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初期中世の贖罪書における庶民文化
滝澤, 秀雄
一橋論叢, 122(4): 610-626
1999-10-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/10605
Right
Hitotsubashi University Repository
平成11年(1999年)1O月号 (136)
第122巻第4号
橋論叢
滝 澤
秀 雄
まったく接触することなく生涯を終えることはなかった
場合を除き、いかなるエリート聖職者であれ庶民文化に
点から重要であろう。まず第一に、幼時に修道院に入る
そうした庶民の文化に光を当てることは以下の二つの
ては古典古代の著作家の論考にも触れることができたの
︵1︶
であるが、庶民はそうした遣を閉ざされていたのである。
で書かれた聖書を読むことができ、教父や、場合によっ
スト教信仰に関して言えば、エリート聖職者はラテン語
互いの差異一こそが常に決定的だったであろう。殊にキリ
双方とも時問的、空問的に一様ではなかったとしても、
の文化とは白ずと異なった層を成していたと考えられ、
あった。そうした杜会にあって、エリートの文化と庶民
持たない、実質的に無文字社会と呼び得るような状態に
初期中世の蹟罪書における庶民文化
はじめに
ヨーロッパ中世の庶民文化に光を当てることの重要性
が我国でも指摘されるようになづて久しい。ここで言う
文化とは、人が自已を含めた人閲並びにその行為、事物、
出来事を定義、認識、理解する際に不可避的に用いる
﹁意味の網﹂としての文化であり、近年の歴史学の動向
に即すならば﹁心性﹂と重なる部分が多く、またキリス
ト教を中心軸にすえて考えるのであれば﹁信仰世界﹂と
も言い換えることができよう。
ヨーロッパの中世社会は、ほぼ唯一の文字言語であっ
たラテン語を読み書きできるのが、こく少数のエリート聖
職者に限られ、庶民はラテン語はおろかそもそも文字を
610
(137)初期中世の購罪杳における庶民文化
と考えられるため、庶民文化はエリート文化の母文化と
提えられるからである。従って庶民文化の分析は、エリ
ート文化の所産である個々の文学作品や神学的論考を社
会全体の文脈の中に位置づける手がかりとして重要であ
ると言えよう。第二に、ヨーロッパ中世をキリスト教的
なものと規定するのであれぱ、庶民文化のレベルにおけ
るキリスト教がそもそもどのようなものであったかを把
︵2︶
握することが不可避の課題となるからである。
庶民の信仰世界を探るにあたり、庶民が自ら語った史
料が残されていない以上、聖職者によって書かれた文書
を用いなけれぱならないのであるが、その際に庶民の姿
を直接描写したものではなく、聖者伝、説教集をはじめ
とする司牧文学、そして購罪書の重要性を指摘したのは、
旧ソ連の歴史家A・J・グレiヴィチであった。﹁㌧れら
の文書は庶畏の信仰を純化する目的で書かれたものであ
り、その対象となる庶民の文化が反映されていると考え
られると言うのである。本稿では、上述の諸史料類型に
︵3︺
庶民文化がどのように現れているかをめぐって、グレー
ヴィチの議論に検討を加え、更に願罪書について論を進
める。
庶民文化の史料としての司牧文学
司牧文学及び購罪書は、中世を通して何種類も作られ
たのであるが、そのどれもが既存の作品をなぞる傾向が
強く、また文学的な洗練や抽象的な神学的議論とは一般
に無縁であったため、全体として変化に乏しい凡庸な作
品群であったと言える。これは、それらの著者たちがキ
リスト教的な徳の一つである謙譲を旨とし、先人の作品
に見られないような新奇で独創的な要素を付け加えるこ
とに慎重だったためでもあるが、グレーヴィチはそうし
されたものと見ているのである。
た特徴を、それらの﹁読者﹂であウた庶民の文化に規定
に想定したものだったとはいえ、例えぱランス大司教ヒ
説教集は言うに及ばず、聖者伝も、元来識字層を読者
ンクマールによる聖レミギウス伝序文で勧められている
ように、少なくともそれぞれの聖者の祝日にはその聖者
を記念するために、庶民を前に読み上げられたであろう。
そのため、まず第一に司牧文学の作者たちは庶民の、そ
して庶民に直接語りかける任を負ったと考えられる下級
の聖職者や修道士の理解カを常に念頭に置いておかねぱ
611
橋論叢 第122巻 第4号 平成11年(1999年)10月号 (138)
ならなかづたのである。抽象的な神学概念を理解しない
庶民に対しては、キリスト教的倫理を通俗的な表現を用
い、身近な例を引きながら具体的に説明する必要があっ
た。司牧文学の﹁読者﹂は、古典古代に存在したような、
る。
洗練された修辞的表現を好む読者層ではなかったのであ
また特に聖者伝で、類似の逸話が繰り返されるのは、
事物の真実味を判定する中世人独特の基準のためである
と言う。中世人は集合意識の強い制限の中で思考してお
り、事の真偽を決めるのは集団であって個人ではなかっ
たからである。人口の大多数は農民であうて、その目常
は日々、あるいは循環する季節の中で同じ様な事の繰り
返しであった。そうした中で醸成される保守的な集合意
識にあって、,今日におけるように独創性が高く評価され
ることはなく、既存の知識に反する新奇な情報はむしろ
不信を招いたのである。従ってそうした意識に働きかけ
るための司牧文学は、たとえその著者たちがそれぞれに
個性的な文筆家であづたとしても、一様なものにならざ
︵4︶
るを得なかったのである。
しかし、こうした司牧文学の特徴は、単に庶民の理解
を助け、内容に信懸性を持たせるためだけではなかった
とも言う。確かに庶民はエリート聖職者の目には無知で
無学に映ったかもしれないが、その生活は文化的な空白
状態にあるどころか、民話や伝説的な英雄たちの武勲詩、
しかもそれらは下級聖職者の心をも捕えていたからであ
冒険謂といった口承文芸に満たされていたと考えられ、
る。おおよそキリスト教的倫理とは−かけはなれた基準に
従づて行動する英雄たちの物語と、少なくとも同程度に
庶民の心を魅了することができないならば、司牧文学の
そもそもの存在意義は失なわれてしまうであろう。司牧
文学は口承文芸の伝統と、言わぱ競合関係にあったので
あり一伝説の英雄たちと比肩し得る教会側の更雄が聖者
であづた。
︵5︶
庶民にとって、三位一体の神性より身近で、様々な奇
蹟を通じて疾病や身体的障害を癒し、疫病や天災を鎮め、
作物の豊饒をもたらし、異民族の侵略を撃退し、抑圧さ
れている社会的弱者を助け、狡滑な悪魔を手玉にとって
退ける聖者は、中世を通して非常な人気を集めた。聖者
の奇蹟は今[口の目から見れば荒唐無稽なものばかりであ
るが、自然的・社会的災厄に対抗する手段が今日よりよ
612
(139)初期中世の願罪書における庶民文化
いわゆる偽聖者とを区別することは、教会が聖なる力を
まることになったし、教会公認の聖者と民間の呪術師や
院なりの教会施設に、崇拝とそれに伴う寄進・喜捨が集
起できれぱ、その聖者の聖遺物を保管する教会なり修遺
利点があった。聖者伝を通して特定の聖者への崇敬を喚
たのである。教会の側にとっても、聖者崇拝には様々な
ほど未発達であづた中世にあって、庶民はそれにすがっ
聖者は﹁魔術師や、魔女、異端、あるいは悪魔そのもの
おいては、邪悪な力の介入を示していると言う。ここで
回り始めるのであるが、このような逆転は中世の文学に
場面が出てくる。聖者の要求が拒否されると石臼が逆に
は、聖者が石臼の所有権を巡って、本来の所有者と争う
あったと言う。例えぱ上述の﹃聖レミギウス伝﹄の中に
そうした復響を描いた場面の多くが民話に基くもので
と同じことをしている﹂のである。しかし同時に、この
︵6︶
ようにむしろ異教的な、民話的要素の聖者伝への混入は、
独占することにもつながづたからである。また庶民の憧
れの的であった聖者に、キリスト教的な理念を体現させ
エリート聖職者であるその著者たちが、聖者伝をいかに
聴衆である庶民の好みに近づけて書こうとしていたかを
ることにより、模倣を通じた庶民の信仰の純化をねらう
こと も で き た 。
ことになった。つまり、聖者は奇蹟を行なうカの源であ
和的とも言えるものであった。特に聖者の奇蹟をめぐっ
庶民文化への接近がはかられており、両文化の関係は融
こうした庶民側の願望と、教会側の意図とが反映され
る﹁天上の王国﹂にまだ生きているうちから属す霊的な
ては、エリート聖職者と庶民は同じ世界観を共有してい
以上のように、司牧文学においてはエリート文化から
存在であり、何よりも謙譲、自制、寛大といったキリス
たのである。しかし、購罪書においてはそうではない。
窺わせるものであろう。
ト教的倫理を実践する一方で、自己とその墓所である教
購罪書は、まず六世紀のアイルランドで作られ、ブリ
た結果、聖者には霊的な性格と地上的な性格が混在する
会施設を侮辱したり、その権利を侵害した者、奇蹟に対
テン島に、次いで大陸に伝えられ、主として今日の北東
フランス、ドイツから北イタリアに至る地域で使われて
する謝礼を怠った者には容赦なく執鋤に復讐するのであ
る。
613
︵8︶
を贈罪書は﹁割れた鏡のように﹂映しているのである。
の妨げとなる罪を洗い出すのである。
いては聖体拝領の、また来世では天上の王国に入ること
活き活きとした筆致で描き出している。しかし一つ一つ
うな手順でなされるのか、その場で見てきたかのように
を詳しく知っており、例えば、異教的な雨乞いがどのよ
614
︵7︶
いたものである。それは、聖職者、主として司祭が購罪
これはグレーヴィチが中心的に用いた、願罪書という
文書様式中で最も長大かつ最も詳細なものである、ヴォ
して一〇二三年までに編んだ購罪書﹃矯正者にして医
あるいは想いが罪に当たるかを説明し、それぞれを償う
れ、願罪を科す際の心得、並びにその際の儀式について
ブルカルドゥスは自分の教区の住民が何をしているのか
者﹄︵Oo;①9昌9ζ①2昌ω︶においても同様である。
ルムス司教ブルカルドゥスが、その教令集の第一九部と
の簡単な説明を付したものであった。司祭はそれを用い
このように購罪が懲罰的な側面を持つものであるため
の行為の持つ意味や目的については、﹃矯正者﹄全体を
︵10︶
に、購罪書においては、エリート文化と庶民文化との関
見渡せぱ幾つかの例外はあるが、概して何も語っていな
ブルカルドゥスにとって、そうした慣習は罪であって、
いのである。
者たちは、庶民の文化を理解しようとすることなく、そ
いものだったのである。ブルカルドゥスは軽蔑を隠すこ
従って理解を示す必要はないし、またそうすべきではな
となく言う。﹁愚かな庶民﹂、﹁愚かな女たち﹂、﹁愚かな
し、姦淫あるいは姦通、一偶像崇拝あるいは迷信、怒り、
信心﹂等々。このような態度は、庶民の聖者崇拝に共感
ちのそれとは対照的である。翻ってこのことは、願罪書
を示し、その信仰世界に接近していウた聖者伝の著者た
資欲等々の罪のカテゴリーに細分化している。現代の人
れるべき複雑な複合体であるとする立場があるが、それ
類学においては、文化は特定の要素のみを取り出して分
.析できるような単純なものではなく、全体として記述さ
の生活のあらゆる面を﹁罪﹂という基準に照らして検査
場合とは異なり、必然的に対立的なものとなる。その著
係が関係が、庶民への﹁語り掛け﹂であった司牧文学の
︵9︶
て、自らに委ねられた教区民の生活を点検し、現世にお
のに必要な蹟罪の方法を定めた購罪規定を中心に構成さ
の儀礼を実践するための手引書でありどのような行為、
平成11年(1999年)1O月号 (140)
第122巻第4号
一橋論叢
(141)初期中世の願罪杳における庶民文化
なるのである。
を用いて中世の庶昆文化を探ろうとする場合の障害にも
民との間の摩擦が、その手引書である魑罪書にも反映さ
罪の特殊性があるのであり、その負担が招いた教会と庶
れているのではないだろうか。
まず、別稿で論じたように、ほとんどの魑罪書に組み
込まれている、断食を買戻すための﹁相場表﹂が、購罪
二 購罪をめぐる教会と庶民との摩擦
以上のようにグレーヴィチは、購罪書において庶民文
る。
の負担を和らげようとしたものであると見ることができ
スト教的意識にようて、﹁罪﹂という概念を通して一方
化が、エリート文化、あるいは既に純化されているキリ
的に断罪されている様を見ているのであるが、それは対
は魑罪手続きの腐敗に直結しかねないものであった。断
この買戻しは、一見不純なものに見え、また実際それ
食を買戻すために魑罪者が差出す喜捨は、教会の、ある
立の一方の側面に過ぎない。なぜならそこでは、願罪規
定の罪を説明した部分のみが扱われ、それに対して科さ
かなりの負担を強いられる点で、本来教会と庶民との関
の手段であったことに加え、庶民がそれを行なう場合に
贈罪は、上述のように庶民の生活を﹁検閲﹂するため
白した者に一八ソリドゥス、厳格に貞潔を守った者にも
ある司祭は、購罪期問中に夫婦の関係を持ったことを告
ス︵二一四〇隼頃没︶の﹃奇蹟を巡る対話﹄によれば、
ーヴィチも紹介しているハイステルバッハのカエサリウ
いは司祭の臨時収入になったためである。例えば、グレ
︵11︶
係は対立的にならざるを得なかった。説教や聖者伝の朗
れる蹟罪に目が向けられていないからである。
読を聞く場合には、庶民は言わば﹁観客﹂として座って
教・司祭に科された断食、巡礼、施しなどの贈罪行為を
広く流布した願罪書の一つであるハリトガリウスの購罪
は数少なかったかもしれないが、﹃矯正者﹄以前に最も
したとして同額の施しを要求したと言う。そうした司祭
﹁子孫の幸いに反する﹂︵8葦SげO昌ヨ肩O=ω︶罪を犯
︵”︶
白ら成し遂げねばならないのである。ここに、庶民の信
書第六部、いわゆる﹃偽ローマ願罪書﹄の序文では、贈
いればよかったのであるが、購罪を行なう場合は、司
仰を純化するための様々な手段の中で、他とは異なる購
615
平成11年(1999年)10月号 (142)
福された師父たち、族長たち︵昌ゴ君O;∋σ9募ωヲO・
られている。その著者は序文で、かつて﹁古き時代の祝
罪者が断食できる場合には、買戻すよう要求することな
︵13︶
く、それを許可するよう戒められているのである。
;ヨ寝け2昌寝巨胃9票⊆8︶﹂は願罪者に対して厳し
い助言を与えていたのであ.るが、﹁今はこのような時代
確かに食欲な司祭によって、買戻しが聖職者と一般信
徒との摩擦を緩和するどころか、より強める場面もあっ
になうてしまい、神に対して違反を犯し、罪に浸り込ん
﹁そうした者たちが集まウてきたなら賞賛の説教をたく
たであろうが、買戻しの意義は、ヴォジュルが指摘して
も実行不可能だったと考えられる点にある。だとすれぱ、
さんして、急いで魑罪する気にならせるべきであり、多
でいる者たちを、我々は時代の逆波で︵召o冥①二目ま■
断食を一時に終らせる買戻しを認めることは、一概に堕
くの断食でその者たちを苦しめたり、担うこともできな
いるように、願罪書で規定されているきわめて長期間の
落とは断じられず、現実的な譲歩と言えるのではないだ
いような重い荷をその者たちの上に投げ落としたりする
畠葦①∋註ヨ君ω︶思う様にできない﹂と嘆く。だから
ろうか。つまりそうすることによって、蹟罪を緩和しな
のではなく、購罪しに来た者たちが、救いへの希望を
断食が、特に過酷な肉体労働に携わる農民層にはそもそ
い限り、庶民を購罪に向かわせることは困難だったので
位の願罪が規定されるのが常であうたが、唯一、八世紀
罪書では、殺人、姦通といった重大な罪に対しては年単
なものであることを認識していたようである。一般に購
事実、購罪書の著者たちでさえ、贈罪期問が非現実的
はな い か 。
げられないぱかりか、その他の人々も、我々が厳しい裁
ば、課された断食に耐えることができず、それを成し遂
いうのは、重い荷と断食で我々がその者たちを苦しめれ
その者たちを迎え入れるようにしなけれぱならない。と
ように、深い隣れみをもって、そして大いに朗らかに、
我々から受け取り、喜び勇んで神に仕えることができる
^M︶
中頃に北東フランスで書かれたものと考えられセいる
きを下すと聞いて、なかなか購罪に与ろうとしなくなっ
︵15︶
てしまう■からである。﹂
﹃オックスフォード第二贈罪書﹄︵蟹9ま鼻邑①O誉三。
雪ω①5では、過単位の採用によってその緩和がはか
第122巻第4号
一橋論叢
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(143)初期申世の貝費罪沓における庶民文化
た﹃聴罪司祭大全﹄の事実上最初のものと言ってよいリ
二一世紀末以降贈罪書に代って用いられるようになっ
て宿営地の外に出されたという旧約の故事︵民数一二
スによれぱ、モーゼを罵ったミリヤムが七日問にわたっ
期間に一致し、また七年というのは、ラバヌス・マウル
照的に、買戻しの体系は願罪書が大陸に伝えられてから
しかし、蹟罪期間の﹁相場﹂が硬直的だったのとは対
章︶に基くものだという。
︵17︺
ールのアラーヌスの﹃購罪書﹄︵=9﹃Oo昌ま鼻邑邑
にも、これとほぽ同じ事が書かれている。﹁厳格さによ
っては呼び戻され得ない者を、寛恕の憐欄によって
︵葛二邑巨oq雪ユ霊旦①訂↓①昌︶呼ぶためには、罰を緩和
至るまで続く。例えば八世紀初めに作られた、大陸の代
一〇〇年余りの間に急速に発展し、それは﹃矯正者﹄に
罪が厳格だったのは、かつて人間の性質が、願罪の重荷
表的な三系列混合型鱈罪書である﹃抜粋﹄は、コルンバ
しなければならない。:::。古い時代に科されていた願
を負うにあたって、今よりも強かったためなのだから、
つまり、贈罪書で規定される購罪期問を短縮する必要
分類して、併記しただけのものであったが、その序文に
来する規定を、殺人、姦淫といった罪の種類、ことにただ
ヌス、クメアン、テオドルスの主要三系列の購罪書に由
性が常にあったことが窺われるのである。ところが、贈
記された買戻しと代替の体系だげが独自のものであるこ
︵蝸︶ 、
緩和しなけれぱならないのである。﹂
罪期問の基準が﹃オックスフォード第二購罪書﹄におけ
のためばかりではなく、購罪期問が象徴的な意味を与え
問の願罪が規定され続けた。それは著者たちの伝統主義
頃に著した﹃ザンクト・ガレン時事記﹄︵O竃易ω彗oま
数少ない史料として、エッケハルト四世が一一世紀の中
更に傍証として、また蹟罪の実際の実践状況に関する
とに注意すべきであろう。
︵18︶
られていたことにも因るものと恩われる。願罪書で規定
るように、緩和の方向に向かうことはなく、同じ様な期
される最も一般晦な購罪期間として、重大な罪に対する
りながら、その関わった事件についての情報の詳細な記
○印≡︶を見ておくことにする。修道院の歴史記録であ
録というよりは、多分に修道士たちの集合伝記として物
七年間、比較的軽度の罪に対する四〇日問があるが、四
〇日というのは福音書の中でイエスが行なうている断食
617
平成11年(1999年)1O月号 (144)
人だと評判の隣村の司祭のところへ出かけ、やはり他の
人々がいる前でその司祭に自分たちの過ちを涙ながらに
語的色彩の強いこの年代記には、九世紀後半の学識豊か
れるよう頼んだ。その司祭は二人の軽率さを厳しく叱っ
語り、翌日の復活祭で聖体拝領に与ることを許可してく
たが、祝福を与えもした。イソの両親は、その晩は泣き
な修遺士であったイソ︵尿o︶の両親が彼を身籠った時
復活祭前の四句節、それは復活祭で聖体を拝領するた
ながら徹夜の断食を続け、明くる復活祭当目には朝から
の逸話が伝えられている。
めに、断食と祈り、また夫婦関係を控えることによる斎
教会の門前に立ち、ミサの前に十字架が運び出されると、
き掛けもあって、二人を﹁主よ憐れみ給え﹂が唱えられ
戒を求められる期問であったが、﹁生れもよく、聖なる﹂
の土曜日の朝、生れのよい市民であれば加わることので
ている間に教会の中に迎え入れ、一番後ろにいるように
列の一番後ろについていった。所の司祭は、全住民の働
きた参詣行列に出かける前、二人は不意に関係を持って
言った。ところが聖餐式が終ると、隣村の司祭がこれか
問を過ごし、褥も別々にしていた。しかし、復活祭前日
しまうたのである。二人は大声で自分たちの悪業を嘆い
何週問も着続けた粗布を身にまとい、灰を被って、裸足
聖体を授けると、これまた急いで、二人に服を着替え、
聖体容器を開いて温れんばかりの涙を流している二人に
ってきて、二人の手をひいて祭壇に連れて行き、携帯用
ら戻ってミサを挙げねばならな小かのように、急いで入
で、すべての市氏の見ている中、﹁所の司祭﹂の前に進
食事をとるよう命じ、祝穣と接吻を授けて出ていった。
わたって聖堂の門前に立っているようにと命じた。夫婦
あるが、次の日には罰として聖体を拝領せずに、昼夜に
によれば、その日に起ったことはすべて天使のしたこと
た。後で教会会議で報告された︵肩o寝奪仁∋︶ところ
日司祭は自分の教会を一度も離れなかづたことが分かう
しかし後で両親が隣村の司祭に施物を届させると、その
は思いがけない厳しい罰に驚き、その目の内に、聖なる
神に呼びかける中﹂、赦免︵−邑巨σq8ま與︶を与えたので
み出た。司祭は二人の蹟罪を認め、﹁民が二人のために
てしまった。二人は涙にくれながら、再び沐浴を済ませ、
たので、たまたま来合わせた下女にことの始終を聞かれ
人物であったイソの両親は、その通りに熱心に浄めの期
第122巻第4号
一橋論叢
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(145)初期中世の蹟罪杳における庶民文化
購罪に従わねばならないのであるが、ここでそれを課し
ているのは司教ではなく司祭なのである。かつてコッチ
だったのである。
︵㎎︶
もちろん、聖者伝的色彩の濃いこの逸話の内容を、そ
ェは、これを公購罪と私魑罪との混合形態であると見た
していると考えられよう。
︵20︶
べた標語に過ぎず、現実には貫徹されなかったことを示
のであるが、実際カロリング期の原則が言葉を対称に並
のまま信用するわけにはいかないが、ここでは、少なく
ともその基礎となる部分には社会の現実が隠されている
と見る立場をとりたい。グレーヴィチに倣って言えぱ、
それは、﹁読者﹂であったものと思われるザンクト・ガ
ものではな・かったと推定できるからである。
るものであり、修道士たちの経験とまったく掛け離れた
祭が能カに欠けるなどの特殊な場合に、他の司祭のとこ
を求めている点は明白な教会法違反である。後に教区司
聖職者に罪を告白し、聖体拝領の許可、つまり罪の赦免
一方、両親が自分の教区の外に出て、教区司祭以外の
さて、この逸話の中で所の司祭が採った処置も、イソ
ろに行くことが認められることもあったが、それはあく
レンの修道士たちの集合意識に全体として迎え入れられ
の両親の振舞いも教会法的な規則には反している。アイ
︵別︶
まで後の時代のことなのである。
とができなかったのではあるが、自発的に司祭のもとへ
の斎戒を厳格に行なおうとし、結局それを成し遂げるこ
しかし、ここで興味深いのは、イソの両親が復活祭前
ルランド修道制の中で育まれたアイルランド型の願罪は、
古代の願罪がその厳椿さのために行なわれなくなって久
しかった大陸に伝えられたのであるが、カロリング期に
古代の購罪に再び効カを与えることが試みられる中で
罪にそのまま従ってはいない点である。つまり﹁聖な
告白に赴く敬虞な信徒でありながら、司祭に課された購
原則が立てられた。通常公蹟罪は、司教により司られる
﹁公の罪には公購罪、秘かな罪には秘かな贈罪﹂という
古代の願罪であり、秘かな蹟罪は、私蹟罪、つまり司祭
が、両親の人格の中で何の矛盾も来すことなく同居して
る﹂人としての性格と、教会に対して従順でない性格と
いるのである。イソの両親の行為をどの程度一般化し得
により司られるアイルランド型蹟罪であると理解される。
イソの両親の罪は第三者に知られてしまったため、公の
619
一橋論叢 第122巻 第4号 平成11年(1999年)10月号 (146)
まとまりにして扱われ、後者では故意による場合とそう
粋﹄では殺人は姦淫や偶像崇拝といったその他の罪と一
でない場合、更に毒殺しようとした場合が区別されてい
るか探る手だてはないのであるが、厳しい罰を嫌がって
教区司祭に反抗するその婆は、上述の﹃オックスフォー
一つはフィニアン、並びにコルンバヌスの購罪書、﹃ア
しかしこれは直ちに二つの方向で詳細なものに代る。
兄弟を殺した﹂場合だけが扱われている。
︵23︶
﹁予謀の殺意をもづてではなく、突然瘤瘤を起してその
るだけである。﹃ウィクトリアの森の教会会議﹄では
ド第二贈罪書﹄の著者やアラーヌスが眼前にしていた一
般信徒の現実の状態に重ならないであろうか。
一二 購罪の区別される基準
さて、これまで主に﹃聴罪司祭大全﹄の研究者たちに
げられたものと考えられる魑罪書においてであり、もう
願罪書といった、おそらく修道院的な環境の中で練り上
ムブロシアヌム蹟罪書﹄、クメアンの購罪書、大陸の単
一人の事情が配慮されており、特に社会的弱者に対して
︵犯︶
は購罪が軽減される傾向のあることは別稿で既に述べた。
よって言われてきたのとは異なり、購罪書では罪人一人
ここではその具体的な基準である、購罪規定の中に記さ
一つは、テオドルスの蹟罪書に見られるような、教区教
︵別︶
課されており、この一四年、一〇年、七年という購罪期
年あるいは一〇年、近親殺しに一四年の蹟罪が 。それぞれ
ルランド教会法﹄と呼ばれる一群の文書では、殺人に七
人に関する規定はまうたく簡単なものであった。﹃アイ
購罪書の原型と目される、六世紀の願罪規則では、殺
ており、例えば単購罪書の一つである﹃ブルグンド購罪
殺人を望んだり、殺人に同意したりした場合が区別され
場合、望まずにたまたま殺した場合、あるいは心の中で
意に、予め謀って殺した場合、憤りに駆られてそうした
されることになる。まず修道院的購罪書においては、故
の贈罪書において、互いにすり合わされることなく併記
罪書の一般的な様式である三系列混合、あるいは連続型
会制度における展開である。それらは、大陸における魑
れた同一の罪であっても購罪を区別される条件について、
間は後の多くの願罪書に受容され合ことになる。一方、
殺人を例に、いま少し論を進めたい。
パトリキウス第一蹟罪書と﹃ダヴィッドの書物からの抜
620
(147)初期中世の贈罪書における庶民文化
年、殺人に同意した場合に七年、望んだたけでそうでき
書﹄では故意による場合に一〇年、たまたまの場合に五
を裁くのは王の役目である。
司教の裁きに委ねられる。しかし司教か司祭を殺した者
なかった場合に三年の購罪が科されている。次に教区教
ること︺を控えるべし。公の戦争︵巨君彗8げ①=O︶
六、主人の命令で人を殺した者は四〇日間教会︹に入
︹25︶
会的魑罪書についてであるが、それについてはテオドル
蹟罪すべし。
棄てようとしないなら七年、三年は肉とワインを控えて
四、俗人が憎しみから予め謀って他人を殺し、武器を
三、人殺しは一〇年か七年。
られている。
すべし。別の箇所では一〇年の魑罪をするようにと述べ
二、兄弟の復響を理由に人を殺した者は三年の願罪を
分の期間となろう。
の賠償をする気があるなら、魑罪はより軽く、つまり半
れた者の︺近親に人命金︵葛昌コ訂ヨ8豊目與ご〇三ω︶
人殺し同様七年か一〇年の購罪をすぺし。しかし︹殺さ
二、ある者が近親の仇討ちを理由に人を殺したなら、
︵蝸︺
﹁第四革 人を殺すことについて﹂を挙げる。
罪を規定されている戦争における殺人については注意す
規定の累積を見ることもできるのであるが、一番短い願
テオドルスの場合については、更に様々な出所の願罪
あたることを示す、教育的な性楮が認められよう。
の願望を抱くことを加えたものであり、それだけで罪に
る、故意による殺人とそうでない殺人との区別に、殺人
キラ会議︵=二四年︶の時代から知られていたものであ
であろうか。大陸の単購罪書における区別は、既にアン
な購罪書への移行に伴って直ちに複雑化されたのはなぜ
こうした区別の基準が最初期の魑罪規定から、本格的
購罪をすべし。L
あれぱ七年あるいはそれ以上、喧嘩でであれば一〇年の
ぱ一年、毒︵罵﹃君昌;昌︶や何か他の術を用いてで
七、怒りに駆られて殺したなら三年、たまたまであれ
で人を殺した者は四〇日の購罪をすべし。
五、ある者が修道士か聖職者を殺したなら、武器を棄
る必要があろう。
ス群の魑罪書の中の一つである、﹃ウムブリアの弟子﹄
てて神に仕えるか、七年の願罪をする・かすべきであり、
621
平成11年(1999年)10月号 (148)
のと考えられる。﹃弟子﹄ではバシレイオスのアンフィ
は、少なくとも西欧においてはキリスト教に歯来するも
少なくとも戦士としてのその価値観が反映されていると
間には、庶民の、とは厳密には言えないかもしれないが、
た人々の存在が窺われるとすれば、その最も短い購罪期
れないであろうか。﹃弟子﹄の規定の背後にも、そうし
はないかのように、弁護する人々Lのことが思い起こさ
︵29︶ ︵30︶
ロキオス宛て書簡がしばしぱ典拠として挙げられている
は考えられないであろうか。
戦争における殺人を英雄的行為ではなく罪と見る発想
が、その二二章には次の様に書かれている。﹁我々の師
終りに
父たちは戦争において犯された殺害を殺害とは見なさな
かった。私が恩うに、貞淑と隣欄のために戦うた者は罪
を犯していない。しかしおそらく、そのような者も、そ
る種の合理的精神、あるいは罪人に対する憐れみ、言わ
前章で述べたような購罪の区別には、量刑におけるあ
ば﹁人遺的な﹂配慮が感じられ、それに目を奪われがち
・の手は清らかではないのだから、三年間にわたって聖体
︵η︶
拝領だけは控えるよう説得されることになる。﹂おそら
になる。しかし、非現実的な長期問の臓罪を成し遂げる
くこれに基く﹃弟子﹄の規定も同様に、戦争における殺
︵鵬︶
人も罪にあたることを示すためのものと捉えられるが、
の中でなされた﹁殺人について、それは君侯の命令でな
トヴィヒ敬虞帝の死後、その息子たちの間で起った戦い
ウス宛て購罪の書﹄の第一五章で言及されている、ルー
ス・マウルスが八四一年か八四二年に編んだ﹃オトガリ
この規定と直接的な因果関係はないが、上述のラバヌ
確かにある罪が犯される様々な状況を列挙することに
であれぱ、それだけでは不十分であろう。
諾々と従っていたわけではない庶民の姿を念頭に置くの
しい蹟罪を嫌い、一介の司祭の言うことに必ずしも唯々
しようとする蹟罪書の著者たちの現実的な姿勢、また厳
し、更には購罪期間そのものを、実行可能な程度に短縮
ことができるように、その代替並びに買戻しの方法を示
され、神の裁きによってそうした結果に終わったのであ
は、どのような行為、あるいは想いが罪に当たるかを示
そこでは魑罪期間が更に短縮されているのである。
るから、あたかも何ぴともそのために臓罪を行なう必要
第122巻第4号
一橋論叢
622
(149)初期中世の魑罪書における庶民文化
のであるが、購罪書においても、エリiト文化による庶
好に規定される点に庶民文化からの﹁圧カ﹂を見ている
民文化の断罪ということだけでなく、逆方向の、つまり
目的だうたとすれぱ、例えぱ七二一年のローマ会議にお
けるように、近親婚に対して相手が代母ならアナテマ、
庶民の側から教会に対して加えられた圧力が記録されて
す意味合いもあっ 。たであろう。しかしもしもそれだけが
︵31︶
兄弟の妻だった女ならアナテマ等々と、すべて同じ罰を
るものばかりではなく、庶民の実生活あるいは文化に根
れる基準は、必ずしも純化されたキリスト教的意識に拠。
文脈は変りがないものと思われる。しかも駿罪が緩和さ
しかし以上で論じたように、魑罪書においても全体の
︵脱︶
いるからである。
が購罪する気になるまで魑罪を緩和するよう勧められて
る。そこでは幾つかの条件が満たされさえすれば、罪人
的﹂であるという﹃聴罪司祭大全﹄においては明白であ
の研究者たちによれば臓罪書より内面を重視し、﹁人間
的にはその短縮につながっている。こうした傾向は、そ
に見たように、付帯状況による魑罪期間の区別は、実質
近親殺しなど、願罪期問が倍加される場合もあるが、先
しかし購罪書においてはそうなってはおらず、しかも
ることでか、説得によってか、叱りつけることでかを予
るか、健やかな説教によってか、導きによってか、教え
て、どうしたら自分と他の者たちの魂を救うことができ
oo5魑罪の裁きを下す時に、﹁その魂の治療法につい
罪書の第九章にはこう書かれている。祭司は︵竃8﹃−
配慮していたのである。例えば、べーダの名を冠した贈
任にあたる。下級聖職者自身の来世での救いにも同時に
の著者たる高位聖職者は、実際に庶民と向き合ってその
くこと、つまり司牧の達成にあったのであるが、購罪書
の最終的な目標は、教区民を残らず﹁天上の王国﹂に導
にもう一つ付け加えておきたい。先に触れたように願罪
勢をとっていたためと考えるのであるが、その根拠を更
贈罪書の著者たちが願罪の現実性を確保しようとする婆
最後に、筆者はこうした圧カの記録が残されたのは、
いると見ることができるのではないだろうか。
差す場合もあり得たのではないか。だとすれぱ、グレー
想し、よく考えるぺきである。なぜなれば﹃万物の上に
定めておけば十分なのである。
ヴィチは司牧文学について、それが聴衆である庶民の嗜
623
(150)
第122巻第4号 平成11年(1999年)10月号
一橋論叢
おられ、いつの世までも祝福される神﹄︵ロマ書九ノ五︶、
そのかたの御許では﹃立派に勤めた者が良い地位を得る
︵ 鎚 ︶
のだから﹄︵第一テモテ三ノニニ︶。L
︵1︶参照、O⋮盲三房9一>.﹄1一∼oσ一〇昌①o彗<o寿ω巨一・
︵6︶ 参照、O冒婁一9[註2]一畠よo。、
社︵一九九九年︶。
︵7︶ それぞれの願罪沓の響かれた時期及び場所については、
参照、拙稿﹁カロリング教会改革における願罪書批判﹂
︵8︶ Ω昌〇三暮[註2]一虞.
﹃史学雑誌﹄一〇六繍六号︵一九九七年︶、三七−五九頁。
︵9︶ これについて参照、野口洋二﹁西欧中世前半期におけ
者﹄l﹂﹃社会科学討究﹄一一一︵一九九二年︶、三八九−
る罪と償い−ヴォルムス司教ブルハルトの﹃矯正者・医
言﹃仁目匝α實カ〇一昼o等叫斤一∋ζ奉①巨8﹃一悪=国oqo彗b富
§ミミミ 、s §迂膏ざミ雨﹃soぎ“s き彗吻oぎ雨ミー ζ旨目o巨①目
四三九頁、阿部謹也﹃西洋中世の罪と罰−亡霊の社会史﹄
︵岩富一z與g匝﹃﹂竃①︶一寄N−ω亀.
︵2︶ 参照、福井憲彦﹃鏡としての歴史 現在へのメヅセ
の高い部分である、第五章の質問集までの邦訳が収められ
弘文堂︵一九八九年︶。それぞれ﹃矯正者﹄の中で独創性
ている。また教令集の編纂時期については参照、里己芋
ージを読む﹄目本エディタースクール出版部︵一九九〇
、皆eS−ミミざ﹃Oミミミミ’弓與目ω.−眺目Oωζ.団四斥雨、8−’O凹∋−
o§δ§§ミ︸さ薫−ωqo目一︷與く①﹃5oq>巴①箏︵−岨0M︶一−①一﹄’
ε畠く↓’穴2N雪昌︵向、H︶吋昌o∼邑くg毫昌∋ωIb雨−
年︶、六八−八九頁、二〇八−二二頁、o冒〇三昌一>。§・
σユ島①一]三竃邑︷?①ωω︵おo.o。二8﹁冨8︶ふ﹄。幼時か
oq巴①g8ヨヨE冨ζo冨旨目己ω睾㎝8ヨ①ま置忌己8目8
︵11︶ この問題について、参照、くooq具O、一〇〇ヨ君m三〇三Φ.
︵10︶ 第五章一九四項︵野口[註9]、四三八頁︶。
>目昌.3.
らの修道院入りについては、ζoら算邑o珂カ、一↓ぎ、§曽㌃−
︷隻.oぎミき昌ミ§雨oo;s轟ざ曽完さ§葛嚢−竈︸.﹁o目−
oo目︵冨ミ︶一冨二1
︵4︶ 参照、O膏①三9[註2]Lo−鼻おh−一蟹−
︵3︶ 参照、O冒婁一;︹註1]一ω雷二[註2]﹂LN芦
↓與﹃弐耐Pα蜆目ω一カー︺O㊤︵−o蜆o︶一Moω∴六①﹃鶉一勺.一−コ︺ユO凹①目−−
〇8冨;ヨo冨ご與目二三Nカo宍>ぎ︵−竃㊤︶一g−蟹1
一〇コ一−與−①眈 ⊆コO −︵−﹃Oコ=Oすω ω片﹃饅↓胴①﹃−Oす↓伽σ與﹃斤①−↓ σ−ω NE目一
︵5︶ 参照、O冒㊥三9[註2]し一⇒.また近年の我国にお
ける聖者伝並びに、聖者崇拝に関する研究として、多田哲
oームo.oき︷ミくoOq①−[⊥剛註]一〇匝目ω一刃UO⑩︵5蜆o︶一ωω一〇一﹄﹃−
−oコ﹄ヨ’oP﹄.ω旨與目Oq①一MくOrO〇一〇コ♂o︵−oo日︶lU−ωけ=−l
︵”︶ OOoω凹﹃二雪9ωけo﹃σ凹o①目ω−ωヨロOコ凹oす−Uす−OOq一﹄ω目己﹃與〇一﹄−
第一〇五編九号︵一九九六年︶、四一−六四頁、青山吉信
ージュ司教とサンニアユベール修適院の関係﹂﹃史學雑誌﹄
﹁九世紀前半リエージュ司教区における民衆教化ーリエ
﹃聖遺物の世界−中世ヨーロッパの心象風景﹄山川出版
624
(151) 初期申世の蹟罪奮における庶民文化
︵B︶ 、o目−く①﹃oo〇一而眈叶]o−﹄自回﹃①ooo﹂︷∋ooω弐仁ヨ①ωR①ボ
①三9[註2]一駐ミ.︵目.8︶.
︵20︶ 参照、宍ogPカーも⊆由肩買涼仁昌μ巾■胃岸易二三ぎ§1
↓O1一M^ζ︹⋮=ωω H−.①Nω.
§富茗軸、︸吻︸ミ﹄︷o、吋−︹り雨s、﹃oぎ−︷sso巨s吻叶ミ軋︷吻ミー−、㌧−、oき1
§o§oωω一留〇一9o︵−竃一︶一ω竃−ω8一方、穴o毫[註H]一
目o=召o巨σ①8具ω&潟[冒葦⑰、︵ω争邑s戸N竃︶−参照、
穴0−﹃目↓Oq①目.−.一吻︸害、︷雨曽Nミ﹄㈹ミCS耐ミ雨曽軋雨﹃言ぎ§迂、雨∼Sミ冊﹃−
を白発的に行なっているに過ぎず、﹁所の司祭﹂の命令に
曽>自昌寄では、イソの両親が﹁公鱈罪﹂の儀礼の一部
従ったわけではないとされ、逆の立場から二人の司祭がと
ミoぎ値ミ bミもサ畠o︸雨﹃︵o目①=①目 目目o ︸o﹃moゴ目目①q①目 N目目
また﹃矯正者﹄三二章︵向勺[註9]﹂8U︶に受容されて
︵別︶例えぱアラーヌスの﹃贈罪書﹄三部四〇章、四部一四
った処置の非適法性が強調されている。
カooす叶 −∋ ζ−け↓①−画写o﹃一Uo−↓︶.﹂﹁すoユ︺oo斥蜆 ︵−ooω︶1 −Φω.
︵14︶ 参照、くooq9[前註]一審冨一カUO。。︵冨轟︶一M竃−ω8、
牽、三六章︵≧巴自忌⊆昌o[註16]L竃二ざωLo.o︶。また
いる。
拙稿﹁初期中世の磧罪規定書︵1願罪書︶における個人へ
この問魑全体については、参照、↓彗巨胃[註16]一竃.・
頁。
﹃−oごo.−︷ ︵︷︸甘、1蜆①︶一−目o−o︷E目↓①xoo﹃o↓軸0E①⊆胆目一α①=一
守︷︸ぎ専曽︷“雨曽ざs﹄餉.−︺自σ−︷目︵−o①ω︶.−蜆o︶⋮ω︸目oo筥ω−一ω.勺與7
︵鴉︶ O凹目o目①ω =川一︺①﹃コ①目眈oω o.−n −−ω ︵団−価示i −.一Hぎ雨
︵22︶ 参照、拙稿[註M]。
の配慮﹂﹃西洋史学﹄一七七号︵一九九五年︶、三〇−三二
︵15︶ OOω﹁冨①﹂﹂o。−ダ参照、宍o≡;訂彗[註13]L竃い
︵蝸︶ >−凹⋮目o舳−︸=p卜︷︸雨﹁き軸ミ︷−耐sざ昌ミ︸一けoコ一.昌.−印け﹃団ロー■
巨o目−o目oqo①.]﹁①宍朴①−目Φα津o⊆σ−︷凧①↓與目目o↓⑭.①o.﹄j﹁o目−
σ﹃o −︺唖仁︷α−ω 〇一メ ー− ︵︷︸︷軋.↓9 べM︶ 一H目o−o岸 剋写o﹃︸ ω−・
]﹁①目¢①﹃一一﹁一Z二ω︷曽sS軋Ooさ坊︸︷oSoS“ぎ雨﹄︸e雨9“ぎ雨完県
oqΦ﹃P−O目畠,9==①︵−㊤雷︶一匿ω、−豊o﹄80U’参照、
︵別︶ O=団ユoω−向庄老唖﹃α9↓’↓す①巾①目岸o自巨與−O︸↓サ①OOO﹃①
目oρ目眈−Eo−一﹂−o↓oユ①︵︸︸︷、.①oo︶.
−一−ω ︵︷㌻︸﹄1o①1ooo’−0M︶⋮、団①目−一〇コ巨唖−o>﹃コσ﹁oω−回コ⊆コ一〇.
↓9oogo0M︶一巾団目羊o=げ軸−oω.OO−一−自σo箏−>一〇ードω.ω一〇1
︵25︶ 勺Φa訂目↓壷=眈く,コす昌o.ω一ρ一MgM杜︵団−9①﹃一↓戸
為に向っているのだと言う。
徳と悪徳に向っているのに対し、テオドルスの頼罪書は行
︵冨竃︶Lgによれば、クメアンの購罪書が習慣、つまり
︸目o ↓す① き、︷o︷邑 ドぎ雨o,o﹃︷一 ︷詩..㌧、oぎ㌻︸︸o︸s §耐o﹄oミ
o§昌まos.、﹃−目o①↓o目一フー①ミ﹄⑦﹃mo︸︵−〇一↓︶’−↓.
︵17︶.﹃オトガリウス宛て願罪の書﹄;早︵巾[=N。匡寝困︶。
︵18︶ その成り立ちについて参照、>ω臣oF﹃Pb§ぎ雨■
s︷“雨s尋s﹄Φ 完雨§Φ茗吻Φ ss、 乱雨﹃ 助o鷺31 嚢ossωs吻 os§−
・§雨ss︷.カooq①コωσ 目 ﹃ 胴 ︵ 一 ⑩ ↓ 蜆 ︶ ’ ↓ ω − ↓ ① .
︵m⋮︶ 向斥斥①サ匝﹃α −<.一ω肝 o昌ミ雨﹁曽−oω、軸嚢吻oぎ︷oぎ、⑮s︵>目甲
oq⑦ξ叫一]−一①oE⑦=o昌NE﹃α⑦仁ドωoす蜆昌︵︸oωo才︷o=一①α①ω⋮−け一Φ−
−與言o﹃ω一︸α.×︶.〇一︺①Hω.=.向−=oo︸①−pU匝昌旨ω↓oo↓︵−oooo︶一
625
橋論叢 第122巻 第4号 平成11年(1999年)1O月号 (152)
ジ9o−亡ω1蜆︵丙σ昌冨彗[註13]L8﹃.し竃︶一、與昌;雪−
巨画−oo巨目一目一①︸目−o.︵ム︶⋮蜆−oo︵団−o−①﹃一−−oo’−N0︶⋮巾四①コー↓①目−
ご巴①巾⊆HOq仁目α①目ωoo.−−ω〇一〇.︵OOω−−㎝①一−.蜆1−M︶‘
︵脆︶ 向−目閉↓①﹃奉巴Oo■勺−考−一b膏OSミo茗雨吻§雨o軋OミO富ミ“ミー
ミ§募§き苛ミs軸﹁s巷蔓轟さ§§’考9昌彗︵δ§一
N違﹁
︵30︶勺−=ド匡=Pこの間題全般に関して参照、丙oε9
宛.も膏§きぎぎ﹃きミ雲;ぎ§9§︸§︸§﹄き餉妻−
︸富sミ眈き害蔓眈’N︷o−トoト杜⋮−p−’トざ軸§“ミs的︷§㌧︵﹃︷提軸1ω與﹃ω一︺・
︵別︶ 、一ピ①一.ωムω巾−−︺.
旨片片o− ︵−oo−︶.
−岨㎝oo︶1MM0.
富oΦミ與−∼3、︷ωoぎ雨暑 ㌧︵︷、oぎ雨■ =四=① ︵−ooσ−. 之與oすα﹃. ︵⋮﹃凹N
︵鍋︶ 一く凹ωω①﹃o[o=−⑦σ①コー司. ∼く.=1Ib甘雨 b畠bo﹃﹄富冒亮雨茗 氏雨﹃
︵32︶ 参照、註16、また巾﹁曽o.墨ωU−N違>.
︵28︶ このような観方を採るものとして、○宍一2一↓■巾、一
︵η︶ 勺OωM.⑦oo−n①o0M︸01
婁豊寒きミ§§一§ωo量ぎ§、き讐−ω§§卜§ぎ
=批特崩三廿一H議一
︵一橋大学大学院博士課程︶
ドぎ雨︷﹃さ︷s−ミ富雨so軸.之①冬くo﹃斥︵−0Nω.﹃①o﹃1−o①o︶一−㊤①.
︵29︶ 同文の﹃オセール司教ヘリバルドゥス宛願罪書﹄第四
章︵勺■=9ミδ︶に基き、コ昌..を補った。
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