliviero ToscanD、アルファ・カスタルディ(Alfa Castaldi)、ウーゴ・
ムラス(Ugo Muras)、ヘルムート・ニュートン(Helmut Newton)等の字能豊かな人材をためらうこ
となく採用して、服も含めてライフスタイルについての啓蒙を続けてきている。
ルッキー二の功績は、特にグラフィック・デザイナーのアルベルト・ノドリー二(Alberto Nodolini)
とのコラボレーションを通じて、ページー・杯に拡大された人物写真を多数使って、それまでの頭部
から足のつま先までの全身を映す写真の在り方を大きく変えたことである。
70年代はまた、イタリアのモード産業界にとっては忘れられぬ、すなわち、「ミラノ・プレタポル
テ・コレクション」が始まった時代である。フランスのモード産業を支えて、素材や縫製メーカー
を発達させたイタリアが、そうした機能にさらにスティリズム(デザイン)を加えるに至った時代
である。ルッキー二はイタリアのこうした時機をとらえて、積極的にミラノ・コレクションを支持
し、そのスポークスマン役を「ルオモ・ヴォーグ」誌に課したのである.
こうして60年代には「エレッセ(Elesse)」や「ベンベルグ(Benberg)」などの素材メーカーが目立
ったのが、1971、75、78年と時代が進むにつれて「シーラップ(Sealup)」「ヒルトン(Hilton)」「ヴァ
レンティーノ(Valentino)」などの既製服メーカーのそれに転換していくJジョルジォ・アルマー二
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(Giorgio Armani)のデビューもこの頃のこと
である。ヒルトンやチェルッティでデザイナ
ーを務めていたジョルジォ・アルマー二に求
能を見いだしたルッキー二は、広告ページを
無料で提供して、ジョルジォ・アルマー二・
コレクションを支えた。ミラノ・コレクショ
ンのスター、ジョルジォ・アルマー二はルッ
キー二の「ルオモ・ヴォーグ」が育てた新星
であった。同誌のカメラマン、アルド・ファ
ライ (Aldo Fallai)は、その後も引き続いて
アルマー二のコレクションの広告写真を撮り
続けている。こうした雑誌とメゾンの連携は、
やがてシステムとして定着していく=
記事は大方が解説調であった。色彩につい
て、フォルムについて、テキスタイルについ
て等、言葉で細かに説明を施している。
こうした「ルオモ・ヴォーグ」の特徴は、
クリスティーナ・ブリジディニ(Cristina 223号(1991{1三11月号) 名映画監↑f、ルキノ・ヴイスコンテ
ィの甥にあたるジョヴァンニ・ガステル(Giovamii Gastel)が
Brigidini)に編集長が交替すると加速され、 撮影した映1,Ettiの.こまa)ような写真が斬新
イメージが中心のページ作りとなる。時は、
ミラノ・コレクション大躍進の時期。有力メゾンはこぞって、「ルオモ・ヴォーグ」誌に広告を出そ
うとするようになる,その大きな効果を確認したためである。ページ数もほぼ2倍の厚さとなり、広
告ページが本全体の3分の2を占めることも珍しくない、という状況が生まれた、,それまでと同様に
人物中心の写真に加えて、この期に及んで物撮りのページが目立って増え、本誌は読者に詳細な情
報を与える役割を担うようになる。1980年の93号などがそれを語るJまた、この頃からスティリス
ト(デザイナー)はアーティストであり、モードそのものもアートの一分野であるという概念がし
っかりと根を張っていく。この考え方は、88年から編集責任の地位についたフランカ・ソッツアニ
(Franca Sozzani)によってさらに強化され、各ページはコミュニケーションの手段として一・段と洗練
されたものに昇華されていく。ソッツアニの「ルオモ・ヴォーグ」誌は他に例を見ない大胆なビジ
ュアル・ブックの現実を作り1二げることに成功した。ソッツアニは、アメリカの新鋭カメラマン、
スティーヴン・マイゼル(Steeven Meisel)を見いだすと、毎号、彼を起用してそれまでになくセク
シーで変化に富んだ様々なアイディアの、ポストモダンな写真ページを作り上げていったt/時代を
語るにおいて「優れた写真1枚が伝えるものは、100の記事にも勝る」と、マイゼルのほかに、ブル
ース・ウェーバー、ミシェル・コント、パオロ・ロヴェルシ、ピーター・リンドバーグら、世界の
最も優れたカメラマンを次々と抱え込んで、贅沢極まりないイメージをふんだんに盛り込んだ雑誌
の制作を実現させていった。80年代のポストモダン、90年代のミニマリズム、2000年のバロックと、
アーティストでもあるアートディレクターのルカ・ストッピー二(Luca Stoppini)との二人三脚で、
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今も珠玉のようなページを丹念に作り続けている.そのイメージの力が各メゾンを刺激し、88年以
降の「ルオモ・ヴォーグ」は類まれなる贅沢な雑誌として、スポンサーの獲得に事欠かない,ソッ
ツアニの責任ドに、2000年より編集長に置かれたアンナ・デル・ルッソ(Anna del Russo)も、ソッ
ツアニの方針を引き継ぎ、さらに情報の種類や領域を一段と拡大させて、ますます世の中がグロー
バル化する状況Fでのファッションやライフスタイルの提供を続けている,
なお本館の所蔵は1973年の25号からで、多少欠号はあるもののほぼそろっている (矢島みゆき)
347号(2004年11.1 Yj−)の写貞とグラフィノクスをミノクスさせた新しい試み
パオロ・ロヴェルシ(Paolo ROversi)撮影
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