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市指定文化財
《市指定文化財》 番 号 区 域 種 別 名 称 指 定 年月日 所在地 所有者・ 管理者 1 大 1 無形・民 俗芸能 若宮八幡宮神楽舞 S46.10.18 一村尾 若宮八幡 宮神楽保 存会 2 六 1 無形・民 俗芸能 畔地神楽 S47.4.21 畔地 畔地神楽 保存会 3 六 2 無形・民 俗芸能 藤村流歌舞伎踊 S47.4.21 原 藤村流歌 舞伎踊保 存会 1/17 解 説 いつ頃始まったかは不明で あるが、慶応元年の記録に残 されているので、この頃には すでに行われていたようであ る。明治初年、北川岸次に依 頼して 27 面を作り 32 面を備 えて 26 座として神前で舞わ れてきた。 芹間刑部忠光公(職名按察 使)の家臣に芸達者な者がお り、他の家来と一緒に管弦、 舞踊、神楽、狂言を演じ、百 姓たちを招き楽しませていた のが起源と言われている。明 治中葉に中魚沼赤倉からき た木挽職人の指導により盛ん になり現在に伝わっている。 文政年間、清水瀬の桑原 関十郎が佐渡で唄や踊りを 習得し、師匠から藤村性をも らった。帰郷後五十沢の人た ちに仕込んだのが歌舞伎踊り である。主なものに仕方踊り、 踊松坂、地追分、おけさなど がある。 番 号 4 区 域 六 3 種 別 記念物・ 天然 名 指 定 年月日 称 城内八海山表山元里宮御 神木(杉) S47.4.21 所在地 長森 所有者・ 管理者 解 説 八海神社 八海神社 前庭の中 央にある均 整のとれた 美樹樹。高 約 30m、目 通周囲 6.3 m、樹根部 には土盛 がなされており、樹勢はよい。 5 塩 1 絵画 宮人の図 1幅 S47.6.5 塩沢 南魚沼市 作者は江戸浅草、北斎門 下の有坂北馬。密画を得意と している。文政 3 年 6 月 10 日 から 8 月 3 日まで牧之を訪 ね、牧之も江戸に出かけた際 には、北馬を訪ねている。ま た上十日町の和歌神社にも 彼の絵が奉納されている。 6 塩 2 絵画 美人の図 2幅 S47.6.5 塩沢 南魚沼市 鈴木牧之画賛、読書の図、 愛狆の図と呼ばれている。 南魚沼市 鈴木牧之画賛の図である。 牧之は吉原扇屋の花扇など とも 文通 が あ った。 19 歳 の 時、縮 80 反を携えて江戸に 行った。この時の事を「東遊 記行」に著し、その中に両 国、品川、吉原の記述があ る。 南魚沼市 牧之が孫の将来を祝って 関羽の像を大幅に画いた。賛 は、牧之と親交の深かった雲 洞庵海雲禅師に依頼した。 文化 9 年、牧之 43 歳の作と いわれている。箱書は、橋本 独山がしている。 南魚沼市 牧之の画に、雲洞庵海雲 禅師が賛したものである。父 は幼名を与之助といい、21 歳 の時恒右衛門と改名した。母 とよは、姥島村種村幸右衛門 の長女で、19 歳で嫁いでき た。機織の名人で、近所の子 女にもその技術を教えた。こ こに、描かれた父が、牧之像 のモデルと言われている。 南魚沼市 牧之が 50 歳の時、耳の治 療のために江戸に行った際 に書いてもらったもの。南畝 は江戸後期の文人で、洒落 本・黄表紙・滑稽本を得意と した。屏風に仕立てた時の縁 の朝顔と雀の図は牧之が描 いたものである。 7 8 9 10 塩 塩 塩 塩 3 4 5 6 絵画 絵画 絵画 絵画 遊女の図 関羽の像 父母の像 大田南畝書 (六曲屏風) 2幅 1幅 1幅 半双 S47.6.5 S47.6.5 S47.6.5 S47.6.5 2/17 塩沢 塩沢 塩沢 塩沢 番 号 11 12 13 14 15 16 17 区 域 塩 塩 塩 7 8 9 塩 10 塩 11 塩 12 塩 13 種 絵画 絵画 絵画 絵画 絵画 絵画 絵画 別 名 指 定 年月日 称 亀田鵬斎書 (六曲屏風) 山水・花鳥 (六曲小屏風) 張込六曲屏風 坂戸城絵図 塩沢村名所絵図 越後の図(写) 樺太絵図(写) 半双 1双 半双 1枚 1枚 1枚 1枚 S47.6.5 S47.6.5 S47.6.5 S47.6.5 S47.6.5 S47.6.5 S47.6.5 所在地 塩沢 塩沢 塩沢 塩沢 塩沢 塩沢 塩沢 所有者・ 管理者 解 説 南魚沼市 牧之が 50 歳の時、耳の治 療のために江戸に行った際 に書いてもらったもの。鵬斎 は江戸後期の儒学者で折衷 学派であった。通称文左衛門 と呼ばれていた。屏風に仕立 てた時の縁の朝顔と雀の図 は牧之が描いたものである。 南魚沼市 牧之の自画賛を張り合わせ た小屏風。山水の一番右が 64 歳と書かれているほかは、 亡くなる前の年 72 歳のもので ある。 南魚沼市 文政 5 年、牧之 53 歳の時 に、それまでの収集品を張り 交ぜて屏風に仕立てた。鈴 木家の家族の絵や俳句、書 などを中心に親戚の作品も見 える。 南魚沼市 文化 14 年(1817) 牧之 48 歳の時、坂戸山に登った際に 描いた絵図。絵図には紙が 張られ説明が追加されてい る。 南魚沼市 天保 4 年(1833)牧之とその 養子の牧山によって描かれた 絵図。天和二年(1682)の検地 の資料に基づいて描かれ、 塩沢村の開発の様子がわか る。 南魚沼市 文政元年(1818)に岡野町 (旧高柳町)村山家より借りて 写したものである。村山家と 鈴木家は、関係が深く、牧之 の妻うたが村山家から嫁ぎ、 おくわに村山家から蔵吉を婿 に迎えて養子にしている。 南魚沼市 いつ頃のものか不明。江戸 時代の後半になると、牧之を はじめ庄屋、地主の中には、 広く世界に目を向けた人たち が出てくる。 18 塩 14 絵画 中華の図(写) 1枚 S47.6.5 塩沢 南魚沼市 牧之は天明 4 年(1784)に中 華十三省図を写している。翌 年、村松藩主堀丹波守が参 勤交代の折にこれを献上して いる。その時の控がこの写し である。 19 塩 15 絵画 世界地図(版本) 1枚 S47.6.5 塩沢 南魚沼市 世界地図については、いつ 頃のものか不明である。 3/17 番 号 20 21 区 域 塩 16 塩 17 種 絵画 絵画 別 名 指 定 年月日 称 家大人肖像 十返舎一九の狂歌 1幅 1幅 S47.6.5 S47.6.5 所在地 塩沢 塩沢 所有者・ 管理者 南魚沼市 南魚沼市 文化 15 年(文政元年)4月 26 日、一九は、牧之宅を訪れた 際に書いたのがこの狂歌であ る。後姿の父親が左手に扇を 開き持ち、右手に横向きの男 の子の手を引いている。狂歌 は、親骨があってこそ扇は風 を起こすことができると、親の 役割を軽妙に表している。 牧之の父恒右衛門は、周月 庵弄菊仙牧水と号した。魚沼 では名の知られた俳人で、俳 匠として地域の指導者の一人 であった。牧之はかねてより 父の句集をまとめようと考え、 父の没後文政 4 年にようやく 成ったのがこ の発句集であ る。牧水の句が四季に分けて 1400 句ほど並んでいる。巻末 には、牧水が安政 4 年、奥羽 を廻った時の「周月庵牧水湯 殿山記行」が収めてある。 塩 18 書蹟 周月庵発句集 1冊 S47.6.5 塩沢 南魚沼市 23 塩 19 書蹟 北越雪譜(初版本) 7冊 S47.6.5 塩沢 南魚沼市 塩 20 書蹟 塩冶判官一代記 1冊 S47.6.5 4/17 塩沢 説 牧之の父恒右衛門の肖像 画である。風雅の道もたしな み、和漢の書を読み、周月庵 牧水と号して俳諧も得意とし た。牧之は、この父の影響を 家業だけでなく、学問文芸に おいても強く受けた。 22 24 解 南魚沼市 雪国越後の民俗・習慣・伝 説・産業などについて書いた 随筆集。初編・二編とに分か れ全部で 7 冊から成る。29 歳 のときに最初の原稿を江戸の 山東京伝に送り、滝沢馬琴・ 岡田玉山・鈴木芙蓉・山東京 山らとのかかわりあいの中で 日の目を見たのは最晩年で あった。 執筆年代不明、南北朝時 代を舞台に出雲守護塩冶高 貞の一代記を物語化したもの で「太平記」をもとに創作した 小説である。 番 号 25 26 27 28 29 30 区 域 塩 21 塩 22 塩 23 塩 24 塩 25 塩 26 種 書蹟 書蹟 別 名 周月庵・宇多女追善集 張交屏風国所性名帖 書蹟 夜職草稿本 書蹟 短冊扣帖 (雅友発句集) 書蹟 書蹟 越後短冊百人一首 他邦短尺百人一首 諸国筆鑑 指 定 年月日 称 1冊 1冊 1冊 1冊 2冊 8冊 S47.6.5 S47.6.5 S47.6.5 S47.6.5 S47.6.5 S47.6.5 5/17 所在地 塩沢 塩沢 塩沢 塩沢 塩沢 塩沢 所有者・ 管理者 解 説 南魚沼市 周月庵は牧之の父文恒右 衛門のこと。宇多女は牧之の 妻、岡野町の村山家から嫁 ぎ、48 歳で没した。『周月庵 弄菊仙牧水追善集』には冒 頭に辞世の句が揚げてある ほか 87 人の句、歌、漢詩が 収めてある。『荊妻宇多追善 集』は、牧之の句を最初に載 せる 31 人の追善集である。 南魚沼市 本帖は、牧之および父牧水 の交友簿で、その人数は 300 人以上にわたり、それぞれの 居所や通称などを並記してい る。文政 5 年 1 月、牧之 53 歳 の時作成された。牧之の生涯 における交友の範囲を知る上 で貴重な資料である。 南魚沼市 牧之が 64 歳のときに書い た別本で仮表紙の「夜職草」 である。これは紙数も少なく 抄録で、今成喜市、同造酒 蔵、鈴木長吉、同大蔵、同弥 八等一族の者に写させ、月に 1度ずつ見て出精の励みにさ せようとしたものである。 南魚沼市 牧之とその父牧水の交友か ら届いた俳句短歌を牧之が 書き写したもの。人物の解説 もほどこしてある。 南魚沼市 『越後短冊百人一首』は1頁 に 5 枚宛、牧之の交友、俳人 の句を貼り込む。数は 40 葉、 短冊の右側に作者の住所、 姓名を墨書。表題のとおり、 越後関係者の分である。『他 邦短冊百人一首』は、30 句、 ともに後半に余白部が多いの で、表題どおりの百人の俳句 を企図したことがうかがわれ る。 南魚沼市 牧之は広く諸国の文人墨客 と交わり、書簡をはじめ色紙 短冊を交換している。贈られ たものは、屏風、巻物にした り、住所姓名録を作成して家 宝とし、後世に遺そうと心掛け た。そのうちのひとつ。 番 号 区 域 種 別 名 指 定 年月日 称 所在地 所有者・ 管理者 解 説 31 塩 27 書蹟 牧之交遊人名簿 2冊 S47.6.5 塩沢 南魚沼市 牧之と交遊のあった人の名 簿。その幅は広く、俳人、歌 人、書家、画家、儒者、国学 者、神官、僧侶、戯作者、医 者、藩士、歌舞伎役者、吉原 の名妓花扇と多岐にわたる。 32 塩 28 書蹟 和歌短尺帖 1冊 S47.6.5 塩沢 南魚沼市 友人の和歌の短冊を張合 わせたもの。6 つ折全 40 枚の 短冊が張られる。 書蹟 百首短冊帖 (小屏風型) 南魚沼市 牧之の友人達の短冊を小 屏風型に百首ずつ貼り、整理 したものである。3 冊に分か れ、いずれも他邦。 南魚沼市 『永代記録帖』と『永世記録 二番帖』の 2 冊がある。 前者は一番帳ともいい、鈴 木家初代からの年代記ととも に、牧之の誕生より文政 3 年 8 月 5 日(牧之 51 歳)までの記 録がつづられている。後者は 二番帳と呼び、文政 3 年 8 月 21 日から文政 11 年 9 月 19 日(牧之 59 歳)までの記録で ある。いずれも牧之の自筆記 録である。 南魚沼市 諸国の雅友からの書簡を巻 物に仕立てたもの。太田蜀山 人、亀田文左衛門、蹄斎北 馬、谷文五郎、歌川豊国の名 前が見られる。 33 34 35 塩 29 塩 30 塩 31 書蹟 書蹟 永世記録帖 書翰集 (巻物未表装) 3冊 2冊 1点 S47.6.5 S47.6.5 S47.6.5 塩沢 塩沢 塩沢 36 塩 32 書蹟 書翰集 (巻物仕立) 6巻 S47.6.5 塩沢 南魚沼市 牧之父子と交遊のあった 人々から来た手紙を 6 巻に集 成したものである。 「仁 雲井乃雁」「義 鯉魚 書」「礼 鴻音」「智 雁帛」 「信 鴻音」「当国雁書天」と それぞれの巻に題名がつい ている。ほかに書簡を一覧表 形式にして、差出者名、居 所、通称等を注記した 2 綴り の交友者人名簿がある。 37 塩 33 書蹟 亀鑑 (表彰状張込) 1巻 S47.6.5 塩沢 南魚沼市 牧之の行った数々の善行に 賜った表彰状を張り込んで残 したもの。 南魚沼市 京伝、馬琴、京山、一九、 牧水、牧之の 7 枚の短冊を紙 軸に仕立てたもので、牧之没 後 100 年祭の時に屏風から はがして、1 幅にしたと考えら れる。 38 塩 34 書蹟 短冊張合せ 1幅 S47.6.5 6/17 塩沢 番 号 39 40 41 区 域 塩 35 塩 36 塩 37 種 書蹟 史跡 史跡 別 名 指 定 年月日 称 一九、牧之狂歌合せ 南山古墳 1 号墳 南山古墳 2 号墳 1幅 1基 1基 S47.6.5 S47.6.5 S47.6.5 7/17 所在地 塩沢 塩沢 塩沢 所有者・ 管理者 解 説 南魚沼市 一九は『東海道中膝栗毛』 の著者であり、狂歌師でもあ る。 牧之は文政 2 年江戸に行っ た時に訪ねたことがある。文 政 9 年には一九が牧之宅に 逗留した。その時の歌合せで ある。 南魚沼市 南山古墳群は、背後に栃窪 峠を控える丘陵上東斜面、標 高約 200 メートル付近に立地 する古墳群である。1 号墳は 1961 年、県道改修工事の際 に発見され調査が行われた。 直刀、刀子、鍔、須恵器坩な どが出土している。築造され た年代は、7世紀前半頃に造 られたものと考えられる。 南魚沼市 2 号墳は、1 号墳と共に発見 され発掘調査が行われた。径 7.2 メートルの円墳で、墳丘の 三方に周溝が廻り、墳丘裾に は貼石を持つ。遺体を納める 石室は、20~40 センチメート ル大の自然石を積んだ横穴 式石室である。副葬品には須 恵器坏蓋、坏身、長頸壺、勾 玉、切子玉、管玉、臼玉等が 出土している。築造された年 代は、おおよそ7世紀中頃と 考えられる。 番 号 42 43 区 域 塩 38 塩 39 種 別 史跡 史跡 名 指 定 年月日 称 糠塚古墳 1 号墳 糠塚古墳 2 号墳 1基 1基 S47.6.5 S47.6.5 所在地 塩沢 塩沢 所有者・ 管理者 南魚沼市 解 説 糠塚古墳群は、魚野川左 岸の鎌倉沢川が形成する扇 状地扇央部に立地する。その 北約 300 メートルには万貝古 墳が存在していた。1 号墳は 径約 10 メートルの円墳で、墳 丘の裾には 20 センチメートル ほどの川原石が張り付き、周 りには周溝が廻る。埋葬施設 は両袖型の横穴式石室であ る。出土遺物は、玄室から直 刀、刀子、鉄鏃塊、金銅製耳 環、瑪瑙製勾玉、蛇紋岩製 臼玉、ガラス小玉が、羨道閉 塞石中からは土師器坏、高 坏脚部、須恵器などが確認さ れている。古墳の築造時期は 出土品などから 6 世紀末頃と 考えられる。 南魚沼市 糠塚 2 号墳は、径 11 メート ルの円墳で、周溝が廻り、墳 丘裾には礫がまばらに置か れている。埋葬施設は無袖型 の横穴式石室である。玄室内 から鍔、刀子、鉄鏃、翡翠製 勾玉、瑪瑙製勾玉、ガラス小 玉、金銅製耳環が、周溝底部 から土師器高坏が、封土中か ら須恵器が出土している。 44 塩 40 工芸品 火浣紙 1箱 S47.6.5 塩沢 南魚沼市 黒田玄鶴の石綿論によっ て作られた燃えない紙であ る。牧之も北越雪譜のでこれ について触れており、火浣 布、火浣紙と火浣墨の製法に も成功しているが、没すると 同時にその術も消えてしまい 大変残念である、と述べてい る。 45 六 有形・彫 刻 如意輪観世音大菩薩像 1体 S49.2.25 上大月 上大月区 木喰上人の文化 2 年 (1805)9 月 4 日の作である 満願寺 木喰上人の文化 2 年 (1805)8 月 25 日の作である。 田崎のものと同一の木材を背 割りして彫られたものと思わ れる。 46 六 4 5 有形・彫 刻 カフヤノ大師像 1体 S49.2.25 8/17 長森 番 号 区 域 種 別 名 指 定 年月日 称 所在地 所有者・ 管理者 解 説 47 六 6 有形・彫 刻 弘法大師像 1体 S49.2.25 田崎 田崎区長 木喰上人の文化 2 年 (1805)8 月 23 日の作である。 満願寺のものと同一の木材を 背割りして彫られたものと思 われる。 48 六 7 有形・彫 刻 役行者像 (木喰上人作) 1体 S49.2.25 泉新田 個人蔵 木喰上人の文化 2 年 (1805)8 月 24 日の作である。 杖と荷袋を背負う。 個人蔵 木喰上人の文化 2 年(1805) の作である。「このつちで お こるあたまを ひとうちよ いけ んはいらぬ これぞちかみち 天一自在法門八十八才 木 喰五行」 個人蔵 木喰上人の文化 2 年(1805) の作である。「龍水 天一自 在法門 八十八才 木喰五 行」 49 50 六 六 8 有形・書 跡 9 有形・書 跡 紙本掛軸 紙本掛軸 1巻 1巻 S49.2.25 S49.2.25 君帰 寺尾 51 大 2 史跡 浦沢城址 S56.3.30 浦佐 浦佐大区 長 52 大 3 史跡 雷土城(板木城)址 S56.3.30 雷土 雷土区長 9/17 毘沙門堂の背後標高 300 メ ートルの尾根に立地する。東 西に延びた尾根を利用し主 郭を築き、その西端は尾根を 切り通す大空堀で遮断する。 西、東側には袖曲輪を配し、 一部は土塁と空堀で固めて いる。御館の乱の際には城将 清水藤左衛門は景勝側に属 し、北条氏の攻勢にもびくとも しなかった。 雷土と旧小出町板木の境 界を走る尾根上に立地する。 板木城ともいう。主郭を中心 にして四方に派生する尾根 に向かって大小の郭、空堀を 配し十字形に築いている。 番 号 53 54 55 56 区 域 大 大 大 大 4 5 6 7 種 別 史跡 史跡 天然記念 物 天然記念 物 名 指 定 年月日 称 三ッ塚 浄源塚 穴地の一本杉 大崎のてんまる杉 3基 1基 1体 1体 S56.3.30 S56.3.30 S56.3.30 S56.3.30 10/17 所在地 所有者・ 管理者 穴地新 田 共睦会 雷土 三用小学 校同窓会 穴地 大崎 穴地区長 大崎大区 長 解 説 南北に約 6 メートルの間隔 で 3 基の塚が並んでいる。そ れぞれの塚上には自然石の 板碑があり、そこに刻まれた 年号から南北朝時代に築か れた塚であると推測される。 直径約 13 メ ー ト ル、高さ約 2 メートル の塚で、そ の上には 老杉がそ びえてい る。塚の傍 らにはどんな日照りにも枯れ たことがないといわれている 井戸がある。その昔、浄源と いう旅僧がこの地を通った 時、村人は渇きに苦しみなが ら働いていたため、井戸を掘 ることを勧める。しかし水は出 なかったため、浄源は自分が 生き埋めになるので塚を築い てくれと村人に頼んだ。そうし たところ井戸からは水が限り なく湧いてきた、という伝説が 残っている。 目通りの 回り 5.3 メ ートル、高 さ約 30 メ ートルで、 根元には 石祠がま つられて いる。往昔 はここを通る人々の道しるべ となっていた。 大崎の 入口にそ びえる一 本杉で、 目通りの 回り 5.3 メ ートル、高 さ約 25 メ ートルで、 根元には庚申塔などの石碑 が立ち並んでいる。 番 号 57 58 59 区 域 大 8 塩 41 塩 42 種 別 建造物 彫刻 考古 名 指 定 年月日 称 上村家住宅 木造千手観音像 南山、糖塚古墳出土品 1軒 S56.10.1 1体 S56.11.24 一式 S60.3.29 11/17 所在地 荒山 長崎 塩沢 所有者・ 管理者 解 説 個人蔵 元文 2 年(1737)の造立で、 茅葺入母屋作り、桁行 8 間 半、梁行 4 間の 3 間造りであ る。材料には松材を多く使わ れている。 槻岡寺 慶長元年に開創された曹洞 宗水龍山槻岡寺にある室町 時代に作られたと考えられる 観音堂に祀られている。観音 像は鎌倉時代のもので、行基 菩薩作と伝えられている。膝 から下はもっと古く平安時代 末期のものと言われている。 寄木造りで両肩の部分は江 戸時代に補修している。 南魚沼市 ○糠塚 1 号墳:直刀 3・刀子 3・鍔 1・鞘尻 2・責金具 1・鉄 鏃塊・須恵器壺 2・須恵器甕 6・土師器坏 2・土師器高坏 1・ 金環 5・勾玉 2・臼玉 1・小玉 132 が出土している。 ○糠塚 2 号墳:鍔 1・鞘尻 1・ 刀子片 4・鉄鏃 1・須恵器片・ 土師器高坏・金環 3・勾玉 6・ 管玉 1・丸玉 11・切子玉 1・小 玉 100 が出土している。また 北側の周溝から内面を黒色 処理された土師器高坏が検 出されている。脚部は 1 号墳 出土高坏と異なり短脚であ る。また封土中や周辺より須 恵器片が採集されている。 ○糠塚 3 号墳:責金具 1・金 環 4・勾玉 2・管玉 1 が出土し ている。 ○糠塚 4 号墳:直刀片・刀子 片・土師器坏 1・責金具・鉄鏃 が出土している。 ○万貝古墳:馬具・直刀 2・鉄 鏃 1・須恵器平瓶 1・須恵器坩 1・勾玉 3・銀環 3 が出土して いる。万貝古墳は糠塚古墳 群の北約 150 メートルに立地 する。 ○南山 1 号墳:須恵器坩 1・ 直刀 3・刀子 1・鍔 2 が出土し ている。 ○南山 2 号墳:須恵器坏身 2・須恵器坏蓋 6・長頸壺 1・勾 玉 5・切子玉 3・臼玉 1・管玉 1・直刀 1・刀子 3 が出土して いる。 番 号 60 61 62 63 64 区 域 塩 43 大 9 大 10 大 11 塩 44 種 別 考古 美術工芸 品 美術工芸 品 美術工芸 品 有形民俗 名 指 定 年月日 称 吉峰遺跡出土品 玦(けつ)状耳飾 銅 鏡 線刻絵画 人体模型 奉納越後上布織 1対 S63.10.25 1体 H3.3.30 1体 H3.3.30 1体 H3.3.30 20 点 H3.10.25 12/17 所在地 塩沢 市公民 館 県立長 岡歴史 博物館 浦佐小 南田中 所有者・ 管理者 解 説 南魚沼市 玦状耳飾は滑石や蛇紋岩 などの柔らかい石を加工し て、1ヶ所に切りこみを入れ、 穴をあけた耳たぶにはめて使 ったと思われる装飾品であ る。吉峰遺跡出土品は、縄文 時代前期後半のものと考えら れ、石材は蛇紋岩で、乳緑白 色で光沢を持つ。2 点とも完 全な形で出土しており、非常 に優品である。その出土状態 から、身体に装着されていた ものと考えられる。玦状耳飾 そのもの価値はもちろん、縄 文時代における墓制を考える 上でも重要な資料である。 南魚沼市 水上遺跡から出土した直径 11 センチメートルの極薄型銅 鏡で、縁は欠損しており、正 確な大きさは不明である。鎌 倉時代に作られたものと考え られる。文様面や紐は削り取 られ、鏡面には像高 5.5 セン チメートル最大幅 1.5 センチメ ートルの勢至菩薩が取り付け られた珍しいものである。 南魚沼市 柳古新田下原 A 遺跡から 出土した、粘板岩に刻線をも って描かれた縄文絵画。鋭利 な石器による複雑な線刻で狩 りをする人物像が描かれてい る。 南魚沼市 大正 12 年に篤志家より浦 佐小に寄贈された北川岸次 氏創作指導による人体解剖 模型。皮膚を外すと、肺、肝 臓等が現れ、肺を外すと心臓 が現れ、消化器、頭部、血 管、骨格が容易に取り出し復 元ができる。 砂押神社 砂押神社所蔵の長さ 44~ 110 センチメートル、計 20 点 の上布織。機織りする女性が 作業の上達を祈念し砂押神 社に奉納したもので、寛政か ら明治の各年代の製品が保 存されている。 番 号 65 66 67 68 69 70 区 域 塩 45 塩 46 塩 47 塩 48 塩 49 塩 50 種 彫刻 彫刻 彫刻 彫刻 彫刻 彫刻 別 名 木造毘沙門天立像 明見(妙見)菩薩像 神変大菩薩立像 聖観世音像 愛宕地蔵大菩薩像 薬師如来像 指 定 年月日 称 1体 1体 1体 1体 1体 1体 H3.10.25 H4.4.1 H4.4.1 H4.4.1 H4.4.1 H4.4.1 13/17 所在地 塩沢 塩沢 吉里 小木六 塩沢 吉里 所有者・ 管理者 解 説 個人蔵 本像は平安時代末期の作 で、ヒノキ材で一部乾漆を併 用している。顔は丸く眉を寄 せへの字の口を結び、平安 時代 11 世紀後半頃の中央的 作風を如実に反映している代 表的な形といえる。制作当初 は彩色されていたと思われ る。 個人蔵 木喰上人の文化 2 年 (1805)9 月 15 日の作で、鰐木 彫り、一本の木を四つに割っ て彫刻したという。材質はイチ ョウの木で一木造り、木喰独 特の幾何学台座の上に結跏 趺坐している。 吉里区 木喰上人の文化 2 年 (1805)9 月 10 日の作で、一 木造り、材質は不明、長い年 月、護摩行の行われた寺の 本堂に安置されていたため、 像の全体がつややかな黒色 に煤けている。 小木六区 木喰上人の文化 2 年 (1805)9 月 28 日の作で、鰐木 彫り、一本の木を二つに割っ て彫刻している。宝髻から白 衣をかぶり、両手を胸の前に 組んで合掌し、蓮華座に結跏 趺坐している。円光背の表 に、光明真言の梵字あり、背 銘に種子字「サ」「正観世音 大士」と書かれている。 徳昌寺 木喰上人の文化 2 年 (1805)9 月 15 日の作である。 本来、一本の木を二つに割っ て制作したものと考えられる。 徳昌寺には、以前対となる子 安観音像があったらしいが現 存しない。イチョウの木の材 質で一木造り、円形頭光背に は光明真言を墨書、裏面に は種子字「カ」を墨書。台座 は荷葉蓮華、法衣をつけ合 掌した姿はほぼ左右対照型 である。 吉里区 木喰上人の文化 2 年 (1805)9 月 6 日の作である。イ タヤカヤデ材の一木造りで子 安観音大士像と互いに対を なす。後年、光背の一部を除 き全体に彩色がほどこされ木 肌は見えないが、白毫・眉・ 唇の色は当時のものと思われ る。 番 号 71 72 73 74 75 区 域 塩 51 塩 52 塩 53 塩 54 塩 55 種 別 彫刻 彫刻 彫刻 古文書 古文書 名 指 定 年月日 称 子安観音太士像 欄間彫刻 山ノ神尊像・吉祥天女尊像 慶長三年雲洞村検地帳 清水口留番所文書 1体 H4.4.1 7面 H4.4.1 2体 H4.4.1 1冊 H8.4.24 15 通 H8.4.24 14/17 所在地 吉里 思川 栃窪 雲洞 清水 所有者・ 管理者 解 説 吉里区 木喰上人の文化 2 年 (1805)9 月 3 日の作である。イ タヤカヤデ材で一木造り、同 じく安置されている薬師如来 像とは対をなし、一本の木を 二つに割って制作されてい る。後年、光背の一部を除い て、全体に彩色がほどこさ れ、木肌は見えないが眉、唇 の色は当初からのものかと思 える。 天昌寺 曹洞宗飯盛山天昌寺本堂 に 10 面の彫刻欄間がはめ込 まれている。このうちの7面の 欄間は、武州熊谷(現埼玉県 熊谷市)出身の小林源太郎の 彫りで、元は天昌寺に各地よ り伝来したものである。厚さ約 30 センチメートルの欅板に中 国の故事に由来する狩野派 の絵を浮き彫りにし、籠彫りと いう手法を用いている。制作 年代は嘉永 7 年(1854)で霊外 雲秀和尚の時である。 栃窪区 栃窪の鎮守十二神社に安 置している 2 体の木像で、木 喰上人の文化 2 年(1805)9 月 11 日の作である。材質はドロ の木(泥柳)で一木造り。山ノ 神と吉祥天が対をなしている ことは珍しい。 個人蔵 慶長 3 年(1598)に、上杉氏 は会津へ移封となり、越後に は堀氏が入ってくる。同年、 雲洞村と片田村において検 地が行なわれた際のものであ る。検地帳には、名請人(所 有者)が記載されているが、 後半部は荒田畑が書き上げ られ、名請人の箇所に「会津 へ参給人」と添書したものが あり、上杉氏と共に会津へ移 っていったものが示されてい る。 個人蔵 清水峠の登り口にあたる清 水は、戦国期には直路城が 築かれるなど関東に通ずる要 衝であった。江戸時代には、 人と交易を取り締まるため、 口留番所が置かれ、領主等 からの申渡書が伝えられてい る。 番 号 76 77 78 79 80 区 域 塩 56 塩 57 六 10 六 11 六 12 種 別 古文書 工芸品 有形・古 文書 有形・古 文書 記念物・ 史跡 名 栃窪口留番所文書 坪池神社鰐口 堀監物寄進状 堀丹後守寄進状 道宗塚 指 定 年月日 称 5通 1点 1冊 1冊 1基 H8.4.24 H8.4.24 H9.2.17 H9.2.17 H9.2.17 15/17 所在地 栃窪 坪池 余川 東泉田 坂戸 所有者・ 管理者 解 説 個人蔵 上田庄と妻有庄を結ぶ栃窪 峠は越後府内や信州へ抜け る要衝である。慶長 3 年 (1598)上杉氏が会津に移封 になり、堀氏が坂戸城に入る と、栃窪峠に口留番所を置 き、交通と交易を取り締まっ た。その際の書状である。 坪池区 鋳鉄製で、中央の撞座両 面には菊花が鋳出される。外 側の銘帯には、上記の銘文 が線刻され、その由来を示 す。正保 4(1647)年に大崎村 の大工である金井長右衛門 によって鋳造され、神社の改 築の際、奉納されたという。 宝珠院 慶長 3 年 9 月 26 日、堀直 寄の父である堀監物から坂戸 山頂の富士権現の管理役で あった宝珠院に対し、寺領と して 10 石を寄進するという旨 の文書。 永昌庵 上杉氏の後に坂戸城に入 った堀直寄が帰依・保護する ため永昌庵に出された、手作 地 10 石と門前 2 軒の免税を 認めるという文書。 シルバー 人材委託 坂戸城主長尾越前守政景 の墳墓。旧竜言寺跡の境内と 伝えられる場所に立地する。 塚名の由来は政景の法名に よる。大きさは 10 メートル四 方、高さ 2 メートル。 天正 6 年(1578)4 月の記銘で 「長尾越前守」と刻まれた自 然石の古碑が残る。 番 号 81 区 域 六 13 種 別 無形・民 俗芸能 名 指 定 年月日 称 五十沢歌舞伎 H9.2.17 所在地 清水瀬 所有者・ 管理者 五十沢歌 舞伎保存 会 82 大 12 建造物 毘沙門堂楼門 H9.7.1 浦佐 普光寺 83 大 13 無形・民 俗芸能 毘沙門堂裸押合祭 H9.7.1 浦佐 普光寺 84 85 塩 58 塩 59 工芸品 古文書 石綿論版木 黒田玄鶴訴訟書 1組 (5 枚) 1巻 H12.2.28 H12.2.28 16/17 大沢 南田中 解 説 文政年間、清水瀬の桑原関 十郎が佐渡で唄や踊りを習 得し藤村性を師匠からいただ き、帰郷後五十沢でその普及 に努めた。その後土沢の江 部氏に引き継がれ伝承され る。現在は五十沢歌舞伎保 存会が組織されている。 浦佐村若松屋(関市四郎)の 寄進により、天保 2 年(1831) に建てられた。建立にあたり 二日町の内藤藤蔵棟梁が日 光陽明門を参考にしたと伝え られている。楼下の天井に は、谷文晁作の双竜図板絵 がある。楼上には毘沙門天使 者二十八使者の仏像がある。 天井には仏画師板谷佳舟に よる天女の舞姿絵が、側面に は十六羅漢修行の図と釈尊 出山の図が描かれている。 個人蔵 大沢村宮在家の医師黒田 玄鶴が文政 5 年(1822)に著し た、火浣紙等の原料・製法・ 用途等を記したもの。玄鶴 は、江戸で版を起こし出版し た際の版木 5 枚が現存してい る。 個人蔵 石綿の製法は、黒田玄鶴の ほかに塩沢村の種村喜右衛 門も同じ時期に発明した。二 人は、石綿をめぐって争った 際の訴訟書である。 番 号 区 域 種 別 名 指 定 年月日 称 所在地 所有者・ 管理者 86 六 14 有形・古 文書 大福細工覚帳 1冊 H16.5.20 舞台 個人蔵 87 六 15 有形・彫 刻 大日如来像、 金剛薩埵像、 愛染明王像 3体 H16.5.20 小川 養徳寺 88 六 16 有形・彫 刻 二十三夜塔 解 説 太良兵衛が 40 年間にわた り制作した 2945 点の作品名、 注文主、価格等を克明に記 録した自筆の制作記録帳で、 石仏美術史、産業史のうえか らも貴重な資料である。 文化 11 年太良兵衛 25 歳の 作。大日如来像は自然石を 用いた半肉彫の坐像。脇侍と して向って右に愛染明王像、 左に金剛薩埵像を配する。 1基 H16.5.20 下原 下原区長 文政 2 年 太良兵衛 30 歳の作。 養 徳 寺 42 世住職専頂 の揮毫。文 字の上部に 半肉彫りに よる勢至菩薩像を配する。 89 六 17 有形・彫 刻 役行者像 (太良兵衛作) 1体 H16.5.20 畔地 畔地区長 文化 13 年太良兵衛 27 歳の 作。自然石を用いた半肉彫。 長井顎髭をたくわえ、裾の短 い衣をまとい、一本歯の高下 駄を履く。左手に巻物を、右 手に錫杖をもつ。役行者の下 には、前鬼、後鬼の二匹の鬼 を配する。 90 六 18 古文書 上杉謙信書状 1体 H18.7.20 法音寺 法音寺 法音寺から例年通り年頭祝 儀として巻数と銭 30 疋が贈ら れてきたことに対する礼状。 91 六 19 古文書 堀丹後守寄進状 1体 H18.7.20 法音寺 法音寺 慶長 5 年(1600)、法音寺に 寺領として高 20 石を寄進する という旨の文書。 法音寺 江戸時代初期、岩倉伝右衛 門から法音寺に対して出され たもの。従来からの寺領のほ か、荒地を開墾すればその 所有を認めるというもの。 法音寺 法音寺の来訪を受けたにもか かわらず、十分にもてなすこ とができなかったことを詫びた もの。 92 93 六 20 六 21 古文書 古文書 岩倉伝右衛門書状 荻田主馬書状 1体 1体 H18.7.20 H18.7.20 17/17 法音寺 法音寺