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ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデのドイ
ツとイタリア
清水, 朗
一橋論叢, 122(3): 385-400
1999-09-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/10616
Right
Hitotsubashi University Repository
ヴァルター・ フォン・デア・フォーゲルヴァイデのドイツとイタリア
清 水
ター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ︵一一七〇頃
盛期中世のドイツ語拝惰詩を代表するとされるヴァル
る﹁帝国理念︵忍庁募己需︶﹂を賞賛し、顕揚すること
ホーエンシュタウフェン家の諸侯に仕え、同家が体現す
ていた一時期を除けば、その生涯を主に﹁皇帝党﹂たる
のフィリップ・フォン・シュヴァーベンの死後﹁教皇
1==二〇頃︶は、ウィーンの宮廷におけるパトロンで
に捧げたとされる。
トロンに多分に従属しながらの遍歴に過。こした計算にな
地で死去するまでの十年問を除けぱ、生涯の大部分をパ
与えられるまで続いたと言われる。二⋮O年頃にその
のフリードリヒニ世からヴユルツブルクに小さな土地を
し、その遍歴は一二二〇年にホーエンシュタウフェン家
レーオポルト六世のもとを去ってから各地の宮廷を遍歴
しかしその一方で、ヴァルターの詩には﹁皇帝党﹂1
撃はこの見解を支持しているように見える。
や王に対する賛美や、ローマ教皇への辛辣この上ない攻
またその間に歌われたホiエンシュタウフェン家の皇帝
党﹂に組みしていたと目される期問は圧倒的に長いし、
対立の軸のみに注目してみれぱ、ヴァルターが﹁皇帝
確かに当時のドイツ情勢を﹁皇帝党﹂1﹁教皇党﹂の
党﹂とされるヴェルフェ家︵ミ①豪︶.のオットーに仕え
あったフリードリヒ一世の死後、宮廷の新しい主である
0 間題提起
朗
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る。 こうした生涯を送ったヴァルターは、二一〇八年
385
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7
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7 '7)1・ Z - ・ 7 t :/ '
( 35 )
い宮廷の主であるフリードリヒに仕えるが、彼が死去し
になると、技芸に特別の趣味や関心を示さなかったこの
た一一九八年にレーオポルト六世がウィーンの宮廷の主
﹁教皇党﹂の対立の軸からだけでは十分に説明できない
要素があると恩われる。短期間とはいえオットーの宮廷
ものの、全く一致している訳でもない。この小論はいわ
る。この後者の軸は前者の軸と重なりあう部分が大きい
のではないか、というのがとりあえずの筆者の予測であ
﹁イタリァ︵ミ9竃す︶﹂の対立の軸によづて理解される
い回しの端々にかいま見られる、﹁ドイツ︵ご冨9︶﹂1
そう思わせるのである。そしてそれは彼の詩における言
た後、前述のように一時﹁教皇党﹂のオットー四世のも
〇八年にフィリップ・フォン・シュヴァーベンが死去し
住し、その間にウィーン宮廷との決裂を体験する。二一
方伯ヘルマンやマイセン辺境伯ディートリヒのもとへ居
﹁教皇党﹂を攻撃する歌を歌づた後は、チューリンゲン
ップ・フォン・シュヴァーベンのヴォルムスの宮廷で
った。同年、やはりホーエンシュタウフェン家のフィリ
王に見放され、ヴァルターは当地を去り、遍歴歌人とな
に仕えた事実や、当時︵=一〇〇年前後︶の両党の対立
ばこの両軸の徴妙な捻れについて考察することを目的と
とに仕えるが、一ニニニ年には再びホーエンシュタウフ
の1これまであまり知られていなかったー事情が、
するものである一
ェン家のフリードリヒニ世のもとへ行き、==一〇年頃
この皇帝から小さな土地を与えられて以後、==二〇年
才ン・ハーゲナウを師としてミンネザングを学んだとさ
でレーオポルト五世に仕え、この時期にラインマル・フ
族として出生した後、一一九〇年頃からウィーンの宮延
一七〇年頃、︵多分︶低地オーストリアの下級従士の一
もフィリップ・フォン・シュヴァーベンを他の国王と比
20享冒Oq︶﹂のジャンルである。特に﹁教訓詩﹂の中で
るのはその中でも政治性が強い﹁教訓詩︵晋;3−
亘る詩作をおこなっているが、本稿での考察の対象とな
ヴァルターはその生涯においていくつかのジャンルに
頃の死までそこで暮らすこととなる。
れる。一一九四年にレーオポルトが死去した後も、新し
ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデは一
1
平成11年(1999年)9月号 (36)
第3号
橋論叢 第122巻
386
較し、顕揚しているカ999昌︵一一九八−二一〇一
年︶、﹁教皇党﹂のオツトーを讃えるO罧彗↓昌︵二一一
二年︶、ローマ教皇に対する辛辣な批判であるO目冒鼻ω−
↓昌︵=一一二年︶をここでは中心に取り上げることと
するが、他の作品や﹁教訓詩﹂以外のジャンルの作品に
も必要に応じ言及することとする。
前述のように、一一九八年にフリードリヒが死去した
後に新国王となったレーオポルト六世の無関心の前にウ
ィーンを去ったヴァルターはヴ才ルムスのフィリップ一
フォン.シュヴァーベンのもとへと赴く。フィリップは
当時オットー四世との間で帝位を争うており、ヴァルタ
ーはホーエンシュタウフェン家︵11皇帝党︶のフィリッ
プを支持し、次の詩を書く。
私は聞いた、行く河のざわめきを、
み屯モこ
私は見た、水底に泳ぐ魚を、
地上にあるすべてのもの
野、森、葉、葦、草をながめやった。
這いゆくもの、空に飛べるもの、
それらを見た上で皆さんに告げることがある。
脚を地につけ歩むもの、
この中にたがいに争わず生きているものはない。
野獣も爬行するものも
はげしく闘いあっている。
鳥の仲間も同じこと。
だが彼らは一つの智恵をもっている。
仲問を力強く統率するものを選び出さねば
生きてはゆけぬと考えるらしい。
彼らは自分達の王と捷を選び
主人としもべの区別を設けている。
ところでドイツ人よ、あわれなのはおまえだ。
おまえの国の秩序はどうなっている。
蝿でさえ王様をもっているのに
おまえの栄光がこれほど地におちるとは。
回心せよ、回心せよ。
並の王冠がいぱりすぎている。
皇帝に従うべき諸侯がおまえを苦しめている。
最高の宝冠をフィリップ王に戴かしめ、出すぎもの
387
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( 37 )
橋論叢 第122巻 第3号 平成11年(1999年)9月号 (38)
︵1︶
らを退かせよ
自然界の秩序に比べ、当時の神聖ローマ帝国の政情の
不安定ぶりを嘆き、﹁並の王冠︵Oマぎ一︶﹂に対する﹁最
高の宝冠︵婁9ω①︶﹂の優位を説く歌である。コンラー
ト・ブルダッハはここでいう﹁並の王冠﹂が−彼以前
に主張されていたように−単に当時敵対していたドイ
︵2︶
ツ諸侯を指すのみではなく、﹁細い金の額帯﹂をかぶっ
ていたデンマーク王、フランス王、イギリス王、さらに
は、アキテーヌ侯と称していたヴェルフェ家のオットー
︵3︺
をも指していたと主張した。そしてブルダッハはここに
家を賞賛したかったのだ、と主張することに他ならない
のだから。
しかしここで注目に値するのはーブルダッハも強調
していた−﹁ドイツ人﹂という表現である。原文では
、ま易9ご彗轟①..となり、﹁ドイツ語を話す人々﹂と
に強く﹁ドイツ語を話す人々﹂と﹁そうでない人々﹂を
解されるだろうこの表現は、ブルダッハの主張よりさら
のである。そう考えた場合、﹁ところでドイツ人よ、あ
分けようとしていると筆者には後述の理由で考えられる
われなのはおまえだ︵ωo峯①oF巨自ωo巨冒N⊆目σq①一\考︸o
ばりすぎている﹂と言っているのは、むしろドイツ語を
992目O邑昌冒σq巴︶﹂とした四行後に﹁並の王冠がい
話す者達に対する、非ドイツ語圏の王が問題にされてい
ると理解でき、その限りでは実は双方とも..ご易o巨巨
諸外国に対する﹁ドイツ語による最も古く重要な国家帝
︵4︶
国主義のマニフェスト﹂を見てとることになる。
ブルダッハにおいてはこの詩の中で外国︵1−非ドイツ
曽目σq①、、であるフイリツプとオツトーの対立とはヴアル
一二〇八年にフィリップが死去した後、白分の後援者
う推測が成り立つのである。
ターにとっては二次的なものであったのではないかとい
語圏︶を視野に入れ、ドイツ人のナシヨナリズムに言及
しているものの、その一方で相変わらず﹁ドイツ諸侯﹂
もまた対立者とされ、とりわけオットーを﹁並の王冠﹂
の中に合めていることに注意すべきであろう。ヴァルタ
ーが外国の王と、ドイツ諸侯を等しく否定したと考えて
いる事実は、この詩人が結局はホーエンシュタウフェン
388
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( 39 )
トー四世のもとに赴く。ここで興味深いのは、オットー
を失ったヴァルターは敵陣営とされる﹁教皇党﹂のオッ
節操のなさを示すものではなく、また遍歴する芸人が
彼のこの﹁皇帝党﹂から﹁教皇党﹂への転向は、単なる
びを売って恥じるところがないな、と思わせかねないが、
日々の生活のために仕方なくおこなったのだ、というレ
が二二〇年にローマ教皇に破門されている事実であろ
う。それに続く二二二年にヴァルターは三作の﹁皇帝
ベルで理解されるべきでもあるまい。何故そう言えるの.
︵6︶
か。人間誰しも苦しい時があり、日々の糧に不安を感じ
り、意兄を変えたとしても自然なこと、..考鶉卑〇二g
る遍歴歌人であればなおのこと、その都度の風向きによ
皇帝どの、よく来られました、
私は歌います︶.、などというもっともらしい格言もある
窃ωρ忌ω=&ωまoq二g.︵養っていただける方の歌を
に捧げる歌︵穴巴ω①﹃名昌o訂︶﹂でオットーを讃えてい
る。
王の名はあなた の も の で な く 、
ご不満な時も満 足 さ れ た 時 も 、
あなたの手はカと善に満ち、
回りの政治的配慮もしない訳にはいかず、必ずしも彼の
れてこそ歌も歌える身であったのならば、まったく身の
勿論ヴァルターもパトロンによってその生活を保証さ
ではないか、という反論もありえよう。
それゆえあなたの帝冠はすべての王冠の上に輝くの
仕返しや褒葵は思いのまま。
詩のすべてが本心の吐露とは言い切れまい。それどころ
です。
それから陛下に申し上げます。
家来としての白分は主人に反抗する権利がある、とする
9
あくまで当時の遍歴歌人に最低限必要とされた処世術の 鎚
持っていたとすら言われている。しかしながら、これは
︵7︶
ークールな?−留保付きの奉仕︵昌8雪︶の観念を
か、自らの仕える主人がその義務を履行しなかづた場合、
諸侯はあなたの家臣であり、
︵5︶
あなたが来られるのを慎み深く待っていたのです。
言葉じりだけをとらえると、以前にフィリップをあれほ
ど持ち上げていた詩人が、よくもオットーにこれほど媚
考えにくいのである。
ぬこと。
そこで法皇が口にするのは心に思うだけでも許され
なされるのだろう
それならば何故ヴァルターは﹁皇帝党﹂から﹁教皇
法皇さまはいう﹁二人のアレマン人に一つの王冠を
範囲内でのことであり、他方であれ程までに白分の意見
党﹂に寝返ってしまったのだろうか。考えられる一つの
かぶせてやった。
イタリア人の取りまきに﹁実はしかじか計らった﹂
答えは、﹁皇帝党﹂1﹁教皇党﹂の対立が、彼にとづて
せいぜい二人が口ーマ帝国を乱し荒らすようにな。
を貫き、師匠ラインマルとの決別をも辞さなかったヴァ
はさほど重要な意味を持っていなかった、というもので
その間にこちらは金庫をいうぱいにしてくれよう。
と話されるとき。
ある。つまり、ここでもまた彼の詩にみられるもう一つ
二人は私の献金箱につないでおいた。彼らの財産は
ルターが、自らの信念の最深奥を簡単に譲り渡したとも
の対立軸、﹁ドイツ﹂1﹁イタリア﹂の重要性が前面に
すっかりこちらのもの。 。
冠を与え、帝国を乱させるのだ、という。さらに献金箱
に対し、﹁二人のドイツ人︵N奉雪≧∋彗︶﹂に一つの王
教皇は﹁イタリア人の取りまき︵ωま雪峯與;彗︶﹂
ぱよい。﹂
︵8︶
ドイツの俗人どもは空腹をかかえやせ細らせておけ
†きつぱ・−
聖職者のその方ら、鳥を食え、ワインを飲め。
の長持におさまる仕掛け。
ドイツにあるやつらの銀貨がローマにいるこちとら
現れてくるのである。それを確かめるため、さらにもう
一つの詩を取り上げ。よう。
何というキリスト者にふさわしい笑い方を法皇様は
き意図を激しく糾弾する詩を書く。
地の教会に設けるべしとする教書に反対し、教皇の悪し
ント三世が出した十字軍資金の調達のための献金箱を各
一二二二年にヴァルターは、その年当時の教皇イノセ
4
平成11年(1999年)9月号(40)
第3号
橋論叢 第122巻
390
︵貝與串雪︶﹂が﹁ドイツの俗人ども︵昌①巨阜ω9彗
リア人の長持︵峯①一ω9彗ω争ユ目︶﹂に流れ、﹁聖職者
により﹁ドイツ人の銀貨︵巨冨9S邑σ胃︶﹂が﹁イタ
集まった銀貨は聖地救援のために送られてなどいる
おつしやるつもり。
私たちへの口実に、ローマ帝国が乱れているからと
もういちどすべての教区が献金箱を満たすまで
献金箱どの、あなたはドイツ中からとんまな女やば
しはない。
いったん集めた大金を坊さんの手が人に授けたため
ものか。
一9雪︶﹂の犠牲の上に満腹となるように、と願う。
﹁二人のドイツ人﹂とは前述のフィリップ・フ才ン・
シュヴァーベンとオットー四世のことであるとされるが、
ここでは﹁皇帝党︵望警↓實︶﹂・﹁教皇党︵峯葦雪︶﹂の
区別なく、ドイツ人︵アレマン人と軽蔑的に呼ばれてい
、 、 、 、 、
るが︶が等し並みに扱われており、﹁聖職者﹂と﹁俗人﹂
かな男を探し出し
︵9︶
この国を損なうためにつかわされたのだ。
の対立はむしろ﹁イタリア人﹂−﹁ドイツ人﹂の対立と
同等視岩れていることに注意すべきである。
るつもりかと尋ね、この行為の口実として﹁︵神聖︶ロ
﹁私たちドイツ人︵⋮ωヨ旦ω98︶﹂を教皇が貧しくす
皮肉として﹁献金箱どの﹂に話しかけるヴァルターは
こしたのは
ーマ帝国︵α§ユo思︶﹂の乱れを挙げるだろう、と言う。
献金箱どの、いウてください。法皇様があなたをよ
あなたがあのお方をゆたかにし、私たちドイツ人の
﹁坊さん︵貝国串雪︶﹂の手に一度金が入れぱ他の誰かに
渡るはずはなく、教皇は﹁ドイツ中から︵昌ゴ巨ω;彗
ものを奪って貧しくするためでしょうか。
ラテラーノ宮にいる法皇さまのところへすべての金
と。ここでもやはりイタリアの﹁坊さん﹂と﹁ドイツの
一巨↓雪︶﹂金を支払う愚か者達を募ろうとしているのだ、
今までのような悪だくみを今度もなさるにちがいな
俗人︵饒具ω9雪巨↓9︶﹂が対照され、ドイツ人皇帝
額が届くと、
い。
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平成11年(1999年)9月号 (42〕
に支配される﹁帝国﹂の不統一
利な条件以外の何ものでもない
・乱れは教皇にとって有
とされるのである。
ュタウフェン的帝国﹂−﹁教皇庁﹂のそれにそのまま移
だがしかし、﹁ドイツ﹂−﹁イタリア﹂の対立を﹁シ
行させてしまってもよいのだろうか。何故かといえば、
当時の﹁ドイツ人﹂の帝国理念をそのまま代表するのが
ンシュタウフェン帝国主義﹂に対し、近年批判も起こっ
ホーエンシュタウフェン朝であるとするいわば﹁ホーエ
ているからである。
右に見たように、ヴァルターの教皇批判においてはま
ヴェルナー・ヘヒベルガーは近著﹃ホーエンシュタゥ
ず第一に﹁ドイツ人﹂−﹁イタリア人﹂の対立が前面に
押し出され、それにひきかえ﹁皇帝党︵ホーエンシュタ
リア﹂の対立の前では﹁皇帝党﹂−﹁教皇党﹂の対立は
かなり以前からこの点に注目し、﹁ドイツ﹂−﹁イタ
母方を通じて親戚関係にあった両家の構成員は、その先
三世紀になって初めて父系相続を原則とした上での相互
︵螂︶
の対立がクローズ・アップされるのだと主張する。事実、
はいまだこの両家の父系相続制は確立されておらず、十
フェン家とヴェルフェ家﹄において、十二世紀において
︵11︺
ウフェン家︶﹂−﹁教皇党︵ヴェルフェ家︶﹂の対立は二
中和化し、むしろ﹁皇帝﹂−﹁教皇﹂の対立が唯一重要
祖として父系・母系に関わらず勢力のあった者達を家系
次的なものとなっている。
なものとなるとするF・ノイマンのような論者もいたが、
はいまだ母方のそれと選ぶところはなく、二一〇〇年以
図に記載していた。父系の家系の重要性は十二世紀中に
その際﹁正しき王︵﹃婁巨ω9ω︶﹂、﹁嘉された皇帝︵ぎ−
降に徐々にその優位が確立されてきたと考えられ、十二
︵皿︶
リップにせよオットーにせよ、二一〇〇年前後にその賛
れていたとされるのである。すると、ヴァルターがフィ
︵旧︶
世紀の問は、母方の親戚との血縁関係も父方同様重視さ
想であり、それは﹁ホーエンシュタウフェン的︵g彗−
ァルターに支持もされたのだ、ということになる。
シュタウフェン的にふるまわざるをえなかった限りでヴ
論に従えば、ヴェルフェ家のオットー四世も皇帝として
豪皇︶﹂皇帝に他ならないとされていた。ノイマンの議
君冨δ二①烹︶﹂として世界帝国を統治する者こそが理
第122巻第3号
一橋論叢
392
に徴妙な時期だったと言える。そのため、近代以降の歴
辞を書いていた時代は、両家の対立を想定するには非常
心というよりもむしろオットーとの個人的な人問関係
うのは、ホーエンシュタウフェン家自体への愛着・忠誠
ードリヒニ世へ比較的早くヴァルターが戻った理由とい
私のオットーどのに対する要求は豆よりも小さいも
いうのでしょう?
ですから何が褒美の面でフリードリヒ王にかなうと
ことでしょう?
しかしどれほど殿は私の奉仕を欺満的にうけとうた
せてくれるものと。
オットーどのを信頼しておりました、私をまだ富ま
提とする訳にはいかない。
ーのホーエンシュタウフェン家への忠誠心を無条件に前
はなかったのかと思えるのである。その意味でヴァルタ
身の個人的な好悪感情によって大きく左右されたもので
人にとってさほどの苦痛を与えず、むしろその都度の白
党﹂への﹁転向﹂︵そしてそこからの再転向︶とは、本
そう考えると、ヴァルターの﹁皇帝党﹂から﹁教皇
ころが大きかったのではないかと思われるのである。
−肌が合うかどうか、といったレベルの−によると
、 、 、 、 、
史家が想定してきたようなホーエンシュタウフェン家と
ヴェルフェ家の運命的ともいえる確執や、あえてその確
執が乗り越えられた場合でもホiエンシュタウフェン的
な﹁帝国理念﹂をヴェルフェ家が体現することになった、
という推測は、十二世紀から十三世紀への変わり目であ
ったヴァルターの活躍した時代に妥当なものであろうか、
という疑問がおこってくるのである。
前節で見た最近の歴史学の成果に基づくと、これまで
ヴァルター研究の一大課題であった、フィリップーフォ
ン.シュヴァーベン←オットー四世←フリードリヒニ世、
という彼の﹁転向﹂問題もまた新たな視野から見られる
ことになろう。﹁ホーエンシュタウフェン家﹂1﹁ヴェ
ルフェ家﹂の対立が基本的かつ根本的とみなされないの
ならば、両家のどちらに尽くすかは政治的というよりも
むしろ個人的レベルの問題になってしまうからである。
そうなれぱ﹁教皇党﹂のオットーから﹁皇帝党﹂のフリ
393
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の、
殿が次の古い笹言をお好きでない場合は別として。
ンシュタウフェン家とヴェルフェ家の優劣が直接問題と
されることはない。ヴァルターがこだわり続けるのはあ
者︵バトロン︶の存在であり、それ以外の、ドイツ語圏
くまでもまず第一には自分の生活を保証してくれる庇護
内での党派的問題が取り上げられることはないのだ。
ある父親が時折その息子に次のように教えたのです。
﹁息子よ、最も悪しき男に仕えなさい、最も良き男
もとへと﹁転向﹂し、まもなく﹁皇帝党﹂のフリードリ
ろう。そう考えれぱ、彼が一時﹁教皇党﹂のオットーの
廷を渡り歩いたと考えさせるさらに一つの理由になるだ
は君主の詩作への理解1に何よりも基づいて各地の宮
もむしろ、それぞれの君主との個人的な相性−あるい
このことはヴァルターがドイツ王家内での党派性より
てゆくべきではないのだろうか。
い、何を言っていないか、を見きわめて彼の実像に迫っ
のような憶測に従うよりも、ヴァルターが実際に何を言
史家の憶測に属するのだ。だとすれば、私達はむしろこ
ことがわかるのである。こうした解釈はすべて後代の歴
9竃募9①オ①5﹂が直接的には何ら表明されていない
○昌ぎコ︶﹂や﹁ホーエンシュタゥフェン朝的世界︵昌①
︵15︺
の﹁ホーエンシュタウフェン朝的思惟︵9彗豪暮窃
このようにしてヴァルターの詩を読むと、そこには彼
がお前に報いるように。﹂
オットーどの、私がその息子で、あなたはその最も
悪しき男です。
何故なら私はこれほど悪しき主君を決してもったこ
とがなかづたからです。
王様、神があなたに報いを与えるのですから、あな
︵M︶
たが最も良き男なのです。.
=二四年後に書かれたこの詩で、ヴァルターは以前
の主君のオットーがーいかに悪しき主君であうたかをフリ
ードリヒ︵﹁王様︵ぎH斥箏冨O︶﹂と表現される︶に訴え
﹁奉仕︵巳彗9︶﹂に対してそれに見合う﹁報酬︵6冨︶﹂
る形をとっているが、ここではオットーがヴァルターの
を与えなかったことがフリードリヒの気前良さと比較し
た上で嘆かれている。他の章句でも主君にふさわしから
ぬ吝薔さが不平の対象となづているのであって、ホー工
394
ヒニ世へ﹁再転向﹂したという事態もまた︵オットー四
世が挙げられるが、彼はフィリップ・フォン・シュヴァ
その一つの例として前に触れたローマ教皇イノセン上二
−もっとも二一〇八年のフィリップ暗殺でこの件は立
ーベンがオットー四世に対して優位にあると見ると、オ
結局、ここでも再確認できるのは、ヴァルターが固執
ち消えとなってしまったが−し、さらにオットーが帝
世にヴァルターが擬ホーエンシュタウフェンを見出した
︵m︶
というやや困難な推測を経ることもなく︶ごく自然に説
していたのは政治的党派としての﹁皇帝党﹂−﹁教皇
位についた後、=二〇年にシチリアまでをも︵ハイン
ットーを皇位争いから退くようにと進言すらしている
党﹂の対立ではなく、民族としての﹁ドイツ人﹂−﹁イ
リヒ四世の跡継ぎであるホーエンシュタウフェン家の︶
明できるのである。
タリア人﹂の対立だったのだ、ということである。
フリードリヒニ世・から奪おうとした時、これにイノセン
ではない。実情としてはむしろ、諸領邦国家に分裂した
ツ﹂1﹁イタリァ﹂の実質的な対立を証言しているわけ
界に関することであり、これがすなわち当時の﹁ドイ
勿論、ここまで述べてきたことはヴァルタiの内的世
帝国もシチリアもフリ﹂ドリヒニ世の手に渡り、次代の
ドイツ人の勢カの分散を望んでいたのだと言われるのだ。
︵㎎︶
このため、彼はオットーを破門するまでに到る。結局、
をホーエンシュタウフェン家に支配させることによって、
ローマ帝国︶をヴェルフェ家に支配させ、シチリア王国
トは反発を示したとされる。イノセントはドイツ︵神聖
︵17︶
ままのドイツと、都市を単位としながらそれに劣らぬ不
ただ、実態はどうであったにせよ、ドイツ人ヴァルタ
立 っ ていたのである。
を望んでいたことーつまりイタリア半島におけるドイ
ことになる訳だが、理念上イノセントがこの二国の分割
面上分割されながらも実際上は同一人物の支配に服する
コンラート四世︵=一五〇壬=一五四年︶の治世まで表
ーの側からのイタリア感に丁度逆方向から対応するよう
ツ人の単独支配を避けたがっていたこと−に注目すべ
統一を体現していたイタリアから神聖ローマ帝国は成り
なイタリア人のドイツ感もまたあったと思われるのだ。
395
7
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( 45 ),
平成11年(1999年)9月号 (46)
第122巻第3号
一橋論叢
ことは、あの詩人ダンテが古代ローマ帝国の後継者とし
しかしこれも当時のイタリア人全体の見解でなかった
域的差異にも関わらずー十把一からげにしていた可能
様、ドイツ人たるヴァルターがイタリア人を−その地
味で、イタリア人がドイツ人一般を総括しやすいのと同
者やその地から来た者についても使用している。その意
う用語をドイツ語を話す人問のみならず、その地に住む
︵別︶
ての神聖ローマ帝国を教皇からもドイツ人達からも独立
きであろう。
した存在として支持していた事実−彼はそのためフィ
︵19︶
性もまた十分に考えられるのである。
8 結語
レンツェを追われる身となったが−や、中世後期に到
るまでイタリア中北部の諸都市で﹁皇帝党︵σq巨g一■
以上見てきたように、遍歴詩人ヴァルターは−当時
一巨︶﹂と﹁教皇党︵σq完;︶﹂の抗争が−その座標軸
ェルフェ家︶に仕えた。その際、遍歴の理由は︵口ーマ
をかなりずらしつつも1続いていたことからもわかる
に対する︶下イツ人相互間でのイデオロギー的対立とい
の政治的・社会的な枠組みを全く逸脱することなくー
リアではそれに加え、神聖口ーマ帝国皇帝として常にド
うよりも、その時々の主君との個人的関係にあるのでは
のである。ドイツと同様、十九世紀のリソルジメントに
イツ人︵ドイツ語を母語として話すもの︶を載かねばな
﹁皇帝党︵ホーエンシュタウフェン家︶﹂と﹁教皇党︵ヴ
らなかったという事情があり、状況的にはドイツよりさ
ないかと考えた。そうした個人的喜びの表現として、次
到るまで実体としての国民国家を形成できなかったイタ
らに複雑であうたと言えるかもしれないが、このことが
の詩は示唆的であると考えられる。
︵20︶
イタリア人の﹁帝国﹂に対する屈折した感情を生んでい
らえるという感覚は一般的なものらしく、すでにフラン
ただし、一定の地理的問隔をおいた他者を一括してと
今や私は二月の寒さにつま先を凍らせることなく、
封土を。
私は自分の封土をいただきました、皆の衆、自分の
たことも確かであろう。
ク王国時代にイタリア人は﹁ドイツの︵8鼻尉9︶﹂とい
396
あまりにも長い問、私は意に反して貧しく、
りました。
以前のように化け物のように見られることもなくな
周囲の人々にも私はずっと良く恩われ、
夏は涼しく、冬は媛かくなったのです。
’たので、
高貴な王が、物惜しみせぬ王が私の面倒を見てくれ
すべての悪しき 殿 に す が り た く も あ り ま せ ん 。
世紀中にはさほど間題にされることはなかった、という
立は十三世紀に入ってから徐々に意識されはじめ、十二
おける、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフェ家の対
ではなかった・かと考えた。そしてこれは近年の歴史学に
﹁イタリア人﹂という対立軸により重きを置いていたの
ヴァルターの個人的立場としては後者の﹁ドイツ人﹂1
人﹂1﹁イタリア人﹂という二重の対立の軸に注目し、
イデの詩における﹁皇帝党﹂1﹁教皇党﹂及び﹁ドイツ
指摘ともよく合致している。丁度十二世紀から十三世紀
への変わり目に活動したヴァルターに﹁ホーエンシュタ
止符をうったヴァルターは主君のフリードリヒニ世にそ
ついに晩年ヴユルツブルクに封土を得、遍歴生活に終
相変わらずホーエンシュダウフェン家に委ね続けること
側も帝国をヴェルフェ家に任せる一方、シチリア王国を
ことではないのである。また他方でイタリア人︵教皇︶
.息が臭いとののしられもしましたが、
の喜びを表現するが、ここには政治的な党派性ではなく
で、ドイツ人のイタリアにおける勢力の分散を謀ってい
︹犯︶
王様がそれを清め、私の歌もまた清くされたのです。
何よりも個人的な喜びが表現されているのが一目瞭然で
たと考えられ、やはり﹁ドイツ﹂1﹁イタリア﹂の対立
ウフェン的﹂帝国理念を仮定できるとするのは、自明の
ある。これ以上不安定な生活を続ける必要がなくなった
軸を第一とみなす婆勢が兄てとれるのだった。ヴァルタ
︺カ
o
よ う
ノセント三世のイタリア・ナショナリズムだったと言え
という、生活者であれぱ当然の安堵感がここに漂ってい
、 、 、
・デア フォーゲルヴァ
ーのドイツ・ナショナリズムの丁度反対をいくのが、イ
オン
るのは、それとして非常に良く理解できることである。
本稿ではヴァルター フ
397
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( 47 )
一橋論叢 第122巻 第3号 平成11年(1999年)9月号 (48)
外国の﹁貴婦人︵才8峯①︶﹂の上位に置き、前者との﹁愛
の分野でもヴァルターはドイツ人の﹁女性︵名言︶﹂を
見なすのもまた誤っているだろうことは、やはり前述し
︵=&①︶﹂を後者との﹁恋︵巨⋮Φ︶﹂よりも讃えてい
しかしこの対立軸を当時の一般に広まっていた観念と
たダンテの古代ローマ帝国信仰に基づく﹁帝国﹂への支
るが、こうした従来主に﹁低きミンネ︵邑&胃①ζぎ篶︶﹂
︵1︶申吉同ドイツ語テキストは、、巨①﹁5o彗峯由三さ冨
ないかと思われるのである。
︵ξ9ω9︶﹂の対立軸に基づいて語られてもよいのでは
主張するよりもさらに強く−﹁ドイツ﹂1﹁イタリア
との関連で語られてきた問題も、ーデ・ボーアなどが
︵閉︺
持や中世後期のイタリア諸都市における﹁皇帝党﹂−
﹁教皇党﹂の抗争にも見られるところである。ドイツ人
側でも十八世紀になづてもまだゴットシェートのように
、 、 、 、
白分の﹁祖国︵<9撃5巨︶﹂がドイツでなくプロイセ
、 ︵鴉︶
ンであるとするような立場は根強く残っていたのである。
そのため本稿で考察したヴァルターの﹁ドイツ﹂と
﹁イタリア﹂を彼が生きた時代の一般的な世界像とする
訳には勿論いかない。むしろ、彼は後世のドイツ・ナシ
ごωo巨①目﹁訂o艘一∼ωoq.くo旨︸ユ&ユgζ望﹄﹃雲一>−↓o①仁−
く昌ま﹃<ooqoξ9ま−−.U一〇﹁竺oq募彗昌﹂巳而o〇一一−
房oぎ↓雲一9σ=o;呉之﹃ーお一﹂﹁旦巨目藺q昌由ε虐、一ω−Mミ.
ョナリズムを特異な形で先取りしていると言うべきであ
り、十九世紀以降彼が中世ドイツ詩人の中で最も注目を
に塞づく。また目本語訳は、高津春久編訳﹃ミンネザング
︵3︶ くoq−向σPω−M①−
ω﹂o−ミHω.トo−︶.
3邑8員∼品.くo目カロo后o﹃ω9畠=一U彗ヨ卑ぎけ;ooω一
[−ヨg①カ9o=9﹂窒,﹂o﹃o〇一﹄房〇一一彗豆昌巨目oqoo㎝竃子
Nミ9訂目河9oプωm℃=﹄o=老巴↓す①﹃ωくo目o①︸くoσq9名①己o
︵2︶、9コ彗電こ彗彗窒;篶一︷、、︵六昌冨α雲a彗戸冒昌
〇四頁 による。
︵ドイツ中世叙情詩集︶﹄郁文堂 一九七八年、三〇三︷三
︵別︶
集めたという事実もこのことと関係していると考えられ
る。また彼の、現実政治には疎くありながらもイデオロ
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
ギー的なドイツという対象に固執する抽象性にも十九世
︵肪︶
紀のヤーコプ・グリムなどとの類似性が認められ、その
意味でヴァルターを早くやって来すぎた︵近代的︶ナシ
、 、 、 、 、
ヨナリストと呼ぺるだろう。
さらに、本稿では扱わなかった﹁恋愛詩︵≦昌9潰豪︶﹂
398
︵4︶向巨.ω.畠﹁
︵20︶ くo目−ーカo気目ρ、雪■而iU−①α9﹄房oす①目六〇≡三〇q①一﹄コα−訂1
︵19︶一巨ら.−賢 一
=oコ7自−杜.−與=H巨﹄目匝①H↓.くo目=9−一ユ︹す<=巨ω丙與ユーく
︵別︶ O﹁﹂﹁=自O片す︸カ①冒片①■↓=oζ凹斥マ一①胃O﹃向コOq辰目q軸目q
−︺凹﹃−一コω甘凹〇一 −oo↓− ω−ω.
︵6︶益一.寿一昌巨忌団oo■O鶉〇三〇巨①ま二彗碁ぎ目=一
︵5︶冒o﹁邑實ミ印⋮婁く昌μ彗くoo・①∼邑価1−ω.昌一
]U⋮① す0−饒ωOコ① −=而﹃∼一⊂﹃ −−↓01−M蜆O。 ζO目Oす①目 =−OO−’ OO−
北西ヨーロッパで活躍した北部及ぴ中部イタリア人が等し
q昌δ畠ら。艶−ぎ︶ら■①仁.これは中世後期に商人として
く軸−向冒﹃oo①’①o.一︺㌣>−h﹃①α 巾‘ω目一︸けす一庄o=ヨo−目−=ω\﹁o自1.
,向;三︹5彗片身彗μz與ま冨;o﹃名8;窃ヲ髪o2①−
︹︸①﹃冒①目︸一〇〇蜆o−−ooo ︵−目一く①o︷oく與−向巨﹃ooΦ凹目m.ωけ=o−oω
訂﹃凹ゴ﹄﹃.くO目OO∋>目h與自Oq巨ωN巨﹃O蜆σq①コ峯與﹃戸巾P戸
︵7︶ くσq−.向ユ①oユo巨之o=ヨ凹=P婁国;=雪くo昌α9くo胴9一
ωo−.
老o︷ユ① 目−一⊆ 巳om カ①−oす [−目H−U︷o カ①−o=眈−q①① −目 μ①﹃ o①自■
︵8︶豆o﹁匡胃峯唖⋮婁く昌忌﹃<o竪秦幕.−ω.㎝o−
↓ωO巨O目−U−Oす一=目Oqα①ωζ,一〇−凹=O﹃ω’ω‘MO0ート司]1ω‘︷NH.
クセンのライプツィヒに長く逗留したゴットシェートはさ
ω﹄︵,o冒=コ芥①=ωo巴↓o︶.プ目イセン生まれながらザ
寄量箏至①彗皇ま﹃罵烏﹃コ>冨彗忌﹃一ピ暑島ミωρ
o①斥Eコωけ フH四〇プ >目−o︷↓目目oq oo﹃ 凹=①コ ︹︸﹃﹂⑦oプoコ 自コα
︵鴉︶ <胴−1﹂Oσo冒目O=ユω↓OOσOO箒ωo巨①P>仁ω︸島ゴ﹃=oブ①カ甲
︵22︶ U一〇[討o①﹃事四言す①﹃ωくo自oo﹃くo①qo−ξo己ρ−ω1蜆o〇一
る。
く﹁目ン.バルディア人﹂と呼ばれていた事実に類似してい
︵9︶ 向巨.ω、蜆o、日本語訳は同上書=二四頁による。
日本語訳は高津前掲書三=二王三一四頁による。
︵10︶ くσqF向一︺α1ω1︷①.
︵u︶ く笹一ミ雪コ雪 =gすσ彗oq雪一ω冨匡申彗 =目⊆ 婁o;①コ
ー−トo蜆1−−oo−N=﹃ <o﹃ミo目oζ自oq くoコ 一。す①o﹃︸o目 −目 oo﹃︵︸①−
くoq−.向一︺pω. 冨 ム ︹
くO目−向σPω1−①9
竃三〇巨ω三窃昌ωO∼P一六〇=一ミミ9昌胃\ミ一窒;塞.
︵12︶
︵M︶ ∪訂﹁討αOHξ與言す⑭易くOコO①﹁くO血q①−ξ9﹂O﹂一ω.㎝9
ヘと移り住まわせ、私が当初思っていたよりも長くこの地
らに次のように述べている一﹁特別な運命が私をザクセン
︵13︶
︵帖︶ 匡.o①︸oo■饅.凹1O.ω.M00A.
とができ、この生活に憤れることもできた。それにもかか
に滞在することになった。私は好ましい仕方で生活するこ
0︷1−①目︺凹ヨー自>﹃コOi〇一ζ価旦ポく軸−O①﹃目一〇目く蜆oo−−ωoρ
わらず十二年に亘るこの祝福された土地、それも学識の伝
−巨ら﹂=.
国︵ヨ9自く呉雪一彗α一プロイセンのこと[筆者U︶に対す
統あり世界に名を馳せたライプツィヒでの滞在中、私の祖
巾o=ごo與− −=一〇﹃o﹃①↓四ごo目− =o⊆コユ自一︷二ω\−ピoコoo= −ooメ
︵16︶ くoqF句﹃1Z①仁ヨ與目PPPO.ω一ム9
︵17︶
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︵18︶
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399
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( 49 )
ポ自然な愛情は全く消えることがなかったのである。﹂
︵24︶ くoq−.−≦凹メ峯⑦サユ一〇〇ω〇三〇了冨α①﹃庄〇一﹄房oブo目﹁津①﹃與.
︵25︶ ヤーコプ・グリムの思想的・政治的立場の間題性につ
巨二昌ζ葦o巨冨■ω;一冨胃二;雪一ω.ωぎー
いては、拙稿﹁ヤーコプ・グリムにおける﹁文献学﹂と
﹁フォルク﹂L︵ドイツ文法理論研究会﹃エネルゲイア﹄第
二四号、一九九九年、六三︷八二頁︶を参照されたい。
︵26︶ <胴一.声箒巾oo■o1四.○.ω.Mo。蜆一轟9
︵一橋大学助教授︶
^
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平成11年(1999年)9月号
第122巻第3号
一橋論叢
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